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2017年7月23日 (日)

~ホセア書から見る神の愛~亀有教会副牧師 毛利佐保

◆聖書箇所: ホセア書14章1-8節

 

14:1

イスラエルよ。あなたの神、【主】に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。

14:2

あなたがたはことばを用意して、【主】に立ち返り、そして言え。「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。

14:3

アッシリヤは私たちを救えません。私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません。みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。」

14:4

わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。

14:5

わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。

14:6

その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。

14:7

彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。

14:8

エフライムよ。もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ。

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鈴木先生は、梶山直樹先生が横浜で牧会されている、「ニュータウン・カルバリー・フェローシップ」という教会でご奉仕されています。「ニュータウン~」は、大和カルバリーチャペルの枝教会です。

鈴木先生は昨日はセミナーの講師で、本日は礼拝メッセージを担当なさるそうです。

祝福の時でありますようにお祈りください。

 

そういうわけで、本日は僭越ながら私がメッセージを取り次がせていただきます。鈴木先生はマタイの連続講解説教をされているので、私は今回も旧約からお話しようと思います。

 

前回の私のメッセージの時は、「ルツ記」全体を取り上げましたが、本日も前回と同じく、「ホセア書」一書全体を取り上げる、「一書説教」です。このホセア書から神の愛について見て行きたいと思います。

 

旧約聖書には、「預言書」と言われる書があって、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書が三大預言書と呼ばれています。それに対して、ホセア書は小預言書と呼ばれています。預言の量の多さ、聖書のページ数の多さからそのような区別がされていると思われますが、ホセア書は、旧約聖書の最後に載せられている十二の小預言書の中でもゼカリヤ書と並んでボリュームがある預言書です。

 

「預言書」とは言いますが、言ってしまえば、聖書全体が神の啓示であり預言の書です。

では、聖書に出て来る「預言者」というのは、どのような役割を果たす人なのでしょうか。

 

聖書に出て来る「預言者」というのは、「神のことばを民に伝える」 という役割と、「民のために神にとりなしをする」という二つの側面からの役割を担っています。

 

旧約聖書に出て来る最初の預言者はアブラハム(創世記20:7)ですが、預言者たちはモーセ以降に多く出てきます。特に、サウル、ダビデ、ソロモンの統一王国の後、北と南に王国が分裂してからは、非常に多くのの預言者が出てきます。おそらく、偶像崇拝が激しくなり、神の民を正しく導く必要があったからでしょう。

 

ホセアは、分裂した後の北イスラエル王国が滅亡する直前に現れた、北イスラエルの預言者だと言われています。北イスラエル王国は、紀元前722年にアッシリアに敗れて、首都サマリヤが陥落し滅亡しました。

 

因みに新約聖書にも預言者はちらほら出てきます。バプテスマのヨハネをはじめ、使徒の働きに出て来るユダとシラス(使徒15:32)や、アガポ(使徒21:10)、コリントなどのパウロ書簡などにも、当時の教会に預言者の存在があったことが見受けられる記述があります。

 

さて、預言者ホセア個人についてですが、ホセアの出自については特に書かれていません。

しかし鋭い洞察力と観察力で綴られた文体から、かなり高い教養を身につけた人物であったと考えられます。そしてそれだけではなく、柔らかい心を持ち、感情や感受性が豊かな人物であったと考えられます。

旧約の預言書には、神の怒りや義による厳しいさばき、悔い改めを迫るメッセージが多い中で、ホセア書は神の愛と赦しを積極的に語っています。それでは、ホセア書から、神の愛を見ていきましょう。

 

◆①ホセアの結婚生活は神とイスラエルとの関係を表す。

 

預言者ホセアは北イスラエル王国に切迫している神の審判(王国の滅亡)を告げています。それは神に対するイスラエルの民たちの不誠実と不信仰の罪のためです。

 

ホセアは主の命令により特別な体験をします。ホセアは、自分自身の「結婚生活の苦悩」という事実を通して、神のイスラエルに対する深い愛を更に明確に知っていきました。

 

ホセア書をじっくり読んだことがある方は、ここに記されている預言者ホセアの人生について、いろいろと考えさせられるところがあったのではないでしょうか。

もし、読んだことがない方がおられましたら、後でじっくり読んでみてください。

 

まずホセア書の概要を簡単に説明します。

ホセア書は14章までありますが、大きく3つに分けるとこうなります。

 

Ⅰ. 1章-3章: ホセアの結婚生活と象徴的意味について

Ⅱ. 4章-13章: イスラエルの罪に対する刑罰について

Ⅲ. 14章: 神の愛による回復、祝福の約束について

 

ホセアの預言者人生は、1章2節に書かれているように、神から『行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は【主】を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。』と、衝撃的な命令を受けるところから始まります。

 

そしてホセアはディブライムの娘ゴメルをめとりました。この時ゴメルがすでに姦淫の娘だったのか、それとも後に姦淫を犯すので「姦淫の女」と主から呼ばれたのかは定かではありません。

 

彼女はみごもって、3人の子どもを産みました。最初の男の子はホセアとの間の子でしたが、次の女の子とその次の男の子は、姦淫の子のようでした。それは、神がその子どもたちにつけた名前からも理解できます。

          第一子(長男) イズレエル 「神は種を蒔く」

          第二子(長女) ロ・ルハマ 「彼女は憐みを受けない。愛されない。」

          第三子(次男) ロ・アミ 「我が民ではない」

 

そしてゴメルは第三子を産んだあと、『私は恋人たちのあとを追う。彼らは私にパンと水、羊毛と麻、油と飲み物を与えてくれる(2:5)』 と言って恋人たちの後を追いました。(「たち」複数のようですね。)

 

・・・これはスキャンダルです。

私たちの周りで、連日週刊誌を賑わしている、ちまたのスキャンダルと、なんら変わりない感じがしますが・・しかしこれは、神の人、預言者がスキャンダルに巻き込まれ苦悩している、しかも神の命令によってという、特異なケースです。神はゴメルが姦淫の女であることを知っておられながら、ホセアと結婚させました。

ゴメルの行為はイスラエルの民たちが、バアルという豊穣の神に恋い慕っている行為と同じです。

 

そして主は、恋人たちの後を追うゴメルの行く手を阻みました。それゆえ彼女は恋人たちを見つけることが出来ず、『私は行って、初めの夫に戻ろう。あの時は、今よりも私はしあわせだったから。(2:7) 』と言いました。彼女はその時、奴隷、または娼婦にまで身を落としていたようでした。

 

その後、主は彼女を赦し、ホセアとの結婚生活を回復させるためにホセアに再び命じました。

『再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を【主】が愛しておられるように。(3:1)』

 

主は、ホセアと姦淫の女ゴメルの結婚生活の苦悩になぞらえて、イスラエルを「神の不貞の妻」として語られました。当時イスラエルはバアルという偶像の神を崇め、祭儀には神殿娼婦による売春行為が行われていました。神とイスラエルの関係は、まさにホセアとゴメルの関係のようですね。

 

それゆえイスラエルは、「ロ・ルハマ =彼女は憐みを受けない。愛されない。」、「ロ・アミ=我が民ではない。」と神から捨てられました。しかし神の愛と赦しによって、その淫行がきよめられ、再び神の妻の地位を回復し、「ロ・ルハマ」、「ロ・アミ」、の「ロ」がとれて、「ルハマ=彼女は憐みを受ける。愛される」、「アミ=我が民である」に変わると主は語られました。(2:23)

 

そして、4章以降は神と北イスラエル、南ユダとの関係を語り、神のさばきと愛の預言へと展開して行きます。

 

ホセアとゴメルの結婚については、本当にあった事実ではなく、「比喩的」な解釈をする人や「夢・幻」であったとする人もいますが、おそらく事実であったと考えられます。なぜなら、ゴメルとの結婚生活の苦悩を通して、神の愛と赦しを語るホセアの預言者としての使信が、より真実味をおびて力強くなるからです。

 

明治・大正時代に活躍した、無教会主義のキリスト教指導者、内村鑑三(1861年-1930年)は、このホセア書を高く評価しています。内村鑑三は、著書「何西阿(ホセア)書の研究」の中で、「ホセア書は、神は儀式よりも愛情を歓び給うということを明らかにした。」と述べ、「福音書以前の福音書」とも、「旧約の内の新約」とまで言っているそうです。

 

その言葉どおりイエス様も、パウロもホセア書のみことばを引用しています。例えば、

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<ホセア6:6>

「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」

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は、イエス様が何度も引用されたみことばです。

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<マタイ9:13>

『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

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これは罪人と食事をするイエス様をパリサイ人が責めたときのイエス様の御言葉です。これは罪人や弟子たちへの愛があふれた御言葉であり、ホセア書が神の愛と赦しの書であることを示しています。

 

またパウロも、ローマ書でこのようにホセア書を引用しています。

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<ローマ9:25-26>

それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。

「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。 『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」

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と、異邦人にも救いをくださる神の愛を語っています。

このようにホセア書は、イエス様やパウロが引用するほど、神の愛と赦しに満ちた預言書なのです。

 

◆②神の愛はふところ深く、私たちの心の願いをも抱いてくださる。

 

ホセアはゴメルを深く愛していました。

いつからゴメルに対してそのような愛情を持ったのかはわかりませんが、3章1節で主は、『再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。』と言われました。

 

『夫に愛されていながら・・』と主が言われたこの言葉から、ホセアは妻のゴメルを愛していたことが解ります。

ですからホセアは主に命じられるとすぐに、ゴメルを銀十五シェケルと大麦一ホメル半で買い戻しに行きました。これは当時で言えば大金です。

 

そしてゴメルに、3章3節、『これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。』と言いました。

この言葉は、もう一度お互いに聖くなってやり直そうという意味です。

 

夫を捨てて恋人たちのもとに走ったゴメルの行いは、本来なら神様の聖、きよさや義に反する行いです。

しかしホセアは神のきよさや義に反することとわかっていながらもゴメルを愛し続けていました。

 

おそらくホセアは、ゴメルが他の男性のもとに走った末に、奴隷、または娼婦にまで身を落としてしまったということを、どこからか伝え聞いていたことでしょう。

そして、どうにかして助けてやりたいと思っていたのではないでしょうか。

しかし神のことばを伝える預言者であるホセアには、どうすることもできませんでした。

 

主は、そのようなホセアの心の願いを知っておられました。

だからこそ、主はホセアの願いをも、ふところに抱いて命じてくださったのです。

ホセアは、主のふところの深い愛を知り、ゴメルへの思いと決意を新たにしたのではないでしょうか。

 

そしてゴメルを赦して愛し続け、彼女が悔い改めて夫婦の関係を回復する実体験を通して、神に背き続けるイスラエルに対する神の愛を、更に深く知ることになったのではないでしょうか。

このように神様は、私たちの心の願いをすべてご存知であり、その心の願いをもふところに包み込んで愛して赦してくださる御方です。そして、その愛と赦しによって私たちに新しい気づきと、進むべき道を与えてくださる御方なのです。私たちの主を信頼し、心の願いを打ち明けましょう。

 

◆③幼子のように主に信頼し、主が喜ばれる道を選択する。

 

ホセアの人生は特別なのでしょうか。

ホセアのようなことを神から命じられることは自分にはないと思いますか?

いいえ、私たちの人生にもホセアと共通する体験もあれば、ゴメルのように罪を犯し続けるという体験もあるのではないでしょうか。

 

ホセアとゴメルの関係に、自分自身の人間関係を当てはめて考えてみたいと思います。

もし自分自身が置かれている立場がホセアの立場であったならば、神様が引き合わせてくださった人たち、神様が与えてくださった人たちを、ホセアがゴメルを愛したように愛し続けたいと願います。

また、自分自身がゴメルの立場であったなら、自分の罪を悔い改めて、罪深い自分を見捨てずに愛し続けてくれている人たちの愛に忠実に応えたいと願います。

 

私たちは、ホセアであり、ゴメルでもあります。私たちの人間関係においては、どちらの側面もあるのではないでしょうか。そんな中で、私たちは苦しみ、悩み、傷つきながら練られて成長し、互いに労わり、愛し合うことの素晴らしさを知るのです。神様はホセア書を通して、私たちに深い慰めと愛を教えてくださっています。

 

また、人間同士の関係ではなく、神と私たちの関係においては、私たちは常にゴメルの立場だということを忘れてはなりません。ゴメルの姦淫は、私たちの自我や人間的な欲望からくる神への背きの罪です。

私たちは神のことばに忠実に、そして神に委ねることができる練られた者となっていけるように、神に祈り求めていかなければなりません。

 

そして大切なのは、悔い改めの心です。ホセア14:1-3

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14:1

イスラエルよ。あなたの神、【主】に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。

14:2

あなたがたはことばを用意して、【主】に立ち返り、そして言え。「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。

14:3

アッシリヤは私たちを救えません。私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません。みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。」

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そして主は応えてくださいました。ホセア14:4-8

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14:4

わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。

14:5

わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。

14:6

その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。

14:7

彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。

14:8

エフライムよ。もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ。

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主は憐み深く、私たちを赦し、愛してくださる方です。

私たちがするべきことは、ただただ幼子のように主に信頼して、主に喜ばれる道を選択して歩むことです。

そして、2節に書かれていたように、「くちびるの果実」を捧げる事です。「くちびるの果実」とは、つまり、悔い改め、信仰告白、賛美などの、口から出ることばを捧げるということです。

 

現代は旧約聖書に出て来るような預言者はいないかもしれませんが、クリスチャンはある意味この世での預言者といえます。神に用いられる預言者となっていくために必要な資質とはなんでしょうか。

 

神との通り良き管となるには、こだわりや枠組み、しがらみを捨てることができるかどうかということです。

こだわりや枠組み、しがらみには、どうしても自我や人間的な欲望が関わってくるからです。

神との通り良き管となるには、極端に言えば、もうなんでもあり、なんでも受け入れるという状態になることです。「無気力」というわけではありません。気力は満々でありながら、こだわりを捨てるということです。

 

ホセアのように、たとえ周りの人からは苦労人に見えても、本人は大きな柔らかい心でその苦難を受け入れ、主に信頼し、生かされている恵みの中で歩むことができる人が、神に用いられるのではないでしょうか。

このような人が神と最も近い関係となり、神の真実を知り、現代の預言者となるのではないでしょうか。

 

先日、日野原重明先生が105歳で召されました。キリスト者として、また生涯現役の医師として神様からの使命を全うされて天に凱旋されました。日野原先生は第二次世界大戦を医師として体験し、その時の病院の体制が不十分だったことを痛感されたそうです。そこで、この先何が起こっても対応できるように、聖路加国際病院を採算を度外視して、野戦病院のように使えるように設計しました。

 

当初は経営の面でかなりの批判を受けたそうですが、1995年に地下鉄サリン事件が起こり、数千人の被害者が出た時に、いち早く対応することができ、この事件で最大の受け入れ病院となりました。まさに野戦病院のような状態だったそうですが、サリン中毒となった多くの人の命を救うことができたそうです。

 

その時のことを回顧した日野原先生はこのようにおっしゃったそうです。

「人は本当に大変な体験をしないと、本当に大事な事が判らない。」でした。まるでホセアのようです。

 

日野原先生は、ホセアのように大変な体験を通して、本当に大事な事を知り、そこに主の愛と赦しを見出したのではないでしょうか。主の器として、まるで預言者のように、多くの人々にその生き方をもって生涯福音を伝え続けたということではないでしょうか。

 

最後にホセア書の巻末に書かれているみことばをお読みします。

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<ホセア14:9>

知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟るがよい。悟りある者はだれか。その人はそれらを知るがよい。【主】の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。

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私たちも知恵ある者として神の愛と赦しを悟り、悔い改め、主を愛し、幼子のように信頼し、くちびるの果実を捧げながら、それぞれに与えられた主の平らな道を喜びをもって歩んでいきましょう。

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