« エルサレム入城 マタイ21:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.6 | トップページ

2017年8月11日 (金)

宮きよめ マタイ21:12-17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.13

 その当時はシナゴーグと呼ばれる会堂で安息日礼拝を守っていましたが、何か特別な場合は神殿で礼拝をささげていました。このときは過ぎ越しの祭りが始まるところだったので、地方からたくさんの人たちがエルサレムに集まっていました。しかし、本来、礼拝の場所であった神殿が、取引や商売のために利用されていたのです。イエス様がエルサレムに入城して、最初に行ったことは、この神殿をきよめることでした。

1.宮きよめ

 エルサレムの神殿には中庭と外庭がありました。きょうの出来事は、神殿の外庭であろうと思われます。日本でも神社の境内には、屋台やおみやげ屋さんが並んでいます。もっと近づくと、おみくじとかお守りが売られています。エルサレムの場合は、宗教的な理由がありました。両替人はお金をユダヤ人の貨幣に替えて手数料を取っていました。たとえば、ローマのデナリ銀貨はカイザルの肖像が刻まれていたので、神に捧げるのに相応しくなかったからです。また、鳩を売っていたと書いてありますが、牛、羊、やぎも売られていました。なぜかと言うと、人々がそれらの動物を遠くから運んでくるのは手間がかかります。また、傷のない完全な生贄でなければなりません。もしも、神殿の側で売られているなら打って付けであります。一見、親切な行為のように思えますが、売り買いすることによって、神殿を管理する人たちが経済的に潤っていたのです。マルチン・ルターの頃は、教会で免罪符が売られていました。人々は罪を軽減してもらうために、その証明書を購入しました。宗教が金儲けの手段になるというのは、どの時代でもあるようです。神の御子であるイエス様は、そういうことがエルサレムでなされていることに聖なる憤りを覚えられました。売り買いする者たちを追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒されました。ヨハネ福音書2章には「細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出した」と書かれています。ちょっと過激な感じがしますが、細なわのむちであるなら、怪我をさせることはありません。イエス様が怒られたというのは、聖書の中にそんなにありません。強いていうなら、小さな子どもたちが祝福を求めて近づいてきたとき、大人たちが邪魔したからです。また、ラザロが死んだとき、墓の前で涙を流しました。しかし、同時に「憤りを覚えられた」と書いてあります。おそらく、死が人間を支配していたからでしょう。今回の場合は、神殿が正しい目的のためにではなく、金儲けの手段になっていたからです。

 では、本来の神殿の目的とは何なのでしょうか?マタイ2113そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」イエス様がおっしゃったのは旧約聖書からの引用です。まず、イザヤ567をお読みいたします。「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」このみことばは、紀元前700年頃のことでした。当時は、宗教はありましたが、人々は正しい行いをしていませんでした。イザヤは「『公正を守り、正義を行うように』と主が仰せられる」と人々に告げました。しかし、この預言は世の終わり、御国が完成するときのものであります。なぜなら、外国人も宦官も聖なる山に集うことができるからです。だから、イザヤ書には「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」と「すべての民」と書かれています。ハレルヤ、私たち異邦人である、日本人も「すべての民」の中に加えられているのです。なぜ、イスラエルなのでしょう?神さまが世界の人たちに仕えるようにイスラエルを祭司の国として選んだからです。でも、イスラエルは堕落し、その務めを果たせなくなりました。世の終わり、神殿を建てなおすために、御子イエス様が来られたのです。その前に、あまりにも神殿が世俗化していたので、少々手荒いことをして、きよめられたのです。もう1つの引用は、エレミヤ711です。「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。主の御告げ」日本語の聖書には「強盗の巣」とありますが、den「ほら穴」「洞穴」というのが正しい訳です。子どもの頃、『アリババと70人の盗賊』という物語を読んだことがあると思います。盗賊たちが洞穴に金銀財宝を隠していました。まさしく、エルサレム神殿が、強盗の洞窟になっていたということです。ちなみに現代の神殿の洞窟をご存じでしょうか?ローマのバチカンこそが、ヨハネ黙示録に記されている大バビロンです。バチカンには世の中の富と財宝が集まっています。宗教というものは、間違った方向に行くと、とても恐ろしい存在であることを歴史が物語っています。

 でも、私たちは「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」というみことばを、現在のキリスト教会にどのように適用すべきでしょう。イエス様が復活してからは、私たち自身が神殿であると聖書に書いてあります。なぜなら、私たちの中に、神の霊、聖霊が住んでおられるからです。そして、このように複数のクリスチャンが集まるところに、神さまが親しく臨在し、私たちの礼拝と賛美を受け入れてくださいます。教会は建物ではなく、私たち自身が教会であるということを第一に理解すべきです。でも、教会は建物とか組織、あるいは人々という意味もあります。世の中では、キリスト教会を「宗教法人の1つ」として捉えています。ですから、宗教法人法によって、活動が規定されています。第一の項目に、「教会の目的とは何か」ということが記されています。それは「教会は神の福音を宣べ伝え、信徒を教えるためにある」ということです。しかし、教会では幼稚園を経営したり、何らかの営業をするところもあります。本来は営利を追求するところではありませんが、福祉的に世の中に仕えるという面もあります。明治時代の頃は、福祉や社会制度、医療や教育制度が整っていませんでした。そのため、キリスト教会が率先して社会活動をしてきました。義務教育、赤線廃止、労働組合、女性の選挙権、禁酒運動…これらはみんなキリスト教国がもたらしたことであることを忘れてはいけません。しかし、近年は国や地方地自体がそういうことを専門にするようになり、「教会は神の福音を宣べ伝え、信徒を教える」ということに集中するようになりました。しかし、良い面もあれば、悪い面も出て来ました。つまり、本来は聖書の考えが根底にありました。それら、すべてのものは聖書の価値観から生まれたのです。でも、日本人はうわべの良いものだけを抽出し、根底にある価値観を捨ててしまいました。だから、何のため仕事をするのか、何のために勉強をするのか、何のため結婚するのか分かりません。

 でも、ここでは世の中の活動は取り上げないで、教会という建物に集まって、なすべき第一のことは何かということを学びと思います。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」というみことばを、教会はどのように適用すべきでしょうか?私の家とは神殿のことですが、これを教会の集まりと解釈しても良いでしょう。私たちはここに集まり、何をしているのでしょうか?当時、人々は神殿に集まり、献金や生贄をささげていました。もちろん、祈りもささげていました。私たちが特に日曜日ここに集まっているのは、何のためでしょう?イエス・キリストが生贄となったことを覚えなければなりません。ヘブル書に書いてありますように、イエス様は一回で永遠の贖いを全うされました。私たちは、イエス様によって罪が贖われているので、大胆に神さまのみ前に近づくことができます。現代の私たちの生贄は、私たちの献身と感謝と賛美であります。では、神のことばをなぜ聞くのでしょうか?さきほどイザヤ書を引用しましたが、当時の人々は、宗教はありましたが、生活が神さまから離れていました。本来、祭司たちが聖書から教えていたのですが、その祭司たちが堕落していました。その代り、預言者が口をすっぱくして神さまに立ち返るように教えました。ですから、この礼拝において説教者は2つのことを聖書から語ります。第一は神さまがなされたみわざを語り、私たちが心から礼拝ささげるように勧めます。第二は神さまのみこころを知り、みこころに沿った生き方ができるように励まします。教会での集まりのゴールは神さまを礼拝し、祈りをささげるということです。その次に、互いに励まし、信仰を高める聖徒の交わりがあります。神殿礼拝と違うのは、犠牲に伴う祭儀がないということです。カトリック教会のようなミサでもないので、シンプルかもしれません。

私は式文を使わないで、できるだけ宗教ぽくしないように努力しています。なぜでしょう?この聖日礼拝は私たちの生活の一部だからです。一部というよりも、私たちの生活の頂点であります。日常性とかけ離れたところが宗教的で良いという考えもあるでしょう。しかし、それだと聖日礼拝での顔と、日常生活の顔が2つ生まれる可能性があります。祭司長や律法学者たちはイエス様から偽善者と呼ばれていますが、2つの顔を使い分けていたからです。私たちはいつでも、イエス様を仰いで、イエス様と一緒に生活します。日曜日の礼拝の時だけイエス様を意識するのではありません。家庭や職場、通勤通学、どの場所、どの時間でも、イエス様を意識します。また、日曜日の礼拝の時だけではなく、いつでも主を賛美し、祈ります。賛美や祈りは声を上げなくてもできます。主は私たちと共に歩まれ、必要を与え、守りを与えてくださいます。キリスト教は宗教ではなく、今も生きておられるイエス様と一緒に生活することだからです。

2.腹を立てた宗教家たち

 エルサレムには長老、祭司長、律法学者、パリサイ人、サドカイ人など、たくさんの宗教家たちがいました。すべてユダヤ教徒なのですが、大きく分けると神殿に仕える人と律法に仕える人に分けられます。一部はサンヒドリンの70人議会に属していました。また、一部は信徒であっても、熱心なユダヤ教徒でした。群衆が登場しますが、エルサレムの住民、ガリラヤから上って来た人たち、過ぎ越しの祭りのために遠くから来た人たちがいたと思われます。これから、イエス様と彼らとの論争が始まります。イエス様は前もって「エルサレムで彼らから苦しみを受け、殺される」と予告していました。イエス様がエルサレムでは、こういうことが起こると知っておられたので、覚悟ができていたと思います。マタイ2114「また、宮の中で、盲人や足のなえた人たちがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた」とあります。イエス様は売り買いしている人たちを追い出して、神殿をきよめただけではありません。神殿の中にいた人たちを癒してあげました。彼らは癒しを求めて神さまのところに来ていたというよりも、物乞いをしていた人たちかもしれません。なぜなら、多くの人たちが神殿にやってくるので、物乞いには良いチャンスだったからです。イエス様は彼らが物乞いをしなくても良いように根本的な解決を与えられました。使徒の働き3章でも、ペテロが生まれつきの足なえを歩かせてあげたことが記されています。ですから、今日の教会も人々に仕える仕え方も、同じではないかと思います。「神の国はことばではなく、力です」とパウロが言ったとおりです。

 盲人や足なえが癒されるというのは、ものすごく嬉しい事であり、神さまをほめたたえるべきことです。ところが当時の宗教家たちは違いました。マタイ2115-16ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」祭司長、律法学者たちは2つのことで腹を立てました。第一は、イエスのなさった驚くべきことを見たからです。イエス様が盲人や足なえが癒されたからです。何故、喜べないのでしょう?それは妬みです。もし、ナザレのイエスがメシヤであるなら、みんな彼のところに行くでしょう。そうしたら、自分たちの教えを誰も聞かなくなり、失業してしまいます。盲人が見え、足なえが歩くというのは、来るべきメシヤのしるしです。本来なら、イエス様の前にひれ伏して、礼拝をささげるべきであります。ところがどういうことでしょう?目の前にメシヤがいるのにも関わらず、妬みを燃やし、腹を立てるとは何ごとでしょう?私は、イエス様の栄光が、彼らの目に隠されていたからだと思います。イエス様は、マタイ1125「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」とおっしゃったことがありました。彼らは心が頑なだったので、そのことが分からなかったのです。リバイバルが起こると、このような奇跡や癒しが起こります。同時に、混乱をもたらすような不思議な現象が起こります。しかし、教会のある人たちが「それは危険だとか、感情的過ぎる」と反対します。そこに、神さまのすばらしいわざが起こっているのに、喜べない人たちが出てきます。彼らがリバイバルの火を消すのです。同じ信仰者の中からそういう人たちが出るとは何という皮肉でしょう。たとい、自分たちの神学に会わなくても、神の霊がなさっておられるのなら、一緒に主をあがめるべきであります。宗教というのは、生ける神さまの働きを妨げることを覚えておきたいと思います。

 もう1つは、宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てたことです。おそらく、子どもたちは、エルサレムに入城したときの様子を見ていたのでしょう。大人たちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいたので、真似していたのかもしれません。でも、神さまを賛美している子どもたちに腹を立てるとは何ごとでしょう?何故、彼らが腹を立てかというと、イエス様を全く歓迎する気持ちがなかったからでしょう。何が「ダビデの子にホサナだ。そういう者が来ちゃ困るんだよ」というのが本音であります。彼らは文句を言っていましたが、イエス様は何と言われたでしょうか?「あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」これは、詩篇82からの引用です。詩篇82「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。」イエス様は詩篇82の前半しか引用しませんでした。しかし、後半は、恐ろしいことが書かれています。つまり、何故、「神さまが幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意されたか?」であります。「それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした」とあります。ということは、子どもたちの賛美が、イエス様に敵対する者たちへの防護壁になっているということです。旧約聖書の「力を打ち建てられた」は英国聖書ではrebuked「譴責する、阻止する」と訳しています。子どもたちは意識していた訳ではないでしょう。でも、神さまが敵対する者をしずめるために、子どもたちの賛美を用いられたということです。ハレルヤ!ということは、私たちは子どもたちの賛美を軽く扱ってはならないということです。リバイバルが起こっている時は特にそうです。

 最近、子どもたちが見た超自然的な夢を賛美にしていると聞いたことがあります。信じるか信じないか別として、彼らは天に引き上げられ、天国での様子を歌にしています。歌詞とか曲は非常にシンプルなのですが、実際に行った者でないと書けない内容になっています。また、ある子どもは世の終わりの救いとさばきについても、克明に記しています。これは日本だけではなく、韓国やその他の国でもあるようです。終わりの時代、神さまは子どもたちの賛美や預言を用いようとされています。「そんなことが聖書的なのか?」という人たちに対して、使徒217があります。ペテロが「あなたがたの息子や娘は預言する」とヨエル書から引用しました。大人の方が常識とか神学に凝り固まっていて、神さまが語っておられるのが聞こえないことがありうるでしょう。目があるのに見えない、耳があるのに聞こえないとは残念なことです。当時の、祭司長、律法学者たちは、イエス様のなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てました。教会は、彼らのようになってはいけないということです。

 イエス様はその日、エルサレムには留まりませんでした。神殿は父の家のはずです。でも、神殿のあるエルサレムから立ち去りとこへ行ったのでしょう?マタイ2117「イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。」ベタニヤにはラザロと、マルタとマリヤのきょうだいたちがいました。ラザロは「あなたの愛しておられる者」と紹介されています。ラザロは一度死にましたが、イエス様によってよみがえらされました。マリヤはイエス様に高価な香油を塗ったことがあります。マルタは一品でも多く料理を作ってイエス様を喜ばそうとした女性です。彼らの家にイエス様は泊まりに行ったのです。エルサレム神殿ではダメです。ベタニヤこそが身も心も休まる家homeです。これまでイエス様は何度もベタニヤの家を訪問しています。最後の5日間はベタニヤの家とマルコの家に寝泊まりしていたと思われます。もし、イエス様が自分たちの家に休むために来るとしたら何と嬉しいことでしょう。イエス様は彼らの家だと全く気を使う必要がなかったでしょう。心休まるところだったと思います。私たちはイエス様のことをそんなに考えていません。自分たちの心が休めるような住まいになるように求めています。椅子やテーブル、調度品、テレビ、オーデォ、自分の書斎…でも、そこにイエス様を歓迎しているでしょうか?私の場合は半分教会で暮らしていますので、礼拝堂がすぐそばにあります。牧師室もあるので、そこが大好きです。でも、イエス様が私と一緒にいて、心騒がしくしていたら嫌ですね。でも、私が一番、嬉しいのはイエス様が隠れたところで頑張っている私を認めていらっしゃるということです。小さな会社の社長は、朝から晩まで何かをしています。仕事と休みと境界線がありません。私も毎日が仕事で、毎日が休みのようです。「牧師は月曜日から土曜日まで何しているんだ?」と裁く人もいるでしょう?昔はそう言われると、心が動揺しました。しかし、今はそうではありません。神さまから重要な啓示を受けているからです。ヨセフのような指揮者として、大事な役割があると思っています。人はどう思おうと、イエス様がよくご存じです。私も皆さんのことはよく分かりません。鈴木牧師はあまり世話をしてくれません。訪問もしてくれません。声もかけてくれません。でも、私は牧師として申し上げることがあります。イエス様があなたと一緒です。イエス様はあなたの心とあなたの家を身も心も休まる家homeにしたいと願っておられます。イエス様がおられるなら夫婦喧嘩をしなくなるでしょう。イエス様がおられるなら変なビデオやインターネットも見なくなります。イエス様がおられるなら聖書を読んだり、学んだりすることが楽しくなります。天国に行ってからイエス様とお会いするのではありません。この地上にあっても、可能です。肉眼では見えず、肉声で声も聞こえませんが、霊において見え、霊において聞こえます。イエス様の声がわかるように霊的なラジオを持ちましょう。イエス様のことが見えるように霊的なテレビを持ちましょう。

|

« エルサレム入城 マタイ21:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.6 | トップページ