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2017年8月18日 (金)

枯れたいちじく マタイ21:18-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.20

 空腹時はだれでもイライラするものです。イエス様はお腹が減っていました。いちじくの木に実が1つもなっていないので、八つ当たりしたように思えます。さらに、弟子たちに、いちじくの木になされたこと以上のことができると教えられました。イエス様のことばには確かに力があります。でも、それを破壊的に用いられるというのはどうなんでしょうか。きょうの箇所は解釈的に難しい箇所ですが、根気良く学びたいと思います。

 

1.枯れたいちじく

 いちじくの木はイスラエルを象徴していました。ホセヤ910「わたしはイスラエルを・・・いちじくの木の初なりの実のように見ていた。」とあります。ミカ710「ああ、悲しいことだ。・・・私の好きな初なりのいちじくの実もない。」とあります。ナタナエルがいちじくの木の下で祈っていましたが、それはイスラエルの回復のためでなかったかと思います(ヨハネ148-50)。イスラエルではぶどう園の外側にいちじくの木を植えていたので、大切な果物であったのでしょう。まず、私たちは、きょう登場しますいちじくの木は他のいちじくとちょっと違っていたということを認める必要があります。なぜでしょう?マルコ11章に書いてありますが、葉っぱが異常に生い茂っていたということです。イエス様は「こんなに葉が生い茂っていたら、きっと実もあるに違いない」と期待しました。マタイ2119近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。イエス様は実のないいちじくの木を呪いました。そうするといちじくの木は枯れました。何というイエス様の力でしょう。でも、ちょっと破壊的な感じがします。「何も呪わなくても良いのでは」と思います。マルコ11章を見るとさらに驚きます。マルコ1113後半「葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである」と書いてあります。いちじくのなる季節でないのに、実がないと言って呪うのですか?もう、むちゃくちゃという感じがします。

 この箇所はとても難解ですが、生物学的な面から考えたいと思います。いちじくは夏と秋に二回なるそうです。イエス様がこの場所を訪れたのは春先でした。いちじくは春先に小枝の先端に小さな実をつけます。それをタクシュと言うそうです(聖書学院の松木師)。そのタクシュが一個もないなら、夏にも一個もならないということです。つまり、その木ははじめから実を結ばない木であったということです。でも、ここでイエス様が葉だけが異常に茂っていたいちじくを呪ったことには訳があります。なぜなら、イエス様は今、エルサレムを訪れていたからです。最初の日、エルサレムに入られて、怒って宮をきよめました。中庭で売り買いをして、まるで「強盗の巣」のようでした。それだけではありません。マタイ21章から当時の宗教家たちとの論争がはじまります。エルサレムには神殿がありましたが、形式的で実がなかったということです。儀式や制度、式文、礼拝の仕方がとても宗教的でした。ところが彼らの心は貪欲と汚れで満ちていました。まったくの偽善であり、誠実さもいのちもなくイエス様はそれに我慢できませんでした。つまり、そのいちじくの葉が茂っていたのは、形式的で偽善にあふれた当時のユダヤ教を象徴していたのです。イエス様が呪ったのは、彼らの宗教であります。実際、エルサレム神殿は起源70年にローマによってことごとく破壊され、ユダヤ教徒は世界中に散らされることになります。まさしく、イエス様が預言したごとくになりました。

 私たちはこの出来事を大切な教訓として受け止める必要があります。なぜなら、キリスト教会の歴史において華々しく栄えたけれど、全く実がなかった時代があったからです。東ローマのビザンチン、中世のカトリック教会、そしてロシア正教は本当にきらびやかでした。しかし、当時のユダヤ教とそっくりでいのちがありませんでした。学校で世界史を学ぶと本当に躓きます。では、プロテスタント教会はどうだったでしょうか?政治と結びついたり、大教会になったりすると腐敗しました。タイで最も大きな教会の牧師が政権に出馬するためにお金を使ったことがあります。そこで一生懸命奉仕をしていた日本の牧師が躓きました。韓国の最も大きな教会の牧師が癌になり、治療のため多額のお金を日本に持ち出すとき、外為法で捕まりました。アメリカではテレビの伝道者たちが何人も罪を犯しました。中国も大きな教会がたくさんありますが、国家と裏で通じています。共産主義と妥協した骨抜きの福音を語っています。シンガポールの大教会もお金にからんだスキャンダルがあります。では、実がなくても、小さくて貧しい教会が良いのでしょうか?でも、「実とは何なのか?」ということも考えなければなりません。ピューリタン的な教会は富や繁栄を非常に嫌います。大教会のジョエル・オスティーン師を「繁栄の神学である」と批判する人がいます。私は経済的な祝福も実の1つであると信じます。なぜなら、アブラハム、イサク、ヤコブはみんな富んでいたからです。同時に私たちの生活が神さまを敬うことからくる、きよさ、正義、謙遜、愛、平和などの霊的な実が伴うはずです。ヤコブ書には「真の宗教は、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです」と書かれています。

 生い茂ったいちじくの葉は、偽善と虚栄に満ちた宗教です。そこにはすばらしい儀式、式文、賛美、祈りがあるかもしれません。でも、心がなおざりになっていました。牧師は人数が集まると嬉しいものです。しかし、ひとり一人が神さまと出会って、イエス様を心からあがめているかということが重要です。私が目指している教会は、キリストにあってありのままで神さまの前に出られるという教会です。だれからもさばかれることはありません。なぜなら、みんなキリストの血潮によって赦されているからです。語られる聖書のことばも御霊がなければ、人を殺す律法になります。みことばを御霊によって語るなら、恵みがあふれ、人を生かし、自由がもたらされるでしょう。私たちの心から恐れが取り除かれ、主を慕い求める愛が生まれます。私たちはイエス様の十字架の贖いと聖霊によって、神のみ前に出て、親しい交わりを持つことができます。そうするなら、いやおうなしに実が結ばれていくと信じます。ヨハネ1516「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」アーメン。私は信仰によってもたらされる実は3つの目的があると思います。第一は自分が食べる実です。自分が食べておいしい、自分が食べて養われる必要があります。そうしたら他の人にも勧めることができます。第二は家族や隣人が私たちの結ぶ実を食べて喜びます。キリストにある結実は自分だけのものではなく、必ず他の人にまで及ぶほど豊かになります。第三は神さまが喜ばれます。神さまは私たちが結ぶ実をいただきます。私たちは感謝と賛美と献身と栄光をささげることができます。ローマ121「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」アーメン。私たち自身を聖い、生きた供え物としてささげることが結実の目的であります。神さまは私たちの献身を喜んで受け入れてくださいます。そうすると、結果的に神さまは私たちを祝福して、私たちは豊かな人生を送ることができるのです。詩篇23篇の言うとおりの人生です。詩篇236「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

2.山をも動かす信仰

 マタイ2121-22イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」いちじくの木になされたことは破壊的なものでありました。なぜなら、イエス様が発したことばによって、木が枯れたからです。しかし、イエス様は困難を象徴する山に向かって「動いて、海に入れ」と言っても、そのとおりになりますと言われました。私たちはこの世に生きているので、様々な困難の山に遭遇します。病気、離婚、子どもの問題、会社の倒産や失業、裏切り、死別、事故、災害などがあります。私たちはその時、神さまから与えられた信仰を持って、それらの山に命じたら、山が動くということであります。ですから、私たちはこのところから「山をも動かす信仰」ということを理解し、さらにはその信仰を生活の真ん中で用いるということが重要です。まず、私たちは信仰とは何かということを知らなればなりません。信仰には大きく分けて二種類あります。第一はイエス様を信じることによって、罪赦され、永遠のいのちが与えられるということです。これは救いの信仰であり、クリスチャンであるならだれでも持っています。この信仰さえあれば、いつ死んでも天国に行くことができます。しかし、もう1つの信仰は用いるための信仰、機能的な信仰です。パウロはⅡコリント5章で「私たちは見ゆるところによってではなく、信仰によって歩んでいます」と述べています。実際、目に見えて、手にしているものに対しては、信仰は必要ありません。まだ目に見えていないものには信仰が必要なのです。クリスチャンであっても、この信仰を用いないで生きているために、神さまからのものを受けることができません。あるクリスチャンの信仰は、天国に行くためだけのつつましいものになっています。ヘブル人11章には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」と書いてあります。では、信仰とは何なのでしょうか?ヘブル111のキングジェームス版がとても良く説明しています。Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen. Substanceということばがとても良いです。Substanceは実質、本質、実体と言う意味です。ウォッチマンニーはこの箇所を「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することである」と訳しています。

イエス様はどのようにこの信仰を具体的に用いて、山を動かすのか教えておられます。第一に、「あなたがたが信仰を持ち」と書かれています。まず、私たちは信仰を持つ必要があります。マルコ11章には、Have the faith of God「神の信仰を持て」と書かれています。山をも動かす信仰は私たちのものではなく、神さまがある時、ある人に与えてくださる特別な信仰です。神さまはその人に信仰を与えて、その信仰を用いて、大いなるわざをしたいのです。長血をわずらった女性がイエス様に近づきました。彼女は「お着物にもさわることができれば、きっと直る」と言いながら近づきました。それでイエスさまの着物にさわったら、癒されました。イエス様は「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。つまり、彼女はイエス様にさわる前から、「さわったらきっと直る」と信じていたのです。また、バルテマイという盲人は大声で「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫びました。人々が「うるさい、だまれ」と言っても、ますます大きな声で叫びました。イエス様が彼を呼べと言われた時、彼は上着を捨てて、近づきました。彼が着ていた上着はどこでも物乞いができるという政府が許可したものでした。それを捨てたと言うことは、後ろの橋を焼き捨てたということです。イエス様が「私に何をしてほしいのか」と聞かれました。彼は「目が見えるようになることです」とはっきり言いました。イエス様は「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。二人に共通して言えることは、彼らは癒される前から、信仰によって癒しをいただいていたということです。

第二番目は「疑うことなく」ということです。私たちは信じて求めた後、「やっぱり無理かな」「難しいよね」と疑うことがあります。それはどういうことでしょう?今、注文したものをキャンセルするということです。私もアマゾンでものを頼むことがあります。でも、「やっぱりやめよう」と思ってキャンセルするときもあります。私たちは目をつぶって神さまに一心不乱に求めます。しかし、目を開けると理性と五感が芽生えてきて、「やっぱりできないよ」「無理だよ」と疑ってしまうことがあります。それでは、キャンセルしたことになり、得られるものが得られなくなります。イエス様は真っ暗な嵐の湖の上を歩いてこられました。弟子たちは最初、幽霊ではないかと恐れました。ペテロはイエス様だと知ると「私に水の上を歩いてここまで来い」とお命じなってくださいと願いました。イエス様は「来なさい」と言われました。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエス様のほうに行きました。ところが風を見て、こわくなり沈みかけました。「主よ、助けてください」と叫ぶと、イエス様が手を伸ばして、つかんで引き上げてくれました。イエス様は「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と言われました。ペテロはイエス様から「来なさい」と言われたとき、神からの信仰をいただきました。確かに何歩か水の上を歩きました。すばらしいことです。でも、風が吹いていたので、波しぶきが顔にかかりました。とたんに彼の理性と五感が芽生えてきて、「人が水の上を歩けるはずがない」と疑ってしまったのです。ですから約束のものを得るまでは、信じ続ける必要があります。そのためには、疑いを何としてでも排除しなければなりません。あなたがインターネットで頼んだとき、アマゾンの大きな倉庫を作業員が原票を手にして走ったのです。棚から製品を見つけ出し、荷造りするために箱に入れました。でも、あなたからキャンセルが行きました。彼はイヤホーンから、その知らせを聞いたので、ピタっと作業をやめました。彼は「ちっ」と舌打ちした後、その製品をもとの棚に戻しました。創世記28章に書いてありますが、ヤコブは天から地に向けられているはしごを見ました。神の使いがそのはしごを上り下りしているではありませんか。同じように、神の使いが、あなたが神さまに頼んだものを天の倉から運んでいます。ところが、あなたは「やっぱりできないよ」「無理だよ」と疑ってしまいました。神の使いにキャンセルの知らせが届きました。天使は舌打ちはしないかもしれませんが、その製品をもとの天の倉に戻しました。だから、求めたものは途中で疑ってはならないのです。

第三はオプションです。ある時は、このようにせよということです。この山に向かって、「動いて、海に入れ」と言えということです。これは神さまに言うのではありません。正確に言うと、これは祈りではありません。私たちはこの世において、様々な問題の山に遭遇します。もちろん、私たちは神さまに信仰によって求めます。しかし、山に対しては命じる必要があります。神さまに対しては祈りますが、山に対しては命じるのです。イエス様はいちじくの木に対して「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われました。イエス様は、「いちじくの木になされたことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります」と言われました。ここで重要なのは、「言う」あるいは「命じる」ということです。イエス様は病や障害の癒しの場合、父なる神さまに願っていません。「立って歩け」「伸ばせ」「見えるようになれ」「開け」と命じておられます。死んでいたラザロには「ラザロよ。出て来なさい」と命じました。そうすると、死んでいた人が、手と足を長い布でまかれたまま出てきました。周りの人々は、卒倒したと思います。悪霊に対しても、「出て行け」とひとこと言っただけです。また、嵐のガリラヤ湖にも「黙れ、静まれ」としかりつけました。私たちはこれらの箇所から、求める祈りではなく、山に向かって言う(命じる)ということを知るべきであります。

 私は信仰のメッセージをするとき心がうきうきします。でも、会衆の皆様はそのときは励まされるけど、家に帰ったら「なんだかなー」と霊的に冷めたならば残念です。つまり、神さまがおっしゃる信仰と私が持っている信仰に高低差があると思っているからです。ある人たちは、神さまが信仰を与えるときは、肉声で聞こえたり、幻がはっきりと現れるものだと考えているかもしれません。もちろん、聖書にはそのような記事がたくさんあります。でも、さきほど引用した、長血を患った女性、盲人のバルテマイ、水の上を歩いたペテロなどはそうでもないと思います。彼らは自分が願ったのです。それがイエス様から信仰として認められました。きょうの箇所に何と書いてあるでしょう?マタイ2122「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」と書いてあります。原文を見ると、「ask in prayer祈って求める」が最初で、次に来るのが「believing信じる」です。そして最後に「shall receive受ける」と書かれています。神さまは私たちが何を求めるのか私たちに任せています。その次に信仰がやってきます。最後に与えられるということです。求め、信仰、受けるです。最初に来るのが「求める、願う、望む」ということです。ヘブル111「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することである」と学びました。何よりも先に「望む」ということがなければなりません。多くの人たちは、この最初の地点で諦めています。「求めない、願わない、望まない」ということです。そうしたら、信仰も湧いてこないし、受けることもありません。なぜなら、神さまは求めない者には与えない方だからです。もちろん、求めなくても与えられるものはあります。でも、信仰を持って求めるなら、神さまは喜んで与えて下さいます。長血を患った女性、盲人のバルテマイも願いがかなっただけではなく、イエス様から賞賛を受けました。

 私たちは「どうせ願っても与えられない」「高望みはしないほうが良い。後でがっかりするから」と最初の地点で諦めていないでしょうか?私は8人兄弟の7番目で育ちました。長女とは17歳違っており、親代わりにいろんなものを買ってくれました。セーターとか靴とか、それからヤクルトを飲ませてくれました。長女と結婚している叔父は、私たちの家族が貧しいことを知っていました。その人は、悪気はなかったと思いますが、「〇〇買ってあげる」と家族に口約束をしました。ところが、ほとんど実現されることがなく、家族は「ばしこく(嘘をつく)人だ」と思っていました。それでも、家がとても貧しかったので、その時は期待してしまうのです。後から、ぎゃふんとなります。私はそういう環境で育ったので、大きなものを求めても仕方がないという諦めがありました。J.Bフィリップスが『あなたの神は小さすぎる』という本を書いています。その本には「あなたの父親像が神さまを投影している」と書いてありました。もし、あなたが小さなものしか求めていないとしたなら、あなたの神は小さすぎるかもしれません。日本の教会は、ささやかな信仰を美徳とするところがあります。しかし、イエス様は「たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」とおっしゃいました。もし、私たちの神さまが大きい方だと信じている人であるなら、大きいことを願い、大きいことを求めるのではないでしょうか?

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