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2017年8月25日 (金)

悔い改めた人たち マタイ21:28-32 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.27

 みなさんは一度決断したら、前に向かって進むというタイプでしょうか?それとも、間違ったと分かったら、戻る方でしょうか?もちろん、対象によると思いますが、頑固一徹というのも問題です。神の国に入った人は、方向を転換した人たちと言って良いでしょう。なぜなら、この世の多くの人たちは神さまに背を向けて歩いているのに、クリスチャンは悔い改めて、信じることができたからです。ちなみに「悔い改める」は、change of mind考えを変えるという意味です。

1.悔い改めない人たち

 悔い改めない人たちというのは、当時の宗教家たちです。祭司長と民の長老たちがイエス様に文句をつけました。なぜなら、イエス様が神殿にやって来て、売り買いしている者たちを追い出したり、両替の台や鳩を売る者たちの腰掛けを倒したからです。彼らは「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか」と聞きました。権威の出所を聞いたわけです。もし、イエス様が「神からだ」と答えるなら、冒涜罪として訴えるつもりでした。しかし、イエス様は直接答えるのではなく、逆に質問で答えました。マタイ2124「私もひとことあなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、私も何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」彼らは面食らいながら、互いに論じ合いました。25節途中からお読みします。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません」と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。このところには、イエス様の広くて深い知恵が現れています。直接、答える代わりに、質問したのはなぜでしょう?箴言264-5「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。」

 バプテスマのヨハネはイエス様を「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」と預言しました。それだけではありません。直接、イエス様をご覧になったとき、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と宣言しました。当時の宗教家たちもバプテスマのヨハネが言ったことを聞いたことがあるでしょう。彼らは群衆を恐れて、はっきりと返事ができませんでした。だれでも、イエス・キリストに出会うなら、信じるか信じないか、2つに1つしか選択できません。彼らは「わかりません」と言いました。わからないはずはありません。彼らは聖書に精通し、イエス様がなされた多くのしるしを見ました。まさしく、来るべきメシヤ、キリストであることがわかっていました。わかっていたのに、信じなかったのです。これを何と言うでしょうか?神への反逆であり、不従順です。私たちは「わかったら、信じるのが筋というものでしょう」と言うかもしれません。分かるというのは多くの場合、知的に分かるということです。しかし、人間は知性で動いていません。心の深いところで、決断しています。ある人たちは、たばこや酒が体に悪い事は百も承知ですが、それをやめられません。犯罪も悪いと百も承知ですが、それをしてしまうのは何故でしょう?人間は知性だけでは生きていないということです。私たちは知的な勉強だけではなく、心の深い部分も開拓する必要があります。心の深い部分は、聖書を学び、まことの神を礼拝することによって開拓されると信じます。当時の宗教家たちは聖書を学び、まことの神を礼拝していたのですが表面的でした。そして、目の前におられるキリストを信じませんでした。なぜでしょう?信じたら、自分の生活を変える必要があるからです。彼らは宗教的な立場やプライドを捨てることができませんでした。死活問題ということばがありますが、宗教で食べていたので、あえて拒絶したのです。

 私が座間キリスト教会で奉仕していた頃、自宅にエホバの証人の方が来ました。あんまりしつこいので、一緒に聖書を突き合わせて学びました。彼らはイエス様を神として認めていません。キリストの十字架の贖いも不十分であると思っています。だから、救いを得るために、奉仕をしたり宣教活動をします。最終的に、「あなたもイエス様を信じたらどうですか?信仰は行いではなく、恵みですよ」と迫りました。するとその方は、「30年もやっているので、今更、変えられない」と言いました。その方は人を指導する立場の人でした。それっきり、その人は来なくなりました。イエス様を信じるということは、私たちの生き方や価値観、全部変えなければいけません。でも、一番、抵抗するのは私たちの自我ではないでしょうか?イエス様を信じるということは、人生の主人、王として受け入れることです。王様はふたり存在できません。自分の王座をイエス様に明け渡し、自分が主のひざもとで暮らすことになります。だれでも、この葛藤を乗り越えなければなりません。だから、キリスト教では信じることを「回心」と呼びます。回心は英語でconversionと言いますが、「転換、転化、転向」という意味があります。テレビのビフォー・アフターという番組が打ち切りになったようです。私の家内が大好きな番組でした。リフォームの場合は、土台や柱をそのまま生かして、壁や内装を変えます。匠が、以前、住んでいた家の一部を記念にして設置していました。ある意味では感動する番組です。しかし、conversionは全部壊して、土台も柱も新しくするようなものです。私はリフォームよりも建て替えの方が好きです。なぜなら、とても聖書的だからです。その根拠となるみことばがこれです。Ⅱコリント517 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」どうでしょう?古い人生に未練があるでしょうか?古い人間関係、古い価値観、古い楽しみ、古い知識を捨てましょう。継ぎ足しやリフォームではなく、conversion全部壊して、土台も柱も新しくさせていただきましょう。

2.悔い改めた息子

 イエス様は彼らにたとえで話しました。たとえはいろんな効果があります。その1つは敵対している人たちにたとえで話すことによって、自ら悟らせることができます。このたとえは、悔い改めようとしない祭司長と民の長老に向けて語られたものです。「ある人にふたりの息子がいた」というくだりではじまります。私が一番おどろいたのは兄と弟の順番です。日本語の聖書は、兄が「行きます」と言って、あとで行きません。そして、弟が「行きたくない」と断って、あとで行くというたとえ話になっています。ところがギリシャ語や英語の聖書、新共同訳は、順番が全く逆です。それに、両者ともsonなので、兄なのか弟なのか分かりません。最初の息子は「行かないよ」と断りましたが、悔い改めて、ぶどう園に行きました。Repent「悔い改める」ということばがはっきり書かれています。第二の息子は「行きます」と言いましたが、行きませんでした。イエス様は彼らに「二人のうちどちらが、父の願ったとおりにしましたか?」と聞きました。彼らは「最初の息子です」と答えました。新改訳聖書は最初の兄が悪くて、次の弟が良いように書かれていますが、ほとんどの聖書は逆なのに、なぜ、そうなったのか分かりません。新改訳聖書は、「あとの者です」という答えを言わせるためだったのではと思います。なぜなら、さきの者はユダヤ人で、あとの者というのは異邦人だからです。でも、ほとんどの聖書は全く逆です。聖書ではお兄さんが悪者で、弟は良いように書かれています。みなさんにとってはどうでも良い話題たったかもしれません。しかし、たくさんの聖書を床に並べて、爽快でした。「時々、こういうところからメッセージができるだろうか?」という時がありますが、きょうがその箇所でした。でも、すばらしい発見ができて目が覚めるような思いでした。

 イエス様がおっしゃりたいことはこのことです。31節後半「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」彼らは最初「行かない」と言ったのに、悔い改めて、ぶどう園に行った息子のことです。一方、祭司長や民の長老は「行く」と言ったのに、行かなかった息子のことです。イスラエルは神に選ばれた人たちでした。ところが旧約聖書の歴史は神に背いた歴史です。イエス様の前に、バプテスマのヨハネが荒野に現れました。彼は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と叫びました。彼が来た目的は、主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにするためでした。荒野にパリサイ人やサドカイ人が大勢バプテスマを受けるためにやってきました。彼らは祭司長や民の長老の仲間であり、彼らの一部がバプテスマを受けていたかもしれません。その後、ヨハネが「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と紹介したイエス様がやってきました。ヨハネが預言した本人がやってきたのです。イエス様は、福音を宣べ伝え、会堂で教え、メシヤとしての奇跡をたくさん行いました。ところが彼らの中に嫉妬心が生まれました。本来なら、メシヤに場所を譲るべきでしたが、それができませんでした。なぜなら、自分たちの立場や名誉を失いたくなかったからです。自分たちこそ律法と神殿を管理している権威者だと自負していたからです。長い間メシヤを待ち望んでいたのに、実際に来たら、拒絶してしまうとはどういうことなのでしょう。

 一方、最初は「行かない」と言ったのに、悔い改めて、行った人たちとはだれでしょう?31節後半「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」取税人や遊女たちこそが、悔い改めた息子の方です。元来、ギリシャ語の「悔い改める」は方向転換であり、罪を懺悔するという意味がありません。でも、たとえ話では「あとから悪かったと思って」と書いてありました。おそらく取税人や遊女たちも「悪かったと思って」信じたのかもしれません。つまり、「悔い改める」には、「悪かった」という気持ちがあっても良いし、なくても良いということだと思います。取税人や遊女たちの場合は、「ああ、本来の生き方をしていなかったので、父なる神さまに逆らって悪かったなー」と思ったかもしれません。何を言いたいかと言うと、悔い改めて、霊的に生まれ変わると何が悪いか良いか分かるようになるということです。それまでは霊的に無感覚であったからです。ですから、罪を懺悔することを救いの条件にするのではなく、救われる一歩手前の出来事ではないかと思います。もっと正確に言うなら、聖霊様に触れられているからではないかと思います。その根拠となるみことばがあります。ヨハネ168「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」これは、聖霊がまだイエス様を信じていない人にどのように働くかを教えているみことばです。聖霊がその人に触れてはじめて、罪について分かるからです。でも、罪が何か分かったから救われるわけではありません。「悪かった」という後悔では人は救われません。悔い改め、つまり方向転換する必要があります。取税人や遊女たちは悔い改めて、神の国に入った人たちです。本当に皮肉なもので、聖書を良く知っていて、神を礼拝している人が救われたのではありません。聖書のこともよく分からないし、神さまを礼拝していない人が救われました。どこが問題だったのでしょうか?彼らは立場やプライド、自我に執着がなかったのです。宗教家たちと比べ、失うものもなかったので、信じやすかったのかもしれません。外見は罪人で汚れていたかもしれません。しかし、心の中には飢え渇きがありました。聖霊様に触れられて、「アーメン」と答えられる人は幸いです。マタイ53「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」アーメン。みなさんも、心が貧しかったので救われたのではないでしょうか?心が貧しくさせられることがあった。それで救われた人もいるかもしれません。悔い改めて、神の国に入った人たちは幸いです。

3.神の国に入る

第三は「最初に神の国に入った人たちはだれなのか?また、彼らは何を信じて救われたのか」ということを考えたいと思います。マタイ2132「というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」キリスト教会では十字架で罪を贖い、三日目によみがえられたイエス様を信じることで救われると言います。しかし、取税人や遊女たちはだれを信じたのでしょうか?義の道を持って来たバプテスマのヨハネを信じて救われました。このところで、私たちは救われるとはどういう意味なのか考えてみたいと思います。バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ32と宣教を開始しました。その後、イエス様も「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ417と宣教しました。時間的にはバプテスマのヨハネが早かったのです。で、人はいつから神の国に入ったのでしょうか?もう一度、イエス様のことばを見てみましょう。マタイ2131以降まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」このところで分かるのは、取税人や遊女たちがバプテスマのヨハネのメッセージを聞いて信じたときに、神の国に入りました。言い換えると、救われたということです。どのようなメッセージでしょうか?「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」です。マルコ福音書には天の御国は、神の国となっています。ユダヤ人は神と言うべきところを「天」と置き換えました。十戒の主の御名をみだりに唱えないためです。では、神の国とは何なのでしょうか?どうして、人は救われるために、悔い改めて、神の国に入る必要があるのでしょうか?

ジョージ・E・ラッドという聖書学者が『神の国の福音』という本を書いています。神の国は神の王国であり、ギリシャ語でバシレイアと言います。彼の本から少し引用します。「王国とは、何よりもまず第一に、支配する権威であり、王の統治権である。それが行使される領土を意味するものではない。われわれが受け入れるべきものは、神の支配なのである。未来の神の国という領域に入るためには、人はいまこの世において、完全な信頼をもって神の支配に自分をゆだねなくてはならない。」そうです。バプテスマのヨハネが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言いました。祭司長と民の長老たちは受け入れませんでしたが、取税人や遊女たちはヨハネの言うことを信じたのです。言い換えると、完全な信頼をもって神の支配に自分たちをゆだねたのです。福音とは何でしょう?私たちは「イエス・キリストの十字架と復活を信じることによって救われること」と定義するかもしれません。しかし、厳密に言うならば、福音とは神の国の福音であり、神の支配を受け入れることによって人は救われるという良い知らせです。その良い知らせを持ってきた最初の人物がバプテスマのヨハネだったのです。そして、イエス・キリストの十字架と復活は、神の国が力強く、この世に臨んだことの保証であります。でも、十字架と復活の前にも人は神の国に入り、救われていたのです。確かに見つけにくかったかもしれませんが、飢え渇く人にはその入口が見えました。イエス様がこのようにおっしゃっています。マタイ1112「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」その当時は、激しく攻め、奪い取るような信仰がなければ神の国に入ることができなかったのです。「激しく攻める者たち」というのは、こじあけてでも入ろうとする取税人や遊女たちのことであります。その頃は、神の国の門は完全に開かれてなかったのです。ちょっとだけ開いていて、人ひとりが入るのがやっとでした。だから、彼らは体当たりしたり、こじ開けたりして、無理やり入ろうとしたのです。でも、神さまはそういう人たちをむしろ歓迎し、喜びました。なぜなら、不完全な福音でも神の国に入ろうとしたからです。

 私たちの時代はどうでしょう?聖書は完成し、神の国の福音が聖霊によって力強く臨んでいる時代に生きています。中には聖書は信じているけど、聖霊の力は信じないという教会もあります。それでも、神の国の福音を聞いて、信じたら人は救われます。紀元後386年、アウグスチヌスが回心しました。ミラノの自宅で隣家のこどもたちが「とって読め、とって読め」と歌っていました。そのとき、開いた聖書箇所がこれです。ローマ1313-14「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」アウグスチヌスは取税人や遊女たちに劣らぬ堕落した生活をしていました。そのとき、このみことばによって、悔い改めて信じました。彼は劇的に回心して、修道士になり、やがてはピッポの監督になりました。パウロの時代が、「夜はふけて、昼が近づいた」のであれば今はどうでしょう?アウグスチヌスが回心したのが紀元後386年です。今は、紀元後2017年ですから、再臨間近といっても過言ではありません。もうすぐ神の国の門は閉ざされるでしょう。イエス様から天の御国の鍵をゆだねられた使徒ペテロは何と言っているでしょう?Ⅱペテロ38-9「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

 まもなく天の御国の門が閉まろうとしています。御国のガードマンが腕時計をにらんでいます。受付の御使いは、予定されていた日本人の数がとても少ないのでがっかりしています。使徒ペテロも何で来ないんだとイライラしています。イエス・キリストが十字架ですべての罪を贖ってくださいました。マタイ2414「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」このみことばは、全世界の人が信じたら終わりが来るとは書いていません。「全世界に御国の福音が宣べ伝えられたら」と書いてあります。福音はイスラエルからはじまり、ヨーロッパに渡り、南北のアメリカに渡り、アジア、アフリカに渡りました。もう、西アジアであるイスラエルに到達しています。使徒ペテロは天の御国の門に片足だけでなく、体をはって閉門を阻止する構えです。ペテロは「まだ、救われる人がいるはずだ。もっと、救われてほしい」と願っています。どうぞ、私たちの家族、友人知人、日本の国民が救われるように祈り、そして働きかけましょう。御国の福音を宣べ伝えましょう。 

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2017年8月18日 (金)

枯れたいちじく マタイ21:18-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.20

 空腹時はだれでもイライラするものです。イエス様はお腹が減っていました。いちじくの木に実が1つもなっていないので、八つ当たりしたように思えます。さらに、弟子たちに、いちじくの木になされたこと以上のことができると教えられました。イエス様のことばには確かに力があります。でも、それを破壊的に用いられるというのはどうなんでしょうか。きょうの箇所は解釈的に難しい箇所ですが、根気良く学びたいと思います。

 

1.枯れたいちじく

 いちじくの木はイスラエルを象徴していました。ホセヤ910「わたしはイスラエルを・・・いちじくの木の初なりの実のように見ていた。」とあります。ミカ710「ああ、悲しいことだ。・・・私の好きな初なりのいちじくの実もない。」とあります。ナタナエルがいちじくの木の下で祈っていましたが、それはイスラエルの回復のためでなかったかと思います(ヨハネ148-50)。イスラエルではぶどう園の外側にいちじくの木を植えていたので、大切な果物であったのでしょう。まず、私たちは、きょう登場しますいちじくの木は他のいちじくとちょっと違っていたということを認める必要があります。なぜでしょう?マルコ11章に書いてありますが、葉っぱが異常に生い茂っていたということです。イエス様は「こんなに葉が生い茂っていたら、きっと実もあるに違いない」と期待しました。マタイ2119近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。イエス様は実のないいちじくの木を呪いました。そうするといちじくの木は枯れました。何というイエス様の力でしょう。でも、ちょっと破壊的な感じがします。「何も呪わなくても良いのでは」と思います。マルコ11章を見るとさらに驚きます。マルコ1113後半「葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである」と書いてあります。いちじくのなる季節でないのに、実がないと言って呪うのですか?もう、むちゃくちゃという感じがします。

 この箇所はとても難解ですが、生物学的な面から考えたいと思います。いちじくは夏と秋に二回なるそうです。イエス様がこの場所を訪れたのは春先でした。いちじくは春先に小枝の先端に小さな実をつけます。それをタクシュと言うそうです(聖書学院の松木師)。そのタクシュが一個もないなら、夏にも一個もならないということです。つまり、その木ははじめから実を結ばない木であったということです。でも、ここでイエス様が葉だけが異常に茂っていたいちじくを呪ったことには訳があります。なぜなら、イエス様は今、エルサレムを訪れていたからです。最初の日、エルサレムに入られて、怒って宮をきよめました。中庭で売り買いをして、まるで「強盗の巣」のようでした。それだけではありません。マタイ21章から当時の宗教家たちとの論争がはじまります。エルサレムには神殿がありましたが、形式的で実がなかったということです。儀式や制度、式文、礼拝の仕方がとても宗教的でした。ところが彼らの心は貪欲と汚れで満ちていました。まったくの偽善であり、誠実さもいのちもなくイエス様はそれに我慢できませんでした。つまり、そのいちじくの葉が茂っていたのは、形式的で偽善にあふれた当時のユダヤ教を象徴していたのです。イエス様が呪ったのは、彼らの宗教であります。実際、エルサレム神殿は起源70年にローマによってことごとく破壊され、ユダヤ教徒は世界中に散らされることになります。まさしく、イエス様が預言したごとくになりました。

 私たちはこの出来事を大切な教訓として受け止める必要があります。なぜなら、キリスト教会の歴史において華々しく栄えたけれど、全く実がなかった時代があったからです。東ローマのビザンチン、中世のカトリック教会、そしてロシア正教は本当にきらびやかでした。しかし、当時のユダヤ教とそっくりでいのちがありませんでした。学校で世界史を学ぶと本当に躓きます。では、プロテスタント教会はどうだったでしょうか?政治と結びついたり、大教会になったりすると腐敗しました。タイで最も大きな教会の牧師が政権に出馬するためにお金を使ったことがあります。そこで一生懸命奉仕をしていた日本の牧師が躓きました。韓国の最も大きな教会の牧師が癌になり、治療のため多額のお金を日本に持ち出すとき、外為法で捕まりました。アメリカではテレビの伝道者たちが何人も罪を犯しました。中国も大きな教会がたくさんありますが、国家と裏で通じています。共産主義と妥協した骨抜きの福音を語っています。シンガポールの大教会もお金にからんだスキャンダルがあります。では、実がなくても、小さくて貧しい教会が良いのでしょうか?でも、「実とは何なのか?」ということも考えなければなりません。ピューリタン的な教会は富や繁栄を非常に嫌います。大教会のジョエル・オスティーン師を「繁栄の神学である」と批判する人がいます。私は経済的な祝福も実の1つであると信じます。なぜなら、アブラハム、イサク、ヤコブはみんな富んでいたからです。同時に私たちの生活が神さまを敬うことからくる、きよさ、正義、謙遜、愛、平和などの霊的な実が伴うはずです。ヤコブ書には「真の宗教は、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです」と書かれています。

 生い茂ったいちじくの葉は、偽善と虚栄に満ちた宗教です。そこにはすばらしい儀式、式文、賛美、祈りがあるかもしれません。でも、心がなおざりになっていました。牧師は人数が集まると嬉しいものです。しかし、ひとり一人が神さまと出会って、イエス様を心からあがめているかということが重要です。私が目指している教会は、キリストにあってありのままで神さまの前に出られるという教会です。だれからもさばかれることはありません。なぜなら、みんなキリストの血潮によって赦されているからです。語られる聖書のことばも御霊がなければ、人を殺す律法になります。みことばを御霊によって語るなら、恵みがあふれ、人を生かし、自由がもたらされるでしょう。私たちの心から恐れが取り除かれ、主を慕い求める愛が生まれます。私たちはイエス様の十字架の贖いと聖霊によって、神のみ前に出て、親しい交わりを持つことができます。そうするなら、いやおうなしに実が結ばれていくと信じます。ヨハネ1516「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」アーメン。私は信仰によってもたらされる実は3つの目的があると思います。第一は自分が食べる実です。自分が食べておいしい、自分が食べて養われる必要があります。そうしたら他の人にも勧めることができます。第二は家族や隣人が私たちの結ぶ実を食べて喜びます。キリストにある結実は自分だけのものではなく、必ず他の人にまで及ぶほど豊かになります。第三は神さまが喜ばれます。神さまは私たちが結ぶ実をいただきます。私たちは感謝と賛美と献身と栄光をささげることができます。ローマ121「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」アーメン。私たち自身を聖い、生きた供え物としてささげることが結実の目的であります。神さまは私たちの献身を喜んで受け入れてくださいます。そうすると、結果的に神さまは私たちを祝福して、私たちは豊かな人生を送ることができるのです。詩篇23篇の言うとおりの人生です。詩篇236「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

2.山をも動かす信仰

 マタイ2121-22イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」いちじくの木になされたことは破壊的なものでありました。なぜなら、イエス様が発したことばによって、木が枯れたからです。しかし、イエス様は困難を象徴する山に向かって「動いて、海に入れ」と言っても、そのとおりになりますと言われました。私たちはこの世に生きているので、様々な困難の山に遭遇します。病気、離婚、子どもの問題、会社の倒産や失業、裏切り、死別、事故、災害などがあります。私たちはその時、神さまから与えられた信仰を持って、それらの山に命じたら、山が動くということであります。ですから、私たちはこのところから「山をも動かす信仰」ということを理解し、さらにはその信仰を生活の真ん中で用いるということが重要です。まず、私たちは信仰とは何かということを知らなればなりません。信仰には大きく分けて二種類あります。第一はイエス様を信じることによって、罪赦され、永遠のいのちが与えられるということです。これは救いの信仰であり、クリスチャンであるならだれでも持っています。この信仰さえあれば、いつ死んでも天国に行くことができます。しかし、もう1つの信仰は用いるための信仰、機能的な信仰です。パウロはⅡコリント5章で「私たちは見ゆるところによってではなく、信仰によって歩んでいます」と述べています。実際、目に見えて、手にしているものに対しては、信仰は必要ありません。まだ目に見えていないものには信仰が必要なのです。クリスチャンであっても、この信仰を用いないで生きているために、神さまからのものを受けることができません。あるクリスチャンの信仰は、天国に行くためだけのつつましいものになっています。ヘブル人11章には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」と書いてあります。では、信仰とは何なのでしょうか?ヘブル111のキングジェームス版がとても良く説明しています。Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen. Substanceということばがとても良いです。Substanceは実質、本質、実体と言う意味です。ウォッチマンニーはこの箇所を「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することである」と訳しています。

イエス様はどのようにこの信仰を具体的に用いて、山を動かすのか教えておられます。第一に、「あなたがたが信仰を持ち」と書かれています。まず、私たちは信仰を持つ必要があります。マルコ11章には、Have the faith of God「神の信仰を持て」と書かれています。山をも動かす信仰は私たちのものではなく、神さまがある時、ある人に与えてくださる特別な信仰です。神さまはその人に信仰を与えて、その信仰を用いて、大いなるわざをしたいのです。長血をわずらった女性がイエス様に近づきました。彼女は「お着物にもさわることができれば、きっと直る」と言いながら近づきました。それでイエスさまの着物にさわったら、癒されました。イエス様は「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。つまり、彼女はイエス様にさわる前から、「さわったらきっと直る」と信じていたのです。また、バルテマイという盲人は大声で「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫びました。人々が「うるさい、だまれ」と言っても、ますます大きな声で叫びました。イエス様が彼を呼べと言われた時、彼は上着を捨てて、近づきました。彼が着ていた上着はどこでも物乞いができるという政府が許可したものでした。それを捨てたと言うことは、後ろの橋を焼き捨てたということです。イエス様が「私に何をしてほしいのか」と聞かれました。彼は「目が見えるようになることです」とはっきり言いました。イエス様は「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。二人に共通して言えることは、彼らは癒される前から、信仰によって癒しをいただいていたということです。

第二番目は「疑うことなく」ということです。私たちは信じて求めた後、「やっぱり無理かな」「難しいよね」と疑うことがあります。それはどういうことでしょう?今、注文したものをキャンセルするということです。私もアマゾンでものを頼むことがあります。でも、「やっぱりやめよう」と思ってキャンセルするときもあります。私たちは目をつぶって神さまに一心不乱に求めます。しかし、目を開けると理性と五感が芽生えてきて、「やっぱりできないよ」「無理だよ」と疑ってしまうことがあります。それでは、キャンセルしたことになり、得られるものが得られなくなります。イエス様は真っ暗な嵐の湖の上を歩いてこられました。弟子たちは最初、幽霊ではないかと恐れました。ペテロはイエス様だと知ると「私に水の上を歩いてここまで来い」とお命じなってくださいと願いました。イエス様は「来なさい」と言われました。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエス様のほうに行きました。ところが風を見て、こわくなり沈みかけました。「主よ、助けてください」と叫ぶと、イエス様が手を伸ばして、つかんで引き上げてくれました。イエス様は「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と言われました。ペテロはイエス様から「来なさい」と言われたとき、神からの信仰をいただきました。確かに何歩か水の上を歩きました。すばらしいことです。でも、風が吹いていたので、波しぶきが顔にかかりました。とたんに彼の理性と五感が芽生えてきて、「人が水の上を歩けるはずがない」と疑ってしまったのです。ですから約束のものを得るまでは、信じ続ける必要があります。そのためには、疑いを何としてでも排除しなければなりません。あなたがインターネットで頼んだとき、アマゾンの大きな倉庫を作業員が原票を手にして走ったのです。棚から製品を見つけ出し、荷造りするために箱に入れました。でも、あなたからキャンセルが行きました。彼はイヤホーンから、その知らせを聞いたので、ピタっと作業をやめました。彼は「ちっ」と舌打ちした後、その製品をもとの棚に戻しました。創世記28章に書いてありますが、ヤコブは天から地に向けられているはしごを見ました。神の使いがそのはしごを上り下りしているではありませんか。同じように、神の使いが、あなたが神さまに頼んだものを天の倉から運んでいます。ところが、あなたは「やっぱりできないよ」「無理だよ」と疑ってしまいました。神の使いにキャンセルの知らせが届きました。天使は舌打ちはしないかもしれませんが、その製品をもとの天の倉に戻しました。だから、求めたものは途中で疑ってはならないのです。

第三はオプションです。ある時は、このようにせよということです。この山に向かって、「動いて、海に入れ」と言えということです。これは神さまに言うのではありません。正確に言うと、これは祈りではありません。私たちはこの世において、様々な問題の山に遭遇します。もちろん、私たちは神さまに信仰によって求めます。しかし、山に対しては命じる必要があります。神さまに対しては祈りますが、山に対しては命じるのです。イエス様はいちじくの木に対して「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われました。イエス様は、「いちじくの木になされたことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります」と言われました。ここで重要なのは、「言う」あるいは「命じる」ということです。イエス様は病や障害の癒しの場合、父なる神さまに願っていません。「立って歩け」「伸ばせ」「見えるようになれ」「開け」と命じておられます。死んでいたラザロには「ラザロよ。出て来なさい」と命じました。そうすると、死んでいた人が、手と足を長い布でまかれたまま出てきました。周りの人々は、卒倒したと思います。悪霊に対しても、「出て行け」とひとこと言っただけです。また、嵐のガリラヤ湖にも「黙れ、静まれ」としかりつけました。私たちはこれらの箇所から、求める祈りではなく、山に向かって言う(命じる)ということを知るべきであります。

 私は信仰のメッセージをするとき心がうきうきします。でも、会衆の皆様はそのときは励まされるけど、家に帰ったら「なんだかなー」と霊的に冷めたならば残念です。つまり、神さまがおっしゃる信仰と私が持っている信仰に高低差があると思っているからです。ある人たちは、神さまが信仰を与えるときは、肉声で聞こえたり、幻がはっきりと現れるものだと考えているかもしれません。もちろん、聖書にはそのような記事がたくさんあります。でも、さきほど引用した、長血を患った女性、盲人のバルテマイ、水の上を歩いたペテロなどはそうでもないと思います。彼らは自分が願ったのです。それがイエス様から信仰として認められました。きょうの箇所に何と書いてあるでしょう?マタイ2122「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」と書いてあります。原文を見ると、「ask in prayer祈って求める」が最初で、次に来るのが「believing信じる」です。そして最後に「shall receive受ける」と書かれています。神さまは私たちが何を求めるのか私たちに任せています。その次に信仰がやってきます。最後に与えられるということです。求め、信仰、受けるです。最初に来るのが「求める、願う、望む」ということです。ヘブル111「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することである」と学びました。何よりも先に「望む」ということがなければなりません。多くの人たちは、この最初の地点で諦めています。「求めない、願わない、望まない」ということです。そうしたら、信仰も湧いてこないし、受けることもありません。なぜなら、神さまは求めない者には与えない方だからです。もちろん、求めなくても与えられるものはあります。でも、信仰を持って求めるなら、神さまは喜んで与えて下さいます。長血を患った女性、盲人のバルテマイも願いがかなっただけではなく、イエス様から賞賛を受けました。

 私たちは「どうせ願っても与えられない」「高望みはしないほうが良い。後でがっかりするから」と最初の地点で諦めていないでしょうか?私は8人兄弟の7番目で育ちました。長女とは17歳違っており、親代わりにいろんなものを買ってくれました。セーターとか靴とか、それからヤクルトを飲ませてくれました。長女と結婚している叔父は、私たちの家族が貧しいことを知っていました。その人は、悪気はなかったと思いますが、「〇〇買ってあげる」と家族に口約束をしました。ところが、ほとんど実現されることがなく、家族は「ばしこく(嘘をつく)人だ」と思っていました。それでも、家がとても貧しかったので、その時は期待してしまうのです。後から、ぎゃふんとなります。私はそういう環境で育ったので、大きなものを求めても仕方がないという諦めがありました。J.Bフィリップスが『あなたの神は小さすぎる』という本を書いています。その本には「あなたの父親像が神さまを投影している」と書いてありました。もし、あなたが小さなものしか求めていないとしたなら、あなたの神は小さすぎるかもしれません。日本の教会は、ささやかな信仰を美徳とするところがあります。しかし、イエス様は「たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」とおっしゃいました。もし、私たちの神さまが大きい方だと信じている人であるなら、大きいことを願い、大きいことを求めるのではないでしょうか?

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2017年8月11日 (金)

宮きよめ マタイ21:12-17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.13

 その当時はシナゴーグと呼ばれる会堂で安息日礼拝を守っていましたが、何か特別な場合は神殿で礼拝をささげていました。このときは過ぎ越しの祭りが始まるところだったので、地方からたくさんの人たちがエルサレムに集まっていました。しかし、本来、礼拝の場所であった神殿が、取引や商売のために利用されていたのです。イエス様がエルサレムに入城して、最初に行ったことは、この神殿をきよめることでした。

1.宮きよめ

 エルサレムの神殿には中庭と外庭がありました。きょうの出来事は、神殿の外庭であろうと思われます。日本でも神社の境内には、屋台やおみやげ屋さんが並んでいます。もっと近づくと、おみくじとかお守りが売られています。エルサレムの場合は、宗教的な理由がありました。両替人はお金をユダヤ人の貨幣に替えて手数料を取っていました。たとえば、ローマのデナリ銀貨はカイザルの肖像が刻まれていたので、神に捧げるのに相応しくなかったからです。また、鳩を売っていたと書いてありますが、牛、羊、やぎも売られていました。なぜかと言うと、人々がそれらの動物を遠くから運んでくるのは手間がかかります。また、傷のない完全な生贄でなければなりません。もしも、神殿の側で売られているなら打って付けであります。一見、親切な行為のように思えますが、売り買いすることによって、神殿を管理する人たちが経済的に潤っていたのです。マルチン・ルターの頃は、教会で免罪符が売られていました。人々は罪を軽減してもらうために、その証明書を購入しました。宗教が金儲けの手段になるというのは、どの時代でもあるようです。神の御子であるイエス様は、そういうことがエルサレムでなされていることに聖なる憤りを覚えられました。売り買いする者たちを追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒されました。ヨハネ福音書2章には「細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出した」と書かれています。ちょっと過激な感じがしますが、細なわのむちであるなら、怪我をさせることはありません。イエス様が怒られたというのは、聖書の中にそんなにありません。強いていうなら、小さな子どもたちが祝福を求めて近づいてきたとき、大人たちが邪魔したからです。また、ラザロが死んだとき、墓の前で涙を流しました。しかし、同時に「憤りを覚えられた」と書いてあります。おそらく、死が人間を支配していたからでしょう。今回の場合は、神殿が正しい目的のためにではなく、金儲けの手段になっていたからです。

 では、本来の神殿の目的とは何なのでしょうか?マタイ2113そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」イエス様がおっしゃったのは旧約聖書からの引用です。まず、イザヤ567をお読みいたします。「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」このみことばは、紀元前700年頃のことでした。当時は、宗教はありましたが、人々は正しい行いをしていませんでした。イザヤは「『公正を守り、正義を行うように』と主が仰せられる」と人々に告げました。しかし、この預言は世の終わり、御国が完成するときのものであります。なぜなら、外国人も宦官も聖なる山に集うことができるからです。だから、イザヤ書には「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」と「すべての民」と書かれています。ハレルヤ、私たち異邦人である、日本人も「すべての民」の中に加えられているのです。なぜ、イスラエルなのでしょう?神さまが世界の人たちに仕えるようにイスラエルを祭司の国として選んだからです。でも、イスラエルは堕落し、その務めを果たせなくなりました。世の終わり、神殿を建てなおすために、御子イエス様が来られたのです。その前に、あまりにも神殿が世俗化していたので、少々手荒いことをして、きよめられたのです。もう1つの引用は、エレミヤ711です。「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。主の御告げ」日本語の聖書には「強盗の巣」とありますが、den「ほら穴」「洞穴」というのが正しい訳です。子どもの頃、『アリババと70人の盗賊』という物語を読んだことがあると思います。盗賊たちが洞穴に金銀財宝を隠していました。まさしく、エルサレム神殿が、強盗の洞窟になっていたということです。ちなみに現代の神殿の洞窟をご存じでしょうか?ローマのバチカンこそが、ヨハネ黙示録に記されている大バビロンです。バチカンには世の中の富と財宝が集まっています。宗教というものは、間違った方向に行くと、とても恐ろしい存在であることを歴史が物語っています。

 でも、私たちは「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」というみことばを、現在のキリスト教会にどのように適用すべきでしょう。イエス様が復活してからは、私たち自身が神殿であると聖書に書いてあります。なぜなら、私たちの中に、神の霊、聖霊が住んでおられるからです。そして、このように複数のクリスチャンが集まるところに、神さまが親しく臨在し、私たちの礼拝と賛美を受け入れてくださいます。教会は建物ではなく、私たち自身が教会であるということを第一に理解すべきです。でも、教会は建物とか組織、あるいは人々という意味もあります。世の中では、キリスト教会を「宗教法人の1つ」として捉えています。ですから、宗教法人法によって、活動が規定されています。第一の項目に、「教会の目的とは何か」ということが記されています。それは「教会は神の福音を宣べ伝え、信徒を教えるためにある」ということです。しかし、教会では幼稚園を経営したり、何らかの営業をするところもあります。本来は営利を追求するところではありませんが、福祉的に世の中に仕えるという面もあります。明治時代の頃は、福祉や社会制度、医療や教育制度が整っていませんでした。そのため、キリスト教会が率先して社会活動をしてきました。義務教育、赤線廃止、労働組合、女性の選挙権、禁酒運動…これらはみんなキリスト教国がもたらしたことであることを忘れてはいけません。しかし、近年は国や地方地自体がそういうことを専門にするようになり、「教会は神の福音を宣べ伝え、信徒を教える」ということに集中するようになりました。しかし、良い面もあれば、悪い面も出て来ました。つまり、本来は聖書の考えが根底にありました。それら、すべてのものは聖書の価値観から生まれたのです。でも、日本人はうわべの良いものだけを抽出し、根底にある価値観を捨ててしまいました。だから、何のため仕事をするのか、何のために勉強をするのか、何のため結婚するのか分かりません。

 でも、ここでは世の中の活動は取り上げないで、教会という建物に集まって、なすべき第一のことは何かということを学びと思います。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」というみことばを、教会はどのように適用すべきでしょうか?私の家とは神殿のことですが、これを教会の集まりと解釈しても良いでしょう。私たちはここに集まり、何をしているのでしょうか?当時、人々は神殿に集まり、献金や生贄をささげていました。もちろん、祈りもささげていました。私たちが特に日曜日ここに集まっているのは、何のためでしょう?イエス・キリストが生贄となったことを覚えなければなりません。ヘブル書に書いてありますように、イエス様は一回で永遠の贖いを全うされました。私たちは、イエス様によって罪が贖われているので、大胆に神さまのみ前に近づくことができます。現代の私たちの生贄は、私たちの献身と感謝と賛美であります。では、神のことばをなぜ聞くのでしょうか?さきほどイザヤ書を引用しましたが、当時の人々は、宗教はありましたが、生活が神さまから離れていました。本来、祭司たちが聖書から教えていたのですが、その祭司たちが堕落していました。その代り、預言者が口をすっぱくして神さまに立ち返るように教えました。ですから、この礼拝において説教者は2つのことを聖書から語ります。第一は神さまがなされたみわざを語り、私たちが心から礼拝ささげるように勧めます。第二は神さまのみこころを知り、みこころに沿った生き方ができるように励まします。教会での集まりのゴールは神さまを礼拝し、祈りをささげるということです。その次に、互いに励まし、信仰を高める聖徒の交わりがあります。神殿礼拝と違うのは、犠牲に伴う祭儀がないということです。カトリック教会のようなミサでもないので、シンプルかもしれません。

私は式文を使わないで、できるだけ宗教ぽくしないように努力しています。なぜでしょう?この聖日礼拝は私たちの生活の一部だからです。一部というよりも、私たちの生活の頂点であります。日常性とかけ離れたところが宗教的で良いという考えもあるでしょう。しかし、それだと聖日礼拝での顔と、日常生活の顔が2つ生まれる可能性があります。祭司長や律法学者たちはイエス様から偽善者と呼ばれていますが、2つの顔を使い分けていたからです。私たちはいつでも、イエス様を仰いで、イエス様と一緒に生活します。日曜日の礼拝の時だけイエス様を意識するのではありません。家庭や職場、通勤通学、どの場所、どの時間でも、イエス様を意識します。また、日曜日の礼拝の時だけではなく、いつでも主を賛美し、祈ります。賛美や祈りは声を上げなくてもできます。主は私たちと共に歩まれ、必要を与え、守りを与えてくださいます。キリスト教は宗教ではなく、今も生きておられるイエス様と一緒に生活することだからです。

2.腹を立てた宗教家たち

 エルサレムには長老、祭司長、律法学者、パリサイ人、サドカイ人など、たくさんの宗教家たちがいました。すべてユダヤ教徒なのですが、大きく分けると神殿に仕える人と律法に仕える人に分けられます。一部はサンヒドリンの70人議会に属していました。また、一部は信徒であっても、熱心なユダヤ教徒でした。群衆が登場しますが、エルサレムの住民、ガリラヤから上って来た人たち、過ぎ越しの祭りのために遠くから来た人たちがいたと思われます。これから、イエス様と彼らとの論争が始まります。イエス様は前もって「エルサレムで彼らから苦しみを受け、殺される」と予告していました。イエス様がエルサレムでは、こういうことが起こると知っておられたので、覚悟ができていたと思います。マタイ2114「また、宮の中で、盲人や足のなえた人たちがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた」とあります。イエス様は売り買いしている人たちを追い出して、神殿をきよめただけではありません。神殿の中にいた人たちを癒してあげました。彼らは癒しを求めて神さまのところに来ていたというよりも、物乞いをしていた人たちかもしれません。なぜなら、多くの人たちが神殿にやってくるので、物乞いには良いチャンスだったからです。イエス様は彼らが物乞いをしなくても良いように根本的な解決を与えられました。使徒の働き3章でも、ペテロが生まれつきの足なえを歩かせてあげたことが記されています。ですから、今日の教会も人々に仕える仕え方も、同じではないかと思います。「神の国はことばではなく、力です」とパウロが言ったとおりです。

 盲人や足なえが癒されるというのは、ものすごく嬉しい事であり、神さまをほめたたえるべきことです。ところが当時の宗教家たちは違いました。マタイ2115-16ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」祭司長、律法学者たちは2つのことで腹を立てました。第一は、イエスのなさった驚くべきことを見たからです。イエス様が盲人や足なえが癒されたからです。何故、喜べないのでしょう?それは妬みです。もし、ナザレのイエスがメシヤであるなら、みんな彼のところに行くでしょう。そうしたら、自分たちの教えを誰も聞かなくなり、失業してしまいます。盲人が見え、足なえが歩くというのは、来るべきメシヤのしるしです。本来なら、イエス様の前にひれ伏して、礼拝をささげるべきであります。ところがどういうことでしょう?目の前にメシヤがいるのにも関わらず、妬みを燃やし、腹を立てるとは何ごとでしょう?私は、イエス様の栄光が、彼らの目に隠されていたからだと思います。イエス様は、マタイ1125「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」とおっしゃったことがありました。彼らは心が頑なだったので、そのことが分からなかったのです。リバイバルが起こると、このような奇跡や癒しが起こります。同時に、混乱をもたらすような不思議な現象が起こります。しかし、教会のある人たちが「それは危険だとか、感情的過ぎる」と反対します。そこに、神さまのすばらしいわざが起こっているのに、喜べない人たちが出てきます。彼らがリバイバルの火を消すのです。同じ信仰者の中からそういう人たちが出るとは何という皮肉でしょう。たとい、自分たちの神学に会わなくても、神の霊がなさっておられるのなら、一緒に主をあがめるべきであります。宗教というのは、生ける神さまの働きを妨げることを覚えておきたいと思います。

 もう1つは、宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てたことです。おそらく、子どもたちは、エルサレムに入城したときの様子を見ていたのでしょう。大人たちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいたので、真似していたのかもしれません。でも、神さまを賛美している子どもたちに腹を立てるとは何ごとでしょう?何故、彼らが腹を立てかというと、イエス様を全く歓迎する気持ちがなかったからでしょう。何が「ダビデの子にホサナだ。そういう者が来ちゃ困るんだよ」というのが本音であります。彼らは文句を言っていましたが、イエス様は何と言われたでしょうか?「あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」これは、詩篇82からの引用です。詩篇82「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。」イエス様は詩篇82の前半しか引用しませんでした。しかし、後半は、恐ろしいことが書かれています。つまり、何故、「神さまが幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意されたか?」であります。「それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした」とあります。ということは、子どもたちの賛美が、イエス様に敵対する者たちへの防護壁になっているということです。旧約聖書の「力を打ち建てられた」は英国聖書ではrebuked「譴責する、阻止する」と訳しています。子どもたちは意識していた訳ではないでしょう。でも、神さまが敵対する者をしずめるために、子どもたちの賛美を用いられたということです。ハレルヤ!ということは、私たちは子どもたちの賛美を軽く扱ってはならないということです。リバイバルが起こっている時は特にそうです。

 最近、子どもたちが見た超自然的な夢を賛美にしていると聞いたことがあります。信じるか信じないか別として、彼らは天に引き上げられ、天国での様子を歌にしています。歌詞とか曲は非常にシンプルなのですが、実際に行った者でないと書けない内容になっています。また、ある子どもは世の終わりの救いとさばきについても、克明に記しています。これは日本だけではなく、韓国やその他の国でもあるようです。終わりの時代、神さまは子どもたちの賛美や預言を用いようとされています。「そんなことが聖書的なのか?」という人たちに対して、使徒217があります。ペテロが「あなたがたの息子や娘は預言する」とヨエル書から引用しました。大人の方が常識とか神学に凝り固まっていて、神さまが語っておられるのが聞こえないことがありうるでしょう。目があるのに見えない、耳があるのに聞こえないとは残念なことです。当時の、祭司長、律法学者たちは、イエス様のなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てました。教会は、彼らのようになってはいけないということです。

 イエス様はその日、エルサレムには留まりませんでした。神殿は父の家のはずです。でも、神殿のあるエルサレムから立ち去りとこへ行ったのでしょう?マタイ2117「イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。」ベタニヤにはラザロと、マルタとマリヤのきょうだいたちがいました。ラザロは「あなたの愛しておられる者」と紹介されています。ラザロは一度死にましたが、イエス様によってよみがえらされました。マリヤはイエス様に高価な香油を塗ったことがあります。マルタは一品でも多く料理を作ってイエス様を喜ばそうとした女性です。彼らの家にイエス様は泊まりに行ったのです。エルサレム神殿ではダメです。ベタニヤこそが身も心も休まる家homeです。これまでイエス様は何度もベタニヤの家を訪問しています。最後の5日間はベタニヤの家とマルコの家に寝泊まりしていたと思われます。もし、イエス様が自分たちの家に休むために来るとしたら何と嬉しいことでしょう。イエス様は彼らの家だと全く気を使う必要がなかったでしょう。心休まるところだったと思います。私たちはイエス様のことをそんなに考えていません。自分たちの心が休めるような住まいになるように求めています。椅子やテーブル、調度品、テレビ、オーデォ、自分の書斎…でも、そこにイエス様を歓迎しているでしょうか?私の場合は半分教会で暮らしていますので、礼拝堂がすぐそばにあります。牧師室もあるので、そこが大好きです。でも、イエス様が私と一緒にいて、心騒がしくしていたら嫌ですね。でも、私が一番、嬉しいのはイエス様が隠れたところで頑張っている私を認めていらっしゃるということです。小さな会社の社長は、朝から晩まで何かをしています。仕事と休みと境界線がありません。私も毎日が仕事で、毎日が休みのようです。「牧師は月曜日から土曜日まで何しているんだ?」と裁く人もいるでしょう?昔はそう言われると、心が動揺しました。しかし、今はそうではありません。神さまから重要な啓示を受けているからです。ヨセフのような指揮者として、大事な役割があると思っています。人はどう思おうと、イエス様がよくご存じです。私も皆さんのことはよく分かりません。鈴木牧師はあまり世話をしてくれません。訪問もしてくれません。声もかけてくれません。でも、私は牧師として申し上げることがあります。イエス様があなたと一緒です。イエス様はあなたの心とあなたの家を身も心も休まる家homeにしたいと願っておられます。イエス様がおられるなら夫婦喧嘩をしなくなるでしょう。イエス様がおられるなら変なビデオやインターネットも見なくなります。イエス様がおられるなら聖書を読んだり、学んだりすることが楽しくなります。天国に行ってからイエス様とお会いするのではありません。この地上にあっても、可能です。肉眼では見えず、肉声で声も聞こえませんが、霊において見え、霊において聞こえます。イエス様の声がわかるように霊的なラジオを持ちましょう。イエス様のことが見えるように霊的なテレビを持ちましょう。

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2017年8月 4日 (金)

エルサレム入城 マタイ21:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.6

 イエス様は癒された人たちに、ご自分がだれであるかを言わないように命じていました。なぜなら、当時のメシヤは非常に政治的で、誤解を招くからです。しかし、この時は公にご自分を現し、人々から凱旋将軍のような歓迎を受けました。なぜでしょう?それはこのエルサレムが最終的なゴールだったからです。もう逃げも隠れもせず、ご自分がだれであるかを表明されました。イエス様がエルサレムに入城したのが日曜日であり、金曜日には十字架につけられます。福音書はこの6日間に多くの紙面を割いています。

1.ろばの子に乗って

 イエス様はエルサレムに入るために、ろばの子を必要としていました。しかし、ろばの子を手に入れる方法がまことに奇跡的でした。イエス様はまだ、町には入っていません。オリーブ山のふもとベテパゲにいます。エルサレムは高台にあるので、登り坂の途中であったと思われます。弟子たちは「エリコからずっと登って来られたので、イエス様は疲れを覚えておられるのでは?」と思ったのでしょう。イエス様は超自然的に、向こうの村に、雌ろばとろばの子がつながれているのが見えました。弟子たちがそこへ行って、ろばを連れてくるように命じられました。すると持ち主が「なぜ、ろばを解くのか?どこへ連れていくのだ?」と言うでしょう。そのとき、「主がお入り用なのです」と言うなら、すぐに渡してくれるというのです。持ち主に対して、長々と説明する必要がありません。「主がお入り用なのです」というイエス様のことばは、生きたことばであり、持ち主は、召使のように従うのです。このところに「知識のことば」という奇跡が働いていたのです。私が洗礼を受けて3か月くらいたった頃です。「新宿の中央教会というところで、青年大会があるので来ないか」と聖書学院生からお誘いを受けました。「文化祭みたいなものだから、気軽に」と言われたのですが、なんと献身者を募る青年向けの聖会でした。隣の教会の高木牧師が講壇から甲高い声で「主がお入り用なのです」とメッセージしました。最後に「前に出て来なさい」と招きました。「私はモノじゃないぞ」と反発しましたが、神さまから呼ばれたような気がして前に出て、祈ってもらいました。そして、翌年3月に東京聖書学院に入学しました。その時の修養生というのが家内の同級生の姉妹(湯田民子姉、救われた方のユダ)です。「文化祭だ」と嘘を言われたのです。その時、私は電車の網棚にだれかが忘れていた少年マガジンを手に持って会場に行きました。聖歌も聖書も持っていないので、受付の人はびっくりしたでしょう。私もろばのように、「主がお入り用なのです」とイエス様の声でひっぱって行かれたような気がします。

 なぜ、イエス様はろば、それもろばの子に乗る必要があったのでしょうか?それはイエス様が疲れていたせいではありません。ご自分はだれかということを示したかったからです。旧約聖書では、これを「行動預言」と言います。人々は分かりませんでしたが、イエス様はゼカリヤ書の預言を成就したかったのです。ゼカリヤ99「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」マタイ福音書は70人訳からの引用なので、旧約聖書とはちょっと違っています。でも、ゼカリヤ書ではっきりしていることは、「雌ろばの子の子ろばに」と書いてあることです。マタイによる福音書だけが、雌ろばとろばの子の二頭を連れて来たと書いてあります。マルコやルカは、ろばの子だけを連れてきたように書かれています。しかし、マタイは「これは、旧約聖書の成就なんだ」ということを強調したいがため、あえて「ろばと、ろばの子」と書いています。おそらく、イエス様が実際に乗られたのは、ろばの子であり、雌ろばは伴って歩いていたのではないかと思います。マルコ11章には「まだだれも乗ったことない、ろばの子」と書かれています。ろばの子にとっては、初めての大仕事です。だから、「ふたりでも三人でも」と強調するマタイは、子ろばを見守る母ろばの存在をあえて書いたのではないかと思います。しかし、イエス様をヨタヨタ乗せている、ろばの子が人々の目にどのように映ったのでしょうか?その光景こそが、イエス様がどのようなメシヤかを象徴しているのです。クリスチャンの矢内原忠雄という元東大総長がこのような聖書講義をしています。軍馬ではなくてろばです。戦争ではなくて平和です。傲慢ではなくて柔和です。イエスがろばに乗って都に入られたのは、御自身が国民待望のメシヤであられること、その方法は平和、その性格は柔和であられることを、言葉でなく行動によって宣言されたのです。それ自身が深い詩であります。「私はイスラエルの王である、真の救主である。私にふさわしい柔和な心、砕けたたましいをもって私を迎えよ。シオンの娘よ、これがお前たちの最後の機会である。信じて救われよ!」口にするには、あまりにも感慨無量だったのでしょう。イエスは、ろばに乗られた御自分の姿によって、これを民衆に告げられたのであります。アーメン。

 

ゼカリヤ書9章は、メシヤ預言であることは間違いありませんが、「それはいつ頃、来られるメシヤなのか」ということです。当時のユダヤ人はローマを倒し、イスラエル王国を復興してくださる政治的なメシヤを待ち望んでいました。確かに、預言書には厳しいさばきをもたらすメシヤが来ることが書かれています。でもゼカリヤ書には「この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる」と書かれています。マタイ福音書にもmeek「柔和」となっています。本来、王様が来られるときは、着飾った軍馬が似合っています。しかし、イエス様はあえて、ろばの子でありました。まさしくそれは、柔和を象徴しています。当時の人たちの目には閉ざされていましたが、メシヤは二度に分けて来られるということです。ゼカリヤ書9章の預言は、初臨であります。たとえば、初臨の預言は、「ユダヤの地、ベツレヘムで支配者が生まれる」というものです。イエス様がこの地上に来られたのは、さばくためではなく、和解をもたらすためでした。そのために、ご自分が死んで罪を贖うということが絶対的な目的でした。マタイ1219-20「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは」とあります。では、再臨のメシヤはどのような姿で来られるのでしょうか?黙示録19章にはハルマゲドンの戦いに終止符を打たれる方が描かれています。黙示録1911-13「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は『神のことば』と呼ばれた。」アーメン、誰が見ても、「ああ、このお方はイエス様だな」と分かります。再臨時は、白い馬に乗ってこられ、そのお顔といでたちは、恐ろしいほど凛としています。

 使徒パウロは「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント62と言いました。イエス様が地上に来られてから、A.D、恵みの支配が始まりました。今は、イエス・キリストを信じるだけで救われる恵みの時代であります。しかし、それがいつまで続くかというと、世の終わり、イエス様が再び来られる時までです。あれから時代が進み、2017年ですから、まもなくシャッターが閉まる時刻が迫っています。恵みのシャッターが閉まると反キリストが猛威を振るい、自分の命と交換しなければ救いを得られなくなります。迫害があまりにもひどくなるので、反キリストを信じた方が楽になるからです。イエス様は「その日は、ちょうどノアの日のようだ」と言われました。人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。イエス様が世の終わりやってくるのもそれと同じです。

再臨に備えるため、私たちは最低限、2つのことをしなければなりません。第一は一人でも多くの人が神との和解をもたらしてくださった、イエス・キリストを信じるように働きかけなければなりません。もちろん、仕事をしながら、家事をしながら、学生ですと勉強しながらです。日本にはクリスチャンが1%も満たないので、人々が福音を聞くチャンスはあまりないでしょう。そうであれば、少なくとも、私たちが毎日、顔を合わせる人たちに責任があると思います。再臨に備えるための第二は、私たち自身の信仰生活です。今度お会いするイエス様は「王の王、主の主」なるお方です。黙示録には「御顔は太陽のように照り輝き、その目は燃える炎であり、口からは鋭い剣が出ている」と書いてあります。柔和さなど一遍もありません。もちろん、イエス様は優しいお方であることは間違いありません。でも、やがて来られるイエス様がそのようなお方であるなら、神さまをなめてかかってはいけません。できるだけ罪と汚れから離れ、聖霊に満たされ、義なる生活をしていることが必要です。今日の箇所には「オリーブ山」が出てきます。弟子たちが天にお帰りになるイエス様を見上げていた時、御使いがこのように言いました。使徒111「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」ハレルヤ!再び来られるという聖書の預言を信じて、いつでも主とお会いできるように生活していきたいと思います。

2.群衆の歓迎

 マタイ218-9すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」ヨハネによる福音書には「しゅろの葉をとって出迎えた」と書いてあります。ですから、日曜日、イエス様が入城した日をPalm Sundayと呼んでいます。おそらく過ぎ越しの祭りのために、エルサレムの人口は普段の倍くらい膨れ上がっていたと思われます。群衆はどのように叫んだのでしょうか?「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」これは、詩篇11825-26の引用です。「ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。」「主よ。どうぞ救ってください」のヘブル語読みが「ホサナ」であります。群衆はイエス様をダビデの子、預言されていたメシヤだと考えていました。何度も言いますが、人々はローマを倒して、イスラエル王国を復興してくださる政治的メシヤを求めていました。高官などの要人を歓迎するための、レッドカーペットというのがありますが、これと似ています。布の代わりにしゅろの葉と自分たちの上着を道に敷いたのですから、よっぽどの歓迎ぶりだったのではないでしょうか?さながら、凱旋将軍のようであります。

 数日後、同じ群衆がイエス様を「十字架につけろ」と暴徒に化すということが信じられるでしょうか?私は群衆の中には二種類いたのではないかと思います。ガリラヤからイエス様と一緒に着いてきた群衆と、エルサレムにいた群衆です。ちょうど過ぎ越しの祭りが重なる時期なので、地方から来ていた人たちもたくさんいたと思われます。その証拠が、1011節のことばです。マタイ211011「こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、『この方は、どういう方なのか』と言った。群衆は、『この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ』と言った。」よく見ると、エルサレムにいた人たちは、「この方は、どういう方なのか」と聞いています。おそらく、ガリラヤから着いて来た人たちが「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ」と他の群衆に教えたのではないかと思います。ガリラヤから着いて来た人たちの中には教えに感動した人たち、病を癒していただいたり、パンの奇跡に預かった人たちも含まれていたことでしょう。親身になってイエス様や弟子たちの身のお世話をする婦人たちも同行していたでしょう。しかし、危険なのはイエス様のことをあまり知らない群衆たちです。でも、彼らは一様に「ダビデの子イエス」のフアンでした。フアンというのは、うわべだけの信仰であり、キリストと個人的な関係のない人たちです。だから、数日後、イエス様が捕えられた時、扇動されたのです。マタイ2720「しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。」マタイ2720「すると、民衆はみな答えて言った。『その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。』」あの群衆がこんなにも変わるものかと驚くばかりです。

 J.C.ライルがこのように解説しています。「これが人間の性質を忠実に現している絵である。神をたたえることよりも、人間をたたえる愚かな考えが、ここに証明されている。人気ほど、気まぐれで不確かなものはない。きょうはここにいるが、明日は去ってしまう。砂の上に建てられた家が、倒れてしまうのと同じである。きのうもきょうも同じである方のfavorを求めよう。彼の愛とfavorは尽きることなく永遠に続くからである。」favorというのは、日本語に訳しづらい、ことばです。私は日本のリバイバルのため用いられたいと熱く願っています。何故かと言うと、私のために特別に祈ってくれた方々がいたからです。天に召された申賢均牧師、インドネシアのエディ・レオ師、そしてこの間、日本に来てくれたダニエル・コレンダ師です。これらの先生方から、按手して祈ってもらい、favorをいただいたからです。Favorというのは、「好意、親切、世話、愛顧、ひいき、支持」であります。簡単に言うと、「あなたはリバイバルのためきっと用いられるよ」と祈ってくれたのです。しかし、それが人間のfavorにとどまらず、イエス様に支えられていると信じています。イエス・キリストは昨日もきょうも永遠に変わらないお方だからです。このお方に目をとめていくとき、私たちの信仰は岩の上に建てられた家のように倒れることがありません。私たちは群集心理、日和見主義的な信仰であってはなりません。そのためには「キリスト・ファン」ではなく、「キリストいのち」として生きるべきです。「私はキリストなしでは生きてゆけない」ということです。

 1990年から、弟子訓練が韓国から入ってきました。もちろん、その前からナビゲーターやキャンパス・クルセードでその考えはありました。韓国から入ってきた弟子訓練は、ある意味では独特のものでした。なぜなら、徴兵制度のような訓練だったからです。サラン教会の姜ミョンという弟子訓練のスペシャリストがいました。彼女の弟子訓練に「休んではいけないが、死んでもいけない」というスローガンがありました。2年間は休んではいけないので、ある人は点滴を吊るしながら出席したそうです。私はその団体に10年間、属していましたが、最後には「これは違うのでは」と思って辞めました。その弟子訓練の根底に流れている考えはこれです。「教会には群衆と弟子の二種類がいる。群衆クリスチャンは何かあると教会を去って行く。絶対離れない、弟子クリスチャンを作らなければならない」という前提がありました。そうしますと、日曜日、会衆を見ると、「この人は群衆で、この人は弟子だろうか」という色メガネで見るようになります。また、その弟子訓練では「あなたは変わらなければならない」という言い方がよくされました。つまり、そのままではダメだというメッセージがいつもあるのです。韓国のクリスチャンは叩かれると、「なにクソ!」ともっとがんばります。でも、日本のクリスチャンは、「ヘニョ」となってもう来なくなります。「聖書は何と言っているのだろうか」改めて考えました。使徒241「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」ペンテコステの日、ペテロの説教を聞いて、バプテスマを受けた人たち3000人が「弟子」と呼ばれています。彼らはまだ弟子訓練のクラスを1つも受けていません。また、パウロは一番問題のあったコリントの教会の人たちを「聖徒」と呼んでいます。聖書的な考えは、イエス様を信じたらキリストの弟子であり、聖徒なんだということです。それで良いかというとそうではありません。本当の弟子、本当の聖徒になるために訓練を受けるということです。スタートが律法ではなく、恵みだということです。

 教会では「ホサナ」という賛美をよく歌います。「主よ。どうぞ救ってください」のヘブル語読みが「ホサナ」であります。彼らはイエス様を「ダビデの子にホサナ」と叫びました。また、人々は「預言者イエスだ」とも言いました。しかし、それは間違っています。イエス様はダビデの子でもなく、預言者でもありません。イエス様は生ける神の子、キリストです。この間、東京ファイヤーカンファレンスでガーナでの奇跡が放映されていました。首都アクラで100万人規模の集会が開かれていました。ある男性が親戚の家に来たのですが、帰りの列車に乗り遅れました。彼は集会の端っこのベンチで寝ていました。すると、耳が突然聞こえるようになり、集会の音が入ってきました。彼は石工でしたが2年前から全く耳が聞こえなかったのです。彼は驚いて、集会のプラットホームに走っていきました。「耳が聞こえた。聞こえた」と大声で伝えました。講師のコレンダ師が集会に出ていない人が癒されたことを知って驚いて人々に紹介しました。彼はイスラム教徒で、自分の名前や住所が知られると危険なのですが、恐れないで証をしました。彼は「イエスは預言者です。コーランにも書かれています」と言いました。コレンダ師は、「預言者じゃなくて神の子、救い主だよ」と訂正しました。彼は「私の耳を聞こえるようにできたのは神さましかいない。イエスは神の子、救い主だ」と告白しました。彼はあとのインタビューで「私は牧師になって、イエスのことをみんなに知らせたい」と答えていました。聖霊様が集会にも出ず、ベンチの端っこで寝ている男性に触れてくださったのです。最後には、「イエス様が神の子、救い主だ」と告白しました。それも、聖霊様の働きです。人間の考えから出たことではありません。

 私たちはイエス様を信じて、クリスチャンになったことをまず感謝しなければなりません。私たちは聖霊によって生まれ変わり、キリストの弟子、聖徒になったのです。私たちはキリストを信じたという1点で、神さまから受け入れられ、ありのままで愛されているのです。これが基本にないと、誤った弟子訓練になります。誤った弟子訓練とは、神さまに受け入れられるために、がんばるということです。神さまの愛を得るためにがんばる必要はありません。すでに、ひとり子を与えるほどに愛されているからです。どうぞ、無条件の愛をいただいているということを信仰のベースにしましょう。この私が一番良い模範です。あのときは、「主がお入り用なのです」と言われて、深く考えもしないで前に出ました。まだ何も勉強もせず、訓練も受けていないのに、主のみ声に従いました。まだだれも乗せたことのない、ろばの子もイエス様に用いられました。あなたは既にキリストの弟子であり、聖徒なのです。どうぞ、恵みからスタートしましょう。

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