« 何をしてほしいのか マタイ20:29-34 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.7.30 | トップページ | 宮きよめ マタイ21:12-17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.13 »

2017年8月 4日 (金)

エルサレム入城 マタイ21:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.6

 イエス様は癒された人たちに、ご自分がだれであるかを言わないように命じていました。なぜなら、当時のメシヤは非常に政治的で、誤解を招くからです。しかし、この時は公にご自分を現し、人々から凱旋将軍のような歓迎を受けました。なぜでしょう?それはこのエルサレムが最終的なゴールだったからです。もう逃げも隠れもせず、ご自分がだれであるかを表明されました。イエス様がエルサレムに入城したのが日曜日であり、金曜日には十字架につけられます。福音書はこの6日間に多くの紙面を割いています。

1.ろばの子に乗って

 イエス様はエルサレムに入るために、ろばの子を必要としていました。しかし、ろばの子を手に入れる方法がまことに奇跡的でした。イエス様はまだ、町には入っていません。オリーブ山のふもとベテパゲにいます。エルサレムは高台にあるので、登り坂の途中であったと思われます。弟子たちは「エリコからずっと登って来られたので、イエス様は疲れを覚えておられるのでは?」と思ったのでしょう。イエス様は超自然的に、向こうの村に、雌ろばとろばの子がつながれているのが見えました。弟子たちがそこへ行って、ろばを連れてくるように命じられました。すると持ち主が「なぜ、ろばを解くのか?どこへ連れていくのだ?」と言うでしょう。そのとき、「主がお入り用なのです」と言うなら、すぐに渡してくれるというのです。持ち主に対して、長々と説明する必要がありません。「主がお入り用なのです」というイエス様のことばは、生きたことばであり、持ち主は、召使のように従うのです。このところに「知識のことば」という奇跡が働いていたのです。私が洗礼を受けて3か月くらいたった頃です。「新宿の中央教会というところで、青年大会があるので来ないか」と聖書学院生からお誘いを受けました。「文化祭みたいなものだから、気軽に」と言われたのですが、なんと献身者を募る青年向けの聖会でした。隣の教会の高木牧師が講壇から甲高い声で「主がお入り用なのです」とメッセージしました。最後に「前に出て来なさい」と招きました。「私はモノじゃないぞ」と反発しましたが、神さまから呼ばれたような気がして前に出て、祈ってもらいました。そして、翌年3月に東京聖書学院に入学しました。その時の修養生というのが家内の同級生の姉妹(湯田民子姉、救われた方のユダ)です。「文化祭だ」と嘘を言われたのです。その時、私は電車の網棚にだれかが忘れていた少年マガジンを手に持って会場に行きました。聖歌も聖書も持っていないので、受付の人はびっくりしたでしょう。私もろばのように、「主がお入り用なのです」とイエス様の声でひっぱって行かれたような気がします。

 なぜ、イエス様はろば、それもろばの子に乗る必要があったのでしょうか?それはイエス様が疲れていたせいではありません。ご自分はだれかということを示したかったからです。旧約聖書では、これを「行動預言」と言います。人々は分かりませんでしたが、イエス様はゼカリヤ書の預言を成就したかったのです。ゼカリヤ99「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」マタイ福音書は70人訳からの引用なので、旧約聖書とはちょっと違っています。でも、ゼカリヤ書ではっきりしていることは、「雌ろばの子の子ろばに」と書いてあることです。マタイによる福音書だけが、雌ろばとろばの子の二頭を連れて来たと書いてあります。マルコやルカは、ろばの子だけを連れてきたように書かれています。しかし、マタイは「これは、旧約聖書の成就なんだ」ということを強調したいがため、あえて「ろばと、ろばの子」と書いています。おそらく、イエス様が実際に乗られたのは、ろばの子であり、雌ろばは伴って歩いていたのではないかと思います。マルコ11章には「まだだれも乗ったことない、ろばの子」と書かれています。ろばの子にとっては、初めての大仕事です。だから、「ふたりでも三人でも」と強調するマタイは、子ろばを見守る母ろばの存在をあえて書いたのではないかと思います。しかし、イエス様をヨタヨタ乗せている、ろばの子が人々の目にどのように映ったのでしょうか?その光景こそが、イエス様がどのようなメシヤかを象徴しているのです。クリスチャンの矢内原忠雄という元東大総長がこのような聖書講義をしています。軍馬ではなくてろばです。戦争ではなくて平和です。傲慢ではなくて柔和です。イエスがろばに乗って都に入られたのは、御自身が国民待望のメシヤであられること、その方法は平和、その性格は柔和であられることを、言葉でなく行動によって宣言されたのです。それ自身が深い詩であります。「私はイスラエルの王である、真の救主である。私にふさわしい柔和な心、砕けたたましいをもって私を迎えよ。シオンの娘よ、これがお前たちの最後の機会である。信じて救われよ!」口にするには、あまりにも感慨無量だったのでしょう。イエスは、ろばに乗られた御自分の姿によって、これを民衆に告げられたのであります。アーメン。

 

ゼカリヤ書9章は、メシヤ預言であることは間違いありませんが、「それはいつ頃、来られるメシヤなのか」ということです。当時のユダヤ人はローマを倒し、イスラエル王国を復興してくださる政治的なメシヤを待ち望んでいました。確かに、預言書には厳しいさばきをもたらすメシヤが来ることが書かれています。でもゼカリヤ書には「この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる」と書かれています。マタイ福音書にもmeek「柔和」となっています。本来、王様が来られるときは、着飾った軍馬が似合っています。しかし、イエス様はあえて、ろばの子でありました。まさしくそれは、柔和を象徴しています。当時の人たちの目には閉ざされていましたが、メシヤは二度に分けて来られるということです。ゼカリヤ書9章の預言は、初臨であります。たとえば、初臨の預言は、「ユダヤの地、ベツレヘムで支配者が生まれる」というものです。イエス様がこの地上に来られたのは、さばくためではなく、和解をもたらすためでした。そのために、ご自分が死んで罪を贖うということが絶対的な目的でした。マタイ1219-20「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは」とあります。では、再臨のメシヤはどのような姿で来られるのでしょうか?黙示録19章にはハルマゲドンの戦いに終止符を打たれる方が描かれています。黙示録1911-13「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は『神のことば』と呼ばれた。」アーメン、誰が見ても、「ああ、このお方はイエス様だな」と分かります。再臨時は、白い馬に乗ってこられ、そのお顔といでたちは、恐ろしいほど凛としています。

 使徒パウロは「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント62と言いました。イエス様が地上に来られてから、A.D、恵みの支配が始まりました。今は、イエス・キリストを信じるだけで救われる恵みの時代であります。しかし、それがいつまで続くかというと、世の終わり、イエス様が再び来られる時までです。あれから時代が進み、2017年ですから、まもなくシャッターが閉まる時刻が迫っています。恵みのシャッターが閉まると反キリストが猛威を振るい、自分の命と交換しなければ救いを得られなくなります。迫害があまりにもひどくなるので、反キリストを信じた方が楽になるからです。イエス様は「その日は、ちょうどノアの日のようだ」と言われました。人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。イエス様が世の終わりやってくるのもそれと同じです。

再臨に備えるため、私たちは最低限、2つのことをしなければなりません。第一は一人でも多くの人が神との和解をもたらしてくださった、イエス・キリストを信じるように働きかけなければなりません。もちろん、仕事をしながら、家事をしながら、学生ですと勉強しながらです。日本にはクリスチャンが1%も満たないので、人々が福音を聞くチャンスはあまりないでしょう。そうであれば、少なくとも、私たちが毎日、顔を合わせる人たちに責任があると思います。再臨に備えるための第二は、私たち自身の信仰生活です。今度お会いするイエス様は「王の王、主の主」なるお方です。黙示録には「御顔は太陽のように照り輝き、その目は燃える炎であり、口からは鋭い剣が出ている」と書いてあります。柔和さなど一遍もありません。もちろん、イエス様は優しいお方であることは間違いありません。でも、やがて来られるイエス様がそのようなお方であるなら、神さまをなめてかかってはいけません。できるだけ罪と汚れから離れ、聖霊に満たされ、義なる生活をしていることが必要です。今日の箇所には「オリーブ山」が出てきます。弟子たちが天にお帰りになるイエス様を見上げていた時、御使いがこのように言いました。使徒111「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」ハレルヤ!再び来られるという聖書の預言を信じて、いつでも主とお会いできるように生活していきたいと思います。

2.群衆の歓迎

 マタイ218-9すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」ヨハネによる福音書には「しゅろの葉をとって出迎えた」と書いてあります。ですから、日曜日、イエス様が入城した日をPalm Sundayと呼んでいます。おそらく過ぎ越しの祭りのために、エルサレムの人口は普段の倍くらい膨れ上がっていたと思われます。群衆はどのように叫んだのでしょうか?「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」これは、詩篇11825-26の引用です。「ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。」「主よ。どうぞ救ってください」のヘブル語読みが「ホサナ」であります。群衆はイエス様をダビデの子、預言されていたメシヤだと考えていました。何度も言いますが、人々はローマを倒して、イスラエル王国を復興してくださる政治的メシヤを求めていました。高官などの要人を歓迎するための、レッドカーペットというのがありますが、これと似ています。布の代わりにしゅろの葉と自分たちの上着を道に敷いたのですから、よっぽどの歓迎ぶりだったのではないでしょうか?さながら、凱旋将軍のようであります。

 数日後、同じ群衆がイエス様を「十字架につけろ」と暴徒に化すということが信じられるでしょうか?私は群衆の中には二種類いたのではないかと思います。ガリラヤからイエス様と一緒に着いてきた群衆と、エルサレムにいた群衆です。ちょうど過ぎ越しの祭りが重なる時期なので、地方から来ていた人たちもたくさんいたと思われます。その証拠が、1011節のことばです。マタイ211011「こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、『この方は、どういう方なのか』と言った。群衆は、『この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ』と言った。」よく見ると、エルサレムにいた人たちは、「この方は、どういう方なのか」と聞いています。おそらく、ガリラヤから着いて来た人たちが「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ」と他の群衆に教えたのではないかと思います。ガリラヤから着いて来た人たちの中には教えに感動した人たち、病を癒していただいたり、パンの奇跡に預かった人たちも含まれていたことでしょう。親身になってイエス様や弟子たちの身のお世話をする婦人たちも同行していたでしょう。しかし、危険なのはイエス様のことをあまり知らない群衆たちです。でも、彼らは一様に「ダビデの子イエス」のフアンでした。フアンというのは、うわべだけの信仰であり、キリストと個人的な関係のない人たちです。だから、数日後、イエス様が捕えられた時、扇動されたのです。マタイ2720「しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。」マタイ2720「すると、民衆はみな答えて言った。『その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。』」あの群衆がこんなにも変わるものかと驚くばかりです。

 J.C.ライルがこのように解説しています。「これが人間の性質を忠実に現している絵である。神をたたえることよりも、人間をたたえる愚かな考えが、ここに証明されている。人気ほど、気まぐれで不確かなものはない。きょうはここにいるが、明日は去ってしまう。砂の上に建てられた家が、倒れてしまうのと同じである。きのうもきょうも同じである方のfavorを求めよう。彼の愛とfavorは尽きることなく永遠に続くからである。」favorというのは、日本語に訳しづらい、ことばです。私は日本のリバイバルのため用いられたいと熱く願っています。何故かと言うと、私のために特別に祈ってくれた方々がいたからです。天に召された申賢均牧師、インドネシアのエディ・レオ師、そしてこの間、日本に来てくれたダニエル・コレンダ師です。これらの先生方から、按手して祈ってもらい、favorをいただいたからです。Favorというのは、「好意、親切、世話、愛顧、ひいき、支持」であります。簡単に言うと、「あなたはリバイバルのためきっと用いられるよ」と祈ってくれたのです。しかし、それが人間のfavorにとどまらず、イエス様に支えられていると信じています。イエス・キリストは昨日もきょうも永遠に変わらないお方だからです。このお方に目をとめていくとき、私たちの信仰は岩の上に建てられた家のように倒れることがありません。私たちは群集心理、日和見主義的な信仰であってはなりません。そのためには「キリスト・ファン」ではなく、「キリストいのち」として生きるべきです。「私はキリストなしでは生きてゆけない」ということです。

 1990年から、弟子訓練が韓国から入ってきました。もちろん、その前からナビゲーターやキャンパス・クルセードでその考えはありました。韓国から入ってきた弟子訓練は、ある意味では独特のものでした。なぜなら、徴兵制度のような訓練だったからです。サラン教会の姜ミョンという弟子訓練のスペシャリストがいました。彼女の弟子訓練に「休んではいけないが、死んでもいけない」というスローガンがありました。2年間は休んではいけないので、ある人は点滴を吊るしながら出席したそうです。私はその団体に10年間、属していましたが、最後には「これは違うのでは」と思って辞めました。その弟子訓練の根底に流れている考えはこれです。「教会には群衆と弟子の二種類がいる。群衆クリスチャンは何かあると教会を去って行く。絶対離れない、弟子クリスチャンを作らなければならない」という前提がありました。そうしますと、日曜日、会衆を見ると、「この人は群衆で、この人は弟子だろうか」という色メガネで見るようになります。また、その弟子訓練では「あなたは変わらなければならない」という言い方がよくされました。つまり、そのままではダメだというメッセージがいつもあるのです。韓国のクリスチャンは叩かれると、「なにクソ!」ともっとがんばります。でも、日本のクリスチャンは、「ヘニョ」となってもう来なくなります。「聖書は何と言っているのだろうか」改めて考えました。使徒241「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」ペンテコステの日、ペテロの説教を聞いて、バプテスマを受けた人たち3000人が「弟子」と呼ばれています。彼らはまだ弟子訓練のクラスを1つも受けていません。また、パウロは一番問題のあったコリントの教会の人たちを「聖徒」と呼んでいます。聖書的な考えは、イエス様を信じたらキリストの弟子であり、聖徒なんだということです。それで良いかというとそうではありません。本当の弟子、本当の聖徒になるために訓練を受けるということです。スタートが律法ではなく、恵みだということです。

 教会では「ホサナ」という賛美をよく歌います。「主よ。どうぞ救ってください」のヘブル語読みが「ホサナ」であります。彼らはイエス様を「ダビデの子にホサナ」と叫びました。また、人々は「預言者イエスだ」とも言いました。しかし、それは間違っています。イエス様はダビデの子でもなく、預言者でもありません。イエス様は生ける神の子、キリストです。この間、東京ファイヤーカンファレンスでガーナでの奇跡が放映されていました。首都アクラで100万人規模の集会が開かれていました。ある男性が親戚の家に来たのですが、帰りの列車に乗り遅れました。彼は集会の端っこのベンチで寝ていました。すると、耳が突然聞こえるようになり、集会の音が入ってきました。彼は石工でしたが2年前から全く耳が聞こえなかったのです。彼は驚いて、集会のプラットホームに走っていきました。「耳が聞こえた。聞こえた」と大声で伝えました。講師のコレンダ師が集会に出ていない人が癒されたことを知って驚いて人々に紹介しました。彼はイスラム教徒で、自分の名前や住所が知られると危険なのですが、恐れないで証をしました。彼は「イエスは預言者です。コーランにも書かれています」と言いました。コレンダ師は、「預言者じゃなくて神の子、救い主だよ」と訂正しました。彼は「私の耳を聞こえるようにできたのは神さましかいない。イエスは神の子、救い主だ」と告白しました。彼はあとのインタビューで「私は牧師になって、イエスのことをみんなに知らせたい」と答えていました。聖霊様が集会にも出ず、ベンチの端っこで寝ている男性に触れてくださったのです。最後には、「イエス様が神の子、救い主だ」と告白しました。それも、聖霊様の働きです。人間の考えから出たことではありません。

 私たちはイエス様を信じて、クリスチャンになったことをまず感謝しなければなりません。私たちは聖霊によって生まれ変わり、キリストの弟子、聖徒になったのです。私たちはキリストを信じたという1点で、神さまから受け入れられ、ありのままで愛されているのです。これが基本にないと、誤った弟子訓練になります。誤った弟子訓練とは、神さまに受け入れられるために、がんばるということです。神さまの愛を得るためにがんばる必要はありません。すでに、ひとり子を与えるほどに愛されているからです。どうぞ、無条件の愛をいただいているということを信仰のベースにしましょう。この私が一番良い模範です。あのときは、「主がお入り用なのです」と言われて、深く考えもしないで前に出ました。まだ何も勉強もせず、訓練も受けていないのに、主のみ声に従いました。まだだれも乗せたことのない、ろばの子もイエス様に用いられました。あなたは既にキリストの弟子であり、聖徒なのです。どうぞ、恵みからスタートしましょう。

|

« 何をしてほしいのか マタイ20:29-34 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.7.30 | トップページ | 宮きよめ マタイ21:12-17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.13 »