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2017年7月 7日 (金)

ぶどう園のたとえ マタイ20:1-16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.7.9

 ぶどうの収穫できる期間はそんなに長くありません。熟したらすぐ刈り取る必要があります。「猫の手も借りたい」ほどの忙しさなので、オーナーは大勢の労働者を雇わなければなりません。たとえの中では、夕方の5時に雇われて1時間しか働かないのに1日分の賃金を与えています。現実にありそうもない出来事かもしれませんが、たとえ話ではありえることなのです。朝6時から12時間働いた人と、たった1時間しか働かなかった人を対比するための興味深い設定になっています。

1.たとえの背景

 「たとえとは、天的な意味を持った地上の物語である」と言われています。イエス様は冒頭で「天の御国は…のようなものです」と言われました。イエス様は天国のある出来事を教えるために、地上のぶどう園の話をしたのです。これを天国のたとえではなく、この地上の出来事であると読むならば、とても腹が立つのではないでしょうか?「なんで、1時間しか働かない人に1日分の賃金を与えるのか?朝早くから働いた人たちが可哀そうじゃないか?こんなひどい話はない」と言うでしょう?そもそも「たとえ」とは何なのでしょうか?たとえはギリシャ語でパラボーレであり、「そばに投げる」「そばに置く」という意味があります。比較し易いように、1つのものを他のもののかたわらに置くということです。この箇所ではぶどう園の収穫をする労務者の話がなされています。しかし、それは同時に天国の何かを教えているということです。イエス様は天国に関する多くのことをたとえで話されました。なぜでしょう?天国は見えないからです。一方、地上のものはよく見えます。地上のものが分かった後、「ああ、天国はこうなんだ」と理解させるためにイエス様はたとえを用いて話されたのです。

 たとえ話の意味をさぐるため重要なポイントがあります。それはたとえ話がだれに向けて語られているのか背景を知るということです。いきなり、たとえ話に飛び込みむと、迷ってしまいます。この解釈はキリスト教会によく知られている間違いです。朝早くぶどう園に雇われた人とは、子どものときから教会に行っている人です。特にクリスチャンホームの子どもは「あーしてはいけない、こうしてはいけない」と窮屈な生活を強いられてきました。朝9時とは10代か20代に救われた人、大学の聖研とかで救われた人です。12時の人とは30代か40代です。午後3時の人とは50代か60代です。夕方5時とは70代か80代です。そういえば、最近、当亀有教会では潮田兄姉の両方のお母さん、柏姉のお父さんとお母さんが洗礼を受けられました。私の妻の京子さんのお母さんもそうです。みなさん80代から90代です。人生の黄昏時、イエス様を信じて洗礼を受けられるなんてすばらしいですね。でも、このたとえをそのまま読むとどうでしょう?「CSの時から教会に来た人はたくさん奉仕をして、罪を犯さないで真面目に生きて来ました。なのに、80代の人たちはさんざん好きなことをして、死ぬ前に『イエス様信じます』と洗礼を受ける。ずるい、何の苦労もしていないのに!」と言わないでしょうか?私は柏姉の実のお父様のご葬儀のとき「この方はずるい」と言いました。さんざん好きなことをして、さんざん家族に迷惑をかけて、亡くなる直前に天国に入ったからです。これは私の見解ではなく、奥様や柏兄姉の情報を得たゆえのものです。でも、火葬場から帰って、故人のご兄弟の話を聞いたら、「確かにそうだな」と納得しました。詳細は故人の名誉のために割愛させていただきます(きょうは納骨式です)。

 でも、このたとえの意味はそうではありません。私たちは、いきなりたとえ話に飛び込んではいけません。「このたとえ話の背景は何か?」「だれに向けて語られたのか?」を調べなければなりません。聖書は便宜上、何章・何節と書かれていますが、原文はそのような分け方はしてありません。だから20章に縛られないで、19章も見る必要があります。19章後半には青年役員が永遠のいのちを得るために何をしたら良いか、イエス様を訪ねました。イエス様は、律法を守っていると自負する若者に、「持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と言いました。それは「隣人を自分のように愛しなさい」という律法を守って完全になるためです。でも、彼は多くの財産を持っていたので、それができず、悲しんで去って行きました。イエス様は「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」と言われました。弟子たちが、「それでは、だれが救われるのでしょう」と驚いて言いました。その後、ペテロが「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか?」(マタイ1927と言いました。これです。ペテロのことのことばが「ぶどう園のたとえ」の背景になっているのです。

 イエス様は「世が改まって、人の子が栄光の座に着く時、弟子たちが12の座について、イスラエルの12部族をさばく」と言われました。さらには、「ご自分のために家、兄弟、姉妹、父、母、子を受け、また永遠の命を受け継ぎます」と約束されました。なんと、ペテロたちは、イエス様が御国の王になった暁には、12部族をさばく大臣になるというのです。なんというすばらしい報いでしょうか?でも、弟子たちはそれで満足できませんでした。それではだれがイエス様の右に、だれが左に座るかを争っていました。最後の晩餐の時も「だれが一番偉いだろうか」と論じていました(参考.ルカ2224)。イエス様は弟子たちがそうなることを予測してこのたとえ話をされたのです。最後に、イエス様は「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」(マタイ1930)と謎めいたことをおっしゃいました。同じことばが、このたとえ話の最後にも言われています。マタイ2016「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」。つまり、「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか?」とペテロが言ったことばが背景になっているのです。イエス様は、まだ、何かを欲しいと要求する弟子たち、特にペテロのためにこのたとえを語られたのです。

2.たとえの意味

 たとえの意味を考える前に、たとえの内容を簡単に見たいと思います。まず、ぶどう園に、一番最初に招かれた人たちの特徴とは何でしょう?聖書に「朝早く」と書かれていますが、英語の詳訳聖書には「夜明け」と書かれていますので、おそらく午前6時頃だと思います。彼らは午後6時まで12時間働きました。どのくらい大変だったか、彼ら自身が述べています。「私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」(マタイ2012。原文には、「暑い中で、一日中、重荷を運んだ」と書かれています。おそらく、ぶどうを摘み取り、それを籠に入れて運び、牛車に積んだのでしょう。日中はものすごく暑くて、汗だくで、奴隷のように働きました。それに比べて、午後5時に雇われた人は、夕方の涼しい時刻で、しかも1時間です。なのに、1日分の賃金を与えられました。この極端さが、このたとえの醍醐味というか痛快さになっています。このたとえは、端的に言うと2つのグループに分けることができます。第一のグループは、朝6時に雇われ、一日中ぶどう園で働いた人たちです。第二のグループは、朝9時、お昼12時、午後3時、そして午後5時に雇われた人たちです。この2つのグループの決定的な違いは何でしょうか?それは第一のグループは、一日1デナリの約束をしているということです。当時、ローマが発行したデナリ銀貨がありました。その頃の労働者の1日の賃金の目安はデナリ1枚 でした。現在では1万円くらいかもしれません。第二のグループは主人が、いくらあげると約束していません。「相当のものをあげるから」と言っただけです。このことばは、午後5時に雇われた人にも言われました。英語の詳訳聖書には「あなたは正当でフェアーなものが得られるだろう」と書かれています。つまり、第二のグループは主人のことばを信用して、働きに出かけたということです。いくらもらえるとは聞かされなかったけど、「きっと労働に見合った賃金がいただけるだろう」と信じて働いたのです。

 午後6時になり、支払の時が来ました。どういう訳かご主人は午後5時に雇われた人たちから先に払いました。その人たちはびっくりしました。「え?1時間しか働かなかったのに、1デナリもらうとは!」。ものすごく喜んだでしょう。午後3時の人も、お昼12時の人も、そして午前9時の人も、1日分の賃金をもらって喜んだと思います。しかし、喜べないグループがいました。それは朝早くから働いていた第一のグループの人たちです。彼らは午後5時の人が1デナリをもらったとき驚いたでしょう。「え?1時間しか働かなかったのに、1デナリもらうとは!」。同じ驚きでも、疑いと不満の驚きです。午後3時の人も、お昼12時の人も、そして午前9時の人も、1日分の賃金をもらうのを見ました。彼らは心の中で考えたでしょう?「俺たちは朝早くから、一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのだから、3デナリくらいもらっても良いだろうなー」。ところが、驚いたことに彼らが受け取った賃金は、1デナリでした。そのため、彼らは主人に文句を言いました。労働者の立場から考えたら、当然と言えば当然です。しかし、雇人はどう答えたでしょう。マタイ2013-14しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。』そうです。第一のグループの人たちとは「一日1デナリ」と約束していました。だから、主人は不当なことはしていません。

さて、「文句を言ったひとり」とはだれのことを指しているのでしょうか?それは「私たちは何がいただけるでしょうか?」と言った弟子のペテロです。ペテロと他11人の弟子たちは、当初からイエス様に従いました。文字通り、すべてを捨てて従ったのです。それはペテロだけではありません。マタイだって取税人という職業を捨てました。3年間、イエス様と同行しました。しかし、これから先、弟子たちはイエス様を失い、どん底に落とされました。もう一度、昔の仕事に戻ろうかと思ったくらいです。でも、私たちはその先のことを知っています。ペンテコステの日、聖霊が注がれてからどうでしょう?ペテロが大説教して、一日に3000人も救われました。数日後、足なえの人を歩かせ5000人にも膨れ上がりました。ところが宗教的な指導者たちから捕えられ、議会に引き渡されました。でも、天使に救い出され、迫害を恐れず、なおも宣教しました。ペテロは初代教会の指導者になりました。最初に召された弟子たちは、十字架と復活を経てからものすごく用いられました。彼らこそぶどう園に最初に招かれた人たちです。でも、イエス様は謎めいたことをおしゃいました。マタイ20:16「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」このことばは、マタイ19:30にも書かれていました。ぶどう園の賃金が支払われるのが、逆になるということです。後から雇われた者が賃金を先にいただいて、最初に招かれた人たちが最後になることがあるということです。これはいつ実現したのでしょうか?一番最初に成就したのは、使徒パウロのことです。使徒パウロはイエス様から召されていません。十字架も目撃していません。むしろ彼は初代教会の人たちを迫害したやっかい者でした。ところが彼は復活の主と出会ってから用いられました。使徒の働き12章まではペテロのことです。しかし、使徒の働き13章から28章まではパウロのことです。パウロは小アジア、ギリシャ、ローマへと宣教に出かけました。そればかりではありません。新約聖書の半分、13の手紙を書きました。パウロによって教会の神学的な土台が打ち立てられました。ペテロではなく、パウロです。これにはペテロをはじめ他の使徒たちはむかついたと思います。まさしく、あとの者が先になったのです。

 ペテロは昔から目立ちがり屋で、一番になりたい人でした。よく他の弟子たちと比べていました。ヨハネ21章にはペテロとイエス様の会話が記されています。ヨハネ21:21-22 ペテロは彼(ヨハネ)を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」このペテロへのことばは、私たちのことばでもあります。私たちも人とくらべて生きているかもしれません。「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」私たちは人と比較しないで、イエス様だけを見て従えば良いのです。「相当のものをあげる」とおっしゃるイエス様を信じて。アーメン。

3.たとえの適用

 私たちはたとえの背景、たとえの意味を知りました。そこにはイエス様のメッセージがかくされていました。ペテロは「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか?」と言いました。ところが、イエス様はぶどう園のたとえによって、召して下さった方を信頼することを教えてくださいました。私たちは12弟子ではありませんから、「相当のものをあげる」とおっしゃるイエス様を信じて従うべきなのです。これが天国のたとえの真の意味であります。でも、ここから一歩踏み込んで、私たちの生活にどう適用するかを考えなければなりません。このたとえで私たちが学ぶべきこととは何でしょう?それは、奉仕の心構えであります。私たちはそれぞれ種類や程度は違いますが、神さまに仕えています。直接、教会の奉仕をしておられる兄弟姉妹もおられます。私もその一人です。でも、奉仕は教会内のことだけではありません。伝統的な教会は、4つの壁に囲まれた建物で活動することが奉仕だと定義していました。世の中の仕事は世俗的で、教会内の奉仕は聖いと言ってきました。しかし、そうではありません。マタイ25章には、「最も小さい者たちのひとりにしたのは私にしたのです」と書かれています。また、エペソ5章には「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」と書かれています。さらに、エペソ6章には「キリストに従うように、地上の主人に従いなさい。…人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。…それぞれの報いを主から受けることをあなたがたは知っています」と書かれています。私たちの奉仕は教会という建物の中にとどまらず、この世においての仕事や活動にも奉仕の部分があるということを忘れてはいけません。私たちは賃金を得るためだけに働いているのではありません。ある部分は、主イエス・キリストの御名のゆえに奉仕しているのです。ちなみに奉仕は英語でサービスとも言います。サービスはこの世で誤解されています。本来の意味は、勤め、奉職、公的な勤務です。雇われるという意味だけではなく、積極的な意味もあることを忘れてはいけません。つまり、この世の賃金以上にやったことは、主イエス様にしたことだと思って良いのです。

 もう1つ考えられることは、ペテロや他の弟子たちは、教会を最初から支えて来た兄弟姉妹にたとえることができます。教会の開拓は大変です。会堂建築もそうです。ある人たちは給与のほとんどささげ、仕事以外の時間をすべてささげて奉仕します。牧師先生を支え、教会がある程度、自立してきました。新会堂の返済もやっと終わりました。ハレルヤ!でも、面白くないことが起こりました。最近、救われた人たちが、我がもの顔のように会堂を使っています。「この設備が悪いとか、ここが足りない、あそこが足りない」と文句を言います。先輩クリスチャンは、「新しい人が救われて感謝だなー」と最初は思っていました。ところが、「私たちは当初から犠牲を払って仕えて来たのに、何だか疎んじられている。あんたらどのくらい土地と会堂にささげたんだ。」と文句が出るかもしれません。当教会ではそういうことを言う人はいなかったかもしれません。でも、ゴスペルで若い人たちが救われた直後、寂しい思いをした先輩クリスチャンがいたかもしれません。私も2002年に礼拝形式を全く変えて、讃美歌からワーシップソングに変えてしまいました。さらには日本基督教団から離脱し、単立教会になりました。「これまでずっと日本基督教団でやって来たのに!」と反感を覚えた兄弟姉妹もいたかもしれません。まさしく、先輩クリスチャンはペテロのような気持ちになりえます。「私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」(マタイ2012。牧師は教会が大きくなることを願います。多くの人が救われ、人数が増えて、にぎやかになることを願います。ところが、家庭的であった教会が今度は、デパートみたいになります。名前も顔も知らない人たちが教会を出入りしています。そうすると、もう自分の教会でないような気がするかもしれません。そのときこそ、このぶどう園のたとえを思い出さなければなりません。一番重要なのは、奉仕の心構えであります。一体だれが、報いて下さるのでしょうか?それは人ではありません。イエス様です。私たちは人からも認められたいと思っています。もちろん、そういうことがあったら幸いですが、そうでないときもあります。

 私は救われて1年後に献身を表明して神学校に入りました。そうすると大川牧師の態度が全く変わりました。それまではお客さんのように丁寧に扱ってくださいました。ところが、献身を表明してから、「私はもうあなたに気を使わないから!」と冷たく言われました。それだけではありません。奉仕をしてもあまり感謝をされません。聖書の「ふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」(ルカ1710口語訳)のようです。どうでしょう?いつまでも気を使われたら、それはお客さんです。もちろん感謝はあって良いと思いますが、なければなくても良いのです。なぜなら、それは同労者扱いだからです。使徒パウロにはテモテをはじめ、たくさんの同労者がしました。イエス様はペテロたちには厳しかったかもしれません。でも、イエス様は彼らを使徒、いや同労者として扱ったからであります。ヨハネ15章には「しもべではなく友と呼ぶ」とまで書かれています。大川牧師は私を冗談半分で「一番弟子」と呼んでくれます。おそらく、他の人にもおっしゃっているのだと思います。でも、イエスさまから「お前は私の弟子だよ」と言われたら嬉しいですね。弟子とはイエス様の真似をしながら、イエス様の奉仕をする人です。イエス様がなすべきことを、私たちが代わりに地上で行うとしたら、これほど光栄なことはありません。かしらなるイエス様は現在、天上におられます。私たちがイエス様の手であり、足であり、口であるとしたらどうでしょう。ペテロのように「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか?」と言うべきでしょうか?そうではなく、私のようなものにお声かけてくださりありがとうございます。私は午後3時の人間ですけど、よろしくお願いします。私は午後5時の人ですけど、よろしくお願いします。あと1時間しか働けないんですけど良いですか?聖書を見るとこの人は「だれもわたしたちを雇ってくれませんから」と答えています。「だれも使ってくれないのでぶらぶらしていました。」でも、主人は「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい」と言われました。なぜなら、ぶどうの収穫時は、「猫の手も借りたい」ほどの忙しさだからです。魂の収穫時、リバイバルが起ったら、そうなります。

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