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2017年9月29日 (金)

第一の戒め マタイ22:34-46 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.10.1

 パリサイ人とは律法を厳格に守るユダヤ教徒たちでした。また、律法学者は彼らの教師のような存在で律法については何でも知っていました。いわゆる律法のエキスパートであります。彼らのうちの一人がイエス様に「律法の中で、大切な戒めはどれですか」と質問しました。あえて、イエス様を試したわけです。ところが、イエス様は何百もある律法をたった2つにまとめられました。そのすばらしい答えに彼らは返すことばもありませんでした。

1.神を愛すること

 イエス様は「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。」と言われました。このことばは、申命記6章からの引用です。イスラエルの人たちは小さいときから、このみことばを暗誦していました。新約聖書はギリシャ語の70人訳ですから、ヘブル語の申命記とは微妙に違っています。パウロは人間を「霊、たましい、からだ」と三つに分けています(Ⅰテサロニケ522)。しかし、ヘブルの世界では、人間をはっきりと分けていませんでした。だから、1つ1つを分析するのは簡単ではありません。でも、あえて分けるならば心はheart感情面であります。思いは、原文はプシュケーなので、精神あるいは魂と言えるでしょう。そして、知力というのは知能、理解、考えという意味です。英語の聖書はmindあるいはintellectになっています。さらに、マルコによる福音書は「力を尽くして」と書いてありますので、身体的なものも含まれています。申命記6章にも「力を尽くして」と書いてあります。合計3つなのか、4つなのか分かりません。とにかく言えることは、心も考えも霊も体もということでしょう。つまり、全身全霊で主なる神を愛せよということなのです。

 でも、神さまが私たちに「愛せよ」とは不思議ではないでしょうか?神さまは私たちに愛されることを望んでおられるということです。いや、「ご自分を愛せよ」と命じておられるのです。愛を私たちたちから受けたい神さまは世界中探してもおられないのではないでしょうか?なぜ、主なる神は私たちの愛を受けたいと願い、そして命じておられるのでしょうか?そのヒントは創世記1章にあります。創世記126-27「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」ここで言われているのは「神のかたち」であります。神さまは三位一体の神さまです。父、子、聖霊なる神が互いに愛し合う存在です。「神が愛である」というとき、神さまが愛する対象をお持ちであるという前提があります。永遠の昔から、神さまは、父、子、聖霊として互いに愛し合っておられたのです。そのかたちとして人間を造るとはどういう意味でしょう。それは神さまが人間を愛し、人間もその神さまを愛するということです。さらには、人間同士も互いに愛する共同体として造られたということです。イスラム教はアッラーの神しか認めていませんので、「神は愛」ということがありません。神がお一人だからです。他の宗教の神も「愛」と言うかもしれませんが、人間的な愛であったり、慈悲とか可哀そうという愛です。新約聖書が言う愛はアガペーの愛であり、一方的に与える愛、無条件の愛です。

 神さまは人間を造るときロボットには造りませんでした。ちゃんと自由意思を与えました。ロボットから「カミサマ、アナタヲアイシマス」と言われても嬉しくありません。人間には、「神さま、あなたを愛したくありません」という選択肢も与えられているということです。実際、イスラエルは主なる神さまを愛しませんでした。数か月前、ホセヤ書からも学んだと思いますが、イスラエルは霊的姦淫を犯し続けました。彼らは異教の神、バアルを慕いました。ところが、異邦人の私たちは、神さまの存在すら知りません。学校では「人間は自然に発生し、サルから進化した」と教えています。それは、父親を知らない孤児のような存在です。でも、聖書から神さまからの第一の戒めが「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」であります。神さまは私たちの愛を求めておられるというのはとても新鮮ではないでしょうか?問題は、どれくらい私たちが神さまを愛しているかであります。でも、その前に、神さまの愛を知り、神さまの愛を受ける必要があります。クリスチャンであるならば、このみことばをご存じでしょう。Ⅰヨハネ49-10「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」まず最初に、神さまが私たちを滅びの中から救ってくださいました。それは、ご自身の御子イエスを私たちの罪のために罰したことにあるのです。神の愛はあがないの愛であり、私たちの罪を赦し、私たちを神の子どもにしてくださるということです。

 私たちは神さまからの無条件の愛を受けているので、その応答として神さまを愛するのです。でも、ここでは「愛しなさい」と命令されているのはなぜでしょう?私たちは気まぐれなので、命令されないと愛することができないからでしょう。だから、「思いを尽くして、知力を尽くして」と言われているのです。私たちの愛が一番現れるところは、神さまを礼拝するということです。礼拝は私たち自身をささげ、神さまをあがめる行為だからです。しかし、私たちは全身全霊で神さまを礼拝しているでしょうか?たとえば、このような公の礼拝では、感情を抑えます。そして、身体を用いるということはまずありません。ダビデが勧めている礼拝が詩篇にあります。詩篇471「手をたたけ、喜びの声をあげて神にさけべ」、詩篇134:2「手を上げ、主をほめたたえよ」、詩篇1493「踊りをもって御名を賛美せよ」…せめて、私たちは個人の礼拝では、涙を流したり、叫んだり、踊ったりすべきであります。アフリカの教会では公の礼拝でも、手を打ちならし、踊っています。西洋周りのキリスト教はあまりにも儀式的で、宗教的です。最近はインターネットの礼拝もあるようです。彼らの心は良いとしても、体は教会の集いに来ていません。コーヒーカップを置いて、神の民の集いに行くという犠牲も必要ではないでしょうか?「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」は、全身全霊を持って神さまを愛せよということです。なぜなら、神さまは私たちの全身全霊を買い戻してくださったからです。

2.隣人を愛すること

 マタ2239「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」このみことばは、レビ記からの引用です。本来なら、出エジプト記20章の十戒を語るべきであります。でも、イエス様は十戒の5,6,7,8,9,10をひとまとめにしました。もし、隣人をあなた自身のように愛したなら、盗んだり、嘘ついたり、殺したりしないからです。ローマ書でパウロがこう述べています。ローマ139-10「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」アーメン。そのように愛は律法を全うするのです。しかし、ここに「あなたの隣人」とあります。私たちは遠い世界の人たちを愛せても、隣のオヤジは憎いのです。会社の同僚、家族、教会の兄弟姉妹を愛しにくいのは何故でしょう?深く関わると、衝突することもあるからです。遠い世界の人たちとは交わることがありませんが、隣人はそうではありません。考えや意見、性格や好みも違います。互いに批判したり、争ったりすることが出てきます。イエス様の近くにいた12弟子も全くそのとおりでした。彼らは最初から最後まで、「だれが一番偉いか」争っていたからです。十字架と復活を目撃したヨハネは何と言っているでしょうか?Ⅰヨハネ27「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。」古くて新しい命令とは、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ1512という命令です。

 でも、この戒めをみると、隣人を愛する前に、1つ解決しておくべき課題があります。イエス様は「隣人をあなた自身のように愛せよ」とおっしゃいました。つまり、自分を正しく愛していない人は、隣人を愛することはできないということになります。ですから、この戒めは2つもありますが、3つでもあるということです。隠れている戒めは「自分を愛する」ということです。こういうことを言うと、「キリスト教は自己否定の宗教であり、イエスさまも自分のいのちを憎め」とおっしゃったではないか」と反論するかもしれません。もちろん、私たちは神さまよりも自分を愛してはいけません。間違った自己愛というものは確かにあります。でも、イエス様は「自分を愛するように、隣人を愛するように」とおっしゃっています。自分を粗末にし、自分を見下げている人が、果たして、隣人を大切にし、尊敬できるでしょうか?それは無理です。なぜなら、正しい愛し方を知らないからです。私も8人兄弟の7番目で育ちましたので、自分の存在価値がものすごく低かったです。そのため周りの人たちをぞんざいに扱いました。ルカ18章に「人を人とも思わない裁判官」がいましたが、まさしく私のことです。やがて、私は牧師になりましたが、態度もことば使いも粗野でした。箴言3021-22「この地は三つのことによって震える。いや、四つのことによって耐えられない。奴隷が王となり…」とあります。クリス・バロトン師がこう神さまから言われたそうです。「奴隷は、生まれた時から取るに足りない者として扱われて来た。彼は成長しても自分にも大した価値がない事、また自分の意見は尊重されない事を成長する過程で学ぶのだ。それ故、彼が王になり、周りの者にとって偉大な者となったとしても、彼自身の内にある王国においては、彼は自分の価値を認めることができないのだ。そういう訳で、彼は自分の発言にも注意を払わない。彼が導くはずの人たちを、やがては自分の手で破滅させてしまうのだ。私の息子よ。お前こそがその王となった奴隷なのだ。」(『王家の者として生きる』より)。つまり、彼は、自分のアイディンティテイに問題があったということです。自分が愛され、大事にされた存在ならば、そのように他者を扱うでしょう。だから、私たちは隣人を愛する前に、神の愛を受け、神の王子、王女としての歩みをする必要があります。近年は教会でインナーヒーリングやアイディンティテイの回復ということが言われています。愛欠乏症の人は、マイナスの地点から始めなければなりません。そのような人たちには、愛と赦しと受け入れが最も必要です。心の癒しを受けて、隣人をだんだん愛せるようになるということです。

 でも、この地上では完全に癒されることがありません。自分の癒しばかりに気をとめていますと、前を見ないで走っている車と同じです。クリスチャンになったら、愛の運転免許証をいただいたのと同じです。きのうきょう免許をいただいた人も、30年のベテランであっても、道路に出たならば同じです。だれでも愛という戒めを守る必要があります。大川牧師は「愛には卒業はない。一生、愛の課題に立ち続けるしかない」と言われました。私たちの隣人とはだれのことでしょう?第一にそれは家族です。使徒パウロがこう述べています。Ⅰテモテ58「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」その次には、主にある兄弟姉妹です。教会は天国ではありません。むしろ、天国に行くための「愛の道場」みたいなものです。教会で愛を学び、愛する訓練をするのです。ですから、当然、教会では傷をうけたり、傷を与えたりすることがあるのです。そうやって、どういうのが愛で、どうしたら愛でないのか体験的に分かってくるのです。私も教会でそのことを学びました。今も学んでいます。最後には私たちがこの世において接する人たちです。会社の同僚、学友、地域社会の人たちがいます。そういう人たちもキリストの愛で接する必要があります。最近は、フェイスブックとかラインで隣人の枠組みがぼやけてきました。ある人は1000人も友人がいます。でも、本当に自分の悩みを打ち明けられる友人はゼロだったりします。数が多ければ良いというものではありません。イエス様には70人、そして12人の弟子たちがいました。特に3人とは親しくしていました。最も親しい人はヨハネでした。あなたも伴侶の他に、コアにあたる数名の親しい人が必要ではないでしょうか。自分を守り、励ましてくれる人、時には辛口の忠告を与えてくれる人が必要です。愛には卒業はありません。愛は生涯守るべき神さまからの戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」

3.律法の限界

 神さまを愛すること、隣人を愛することは、戒めであり律法です。多くのクリスチャンは、「愛する」ということが律法であることを忘れています。律法の意味と目的をご存じでしょうか?律法は守るために与えられたのではありません。律法は「私には罪がある。そのためにキリストが必要だ」ということを教えてくれるのです。パウロはローマ719「私は自分でしたいと思う善を行なわないで、かえってしたくない悪を行っています。」これを言い換えるならどうなるでしょう。「私はしたいと思う愛を行わないで、かえってしたくない悪を行っています。私は愛したいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょう。」今から10年以上前になりますが、本郷台キリスト教会で「愛の関係を持つ」というテーマでセミナーがありました。講師は香港のベン・ウォン師で私が司会を担当しました。午前中のセミナーが終わり、私がお祈りしました。「主よ、私たちには隣人を愛する愛はありませんが、どうか愛せるように助けてください」とお祈りしました。その直後、ベン・ウォン師が講壇に上ってこう言いました。「『私は愛せませんので、どうか愛させてください』という祈りを、神さまがお聞きくださるだろうか。もう、自分は愛せないと言っている人を神さまがその人を造り変えて、愛せる人にすることができるだろうか?それは答えられない祈りだ」とケチをつけました。そして「午後はそのことについて学ぼう」ということになりました。「いや、エライことになったなー」と身が縮む思いでした。今、現在、午後のセミナーで何をおっしゃったのか思い出せません。恐らく、こちらが「愛させて下さい。愛します」と願うなら、神さまが必要な愛を下さるということだったと思います。

 でも、おことばではありますが、日本人はそのような祈りをするのではないでしょうか?昔、榎本保郎師の『旧約聖書一日一章』に以下のことが書いてあったと記憶します。「自分に愛がないということは悲しい発見であるが、本当の愛を見出す偉大な一歩である」と書いてありました。さきほど引用したパウロのローマ書は、まさしく「自分には愛することができない」ということを発見することだと思います。でも、それで終わりではありません。パウロは「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ725と告白しました。ローマ8章には、いのちの御霊の法則について書かれています。「肉によって無力になったため、律法にできなくなっていることを、神はしてくださいました。」とあります。それは、私たちの内におられる、キリストの御霊がそうしてくださるということです。肉では神さまも、隣人も愛せないけれど、キリストの御霊が愛させてくださるということです。おことばですが、肉で愛せる人はいます。美しいもの、価値あるもの、自分を愛してくれる人は愛せます。しかし、聖書が求める愛は、無条件で一方的な愛、アガペーの愛であります。生まれつきの人間は、そのような愛は持ち合わせていません。だから、「自分にはその愛はありませんが、愛せるように助けてください」という祈りは、アリではないでしょうか?なんだか、説教を言い訳の時にしているような感じがします。でも、私の言わんとしていることは理解していただけるのではないでしょうか?

 ローマ5章に「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ55とあります。ここにははっきりと「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」と書かれています。つまり、その愛で、神さまを愛し、自分を愛するように隣人を愛していけるのではないかと思います。神さまは命令だけを与えて、「あとは自分の力でやりなさい」というお方ではありません。命令を与えた限りは、その資源も同時に与えてくださいます。愛は聖霊による実であります。キリストにとどまっていると、結ばれてくるのです。なぜなら、ガラテヤ書5章に「御霊の実は、愛、喜び、平安」とあるからです。奥山実先生はとてもセルフイメージが高い先生です。「僕は愛があるよ。愛のかたまりみたいだね。僕ほど愛のある人はそんなにいないよ」という、説教を聞いたことがあります。さきほどの「私には隣人を愛する愛はありませんが」と決めてかかると、「愛がなくて当然」という気になります。さきほどの内容を飛ばしてしまいますが、信仰によって「主にあって愛します」と願うなら、愛せるようになるということです。ベン・ウォン師はそのことをおっしゃりたかったのでないかと思います。でも、香港や台湾の人たちは、カラッとしています。底抜けに明るいところがあります。でも、日本人はジトーっとしています。湿り気があるというか、暗さがあります。大体、「愛します」という言葉も発しません。「むすーっ」として言わないです。ある牧師はアメリカ女性と結婚していますが、1日に10回「愛しているよ」と言わないと満足してくれないそうです。もちろん、愛はことばだけではありませんが、キリスト教は愛することが最大のテーマなんだということを忘れてはいけません。

 プロテスタント教会はこれまで愛することよりも、神学の違いに重点を置いてきました。その点、ローマ・カトリックは神学よりも、人々を愛することを実行してきたように思えます。私たちはどちらかと言うと「愛とは何か」「どのように愛するべきなのか」と愛について考えてきました。しかし、本来の愛は「愛する」という動詞であり、説教や教えの研究課題ではないということです。私たちは頭で愛することを追求してきました。でも、心や体も必要なんだということを学びました。聖書は、「思いを尽くして愛せよ」ですが、本来は「魂を尽くして愛せよ」ということなのです。魂は精神とも言いますが、もっと深いものです。魂は霊を含んだ内なる人そのものです。ある人が「魂いっぱい愛します」と祈りました。その人は、手島郁郎師の「キリストの幕屋」の出身でした。でも、とても新鮮な感じがしました。「主よ、あなたを魂いっぱい愛します」。「私の隣人を魂いっぱい愛します」。少し危ない気もしますが、聖書からは外れていません。私たちは左脳を用いて観念的になります。愛もそうなりがちです。本当の愛は、感情的であり、創造的であり、魂の底から湧いてくるものではないでしょうか?魂の底には、キリストの御霊がおられます。聖霊によって神の愛が注がれているので、神さまと隣人を愛することができるのです。

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2017年9月22日 (金)

パスカルが出会った神 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.9.24

 来世、つまり死後の世界というのは、どの宗教にもあるようです。日本は仏教の思想を受けていますので、地獄と極楽、輪廻(生まれ変わり)の存在を信じています。唯物論の影響を受けた人たちは、人間は死んだら消えてなくなると考えています。テレビで芸能人の死が報道されるとき、「天国に旅立った」と言います。クリスチャンでも信仰を精神的なもの、主観的なものとして捉えている方がおられます。きょうは聖書から正しい来世観について学びたいと思います。

1.思い違い

 サドカイ人というのは、神殿に仕える祭司たちで構成されていました。ある人たちは議員であり、ユダヤ人の指導者でもありました。彼らは妬みのゆえに、イエス様を十字架に付けた一派でもあります。当時のことを記しているヨセファスという歴史家がこのように証言しています。「彼らは肉体のよみがえり、未来における罰と報い、御使いや霊の存在を拒否していることが明らかである。サドカイ派はパリサイ人と違って、モーセ五書に中心をおき、五書に記された律法にのみ最終権威を認めたので、そこに書かれていない復活論や、死後の生命のような教理を否定したと思われる」とありました。イエス様はマタイ16章で「サドカイ人たちのパン種に気をつけなさい」と言われたことがあります。サドカイ人たちの教えは世俗的であり、この世のことしか考えません。もし、彼らの教えを受け入れるなら、「死後の世界はないので、地上で幸せに暮らせればそれで良い」ということになります。イエス様は29節で「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです」と言われました。「思い違い」のギリシャ語はプラナウであり「迷う、惑わされる、考え違いをする」という意味です。JB.フィリップスはYou are very wide of the mark、「大きく的からはずれている」「見当違いをしている」と訳しています。そもそもの原因は、彼らが聖書も神の力も知らないからです。神さまを礼拝して、宗教的な生活を送っているかもしれません。しかし、「聖書も神の力も知らない」なら、見当違いをしていることになります。ひょっとしたら、ミッションスクールや今日の教会にも当てはまるかもしれません。

世俗主義のパン種は知らぬ間に、私たちの中に入って、信仰を腐らせてしまいます。彼らの一番の見当違いは、復活を信じていなかったということです。「え?復活を信じていない信仰者がいるのですか?」とおっしゃるかもしれません。おります。彼らはギリシャ人のように霊魂の永世は信じています。しかし、この肉体が復活するとは信じていないのです。では、復活がないと考えている人は、地上でどのように暮らすのでしょうか?使徒パウロはⅠコリント15章でこのように述べています。Ⅰコリント1532「死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか』ということになるのです。思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」ここで言われている「友だち」というのは、復活を信じない人たちで、「生きているうちが花だから、好き勝手に生きようぜ」という悪い友だちです。コリントの教会ではこの世よりもひどい罪や放縦に満ちていました。彼らにはキリスト信仰があったのですが、肉体の復活を信じていませんでした。なぜなら、ギリシャ哲学の影響を受けていたからです。「肉体がしている悪は、魂の救いには影響しない」と考えていたからです。でも、それは見当違いであり、世俗的なパン種でした。パウロは「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれる」と注意しました。イエス様が言われた「サドカイ人たちのパン種に気をつけなさい」と同じであります。私は19年前にも同じ個所から説教し、このような証を述べていました。私もかつてはそうでした。車を乗り回し、格好をつけ、綺麗な女性を追い掛けまわしていました。「今が楽しければ良い、死んだらおしまいさ」と考えていました。仕事はメシの種で、他の時間は自分の好きなことを一生懸命やれば良いという人生哲学でした。しかし、「永遠というのがあるなら、そこに命をかけられるのになー」と心のどこかで追い求めていました。「宗教は弱い人間が勝手に造ったものだ」と言っていた、この私が25才に回心しました。するとどうでしょう。時間がもったいなくなりました。クリスチャンになって、永遠の命が与えられたのだったら、「ああ、やったー」と寝そべっていれば良さそうなものです。ところが「確かに、永遠の命は与えられけたけれど、この地上の人生は意外と短いぞ」と思うようになったのです。気がつくと、パチンコ、ギャンブル、マージャンをやめていました。それらが時間とお金の無駄使いと気付いたからです。お酒もやめました。お酒を飲むとボーっとなって、その夜は何も考えられなくなるからです。それで「この限られた時間をもっと有効に使わなければ」となりました。つまり、それまでは「好きなことを楽しく」という無目的な人生でしたが、救われてから目的ができてしまったのです。私が洗礼を受けて全く変わってしまったので、一緒に遊んでいた友だちも付き合っていた彼女も私から離れていきました。世俗的な友だちが去って行ったということです。

 復活を信じないということは、死後のさばきを信じないということです。当然、神を恐れず、堕落した生き方になるでしょう。ヘブル927,28「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」この短い文章に3つのことが記されています。第一は死後、神の前に立ち、さばきを受けるということです。第二はキリストが私たちの罪を負ってさばかれたということです。第三はキリストが再び来られるとき、キリストを待ち望んでいる人たちが復活するということです。多くの人たちは「ヘブル9章は救いのためのみことばである」と考えています。確かにそうですが、それ以上のことも語っています。本当の救いとは死後さばきに会うことがないばかりか、キリストが再臨したとき栄光のからだに復活するということです。つまり、救いの完成は、まだ来ていないということです。しかし、神の前でのさばきと栄光の復活があるので、地上の生活もおのずと変わってきます。世俗主義のパン種に感化されてはいけません。彼らのような思い違いをしないで、聖書と神の力を知ることに全力を傾けていきましょう。

2.復活の時

 もう一度、彼らがイエス様にした質問を調べたいと思います。マタイ2224「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない』と言いました。ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、七人とも同じようになりました。そして、最後に、その女も死にました。すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」彼らはモーセの律法からこのような質問を考え出しました。家系を絶やさないために、確かにこのような律法がありました。創世記38章にこのような記事があります。ユダが自分の長男をタマルという女性に与えました。しかし、主を怒らせていたので彼は死にました。弟オナンは「兄嫁のために義弟の務めを果たしなさい」と父から言われました。しかし、弟は兄のために子孫を残そうとしませんでした。そのため、主を怒らせて彼も死にました。ユダは三番目の息子をタマルに与えませんでした。兄たちのように死ぬといけないと思ったからです。そのためタマルは遊女に化けて、舅のユダと関係を持って身ごもりました。やがて、その子はダビデの先祖になります。サドカイ人たちが言うような話は確かにありますが、7人というのは残酷な感じがします。7は完全数なので、この質問を完璧なものにしたかったのでしょう。彼らは「復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです」と尋ねました。この質問の背後には、「1人の女性をめぐって7人が取り合うだろう」という皮肉がこめられています。

 では、イエス様はどのように答えられたでしょうか?マタイ2229,30「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」第二のポイントでは「復活の時」のことを考えたいと思います。この世において、なぜ、人はめとったり、とついだりするのでしょうか?それは死ぬからです。アダムとエバが罪を犯してから、この肉体は死ぬようになりました。それでも「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(創世記128という命令は残っています。地上の生命には限りがあるので、結婚して子孫を残していくしかないのです。しかし、復活の時はどうでしょう?栄光のからだによみがえり、しかも永遠のいのちが与えられています。「天の御使いたちのように」とは、彼らのように永遠に生きるということです。つまり、死ぬことがないので、子孫を残す必要もなくなるということです。ところが、サドカイ人たちはこの地上のことが、天上でもずっと続くかのように思い違いをしていたのです。残念ながら、復活後は結婚することはありません。男も女もない、中性になるということではないと思いますが、肉体関係がないということです。みな、兄弟姉妹になるのです。それだったら、寂しいでしょうか?天国に行ったら、ロマンスもなくなるのでしょうか?でも、男女の関係は罪の元にもなります。また、この地上では結婚という枠組みがあります。結婚外の関係であるならば不倫と呼ばれます。ガラテヤ6章には肉の働きが記されていますが、その3分の1が性的な罪です。でも、復活の時には、そういう罪がきよめられます。しかも、結婚とか子孫を増やすということがありません。罪のない栄光のからだが与えられ、兄弟姉妹として、だれとでも親しく交わることができるのです。私も行ったことがないので、分かりません。おそらく、一瞬にして相手の心が分かるでしょう。なぜなら、霊が100%作動しているからです。そのため、嘘や偽りのない真実な交わりが可能になるでしょう。

 私たちは復活の時のことを聖書から正しく知るべきです。結婚はないかもしれませんが、それ以上の楽しみや喜び、そして自由があるということです。とにかく、天上の生活は地上の延長ではありません。ギャンブル好きで家にお金を入れない夫、酒乱で暴力をふるう夫など、苦労をさせられた姉妹方がおられます。天国に行っても、その夫に仕えなければならないとしたら大変であります。福沢満男先生のお父さんはかなりの酒乱で、先生が子どものとき、地獄のような生活を強いられたようです。しかし、そのお父さんは病気で亡くなる少し前にイエス様を信じました。お母さんが「お父さんは天国に行ったのかい」と聞きました。福澤先生は、「そうだよ、悔い改めてイエス様を信じたんだから天国へ行けたんだよ」と喜んで答えました。すると、「ああ、そうかえ、それなら母さん信じないよ」と言いました。先生のお母さんが信仰を持つのに、それから10年以上かかったそうです。お母さんは「天国に行ってからも夫のために苦労するんじゃ行きたくない」と思ったのでしょう。そうではありません。天国に行ったら、みな兄弟姉妹です。 

韓国教会の長老の方が、死後、数時間で生き返ったという証を聞いたことがあります。その方は、いわゆる臨死体験をしたわけです。アブラハムから天国を案内されました。そこで、何年か前に亡くなった奥様とお会いしたそうです。はじめは、その人がだれかわかりませんでした。なぜなら、奥様は地上では大変太っていて、顔も美しくなかったからです。ところが、目の前の美しい貴婦人は、どこか妻の面影がありました。彼女は、自分に向かって「○○兄弟」と親しく声をかけるのです。「なんだ、お前か。それにしてもどうしてこんなに美しいんだ」「いえ、私はあなたの妻ではなく、姉妹です」と答えたそうです。とにかく天国の奥様は別人のようだったというのです。あいにく、彼の天国の邸宅の屋根が未完成だったので、地上に戻って来たそうです。90歳で天国に召されて、90歳のままで永遠に生きるのだったら何の喜びがあるでしょう。ある聖書学者は「復活時は、男性は30歳前後、女性は20歳前後であろう」と述べています。最近、エターナル出版から、「私は天国に行った」とか「地獄に行った」という証の本がいっぱい出ています。私はそれらを信じないわけではありません。でも、聖書が述べていないことを、詮索して、それを事実であるかのように言うのは避けたいと思います。ただ分かっていることは、「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」ということです。天の御使いは、とても美しく、完璧な姿です。美しい人をたとえるとき、よく「天使のようだ」と言うからです。この世では「年には勝てない」と言います。しかし、私たちは復活の時には天の御使いのように麗しい姿になるのです。あこがれをもって復活の時を待ち望みましょう。

3.パルカルが出会った神

 マタイ2231-33 「それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。」クリスチャンになって数年間は、どういう意味なのかさっぱり分かりませんでした。群衆はこれを聞いて、理解して、驚いたのですからよっぽどです。サドカイ人たちは、預言書を信じていませんでした。預言書には死人の復活や千年王国のことがたくさん書かれています。サドカイ人たちはモーセ五書しか信じていなかったので、イエス様はあえて、モーセ五書から復活について語ったのです。でも、このことが復活について語っているのでしょうか?日本語は時制についてはあいまいなところがあります。しかし、インド・ヨーロッパ語族はそうではありません。英語の詳訳聖書を引用させていただきます。I am the God of Abraham, and the God of Isaac, and the God of Jacob? He is not the God of the dead but of the living.となっています。このところには、I wasとなっていません。I amとなっています。I wasであれば、彼らの神であったということになります。I amであれば、今も彼らの神であり、今も彼らは神の前で生きているということになります。イエス様は主がモーセに語られたことばを引用しました。これは出エジプト36にあり、ユダヤ人には「柴の篇」という名称で知られていました。彼ら3人はイスラエルの族長であり、アブラハムとヤコブとは200年も離れていました。それなのに、彼らは神さまと共に生きているということです。

 イエス様は「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」と言われました。ここのことばは日本人に対する挑戦でもあります。日本人のほとんどは仏教か神道です。それらから出た新興宗教も含めて、死者あるいは先祖崇拝をしています。日本人が信じている神あるいは仏は、死んだ者の神であります。生きている人が死んだ人のため供養しています。同時に、死んだ人が生きている人を守ってくれるように願っています。助けているのか、助けられているのか分かりません。でも、何の疑いもなく、「自分たちもやがては先祖たちがいるところに行くんだ」と信じています。信じているというのではなく、他の選択肢がないので「そうに、決まっている」と考えています。もし、そこにキリスト教が入るとどうなるでしょう?「彼らは陰府にいる存在であり、いつかはさばかれ地獄に行くのです」と言ったらどうなるでしょう。そして、自分がクリスチャンになるならば、ご先祖様に申し訳がたたない。「裏切り者」という烙印が押されるでしょう。日本の法事、お祭りのほとんどが、「死の文化」と言っても過言ではありません。もう、それが当たり前のように思っているのは何故でしょう?エペソ人への手紙6章に、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち」とあります。「主権」はギリシャ語ではもともと「アルケー(始まり)」という意味です。それは私たちが受けてきた「生来の教え」であり、生まれた時から信じ込まされているものです。この天上の悪霊は私たちの思いをくらまして、福音の栄光を見えないようにしているのです。「主権」が日本人に、仏教の教えや進化論を信じ込ませているのです。そのため、キリストの福音を信じて、永遠のいのちを得るというのは、たやすいことではありません。

 ところでパスカルと言えば、数学者でパスカルの原理をはじめ、たくさんの数式を発見した人です。また、パルカルは哲学者でもあり『パンセ』でも知られています。「人間は考える葦である」と言った人です。彼はカトリックが支配しているフランスの出身ですが、聖書をそのまま信じている少数のグループに属していました。パスカルの同時代、デカルトをはじめとする「近代合理主義」が栄えていました。人間の理性で理解し得るものだけが真実だと考えられていました。パスカルは若気の至りで、上流社会の様々な楽しみを求めました。しかし、彼の心の空隙は満たされず、ますます絶望な気持ちになりました。そして、16541123日の夜、パスカルは回心しました。彼は夜中にこう叫んだのです。「哲学者や学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。確信、確信。万感の思い。喜び、平安。イエス・キリストの神。あなたは私の神です。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。イエス・キリスト。」当時の教会ではスコラ哲学が流行っていました。形而上的で観念的な宗教だったのです。しかし、パスカルは「聖書こそ、そこに記録されている事実において間違いのない神のことば」であると信じていました。教会は公会議とかで権威ある意見を出していましたが、パスカルは聖書から意味を引き出さない者は、聖書の敵であると言いました。パスカルは数学者であり、いろんな定理を知っていました。私は高校生のとき、物理と数学に出会って、頭が全く混乱し、落ちこぼれてしまいました。そこでは、定理とか、公式ということばは良く用いられました。定理や公式を覚えていると、問題が解けるということです。パスカルにとって人生の問題を解決する、定理と公式はキリストだったのです。キリストを心の空隙にあてはめたとき、全部解決したのではないかと思います。

 イエス・キリストは罪と死の中で囚われている私たちを救い出してくださいました。イエス様はそのために天から下り、人となられました。私たち人類の罪咎を引き受け、代わりにさばかれました。父なる神はご自身の罪に対する怒りをひっこめ、その代り、キリストを信じる者にご自身の義を与えることを約束されました。私たちがキリストを救い主として信じ、受け入れるとき、永遠のいのちがあたえられます。そのとき、パスカルのように「哲学者や学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と叫ぶことができるのです。ある人たちは信仰は天国に入るためのものであると言うでしょう。それだった仏教徒と同じ、死んだ者の神さまです。そうではなく、キリストは生きている者の神さまです。なぜなら、永遠のいのちは死んでからいただくものではなく、この地上から始まっているからです。私たちはすでに永遠のいのちを持ちながら、この地上で暮らしているのです。だから、生きる目的や意味が地上のことがらではなく、やがて来るべき来世のことを念頭においているのです。この地上はやがて過ぎ去りますが、移り住む来世こそが永遠です。私たちは世俗主義ではなく、永遠の目的のために生きるのです。

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2017年9月15日 (金)

カイザルのものはカイザルに マタイ22:15-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.9.17

 パリサイ人たちは、神政イスラエルを願っていますので、ローマへの貢には大反対であり、屈辱的でした。一方、ヘロデ党の人たちは、ローマにへつらって甘い汁を吸っていたので、ローマへの貢は大賛成でした。普段は仲の悪い2つのグループですが、イエス様をことばの罠にかけるために結託しました。彼らはイエス様を思いっきりほめそやしていますが、それは言い逃れができないためです。

1.カイザルのものはカイザルに

 ここで言われている「納め金」というのは、いわゆる貢であります。他の聖書は「税金」と訳していますので、「税金」で通したいと思います。当時、ローマが世界を支配していましたので、そのような税金が課せられていました。他にローマは強制的に食物、宿舎、馬、助力を提供させることができました。しかし、宗教的にはある程度の自由を与えていました。カイザルというのは、ローマの皇帝であり、シーザーとも言います。もし、イエス様が「カイザルに税金を納めなくて良い」と言うならどうでしょう?ヘロデ党の人たちは「イエスはローマに敵対する者であり、謀反を企てる危険な輩」として訴えるでしょう。もし、イエス様が「カイザルに税金を納めなければならない」と言うならどうでしょう?パリサイ人は「イエスは神政(神が統治する国家)イスラエルを否定するものである」と70人議会に訴えるでしょう。そうなったらメシヤとしての評判はガタ落ちになります。どう答えても不利になります。これは、イエス様を陥れるため、周到に用意されたことばの罠でした。マタイ2218-22 イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。

 彼らは「これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った」とありますから、よっぽどの理解力です。私たちの中には「え、何のことなの?」と理解できない人もいるでしょう。そのために説教者がおります。「カイザルのものはカイザルに返しなさい」とはどういう意味でしょう。イエス様は「ローマに納めるデナリ銀貨を私に見せなさい」と言いました。デナリ銀貨にはカイザルの肖像と銘が刻印されていました。当時の銀貨を見ると、皇帝の横顔とカイザル〇〇という名前が刻まれていました。刻印によって、だれがこの貨幣の価値を保証しているか分かります。10円硬貨を見ると「日本国」と刻まれており、日本政府が保証しているということです。イエス様はローマに治めるデナリ銀貨を提示させて、「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と言いました。それは、ローマのカイザルに負っているものがあるから、それを負担しろという意味です。当時は「パックス・ローマナ」と言って、武力に基づいた平和でした。民主的ではありませんでしたが、ローマのもとで平和が保たれていました。山賊や盗賊が一掃され、ローマの街道も整備され、どこへでも旅することができました。使徒たちが安全に、世界中に福音を宣べ伝えに行くことができたのは、そのおかげであります。紀元前は、戦争に負けたら奴隷になるしかありませんでした。しかし、ローマは比較的な自由を与え、ある国を同盟国にまでしました。ですから、当時のイスラエルは植民地よりもかなりましな方でした。でも、ユダヤ人はとても頑固で反抗的で、ローマ総督の頭痛の種でした。だから、ヘロデ王という王様を置いて、やんわりと支配しようとしたのです。そういう意味で、ローマへの貢は当時では、当然の義務になっていました。

 私たちがもし、「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と言われたらどう適用できるでしょうか?日本は民主国家であり、国民の主権が憲法でうたわれています。そして、納税の義務、法律を守る義務が日本の一国民として課せられています。私たちが治める税金はおもに所得税と住民税ですが、他に固定資産税や業務税があります。クリスチャンであっても、これらの税金を納めなければなりません。また、クリスチャンであっても、日本に住んでいる限りは刑法、民法、様々な条例を守らなければなりません。たとえば、秋葉原では通りでたばこを吸っていると2,000円の罰金が科せられるようです。私も車を運転しますが、違反切符を切られると反則金を支払う羽目になります。私たちは天国の国民でありますが、同時にこの地上の国の国民であります。ですから、納税や法律を守るという義務を負わされているのです。でも、時代によってとても判断が難しいこともあります。戦争への徴兵はどうでしょう?アメリカの教会のある宗派は徴兵制度に反対したために、ものすごく迫害されました。日本でも、第二次世界大戦中は、政府によって神社参拝や天皇礼拝が強制させられました。そういう意味で、はっきり結論が出せないときがあります。極端になりますが、正義に立つ完璧な国家や政府はこの地上にはありえません。しかし、無政府状態よりは増しだと言えます。私たちはテレビ等で、中東やアフリカの内戦の国を見ることがあります。人命が軽視され、何百万人もの難民があふれています。ですから、悪魔的な国家にならない限りは、政府があって法律があるということは良いことなのです。ベストは望めないかもしれませんが、ベターになるように私たちはクリスチャンとして政治に参加する必要があります。選挙に行かないクリスチャンもいますが、尊い一票という義務を果たすべきです。そうしないと、どこかの宗教団体に全部、持っていかれてしまいます。

 イエス様は「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と言われました。私たちクリスチャンは天国民ではありますが、日本という国で暮らしています。神さまは日本という国を造られ、私たちを日本人として誕生させました。そういう意味では、この日本を愛し、一市民としての義務を喜んで果たすべきなのです。内村鑑三は「私は2つのJを愛する」と言いました。1つはJesus Christ、もう1つはJapanです。私たちは神さまの一般恩寵として、平和な国が与えられていることを感謝したいと思います。

2.神のものは神に

 第一の「カイザルのものはカイザルに」は、中学の社会科でも理解できる内容でした。しかし、第二の「神のものは神に」は、まことの神を信じていない日本人には理解できない内容でしょう。当時のパリサイ人やヘロデ党は、イエス様の答えに驚嘆しました。でも、私たち日本人、特に教会に来ていない人は首をかしげてしまう内容です。「何か、神さまに負うべきものがあるのでしょうか?神さまにはお世話になっていませんよ」と答えるでしょう。実は第一と第二が合わさっているから、名言になっているのです。イエス様はカイザルのものと神のものをパラレルにして、大切な真理を教えようとしたからです。では、なぜ、イエス様の答えで人々は驚嘆したのでしょうか?ローマのデナリ銀貨には、カイザルの肖像、カイザルの銘が刻まれていました。だから、たとえユダヤ人であってもカイザルに負うべきものがあるということでした。次にデナリ銀貨と比べられるのが私たち人間であります。創世記には人間の創造について記されています。創世記127「神は人をご自身のかたちとして創造された」とあります。英語の聖書には、So God created man in His own image.となっています。肖像も英語ではimageであり、かたちもimageであります。つまり人間には神さまのイメージが刻まれているということです。昔、『十戒』という映画がありました。イスラエルの民がエジプトで奴隷生活を強いられていました。イスラエルの民の一人が、過労のためにレンガ造りの沼地で倒れました。すかさず、エジプトの監督から鞭が当てられました。鞭打たれた老人が「オレたちは奴隷ではない、神のイメージに造られた存在だ」と言い返しました。一人ひとり神の刻印が押されています。ですから、私たちの所有者は神さまであり、神さまが一人ひとりの価値を保証しているということです。

 自覚しているかどうかわかりませんが、少なくとも私たちは2つの面で神さまに負っています。1つは神さまに造っていただいた、この世に誕生させていただいたということです。「いや、私は両親から生まれたんだ」と言うかもしれません。でも、ダビデは詩篇139篇で「主が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」と言っています。学校では「人間はアメーバーからだんだん進化したんだ」と教えています。しかし、「人間は神さまによって創造された」と聖書から教えたらどうでしょう?だれにでも、生きる目的があり、だれにでも生きる価値があるということが分かるでしょう。道徳の時間で「いのちの尊さ」を改めて教える必要はありません。聖書の神さまは全能であり永遠で、月、星、太陽、地球を造りました。大地と海を分け、海には魚を泳がせ、陸には植物を生えさせ、動物を作りました。すべての環境が整ってから、人間を創って住まわせました。神さまは人間がこの地を治めるように命じましたが、堕落してしまいました。そのため、罪と死が人間を支配し、天災や災害が起こるようになりました。それでも神さまが造られたこの世界は一般恩寵に満ちています。空気、水、太陽の光、地下資源、自然界の動植物は神さまが私たちに与えたものです。それぞれ命が与えられ、男であること、あるいは女であること、本来はすばらしいことなのです。うまくいかないのは、創造主なる神から離れているからです。もし、キリストを信じて神さまと和解したなら、人生を享受し、寿命を全うできるでしょう。

 もう1つはクリスチャンであるならば、当然知っていることです。それはキリストの贖いよる救いということです。元来、キリストは信じていない人のためにも十字架で死なれました。キリストは罪のための代価を払ってくださいました。クリスチャンとは「それは私のためでした」と救いを受け取った人のことであります。何か良いことをしたとか、功績を積んだということでは全くありません。神さまがキリストにあって用意された救いをいただいたに過ぎないからです。でも、すばらしい特権が与えられました。すべての罪が赦され、神の前で義とされました。永遠のいのちが与えられ、御国に住まうことができるようになりました。私たちは神の子であり、王子、王女です。父なる神さまのすべてのものを相続することができます。「神のものは神に」というとき、私たちクリスチャンは滅びから救いに入れられたという特別恩寵が基盤にあります。神さまに対して、負うべきものがあるということです。しかし、ここで問題が生じます。教会という概念が入ると、神さまに対する義務みたいになります。税金とは言いませんが、十分の一献金をはじめ様々な捧げものがあります。法律ではありませんが、聖書を読み、礼拝をささげ、奉仕をし、伝道をすること。神と隣人を愛し、神さまの戒めを守ること。これらは信仰者としての義務なのでしょうか?キリスト教はヨーロッパで栄えました。ある国は国教会であり、宗教税が課せられています。しかし、そこから自由教会が生まれました。信じた人たちによって、教会を作るということです。そうなるとどうでしょう?私たちの献金で教会と牧師を支えるという考えになります。献金は神さまにささげると言いながら、教会の運営のためささげるのです。そして教会は、「十分の一献金は教会員としての義務である」と洗礼を受けた人に教育するでしょう。

 しかし、「神のものは神に」という意味はそうではありません。私たちは教会にささげるのではなく、神さまにささげるのです。なぜなら、神さまがすべての根源者だからです。神さまが私たちを祝福してくださるので、教会の運営や牧師給が払えるのです。正しくは私たちの教会ではなく、神さまの教会であり、キリストご自身がお建てになるのです。くれぐれも献金を、教会をささえる会費のように考えないでください。十分の一献金のことは旧約聖書のマラキ書に書かれています。新約の恵みを忘れると律法や義務になりますが、旧約であっても真理が語られています。マラキ310「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」とあります。宝物倉は神さまを礼拝している神殿の隣にあります。そして、ささげたら、「天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ」と約束しています。教会がささげた人に注ぐのではありません。報いとして神さまご自身が注ぐのです。イエス様は「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ64と約束されました。私たちの献金は神さまに対してものであり、神の国への投資です。「献金は義務ではなく、恵みであり特権だ」ということを覚えたいと思います。

3.終末におけるクリスチャン

 適用として、世の終わりに住む私たちには2つの課題があります。第一はカイザルよりも神のものが大切だということです。イエス様が教えた頃のローマは宗教的な自由を与えていました。ところが、使徒パウロの時代になるとだんだん皇帝礼拝が盛んになりました。ヤコブはヘロデによって殺されましたが、ヨハネを除く使徒たちは殉教しました。ヨハネの黙示録はローマが悪魔化したときに書かれたものです。世の終わりにも、反キリストや偽預言者が起こり、迫害が増すでしょう。私たちは世の終わりに住んでいます。終末論にはいろんな解釈があって、単純ではありません。端的に述べるならば、今後、7年間の患難期に突入することになります。前半の3年半は比較的穏やかですが、後半の3年半は反キリストが猛威を振るい、大患難のときとなります。人々は命がけで信じなければなりません。でも、迫害がものすごく強いので、背教者も増えるでしょう。パウロは穏やかなとき、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。…彼は無意味に剣を帯びてはいない。彼は神のしもべである」(ローマ131-5と言っています。ところが、黙示録13章になると、政府が悪魔化し、獣を拝むことを強要します。私たちは反キリストに従ってはいけません。命をかけて抵抗しなければなりません。問題は私たち教会がそのとき存在しているかどうかです。20世紀、アメリカで福音派が起こりました。聖書の福音に立ち返るすばらしいリバイバルでした。ところが、彼らは「教会は患難が来る直前に天に引き挙げられる」と教えました。つまり、苦難や迫害を恐れなくて良いという便利な教えです。Ⅰテサロニケ5章には「眠っていないで、目をさましていなさい」と書かれています。ですから、「自分は洗礼を受けているから自動的に天に引き上げられる」と思わないでください。カイザルが神のものを要求するときが来たら、要注意です。私たちは命がけで信仰を守る必要があるということです。

黙示録210「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」とあります。私の家内(京子さん)が洗礼を受けたとき、本をプレゼントされたそうです。その裏表紙に「受洗おめでとう。死に至るまで忠実でありなさい。大川従道」と書いてあったそうです。きょう洗礼を受けた人に、「死に至るまで忠実でありなさい」というのはキツイのではないでしょうか?でも、京子さんは「ああ、そうなんだ。そうします」とそのみことばを受け止めたそうです。洗礼を受けても半分は教会を去ってしまいます。その人たちの全部が信仰を捨てたとは思いませんが、「いのちの冠」はいただけないと思います。世の終わり、カイザルと神との緊張関係が高まるでしょう。私たちはカイザルよりも、神のものをより大事にしていく必要があるということです。

もう1つの課題は、積極的にカイザルのものに関与していくということです。先ほど、20世紀、アメリカで起った福音派の終末論についてお話ししました。教会には世の終わりになるとこの世が乱れてくるので、できるだけこの世とは接しないという考えが生まれます。そして、やがて来る御国、千年王国にすべての希望を置こうとします。そうすると、この世の人生はおまけになり、修道院のような厭世的な生活を送るようになります。確かに、世の終わりは人々の愛が冷え、悪いことが起こります。しかし、クリスチャンが「カイザルのもの」を放棄し、神さまのものだけに固執しようとするのは神さまのみこころではありません。イエス様は「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように祈れ」とお命じになられました。「主の祈り」はイエス様の祈りではなく、イエス様に従う弟子たちに対するものです。「主の御名をあがめるように」とはこの世の人たちがイエス様を信じて、神さまと和解するようにということです。これは世の終わりに対する伝道のことを指しています。その次の「御国が来ますように」とは、この地に神のご支配が来るようにということです。ビルジョンソンという人は、「イエス様の時から、神の国がこの世にinvade侵入している」と言いました。つまり、政治、ビジネス、芸術、教育、医療、あらゆる世界に神の支配が来るようにということです。これは祈るだけではなく、それぞれの場所にクリスチャンとして遣わされるということです。イエス様は「あなたがたは、地の塩です。あなたがたは、世界の光です」と言われました。塩はこの世の腐敗を留めるという働きがあります。光は神さまの真理といのちを現わしていくということです。この世はますます暗くなるので、たとえ小さな光であっても良く目立つことでしょう。「みこころが天で行われるように地でも行われますように」とは、神の義とあわれみがなされるようにということです。

イスラエルの民がモーセとアロンに逆らいました、そうすると、主の前から激しい怒りが出て来て、神罰がはじまりました。このことは民数記16章に記されています。人々がどんどん死んでいきました。アロンはモーセが命じたように、香をたいた火皿を取って集会の真ん中に走って行きました。民数記1648「彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。」とあります。つまり、香をたいているアロンが立ったところから、死罰が止まったということです。アロンは香をたいて、民たちの贖いをしたからです。私たちも、罪と死が支配するカイザルの世界に遣わされています。私たちは手ぶらではなく、神のものを持っているのです。私たちがそこで祈り、福音を語るならば、神の国がもたらされます。確かに言えることは、私たちはこの世に違いをもたらす者として遣わされています。ですから、世の終わりの時代に住むクリスチャンは、「この世は汚れているから離れて生きる」と言うのはみこころではありません。もちろん、一緒にできない事柄もあります。しかし、私たちは神の国を背負っている大使です。私たちの背後には、神の国というものすごいバックがついています。教会は御国の大使館であり、私たちひとり一人は大使です。日本にもいろんな国の大使館があります。アメリカ大使館のように超一等地に豪華な建物もあります。しかし、あまり知られていない国の小さな大使館もあります。問題は大使館の大きさや豪華さにはよりません。その国を代表しているということが重要なのです。私たちの教会もそんなに大きくなくても、御国の大使館です。あなたも、あなたも、御国の大使です。私たちはこの世に違いをもたらす者として遣わされていることをお忘れなく。

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2017年9月 8日 (金)

婚宴のたとえ マタイ22:1-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.9.10

 イエス様はエルサレムにおいて立て続けにたとえ話を語られました。その対象は、祭司長、民の長老たち、そしてパリサイ人たちでした。彼らはユダヤ教の指導者であり、イエス様に反感をいだいていました。そのため、イエス様は遠回しで彼らに教えるために、たとえで話されたのです。このたとえの、王は神さまであり、王子はイエス様、招待を受けていた人たちというのはイスラエルです。その当時はユダヤ人と呼ばれていました。

1.拒絶したイスラエル

 イエス様は「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます」と語り出しました。披露宴は英語の聖書ではwedding banquetとなっています。4節には「宴会」となっていますので、ごちそうが並べられた大宴会でありました。王様はあらかじめ招待状を出していました。日時が迫ってきたので、確認のために、しもべたちを遣わしました。しかし、彼らは来たがりませんでした。J.Bフィリップスは「来るのを拒んだ」と訳しています。知っていたのに行こうとしなかったのです。王様は、直前になって、別のしもべたちを遣わしました。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」と申し伝えました。合計3度、招いたということです。でも、彼らはどうしたでしょう?5-6節「ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。」何ということでしょう。いつでもできるような畑仕事や商売にでかけました。ルカ福音書にも似たような話があります。「牛を買ったので見なければならない」とか「結婚したので行くことができない」と言い訳をしています。王子の婚宴に行くことは、優先順位の中に入っていませんでした。急用があった訳ではなく故意に行かなかったのです。イエスさまがメシヤとして来られ、御国の福音を宣べ伝えました。しかし、ユダヤ教の指導者たちは、神の国の招きを受け入れることをしませんでした。なぜでしょう?自分たちの立場を失うからです。あるいは、自分たちの方法とは違うと思ったのかもしれません。なぜなら、律法と伝統を軽んじているように思えたからです。

 ここで言われている「しもべたち」というのは預言者たちでしょう。旧約聖書からイエス様の時まで多くの預言者が遣わされました。でも、彼らは神さまに立ち返ろうとしませんでした。それだけではありません、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまいました。最後の預言者と呼ばれたバプテスマのヨハネも殺されました。王様はどうするでしょう?7節「王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。」このことは、紀元70年に起りました。ローマによってエルサレムが滅ぼされました。神殿が完全に破壊され、ユダヤ人たちは殺害され、生き残ったユダヤ人は国外に逃げました。たとえに「兵隊」とありますが、神さまがローマの軍隊を用いたというように解釈できます。前のぶどう園のたとえでも、同じことが言われていました。イエス様がエルサレムに乗り込んで、このようなことをおっしゃったら反感を買うのは必至です。でも、ご自分が彼らによって殺されるのをご存じだったので、覚悟の上であったと思います。

 使徒パウロはローマ11章でイスラエルは「不信仰によって切り落とされた」と言っています。不信仰というのは、「あえて信じない」という含みがあります。イスラエルは神によって選ばれた民でありました。だから、それが高慢になったのです。また、律法が与えられ、神さまに対する知識においては格別でした。イエス様の頃、パリサイ人や律法学者たちは、この律法を学び、厳格に守っていました。でも、イエス様が宣べ伝える福音は、行ないではなく恵みでありました。しかも、「ナザレの田舎から急に出てきた、大工のせがれが何を言うんだ。こっちが正統だ」という自負もあったのでしょう。彼らは律法による義を求めたゆえに躓いてしまったのです。このたとえでも言われていますが、御国に入る条件は何でしょう?王さまが王子の婚宴を開きました。救われるための条件は「はい、行きます」と行けば良かったのです。王さまは「何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」と言っただけです。言い換えると「救いを得るために、神さまが全部、整えたので、信じるだけで良い」ということです。その根拠となるみことばがⅠヨハネ410です。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」「なだめの供え物」は英語の聖書では、propitiation「なだめ、和解、贖い」と訳されています。つまり、「キリストが罪のためにささげられたので、神さまが罪に対する怒りをひっこめられた」ということです。このたとえの中で、王さまはどのような準備をしているでしょう?「雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」と言っています。王さまは婚宴のために、雄牛や太った家畜をほふりました。まさしくそれは、イエス・キリストの「なだめの供え物」を象徴しています。そして、ただ来るだけで良いようにしたのです。だけど、それが彼らには気に入らなかったのです。

 パウロはローマ10章で「彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」(ローマ103,4と言っています。神の義というのは、キリストの贖いを信じることによって与えられるものです。一方、自分自身の義を立てるというのは、モーセの律法を行うことによって得ようとする義です。しかし、その義は守っていない人をさばいて排除します。実際、パリサイ人や律法学者は律法を守れない人たちを軽蔑し、排除していました。取税人や遊女たちが神の国に入るのを見て腹をたて、イエス様にねたみを燃やしました。なぜなら、安価な救いを宣べ伝えているように思えたからです。この世の宗教は人間の行いを必要とします。しかし、キリストが宣べ伝える福音は、「神さまが全部準備したので、ただ来るだけで良い」というものです。イエス様は「私がなだめの供え物となりました。何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」と招いておられます。行いではなく、恵みによって救いが得られるのです。

2.異邦人への招き

 イスラエルが躓いたので、異邦人に救いがやって来たというのが新約聖書の考えです。さきほど引用したローマ9章から11章にもそのことが記されています。また、1つ前のたとえでも「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます」とイエス様がおっしゃいました。では、このたとえではどのように語られているのでしょうか?マタイ228-10「そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。」このところから分かるのは、招待しておいた人たちとはイスラエルです。「大通りに行って出会った者」というのは全世界の人たち、異邦人と言えます。また、「良い人でも悪い人でも」というのは、救いの招きは善人とか悪人は関係ないということです。使徒の働きを見ますと、福音がサマリヤ、小アジア、ギリシャ、ローマに伝えられていくのが分かります。西暦4世紀になると、ゲルマン民族がローマに入ってきました。ローマの人たちは彼らを「蛮族」savage tribe「未開の部族」「野蛮な部族」と呼んだのです。でも、その数があまりにも多くて、ヨーロッパ中が支配されてしまいました。ところが、彼らはとても単純で従順であり、キリスト教を受け入れました。マリヤ崇拝とか異教の教えが入ってしまいましたが、それでもキリスト教化されたと言っても過言ではありません。もちろん、その後、暗黒の中世がありますが、それでも福音はヨーロッパに行きわたりました。その後、南北のアメリカ大陸、アジアへと福音が宣べ伝えられました。現在では22億人(総人口の33%)がいると言われています。でも、彼らは本当に救われているのでしょうか?

 このたとえに不可解なことが書かれています。マタイ2211「ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」婚礼に来た人たちの中に、礼服を着ていない者がいました。王様は「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか」と聞きました。この人たちは、通りを歩いていたとき、突然、声をかけられて、入って来ました。あらかじめ招かれていたなら、礼服を着て来るかもしれません。「通りで呼ばれて、やってきたのに、それは酷じゃないですか?」と文句が出そうです。しかし、当時の風習では、一般の人が王様のところに出るとき、失礼のないように衣服が用意されていたようです。また、このような婚礼のときは、入口で礼服が用意されていました。でも、この人はそれを拒否して、そのまま入って席についていました。彼は理由を聞かれても答えませんでした。おそらく彼は、「俺の流儀で何が悪い。せっかく来てやったんだ」という反抗心があったのではないでしょうか?婚宴の招待はだれにも向けられています。しかし、礼服が必要です。では、この礼服とは何なのでしょうか?この礼服は私たちの罪を覆い隠すものです。王なる神さまのもとに出てもさばかれない服です。ローマ3章には「キリストを信じることによって義と認められる」と書いてあります。言い換えると、信仰による「神の義」がその人を覆っているということです。神の義は、キリストを信じるとき、神さまからプレゼントされるものです。ある人たちは、「キリストを着ている」と言います。厳密に言うと、キリストを着ることはできません。「いや、新約聖書に書いてあるでしょう?」と言うかもしれません。エペソ4章とコロサイ3章には「新しい人を着る」と書いてありますが、「キリストを着る」とは書いていません。正しいのは、キリストを信じることによって与えられる「神の義」を私たちは着ているということです。「神の義」を着ているなら、神の前に立ってもさばかれることはありません。これは宇宙服みたいなもので、宇宙のような大気圏外でも生きていられるのです。ハレルヤ!

 私たちは異邦人です。異邦人とは外国人という意味であり、イスラエル以外の人たちのことを言いました。これは約束がなくて救いから漏れているということです。本来、神さまの計画はイスラエルを神の国の祭司として立てて、すべての国民を救うことでした。ところが、ダメになり、イエス様は新しいイスラエル、12弟子を招集したのです。イエス様は彼らを通して、救おうとされたのです。その福音が日本にまで届いて、人数こそ少ないですが、私たちも御国に籍を置く者たちです。だれから福音を聞いて、「はい、それでは行きます」と信じたのです。でも、なかなかすんなりとは信じられなかったのではないでしょうか?ある人は無理やり連れて来られ、またある人は騙されて来たという人もいるでしょう。郡山の斎藤牧師は大学生のとき友人から教会に誘われたそうです。友人はクリスチャンでなくて、「中華街の教会なので、おいしい昼ごはんが食べられるよ」と誘いました。「僕はそれほど飢えていないよ」と断りました。さらに友人は「若くてきれいな女子もいるよ」と言いました。「僕はそんなの興味ないよ」と断りました。でも、次の週、横浜の華僑教会に行っていました。名目は「中国語が勉強できるから」ということでした。彼は大学の中国語学科だったのに、ほとんど話せなかったからです。でも、そのままその教会に通い続け、クリスチャンになったそうです。きっかけは、おいしい昼ごはんなのか、女の子なのか、中国語なのかご本人に確かめないと分かりません。

このところに、「王子の結婚の披露宴」「宴会」と書いてあります。そして、その食事はとても豪華そうであります。しかも、ただであります。なんと、招かれていた人たちが来なくなったのです。昔、ポスターを見たことがあります。白いクロスの上に、お皿とフォークやナイフが並べられています。そのテーブルは前から奥まで先が見えない位長いのです。英語でこのように書いてありました。“Come and dine”この英語の聖歌の直訳です。「あなたはいつでも、イエス様のテーブルでごちそうが食べられるのですよ。大勢を養い、水をぶどう酒に変えた方が、お腹を空かした人に『来て、食せよ』と招いていますよ。」王子の披露宴の招きに応じた人は幸いです。

3.宴会の教会

箴言1515「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。」このところに宴会と書いてあります。クリスチャンは心に楽しみがある人なので、毎日が宴会であるべきです。昔、大川牧師が「楽しくなければ教会でない」とおっしゃって、この箴言1515からメッセージしたことがあります。宴会はだれでも好きじゃないでしょうか?昔、クリスチャンになる前でしたけど、「世の中にこんなに楽しいものがあるのか?」と思いました。でも、25歳でクリスチャンになってから酒を飲むような宴会に出たことがありません。そういえば、北澤姉の結婚式のとき、アリオのレストランを貸し切ってやったことがありました。驚いたのが、教会の姉妹方がビールを何倍もお代わりしている姿を見たことです。私は教会で「酒を飲んではいけない」と言っていません。「酒に酔わないで、むしろ御霊に満たされなさい」とは言っています。ですから、「私は酔っていませんよ。うぃー」と自らおっしゃっているのなら構いません。言いたいことは、教会は宴会のように楽しいところであるべきだということです。なぜなら、罪赦され、救いを得ているからです。また、王子の披露宴の招きに応じて、ご馳走が並んだテーブルに座っているからです。私たちは天国の喜びと豊かさをいつでも味わっているのが標準ではないでしょうか?でも、日本の伝統的な教会はそうではありませんでした。大川牧師は「日本の教会は、暗い、堅い、つまらないの三拍子そろった教会だ」とよくおっしゃいました。先生は中学生の頃、「偽善者ばかりで、教会に火をつけてあげたい」と本気で考えたそうです。みなさんのイメージは、「暗い、堅い、つまらないの三拍子そろった教会」でしょうか?おそらく、亀有教会に属している愛兄弟姉妹は、くれぐれもそのようなことはおっしゃらないでしょう。

私はたまたま大川牧師が牧会しておられる座間キリスト教会で救われたので、他の教会のことがあまり分かりませんでした。でも、昔のことや他の人の話を聞くと、「えー?」と驚くようなことが良くありました。日本はピューリタンの信仰が入って来たので、清貧に甘んずることが美徳とされました。日曜日の礼拝の服装も正装して行きます。ジーパンとかサンダルは絶対だめです。日曜日は旅行もだめ、部活もだめ、洗濯もだめという時代もあったそうです。旧約聖書の安息日はそのような規定がありました。しかし、キリストが復活して以来、毎日が安息日、毎年が安息年になりました。昔の人は、「日曜日は主の日なので、昼だけでなく、夜の礼拝(夕礼拝)も守るんだ」と一日教会にいたそうです。未信者の夫や子どもたちは、主婦不在の家庭だったわけです。私は最初、聖め派の神学校に行ったので、私だけが浮いた存在でした。毎週月曜日夜7時から修養生の祈祷会がありました。その学校は神学生とは言わず、修養生でした。ある学生が「なぜ、修養性と呼ぶのか?それは主よ、主よと叫ぶからです」と私よりも勝る冗談をいう先輩がいました。私は月曜日夜の祈祷会が大嫌いで、できるだけ用事を作って行かないようにしました。ある日、舎監の牧師がⅡコリント9章から「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです」というメッセージをされました。「自分自身が失格者にならないように、自分のからだを打ちたたいて従わせる」とはまさしく「修養」の世界でした。その教団主催の聖会に出ると、「まだ罪はないのか、悔い改めろ」と暗い部屋でたたかれている感じがしました。まるでモグラたたきであります。平日は暗い神学校での学びですが、日曜日は座間キリスト教会で太陽のもとで恵みを受けます。私はその学校では基礎科で終えて、改めて別の神学校に行きました。その学校は聖めとか全く説きませんでしたが、先生方がとても聖められていました。前の神学校は聖めを説くわりには、みんな癖があり、他の教団を裁いていました。あるとき、Ⅱコリント9章の本当の意味を知りました。パウロは熱心なパリサイ人だったので、すぐ律法主義に戻ってしまいます。真面目なので、自分の力でやろうとするのです。でも、パウロは「それは違うんだ、恵みで生きるんだ。恵みで生きるんだ」と自分のからだを打ちたたいて従わせたんだと教えられました。アーメンです。

もし、教会が「暗い、堅い、つまらない」であるなら、世の人たちが教会に来るでしょうか?聖書のしもべたちは「王子の披露宴、盛大な宴会があるから来るように」と人々を招いたのです。人々は「宴会?それもタダ!」と聞いて、集まってきたのです。礼服もちゃんと備えてあるので、普段着で良いのです。そこには山海の珍味が山盛りにテーブルに並べられています。もし、教会が、私たちクリスチャンが、「心に楽しみのある人には毎日が宴会である」というような生き方をしているなら自然に人々が惹きつけられて来るのではないでしょうか?それなのに宗教的な顔をして、「ありのままではいけない」とか、「冗談を言っちゃいけない。静粛に」と言っていたなら、だれも来ません。来ても、暗い人しか集まりません。「私はことばで伝道できません」という人がいるかもしれません。でも、あなたが毎日、喜んでいたなら、人々が「どうしてなんですか?何か良いことでもあったんですか?」と聞くでしょう。そのとき、「イエス様が私を愛しているから」と答えれば良いのです。どうぞ、明るいクリスチャンになりましょう。この間、就任30周年のお祝いをしてくださりありがとうございました。でも、「軽い牧師」というセリフが何度出たでしょうか?正確には「軽い」ではなく、「aかるい牧師」です。英語と同じように、冠詞のaが入ることをお忘れなく。私たちはこの世で生きているので、がっかりしたり失望させられたりすることはあります。でも、すべての罪が赦されて、片足は天国に入って入るのです。神の国が私のところに来て、その豊かさが与えられているのです。パウロがピリピ書でこう命じています。ピリピ44「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」この時、パウロは狭い牢獄の中に閉じ込められていました。決して喜べる状況ではありませんでした。喜べる環境が来たならだれでも喜ぶことができます。でも、そうでないときも喜ぶのです。そうすると、不思議に喜びが湧き上がってくるのです。感情に従わないで、信仰によって喜ぶならば、喜びが湧いてくるのです。ハレルヤ!私たちはいずれ、イエス様と一緒に婚宴の席に着きます。でも、その時はただの列席者ではありません。イエス様の花嫁として、イエス様の隣に座るのです。イエス様と私たちが主役の席に座るのです。そのことを覚えるなら、いつでも喜びが湧いてきます。

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2017年9月 1日 (金)

見捨てられた石 マタイ21:33-46 亀有教会牧師鈴木靖尋

 イエス様は彼らにたとえで話しました。たとえにはいろんな効果があります。その1つは敵対している人たちにたとえで話すことによって、自ら悟らせることができます。二つ目のたとえも、悔い改めようとしない祭司長と民の長老に向けて語られたものです。イエス様はかつて「エルサレムに行って、彼らから多くの苦しみを受け、殺される」と予告しました。彼らはこのたとえが自分たちをさして話していることを気づいて、イエス様を捕えようとしました。でも、群衆を恐れて、それを実行できませんでした。

1.イスラエルの失敗

 33節から39節までは、家の主人が農夫たちにぶどう園を貸して旅にでかけるたとえになっています。家の主人はぶどう園を造り、垣を巡らし、その中の酒ぶねを掘り、やぐらを建てました。全部造った後で、農夫たちに貸しました。所有者は家の主人で、農夫たちは雇われている存在です。ですから、収穫の何割かを主人に差し上げるのが当然です。収穫の時が近づいたので、主人が自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わしました。すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえ、ひとりは袋ただきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打ちました。そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしましたが、やはり同じような扱いをしました。ぶどう園のたとえは、イスラエルの歴史を表しています。主は彼らをエジプトから救い出し、約束のカナンの地を与えました。イスラエルはその地に増え広がりました。しもべたちというのは、神さまから遣わされた預言者です。「収穫の分け前」とは何でしょう?その当時は、収穫の初なり、あるいは何分の一かを神殿に携えてきました。神さまはご自分で食べるのではなく、ささげものをもって、感謝と礼拝をささげることを願っておられます。ところが、イスラエルはカナンの土着の神さまを礼拝し、信仰がおかしくなりました。当然、生活も乱れ、神の戒めも守らなくなりました。神さまはエリヤ、エリシャ、アモス、イザヤ、エレミヤなどの預言者を遣わしました。でも、彼らをことごとく迫害しました。イザヤはのこぎりで引かれたと言われています。やがてイスラエルはアッシリヤとバビロンに滅ぼされました。ユダとベニヤミンという民だけが、バビロンから帰還し、神殿を再建しました。彼らを私たちはユダヤ人と呼んでいますが、イエス様の頃は律法(タルムード)と伝承を中心とした宗教になっていました。エルサレムには神殿があり、特別な行事のとき人々が集まり、犠牲をささげました。エルサレムには祭司長、長老、パリサイ人、サドカイ人がおり、いわばユダヤ教の中心でした。

 突然、バプテスマのヨハネが荒野に現れ、まもなくメシヤがやって来ると預言しました。彼らは荒野に出て行きましたが、ヨハネの言うことを信じませんでした。預言書のとおりナザレからイエス様が現れ、福音を宣べ伝え始めました。病を癒し、奇跡を行ったので、人々は、「この方がメシヤだろう」と信じ始めました。宣教開始から3年程たち、いよいよエルサレムに乗り込んできました。面白くないのは、祭司長、長老、パリサイ人、サドカイ人たちです。せっかく、待ちに待っていたメシヤが現れたのですから、喜ぶべきでしょう?ところが、自分たちの立場や特権が奪われることを恐れ、イエス様を受け入れませんでした。預言の成就、権威ある教え、癒しと奇跡などから生身の人間でないことは確かです。なのに、イエス様を受けないとはどういうことでしょう?初代教会のステパノがペンテコステの後、彼らに向かってこのような説教をしました。使徒751-52「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。」ステパノがこのような説教をしたので、彼らによって石で打ち殺されてしまいました。イエス様がたとえ話で、このように予告しています。マタイ21:37 しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、息子を遣わした。すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。」まさに、このようになったのです。このたとえからも、「財産を自分たちのものにしよう。神さまには返さない」という悪い考えがあります。恐ろしいことに、神の息子、イエス・キリストをエルサレムの外で殺すことになります。

 イエス様はたとえ話を話した直後、彼らに質問しました。マタイ2140-41「この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」彼らはこのたとえが自分たちに向けて語られていることを知りましたが、悔い改めようとしませんでした。むしろ、怒りを燃やして、イエス様を捕えようとしたのです。頭では分かっているのに、イエス様を信じなかったのです。先週もお話ししましたが、頭で信じるのではなく、心で信じるものです。頭と心は35センチくらい離れていますが、一致できません。頭では分かっているけど、心では神さまには従わないということがあるかもしれません。なぜなら、人間は知性では動いていないからです。人間が知性では動いていたなら、とっくに犯罪はこの世からなくなっています。人は覚せい剤が悪いことは、100も承知なんです。でも、やっちゃうのです。盗みは悪いことは、100も承知なんです。でも、やっちゃうのです。スピード・オーバーは悪いことは、100も承知なんです。でも、出しちゃうのです。ユダヤの宗教家たちは、頭ではイエスがメシヤだと分かっていたのです。でも、心で信じようとしませんでした。なぜなら、信じると従わなければならなくなるからです。そうしたら、自分の生活を変えなければなりません。地位や特権がなくなるし、おまんまも食えなくなるかもしれません。宗教が生活の手段になると問題であります。これは私も注意しなければなりません。アーメンです。

 ところで、私は葬儀を伝道集会だと思っています。「人が亡くなったのに、伝道のためにするのか」と非難されるかもしれません。もちろん、故人を偲び、天国での再会を語ります。でも、なんとかこの際、人間の死ということを考えて、解決であるイエス様を信じてもらいたいと福音を語ります。教会にあれだけ求道者が来ることはありません。毎週の礼拝でも新来者はあまり来ません。ところが、葬儀の場合は何十人も、ある場合は100人くらいになります。死はだれにでも来るのですから、「死後はどうなるんだろう」と考えることがあるでしょう。仏教の葬儀では何を言っているか分かりません。でも、教会の場合ははっきり、日本語で語っていますので、内容は分かるはずです。でも、決断するかしないかは全く別です。ある人は頭では分かっているかもしれません。でも、心で信じるということがないのです。お葬式当日は考えるかもしれませんが、次の日になると、日常生活に逆戻りです。そうやって、月日が過ぎ去り、自分の番がやってくるのです。去る74,5日と故板橋松枝姉のご葬儀がありました。会葬者の中に「約30年ぶりだね」という人たちがいました。古い会堂のとき来たことがあるけど、新しくなって初めてだという人もいました。交番で聞いて、別の教会2つも紹介され、やっとたどり着いたという人もいました。10年、20年はあっという間です。体もポンコツになり、「元気?」「大丈夫?」という会話が飛び交います。葬儀は単なるセレモニーではありません。死に打ち勝たれたイエス様を信じるすばらしい機会となります。

 当時の宗教家たちは目の前でイエス様を見ました。お話しを聞きました。ある人はイエス様が病を癒し、奇跡を行うのを目撃したでしょう。イエス様の顔は輝いており、声にも力があったと思います。直接、イエス様とお会いできたのに、なぜ信じることができなかったのでしょう。ステパノは「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち」と言いました。パウロが「文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です」(ローマ229と言っています。割礼とはイスラエル人になるためのしるしであり、肉体の一部を切り捨てることです。それが心の割礼となると、どういう意味でしょうか?肉体の一部ではなく、いのちのすべてを切り捨て、全面的に信じるということです。心で信じるとは、自分のいのちをかけるということです。頭の場合は、「そういう時もあるけど、これは違うかな」と理性に頼ります。心で信じるというのは、「頭で理解できない時があっても、全面的に神さまに従う」ということです。当時のユダヤ人たちは、心で信じて、イエス様に自分たちをゆだねることをしなかったのです。そのため、さらに心が頑なになり、信じることができなくなったのです。これは一種の呪いです。チャンスが来たとき信じようとしないなら、さらに心が頑なになり、最期の時も信じられないのです。イザヤ書にすばらしことばがあります。イザヤ556-7「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」いつでも信じられると思ったら大間違いです。神さまが招き、聖霊様が教えてくれて、はじめて分かるのです。

2.異邦人の特権

 マタイ2140-41「この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」彼らはそのたとえが自分たちをさして語られたことに気づきました。それで、怒りを燃やしました。このたとえの農夫とはイスラエルの人たちです。やがては、神さまから裁きを受け、殺されるということです。このことは、紀元後70年に成就します。ローマ軍が神殿を破壊しユダヤ人を虐殺しました。ユダヤ人は国がなくなり、世界中に離散してしまいました。イエス様は「そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸す」と言われました。別の農夫とは、私たち異邦人です。キリスト教会とも言えます。異邦人である私たちが救われる教会の時代がやってきたのです。アメリカにヴィンヤード・チャーチというのがありますが、まさしくぶどう園の教会です。「きちんと収穫を納める別の農夫たちに貸す」と言われていますが、きちんと収穫を納めているでしょうか?教会では10分の1献金ということが言われますが、ある教会は「それは献金ではなく返金だ、10分の1返金だ」と言っています。私は献金だけだとは思いません。時間や奉仕、礼拝や感謝の心もそうだと思います。きょうこのように私たちが礼拝のために体と時間をささげています。これも「きちんと収穫を納める」行為ではないかと思います。私たちは義務ではなく、特権として受け止めたいと思います。なぜなら、神さまは豊かに報いてくださる、generouslyな神さまだからです。Generouslyというのは、「気前の良い」「物惜しみしない」という意味です。女の子がデザートのいちごを食べていました。仕事から帰ってきたお父さんが「パパにもちょうだい」と言いました。お皿にはあと3個しか残っていませんでした。女の子はパパに2個あげました。パパはどうしたでしょう?後日、いちごを1パック買って来て、彼女にあげたそうです。2個を投資したら、1パック戻ってきました。ハレルヤ!私たちの神さまも同じで、とてもgenerousなお方、気前の良いお方です。

 きょうのメッセージのテーマは「見捨てられた石」です。ぶどう園のたとえが、「見捨てられた石」という話だったからです。マタイ2142イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』まず、私たちは家とは何か、また、どのような家なのかということを考えなければなりません。さばきの預言である44節を見てみたいと思います。「また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」これは、エルサレム神殿が紀元後70年に破壊されることの預言です。イエス様はマタイ24章でも、「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」と預言しました。これはエルサレム神殿が跡形もなく、崩されるということです。でも、イエス様は「この神殿をこわしてみなさい。私は三日でそれを建てよう」(ヨハネ219とおっしゃったことがあり、敵たちもそのことを知っていました。一連のことから考えると、家というのは神殿です。石が積まれたまま残ることのないほどくずされるというのは、エルサレム神殿のことです。ところで神殿を建てるときに最も重要なのは「礎の石」です。口語訳聖書では「隅のかしら石」となっています。英語の聖書ではCornerstoneと書いてあります。ウェブを見たら「建物の2つの辺の角にあって、2つの辺を結び付け、確定させるので、建物の中で、最も重要な位置にあります。建物全体を支える石のことです」と書いてありました。イエス様が引用したのは詩篇11822,23です。似ていますが、イザヤ書2816「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」イザヤ書28章のこのみことばは、使徒の働き411、ローマ933、エペソ220、Ⅰペテロ26などに引用されています。

 どういうことでしょう?イエス様の時代にあったエルサレム神殿はさばきのゆえ崩壊しました。イエス様は壊された神殿を3日で建てると言われましたが、それは教会のことです。教会とは私たちのことで聖霊の宮、神殿であります。イエス様はエルサレムの神殿には全く興味がありませんでした。それよりも、ご自身が礎石となって建てる神の教会が重要でした。エペソ2章後半には、「キリスト・イエスご自身がその礎石です。主にある聖なる宮となるのであり、神の御住まいとなるのです」と書かれています。つまり、私たちの中に神さまが住んでくださるのです。でも、その礎石はイスラエルの人たちに捨てられた石でした。イエス様は彼らのところにやってきました。ところが、彼らはイエス様に躓き、妬みのゆえに殺してしまいました。ぶどう園のたとえのように、あと取りである息子を殺して、財産を手に入れようとしました。「ぶどう園の外に追い出して殺してしまった」とありますが、イエス様はエルサレムの外、ゴルゴタの丘で十字架に付けられました。イエス様は、神に選ばれた約束の民によって、捨てられたのです。ところがどうでしょう?父なる神は、捨てられたつまずきの石を教会の礎石にしたのです。私たちは異邦人であり、選びから漏れていた民でした。イスラエルが躓いたので、救いが私たちのところにやってきたのです。そして、イエス様は私たちの救い主になってくださいました。なんとありがたいことでしょう。新約聖書ばかり読むとありがたみが分かりません。創世記のアブラハムが信仰の父と呼ばれていますが、遠い昔の人です。私は一番最初、東林間のバプテスト教会に行きました。英語がただで勉強できると言われたので、職場の先輩に誘われて行きました。教師がアブラハムを知っているかと英語で聞きました。私は「ああ、アブラハム・リンカーンですね」と答えました。でも、どうして大統領の名前が聖書に書いてあるのかさっぱり分かりませんでした。ある人が「イエス・キリストってアメリカ人だろう」と言いました。なぜなら、横文字だからということです。日本人の多くは、キリスト教がアメリカの宗教であると思っています。そして、日本には日本の宗教、仏教があるだろうと言います。ちなみに仏教はインドで、キリスト教はイスラエルが発祥の地です。

 私たち日本人は躓く前に、全く無知であります。聖書もほとんど読んだことがない日本人がどうやってイエス・キリストに出会うのでしょうか?普通に生きていたら、絶対、クリスチャンにはならないでしょう?どうして、西アジアの端っこの小さいイスラエルの国で始まった宗教を信じなければならないのでしょうか?かなり前になりますが、テレビで京都の歴史のことが紹介されていました。京都では祇園祭りで有名です。鋒の前に美しい錦絵があります。ある絵はリベカがラクダに水を飲ませている絵であり、「イサクの嫁取り」でした。他にイラクのバクダット宮殿、ピラミッドの絵もあります。祇園祭りのルーツは、古代イスラエルのシオン祭りであり、日程も重なっています。聖書の物語がシルクロードをはるばるやってきました。ユダヤ人は躓きましたが、形を変えて日本にやってきたのです。伝道のため聖書はもちろん必要ですが、キリスト教の文化がたくさん入って入ることを伝えて興味を起こさせたら良いです。「目からうろこ」「豚に真珠」「目には目、歯には歯」「スケープゴート」「のど仏(Adams apple)」があります。前にも話しましたが、ある漢字は聖書の物語から来ています。船(ノアの8人)、裸(果実を食べた結果)、義(羊に我)、犠牲(牛と羊を戈で殺してささげる)。でも、私が一番、効果があると思うのは、病の癒しや奇跡です。人はこれを体験すると、福音に対して心が開かれます。これはイエス様と弟子たちが行った最も古い伝道法です。また、聖日礼拝に連れてくると、神さまを体験することができます。この礼拝では、神さまを体験することができます。ハレルヤ!

 普通、宗教と言えば、私たちが神さまのところへ行かなければなりません。きよくなるための行い、お布施、作法、めんどうなことがたくさんあります。「あなたは汚れていて相応しくない。もっと修養が必要だ」と言われるかもしれません。でも、イエス様は神の御座から下界に降りてきてくださいました。人々の病を癒し、たくさん良いことをしたのに、裸にされて十字架で殺されました。本当に人々から捨てられたんです。それだけではなく、神さまからも捨てられました。しかし、それは私たちの罪を贖うためでした。イエス様は選民イスラエルのところに来たけれど、捨てられました。でも、神さまは不思議なことをなさってくださいました。「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった」のです。本来、私たちが神さまから見捨てられていた存在でした。私たち異邦人は、救いから漏れていたのです。なんと、見捨てられていた私たちのところに、見捨てられた石としてイエス様が来られたのです。本来、神であり王の王であるお方が、へりくだって私たちのところに来てくださいました。もちろん、私たちもイエス様を神としてあがめ、うやまいます。でも、私たちのために、どん底まで降りてきて下さったイエス様をあがめるのは当然であります。だれでも、イエス様にあるなら人生の大逆転があります。なぜなら、イエス様ほどん底まで降りた方は歴史上一人もいません。でも、イエス様は陰府の底からよみがえってくださいました。エペソ4章には「高い所に上られたとき、人々に賜物を分け与えられた」と書いてあります。賜物とは霊的賜物であり、私たちがやがて行くパラダイスのことです。主にあって見捨てられた人など一人もいません。イエス様はあなたを救うために来られたからです。

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