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2017年8月25日 (金)

悔い改めた人たち マタイ21:28-32 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.27

 みなさんは一度決断したら、前に向かって進むというタイプでしょうか?それとも、間違ったと分かったら、戻る方でしょうか?もちろん、対象によると思いますが、頑固一徹というのも問題です。神の国に入った人は、方向を転換した人たちと言って良いでしょう。なぜなら、この世の多くの人たちは神さまに背を向けて歩いているのに、クリスチャンは悔い改めて、信じることができたからです。ちなみに「悔い改める」は、change of mind考えを変えるという意味です。

1.悔い改めない人たち

 悔い改めない人たちというのは、当時の宗教家たちです。祭司長と民の長老たちがイエス様に文句をつけました。なぜなら、イエス様が神殿にやって来て、売り買いしている者たちを追い出したり、両替の台や鳩を売る者たちの腰掛けを倒したからです。彼らは「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか」と聞きました。権威の出所を聞いたわけです。もし、イエス様が「神からだ」と答えるなら、冒涜罪として訴えるつもりでした。しかし、イエス様は直接答えるのではなく、逆に質問で答えました。マタイ2124「私もひとことあなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、私も何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」彼らは面食らいながら、互いに論じ合いました。25節途中からお読みします。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません」と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。このところには、イエス様の広くて深い知恵が現れています。直接、答える代わりに、質問したのはなぜでしょう?箴言264-5「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。」

 バプテスマのヨハネはイエス様を「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」と預言しました。それだけではありません。直接、イエス様をご覧になったとき、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と宣言しました。当時の宗教家たちもバプテスマのヨハネが言ったことを聞いたことがあるでしょう。彼らは群衆を恐れて、はっきりと返事ができませんでした。だれでも、イエス・キリストに出会うなら、信じるか信じないか、2つに1つしか選択できません。彼らは「わかりません」と言いました。わからないはずはありません。彼らは聖書に精通し、イエス様がなされた多くのしるしを見ました。まさしく、来るべきメシヤ、キリストであることがわかっていました。わかっていたのに、信じなかったのです。これを何と言うでしょうか?神への反逆であり、不従順です。私たちは「わかったら、信じるのが筋というものでしょう」と言うかもしれません。分かるというのは多くの場合、知的に分かるということです。しかし、人間は知性で動いていません。心の深いところで、決断しています。ある人たちは、たばこや酒が体に悪い事は百も承知ですが、それをやめられません。犯罪も悪いと百も承知ですが、それをしてしまうのは何故でしょう?人間は知性だけでは生きていないということです。私たちは知的な勉強だけではなく、心の深い部分も開拓する必要があります。心の深い部分は、聖書を学び、まことの神を礼拝することによって開拓されると信じます。当時の宗教家たちは聖書を学び、まことの神を礼拝していたのですが表面的でした。そして、目の前におられるキリストを信じませんでした。なぜでしょう?信じたら、自分の生活を変える必要があるからです。彼らは宗教的な立場やプライドを捨てることができませんでした。死活問題ということばがありますが、宗教で食べていたので、あえて拒絶したのです。

 私が座間キリスト教会で奉仕していた頃、自宅にエホバの証人の方が来ました。あんまりしつこいので、一緒に聖書を突き合わせて学びました。彼らはイエス様を神として認めていません。キリストの十字架の贖いも不十分であると思っています。だから、救いを得るために、奉仕をしたり宣教活動をします。最終的に、「あなたもイエス様を信じたらどうですか?信仰は行いではなく、恵みですよ」と迫りました。するとその方は、「30年もやっているので、今更、変えられない」と言いました。その方は人を指導する立場の人でした。それっきり、その人は来なくなりました。イエス様を信じるということは、私たちの生き方や価値観、全部変えなければいけません。でも、一番、抵抗するのは私たちの自我ではないでしょうか?イエス様を信じるということは、人生の主人、王として受け入れることです。王様はふたり存在できません。自分の王座をイエス様に明け渡し、自分が主のひざもとで暮らすことになります。だれでも、この葛藤を乗り越えなければなりません。だから、キリスト教では信じることを「回心」と呼びます。回心は英語でconversionと言いますが、「転換、転化、転向」という意味があります。テレビのビフォー・アフターという番組が打ち切りになったようです。私の家内が大好きな番組でした。リフォームの場合は、土台や柱をそのまま生かして、壁や内装を変えます。匠が、以前、住んでいた家の一部を記念にして設置していました。ある意味では感動する番組です。しかし、conversionは全部壊して、土台も柱も新しくするようなものです。私はリフォームよりも建て替えの方が好きです。なぜなら、とても聖書的だからです。その根拠となるみことばがこれです。Ⅱコリント517 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」どうでしょう?古い人生に未練があるでしょうか?古い人間関係、古い価値観、古い楽しみ、古い知識を捨てましょう。継ぎ足しやリフォームではなく、conversion全部壊して、土台も柱も新しくさせていただきましょう。

2.悔い改めた息子

 イエス様は彼らにたとえで話しました。たとえはいろんな効果があります。その1つは敵対している人たちにたとえで話すことによって、自ら悟らせることができます。このたとえは、悔い改めようとしない祭司長と民の長老に向けて語られたものです。「ある人にふたりの息子がいた」というくだりではじまります。私が一番おどろいたのは兄と弟の順番です。日本語の聖書は、兄が「行きます」と言って、あとで行きません。そして、弟が「行きたくない」と断って、あとで行くというたとえ話になっています。ところがギリシャ語や英語の聖書、新共同訳は、順番が全く逆です。それに、両者ともsonなので、兄なのか弟なのか分かりません。最初の息子は「行かないよ」と断りましたが、悔い改めて、ぶどう園に行きました。Repent「悔い改める」ということばがはっきり書かれています。第二の息子は「行きます」と言いましたが、行きませんでした。イエス様は彼らに「二人のうちどちらが、父の願ったとおりにしましたか?」と聞きました。彼らは「最初の息子です」と答えました。新改訳聖書は最初の兄が悪くて、次の弟が良いように書かれていますが、ほとんどの聖書は逆なのに、なぜ、そうなったのか分かりません。新改訳聖書は、「あとの者です」という答えを言わせるためだったのではと思います。なぜなら、さきの者はユダヤ人で、あとの者というのは異邦人だからです。でも、ほとんどの聖書は全く逆です。聖書ではお兄さんが悪者で、弟は良いように書かれています。みなさんにとってはどうでも良い話題たったかもしれません。しかし、たくさんの聖書を床に並べて、爽快でした。「時々、こういうところからメッセージができるだろうか?」という時がありますが、きょうがその箇所でした。でも、すばらしい発見ができて目が覚めるような思いでした。

 イエス様がおっしゃりたいことはこのことです。31節後半「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」彼らは最初「行かない」と言ったのに、悔い改めて、ぶどう園に行った息子のことです。一方、祭司長や民の長老は「行く」と言ったのに、行かなかった息子のことです。イスラエルは神に選ばれた人たちでした。ところが旧約聖書の歴史は神に背いた歴史です。イエス様の前に、バプテスマのヨハネが荒野に現れました。彼は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と叫びました。彼が来た目的は、主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにするためでした。荒野にパリサイ人やサドカイ人が大勢バプテスマを受けるためにやってきました。彼らは祭司長や民の長老の仲間であり、彼らの一部がバプテスマを受けていたかもしれません。その後、ヨハネが「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と紹介したイエス様がやってきました。ヨハネが預言した本人がやってきたのです。イエス様は、福音を宣べ伝え、会堂で教え、メシヤとしての奇跡をたくさん行いました。ところが彼らの中に嫉妬心が生まれました。本来なら、メシヤに場所を譲るべきでしたが、それができませんでした。なぜなら、自分たちの立場や名誉を失いたくなかったからです。自分たちこそ律法と神殿を管理している権威者だと自負していたからです。長い間メシヤを待ち望んでいたのに、実際に来たら、拒絶してしまうとはどういうことなのでしょう。

 一方、最初は「行かない」と言ったのに、悔い改めて、行った人たちとはだれでしょう?31節後半「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」取税人や遊女たちこそが、悔い改めた息子の方です。元来、ギリシャ語の「悔い改める」は方向転換であり、罪を懺悔するという意味がありません。でも、たとえ話では「あとから悪かったと思って」と書いてありました。おそらく取税人や遊女たちも「悪かったと思って」信じたのかもしれません。つまり、「悔い改める」には、「悪かった」という気持ちがあっても良いし、なくても良いということだと思います。取税人や遊女たちの場合は、「ああ、本来の生き方をしていなかったので、父なる神さまに逆らって悪かったなー」と思ったかもしれません。何を言いたいかと言うと、悔い改めて、霊的に生まれ変わると何が悪いか良いか分かるようになるということです。それまでは霊的に無感覚であったからです。ですから、罪を懺悔することを救いの条件にするのではなく、救われる一歩手前の出来事ではないかと思います。もっと正確に言うなら、聖霊様に触れられているからではないかと思います。その根拠となるみことばがあります。ヨハネ168「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」これは、聖霊がまだイエス様を信じていない人にどのように働くかを教えているみことばです。聖霊がその人に触れてはじめて、罪について分かるからです。でも、罪が何か分かったから救われるわけではありません。「悪かった」という後悔では人は救われません。悔い改め、つまり方向転換する必要があります。取税人や遊女たちは悔い改めて、神の国に入った人たちです。本当に皮肉なもので、聖書を良く知っていて、神を礼拝している人が救われたのではありません。聖書のこともよく分からないし、神さまを礼拝していない人が救われました。どこが問題だったのでしょうか?彼らは立場やプライド、自我に執着がなかったのです。宗教家たちと比べ、失うものもなかったので、信じやすかったのかもしれません。外見は罪人で汚れていたかもしれません。しかし、心の中には飢え渇きがありました。聖霊様に触れられて、「アーメン」と答えられる人は幸いです。マタイ53「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」アーメン。みなさんも、心が貧しかったので救われたのではないでしょうか?心が貧しくさせられることがあった。それで救われた人もいるかもしれません。悔い改めて、神の国に入った人たちは幸いです。

3.神の国に入る

第三は「最初に神の国に入った人たちはだれなのか?また、彼らは何を信じて救われたのか」ということを考えたいと思います。マタイ2132「というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」キリスト教会では十字架で罪を贖い、三日目によみがえられたイエス様を信じることで救われると言います。しかし、取税人や遊女たちはだれを信じたのでしょうか?義の道を持って来たバプテスマのヨハネを信じて救われました。このところで、私たちは救われるとはどういう意味なのか考えてみたいと思います。バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ32と宣教を開始しました。その後、イエス様も「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ417と宣教しました。時間的にはバプテスマのヨハネが早かったのです。で、人はいつから神の国に入ったのでしょうか?もう一度、イエス様のことばを見てみましょう。マタイ2131以降まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」このところで分かるのは、取税人や遊女たちがバプテスマのヨハネのメッセージを聞いて信じたときに、神の国に入りました。言い換えると、救われたということです。どのようなメッセージでしょうか?「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」です。マルコ福音書には天の御国は、神の国となっています。ユダヤ人は神と言うべきところを「天」と置き換えました。十戒の主の御名をみだりに唱えないためです。では、神の国とは何なのでしょうか?どうして、人は救われるために、悔い改めて、神の国に入る必要があるのでしょうか?

ジョージ・E・ラッドという聖書学者が『神の国の福音』という本を書いています。神の国は神の王国であり、ギリシャ語でバシレイアと言います。彼の本から少し引用します。「王国とは、何よりもまず第一に、支配する権威であり、王の統治権である。それが行使される領土を意味するものではない。われわれが受け入れるべきものは、神の支配なのである。未来の神の国という領域に入るためには、人はいまこの世において、完全な信頼をもって神の支配に自分をゆだねなくてはならない。」そうです。バプテスマのヨハネが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言いました。祭司長と民の長老たちは受け入れませんでしたが、取税人や遊女たちはヨハネの言うことを信じたのです。言い換えると、完全な信頼をもって神の支配に自分たちをゆだねたのです。福音とは何でしょう?私たちは「イエス・キリストの十字架と復活を信じることによって救われること」と定義するかもしれません。しかし、厳密に言うならば、福音とは神の国の福音であり、神の支配を受け入れることによって人は救われるという良い知らせです。その良い知らせを持ってきた最初の人物がバプテスマのヨハネだったのです。そして、イエス・キリストの十字架と復活は、神の国が力強く、この世に臨んだことの保証であります。でも、十字架と復活の前にも人は神の国に入り、救われていたのです。確かに見つけにくかったかもしれませんが、飢え渇く人にはその入口が見えました。イエス様がこのようにおっしゃっています。マタイ1112「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」その当時は、激しく攻め、奪い取るような信仰がなければ神の国に入ることができなかったのです。「激しく攻める者たち」というのは、こじあけてでも入ろうとする取税人や遊女たちのことであります。その頃は、神の国の門は完全に開かれてなかったのです。ちょっとだけ開いていて、人ひとりが入るのがやっとでした。だから、彼らは体当たりしたり、こじ開けたりして、無理やり入ろうとしたのです。でも、神さまはそういう人たちをむしろ歓迎し、喜びました。なぜなら、不完全な福音でも神の国に入ろうとしたからです。

 私たちの時代はどうでしょう?聖書は完成し、神の国の福音が聖霊によって力強く臨んでいる時代に生きています。中には聖書は信じているけど、聖霊の力は信じないという教会もあります。それでも、神の国の福音を聞いて、信じたら人は救われます。紀元後386年、アウグスチヌスが回心しました。ミラノの自宅で隣家のこどもたちが「とって読め、とって読め」と歌っていました。そのとき、開いた聖書箇所がこれです。ローマ1313-14「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」アウグスチヌスは取税人や遊女たちに劣らぬ堕落した生活をしていました。そのとき、このみことばによって、悔い改めて信じました。彼は劇的に回心して、修道士になり、やがてはピッポの監督になりました。パウロの時代が、「夜はふけて、昼が近づいた」のであれば今はどうでしょう?アウグスチヌスが回心したのが紀元後386年です。今は、紀元後2017年ですから、再臨間近といっても過言ではありません。もうすぐ神の国の門は閉ざされるでしょう。イエス様から天の御国の鍵をゆだねられた使徒ペテロは何と言っているでしょう?Ⅱペテロ38-9「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

 まもなく天の御国の門が閉まろうとしています。御国のガードマンが腕時計をにらんでいます。受付の御使いは、予定されていた日本人の数がとても少ないのでがっかりしています。使徒ペテロも何で来ないんだとイライラしています。イエス・キリストが十字架ですべての罪を贖ってくださいました。マタイ2414「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」このみことばは、全世界の人が信じたら終わりが来るとは書いていません。「全世界に御国の福音が宣べ伝えられたら」と書いてあります。福音はイスラエルからはじまり、ヨーロッパに渡り、南北のアメリカに渡り、アジア、アフリカに渡りました。もう、西アジアであるイスラエルに到達しています。使徒ペテロは天の御国の門に片足だけでなく、体をはって閉門を阻止する構えです。ペテロは「まだ、救われる人がいるはずだ。もっと、救われてほしい」と願っています。どうぞ、私たちの家族、友人知人、日本の国民が救われるように祈り、そして働きかけましょう。御国の福音を宣べ伝えましょう。 

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