« 婚宴のたとえ マタイ22:1-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.9.10 | トップページ | パスカルが出会った神 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.9.24 »

2017年9月15日 (金)

カイザルのものはカイザルに マタイ22:15-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.9.17

 パリサイ人たちは、神政イスラエルを願っていますので、ローマへの貢には大反対であり、屈辱的でした。一方、ヘロデ党の人たちは、ローマにへつらって甘い汁を吸っていたので、ローマへの貢は大賛成でした。普段は仲の悪い2つのグループですが、イエス様をことばの罠にかけるために結託しました。彼らはイエス様を思いっきりほめそやしていますが、それは言い逃れができないためです。

1.カイザルのものはカイザルに

 ここで言われている「納め金」というのは、いわゆる貢であります。他の聖書は「税金」と訳していますので、「税金」で通したいと思います。当時、ローマが世界を支配していましたので、そのような税金が課せられていました。他にローマは強制的に食物、宿舎、馬、助力を提供させることができました。しかし、宗教的にはある程度の自由を与えていました。カイザルというのは、ローマの皇帝であり、シーザーとも言います。もし、イエス様が「カイザルに税金を納めなくて良い」と言うならどうでしょう?ヘロデ党の人たちは「イエスはローマに敵対する者であり、謀反を企てる危険な輩」として訴えるでしょう。もし、イエス様が「カイザルに税金を納めなければならない」と言うならどうでしょう?パリサイ人は「イエスは神政(神が統治する国家)イスラエルを否定するものである」と70人議会に訴えるでしょう。そうなったらメシヤとしての評判はガタ落ちになります。どう答えても不利になります。これは、イエス様を陥れるため、周到に用意されたことばの罠でした。マタイ2218-22 イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。

 彼らは「これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った」とありますから、よっぽどの理解力です。私たちの中には「え、何のことなの?」と理解できない人もいるでしょう。そのために説教者がおります。「カイザルのものはカイザルに返しなさい」とはどういう意味でしょう。イエス様は「ローマに納めるデナリ銀貨を私に見せなさい」と言いました。デナリ銀貨にはカイザルの肖像と銘が刻印されていました。当時の銀貨を見ると、皇帝の横顔とカイザル〇〇という名前が刻まれていました。刻印によって、だれがこの貨幣の価値を保証しているか分かります。10円硬貨を見ると「日本国」と刻まれており、日本政府が保証しているということです。イエス様はローマに治めるデナリ銀貨を提示させて、「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と言いました。それは、ローマのカイザルに負っているものがあるから、それを負担しろという意味です。当時は「パックス・ローマナ」と言って、武力に基づいた平和でした。民主的ではありませんでしたが、ローマのもとで平和が保たれていました。山賊や盗賊が一掃され、ローマの街道も整備され、どこへでも旅することができました。使徒たちが安全に、世界中に福音を宣べ伝えに行くことができたのは、そのおかげであります。紀元前は、戦争に負けたら奴隷になるしかありませんでした。しかし、ローマは比較的な自由を与え、ある国を同盟国にまでしました。ですから、当時のイスラエルは植民地よりもかなりましな方でした。でも、ユダヤ人はとても頑固で反抗的で、ローマ総督の頭痛の種でした。だから、ヘロデ王という王様を置いて、やんわりと支配しようとしたのです。そういう意味で、ローマへの貢は当時では、当然の義務になっていました。

 私たちがもし、「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と言われたらどう適用できるでしょうか?日本は民主国家であり、国民の主権が憲法でうたわれています。そして、納税の義務、法律を守る義務が日本の一国民として課せられています。私たちが治める税金はおもに所得税と住民税ですが、他に固定資産税や業務税があります。クリスチャンであっても、これらの税金を納めなければなりません。また、クリスチャンであっても、日本に住んでいる限りは刑法、民法、様々な条例を守らなければなりません。たとえば、秋葉原では通りでたばこを吸っていると2,000円の罰金が科せられるようです。私も車を運転しますが、違反切符を切られると反則金を支払う羽目になります。私たちは天国の国民でありますが、同時にこの地上の国の国民であります。ですから、納税や法律を守るという義務を負わされているのです。でも、時代によってとても判断が難しいこともあります。戦争への徴兵はどうでしょう?アメリカの教会のある宗派は徴兵制度に反対したために、ものすごく迫害されました。日本でも、第二次世界大戦中は、政府によって神社参拝や天皇礼拝が強制させられました。そういう意味で、はっきり結論が出せないときがあります。極端になりますが、正義に立つ完璧な国家や政府はこの地上にはありえません。しかし、無政府状態よりは増しだと言えます。私たちはテレビ等で、中東やアフリカの内戦の国を見ることがあります。人命が軽視され、何百万人もの難民があふれています。ですから、悪魔的な国家にならない限りは、政府があって法律があるということは良いことなのです。ベストは望めないかもしれませんが、ベターになるように私たちはクリスチャンとして政治に参加する必要があります。選挙に行かないクリスチャンもいますが、尊い一票という義務を果たすべきです。そうしないと、どこかの宗教団体に全部、持っていかれてしまいます。

 イエス様は「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と言われました。私たちクリスチャンは天国民ではありますが、日本という国で暮らしています。神さまは日本という国を造られ、私たちを日本人として誕生させました。そういう意味では、この日本を愛し、一市民としての義務を喜んで果たすべきなのです。内村鑑三は「私は2つのJを愛する」と言いました。1つはJesus Christ、もう1つはJapanです。私たちは神さまの一般恩寵として、平和な国が与えられていることを感謝したいと思います。

2.神のものは神に

 第一の「カイザルのものはカイザルに」は、中学の社会科でも理解できる内容でした。しかし、第二の「神のものは神に」は、まことの神を信じていない日本人には理解できない内容でしょう。当時のパリサイ人やヘロデ党は、イエス様の答えに驚嘆しました。でも、私たち日本人、特に教会に来ていない人は首をかしげてしまう内容です。「何か、神さまに負うべきものがあるのでしょうか?神さまにはお世話になっていませんよ」と答えるでしょう。実は第一と第二が合わさっているから、名言になっているのです。イエス様はカイザルのものと神のものをパラレルにして、大切な真理を教えようとしたからです。では、なぜ、イエス様の答えで人々は驚嘆したのでしょうか?ローマのデナリ銀貨には、カイザルの肖像、カイザルの銘が刻まれていました。だから、たとえユダヤ人であってもカイザルに負うべきものがあるということでした。次にデナリ銀貨と比べられるのが私たち人間であります。創世記には人間の創造について記されています。創世記127「神は人をご自身のかたちとして創造された」とあります。英語の聖書には、So God created man in His own image.となっています。肖像も英語ではimageであり、かたちもimageであります。つまり人間には神さまのイメージが刻まれているということです。昔、『十戒』という映画がありました。イスラエルの民がエジプトで奴隷生活を強いられていました。イスラエルの民の一人が、過労のためにレンガ造りの沼地で倒れました。すかさず、エジプトの監督から鞭が当てられました。鞭打たれた老人が「オレたちは奴隷ではない、神のイメージに造られた存在だ」と言い返しました。一人ひとり神の刻印が押されています。ですから、私たちの所有者は神さまであり、神さまが一人ひとりの価値を保証しているということです。

 自覚しているかどうかわかりませんが、少なくとも私たちは2つの面で神さまに負っています。1つは神さまに造っていただいた、この世に誕生させていただいたということです。「いや、私は両親から生まれたんだ」と言うかもしれません。でも、ダビデは詩篇139篇で「主が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」と言っています。学校では「人間はアメーバーからだんだん進化したんだ」と教えています。しかし、「人間は神さまによって創造された」と聖書から教えたらどうでしょう?だれにでも、生きる目的があり、だれにでも生きる価値があるということが分かるでしょう。道徳の時間で「いのちの尊さ」を改めて教える必要はありません。聖書の神さまは全能であり永遠で、月、星、太陽、地球を造りました。大地と海を分け、海には魚を泳がせ、陸には植物を生えさせ、動物を作りました。すべての環境が整ってから、人間を創って住まわせました。神さまは人間がこの地を治めるように命じましたが、堕落してしまいました。そのため、罪と死が人間を支配し、天災や災害が起こるようになりました。それでも神さまが造られたこの世界は一般恩寵に満ちています。空気、水、太陽の光、地下資源、自然界の動植物は神さまが私たちに与えたものです。それぞれ命が与えられ、男であること、あるいは女であること、本来はすばらしいことなのです。うまくいかないのは、創造主なる神から離れているからです。もし、キリストを信じて神さまと和解したなら、人生を享受し、寿命を全うできるでしょう。

 もう1つはクリスチャンであるならば、当然知っていることです。それはキリストの贖いよる救いということです。元来、キリストは信じていない人のためにも十字架で死なれました。キリストは罪のための代価を払ってくださいました。クリスチャンとは「それは私のためでした」と救いを受け取った人のことであります。何か良いことをしたとか、功績を積んだということでは全くありません。神さまがキリストにあって用意された救いをいただいたに過ぎないからです。でも、すばらしい特権が与えられました。すべての罪が赦され、神の前で義とされました。永遠のいのちが与えられ、御国に住まうことができるようになりました。私たちは神の子であり、王子、王女です。父なる神さまのすべてのものを相続することができます。「神のものは神に」というとき、私たちクリスチャンは滅びから救いに入れられたという特別恩寵が基盤にあります。神さまに対して、負うべきものがあるということです。しかし、ここで問題が生じます。教会という概念が入ると、神さまに対する義務みたいになります。税金とは言いませんが、十分の一献金をはじめ様々な捧げものがあります。法律ではありませんが、聖書を読み、礼拝をささげ、奉仕をし、伝道をすること。神と隣人を愛し、神さまの戒めを守ること。これらは信仰者としての義務なのでしょうか?キリスト教はヨーロッパで栄えました。ある国は国教会であり、宗教税が課せられています。しかし、そこから自由教会が生まれました。信じた人たちによって、教会を作るということです。そうなるとどうでしょう?私たちの献金で教会と牧師を支えるという考えになります。献金は神さまにささげると言いながら、教会の運営のためささげるのです。そして教会は、「十分の一献金は教会員としての義務である」と洗礼を受けた人に教育するでしょう。

 しかし、「神のものは神に」という意味はそうではありません。私たちは教会にささげるのではなく、神さまにささげるのです。なぜなら、神さまがすべての根源者だからです。神さまが私たちを祝福してくださるので、教会の運営や牧師給が払えるのです。正しくは私たちの教会ではなく、神さまの教会であり、キリストご自身がお建てになるのです。くれぐれも献金を、教会をささえる会費のように考えないでください。十分の一献金のことは旧約聖書のマラキ書に書かれています。新約の恵みを忘れると律法や義務になりますが、旧約であっても真理が語られています。マラキ310「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」とあります。宝物倉は神さまを礼拝している神殿の隣にあります。そして、ささげたら、「天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ」と約束しています。教会がささげた人に注ぐのではありません。報いとして神さまご自身が注ぐのです。イエス様は「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ64と約束されました。私たちの献金は神さまに対してものであり、神の国への投資です。「献金は義務ではなく、恵みであり特権だ」ということを覚えたいと思います。

3.終末におけるクリスチャン

 適用として、世の終わりに住む私たちには2つの課題があります。第一はカイザルよりも神のものが大切だということです。イエス様が教えた頃のローマは宗教的な自由を与えていました。ところが、使徒パウロの時代になるとだんだん皇帝礼拝が盛んになりました。ヤコブはヘロデによって殺されましたが、ヨハネを除く使徒たちは殉教しました。ヨハネの黙示録はローマが悪魔化したときに書かれたものです。世の終わりにも、反キリストや偽預言者が起こり、迫害が増すでしょう。私たちは世の終わりに住んでいます。終末論にはいろんな解釈があって、単純ではありません。端的に述べるならば、今後、7年間の患難期に突入することになります。前半の3年半は比較的穏やかですが、後半の3年半は反キリストが猛威を振るい、大患難のときとなります。人々は命がけで信じなければなりません。でも、迫害がものすごく強いので、背教者も増えるでしょう。パウロは穏やかなとき、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。…彼は無意味に剣を帯びてはいない。彼は神のしもべである」(ローマ131-5と言っています。ところが、黙示録13章になると、政府が悪魔化し、獣を拝むことを強要します。私たちは反キリストに従ってはいけません。命をかけて抵抗しなければなりません。問題は私たち教会がそのとき存在しているかどうかです。20世紀、アメリカで福音派が起こりました。聖書の福音に立ち返るすばらしいリバイバルでした。ところが、彼らは「教会は患難が来る直前に天に引き挙げられる」と教えました。つまり、苦難や迫害を恐れなくて良いという便利な教えです。Ⅰテサロニケ5章には「眠っていないで、目をさましていなさい」と書かれています。ですから、「自分は洗礼を受けているから自動的に天に引き上げられる」と思わないでください。カイザルが神のものを要求するときが来たら、要注意です。私たちは命がけで信仰を守る必要があるということです。

黙示録210「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」とあります。私の家内(京子さん)が洗礼を受けたとき、本をプレゼントされたそうです。その裏表紙に「受洗おめでとう。死に至るまで忠実でありなさい。大川従道」と書いてあったそうです。きょう洗礼を受けた人に、「死に至るまで忠実でありなさい」というのはキツイのではないでしょうか?でも、京子さんは「ああ、そうなんだ。そうします」とそのみことばを受け止めたそうです。洗礼を受けても半分は教会を去ってしまいます。その人たちの全部が信仰を捨てたとは思いませんが、「いのちの冠」はいただけないと思います。世の終わり、カイザルと神との緊張関係が高まるでしょう。私たちはカイザルよりも、神のものをより大事にしていく必要があるということです。

もう1つの課題は、積極的にカイザルのものに関与していくということです。先ほど、20世紀、アメリカで起った福音派の終末論についてお話ししました。教会には世の終わりになるとこの世が乱れてくるので、できるだけこの世とは接しないという考えが生まれます。そして、やがて来る御国、千年王国にすべての希望を置こうとします。そうすると、この世の人生はおまけになり、修道院のような厭世的な生活を送るようになります。確かに、世の終わりは人々の愛が冷え、悪いことが起こります。しかし、クリスチャンが「カイザルのもの」を放棄し、神さまのものだけに固執しようとするのは神さまのみこころではありません。イエス様は「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように祈れ」とお命じになられました。「主の祈り」はイエス様の祈りではなく、イエス様に従う弟子たちに対するものです。「主の御名をあがめるように」とはこの世の人たちがイエス様を信じて、神さまと和解するようにということです。これは世の終わりに対する伝道のことを指しています。その次の「御国が来ますように」とは、この地に神のご支配が来るようにということです。ビルジョンソンという人は、「イエス様の時から、神の国がこの世にinvade侵入している」と言いました。つまり、政治、ビジネス、芸術、教育、医療、あらゆる世界に神の支配が来るようにということです。これは祈るだけではなく、それぞれの場所にクリスチャンとして遣わされるということです。イエス様は「あなたがたは、地の塩です。あなたがたは、世界の光です」と言われました。塩はこの世の腐敗を留めるという働きがあります。光は神さまの真理といのちを現わしていくということです。この世はますます暗くなるので、たとえ小さな光であっても良く目立つことでしょう。「みこころが天で行われるように地でも行われますように」とは、神の義とあわれみがなされるようにということです。

イスラエルの民がモーセとアロンに逆らいました、そうすると、主の前から激しい怒りが出て来て、神罰がはじまりました。このことは民数記16章に記されています。人々がどんどん死んでいきました。アロンはモーセが命じたように、香をたいた火皿を取って集会の真ん中に走って行きました。民数記1648「彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。」とあります。つまり、香をたいているアロンが立ったところから、死罰が止まったということです。アロンは香をたいて、民たちの贖いをしたからです。私たちも、罪と死が支配するカイザルの世界に遣わされています。私たちは手ぶらではなく、神のものを持っているのです。私たちがそこで祈り、福音を語るならば、神の国がもたらされます。確かに言えることは、私たちはこの世に違いをもたらす者として遣わされています。ですから、世の終わりの時代に住むクリスチャンは、「この世は汚れているから離れて生きる」と言うのはみこころではありません。もちろん、一緒にできない事柄もあります。しかし、私たちは神の国を背負っている大使です。私たちの背後には、神の国というものすごいバックがついています。教会は御国の大使館であり、私たちひとり一人は大使です。日本にもいろんな国の大使館があります。アメリカ大使館のように超一等地に豪華な建物もあります。しかし、あまり知られていない国の小さな大使館もあります。問題は大使館の大きさや豪華さにはよりません。その国を代表しているということが重要なのです。私たちの教会もそんなに大きくなくても、御国の大使館です。あなたも、あなたも、御国の大使です。私たちはこの世に違いをもたらす者として遣わされていることをお忘れなく。

|

« 婚宴のたとえ マタイ22:1-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.9.10 | トップページ | パスカルが出会った神 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.9.24 »