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2017年9月 1日 (金)

見捨てられた石 マタイ21:33-46 亀有教会牧師鈴木靖尋

 イエス様は彼らにたとえで話しました。たとえにはいろんな効果があります。その1つは敵対している人たちにたとえで話すことによって、自ら悟らせることができます。二つ目のたとえも、悔い改めようとしない祭司長と民の長老に向けて語られたものです。イエス様はかつて「エルサレムに行って、彼らから多くの苦しみを受け、殺される」と予告しました。彼らはこのたとえが自分たちをさして話していることを気づいて、イエス様を捕えようとしました。でも、群衆を恐れて、それを実行できませんでした。

1.イスラエルの失敗

 33節から39節までは、家の主人が農夫たちにぶどう園を貸して旅にでかけるたとえになっています。家の主人はぶどう園を造り、垣を巡らし、その中の酒ぶねを掘り、やぐらを建てました。全部造った後で、農夫たちに貸しました。所有者は家の主人で、農夫たちは雇われている存在です。ですから、収穫の何割かを主人に差し上げるのが当然です。収穫の時が近づいたので、主人が自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わしました。すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえ、ひとりは袋ただきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打ちました。そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしましたが、やはり同じような扱いをしました。ぶどう園のたとえは、イスラエルの歴史を表しています。主は彼らをエジプトから救い出し、約束のカナンの地を与えました。イスラエルはその地に増え広がりました。しもべたちというのは、神さまから遣わされた預言者です。「収穫の分け前」とは何でしょう?その当時は、収穫の初なり、あるいは何分の一かを神殿に携えてきました。神さまはご自分で食べるのではなく、ささげものをもって、感謝と礼拝をささげることを願っておられます。ところが、イスラエルはカナンの土着の神さまを礼拝し、信仰がおかしくなりました。当然、生活も乱れ、神の戒めも守らなくなりました。神さまはエリヤ、エリシャ、アモス、イザヤ、エレミヤなどの預言者を遣わしました。でも、彼らをことごとく迫害しました。イザヤはのこぎりで引かれたと言われています。やがてイスラエルはアッシリヤとバビロンに滅ぼされました。ユダとベニヤミンという民だけが、バビロンから帰還し、神殿を再建しました。彼らを私たちはユダヤ人と呼んでいますが、イエス様の頃は律法(タルムード)と伝承を中心とした宗教になっていました。エルサレムには神殿があり、特別な行事のとき人々が集まり、犠牲をささげました。エルサレムには祭司長、長老、パリサイ人、サドカイ人がおり、いわばユダヤ教の中心でした。

 突然、バプテスマのヨハネが荒野に現れ、まもなくメシヤがやって来ると預言しました。彼らは荒野に出て行きましたが、ヨハネの言うことを信じませんでした。預言書のとおりナザレからイエス様が現れ、福音を宣べ伝え始めました。病を癒し、奇跡を行ったので、人々は、「この方がメシヤだろう」と信じ始めました。宣教開始から3年程たち、いよいよエルサレムに乗り込んできました。面白くないのは、祭司長、長老、パリサイ人、サドカイ人たちです。せっかく、待ちに待っていたメシヤが現れたのですから、喜ぶべきでしょう?ところが、自分たちの立場や特権が奪われることを恐れ、イエス様を受け入れませんでした。預言の成就、権威ある教え、癒しと奇跡などから生身の人間でないことは確かです。なのに、イエス様を受けないとはどういうことでしょう?初代教会のステパノがペンテコステの後、彼らに向かってこのような説教をしました。使徒751-52「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。」ステパノがこのような説教をしたので、彼らによって石で打ち殺されてしまいました。イエス様がたとえ話で、このように予告しています。マタイ21:37 しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、息子を遣わした。すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。」まさに、このようになったのです。このたとえからも、「財産を自分たちのものにしよう。神さまには返さない」という悪い考えがあります。恐ろしいことに、神の息子、イエス・キリストをエルサレムの外で殺すことになります。

 イエス様はたとえ話を話した直後、彼らに質問しました。マタイ2140-41「この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」彼らはこのたとえが自分たちに向けて語られていることを知りましたが、悔い改めようとしませんでした。むしろ、怒りを燃やして、イエス様を捕えようとしたのです。頭では分かっているのに、イエス様を信じなかったのです。先週もお話ししましたが、頭で信じるのではなく、心で信じるものです。頭と心は35センチくらい離れていますが、一致できません。頭では分かっているけど、心では神さまには従わないということがあるかもしれません。なぜなら、人間は知性では動いていないからです。人間が知性では動いていたなら、とっくに犯罪はこの世からなくなっています。人は覚せい剤が悪いことは、100も承知なんです。でも、やっちゃうのです。盗みは悪いことは、100も承知なんです。でも、やっちゃうのです。スピード・オーバーは悪いことは、100も承知なんです。でも、出しちゃうのです。ユダヤの宗教家たちは、頭ではイエスがメシヤだと分かっていたのです。でも、心で信じようとしませんでした。なぜなら、信じると従わなければならなくなるからです。そうしたら、自分の生活を変えなければなりません。地位や特権がなくなるし、おまんまも食えなくなるかもしれません。宗教が生活の手段になると問題であります。これは私も注意しなければなりません。アーメンです。

 ところで、私は葬儀を伝道集会だと思っています。「人が亡くなったのに、伝道のためにするのか」と非難されるかもしれません。もちろん、故人を偲び、天国での再会を語ります。でも、なんとかこの際、人間の死ということを考えて、解決であるイエス様を信じてもらいたいと福音を語ります。教会にあれだけ求道者が来ることはありません。毎週の礼拝でも新来者はあまり来ません。ところが、葬儀の場合は何十人も、ある場合は100人くらいになります。死はだれにでも来るのですから、「死後はどうなるんだろう」と考えることがあるでしょう。仏教の葬儀では何を言っているか分かりません。でも、教会の場合ははっきり、日本語で語っていますので、内容は分かるはずです。でも、決断するかしないかは全く別です。ある人は頭では分かっているかもしれません。でも、心で信じるということがないのです。お葬式当日は考えるかもしれませんが、次の日になると、日常生活に逆戻りです。そうやって、月日が過ぎ去り、自分の番がやってくるのです。去る74,5日と故板橋松枝姉のご葬儀がありました。会葬者の中に「約30年ぶりだね」という人たちがいました。古い会堂のとき来たことがあるけど、新しくなって初めてだという人もいました。交番で聞いて、別の教会2つも紹介され、やっとたどり着いたという人もいました。10年、20年はあっという間です。体もポンコツになり、「元気?」「大丈夫?」という会話が飛び交います。葬儀は単なるセレモニーではありません。死に打ち勝たれたイエス様を信じるすばらしい機会となります。

 当時の宗教家たちは目の前でイエス様を見ました。お話しを聞きました。ある人はイエス様が病を癒し、奇跡を行うのを目撃したでしょう。イエス様の顔は輝いており、声にも力があったと思います。直接、イエス様とお会いできたのに、なぜ信じることができなかったのでしょう。ステパノは「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち」と言いました。パウロが「文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です」(ローマ229と言っています。割礼とはイスラエル人になるためのしるしであり、肉体の一部を切り捨てることです。それが心の割礼となると、どういう意味でしょうか?肉体の一部ではなく、いのちのすべてを切り捨て、全面的に信じるということです。心で信じるとは、自分のいのちをかけるということです。頭の場合は、「そういう時もあるけど、これは違うかな」と理性に頼ります。心で信じるというのは、「頭で理解できない時があっても、全面的に神さまに従う」ということです。当時のユダヤ人たちは、心で信じて、イエス様に自分たちをゆだねることをしなかったのです。そのため、さらに心が頑なになり、信じることができなくなったのです。これは一種の呪いです。チャンスが来たとき信じようとしないなら、さらに心が頑なになり、最期の時も信じられないのです。イザヤ書にすばらしことばがあります。イザヤ556-7「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」いつでも信じられると思ったら大間違いです。神さまが招き、聖霊様が教えてくれて、はじめて分かるのです。

2.異邦人の特権

 マタイ2140-41「この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」彼らはそのたとえが自分たちをさして語られたことに気づきました。それで、怒りを燃やしました。このたとえの農夫とはイスラエルの人たちです。やがては、神さまから裁きを受け、殺されるということです。このことは、紀元後70年に成就します。ローマ軍が神殿を破壊しユダヤ人を虐殺しました。ユダヤ人は国がなくなり、世界中に離散してしまいました。イエス様は「そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸す」と言われました。別の農夫とは、私たち異邦人です。キリスト教会とも言えます。異邦人である私たちが救われる教会の時代がやってきたのです。アメリカにヴィンヤード・チャーチというのがありますが、まさしくぶどう園の教会です。「きちんと収穫を納める別の農夫たちに貸す」と言われていますが、きちんと収穫を納めているでしょうか?教会では10分の1献金ということが言われますが、ある教会は「それは献金ではなく返金だ、10分の1返金だ」と言っています。私は献金だけだとは思いません。時間や奉仕、礼拝や感謝の心もそうだと思います。きょうこのように私たちが礼拝のために体と時間をささげています。これも「きちんと収穫を納める」行為ではないかと思います。私たちは義務ではなく、特権として受け止めたいと思います。なぜなら、神さまは豊かに報いてくださる、generouslyな神さまだからです。Generouslyというのは、「気前の良い」「物惜しみしない」という意味です。女の子がデザートのいちごを食べていました。仕事から帰ってきたお父さんが「パパにもちょうだい」と言いました。お皿にはあと3個しか残っていませんでした。女の子はパパに2個あげました。パパはどうしたでしょう?後日、いちごを1パック買って来て、彼女にあげたそうです。2個を投資したら、1パック戻ってきました。ハレルヤ!私たちの神さまも同じで、とてもgenerousなお方、気前の良いお方です。

 きょうのメッセージのテーマは「見捨てられた石」です。ぶどう園のたとえが、「見捨てられた石」という話だったからです。マタイ2142イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』まず、私たちは家とは何か、また、どのような家なのかということを考えなければなりません。さばきの預言である44節を見てみたいと思います。「また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」これは、エルサレム神殿が紀元後70年に破壊されることの預言です。イエス様はマタイ24章でも、「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」と預言しました。これはエルサレム神殿が跡形もなく、崩されるということです。でも、イエス様は「この神殿をこわしてみなさい。私は三日でそれを建てよう」(ヨハネ219とおっしゃったことがあり、敵たちもそのことを知っていました。一連のことから考えると、家というのは神殿です。石が積まれたまま残ることのないほどくずされるというのは、エルサレム神殿のことです。ところで神殿を建てるときに最も重要なのは「礎の石」です。口語訳聖書では「隅のかしら石」となっています。英語の聖書ではCornerstoneと書いてあります。ウェブを見たら「建物の2つの辺の角にあって、2つの辺を結び付け、確定させるので、建物の中で、最も重要な位置にあります。建物全体を支える石のことです」と書いてありました。イエス様が引用したのは詩篇11822,23です。似ていますが、イザヤ書2816「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」イザヤ書28章のこのみことばは、使徒の働き411、ローマ933、エペソ220、Ⅰペテロ26などに引用されています。

 どういうことでしょう?イエス様の時代にあったエルサレム神殿はさばきのゆえ崩壊しました。イエス様は壊された神殿を3日で建てると言われましたが、それは教会のことです。教会とは私たちのことで聖霊の宮、神殿であります。イエス様はエルサレムの神殿には全く興味がありませんでした。それよりも、ご自身が礎石となって建てる神の教会が重要でした。エペソ2章後半には、「キリスト・イエスご自身がその礎石です。主にある聖なる宮となるのであり、神の御住まいとなるのです」と書かれています。つまり、私たちの中に神さまが住んでくださるのです。でも、その礎石はイスラエルの人たちに捨てられた石でした。イエス様は彼らのところにやってきました。ところが、彼らはイエス様に躓き、妬みのゆえに殺してしまいました。ぶどう園のたとえのように、あと取りである息子を殺して、財産を手に入れようとしました。「ぶどう園の外に追い出して殺してしまった」とありますが、イエス様はエルサレムの外、ゴルゴタの丘で十字架に付けられました。イエス様は、神に選ばれた約束の民によって、捨てられたのです。ところがどうでしょう?父なる神は、捨てられたつまずきの石を教会の礎石にしたのです。私たちは異邦人であり、選びから漏れていた民でした。イスラエルが躓いたので、救いが私たちのところにやってきたのです。そして、イエス様は私たちの救い主になってくださいました。なんとありがたいことでしょう。新約聖書ばかり読むとありがたみが分かりません。創世記のアブラハムが信仰の父と呼ばれていますが、遠い昔の人です。私は一番最初、東林間のバプテスト教会に行きました。英語がただで勉強できると言われたので、職場の先輩に誘われて行きました。教師がアブラハムを知っているかと英語で聞きました。私は「ああ、アブラハム・リンカーンですね」と答えました。でも、どうして大統領の名前が聖書に書いてあるのかさっぱり分かりませんでした。ある人が「イエス・キリストってアメリカ人だろう」と言いました。なぜなら、横文字だからということです。日本人の多くは、キリスト教がアメリカの宗教であると思っています。そして、日本には日本の宗教、仏教があるだろうと言います。ちなみに仏教はインドで、キリスト教はイスラエルが発祥の地です。

 私たち日本人は躓く前に、全く無知であります。聖書もほとんど読んだことがない日本人がどうやってイエス・キリストに出会うのでしょうか?普通に生きていたら、絶対、クリスチャンにはならないでしょう?どうして、西アジアの端っこの小さいイスラエルの国で始まった宗教を信じなければならないのでしょうか?かなり前になりますが、テレビで京都の歴史のことが紹介されていました。京都では祇園祭りで有名です。鋒の前に美しい錦絵があります。ある絵はリベカがラクダに水を飲ませている絵であり、「イサクの嫁取り」でした。他にイラクのバクダット宮殿、ピラミッドの絵もあります。祇園祭りのルーツは、古代イスラエルのシオン祭りであり、日程も重なっています。聖書の物語がシルクロードをはるばるやってきました。ユダヤ人は躓きましたが、形を変えて日本にやってきたのです。伝道のため聖書はもちろん必要ですが、キリスト教の文化がたくさん入って入ることを伝えて興味を起こさせたら良いです。「目からうろこ」「豚に真珠」「目には目、歯には歯」「スケープゴート」「のど仏(Adams apple)」があります。前にも話しましたが、ある漢字は聖書の物語から来ています。船(ノアの8人)、裸(果実を食べた結果)、義(羊に我)、犠牲(牛と羊を戈で殺してささげる)。でも、私が一番、効果があると思うのは、病の癒しや奇跡です。人はこれを体験すると、福音に対して心が開かれます。これはイエス様と弟子たちが行った最も古い伝道法です。また、聖日礼拝に連れてくると、神さまを体験することができます。この礼拝では、神さまを体験することができます。ハレルヤ!

 普通、宗教と言えば、私たちが神さまのところへ行かなければなりません。きよくなるための行い、お布施、作法、めんどうなことがたくさんあります。「あなたは汚れていて相応しくない。もっと修養が必要だ」と言われるかもしれません。でも、イエス様は神の御座から下界に降りてきてくださいました。人々の病を癒し、たくさん良いことをしたのに、裸にされて十字架で殺されました。本当に人々から捨てられたんです。それだけではなく、神さまからも捨てられました。しかし、それは私たちの罪を贖うためでした。イエス様は選民イスラエルのところに来たけれど、捨てられました。でも、神さまは不思議なことをなさってくださいました。「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった」のです。本来、私たちが神さまから見捨てられていた存在でした。私たち異邦人は、救いから漏れていたのです。なんと、見捨てられていた私たちのところに、見捨てられた石としてイエス様が来られたのです。本来、神であり王の王であるお方が、へりくだって私たちのところに来てくださいました。もちろん、私たちもイエス様を神としてあがめ、うやまいます。でも、私たちのために、どん底まで降りてきて下さったイエス様をあがめるのは当然であります。だれでも、イエス様にあるなら人生の大逆転があります。なぜなら、イエス様ほどん底まで降りた方は歴史上一人もいません。でも、イエス様は陰府の底からよみがえってくださいました。エペソ4章には「高い所に上られたとき、人々に賜物を分け与えられた」と書いてあります。賜物とは霊的賜物であり、私たちがやがて行くパラダイスのことです。主にあって見捨てられた人など一人もいません。イエス様はあなたを救うために来られたからです。

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