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2017年9月 8日 (金)

婚宴のたとえ マタイ22:1-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.9.10

 イエス様はエルサレムにおいて立て続けにたとえ話を語られました。その対象は、祭司長、民の長老たち、そしてパリサイ人たちでした。彼らはユダヤ教の指導者であり、イエス様に反感をいだいていました。そのため、イエス様は遠回しで彼らに教えるために、たとえで話されたのです。このたとえの、王は神さまであり、王子はイエス様、招待を受けていた人たちというのはイスラエルです。その当時はユダヤ人と呼ばれていました。

1.拒絶したイスラエル

 イエス様は「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます」と語り出しました。披露宴は英語の聖書ではwedding banquetとなっています。4節には「宴会」となっていますので、ごちそうが並べられた大宴会でありました。王様はあらかじめ招待状を出していました。日時が迫ってきたので、確認のために、しもべたちを遣わしました。しかし、彼らは来たがりませんでした。J.Bフィリップスは「来るのを拒んだ」と訳しています。知っていたのに行こうとしなかったのです。王様は、直前になって、別のしもべたちを遣わしました。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」と申し伝えました。合計3度、招いたということです。でも、彼らはどうしたでしょう?5-6節「ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。」何ということでしょう。いつでもできるような畑仕事や商売にでかけました。ルカ福音書にも似たような話があります。「牛を買ったので見なければならない」とか「結婚したので行くことができない」と言い訳をしています。王子の婚宴に行くことは、優先順位の中に入っていませんでした。急用があった訳ではなく故意に行かなかったのです。イエスさまがメシヤとして来られ、御国の福音を宣べ伝えました。しかし、ユダヤ教の指導者たちは、神の国の招きを受け入れることをしませんでした。なぜでしょう?自分たちの立場を失うからです。あるいは、自分たちの方法とは違うと思ったのかもしれません。なぜなら、律法と伝統を軽んじているように思えたからです。

 ここで言われている「しもべたち」というのは預言者たちでしょう。旧約聖書からイエス様の時まで多くの預言者が遣わされました。でも、彼らは神さまに立ち返ろうとしませんでした。それだけではありません、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまいました。最後の預言者と呼ばれたバプテスマのヨハネも殺されました。王様はどうするでしょう?7節「王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。」このことは、紀元70年に起りました。ローマによってエルサレムが滅ぼされました。神殿が完全に破壊され、ユダヤ人たちは殺害され、生き残ったユダヤ人は国外に逃げました。たとえに「兵隊」とありますが、神さまがローマの軍隊を用いたというように解釈できます。前のぶどう園のたとえでも、同じことが言われていました。イエス様がエルサレムに乗り込んで、このようなことをおっしゃったら反感を買うのは必至です。でも、ご自分が彼らによって殺されるのをご存じだったので、覚悟の上であったと思います。

 使徒パウロはローマ11章でイスラエルは「不信仰によって切り落とされた」と言っています。不信仰というのは、「あえて信じない」という含みがあります。イスラエルは神によって選ばれた民でありました。だから、それが高慢になったのです。また、律法が与えられ、神さまに対する知識においては格別でした。イエス様の頃、パリサイ人や律法学者たちは、この律法を学び、厳格に守っていました。でも、イエス様が宣べ伝える福音は、行ないではなく恵みでありました。しかも、「ナザレの田舎から急に出てきた、大工のせがれが何を言うんだ。こっちが正統だ」という自負もあったのでしょう。彼らは律法による義を求めたゆえに躓いてしまったのです。このたとえでも言われていますが、御国に入る条件は何でしょう?王さまが王子の婚宴を開きました。救われるための条件は「はい、行きます」と行けば良かったのです。王さまは「何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」と言っただけです。言い換えると「救いを得るために、神さまが全部、整えたので、信じるだけで良い」ということです。その根拠となるみことばがⅠヨハネ410です。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」「なだめの供え物」は英語の聖書では、propitiation「なだめ、和解、贖い」と訳されています。つまり、「キリストが罪のためにささげられたので、神さまが罪に対する怒りをひっこめられた」ということです。このたとえの中で、王さまはどのような準備をしているでしょう?「雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」と言っています。王さまは婚宴のために、雄牛や太った家畜をほふりました。まさしくそれは、イエス・キリストの「なだめの供え物」を象徴しています。そして、ただ来るだけで良いようにしたのです。だけど、それが彼らには気に入らなかったのです。

 パウロはローマ10章で「彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」(ローマ103,4と言っています。神の義というのは、キリストの贖いを信じることによって与えられるものです。一方、自分自身の義を立てるというのは、モーセの律法を行うことによって得ようとする義です。しかし、その義は守っていない人をさばいて排除します。実際、パリサイ人や律法学者は律法を守れない人たちを軽蔑し、排除していました。取税人や遊女たちが神の国に入るのを見て腹をたて、イエス様にねたみを燃やしました。なぜなら、安価な救いを宣べ伝えているように思えたからです。この世の宗教は人間の行いを必要とします。しかし、キリストが宣べ伝える福音は、「神さまが全部準備したので、ただ来るだけで良い」というものです。イエス様は「私がなだめの供え物となりました。何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」と招いておられます。行いではなく、恵みによって救いが得られるのです。

2.異邦人への招き

 イスラエルが躓いたので、異邦人に救いがやって来たというのが新約聖書の考えです。さきほど引用したローマ9章から11章にもそのことが記されています。また、1つ前のたとえでも「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます」とイエス様がおっしゃいました。では、このたとえではどのように語られているのでしょうか?マタイ228-10「そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。」このところから分かるのは、招待しておいた人たちとはイスラエルです。「大通りに行って出会った者」というのは全世界の人たち、異邦人と言えます。また、「良い人でも悪い人でも」というのは、救いの招きは善人とか悪人は関係ないということです。使徒の働きを見ますと、福音がサマリヤ、小アジア、ギリシャ、ローマに伝えられていくのが分かります。西暦4世紀になると、ゲルマン民族がローマに入ってきました。ローマの人たちは彼らを「蛮族」savage tribe「未開の部族」「野蛮な部族」と呼んだのです。でも、その数があまりにも多くて、ヨーロッパ中が支配されてしまいました。ところが、彼らはとても単純で従順であり、キリスト教を受け入れました。マリヤ崇拝とか異教の教えが入ってしまいましたが、それでもキリスト教化されたと言っても過言ではありません。もちろん、その後、暗黒の中世がありますが、それでも福音はヨーロッパに行きわたりました。その後、南北のアメリカ大陸、アジアへと福音が宣べ伝えられました。現在では22億人(総人口の33%)がいると言われています。でも、彼らは本当に救われているのでしょうか?

 このたとえに不可解なことが書かれています。マタイ2211「ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」婚礼に来た人たちの中に、礼服を着ていない者がいました。王様は「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか」と聞きました。この人たちは、通りを歩いていたとき、突然、声をかけられて、入って来ました。あらかじめ招かれていたなら、礼服を着て来るかもしれません。「通りで呼ばれて、やってきたのに、それは酷じゃないですか?」と文句が出そうです。しかし、当時の風習では、一般の人が王様のところに出るとき、失礼のないように衣服が用意されていたようです。また、このような婚礼のときは、入口で礼服が用意されていました。でも、この人はそれを拒否して、そのまま入って席についていました。彼は理由を聞かれても答えませんでした。おそらく彼は、「俺の流儀で何が悪い。せっかく来てやったんだ」という反抗心があったのではないでしょうか?婚宴の招待はだれにも向けられています。しかし、礼服が必要です。では、この礼服とは何なのでしょうか?この礼服は私たちの罪を覆い隠すものです。王なる神さまのもとに出てもさばかれない服です。ローマ3章には「キリストを信じることによって義と認められる」と書いてあります。言い換えると、信仰による「神の義」がその人を覆っているということです。神の義は、キリストを信じるとき、神さまからプレゼントされるものです。ある人たちは、「キリストを着ている」と言います。厳密に言うと、キリストを着ることはできません。「いや、新約聖書に書いてあるでしょう?」と言うかもしれません。エペソ4章とコロサイ3章には「新しい人を着る」と書いてありますが、「キリストを着る」とは書いていません。正しいのは、キリストを信じることによって与えられる「神の義」を私たちは着ているということです。「神の義」を着ているなら、神の前に立ってもさばかれることはありません。これは宇宙服みたいなもので、宇宙のような大気圏外でも生きていられるのです。ハレルヤ!

 私たちは異邦人です。異邦人とは外国人という意味であり、イスラエル以外の人たちのことを言いました。これは約束がなくて救いから漏れているということです。本来、神さまの計画はイスラエルを神の国の祭司として立てて、すべての国民を救うことでした。ところが、ダメになり、イエス様は新しいイスラエル、12弟子を招集したのです。イエス様は彼らを通して、救おうとされたのです。その福音が日本にまで届いて、人数こそ少ないですが、私たちも御国に籍を置く者たちです。だれから福音を聞いて、「はい、それでは行きます」と信じたのです。でも、なかなかすんなりとは信じられなかったのではないでしょうか?ある人は無理やり連れて来られ、またある人は騙されて来たという人もいるでしょう。郡山の斎藤牧師は大学生のとき友人から教会に誘われたそうです。友人はクリスチャンでなくて、「中華街の教会なので、おいしい昼ごはんが食べられるよ」と誘いました。「僕はそれほど飢えていないよ」と断りました。さらに友人は「若くてきれいな女子もいるよ」と言いました。「僕はそんなの興味ないよ」と断りました。でも、次の週、横浜の華僑教会に行っていました。名目は「中国語が勉強できるから」ということでした。彼は大学の中国語学科だったのに、ほとんど話せなかったからです。でも、そのままその教会に通い続け、クリスチャンになったそうです。きっかけは、おいしい昼ごはんなのか、女の子なのか、中国語なのかご本人に確かめないと分かりません。

このところに、「王子の結婚の披露宴」「宴会」と書いてあります。そして、その食事はとても豪華そうであります。しかも、ただであります。なんと、招かれていた人たちが来なくなったのです。昔、ポスターを見たことがあります。白いクロスの上に、お皿とフォークやナイフが並べられています。そのテーブルは前から奥まで先が見えない位長いのです。英語でこのように書いてありました。“Come and dine”この英語の聖歌の直訳です。「あなたはいつでも、イエス様のテーブルでごちそうが食べられるのですよ。大勢を養い、水をぶどう酒に変えた方が、お腹を空かした人に『来て、食せよ』と招いていますよ。」王子の披露宴の招きに応じた人は幸いです。

3.宴会の教会

箴言1515「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。」このところに宴会と書いてあります。クリスチャンは心に楽しみがある人なので、毎日が宴会であるべきです。昔、大川牧師が「楽しくなければ教会でない」とおっしゃって、この箴言1515からメッセージしたことがあります。宴会はだれでも好きじゃないでしょうか?昔、クリスチャンになる前でしたけど、「世の中にこんなに楽しいものがあるのか?」と思いました。でも、25歳でクリスチャンになってから酒を飲むような宴会に出たことがありません。そういえば、北澤姉の結婚式のとき、アリオのレストランを貸し切ってやったことがありました。驚いたのが、教会の姉妹方がビールを何倍もお代わりしている姿を見たことです。私は教会で「酒を飲んではいけない」と言っていません。「酒に酔わないで、むしろ御霊に満たされなさい」とは言っています。ですから、「私は酔っていませんよ。うぃー」と自らおっしゃっているのなら構いません。言いたいことは、教会は宴会のように楽しいところであるべきだということです。なぜなら、罪赦され、救いを得ているからです。また、王子の披露宴の招きに応じて、ご馳走が並んだテーブルに座っているからです。私たちは天国の喜びと豊かさをいつでも味わっているのが標準ではないでしょうか?でも、日本の伝統的な教会はそうではありませんでした。大川牧師は「日本の教会は、暗い、堅い、つまらないの三拍子そろった教会だ」とよくおっしゃいました。先生は中学生の頃、「偽善者ばかりで、教会に火をつけてあげたい」と本気で考えたそうです。みなさんのイメージは、「暗い、堅い、つまらないの三拍子そろった教会」でしょうか?おそらく、亀有教会に属している愛兄弟姉妹は、くれぐれもそのようなことはおっしゃらないでしょう。

私はたまたま大川牧師が牧会しておられる座間キリスト教会で救われたので、他の教会のことがあまり分かりませんでした。でも、昔のことや他の人の話を聞くと、「えー?」と驚くようなことが良くありました。日本はピューリタンの信仰が入って来たので、清貧に甘んずることが美徳とされました。日曜日の礼拝の服装も正装して行きます。ジーパンとかサンダルは絶対だめです。日曜日は旅行もだめ、部活もだめ、洗濯もだめという時代もあったそうです。旧約聖書の安息日はそのような規定がありました。しかし、キリストが復活して以来、毎日が安息日、毎年が安息年になりました。昔の人は、「日曜日は主の日なので、昼だけでなく、夜の礼拝(夕礼拝)も守るんだ」と一日教会にいたそうです。未信者の夫や子どもたちは、主婦不在の家庭だったわけです。私は最初、聖め派の神学校に行ったので、私だけが浮いた存在でした。毎週月曜日夜7時から修養生の祈祷会がありました。その学校は神学生とは言わず、修養生でした。ある学生が「なぜ、修養性と呼ぶのか?それは主よ、主よと叫ぶからです」と私よりも勝る冗談をいう先輩がいました。私は月曜日夜の祈祷会が大嫌いで、できるだけ用事を作って行かないようにしました。ある日、舎監の牧師がⅡコリント9章から「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです」というメッセージをされました。「自分自身が失格者にならないように、自分のからだを打ちたたいて従わせる」とはまさしく「修養」の世界でした。その教団主催の聖会に出ると、「まだ罪はないのか、悔い改めろ」と暗い部屋でたたかれている感じがしました。まるでモグラたたきであります。平日は暗い神学校での学びですが、日曜日は座間キリスト教会で太陽のもとで恵みを受けます。私はその学校では基礎科で終えて、改めて別の神学校に行きました。その学校は聖めとか全く説きませんでしたが、先生方がとても聖められていました。前の神学校は聖めを説くわりには、みんな癖があり、他の教団を裁いていました。あるとき、Ⅱコリント9章の本当の意味を知りました。パウロは熱心なパリサイ人だったので、すぐ律法主義に戻ってしまいます。真面目なので、自分の力でやろうとするのです。でも、パウロは「それは違うんだ、恵みで生きるんだ。恵みで生きるんだ」と自分のからだを打ちたたいて従わせたんだと教えられました。アーメンです。

もし、教会が「暗い、堅い、つまらない」であるなら、世の人たちが教会に来るでしょうか?聖書のしもべたちは「王子の披露宴、盛大な宴会があるから来るように」と人々を招いたのです。人々は「宴会?それもタダ!」と聞いて、集まってきたのです。礼服もちゃんと備えてあるので、普段着で良いのです。そこには山海の珍味が山盛りにテーブルに並べられています。もし、教会が、私たちクリスチャンが、「心に楽しみのある人には毎日が宴会である」というような生き方をしているなら自然に人々が惹きつけられて来るのではないでしょうか?それなのに宗教的な顔をして、「ありのままではいけない」とか、「冗談を言っちゃいけない。静粛に」と言っていたなら、だれも来ません。来ても、暗い人しか集まりません。「私はことばで伝道できません」という人がいるかもしれません。でも、あなたが毎日、喜んでいたなら、人々が「どうしてなんですか?何か良いことでもあったんですか?」と聞くでしょう。そのとき、「イエス様が私を愛しているから」と答えれば良いのです。どうぞ、明るいクリスチャンになりましょう。この間、就任30周年のお祝いをしてくださりありがとうございました。でも、「軽い牧師」というセリフが何度出たでしょうか?正確には「軽い」ではなく、「aかるい牧師」です。英語と同じように、冠詞のaが入ることをお忘れなく。私たちはこの世で生きているので、がっかりしたり失望させられたりすることはあります。でも、すべての罪が赦されて、片足は天国に入って入るのです。神の国が私のところに来て、その豊かさが与えられているのです。パウロがピリピ書でこう命じています。ピリピ44「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」この時、パウロは狭い牢獄の中に閉じ込められていました。決して喜べる状況ではありませんでした。喜べる環境が来たならだれでも喜ぶことができます。でも、そうでないときも喜ぶのです。そうすると、不思議に喜びが湧き上がってくるのです。感情に従わないで、信仰によって喜ぶならば、喜びが湧いてくるのです。ハレルヤ!私たちはいずれ、イエス様と一緒に婚宴の席に着きます。でも、その時はただの列席者ではありません。イエス様の花嫁として、イエス様の隣に座るのです。イエス様と私たちが主役の席に座るのです。そのことを覚えるなら、いつでも喜びが湧いてきます。

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