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2017年7月14日 (金)

偉くなりたいと思うなら マタイ20:17-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.7.16

 イエス様はご自分がエルサレムで苦しみにあって死ぬことを度々、予告しています。きょうの箇所は3度目であり「十字架につけられる」と明言しています。ところが弟子たちはイエス様がエルサレムに上ったら、イスラエルの王様になるんだと信じていました。ですから、イエス様がエルサレムで死ぬと言われたことに、耳を傾けようとしませんでした。

1.偉くなりたいという願い

 マタイ2020-21そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」「そのとき」というのは、イエス様がご自分の死を予告した直後であります。お母さんが息子たちを連れてイエス様のところにやってきました。「ゼベダイの子らの母」とありますが、ヤコブとヨハネのお母さんです。イエス様に「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」とお願いしました。これはどういう意味でしょう?イエス様はマタイ19章においてペテロが「何もかもすてて、あなたに従ってまいりましたので何がいただけるでしょうか?」と質問しました。するとイエス様は、ご自分が栄光の座に着くとき、弟子たちが12の座について、イスラエルの12の部族をさばくと約束されました。それだけでも、すごいことなのに、このお母さんは「自分の息子のひとりは右に、ひとりは左に座れるようにおことばをください」とお願いしました。言い換えると「息子たちを右大臣と左大臣にしてください」ということです。何と身勝手でずうずうしい願いでしょうか?親馬鹿では済まされません。では、イエス様は「そんな馬鹿なことを言うな!」と一喝されたのでしょうか?そうではありません。

 マタイ20:22-24 けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。イエス様が「私が飲もうとしている杯を飲むことができるか?」とおっしゃたら、「できます」とそばにいた息子たちが答えました。杯というのは、ゲッセマネの園でイエス様が苦しみもだえた後「飲む」と決断された杯です。それは人類の罪を負って、神さまから捨てられ、殺されるということです。もし、イエス様に従って来るなら、同じような杯を飲むことになるということです。マルコ10章では「なるほどあなたがたは、私の飲む杯を飲み、私のバプテスマを受けはします」と預言しておられます。この預言のごとく、ヤコブはヘロデ王によって切り殺されました(使徒122)。一方、ヨハネは殉教こそ免れましたが、パトモス島に流されます。彼らはイエス様の右と左にすわることの代償を考えていませんでした。でも、ここで学ぶことは、イエス様が右と左にすわる、つまり偉くなることを否定していないということです。26節では「あなたがたの間で偉くなりたいなら」とおっしゃっています。また、27節では「あなたがたの間で人の先に立ちたいなら」ともおっしゃっています。イエス様は偉くなりたいとか、指導者になりたいという願い自体は否定してはいません。ただし、「このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです」とおっしゃっておられることも忘れてはいけません。パウロは「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて神によって立てられたものです」(ローマ131「王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなすように」(Ⅰテモテ21勧めています。聖書はこの世に高い地位の人たちがいることは、神の許しであると言っています。

 少し角度を変えて考えたいと思います。私たち人間には様々な欲望があります。マズローという心理学者は人間には五段階の欲求があると言っています。一番目から三番目が食べて寝て、仲間や家族と安全に暮らすということです。そして、四番目が「尊厳欲求」で、五番目が「自己実現欲求」です。これら2つは高い次元のものです。私たちは人から認められ、尊敬されたい、自分の能力を発揮したいという願いがあります。これらは私たちを動かすモティベーョンであることが一般的に認められています。だから企業は目の前に人参(褒美)をぶらさげて、働かせようとするのです。イエス様も私たちの生まれつきの願いを否定してはいません。でも、偉くなったり、指導者になると、良くないことも出てきます。大きな決断を迫られたり、責任を取らされたりします。良いときは尊敬されますが、悪いときは「お前のせいだ」と言われて詰腹を切らされます。そのため現代の若者たちは、偉くなったり、指導者になるということを願わなくなりました。昔は小学生にアンケートをとると総理大臣とか会社の社長になりたいという夢が圧倒的でした。しかし、今は、男子はサッカーの選手、女子は保育士とかパテシエになりたいと言う風に変化しています。どうしても人の上に立つと、責任も大きくなります。それよりは契約社員で、休みたい時は休み、嫌な仕事だったら変わるという生き方が多くなりました。1つの原因は理想的な指導者があまりいなくなり、幻滅しているせいかもしれません。テレビや新聞で、大統領や首相、大会社の社長のニュースを見たり聞いたりしますが、あまり良いものではありません。ヒーローがいるのは、スポーツか芸能界です。私たちの中にある願いや欲望がすべて悪いものとは限りません。イエス様は偉くなりたいとか、指導者になりたいという願い自体は否定していないということです。もし、私たちの前に正しい理想的な指導者がいたなら、そのようになりたいと願うのは自然なことなのです。なぜなら、そのことに神さまが関与し、上に立つことを許しているからです。善良で神さまのみこころを行う指導者が、随所に立てられたらすばらしいのではないでしょうか?

2.偉くなりたいなら

 偉くなりたかったらこうしなさいと、イエス様はこの世と全く逆の言い方をしておられます。マタイ2025-27 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。異邦人の支配者、つまりこの世の支配者はどうなのでしょう?「その民を治め」とありますが、ギリシャ語は「圧政する」「支配する」という意味です。また「権力をふるう」とは、「職権をほしいままにする」という意味もあります。当時はローマ帝国が世界を支配していましたが、まさしく力と権力による支配でありました。これから先のヨーロッパ世界は、力と権力の闘争であったことは歴史が証明しています。現代は民主主義と言われていますが、会社や官僚の世界はやはりピラミッド型であり、上のものが下のものを支配する構造になっています。共産主義は「資本主義を壊して富を平等に分配する」と言いましたが、ひどい独裁者たちを生み出しました。イエス様のこの世の支配者の見立ては、決して的外れではありません。しかし、イエス様はとても奇妙なことを言われました。「かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。」何と言うことでしょう?そんなことをしたら、支配者や権力者の思う壺ではないでしょうか?「そんなことはできるはずがない」とだれもが言うでしょう。

近年、「サーバントリーダーシップ」というものが脚光を浴びています。ロバート・グリーンリーフは「リーダーである人は、まず相手に奉仕し、その相手を導くものである」というリーダーシップの哲学を提唱しました。君臨型のリーダーシップは一番上に立っています。そして、一方的な指示や命令を与え、管理をします。下の人たちは彼に服従し、忠誠心を持ち、依存していきます。一方、サーバントリーダーシップの人は一番下で組織を支えています。ビジョンを共有し、権限を委譲します。下の人たちは、実際は彼よりも上にいるのですが、情報、提案、成果をサーバントリーダーに与えます。図を見ると分かるのですが、逆三角形になり、リーダーが一番下で、顧客が一番上にいます。現代このシステムを起用している企業がたくさんあります。たとえばスターバックス・コーヒーがあります。ある人が社長に「ここまでの成功を収めた秘訣は何ですか?」と聞きました。「多くの人から毎回その質問を受けるが、もし秘訣があるとすれば、それは戦略や戦術ではない。サーバントリーダーシップである。人に奉仕をする。人を大切にする。コーヒーを提供しながら、人を喜ばせる。改善に改善を重ね、世界企業になった」と答えたそうです。サウスウエスト航空は38年連続黒字でクレームも最低、フォーチュン誌の「働きがいのある企業」ランキング1位にも選ばれたそうです(5年前の情報)。社長は「顧客に最高の満足を提供するためには、先に従業員の満足度を高めることが必要で、だから会社として従業員に「奉仕」するというサーバントリーダーシップの考え方に基いているのです」と答えたそうです。他にはテキサス州コペル市警察、アメリカ空軍も取り入れています。日本ではサンクゼールというジャムの会社も取り入れています。久世社長はものすごいワンマン社長で、ジャム作りに成功し全国の百貨店にも商品が置かれました。しかし、直営店で失敗し、状況はどんどん悪化し自殺まで考えたそうです。社長は社員を集めて「借金が膨れ上がり、この会社はつぶれてしまうかもしれない。自分ひとりで突っ走ってしまったことを『申し訳ない』」と謝まりました。社員は愛想を尽かして皆辞めていくだろうと思っていました。ところが、結果は逆でした。「社長、何言ってるんですか。こんな状況だからこそ、皆で力を合わせて頑張りましょうよ」「社長が本音を話してくれてうれしかったです」と言われました。そこから、社長はサーバントリーダーシップを心がけるようになりました。ある雑誌のインタビューで、「社長はどんなリーダーですか?」という質問に、サンクゼールの社員はこう答えたそうです。①夢を語っている。方向性を示してくれる②話を聴いてくれる。個人的な相談に乗ってくれる。ちなみに久世社長は敬虔なクリスチャンです。亀有のアリオにも出店しています。日本でも『サーバントリーダーシップ』という本がベストセラーになりました。その本の訳者がこう言っています。「サーバントリーダーシップの歴史を振り返ってみますと、二千年前のキリストの考え方、生き方に由来します。サーバントリーダーシップというのは、古くて新しいリーダーシップの考え方なのです。

 しかし、これを方法論で捉えてしまうなら、ほころびが出るでしょう?「なんで私が頭を下げなけりゃならないんだ。私は指導者だ。下からやっとのし上がったんだ。威張って当然だろう」と心の中で思っていたならどうでしょう?私たちは心の中に持っている価値観で行動するものです。ですから、心の価値観が変わっていないのに、言葉や行いだけを変えても無理です。イエス様が言われたことは、「こうすれば良くなる」という処世術や方法論ではありません。神の国の価値観です。多くの場合、イエス様が言われるものは、この世と真逆のものが多いのです。たとえば、山上の説教では「心の貧しい人は幸いです。右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。受けるより与える方が幸い」と言われました。また、マタイ18章では「子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です」と言われました。きょうのところでは「偉くなりたいと思う者は、仕える人となりなさい」と言われています。ある人たちは「キリスト教は道徳的ですばらしい」と言うかもしれません。しかし、道徳ではなく、神の国から来たものです。私たちは神の国の価値観を私たちの心の中心に据えなければなりません。英語ではcore value、「中核価値観」と呼んでいます。私たちは意識はしていませんが、このcore valueによって、何かを愛し、何かを求め、何かを決断しています。core valueは強いて言うなら、「あなたの中の原則、基準、美徳」と言えます。あなたの中にあるcore valueが、神の国の価値観と一致しているかどうかが鍵であります。「偉くなりたいので仕える、かしらになりたいのでしもべになる」という方法論で捉えたなら行き詰まるでしょう。あなたの「中核価値観」になる必要があります。

3.イエスの模範

 仕えることが偉くなるための方法ではなく、あなたの「中核価値観」になるためにはどうしたら良いのでしょう?それはイエス様にならうということが重要です。さらに、ならうだけではなく、イエス様があなたの中に住んでくださるなら、自然と実行できるようになるでしょう。イエス様はどのようなお方なのでしょうか?マタイ20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」これはイエス様のことばであり、イエス様が実際になさったことです。何と言うことでしょう?イエス様こそ人々から仕えられるべき王であり、神さまでした。もし、イエス様がこの世の王であるなら、すべての人がイエス様に仕え、服従すべきであります。しかし、イエス様はこの世と全く逆のことを言われました。「人の子」というのは、イエス様がご自分を呼ぶときに用いた表現です。これは完全な人間であり、神さまに完全に服従した人間の代表という意味が含まれています。本来、イエス様は神であり、神と共におられたのですが、この地上に人間として来られ、人々に仕えました。典型的なことがヨハネ13章に書かれていますが、最後の晩餐のときに弟子たちの足を洗われました。外から家に入ってきたとき、召使が人々の足を洗ってくれます。しかし、弟子たちは「だれが一番偉いだろうか」と競っていたので、人の足を洗ってあげるなんて考えていませんでした。弟子たちは知らんぷりして、席についたのです。ところが、イエス様がたらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、手ぬぐいで拭いてあげました。最後にイエス様はこう言われました。ヨハネ1314-15「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」ここでもおっしゃっておられるように、イエス様は模範となられました。方法論ではなく、「私のように人々に仕えるように」と、弟子たちに体験的に教えられたのです。

 私たちはその場にいませんでした。その場にいた弟子たちだったら、「ああ、そうかイエス様が私に仕えたように、私も人々に仕えます」と言えたでしょう。でも、私たちにイエス様から仕えられた経験がないなら、単なる教えになって、「中核価値観」にまでには至りません。私たちのcore valueが、神の国の価値観と一致するためには、イエス様を体験しなければなりません。つまり、イエス様が私に仕えてくださったということを実際に体験するということです。でも、そのようなことが可能なのでしょうか? もう一度お読みいたします。マタイ20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」そうです。イエス様が究極的に人々に仕えた出来事とは何でしょう?それは多くの人のために、贖いの代価として、自分のいのちを与えたことです。ご自分の命を十字架上で捧げたことが、神のしもべとして来られた目的でありました。イザヤ書53章は、罪のために死ぬという苦難のしもべの預言です。イエス様が私に仕えてくださったというのは、イエス様が私のために命を捨てて贖ってくださったということです。簡単に言うとイエス様にお世話になったということです。イエス様がペテロの足を洗おうとしたとき、「決して私の足をお洗いにならないでください」と断りました。するとイエス様は「もし私が洗わなければ、あなたは私と何の関係もありません」と言われました。これはどういう意味でしょう?足を洗うとは、罪を赦すということです。つまり、イエス様から罪を赦していただいたことがないなら、イエス様と何の関係もないということです。クリスチャンであるなら、もれなくイエス様から仕えていただいたことがあるのです。イエス様はあなたの罪を贖うことによって、仕えてくださったからです。イエス様は仕えることの、私たちの模範となられました。同時にまた、イエス様は仕えるなら結果的にどうなるか保証にもなられました。

 ピリピ2章にそのことが書かれています。ピリピ2:6-8「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」このところに、イエス様が仕える者として来られ、罪を贖ってくださったということが記されています。だけどそれだけではありません。ピリピ29-11「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」なんと、イエス様は父なる神さまによって、高く上げられ、すべての名にまさる名が与えられました。どん底から、天の高くまで引き上げられました。これはどういう意味でしょう?みなに仕えるなら、神さまがあなたを引き上げ、偉い者として下さるということです。また、しもべになるなら、神さまがあなたを引き上げ、先に立つ者として下さるということです。Ⅰペテロ56「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」アーメン。私たちは自ら偉くなろうと努力する必要はありません。むしろ自らを低くして仕える者となるように努力するのです。そうすれば結果的に、神さまが高めてくださるのです。神さまは神の国の価値観をもった指導者をお立てになりたいのです。そして、ご自分の思いをこの地に満たしたいのです。神さまは人を必要としています。かつてはイエス様をこの地に遣わしました。現在はイエス様に贖われた人たちを用いたいと願っておられます。もし神さまから与えられた権威と力を正しく用いるならば、下の者たちは恵まれて暮らすことができます。この世の人たちは権威と力を誤用するので、下の者たちが苦しむことになるのです。神さまもこの世も、正しい指導者を必要としています。権威と力の大小はあるかもしれません。遣わされているところも様々です。家庭、職場、地域社会、国家がその領域です。政治、ビジネス、芸術、学業、医療、スポーツがその領域です。あなたが仕える場所はたくさんあります。ビル・ジョンソンのことばです。「しもべのように支配し、王のように仕えましょう。」

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