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2017年10月 6日 (金)

最も偉大な者 マタイ23:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.10.8

 イエス様はユダヤ教の指導者たちのことを、群衆と弟子たちに向けて語っておられます。現代の私たちはこのところから何を学ぶべきでしょうか?強いて言うならば、教会の指導者に対する警告でありましょう。「先生と呼ばれてはならない」とも書いてありますので、ここから説教するには気が重いです。私は別に「先生」と呼ばれたくもありません。私たちは、マタイによる福音書から順番に学んでいますので、飛ばすわけにはいきません。きっとすばらしい恵みが隠されていることを信じます。 

1.彼らのふるまい

 イエス様は「彼らは言うことは言うが、実行しない」と言われました。彼らとは律法学者、パリサイ人たちのことでした。バビロン捕囚から帰った民は、ユダヤ人と呼ばれ、礼拝のスタイルが変わりました。これまでの神殿礼拝よりも、会堂(シナゴーグ)で律法を朗読し、その教えを守ることが中心になりました。やがて、律法を教える人たちが重んじられるようになりました。イエス様の頃は、律法学者やパリサイ人たちが、モーセの律法を解説して教えていました。そればかりか、モーセの律法にないような言い伝えや細則までも強要するようになりました。「重い荷をくくって、人の肩に載せる」とはそのことを意味しています。イエス様が「すべて、疲れた人、重荷を負っている人を休ませてあげます」(マタイ1128と言われましたが、それは言い伝えや細則からの解放について語っておられるのです。イエス様は「彼らの言うことは、守り行ないなさい」と言われました。モーセの律法であるならば守らなければなりません。でも、「彼らの行いをまねてはいけません」と言われました。なぜなら、彼らは言うことは言うが、実行しないからです。つまり、言っていることとやっていることが一致していなかったということです。本来、律法は守るために与えられたものではなく、人間の罪を示し、救い主に出会う養育係りでした。彼らは律法をこと細かく、教えることはできました。しかし、律法を守る力がありませんでした。生身の人間は、聖霊の助けなくして、律法を守ることは不可能です。かえって、苦しくなり、偽善者たちを生み出すことになります。自分が教えていることを自分が実行できないというのは、命を持っていないということの証拠であります。

 彼らは真実を隠すために、表面を飾りました。自分たちが、いかに信仰深いか人に見せようとしました。「経札の幅を広くする」とは、律法の入った小箱を大きくするということです。申命記6章に「これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい」と書かれています。彼らは目立つように、大き目の小箱を額や左腕に結びつけていました。現代で言うなら、大きな十字架を首からぶらさげるようなものです。また「衣のふさを長くする」とは、自分が神さまのことをいつも忘れないというしるしであります。旧約聖書で大祭司は、衣のふさに「ざくろ」のような鈴をつけていました。現代で言うなら、祭服とかガウンであります。ローマ・カトリックやロシア正教の祭服はとてもきらびやかです。それだけではありません。人々から重んじられ、敬意を受けることを大変好みました。だから、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きでした。ここで言われている「先生」とはrabbiラビです。ラビは「ユダヤ教指導者として知識と訓練があり、その職を任された者」でありました。復活の朝、マグダラのマリヤはイエス様を当時のことばで、「ラボニ」と呼んでいます。そういう意味でイエス様もラビのひとりでした。ラビは「尊敬すべき先生」という意味であります。しかし、だんだんと称号、タイトルのようになっていきました。現代の教会でも、按手礼を受けた牧師をreverend と呼びます。Reverendは、聖職者に対する尊称です。ある牧師たちは、Rev.〇〇と名刺に書いています。私も人から重んじられたら、悪い気はしないですね。でも、神さまの栄光を盗む一歩手前まで行くことになります。

 イエス様はヨハネ5章でこのように述べておられます。ヨハネ544「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。」イエス様は「人からの栄誉ではなく、神からの栄誉を求めなさい」と言われました。ところが、当時の宗教家たちの関心は人でした。「人にみせるため」、「人から先生と呼ばれ」、「人から重んじられる」ことでした。神さまではなくて、人だったのです。旧約聖書には2人の典型的な人物がいます。一人はイスラエルの最初の王様、サウル王です。彼はアマレク人とその家畜を聖絶しなさいと主から命令を受けていました。ところが、牛と羊を取っておきました。サムエルからその罪を責められ、その罪を認めました。しかし、「私の民の長老とイスラエルの前で私の面目を立ててください」とサムエルに頼みました。サウル王は主がどう見るかではなく、人がどう見るか考えていました。一方、二代目のダビデ王はどうでしょうか?彼は大きな罪を犯しました。しかし、「私は主の御前で罪を犯しました」と告白しました。ダビデは主の前に正直に生きた王様です。だから、神さまからとても愛され、王様の模範になりました。先日、イエス様をお乗せしたロバの子についてお話ししました。人々は「ダビデの子にホサナ。祝福あれ」と歓迎しました。ロバの子は、「あれ?私に向かって言っているのかな?」と勘違いして有頂天になるかもしれません。本当は私ではなく、自分がお乗せしているイエス様がすばらしいのです。三浦綾子さんが『ちいろば先生物語』という本を書きました。書評がすばらしかったのでご紹介します。虚飾のない、血のかよった人間味溢れる「ちいろば先生」こと榎本保郎牧師の姿を描く、伝記小説。貧しい家庭に育ち、家の手伝いをしながらも、中学に合格し、積極的な活動をしていた榎本保郎。しかし満州から復員してから、虚無に陥り、生きる目的を失ってしまう。苦労して同志社大学神学部の聴講生になったものの、自殺騒動を起こしてしまうのだ。徐々に落ち着きを取り戻し、神学部にも復学し、神への献身を決意するのだが。自らをイエスの乗り物、小さいロバに擬し、生涯を伝道に捧げた榎本保郎牧師の壮絶な生と死を綴った伝記小説。…私も神さまの前に正直に生きる信仰者でありたいと思います。人がどう見るかではありません。神さまがどうご覧になっているかです。ダビデやパウロのように、主を愛し、主から愛される者になりたいと思います。

2.彼らの敬称

 マタイ23:8-10「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。」このところには、彼らが好んで用いた敬称が出てきます。敬称というよりも、タイトルと言った方が良いかもしれません。先生と言うのは、さきほど申しましたがラビです。ラビは「尊敬すべき先生」という意味があります。律法の教師、また人生の教師です。ユダヤでは父親が子どもを教えましたが、ある年齢に達すると、ラビに子どもを託しました。どのラビから学ぶかによって、人生が変わります。ちなみに使徒パウロはガマリエルから学びました。また、「父」という呼び名もありました。預言者エリシャは、エリヤに向かって「わが父。わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」(Ⅱ列王記212と叫びました。つまり、肉親の意味で、あるいは霊的な意味でも用いられたようです。また、師というのは、ギリシャ語で案内者とか教師という意味です。英語の聖書にはmasterあるいはdoctorと書かれています。どちらにしても、そう呼ばれたら悪い気はしないですね。先生、父、師というのは、敬称ということでは問題ないと思うのですが、どうでしょうか?イエス様はなぜ、極端なことをおっしゃるのでしょうか?

 教会でも牧師は「先生」と呼ばれます。しかし、このところでは「先生と呼ばれてはいけない」とイエス様が命じておられます。ですから、ブラザレン系の教会では先生と呼ばず、〇〇兄弟と呼びます。ウォッチマンはウォッチマン兄弟と呼ばれていました。町田のある牧師が著名な伝道者を「〇〇さん」と呼んでいました。私は「それはできないなー」と思いました。自分が言われる分には良いけど、年上の牧師や伝道者を「〇〇さん」は無理です。なぜでしょう?キリスト教会は堕落したのでしょうか?1つはローマ・カトリックの「聖職者」という考えから来たものです。彼らは「神父」、父なる神の代理者みたいに呼んでいます。もう1つは儒教から来たもので、目上の人や何かを教えてくれる人を「先生」と呼びます。お花の先生、ピアノの先生、そろばんの先生がいます。また、議員に対しても「先生」と呼びます。大川牧師から「教会では牧師に対して、先生と呼んでも良いけど、大学教授や代議士には「〇〇兄弟」と呼ぶべきだ」と聞いたことがあります。教会で「先生!」と呼んだら、4人が「はい」と言ったら、混乱を招くでしょう。でも、きょう来られている兄弟姉妹の中も、学校の先生、保育園の先生、歌の先生、そば打ちの先生がいらっしゃるのではないでしょうか?そういう意味で、日本ではちょっとした敬称になっているということです。私は「鈴木先生」と呼ばれると、「え?だれのこと?」と未だに、なじめません。なぜなら、学校でものすごく、傷を受けて来たからです。でも、私が本来の「先生」という名称を正しい意味で回復させるのも良いかもしれません。

 新聖書注解にはこのように書かれていました。このように人からの栄誉を求めるパリサイ主義に対して、イエスは弟子たちに、「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたは地上のだれかをわれらの父と呼んではいけません。また、師と呼ばれてはいけません」と言われる。その理由は、「あなたがたはみな兄弟だから」である。教会の中で、牧師は「先生」と呼ばれる。しかし、牧師も一般の信徒も、同じ父なる神から生まれ、同じ教師のキリストに導かれている兄弟姉妹である、という事実を忘れてはならない。…とありました。アーメンです。人からの栄誉を求めたいという動機が問題なのです。私は敬称というよりも、機能というように理解しています。エペソ4章に教会における5人の職務が記されています。エペソ411-12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」とあります。この人たちは偉いのではなく、キリスト様からこのような職務を果たしなさいと召されているのです。教会員の中には、「牧師も一人の人間だから」と見下げる意味で言う方がたまにおられます。権威に対して何か、歯向かいたい気持ちは分かります。でも、Ⅰテサロニケ513「その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい」とあります。イエス様は「預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます」(マタイ1041と言われました。つまり、私が講壇からこのように話していますが、大きく分けて2種類あると思います。「普通のおじさんのお話で、自分でも実行できないことを講壇から話しているんだ」と思っている人。あるいは「いや、講壇からのメッセージは神さまから来ているんだ。講壇から降りたら普通のおじさんだけど…」と思っている人です。「牧師を牧師だというので受け入れる者は、牧師の受ける報いを受けます」アーメン。

 私たちはどんなすばらしい指導者であっても、偶像化してはいけません。キリスト教会でも牧師を教祖みたいに高めたりします。でも、それは行き過ぎです。だから、イエス様は「あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです」と念を押すように言われたのです。牧師の最大の務めは、人を自分に向けさせるのではなく、父なる神、そしてイエス・キリストに向けさせることだと思います。だれでも、人から頼られるとうれしいものです。ある牧師は信徒の世話を良くします。そして、自分に相談しないで、勝手なことをすると怒る牧師もいるようです。自分に依存させて、満足するというのは問題です。やはり、ひとり一人聖書を読んで、神さまから聞くべきです。牧師の助言も良いですが、イエス様の導きに頼るべきでありますそれと関連したすばらしい聖書箇所をご紹介いたします。箴言31-6「わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

3.最も偉大な者

 マタイ2311-12「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」文脈から解釈すると、パリサイ人や律法学者たちは、自分を高くする者たちでした。彼らは宴会の上座や会堂の上席が大好きでした。また、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが大好きでした。英語の聖書には、「あいさつされる」は、with honor「尊ばれる」となっています。この世では名誉職というのがありますが、彼らは宗教的な名誉職についていたので、人々から尊ばれることが大好きだったのです。確かに神さまに仕えていると、そういう扱いを受けがちです。本来、神さまだけが尊ばれるべきなのですが、分け前をいただいてしまうのです。だから、イエス様は「先生、父、師と呼ばれてはいけない。先生はただひとり、父はただひとり、師はただひとりだ」と注意されたのです。どうしても、敬称がつけられると、その人自身がそういう人物になってしまうのです。私たちは正しいプライド、自尊心は持つべきであります。でも、神さまに仕えるときは、それらの敬称は借り物であり、自分自身のものではないということを忘れてはいけません。牧師職も引退するときがあります。だれも、信徒がいないなら牧師ではありません。牧師も確かに名誉でありますが、クリスチャンはもっと基本的ですばらしいものです。「自分は罪赦され、神の子となった。」これほどすばらしいものはありません。

 このみことばは、教職者だけではなく、すべての人たちに適用することが可能です。もう一度お読みいたします。「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」アーメン。たとえば、家庭でだれが一番偉いのでしょうか?父であり、母でしょうか?確かに、聖書では「あなたの父と母を敬え」と書いてあります。でも、そこに赤ん坊がいたならば、父と母はその赤ちゃんに仕えます。食べ物、睡眠、健康、安全を赤ん坊に与えるために、父と母が仕えているのです。この世では多くの人を仕えさせている人が一番偉い人のように思われています。しかし、聖書では仕える人が一番偉大なんだということです。英語の聖書ではservantとなっています。少し前に、サーバント・リーダーシップということをお話ししたことがあります。イエス様が私たちの贖いのために、ご自分の命を与えることによって仕えてくださいました。その結果、父なる神さまはイエス様を引き上げ、主の主、王の王にしてくださいました。ですから、この世においても人に仕えるような仕事であっても卑屈になってはいけないということです。この世では自分に部下が何人いるかによって、自分の偉大さを決めるところがあります。しかし、本当はその逆で、自分は何人の人に仕えているかが重要なのです。また、この世では、いつか上になるために、とりあえず我慢して仕える人になるという考えがあります。それも間違いであって、結果的に高められたら良いのです。高められることを前提に、仕えるというのは間違っています。ひょっとしたらこの地上では仕えっぱなしで、御国に行ってからやっと高められるかもしれません。この地上ではなく、あちらの方で報われることもあるでしょう。ですから、結果は神さまにゆだねて、今のポジションを忠実に果たすということが重要だと信じます。

 ダビデは自分が羊飼いであることを忘れませんでした。だから、詩篇23篇には羊飼いのことと、司令官として戦っていたときのことが両方記されています。しかし、ダビデが戦いにでかけなくても、なんとかやっていけるようになりました。その時、彼は罪を犯してしまいました。自分が一介の羊飼いから一国の王様に引き上げられたことを忘れていたのです。そのため、どん底まで落とされたのです。でも、その先、ダビデはへりくだりました。そして、また引き上げられ、イスラエルの模範的な王様になりました。ここに注目すべきことは「自分を高くする者は低くされ」「自分を低くする者は高くされ」と書いてあることです。自分の意思や気持ちで自分を高くしたり、低くするということです。一方、「その人を高くしたり、低くするのはだれか?」ということです。文章には主語がありません。人々かもしれないし、神さまかもしれません。もし、人々がそうするんだと考えるなら、パリサイ人や律法学者のように偽善的になるでしょう。つまり、人からの報いを期待してやっているからです。もし、心底、神さまがそうしてくださるんだと考えるならどうでしょう?マタイ6章では「隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます」と書かれています。そうです、高めてくださるのは父なる神さまであります。ということはどんな仕事でも、どんな奉仕でも、人ではなく父なる神さまの御目のもとでやれば良いということです。私は小学生のころはとても目立ちたがり屋でした。何でも分かったふりをして手をあげました。それは人から認めてもらいたかったからです。なぜかというと8人兄弟の7番目で全く無視されていたからです。父母は長男や長女はほめましたが、下の方の兄弟は粕のような存在でした。だから、その反動として、学校ではそうなったんだと思います。でも、今、クリスチャンになり、父なる神さまが隠れた所で見ておられると知って、ほっとしました。パフォーマンス指向から解放されました。でも、今、牧師になって講壇に立ち、パフォーマンスをするときもあります。しかし、それは何とか父なる神さまのすばらしさを語りたいからです。報いを得るためにがんばっているのではなく、こんな私を支持しておられる父なる神さまを誇りたいのです。

 きょうは人々から栄誉を得るために表面を飾っていたパリサイ人、律法学者のことを学びました。彼らの振る舞い、彼らの敬称は人からの報いを得るためでした。神さまの名を借りて、自分を高めていたわけです。私たちはそうではなく、イエス様の贖いを受けているので、神さまを誇りたくなるのです。たとえ自分が低くされ、仕えるようなことをしていても感謝なのです。なぜなら、その前に、イエス様が私たちのために低くされ、仕えてくださったからです。イエス様は結果的に神さまから高められました。私たちは高められることを目的にしてはいけません。むしろ、自分を低くする方に意識を向けたいと思います。高められるのはその結果であるからです。ひょっとしたら高められないで、低いままかもしれません。それでも良いのです。なぜなら、そういうところにこそ、低くなられたイエス様が最も近くにおられるからです。

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