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2017年9月22日 (金)

パスカルが出会った神 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.9.24

 来世、つまり死後の世界というのは、どの宗教にもあるようです。日本は仏教の思想を受けていますので、地獄と極楽、輪廻(生まれ変わり)の存在を信じています。唯物論の影響を受けた人たちは、人間は死んだら消えてなくなると考えています。テレビで芸能人の死が報道されるとき、「天国に旅立った」と言います。クリスチャンでも信仰を精神的なもの、主観的なものとして捉えている方がおられます。きょうは聖書から正しい来世観について学びたいと思います。

1.思い違い

 サドカイ人というのは、神殿に仕える祭司たちで構成されていました。ある人たちは議員であり、ユダヤ人の指導者でもありました。彼らは妬みのゆえに、イエス様を十字架に付けた一派でもあります。当時のことを記しているヨセファスという歴史家がこのように証言しています。「彼らは肉体のよみがえり、未来における罰と報い、御使いや霊の存在を拒否していることが明らかである。サドカイ派はパリサイ人と違って、モーセ五書に中心をおき、五書に記された律法にのみ最終権威を認めたので、そこに書かれていない復活論や、死後の生命のような教理を否定したと思われる」とありました。イエス様はマタイ16章で「サドカイ人たちのパン種に気をつけなさい」と言われたことがあります。サドカイ人たちの教えは世俗的であり、この世のことしか考えません。もし、彼らの教えを受け入れるなら、「死後の世界はないので、地上で幸せに暮らせればそれで良い」ということになります。イエス様は29節で「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです」と言われました。「思い違い」のギリシャ語はプラナウであり「迷う、惑わされる、考え違いをする」という意味です。JB.フィリップスはYou are very wide of the mark、「大きく的からはずれている」「見当違いをしている」と訳しています。そもそもの原因は、彼らが聖書も神の力も知らないからです。神さまを礼拝して、宗教的な生活を送っているかもしれません。しかし、「聖書も神の力も知らない」なら、見当違いをしていることになります。ひょっとしたら、ミッションスクールや今日の教会にも当てはまるかもしれません。

世俗主義のパン種は知らぬ間に、私たちの中に入って、信仰を腐らせてしまいます。彼らの一番の見当違いは、復活を信じていなかったということです。「え?復活を信じていない信仰者がいるのですか?」とおっしゃるかもしれません。おります。彼らはギリシャ人のように霊魂の永世は信じています。しかし、この肉体が復活するとは信じていないのです。では、復活がないと考えている人は、地上でどのように暮らすのでしょうか?使徒パウロはⅠコリント15章でこのように述べています。Ⅰコリント1532「死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか』ということになるのです。思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」ここで言われている「友だち」というのは、復活を信じない人たちで、「生きているうちが花だから、好き勝手に生きようぜ」という悪い友だちです。コリントの教会ではこの世よりもひどい罪や放縦に満ちていました。彼らにはキリスト信仰があったのですが、肉体の復活を信じていませんでした。なぜなら、ギリシャ哲学の影響を受けていたからです。「肉体がしている悪は、魂の救いには影響しない」と考えていたからです。でも、それは見当違いであり、世俗的なパン種でした。パウロは「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれる」と注意しました。イエス様が言われた「サドカイ人たちのパン種に気をつけなさい」と同じであります。私は19年前にも同じ個所から説教し、このような証を述べていました。私もかつてはそうでした。車を乗り回し、格好をつけ、綺麗な女性を追い掛けまわしていました。「今が楽しければ良い、死んだらおしまいさ」と考えていました。仕事はメシの種で、他の時間は自分の好きなことを一生懸命やれば良いという人生哲学でした。しかし、「永遠というのがあるなら、そこに命をかけられるのになー」と心のどこかで追い求めていました。「宗教は弱い人間が勝手に造ったものだ」と言っていた、この私が25才に回心しました。するとどうでしょう。時間がもったいなくなりました。クリスチャンになって、永遠の命が与えられたのだったら、「ああ、やったー」と寝そべっていれば良さそうなものです。ところが「確かに、永遠の命は与えられけたけれど、この地上の人生は意外と短いぞ」と思うようになったのです。気がつくと、パチンコ、ギャンブル、マージャンをやめていました。それらが時間とお金の無駄使いと気付いたからです。お酒もやめました。お酒を飲むとボーっとなって、その夜は何も考えられなくなるからです。それで「この限られた時間をもっと有効に使わなければ」となりました。つまり、それまでは「好きなことを楽しく」という無目的な人生でしたが、救われてから目的ができてしまったのです。私が洗礼を受けて全く変わってしまったので、一緒に遊んでいた友だちも付き合っていた彼女も私から離れていきました。世俗的な友だちが去って行ったということです。

 復活を信じないということは、死後のさばきを信じないということです。当然、神を恐れず、堕落した生き方になるでしょう。ヘブル927,28「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」この短い文章に3つのことが記されています。第一は死後、神の前に立ち、さばきを受けるということです。第二はキリストが私たちの罪を負ってさばかれたということです。第三はキリストが再び来られるとき、キリストを待ち望んでいる人たちが復活するということです。多くの人たちは「ヘブル9章は救いのためのみことばである」と考えています。確かにそうですが、それ以上のことも語っています。本当の救いとは死後さばきに会うことがないばかりか、キリストが再臨したとき栄光のからだに復活するということです。つまり、救いの完成は、まだ来ていないということです。しかし、神の前でのさばきと栄光の復活があるので、地上の生活もおのずと変わってきます。世俗主義のパン種に感化されてはいけません。彼らのような思い違いをしないで、聖書と神の力を知ることに全力を傾けていきましょう。

2.復活の時

 もう一度、彼らがイエス様にした質問を調べたいと思います。マタイ2224「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない』と言いました。ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、七人とも同じようになりました。そして、最後に、その女も死にました。すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」彼らはモーセの律法からこのような質問を考え出しました。家系を絶やさないために、確かにこのような律法がありました。創世記38章にこのような記事があります。ユダが自分の長男をタマルという女性に与えました。しかし、主を怒らせていたので彼は死にました。弟オナンは「兄嫁のために義弟の務めを果たしなさい」と父から言われました。しかし、弟は兄のために子孫を残そうとしませんでした。そのため、主を怒らせて彼も死にました。ユダは三番目の息子をタマルに与えませんでした。兄たちのように死ぬといけないと思ったからです。そのためタマルは遊女に化けて、舅のユダと関係を持って身ごもりました。やがて、その子はダビデの先祖になります。サドカイ人たちが言うような話は確かにありますが、7人というのは残酷な感じがします。7は完全数なので、この質問を完璧なものにしたかったのでしょう。彼らは「復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです」と尋ねました。この質問の背後には、「1人の女性をめぐって7人が取り合うだろう」という皮肉がこめられています。

 では、イエス様はどのように答えられたでしょうか?マタイ2229,30「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」第二のポイントでは「復活の時」のことを考えたいと思います。この世において、なぜ、人はめとったり、とついだりするのでしょうか?それは死ぬからです。アダムとエバが罪を犯してから、この肉体は死ぬようになりました。それでも「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(創世記128という命令は残っています。地上の生命には限りがあるので、結婚して子孫を残していくしかないのです。しかし、復活の時はどうでしょう?栄光のからだによみがえり、しかも永遠のいのちが与えられています。「天の御使いたちのように」とは、彼らのように永遠に生きるということです。つまり、死ぬことがないので、子孫を残す必要もなくなるということです。ところが、サドカイ人たちはこの地上のことが、天上でもずっと続くかのように思い違いをしていたのです。残念ながら、復活後は結婚することはありません。男も女もない、中性になるということではないと思いますが、肉体関係がないということです。みな、兄弟姉妹になるのです。それだったら、寂しいでしょうか?天国に行ったら、ロマンスもなくなるのでしょうか?でも、男女の関係は罪の元にもなります。また、この地上では結婚という枠組みがあります。結婚外の関係であるならば不倫と呼ばれます。ガラテヤ6章には肉の働きが記されていますが、その3分の1が性的な罪です。でも、復活の時には、そういう罪がきよめられます。しかも、結婚とか子孫を増やすということがありません。罪のない栄光のからだが与えられ、兄弟姉妹として、だれとでも親しく交わることができるのです。私も行ったことがないので、分かりません。おそらく、一瞬にして相手の心が分かるでしょう。なぜなら、霊が100%作動しているからです。そのため、嘘や偽りのない真実な交わりが可能になるでしょう。

 私たちは復活の時のことを聖書から正しく知るべきです。結婚はないかもしれませんが、それ以上の楽しみや喜び、そして自由があるということです。とにかく、天上の生活は地上の延長ではありません。ギャンブル好きで家にお金を入れない夫、酒乱で暴力をふるう夫など、苦労をさせられた姉妹方がおられます。天国に行っても、その夫に仕えなければならないとしたら大変であります。福沢満男先生のお父さんはかなりの酒乱で、先生が子どものとき、地獄のような生活を強いられたようです。しかし、そのお父さんは病気で亡くなる少し前にイエス様を信じました。お母さんが「お父さんは天国に行ったのかい」と聞きました。福澤先生は、「そうだよ、悔い改めてイエス様を信じたんだから天国へ行けたんだよ」と喜んで答えました。すると、「ああ、そうかえ、それなら母さん信じないよ」と言いました。先生のお母さんが信仰を持つのに、それから10年以上かかったそうです。お母さんは「天国に行ってからも夫のために苦労するんじゃ行きたくない」と思ったのでしょう。そうではありません。天国に行ったら、みな兄弟姉妹です。 

韓国教会の長老の方が、死後、数時間で生き返ったという証を聞いたことがあります。その方は、いわゆる臨死体験をしたわけです。アブラハムから天国を案内されました。そこで、何年か前に亡くなった奥様とお会いしたそうです。はじめは、その人がだれかわかりませんでした。なぜなら、奥様は地上では大変太っていて、顔も美しくなかったからです。ところが、目の前の美しい貴婦人は、どこか妻の面影がありました。彼女は、自分に向かって「○○兄弟」と親しく声をかけるのです。「なんだ、お前か。それにしてもどうしてこんなに美しいんだ」「いえ、私はあなたの妻ではなく、姉妹です」と答えたそうです。とにかく天国の奥様は別人のようだったというのです。あいにく、彼の天国の邸宅の屋根が未完成だったので、地上に戻って来たそうです。90歳で天国に召されて、90歳のままで永遠に生きるのだったら何の喜びがあるでしょう。ある聖書学者は「復活時は、男性は30歳前後、女性は20歳前後であろう」と述べています。最近、エターナル出版から、「私は天国に行った」とか「地獄に行った」という証の本がいっぱい出ています。私はそれらを信じないわけではありません。でも、聖書が述べていないことを、詮索して、それを事実であるかのように言うのは避けたいと思います。ただ分かっていることは、「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」ということです。天の御使いは、とても美しく、完璧な姿です。美しい人をたとえるとき、よく「天使のようだ」と言うからです。この世では「年には勝てない」と言います。しかし、私たちは復活の時には天の御使いのように麗しい姿になるのです。あこがれをもって復活の時を待ち望みましょう。

3.パルカルが出会った神

 マタイ2231-33 「それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。」クリスチャンになって数年間は、どういう意味なのかさっぱり分かりませんでした。群衆はこれを聞いて、理解して、驚いたのですからよっぽどです。サドカイ人たちは、預言書を信じていませんでした。預言書には死人の復活や千年王国のことがたくさん書かれています。サドカイ人たちはモーセ五書しか信じていなかったので、イエス様はあえて、モーセ五書から復活について語ったのです。でも、このことが復活について語っているのでしょうか?日本語は時制についてはあいまいなところがあります。しかし、インド・ヨーロッパ語族はそうではありません。英語の詳訳聖書を引用させていただきます。I am the God of Abraham, and the God of Isaac, and the God of Jacob? He is not the God of the dead but of the living.となっています。このところには、I wasとなっていません。I amとなっています。I wasであれば、彼らの神であったということになります。I amであれば、今も彼らの神であり、今も彼らは神の前で生きているということになります。イエス様は主がモーセに語られたことばを引用しました。これは出エジプト36にあり、ユダヤ人には「柴の篇」という名称で知られていました。彼ら3人はイスラエルの族長であり、アブラハムとヤコブとは200年も離れていました。それなのに、彼らは神さまと共に生きているということです。

 イエス様は「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」と言われました。ここのことばは日本人に対する挑戦でもあります。日本人のほとんどは仏教か神道です。それらから出た新興宗教も含めて、死者あるいは先祖崇拝をしています。日本人が信じている神あるいは仏は、死んだ者の神であります。生きている人が死んだ人のため供養しています。同時に、死んだ人が生きている人を守ってくれるように願っています。助けているのか、助けられているのか分かりません。でも、何の疑いもなく、「自分たちもやがては先祖たちがいるところに行くんだ」と信じています。信じているというのではなく、他の選択肢がないので「そうに、決まっている」と考えています。もし、そこにキリスト教が入るとどうなるでしょう?「彼らは陰府にいる存在であり、いつかはさばかれ地獄に行くのです」と言ったらどうなるでしょう。そして、自分がクリスチャンになるならば、ご先祖様に申し訳がたたない。「裏切り者」という烙印が押されるでしょう。日本の法事、お祭りのほとんどが、「死の文化」と言っても過言ではありません。もう、それが当たり前のように思っているのは何故でしょう?エペソ人への手紙6章に、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち」とあります。「主権」はギリシャ語ではもともと「アルケー(始まり)」という意味です。それは私たちが受けてきた「生来の教え」であり、生まれた時から信じ込まされているものです。この天上の悪霊は私たちの思いをくらまして、福音の栄光を見えないようにしているのです。「主権」が日本人に、仏教の教えや進化論を信じ込ませているのです。そのため、キリストの福音を信じて、永遠のいのちを得るというのは、たやすいことではありません。

 ところでパスカルと言えば、数学者でパスカルの原理をはじめ、たくさんの数式を発見した人です。また、パルカルは哲学者でもあり『パンセ』でも知られています。「人間は考える葦である」と言った人です。彼はカトリックが支配しているフランスの出身ですが、聖書をそのまま信じている少数のグループに属していました。パスカルの同時代、デカルトをはじめとする「近代合理主義」が栄えていました。人間の理性で理解し得るものだけが真実だと考えられていました。パスカルは若気の至りで、上流社会の様々な楽しみを求めました。しかし、彼の心の空隙は満たされず、ますます絶望な気持ちになりました。そして、16541123日の夜、パスカルは回心しました。彼は夜中にこう叫んだのです。「哲学者や学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。確信、確信。万感の思い。喜び、平安。イエス・キリストの神。あなたは私の神です。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。イエス・キリスト。」当時の教会ではスコラ哲学が流行っていました。形而上的で観念的な宗教だったのです。しかし、パスカルは「聖書こそ、そこに記録されている事実において間違いのない神のことば」であると信じていました。教会は公会議とかで権威ある意見を出していましたが、パスカルは聖書から意味を引き出さない者は、聖書の敵であると言いました。パスカルは数学者であり、いろんな定理を知っていました。私は高校生のとき、物理と数学に出会って、頭が全く混乱し、落ちこぼれてしまいました。そこでは、定理とか、公式ということばは良く用いられました。定理や公式を覚えていると、問題が解けるということです。パスカルにとって人生の問題を解決する、定理と公式はキリストだったのです。キリストを心の空隙にあてはめたとき、全部解決したのではないかと思います。

 イエス・キリストは罪と死の中で囚われている私たちを救い出してくださいました。イエス様はそのために天から下り、人となられました。私たち人類の罪咎を引き受け、代わりにさばかれました。父なる神はご自身の罪に対する怒りをひっこめ、その代り、キリストを信じる者にご自身の義を与えることを約束されました。私たちがキリストを救い主として信じ、受け入れるとき、永遠のいのちがあたえられます。そのとき、パスカルのように「哲学者や学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と叫ぶことができるのです。ある人たちは信仰は天国に入るためのものであると言うでしょう。それだった仏教徒と同じ、死んだ者の神さまです。そうではなく、キリストは生きている者の神さまです。なぜなら、永遠のいのちは死んでからいただくものではなく、この地上から始まっているからです。私たちはすでに永遠のいのちを持ちながら、この地上で暮らしているのです。だから、生きる目的や意味が地上のことがらではなく、やがて来るべき来世のことを念頭においているのです。この地上はやがて過ぎ去りますが、移り住む来世こそが永遠です。私たちは世俗主義ではなく、永遠の目的のために生きるのです。

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