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2017年7月23日 (日)

~ホセア書から見る神の愛~亀有教会副牧師 毛利佐保

◆聖書箇所: ホセア書14章1-8節

 

14:1

イスラエルよ。あなたの神、【主】に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。

14:2

あなたがたはことばを用意して、【主】に立ち返り、そして言え。「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。

14:3

アッシリヤは私たちを救えません。私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません。みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。」

14:4

わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。

14:5

わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。

14:6

その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。

14:7

彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。

14:8

エフライムよ。もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ。

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鈴木先生は、梶山直樹先生が横浜で牧会されている、「ニュータウン・カルバリー・フェローシップ」という教会でご奉仕されています。「ニュータウン~」は、大和カルバリーチャペルの枝教会です。

鈴木先生は昨日はセミナーの講師で、本日は礼拝メッセージを担当なさるそうです。

祝福の時でありますようにお祈りください。

 

そういうわけで、本日は僭越ながら私がメッセージを取り次がせていただきます。鈴木先生はマタイの連続講解説教をされているので、私は今回も旧約からお話しようと思います。

 

前回の私のメッセージの時は、「ルツ記」全体を取り上げましたが、本日も前回と同じく、「ホセア書」一書全体を取り上げる、「一書説教」です。このホセア書から神の愛について見て行きたいと思います。

 

旧約聖書には、「預言書」と言われる書があって、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書が三大預言書と呼ばれています。それに対して、ホセア書は小預言書と呼ばれています。預言の量の多さ、聖書のページ数の多さからそのような区別がされていると思われますが、ホセア書は、旧約聖書の最後に載せられている十二の小預言書の中でもゼカリヤ書と並んでボリュームがある預言書です。

 

「預言書」とは言いますが、言ってしまえば、聖書全体が神の啓示であり預言の書です。

では、聖書に出て来る「預言者」というのは、どのような役割を果たす人なのでしょうか。

 

聖書に出て来る「預言者」というのは、「神のことばを民に伝える」 という役割と、「民のために神にとりなしをする」という二つの側面からの役割を担っています。

 

旧約聖書に出て来る最初の預言者はアブラハム(創世記20:7)ですが、預言者たちはモーセ以降に多く出てきます。特に、サウル、ダビデ、ソロモンの統一王国の後、北と南に王国が分裂してからは、非常に多くのの預言者が出てきます。おそらく、偶像崇拝が激しくなり、神の民を正しく導く必要があったからでしょう。

 

ホセアは、分裂した後の北イスラエル王国が滅亡する直前に現れた、北イスラエルの預言者だと言われています。北イスラエル王国は、紀元前722年にアッシリアに敗れて、首都サマリヤが陥落し滅亡しました。

 

因みに新約聖書にも預言者はちらほら出てきます。バプテスマのヨハネをはじめ、使徒の働きに出て来るユダとシラス(使徒15:32)や、アガポ(使徒21:10)、コリントなどのパウロ書簡などにも、当時の教会に預言者の存在があったことが見受けられる記述があります。

 

さて、預言者ホセア個人についてですが、ホセアの出自については特に書かれていません。

しかし鋭い洞察力と観察力で綴られた文体から、かなり高い教養を身につけた人物であったと考えられます。そしてそれだけではなく、柔らかい心を持ち、感情や感受性が豊かな人物であったと考えられます。

旧約の預言書には、神の怒りや義による厳しいさばき、悔い改めを迫るメッセージが多い中で、ホセア書は神の愛と赦しを積極的に語っています。それでは、ホセア書から、神の愛を見ていきましょう。

 

◆①ホセアの結婚生活は神とイスラエルとの関係を表す。

 

預言者ホセアは北イスラエル王国に切迫している神の審判(王国の滅亡)を告げています。それは神に対するイスラエルの民たちの不誠実と不信仰の罪のためです。

 

ホセアは主の命令により特別な体験をします。ホセアは、自分自身の「結婚生活の苦悩」という事実を通して、神のイスラエルに対する深い愛を更に明確に知っていきました。

 

ホセア書をじっくり読んだことがある方は、ここに記されている預言者ホセアの人生について、いろいろと考えさせられるところがあったのではないでしょうか。

もし、読んだことがない方がおられましたら、後でじっくり読んでみてください。

 

まずホセア書の概要を簡単に説明します。

ホセア書は14章までありますが、大きく3つに分けるとこうなります。

 

Ⅰ. 1章-3章: ホセアの結婚生活と象徴的意味について

Ⅱ. 4章-13章: イスラエルの罪に対する刑罰について

Ⅲ. 14章: 神の愛による回復、祝福の約束について

 

ホセアの預言者人生は、1章2節に書かれているように、神から『行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は【主】を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。』と、衝撃的な命令を受けるところから始まります。

 

そしてホセアはディブライムの娘ゴメルをめとりました。この時ゴメルがすでに姦淫の娘だったのか、それとも後に姦淫を犯すので「姦淫の女」と主から呼ばれたのかは定かではありません。

 

彼女はみごもって、3人の子どもを産みました。最初の男の子はホセアとの間の子でしたが、次の女の子とその次の男の子は、姦淫の子のようでした。それは、神がその子どもたちにつけた名前からも理解できます。

          第一子(長男) イズレエル 「神は種を蒔く」

          第二子(長女) ロ・ルハマ 「彼女は憐みを受けない。愛されない。」

          第三子(次男) ロ・アミ 「我が民ではない」

 

そしてゴメルは第三子を産んだあと、『私は恋人たちのあとを追う。彼らは私にパンと水、羊毛と麻、油と飲み物を与えてくれる(2:5)』 と言って恋人たちの後を追いました。(「たち」複数のようですね。)

 

・・・これはスキャンダルです。

私たちの周りで、連日週刊誌を賑わしている、ちまたのスキャンダルと、なんら変わりない感じがしますが・・しかしこれは、神の人、預言者がスキャンダルに巻き込まれ苦悩している、しかも神の命令によってという、特異なケースです。神はゴメルが姦淫の女であることを知っておられながら、ホセアと結婚させました。

ゴメルの行為はイスラエルの民たちが、バアルという豊穣の神に恋い慕っている行為と同じです。

 

そして主は、恋人たちの後を追うゴメルの行く手を阻みました。それゆえ彼女は恋人たちを見つけることが出来ず、『私は行って、初めの夫に戻ろう。あの時は、今よりも私はしあわせだったから。(2:7) 』と言いました。彼女はその時、奴隷、または娼婦にまで身を落としていたようでした。

 

その後、主は彼女を赦し、ホセアとの結婚生活を回復させるためにホセアに再び命じました。

『再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を【主】が愛しておられるように。(3:1)』

 

主は、ホセアと姦淫の女ゴメルの結婚生活の苦悩になぞらえて、イスラエルを「神の不貞の妻」として語られました。当時イスラエルはバアルという偶像の神を崇め、祭儀には神殿娼婦による売春行為が行われていました。神とイスラエルの関係は、まさにホセアとゴメルの関係のようですね。

 

それゆえイスラエルは、「ロ・ルハマ =彼女は憐みを受けない。愛されない。」、「ロ・アミ=我が民ではない。」と神から捨てられました。しかし神の愛と赦しによって、その淫行がきよめられ、再び神の妻の地位を回復し、「ロ・ルハマ」、「ロ・アミ」、の「ロ」がとれて、「ルハマ=彼女は憐みを受ける。愛される」、「アミ=我が民である」に変わると主は語られました。(2:23)

 

そして、4章以降は神と北イスラエル、南ユダとの関係を語り、神のさばきと愛の預言へと展開して行きます。

 

ホセアとゴメルの結婚については、本当にあった事実ではなく、「比喩的」な解釈をする人や「夢・幻」であったとする人もいますが、おそらく事実であったと考えられます。なぜなら、ゴメルとの結婚生活の苦悩を通して、神の愛と赦しを語るホセアの預言者としての使信が、より真実味をおびて力強くなるからです。

 

明治・大正時代に活躍した、無教会主義のキリスト教指導者、内村鑑三(1861年-1930年)は、このホセア書を高く評価しています。内村鑑三は、著書「何西阿(ホセア)書の研究」の中で、「ホセア書は、神は儀式よりも愛情を歓び給うということを明らかにした。」と述べ、「福音書以前の福音書」とも、「旧約の内の新約」とまで言っているそうです。

 

その言葉どおりイエス様も、パウロもホセア書のみことばを引用しています。例えば、

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<ホセア6:6>

「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」

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は、イエス様が何度も引用されたみことばです。

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<マタイ9:13>

『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

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これは罪人と食事をするイエス様をパリサイ人が責めたときのイエス様の御言葉です。これは罪人や弟子たちへの愛があふれた御言葉であり、ホセア書が神の愛と赦しの書であることを示しています。

 

またパウロも、ローマ書でこのようにホセア書を引用しています。

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<ローマ9:25-26>

それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。

「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。 『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」

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と、異邦人にも救いをくださる神の愛を語っています。

このようにホセア書は、イエス様やパウロが引用するほど、神の愛と赦しに満ちた預言書なのです。

 

◆②神の愛はふところ深く、私たちの心の願いをも抱いてくださる。

 

ホセアはゴメルを深く愛していました。

いつからゴメルに対してそのような愛情を持ったのかはわかりませんが、3章1節で主は、『再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。』と言われました。

 

『夫に愛されていながら・・』と主が言われたこの言葉から、ホセアは妻のゴメルを愛していたことが解ります。

ですからホセアは主に命じられるとすぐに、ゴメルを銀十五シェケルと大麦一ホメル半で買い戻しに行きました。これは当時で言えば大金です。

 

そしてゴメルに、3章3節、『これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。』と言いました。

この言葉は、もう一度お互いに聖くなってやり直そうという意味です。

 

夫を捨てて恋人たちのもとに走ったゴメルの行いは、本来なら神様の聖、きよさや義に反する行いです。

しかしホセアは神のきよさや義に反することとわかっていながらもゴメルを愛し続けていました。

 

おそらくホセアは、ゴメルが他の男性のもとに走った末に、奴隷、または娼婦にまで身を落としてしまったということを、どこからか伝え聞いていたことでしょう。

そして、どうにかして助けてやりたいと思っていたのではないでしょうか。

しかし神のことばを伝える預言者であるホセアには、どうすることもできませんでした。

 

主は、そのようなホセアの心の願いを知っておられました。

だからこそ、主はホセアの願いをも、ふところに抱いて命じてくださったのです。

ホセアは、主のふところの深い愛を知り、ゴメルへの思いと決意を新たにしたのではないでしょうか。

 

そしてゴメルを赦して愛し続け、彼女が悔い改めて夫婦の関係を回復する実体験を通して、神に背き続けるイスラエルに対する神の愛を、更に深く知ることになったのではないでしょうか。

このように神様は、私たちの心の願いをすべてご存知であり、その心の願いをもふところに包み込んで愛して赦してくださる御方です。そして、その愛と赦しによって私たちに新しい気づきと、進むべき道を与えてくださる御方なのです。私たちの主を信頼し、心の願いを打ち明けましょう。

 

◆③幼子のように主に信頼し、主が喜ばれる道を選択する。

 

ホセアの人生は特別なのでしょうか。

ホセアのようなことを神から命じられることは自分にはないと思いますか?

いいえ、私たちの人生にもホセアと共通する体験もあれば、ゴメルのように罪を犯し続けるという体験もあるのではないでしょうか。

 

ホセアとゴメルの関係に、自分自身の人間関係を当てはめて考えてみたいと思います。

もし自分自身が置かれている立場がホセアの立場であったならば、神様が引き合わせてくださった人たち、神様が与えてくださった人たちを、ホセアがゴメルを愛したように愛し続けたいと願います。

また、自分自身がゴメルの立場であったなら、自分の罪を悔い改めて、罪深い自分を見捨てずに愛し続けてくれている人たちの愛に忠実に応えたいと願います。

 

私たちは、ホセアであり、ゴメルでもあります。私たちの人間関係においては、どちらの側面もあるのではないでしょうか。そんな中で、私たちは苦しみ、悩み、傷つきながら練られて成長し、互いに労わり、愛し合うことの素晴らしさを知るのです。神様はホセア書を通して、私たちに深い慰めと愛を教えてくださっています。

 

また、人間同士の関係ではなく、神と私たちの関係においては、私たちは常にゴメルの立場だということを忘れてはなりません。ゴメルの姦淫は、私たちの自我や人間的な欲望からくる神への背きの罪です。

私たちは神のことばに忠実に、そして神に委ねることができる練られた者となっていけるように、神に祈り求めていかなければなりません。

 

そして大切なのは、悔い改めの心です。ホセア14:1-3

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14:1

イスラエルよ。あなたの神、【主】に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。

14:2

あなたがたはことばを用意して、【主】に立ち返り、そして言え。「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。

14:3

アッシリヤは私たちを救えません。私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません。みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。」

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そして主は応えてくださいました。ホセア14:4-8

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14:4

わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。

14:5

わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。

14:6

その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。

14:7

彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。

14:8

エフライムよ。もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ。

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主は憐み深く、私たちを赦し、愛してくださる方です。

私たちがするべきことは、ただただ幼子のように主に信頼して、主に喜ばれる道を選択して歩むことです。

そして、2節に書かれていたように、「くちびるの果実」を捧げる事です。「くちびるの果実」とは、つまり、悔い改め、信仰告白、賛美などの、口から出ることばを捧げるということです。

 

現代は旧約聖書に出て来るような預言者はいないかもしれませんが、クリスチャンはある意味この世での預言者といえます。神に用いられる預言者となっていくために必要な資質とはなんでしょうか。

 

神との通り良き管となるには、こだわりや枠組み、しがらみを捨てることができるかどうかということです。

こだわりや枠組み、しがらみには、どうしても自我や人間的な欲望が関わってくるからです。

神との通り良き管となるには、極端に言えば、もうなんでもあり、なんでも受け入れるという状態になることです。「無気力」というわけではありません。気力は満々でありながら、こだわりを捨てるということです。

 

ホセアのように、たとえ周りの人からは苦労人に見えても、本人は大きな柔らかい心でその苦難を受け入れ、主に信頼し、生かされている恵みの中で歩むことができる人が、神に用いられるのではないでしょうか。

このような人が神と最も近い関係となり、神の真実を知り、現代の預言者となるのではないでしょうか。

 

先日、日野原重明先生が105歳で召されました。キリスト者として、また生涯現役の医師として神様からの使命を全うされて天に凱旋されました。日野原先生は第二次世界大戦を医師として体験し、その時の病院の体制が不十分だったことを痛感されたそうです。そこで、この先何が起こっても対応できるように、聖路加国際病院を採算を度外視して、野戦病院のように使えるように設計しました。

 

当初は経営の面でかなりの批判を受けたそうですが、1995年に地下鉄サリン事件が起こり、数千人の被害者が出た時に、いち早く対応することができ、この事件で最大の受け入れ病院となりました。まさに野戦病院のような状態だったそうですが、サリン中毒となった多くの人の命を救うことができたそうです。

 

その時のことを回顧した日野原先生はこのようにおっしゃったそうです。

「人は本当に大変な体験をしないと、本当に大事な事が判らない。」でした。まるでホセアのようです。

 

日野原先生は、ホセアのように大変な体験を通して、本当に大事な事を知り、そこに主の愛と赦しを見出したのではないでしょうか。主の器として、まるで預言者のように、多くの人々にその生き方をもって生涯福音を伝え続けたということではないでしょうか。

 

最後にホセア書の巻末に書かれているみことばをお読みします。

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<ホセア14:9>

知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟るがよい。悟りある者はだれか。その人はそれらを知るがよい。【主】の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。

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私たちも知恵ある者として神の愛と赦しを悟り、悔い改め、主を愛し、幼子のように信頼し、くちびるの果実を捧げながら、それぞれに与えられた主の平らな道を喜びをもって歩んでいきましょう。

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2017年7月14日 (金)

偉くなりたいと思うなら マタイ20:17-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.7.16

 イエス様はご自分がエルサレムで苦しみにあって死ぬことを度々、予告しています。きょうの箇所は3度目であり「十字架につけられる」と明言しています。ところが弟子たちはイエス様がエルサレムに上ったら、イスラエルの王様になるんだと信じていました。ですから、イエス様がエルサレムで死ぬと言われたことに、耳を傾けようとしませんでした。

1.偉くなりたいという願い

 マタイ2020-21そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」「そのとき」というのは、イエス様がご自分の死を予告した直後であります。お母さんが息子たちを連れてイエス様のところにやってきました。「ゼベダイの子らの母」とありますが、ヤコブとヨハネのお母さんです。イエス様に「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」とお願いしました。これはどういう意味でしょう?イエス様はマタイ19章においてペテロが「何もかもすてて、あなたに従ってまいりましたので何がいただけるでしょうか?」と質問しました。するとイエス様は、ご自分が栄光の座に着くとき、弟子たちが12の座について、イスラエルの12の部族をさばくと約束されました。それだけでも、すごいことなのに、このお母さんは「自分の息子のひとりは右に、ひとりは左に座れるようにおことばをください」とお願いしました。言い換えると「息子たちを右大臣と左大臣にしてください」ということです。何と身勝手でずうずうしい願いでしょうか?親馬鹿では済まされません。では、イエス様は「そんな馬鹿なことを言うな!」と一喝されたのでしょうか?そうではありません。

 マタイ20:22-24 けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。イエス様が「私が飲もうとしている杯を飲むことができるか?」とおっしゃたら、「できます」とそばにいた息子たちが答えました。杯というのは、ゲッセマネの園でイエス様が苦しみもだえた後「飲む」と決断された杯です。それは人類の罪を負って、神さまから捨てられ、殺されるということです。もし、イエス様に従って来るなら、同じような杯を飲むことになるということです。マルコ10章では「なるほどあなたがたは、私の飲む杯を飲み、私のバプテスマを受けはします」と預言しておられます。この預言のごとく、ヤコブはヘロデ王によって切り殺されました(使徒122)。一方、ヨハネは殉教こそ免れましたが、パトモス島に流されます。彼らはイエス様の右と左にすわることの代償を考えていませんでした。でも、ここで学ぶことは、イエス様が右と左にすわる、つまり偉くなることを否定していないということです。26節では「あなたがたの間で偉くなりたいなら」とおっしゃっています。また、27節では「あなたがたの間で人の先に立ちたいなら」ともおっしゃっています。イエス様は偉くなりたいとか、指導者になりたいという願い自体は否定してはいません。ただし、「このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです」とおっしゃっておられることも忘れてはいけません。パウロは「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて神によって立てられたものです」(ローマ131「王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなすように」(Ⅰテモテ21勧めています。聖書はこの世に高い地位の人たちがいることは、神の許しであると言っています。

 少し角度を変えて考えたいと思います。私たち人間には様々な欲望があります。マズローという心理学者は人間には五段階の欲求があると言っています。一番目から三番目が食べて寝て、仲間や家族と安全に暮らすということです。そして、四番目が「尊厳欲求」で、五番目が「自己実現欲求」です。これら2つは高い次元のものです。私たちは人から認められ、尊敬されたい、自分の能力を発揮したいという願いがあります。これらは私たちを動かすモティベーョンであることが一般的に認められています。だから企業は目の前に人参(褒美)をぶらさげて、働かせようとするのです。イエス様も私たちの生まれつきの願いを否定してはいません。でも、偉くなったり、指導者になると、良くないことも出てきます。大きな決断を迫られたり、責任を取らされたりします。良いときは尊敬されますが、悪いときは「お前のせいだ」と言われて詰腹を切らされます。そのため現代の若者たちは、偉くなったり、指導者になるということを願わなくなりました。昔は小学生にアンケートをとると総理大臣とか会社の社長になりたいという夢が圧倒的でした。しかし、今は、男子はサッカーの選手、女子は保育士とかパテシエになりたいと言う風に変化しています。どうしても人の上に立つと、責任も大きくなります。それよりは契約社員で、休みたい時は休み、嫌な仕事だったら変わるという生き方が多くなりました。1つの原因は理想的な指導者があまりいなくなり、幻滅しているせいかもしれません。テレビや新聞で、大統領や首相、大会社の社長のニュースを見たり聞いたりしますが、あまり良いものではありません。ヒーローがいるのは、スポーツか芸能界です。私たちの中にある願いや欲望がすべて悪いものとは限りません。イエス様は偉くなりたいとか、指導者になりたいという願い自体は否定していないということです。もし、私たちの前に正しい理想的な指導者がいたなら、そのようになりたいと願うのは自然なことなのです。なぜなら、そのことに神さまが関与し、上に立つことを許しているからです。善良で神さまのみこころを行う指導者が、随所に立てられたらすばらしいのではないでしょうか?

2.偉くなりたいなら

 偉くなりたかったらこうしなさいと、イエス様はこの世と全く逆の言い方をしておられます。マタイ2025-27 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。異邦人の支配者、つまりこの世の支配者はどうなのでしょう?「その民を治め」とありますが、ギリシャ語は「圧政する」「支配する」という意味です。また「権力をふるう」とは、「職権をほしいままにする」という意味もあります。当時はローマ帝国が世界を支配していましたが、まさしく力と権力による支配でありました。これから先のヨーロッパ世界は、力と権力の闘争であったことは歴史が証明しています。現代は民主主義と言われていますが、会社や官僚の世界はやはりピラミッド型であり、上のものが下のものを支配する構造になっています。共産主義は「資本主義を壊して富を平等に分配する」と言いましたが、ひどい独裁者たちを生み出しました。イエス様のこの世の支配者の見立ては、決して的外れではありません。しかし、イエス様はとても奇妙なことを言われました。「かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。」何と言うことでしょう?そんなことをしたら、支配者や権力者の思う壺ではないでしょうか?「そんなことはできるはずがない」とだれもが言うでしょう。

近年、「サーバントリーダーシップ」というものが脚光を浴びています。ロバート・グリーンリーフは「リーダーである人は、まず相手に奉仕し、その相手を導くものである」というリーダーシップの哲学を提唱しました。君臨型のリーダーシップは一番上に立っています。そして、一方的な指示や命令を与え、管理をします。下の人たちは彼に服従し、忠誠心を持ち、依存していきます。一方、サーバントリーダーシップの人は一番下で組織を支えています。ビジョンを共有し、権限を委譲します。下の人たちは、実際は彼よりも上にいるのですが、情報、提案、成果をサーバントリーダーに与えます。図を見ると分かるのですが、逆三角形になり、リーダーが一番下で、顧客が一番上にいます。現代このシステムを起用している企業がたくさんあります。たとえばスターバックス・コーヒーがあります。ある人が社長に「ここまでの成功を収めた秘訣は何ですか?」と聞きました。「多くの人から毎回その質問を受けるが、もし秘訣があるとすれば、それは戦略や戦術ではない。サーバントリーダーシップである。人に奉仕をする。人を大切にする。コーヒーを提供しながら、人を喜ばせる。改善に改善を重ね、世界企業になった」と答えたそうです。サウスウエスト航空は38年連続黒字でクレームも最低、フォーチュン誌の「働きがいのある企業」ランキング1位にも選ばれたそうです(5年前の情報)。社長は「顧客に最高の満足を提供するためには、先に従業員の満足度を高めることが必要で、だから会社として従業員に「奉仕」するというサーバントリーダーシップの考え方に基いているのです」と答えたそうです。他にはテキサス州コペル市警察、アメリカ空軍も取り入れています。日本ではサンクゼールというジャムの会社も取り入れています。久世社長はものすごいワンマン社長で、ジャム作りに成功し全国の百貨店にも商品が置かれました。しかし、直営店で失敗し、状況はどんどん悪化し自殺まで考えたそうです。社長は社員を集めて「借金が膨れ上がり、この会社はつぶれてしまうかもしれない。自分ひとりで突っ走ってしまったことを『申し訳ない』」と謝まりました。社員は愛想を尽かして皆辞めていくだろうと思っていました。ところが、結果は逆でした。「社長、何言ってるんですか。こんな状況だからこそ、皆で力を合わせて頑張りましょうよ」「社長が本音を話してくれてうれしかったです」と言われました。そこから、社長はサーバントリーダーシップを心がけるようになりました。ある雑誌のインタビューで、「社長はどんなリーダーですか?」という質問に、サンクゼールの社員はこう答えたそうです。①夢を語っている。方向性を示してくれる②話を聴いてくれる。個人的な相談に乗ってくれる。ちなみに久世社長は敬虔なクリスチャンです。亀有のアリオにも出店しています。日本でも『サーバントリーダーシップ』という本がベストセラーになりました。その本の訳者がこう言っています。「サーバントリーダーシップの歴史を振り返ってみますと、二千年前のキリストの考え方、生き方に由来します。サーバントリーダーシップというのは、古くて新しいリーダーシップの考え方なのです。

 しかし、これを方法論で捉えてしまうなら、ほころびが出るでしょう?「なんで私が頭を下げなけりゃならないんだ。私は指導者だ。下からやっとのし上がったんだ。威張って当然だろう」と心の中で思っていたならどうでしょう?私たちは心の中に持っている価値観で行動するものです。ですから、心の価値観が変わっていないのに、言葉や行いだけを変えても無理です。イエス様が言われたことは、「こうすれば良くなる」という処世術や方法論ではありません。神の国の価値観です。多くの場合、イエス様が言われるものは、この世と真逆のものが多いのです。たとえば、山上の説教では「心の貧しい人は幸いです。右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。受けるより与える方が幸い」と言われました。また、マタイ18章では「子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です」と言われました。きょうのところでは「偉くなりたいと思う者は、仕える人となりなさい」と言われています。ある人たちは「キリスト教は道徳的ですばらしい」と言うかもしれません。しかし、道徳ではなく、神の国から来たものです。私たちは神の国の価値観を私たちの心の中心に据えなければなりません。英語ではcore value、「中核価値観」と呼んでいます。私たちは意識はしていませんが、このcore valueによって、何かを愛し、何かを求め、何かを決断しています。core valueは強いて言うなら、「あなたの中の原則、基準、美徳」と言えます。あなたの中にあるcore valueが、神の国の価値観と一致しているかどうかが鍵であります。「偉くなりたいので仕える、かしらになりたいのでしもべになる」という方法論で捉えたなら行き詰まるでしょう。あなたの「中核価値観」になる必要があります。

3.イエスの模範

 仕えることが偉くなるための方法ではなく、あなたの「中核価値観」になるためにはどうしたら良いのでしょう?それはイエス様にならうということが重要です。さらに、ならうだけではなく、イエス様があなたの中に住んでくださるなら、自然と実行できるようになるでしょう。イエス様はどのようなお方なのでしょうか?マタイ20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」これはイエス様のことばであり、イエス様が実際になさったことです。何と言うことでしょう?イエス様こそ人々から仕えられるべき王であり、神さまでした。もし、イエス様がこの世の王であるなら、すべての人がイエス様に仕え、服従すべきであります。しかし、イエス様はこの世と全く逆のことを言われました。「人の子」というのは、イエス様がご自分を呼ぶときに用いた表現です。これは完全な人間であり、神さまに完全に服従した人間の代表という意味が含まれています。本来、イエス様は神であり、神と共におられたのですが、この地上に人間として来られ、人々に仕えました。典型的なことがヨハネ13章に書かれていますが、最後の晩餐のときに弟子たちの足を洗われました。外から家に入ってきたとき、召使が人々の足を洗ってくれます。しかし、弟子たちは「だれが一番偉いだろうか」と競っていたので、人の足を洗ってあげるなんて考えていませんでした。弟子たちは知らんぷりして、席についたのです。ところが、イエス様がたらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、手ぬぐいで拭いてあげました。最後にイエス様はこう言われました。ヨハネ1314-15「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」ここでもおっしゃっておられるように、イエス様は模範となられました。方法論ではなく、「私のように人々に仕えるように」と、弟子たちに体験的に教えられたのです。

 私たちはその場にいませんでした。その場にいた弟子たちだったら、「ああ、そうかイエス様が私に仕えたように、私も人々に仕えます」と言えたでしょう。でも、私たちにイエス様から仕えられた経験がないなら、単なる教えになって、「中核価値観」にまでには至りません。私たちのcore valueが、神の国の価値観と一致するためには、イエス様を体験しなければなりません。つまり、イエス様が私に仕えてくださったということを実際に体験するということです。でも、そのようなことが可能なのでしょうか? もう一度お読みいたします。マタイ20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」そうです。イエス様が究極的に人々に仕えた出来事とは何でしょう?それは多くの人のために、贖いの代価として、自分のいのちを与えたことです。ご自分の命を十字架上で捧げたことが、神のしもべとして来られた目的でありました。イザヤ書53章は、罪のために死ぬという苦難のしもべの預言です。イエス様が私に仕えてくださったというのは、イエス様が私のために命を捨てて贖ってくださったということです。簡単に言うとイエス様にお世話になったということです。イエス様がペテロの足を洗おうとしたとき、「決して私の足をお洗いにならないでください」と断りました。するとイエス様は「もし私が洗わなければ、あなたは私と何の関係もありません」と言われました。これはどういう意味でしょう?足を洗うとは、罪を赦すということです。つまり、イエス様から罪を赦していただいたことがないなら、イエス様と何の関係もないということです。クリスチャンであるなら、もれなくイエス様から仕えていただいたことがあるのです。イエス様はあなたの罪を贖うことによって、仕えてくださったからです。イエス様は仕えることの、私たちの模範となられました。同時にまた、イエス様は仕えるなら結果的にどうなるか保証にもなられました。

 ピリピ2章にそのことが書かれています。ピリピ2:6-8「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」このところに、イエス様が仕える者として来られ、罪を贖ってくださったということが記されています。だけどそれだけではありません。ピリピ29-11「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」なんと、イエス様は父なる神さまによって、高く上げられ、すべての名にまさる名が与えられました。どん底から、天の高くまで引き上げられました。これはどういう意味でしょう?みなに仕えるなら、神さまがあなたを引き上げ、偉い者として下さるということです。また、しもべになるなら、神さまがあなたを引き上げ、先に立つ者として下さるということです。Ⅰペテロ56「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」アーメン。私たちは自ら偉くなろうと努力する必要はありません。むしろ自らを低くして仕える者となるように努力するのです。そうすれば結果的に、神さまが高めてくださるのです。神さまは神の国の価値観をもった指導者をお立てになりたいのです。そして、ご自分の思いをこの地に満たしたいのです。神さまは人を必要としています。かつてはイエス様をこの地に遣わしました。現在はイエス様に贖われた人たちを用いたいと願っておられます。もし神さまから与えられた権威と力を正しく用いるならば、下の者たちは恵まれて暮らすことができます。この世の人たちは権威と力を誤用するので、下の者たちが苦しむことになるのです。神さまもこの世も、正しい指導者を必要としています。権威と力の大小はあるかもしれません。遣わされているところも様々です。家庭、職場、地域社会、国家がその領域です。政治、ビジネス、芸術、学業、医療、スポーツがその領域です。あなたが仕える場所はたくさんあります。ビル・ジョンソンのことばです。「しもべのように支配し、王のように仕えましょう。」

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2017年7月 7日 (金)

ぶどう園のたとえ マタイ20:1-16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.7.9

 ぶどうの収穫できる期間はそんなに長くありません。熟したらすぐ刈り取る必要があります。「猫の手も借りたい」ほどの忙しさなので、オーナーは大勢の労働者を雇わなければなりません。たとえの中では、夕方の5時に雇われて1時間しか働かないのに1日分の賃金を与えています。現実にありそうもない出来事かもしれませんが、たとえ話ではありえることなのです。朝6時から12時間働いた人と、たった1時間しか働かなかった人を対比するための興味深い設定になっています。

1.たとえの背景

 「たとえとは、天的な意味を持った地上の物語である」と言われています。イエス様は冒頭で「天の御国は…のようなものです」と言われました。イエス様は天国のある出来事を教えるために、地上のぶどう園の話をしたのです。これを天国のたとえではなく、この地上の出来事であると読むならば、とても腹が立つのではないでしょうか?「なんで、1時間しか働かない人に1日分の賃金を与えるのか?朝早くから働いた人たちが可哀そうじゃないか?こんなひどい話はない」と言うでしょう?そもそも「たとえ」とは何なのでしょうか?たとえはギリシャ語でパラボーレであり、「そばに投げる」「そばに置く」という意味があります。比較し易いように、1つのものを他のもののかたわらに置くということです。この箇所ではぶどう園の収穫をする労務者の話がなされています。しかし、それは同時に天国の何かを教えているということです。イエス様は天国に関する多くのことをたとえで話されました。なぜでしょう?天国は見えないからです。一方、地上のものはよく見えます。地上のものが分かった後、「ああ、天国はこうなんだ」と理解させるためにイエス様はたとえを用いて話されたのです。

 たとえ話の意味をさぐるため重要なポイントがあります。それはたとえ話がだれに向けて語られているのか背景を知るということです。いきなり、たとえ話に飛び込みむと、迷ってしまいます。この解釈はキリスト教会によく知られている間違いです。朝早くぶどう園に雇われた人とは、子どものときから教会に行っている人です。特にクリスチャンホームの子どもは「あーしてはいけない、こうしてはいけない」と窮屈な生活を強いられてきました。朝9時とは10代か20代に救われた人、大学の聖研とかで救われた人です。12時の人とは30代か40代です。午後3時の人とは50代か60代です。夕方5時とは70代か80代です。そういえば、最近、当亀有教会では潮田兄姉の両方のお母さん、柏姉のお父さんとお母さんが洗礼を受けられました。私の妻の京子さんのお母さんもそうです。みなさん80代から90代です。人生の黄昏時、イエス様を信じて洗礼を受けられるなんてすばらしいですね。でも、このたとえをそのまま読むとどうでしょう?「CSの時から教会に来た人はたくさん奉仕をして、罪を犯さないで真面目に生きて来ました。なのに、80代の人たちはさんざん好きなことをして、死ぬ前に『イエス様信じます』と洗礼を受ける。ずるい、何の苦労もしていないのに!」と言わないでしょうか?私は柏姉の実のお父様のご葬儀のとき「この方はずるい」と言いました。さんざん好きなことをして、さんざん家族に迷惑をかけて、亡くなる直前に天国に入ったからです。これは私の見解ではなく、奥様や柏兄姉の情報を得たゆえのものです。でも、火葬場から帰って、故人のご兄弟の話を聞いたら、「確かにそうだな」と納得しました。詳細は故人の名誉のために割愛させていただきます(きょうは納骨式です)。

 でも、このたとえの意味はそうではありません。私たちは、いきなりたとえ話に飛び込んではいけません。「このたとえ話の背景は何か?」「だれに向けて語られたのか?」を調べなければなりません。聖書は便宜上、何章・何節と書かれていますが、原文はそのような分け方はしてありません。だから20章に縛られないで、19章も見る必要があります。19章後半には青年役員が永遠のいのちを得るために何をしたら良いか、イエス様を訪ねました。イエス様は、律法を守っていると自負する若者に、「持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と言いました。それは「隣人を自分のように愛しなさい」という律法を守って完全になるためです。でも、彼は多くの財産を持っていたので、それができず、悲しんで去って行きました。イエス様は「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」と言われました。弟子たちが、「それでは、だれが救われるのでしょう」と驚いて言いました。その後、ペテロが「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか?」(マタイ1927と言いました。これです。ペテロのことのことばが「ぶどう園のたとえ」の背景になっているのです。

 イエス様は「世が改まって、人の子が栄光の座に着く時、弟子たちが12の座について、イスラエルの12部族をさばく」と言われました。さらには、「ご自分のために家、兄弟、姉妹、父、母、子を受け、また永遠の命を受け継ぎます」と約束されました。なんと、ペテロたちは、イエス様が御国の王になった暁には、12部族をさばく大臣になるというのです。なんというすばらしい報いでしょうか?でも、弟子たちはそれで満足できませんでした。それではだれがイエス様の右に、だれが左に座るかを争っていました。最後の晩餐の時も「だれが一番偉いだろうか」と論じていました(参考.ルカ2224)。イエス様は弟子たちがそうなることを予測してこのたとえ話をされたのです。最後に、イエス様は「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」(マタイ1930)と謎めいたことをおっしゃいました。同じことばが、このたとえ話の最後にも言われています。マタイ2016「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」。つまり、「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか?」とペテロが言ったことばが背景になっているのです。イエス様は、まだ、何かを欲しいと要求する弟子たち、特にペテロのためにこのたとえを語られたのです。

2.たとえの意味

 たとえの意味を考える前に、たとえの内容を簡単に見たいと思います。まず、ぶどう園に、一番最初に招かれた人たちの特徴とは何でしょう?聖書に「朝早く」と書かれていますが、英語の詳訳聖書には「夜明け」と書かれていますので、おそらく午前6時頃だと思います。彼らは午後6時まで12時間働きました。どのくらい大変だったか、彼ら自身が述べています。「私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」(マタイ2012。原文には、「暑い中で、一日中、重荷を運んだ」と書かれています。おそらく、ぶどうを摘み取り、それを籠に入れて運び、牛車に積んだのでしょう。日中はものすごく暑くて、汗だくで、奴隷のように働きました。それに比べて、午後5時に雇われた人は、夕方の涼しい時刻で、しかも1時間です。なのに、1日分の賃金を与えられました。この極端さが、このたとえの醍醐味というか痛快さになっています。このたとえは、端的に言うと2つのグループに分けることができます。第一のグループは、朝6時に雇われ、一日中ぶどう園で働いた人たちです。第二のグループは、朝9時、お昼12時、午後3時、そして午後5時に雇われた人たちです。この2つのグループの決定的な違いは何でしょうか?それは第一のグループは、一日1デナリの約束をしているということです。当時、ローマが発行したデナリ銀貨がありました。その頃の労働者の1日の賃金の目安はデナリ1枚 でした。現在では1万円くらいかもしれません。第二のグループは主人が、いくらあげると約束していません。「相当のものをあげるから」と言っただけです。このことばは、午後5時に雇われた人にも言われました。英語の詳訳聖書には「あなたは正当でフェアーなものが得られるだろう」と書かれています。つまり、第二のグループは主人のことばを信用して、働きに出かけたということです。いくらもらえるとは聞かされなかったけど、「きっと労働に見合った賃金がいただけるだろう」と信じて働いたのです。

 午後6時になり、支払の時が来ました。どういう訳かご主人は午後5時に雇われた人たちから先に払いました。その人たちはびっくりしました。「え?1時間しか働かなかったのに、1デナリもらうとは!」。ものすごく喜んだでしょう。午後3時の人も、お昼12時の人も、そして午前9時の人も、1日分の賃金をもらって喜んだと思います。しかし、喜べないグループがいました。それは朝早くから働いていた第一のグループの人たちです。彼らは午後5時の人が1デナリをもらったとき驚いたでしょう。「え?1時間しか働かなかったのに、1デナリもらうとは!」。同じ驚きでも、疑いと不満の驚きです。午後3時の人も、お昼12時の人も、そして午前9時の人も、1日分の賃金をもらうのを見ました。彼らは心の中で考えたでしょう?「俺たちは朝早くから、一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのだから、3デナリくらいもらっても良いだろうなー」。ところが、驚いたことに彼らが受け取った賃金は、1デナリでした。そのため、彼らは主人に文句を言いました。労働者の立場から考えたら、当然と言えば当然です。しかし、雇人はどう答えたでしょう。マタイ2013-14しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。』そうです。第一のグループの人たちとは「一日1デナリ」と約束していました。だから、主人は不当なことはしていません。

さて、「文句を言ったひとり」とはだれのことを指しているのでしょうか?それは「私たちは何がいただけるでしょうか?」と言った弟子のペテロです。ペテロと他11人の弟子たちは、当初からイエス様に従いました。文字通り、すべてを捨てて従ったのです。それはペテロだけではありません。マタイだって取税人という職業を捨てました。3年間、イエス様と同行しました。しかし、これから先、弟子たちはイエス様を失い、どん底に落とされました。もう一度、昔の仕事に戻ろうかと思ったくらいです。でも、私たちはその先のことを知っています。ペンテコステの日、聖霊が注がれてからどうでしょう?ペテロが大説教して、一日に3000人も救われました。数日後、足なえの人を歩かせ5000人にも膨れ上がりました。ところが宗教的な指導者たちから捕えられ、議会に引き渡されました。でも、天使に救い出され、迫害を恐れず、なおも宣教しました。ペテロは初代教会の指導者になりました。最初に召された弟子たちは、十字架と復活を経てからものすごく用いられました。彼らこそぶどう園に最初に招かれた人たちです。でも、イエス様は謎めいたことをおしゃいました。マタイ20:16「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」このことばは、マタイ19:30にも書かれていました。ぶどう園の賃金が支払われるのが、逆になるということです。後から雇われた者が賃金を先にいただいて、最初に招かれた人たちが最後になることがあるということです。これはいつ実現したのでしょうか?一番最初に成就したのは、使徒パウロのことです。使徒パウロはイエス様から召されていません。十字架も目撃していません。むしろ彼は初代教会の人たちを迫害したやっかい者でした。ところが彼は復活の主と出会ってから用いられました。使徒の働き12章まではペテロのことです。しかし、使徒の働き13章から28章まではパウロのことです。パウロは小アジア、ギリシャ、ローマへと宣教に出かけました。そればかりではありません。新約聖書の半分、13の手紙を書きました。パウロによって教会の神学的な土台が打ち立てられました。ペテロではなく、パウロです。これにはペテロをはじめ他の使徒たちはむかついたと思います。まさしく、あとの者が先になったのです。

 ペテロは昔から目立ちがり屋で、一番になりたい人でした。よく他の弟子たちと比べていました。ヨハネ21章にはペテロとイエス様の会話が記されています。ヨハネ21:21-22 ペテロは彼(ヨハネ)を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」このペテロへのことばは、私たちのことばでもあります。私たちも人とくらべて生きているかもしれません。「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」私たちは人と比較しないで、イエス様だけを見て従えば良いのです。「相当のものをあげる」とおっしゃるイエス様を信じて。アーメン。

3.たとえの適用

 私たちはたとえの背景、たとえの意味を知りました。そこにはイエス様のメッセージがかくされていました。ペテロは「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか?」と言いました。ところが、イエス様はぶどう園のたとえによって、召して下さった方を信頼することを教えてくださいました。私たちは12弟子ではありませんから、「相当のものをあげる」とおっしゃるイエス様を信じて従うべきなのです。これが天国のたとえの真の意味であります。でも、ここから一歩踏み込んで、私たちの生活にどう適用するかを考えなければなりません。このたとえで私たちが学ぶべきこととは何でしょう?それは、奉仕の心構えであります。私たちはそれぞれ種類や程度は違いますが、神さまに仕えています。直接、教会の奉仕をしておられる兄弟姉妹もおられます。私もその一人です。でも、奉仕は教会内のことだけではありません。伝統的な教会は、4つの壁に囲まれた建物で活動することが奉仕だと定義していました。世の中の仕事は世俗的で、教会内の奉仕は聖いと言ってきました。しかし、そうではありません。マタイ25章には、「最も小さい者たちのひとりにしたのは私にしたのです」と書かれています。また、エペソ5章には「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」と書かれています。さらに、エペソ6章には「キリストに従うように、地上の主人に従いなさい。…人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。…それぞれの報いを主から受けることをあなたがたは知っています」と書かれています。私たちの奉仕は教会という建物の中にとどまらず、この世においての仕事や活動にも奉仕の部分があるということを忘れてはいけません。私たちは賃金を得るためだけに働いているのではありません。ある部分は、主イエス・キリストの御名のゆえに奉仕しているのです。ちなみに奉仕は英語でサービスとも言います。サービスはこの世で誤解されています。本来の意味は、勤め、奉職、公的な勤務です。雇われるという意味だけではなく、積極的な意味もあることを忘れてはいけません。つまり、この世の賃金以上にやったことは、主イエス様にしたことだと思って良いのです。

 もう1つ考えられることは、ペテロや他の弟子たちは、教会を最初から支えて来た兄弟姉妹にたとえることができます。教会の開拓は大変です。会堂建築もそうです。ある人たちは給与のほとんどささげ、仕事以外の時間をすべてささげて奉仕します。牧師先生を支え、教会がある程度、自立してきました。新会堂の返済もやっと終わりました。ハレルヤ!でも、面白くないことが起こりました。最近、救われた人たちが、我がもの顔のように会堂を使っています。「この設備が悪いとか、ここが足りない、あそこが足りない」と文句を言います。先輩クリスチャンは、「新しい人が救われて感謝だなー」と最初は思っていました。ところが、「私たちは当初から犠牲を払って仕えて来たのに、何だか疎んじられている。あんたらどのくらい土地と会堂にささげたんだ。」と文句が出るかもしれません。当教会ではそういうことを言う人はいなかったかもしれません。でも、ゴスペルで若い人たちが救われた直後、寂しい思いをした先輩クリスチャンがいたかもしれません。私も2002年に礼拝形式を全く変えて、讃美歌からワーシップソングに変えてしまいました。さらには日本基督教団から離脱し、単立教会になりました。「これまでずっと日本基督教団でやって来たのに!」と反感を覚えた兄弟姉妹もいたかもしれません。まさしく、先輩クリスチャンはペテロのような気持ちになりえます。「私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」(マタイ2012。牧師は教会が大きくなることを願います。多くの人が救われ、人数が増えて、にぎやかになることを願います。ところが、家庭的であった教会が今度は、デパートみたいになります。名前も顔も知らない人たちが教会を出入りしています。そうすると、もう自分の教会でないような気がするかもしれません。そのときこそ、このぶどう園のたとえを思い出さなければなりません。一番重要なのは、奉仕の心構えであります。一体だれが、報いて下さるのでしょうか?それは人ではありません。イエス様です。私たちは人からも認められたいと思っています。もちろん、そういうことがあったら幸いですが、そうでないときもあります。

 私は救われて1年後に献身を表明して神学校に入りました。そうすると大川牧師の態度が全く変わりました。それまではお客さんのように丁寧に扱ってくださいました。ところが、献身を表明してから、「私はもうあなたに気を使わないから!」と冷たく言われました。それだけではありません。奉仕をしてもあまり感謝をされません。聖書の「ふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」(ルカ1710口語訳)のようです。どうでしょう?いつまでも気を使われたら、それはお客さんです。もちろん感謝はあって良いと思いますが、なければなくても良いのです。なぜなら、それは同労者扱いだからです。使徒パウロにはテモテをはじめ、たくさんの同労者がしました。イエス様はペテロたちには厳しかったかもしれません。でも、イエス様は彼らを使徒、いや同労者として扱ったからであります。ヨハネ15章には「しもべではなく友と呼ぶ」とまで書かれています。大川牧師は私を冗談半分で「一番弟子」と呼んでくれます。おそらく、他の人にもおっしゃっているのだと思います。でも、イエスさまから「お前は私の弟子だよ」と言われたら嬉しいですね。弟子とはイエス様の真似をしながら、イエス様の奉仕をする人です。イエス様がなすべきことを、私たちが代わりに地上で行うとしたら、これほど光栄なことはありません。かしらなるイエス様は現在、天上におられます。私たちがイエス様の手であり、足であり、口であるとしたらどうでしょう。ペテロのように「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか?」と言うべきでしょうか?そうではなく、私のようなものにお声かけてくださりありがとうございます。私は午後3時の人間ですけど、よろしくお願いします。私は午後5時の人ですけど、よろしくお願いします。あと1時間しか働けないんですけど良いですか?聖書を見るとこの人は「だれもわたしたちを雇ってくれませんから」と答えています。「だれも使ってくれないのでぶらぶらしていました。」でも、主人は「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい」と言われました。なぜなら、ぶどうの収穫時は、「猫の手も借りたい」ほどの忙しさだからです。魂の収穫時、リバイバルが起ったら、そうなります。

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