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2017年7月28日 (金)

何をしてほしいのか マタイ20:29-34 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.7.30

 この盲人の癒しの記事はマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に記されています。マタイによる福音書はイエス様の教えに多くを割いていますが、奇跡についてはそうではありません。そのため、きょうの記事を学ぶとき、他の福音書も参考にしたいと思います。この記事はイエス様による奇跡でありますが、当人もその奇跡の一端を担っています。この人物はどのようにイエス様に求めたのでしょうか?

1.切なる求め

 マタイによる福音書には「ふたりの盲人」と記されていますので、特別な意味があるのかもしれません。マタイ18章に「あなたがたの二人がどんな事でも心を一つにして祈るなら、天の父がそれをかなえてくださる」と書いてあるからです。一方、マルコによる福音書には、この人物は「バルテマイという盲人の物乞い」と名前が記されています。エリコの町はエルサレムに上るときの要所だったので、物乞いとしては良い場所だったのかもしれません。もしあなたが盲人で道ばたに座っているなら、何ができるでしょうか?まず、耳が聞こえます。そして、声を出すことができるでしょう。でも、自分が行きたいところには行くことができません。なぜなら目が見えないからです。その日は、盲人の物乞いの前を大勢の人たちが通りました。二人は「きょうはふだんよりも稼ぎが多いぞ」とワクワクしていました。しかし、人々の話し声に耳を傾けると、ナザレのイエスがこの町を通るようです。彼らは前から、イエス様が盲人の目を開けたり、足のなえの人を歩かせることができるという噂を聞いていました。「まさか、噂のイエス様がエリコを通過するとは?」とびっくりしたことでしょう。彼らはこの時とばかり叫びました。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と二人で声を合わせて叫びました。ひとりよりも二人ですから、あたりに響き渡ったのではないかと思います。するとどうでしょう。マタイ2031そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫び立てた。

 イエス様の取り巻きは「うるさい、黙れ」とたしなめました。なぜなら、人々は「イエス様はエルサレムに行く途中なので、物乞いなどに時間を割く暇はない」と思ったのでしょう。でも、黙るなら、イエス様が行ってしまいます。二人は、もっと大きな声を出しました。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫び立てました。もう、騒音です。32節「するとイエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた」。マルコ福音書にはもっと詳しく書かれています。マルコ1049-50すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。すばらしいです。親切な人がいて、盲人たちをイエス様のところに連れて行ってくれました。マルコ福音書には「上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た」とあります。パウロ・チョーヨンギ師は「この上着は公道で物乞いができるという政府の許可証みたいなものであった。これを脱ぎ捨てるということは、もう物乞いをしないという信仰の現れである」と解説していました。その大切な上着を脱ぎ捨てたとはどういう意味でしょう?彼らは後ろの橋を焼き捨てて、イエス様のところに行ったということです。絶対、癒されると思ったのでしょう。このところから私たちは盲人たちの信仰を学ぶ必要があります。それは切なる求めであります。イエス様はマタイ7章で「求めなさい。そうすれば与えられます」と約束されました。しかし、原文は「求め続けなさい。捜し続けなさい。たたき続けなさい」と継続形に書かれています。

 イエス様は変貌山でモーセとエリヤを呼んでサミット会議を持たれました。三人は「エルサレムで遂げようとするエキサダス(出エジプト)」について話していました。イエス様は弟子たちに「エルサレムに行って、多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがなければならない」と告げました。イエス様はその時から、まっすぐエルサレムに御顔を向けて歩まれました。この時は、エリコの町を通過して、エルサレムに入る直前でした。マタイ21章にはエルサレム入城のことが記されています。ということは、イエス様は二度とエリコには戻らないということです。二人の盲人の物乞いは、知ってか知らずか、そのチャンスを逃しませんでした。しかし、彼らは目が見えないのでイエス様のところに行けません。できることは、大声を上げて呼び止めるしかありません。彼らは「うるさい、黙れ」と言われても、ますます「主よ、私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫びたてました。イザヤ書にとてもふさわしいみことばがあります。イザヤ556「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」そして、聖歌にもあります。聖歌540「主よ、わがそばをば、過ぎ行かず、汝が目をばわれに、向けたまえ。主よ、主よ、聞きたまえ、切に呼びまつる、わが声に」この歌はファニー・クロスビーが作りました。彼女は医者の間違いで幼くして失明しました。生涯に6000以上の賛美歌を書いたということです。原曲はPass me not, O gentle saviorですが、Hear my humble cry「卑しい叫びをお聞き下さい」と歌っています。おそらくファニー・クロスビーは、盲人の物乞いの気持ちを知っていたことでしょう。残念ながら、彼女の肉体の目は癒されませんでしたが、霊の目は開かれました。ルカによる福音書にはこのように書かれています。ルカ1843「彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。」彼らは目が見えるようになった後、イエス様について行きました。これを見た民たちは神さまを賛美しました。彼らは今日明日のお金を恵んでもらったのではありません。根本的な問題が解決され、自らの足でイエス様について行ったのです。

 私たちはこのところから「切なる求め」ということを学ぶべきです。この盲人の物乞いは恥も外聞も捨てて、大声で叫びました。人々から「うるさい、黙れ」と言われてもやめませんでした。かえって大きな声で叫び、イエス様の足を止めることができました。しかし、おかしいです。イエス様はそれまで二人の声が聞こえなかったのでしょうか?それとも、そのまま通り過ぎようとされていたのでしょうか?イエス様が通り過ぎるというシーンはもう一箇所あります。イエス様が5,000人の人たちを奇跡的に養った後、弟子たちはガリラヤ湖の向こう岸に舟で向かいました。マルコ648「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。」なんとイエス様は薄情なのでしょうか?弟子たちが必死に漕いでいる舟の脇を通り過ぎようとされました。この2つの箇所から、何か共通することがあります。イザヤ書には「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」とありました。奇跡というのは、いつでも起こるわけではないということです。神さまが介入してくださる時を逃してはいけません。でも、こちら側は「イエス様にご迷惑をかけてはいけない。お手すきのときで結構です」と辞退するかもしれません。私たちも偉い方にお願いするときは、そのようになります。でも、せっぱ詰まっている場合はそうではありません。何をやってもダメで、どん底であえいでいる時がそうです。私はリバイバルのため聖霊の油注ぎを求めた先生方の本を何冊も読みました。それらの本にはdesperateという言葉が記されていました。 Desperateというのは、「自暴自棄の、必死の」という意味ですが、「…が欲しくてたまらない、何としても必要で」という意味があります。本の先生方は「私は聖霊の油注ぎがなければやっていけません」と切に求めました。そうするとある日、突然、聖霊が上から臨み、電気に打たれたように打ち倒されました。そして、「死にそうです。もう結構です。いや、もっと下さい」と叫びました。その後、先生方のミニストリーが全く変わり、しるしと奇跡の伴う宣教ができたということです。私もこれにあこがれています。問題は、それだけの飢え渇き、切なる求めがあるかどうかということです。

 私たちはこの世のものである程度満たされています。「霊的なものがなくても良いかな?」と思ってしまいます。テレビやスマホ、人々との会話、悪いわけではありません。ショッピングやおいしい食事、観光、悪いわけではありません。でも、ある程度満たされていますと、霊的な飢え渇きがありません。祈りも静かに上品になります。「みこころならば与えてください。みこころでなければ結構です」みたいな祈りをします。イエス様にご迷惑をかけたくないからです。ということは、そこまで行き詰っていない、desperateまで達していないということです。それはある意味では不幸と言えるかもしれません。なぜなら、ベター(より良いもの)で満足しているからです。「ベターはベスト(最上)の敵である」と聞いたことがあります。「この世」の特徴は何でしょう?この世のものは、イコール、罪ではありません。この世のものは、私たちを神さまから引き離し、さらに私たちを占有します。いつの間にか私たちの関心が、神さまよりもこの世のものに捕らわれている、それが占有です。そうなると、イエス様が近くにおられるのが分かりません。いつまでも続くベストなものは神さまが持っておられます。この盲人たちのように、叫んで求めましょう。チャンスを逃してはいけません。主はあなたの求めが本当なのかご覧になっておられます。主があなたに答えようとしているその時、イエス様に求めましょう。

2.明確な求め

 マタイ20:32 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。イエス様は超自然的に人の心を読み取ることができます。ですから、この時も盲人たちが何を求めて来たのかご存じだったと思います。でも、あえて「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれたのは何故でしょう?もし、この記事を客観的に見るならばどうでしょう?この人たちは毎日、「私たちをあわれんでください」と道行く人たちにほどこしを乞うていたと思います。ということは、このことばは彼らの常套句、決まり文句だったわけです。彼らはそうやって毎日、いくらかの施しをいただいて生活してきました。今回は、ただ「ダビデの子よ」と呼び方を変えただけに過ぎないように思えます。人々は、イエス様に金銭の施しを求めているのだろうと思ったかもしれません。だから、「うるさい、だまれ」とたしなめたのでしょう。マルコによる福音書を見ると、イエス様はこのように言われました。マルコ1052するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」イエス様は彼の信仰をほめています。マルコ福音書はひとりですが、マタイはふたりの盲人になっています。どちらにしても、彼らには信仰がありました。では、どのような信仰なのでしょうか?二人はイエス様から「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれました。彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」このようなことを普通の人には願うことができません。盲人の目を開けるなんてことは、普通の人にはできません。そんなに大きなことを願うということは、信仰がなければできません。二人の盲人は、イエス様のことを「ダビデの子よ」と叫びました。このところでは「主よ」と呼びかけています。明らかに「イエスは主である」という信仰があります。「このお方だったら、自分たちの目を開けることができる」と信じていたのでしょう。だから「主よ。この目をあけていただきたいのです」と願ったのです。イエス様の中に、あわれみが生じ、彼らの目にさわってあげました。すぐさま彼らは見えるようになりました。彼らの信仰のごとくに癒されました。彼らは物乞いを卒業し、イエス様について行きました。人々はその光景を見て、神さまを賛美しました。

 私たちはこのところから何を学ぶべきでしょう?CSルイスという人は、「奇跡自体は主のメッセージである」と言いました。つまり、ここでは「ただ目の見えない人が、見えるようになった」という意味ではないということです。イエス様はこの奇跡を通して私たちに何かを教えておられるということです。最初のポイントでは「切なる求め」ということを学びました。本当に飢え渇きをもって求めているかということです。二人は「目が開けられるなら自分たちの人生は変わる」と必死に求めました。この時を絶対逃したくないので、だまれと言われても叫び求めたのです。第二は「明確な求めです」。イエス様から「わたしに何をしてほしいのか」と問われました。この時、「もう物乞いをしなくても良いように、一生分のお金をください」と願っても良かったはずです。でも、二人は「主よ。この目をあけていただきたいのです」と願いました。イエス様は超自然的に彼らの願いは分かっていました。でも、あえて彼らの口からそのことばを聞きたかったのです。なぜなら、彼らの信仰にご自分の信仰をプラスしたかったのです。イエス様は少し前に、「からし種ほどの信仰があったら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです」(マタイ1720)と言われたことがあります。この二人にはからし種以上の生きた信仰がありました。二人ははっきりと「この目をあけていただきたいのです」と告白しました。イエス様は彼らの信仰にご自分の偉大な信仰をプラスしたのです。まるで、コンセントのプラグに差し込まれる時のように、癒しの力が二人に注がれたのであります。すぐさま彼らの目は見えるようになりました。このようにイエス様は私たちが求めるとき、明確に、具体的に求めることを願っておられます。明確に口で言うというのは、私たちに信仰がなければできません。このとき、「みこころでしたら」「もし、おできになるのでしたら」みたいな、言い方は不信仰であり、失礼です。ダイレクトに「〇〇していただきたいのです」と言えば良いのです。イエス様は「よく私に大きなことを求めたものだ。すばらしい信仰だ」と、むしろ喜んでくださいます。イエス様に小さなことしか求めない人はイエス様の力をみくびっている人です。でも、イエス様に大きなことを求める人は、イエス様はそれができる偉大な神さまであると信じている証拠であります。

 西洋周りのキリスト教は非常に上品なところがあります。彼らのように大声で叫んだりはしません。教会は上流階級の人たちが来るところであり、物乞いの盲人など来るところではありません。現代は医学が発達し、経済的にも満たされているので、このような奇跡は不要です。むしろ、私たちの霊性が高められ、神さまと聖い交わりを喜ぶべきです。日本の教会は西洋周りのキリスト教の影響を多分に受けています。そのため、きょうのような記事は飛ばして、すぐ21章に行くかもしれません。あるいは「目を開けて下さい」というのは、「心の目であって、それは霊的なものです」と解釈するかもしれません。そうではありません。物乞いの盲人たちが、イエス様によって肉体の目が開けられて、自分たちの足で歩いて生活できるようになったのです。これは奇跡であり、イエス様が肉体を含め、生活全部のことに関心をもっておられるという証拠です。私たちはイエス様が根本的な救いを与えたことを理解しなければなりません。教会は弱い人たちを助けるためボランティア活動など、世の中を明るくするようなことを進んでします。それらは良いことです。でも、盲人の人生を根本的に変えるためには、盲人の目を開けなければなりません。少しの施しや、生活のお世話だけでは、彼らの人生を根本的に変えことができません。イエス様はヨハネ14章でこのようにおっしゃいました。ヨハネ1412「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」アーメン。私たちもイエス様と同じようなことをすべきであります。目の前に盲人の人がいたら、目が開けられるように祈るべきであります。こういうことを言うと、私にもプレッシャーがかかります。でも、私たちはこの世にいるすべての盲人の目を開くようにとは命じられていないと信じます。イエス様もご自分から盲人たちを探し回って、盲人を片っ端から癒したとは思いません。イエス様はご自分のところに、癒しを求めてきた人たちを癒されました。きょうのところから、「切なる求め」「明確な求め」が必要なんだということを学びました。もちろん、神さまはどんなことでもおできになられます。でも、奇跡が起こるためには、受ける側の信仰と与える側の信仰がマッチする必要があると思います。たとえ受ける側の信仰がからし種のような大きさでも、神さまご自身が臨まれるなら、癒されると信じます。一番重要なのは、私たちができるか、できないかではなく、癒しの器として私たちを差し出すということです。聖霊様が「今、この人が癒されるので宣言しなさい」とおっしゃれば、「今、この人が癒されました」と言えば良いのです。主は、このような「知識のことば」で人々をお癒しになることもあります。ある時は手を置いても良いし、ある時は唾で泥を作って目に塗ることもあるでしょう。主が導かれたら、どんなことでもする覚悟で臨まなければ、癒しの器になることはできません。

 きょうのメッセージのまとめをいたします。イエス様はふたりの盲人の目を開けてあげました。でも、この二人は一生懸命できることをしました。自分から行けないので、大声を上げて叫びました。今、この時を逃してはならないと必死に求めました。そして、イエス様から「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれました。私たちも祈っている最中、イエス様から「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれることがあるでしょう。たとえ、そのような声が聞こえなくても、イエス様「このようになることです。このようなことを叶えていただきたいのです」と明確に求める必要があります。ある人たちは、イザヤ書55章のみことばを引用し「私たちの思いと神さまとの思いとは違うんだ」と言うかもしれません。でも、私たちはイエス様によって父と子どもの関係になりました。子どもは父親に遠慮しません。遠回りにも言いません。はっきりと「これ欲しい」「こうしてくれ」と言います。お願いではなく、要求に近い求め方です。それだけ親子関係は親しいということです。もちろん、父なる神さまに対してある程度の礼儀は必要です。でも、イエス様にだったらもっとダイレクトに願っても大丈夫です。だから私たちは「イエス様のお名前によってお祈りします」と言うのです。たとい無礼講で一方的でわがままな祈りであっても、イエス様のお名前を通すなら、ちゃんと調整していだたけるという約束であります。もし、みこころと違うならば、内におられる聖霊(神の霊)が「こういうふうに修正しなさい」と教えてくださいます。また、祈っているうちに自己中心的な願いが聖霊の火によって聖められ、神さまの御座に届く祈りに変えられます。最初から綺麗で整えられた祈りにする必要は全くありません。重要なのは、「神さまにはできる」「イエス様にはできる」という信仰です。父なる神さまが、イエス様が叶えて下さると信じるので、切に求め、明確に求めるのです。詩篇374「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」アーメン。

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