« 2017年5月 | トップページ

2017年6月23日 (金)

永遠の報い マタイ19:23-30 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.6.25

 一人の青年が「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょう?」とイエス様に質問しました。イエス様は、彼が行いによって救いを得ようとしたので、律法の道を提示しました。彼は「そのようなことはみな、守っております。何が欠けているのでしょうか?」と返しました。イエス様は「完全になりたかったら、財産を売って貧しい人に施しなさい」と言われました。彼はそのことばを聞くと悲しんで去って行きました。なぜなら、多くの財産を持っていたからです。きょうはその続編であります。

 

1.神にはできる

マタイ1923-25 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」当時のユダヤ人は、「神さまの祝福を受けて金持ちになったんだ。金持ちこそが天国に入ることができる」と考えていました。考えてみると、金持ちは簡単になることができません。お金を儲けるための知恵や才能、努力、そして倹約精神が必要です。浪費家は金持ちになることができません。もし、親からの遺産であるなら、それはそれで祝福であります。さらにユダヤ人は、金持ちは貧しい人たちに施しをするために神さまが祝福していると考えました。だから、施しを受ける人は、そんなに卑屈にならなかったのです。イエス様のもとを去った青年のことを考えてみましょう。彼は若くして役人であり、多くの財産を持っていました。子どものときから律法を守り、悪いことをしていません。それなのに、イエス様は「持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と言われました。マルコ福音書には「みな売り払って」、ルカ福音書には「全部」と書いてあります。なんと酷なことでしょう。彼が悲しみながら立ち去ったあと、「金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。…金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」とおっしいました。だから、弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう」と言ったのです。「たいへん驚く」はギリシャ語では「驚愕する、びっくりたまげる」という意味です。イエス様が、ユダヤ人の常識とかけはなれたことをおっしゃったからです。それほど、弟子たちの価値観はこの世的であり、神の国の真理とはかけ離れていたということです。

なぜ、金持ちが天国に入るのがそれほど難しいのでしょうか?イエス様に近づいた青年は多くの財産を持っていました。先週も説明しましたが、その財産が偶像になっていたのです。「もし、財産を失ったなら、どうやって生きていくんだ」と思ったのでしょう。その結果、永遠のいのちはどうでも良くなったのです。ルカ16章に「金持ちと貧乏人ラザロの物語」が記されています。金持ちはいつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。神さまとか永遠のいのちには全く興味がありませんでした。一方、貧乏人ラザロは神さまを礼拝していました。なぜなら、「ラザロ」という彼の名が覚えられていたからです。パウロは「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる。…金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出た」(Ⅰテモテ69-10と警告しています。では、お金は一切不要なのでしょうか?ピューリタン的な信仰を持った人たちは、清く貧しくあることを誇ります。しかし、会堂建設や宣教師を送るためにはお金が必要です。「お金は汚れている」と説教しながら、人々に献金を募るとしたら、それは矛盾していることになります。「お金は悪い主人ではあるが、良いしもべである」という格言があります。もし、あなたがお金をよく管理できればお金は、あなたに仕える小さなしもべとなります。ところが、あなたがお金に支配されるなら、お金はあなたを奴隷にするひどい主人となるでしょう。

イエス様は「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と言われました。これは不可能だということを言うときのユダヤ人の格言かもしれません。大川牧師は、ある時、これには別の意味があると教えてくださいました。当時の町は城壁に囲まれており、日没と同時に正門を閉じるそうです。しかし、旅先から後れて到着する人がいます。そのため、正門の脇に「針の門」という小さな門があるそうです。もし、商人がそこから入ろうとするなら、らくだから荷物を全部降ろします。その後、らくだが膝を曲げて、ハイハイすれば、針の門をくぐることができます。つまり、「持ち物を全部、神さまにゆだねて謙遜にならないと神の国に入れない」という解釈です。山上の説教でも、イエス様が「狭い門から入りなさい」と言われました。イエス様は、お金持ちは神の国にはいることができないとおっしゃったのではありません。「むずかしい」とおっしゃったのです。さらに続けてこう言われました。マタイ19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」これは、ヒル・ソングの歌にもなっています。All things are possible, all things are possible.つまり、金持ちも神の力によって救われる、不可能はないということです。

聖書に金持ち、つまり富める人が良い信仰者であったという例はたくさん書かれています。父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブも富んでいました。彼らは神さまから祝福されてそうなったのです。ヨブは東の人々の中で一番の富豪でした。サタンは「主が垣をめぐらしたので、そうなったのだ」と言いました。ダビデもソロモンも富んでいました。ソロモンは箴言で「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである」(箴言224と言いました。新約聖書ではどうでしょう?ルカ83「自分の財産をもって彼らに仕えているヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか大ぜいの女たちもいっしょであった。」また、マルコの母マリヤも裕福でした。イエス様と弟子たちに最後の晩餐のため席を用意しました。ニコデモとアリマタヤのヨセフが金持ちであったと書かれています。この二人はイエス様の埋葬のために多くのお金を使いました。現代ではどうでしょう?クリスチャンの実業家がたくさんいます。たとえば、ロックフェラーがいます。彼の人生の前半は守銭奴でしたが、後半は多くの慈善事業を行いました。貧しい家庭の中で平凡に生まれたロックフェラーは、信仰深い母から神にいつも感謝の心を持つようにと、幼い時から次の3つの約束を守るように教えられていました。①十分の一献金をささげること(子どもの頃から小遣いの十分の一をささげていた)。②教会に行ったら、一番前の席に座って礼拝をささげること。③教会に素直に従い、牧師を悲しませないこと。三番目がすばらしい!

ロックフェラーに次ぐ、史上2番目の富豪とされるのがアンドリュー・カーネギーです。彼は鉄鋼会社を創業し、成功を収めて「鋼鉄王」と称されました。カーネギーはまた、「富は決して自分のもの」なのではなく、自分に「預けられた」ものに過ぎない、という明確な認識に立っていました。彼にはもう一つの口癖がありました。それは、「富を持ったまま死ぬのは恥である」ということでした。カーネギーは残りの人生を慈善活動に捧げ、図書館建設、世界平和、教育、科学研究などに多額の寄付をしました。音楽を愛したカーネギーは7,000台の教会用オルガンを作らせています。1891年に建設したカーネギー・ホールは寄贈せずに所有していましたが、1925年に彼の未亡人が売却しました。現在もそのままの名前が使用されています。日本ではどうでしょう?森永製菓、ライオン油脂、山崎製パン、白洋舍、ニッカウヰスキーなど創設者はみなクリスチャンです。聖書にタラントのたとえがありますが、「預けられたもので商売してもうけた」と書いてあります。5タラントと2タラントのしもべは赤字ではなく、黒字にしてご主人に返しました。富は確かに誘惑もありますが、神を恐れて、運用するならば「よくやった、忠実なしもべ」と主から喜ばれます。イエス様は「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」と言われました。神さまは人を変えることができます。それはどんな金持ちでも例外ではありません。確かに難しいかもしれませんが、不可能ではありません。多くの金持ちの人は使い道が分かりません。だから、儲け話にひっかかったり、遺産相続で子孫を破壊するのです。正しい使い道があります。イエス様は「天に宝を積みなさい」と若者に言われました。山上の説教でも言われています。マタイ619-21「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」私たちも富を正しく用いて、自らも喜び、必要なところにささげて、天に宝を積む者となりたいと思います。天国への投資は失敗することがありません。

2.永遠の報い

 マタイ19:27-28そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」ペテロは報酬を求めました。もし、イエス様が意地悪だったらどのように返すでしょうか?「ペテロよ、お前が捨てた物とは何か?たかが、小さな舟と網じゃないか。家も妻もそのまま持っているだろう。『何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました?私たちは何がいただけるでしょうか?』なんてお前は、意地汚いんだ。無心にならなけりゃダメだ」とはおっしゃいませんでした。イエス様はちらっとそのようなことは思ったかもしれません。でも、「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」と言われました。「まことに」とは「アーメン、真実に」という意味です。「世が改まって」はギリシャ語では「再生」という意味ですが、メシヤが到来したときに霊的再生が起こるという意味です。つまり、イエス様が再臨して御国の王座についたときです。そのとき、弟子たちが、12の座について、イスラエルの12部族をさばくのです。弟子たちは最後まで、だれがイエス様の右と左に座るのか議論していました(マタイ2020-24)。イエス様は来るべき御国の王であります。やがて、イスラエルが回復され、異邦人の王たちも集まります。でも、王の王は、イエス・キリストであります。そのとき、12弟子がイスラエルの12の部族をさばくとはなんと光栄なことでしょう。

 さらに続けてイエス様がおっしゃいました。マタイ1929-30「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」これは信仰を持っているゆえに迫害に会うということです。そのとき、御名のために失うものがあります。まず家です。使徒8章には「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。…散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」と書いてあります。本来なら仕事や住む家をさがすところですが、彼らは福音を宣べ伝えることを第一にしました。彼らの労苦によって、異邦人の基地、アンテオケ教会ができました。姉妹、父、母、子というのは、家族から迫害されるということです。信仰を守るために、親しい家族を捨てなければなりません。聖書の下に注釈が書いてあります。ルカ福音書もそうですが、「妻」と書いてある聖書もあるということです。穐近祐(あきちかゆたか)牧師は戦後、アメリカから日本に渡って来た逆輸入の宣教師です。そのとき、ルカ福音書は「妻」と書いてあるので、このマタイによる福音書を引用したそうです。穐近牧師はまさしくご長男を捨てて、妻と二人で日本に渡って来ました。当時の日本は敗戦で混乱しており、食べるものもありませんでした。そういう意味でも、ご長男をアメリカに残してきたのだと思います。でも、聖書のみことばをそのまま実行して、本気モードで伝道なさった先生には敬服します。遠藤周作氏は『沈黙』の中で、家族を守るために、信仰を捨てた人の味方になっています。「自分一人の信仰を守るために、残された家族が殺されても良いのか?」と問われるならば、やっぱり厳しいと思います。でも、当時は命を捨てて、信仰を守った人たちが何十万人もいたということを忘れてはいけません。ころんだ人ではなく、命を捨てた人たちを見なくてはなりません。なぜなら、報いがあるからです。

 では、いつ報われるのでしょうか?マタイ19章には「あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」と書かれています。聖書の下に注釈が書いてありますが、100倍と書いてある異本もあるようです。いつ報われるのか分かりません。再臨後、御国においては確かなのですが、この地上ではどうなのでしょうか?しかし、マルコ福音書とルカ福音書はもっと詳しく書かれています。マルコ1030-31「…畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」マルコ福音書には、今受ける分と将来受ける分が合わさっているように思えます。合せて百倍なのかもしれません。ルカ福音書はどうでしょう?ルカ1830「この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」ルカ福音書の方が、現実味があります。たとえば、ヨブは10人の子どもたちと全財産を失いました。ところが、最後には所有物が2倍に増されました。子ども新たに10人与えられ、その子の子たちを四代目まで見ることができました。イザヤ書61章にはこのように書かれています。「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」(イザヤ617)。出エジプト記22章には「盗まれたものは2倍にして償わなければならない」と書かれています。では、なぜ「100倍」などと書いてある聖書があるのでしょうか?ヨハネ12章でイエス様がこのようなことを語られました。ヨハネ1224「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」イエス様が「まことに、まことに」と2回もおっしゃっているところはそんなにありません。一粒の麦が地に落ちて死ねば、豊かな実を結びます。おそらく100倍から200倍になるのではないでしょうか?ですから、100倍はおおげさな数ではないということになります。

 昔、座間キリスト教会で奉仕していたころ、高橋みおさんというおばあちゃんがいました。ご主人からものすごく迫害され、「教会に引っ越してきて、大川牧師の娘になりたい」言っていました。ある時、お風呂で倒れ、そのままお亡くなりになりました。教会で葬儀を行うことになり、ご遺体が運ばれてきました。そのとき、ご主人が来られこう言うのです。「聖書に、妻を自分のからだのように愛せ、と書いてあるのに、わしゃ愛さなかった」と悔い改めました。その後、ご主人が洗礼を受けました。また、その後、ご長男ご夫妻、さらにお譲さんたちが洗礼を受けました。「こういうこともあるんだなー」と驚きました。現代では信仰を持つことによる迫害は少ないかもしれません。ところが、戦時中、中国や朝鮮半島では日本兵による大迫害がありました。神社参拝をしないため、多くの教会が焼かれました。なぜ、韓国の教会がリバイバルしたのでしょうか?それは彼らが血を流して抵抗したからだと言われています。一方、戦時中の日本の教会は政府によって1つの教会にされました。教会を守るために神社参拝し、戦争の勝利と天皇のために祈ったのであります。教会は残ったかもしれませんが、信仰が骨抜きになり、リバイバルは起こりませんでした。それが今も引きずっています。「信仰は命がけ」と口では言えますが、いざ迫害が起こったなら、どうなるか分かりません。マタイ福音書には「家とか畑」と書いていますが、それはすべての財産を意味しています。家族も財産も失うということです。江戸時代もそうでしたが、人本主義(ヒューマニズム)が私たちの根底にあります。「絆が大事だ」とよく言われますが、もしこれが生まれつきの人間関係だとしたらヒューマニズムに陥ってしまいます。イエス様は「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」(ルカ1426と言われました。私はクリスチャンになるとき、父も母も亡くなっていました。直接献身しても、末っ子なので、兄弟に全く気兼ねをすることはありませんでした。しかし、今度、家庭を持って、妻、子を捨てる番になったらどうでしょう?やっぱり、信仰が必要です。自分が得たのではなく、神さまが与えてくださったことをちゃんと理解しなければなりません。ヨブのように「主は与え、主は取りたもう。主の御名はほむべきかな」と言えるでしょうか?

 私たちは永遠の報いということを考えなくてはいけません。この世だけのことを考えるなら、「損した」「全部失った」「神さまなんかいない」「神さまはひどい」とつぶやくかもしれません。しかし、信仰者はこの世だけの人生ではありません。やがてこの世は終わり、新しい時代が来るのです。御国(千年王国)ではイエス様が王であり、私たちもイエス様と一緒に治めるのです。ミナのたとえには、忠実さによって10の町、5つの町を治める(ルカ1917-19)と書いてあります。人からの報いを受けるのを期待することは間違っています。しかし、私たちは神からの報いを期待して良いのです。神からの報いは意地汚いものではありません。聖書に「報い」「贖い」「弁償」「償い」ということばがあふれているからです。本日の箇所でも、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」と約束されています。イエス様は「まことに」ということばを冒頭に添えていますので、確かであると信じます。永遠のいのちは「報い」ではありません。これは賜物です。イエス様を信じる人にはもれなく与えられるものです。しかし、御国は二段階でやってくることを理解しなければなりません。最初の御国、つまり千年王国においては報いがあります。この地上でいかに忠実に生きたかによって相続するものが違うのです。しかし、その後にやってくる新天新地においてはみな平等です。なぜなら、永遠のいのちは「報い」ではなく、信仰による賜物だからです。今、この時代が終わると、御国(千年王国)がやってきます。私たちは御国における報いを期待しながら、与えられているレースを終わりまで走る必要があります。ぜひ、いのちの冠、朽ちない冠、義の冠を得たいものです。ローマ818「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」

|

2017年6月16日 (金)

永遠のいのちを得るには マタイ19:13-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.6.18

 クリスチャンであるなら、永遠のいのちを得るには、イエス様を信じれば良いということをご存じだと思います。4月の受難週のときヨハネ316節から「信じるだけで救われる」ということをメッセージしました。しかし、今日の箇所を見ると、聖書が言う福音と異なることをイエス様がおっしゃっているような感じがします。もし、救われるために良い行いが必要だとするなら、使徒パウロが言う信仰義認と矛盾することになります。イエス様はこの青年にどうしてそのようなことを求めたのでしょうか?3つのポイントでお話しさせていただきます。

1.行いの道

 この青年は、ルカ福音書には「役人」と書かれています。彼はユダヤ教の役人であり、幼い頃から宗教的な教育を受けていました。さらに彼は多くの財産を持っていました。あとで、イエス様が「金持ちが天の御国に入るのが難しい」と言われました。すると、ペテロは驚いて「それでは、だれが救われることができるでしょう」と反論しました。当時、金持ちは神さまから特別に祝福を受けた人物であると考えられていました。彼は律法を守り、正しい行いをしていたので、だれが見ても、天の御国にふさわしい人物でした。この青年はユダヤ教徒のエリートであり、「天の御国に入る人はこういう人だ」と思われていたのでしょう。私などはこういう人を見ると、少し心が穏やかでなくなります。同じ牧師でも東大卒であったり、外国の神学校を卒業していたりするとそういうことがあります。使徒パウロはⅠコリントで「神はこの世の愚かな者を、無に等しい者を選ばれた」と言っています。でも、富も地位も良い行いも、神さまからの賜物であり、それはそれで良いのではないかと思います。私も今はそのように考えるようにしています。ですから、この記事を「ざまぁ見ろ」とひねた気持ちで読むのではなく、穏やかで純粋な心で読むべきであります。

 ボタンのかけ違いはどこから生じたのでしょうか?青年が「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」と質問したところにあります。彼はイエス様を「主」ではなく、「先生」と呼んでいます。おそらく彼はイエス様が何を言うか予想していたでしょう。彼は悩んで質問したのではなく、「あなたは永遠のいのちを得るのにふさわしい」という認証を得たかったのでしょう。イエス様は「いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」と言われました。イエス様は彼が行いによる救いの道を求めたので、その道を提示しました。青年は「どの戒めですか」と高飛車に答えました。イエス様は「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われました。それらの律法は十戒の後半の部分でした。彼は何と答えたでしょう?「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」彼は律法を突きつけられてもひるむ様子はありません。マルコ福音書には「私はそのようなことをみな、小さい時から守っております」と書いてあります。彼は律法の意味をよく分かっていませんでした。山上の説教には「人を憎んでも殺人、情欲を抱いても姦淫である」と書かれています。確かに彼は表面的には律法を守っているかもしれませんが、動機とか思いの部分はどうなんでしょうか?それでイエス様は決定的なことを言われました。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」これは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよという律法を行なえるか?」というチャレンジです。神の律法はそこまで要求するのであります。

 彼はどうしたでしょう?「ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。」イエス様に出会って、悲しんで去って行った人物はそんなにいません。イエス様は「あなたが完全になりたかったら」と青年にチャレンジしたのであります。完全とは何でしょう?それは神さまの義、100%の正しさに達するということです。パウロは「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」(ローマ320と言いました。彼は悲しんで去って行きましたが、それは「自分は完全ではない、罪がある。神の標準には達していない」と悟ったからです。でも、そこで去ってはいけなかったのです。イエス様は「そのうえで、わたしについて来なさい」と言われたからです。イエス様は彼を突き放してはいません。マルコ福音書にはJesus loved himいつくしんで言われた」と書いてあります。彼の罪が律法によって暴露されました。彼が頼りにしていたものは自分の行い、そして自分の財産であったのです。神さまよりも自分の行いや富を愛することを何と言うでしょう?偶像崇拝と言います。イエス様は最初、十戒の後半は提示しましたが、十戒の前半は提示しませんでした。「この人は多くの財産を持っていたからである」とありますが、財産という偶像を拝んでいたのです。また、イエス様に従えなかったのも、神さまを第一に愛していない証拠です。私たちはこの物語を厳粛な思いで見なければなりません。良い行いによる救いの道はとても険しく、実行不可能だということです。くれぐれも行いによる救いを選ぶことのないように。律法は守るために与えられたのではなく、「あなたには罪があり、不完全ですよ。救い主が必要ですよ」いうことを教えるためにあるからです。

2.信仰の道

 行いの道と対照的にあるのが、信仰の道です。プロテスタント教会はこれをとても強調しています。でも、頭ではわかっていても、本当に魂の底まで分かっているかということです。そのことを教えてくれるのが、13節からの内容です。マタイ1913-14「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」おそらくお母さんたちが、子どもを祝福してもらうために、イエス様のところに連れて来たのでしょう。どの時代であっても、子どもというのはうるさくて、じっとしていません。もし、イエス様が説教の最中であるなら、妨害することになります。弟子たちはイエス様のガードマンのように守っていたのかもしれません。弟子たちは子どもたちの前に立ちはだかり、親御さんたちに「めんどうをかけないでくれ」と叱りました。ところが、マルコ福音書には「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた」と書いてあります。イエス様は弟子たちの子どもたちに対する態度に怒られたのです。当時、子どもたちはそんなに大事にされていませんでした。ローマ時代は特にそうであり、半人前に扱われていました。さきほどの若者と比べれば、子どもは良い行いができません。財産もない、身分もない、知識もない、能力もない、体力もない、人格的に不安定な存在です。おそらく、日本人の私たちも子どもたちを半人前のように見るかもしれません。

 イエス様は何とおっしゃったでしょうか?「天の御国はこのような者たちの国なのです。」マルコ福音書には「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(マルコ1015と付け加えられています。イエス様は子どもを前に出して、天の御国に入る道を教えました。「子ども」はギリシャ語で、パイディアであり、「little child幼いこども」であります。おそらくハイハイするくらいの幼児から、就学前の子どもではないかと思います。何と、その子どもたちは大人たちが学ぶべきものを持っているということです。なぜなら、イエス様は「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」と言われたからです。さきほどの青年はどのようにイエス様に近づいたでしょうか?「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」と聞きました。一方、子どもはそのようにイエス様のところに近づきません。マルコ福音書には「尊い先生」という敬語を使っています。一方、子どもはおべんちゃらを言いません。青年は「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか」と言いました。一方、子どもは律法を守っているのかいないのか、欠けているのかいないのか自覚がありません。たとえ律法をつきつけられても、「ああ、そうなの?ローラ、わかんない?」と答えるでしょう。でも、子どもは大人にはないものを持っています。幼い子どもは特にそうです。それは信頼する心です。言い換えると「疑わないで神の国を受け入れる」ということです。イエス様は「天の御国はこのような者たちの国なのです。」と言われました。J.Bフィリップスは、「Heaven belongs to little children天の御国はこのような小さな子どもたちがいるべきところ(ふさわしいところです)」と訳しています。どういう意味でしょう?天の御国は小さな子どもたちのような謙遜なところだということです。

 大人は神の前に「私は何ができる」「私は何を持っている」「私は何という立場である」と自分を誇るかもしれません。しかし、幼い子どもは誇りたくても誇るものがありません。何もできなし、何も持っていないし、役職も持っていません。この青年はいつしか、幼い子どもが持っていた良いものを忘れていました。自分の良い行ない、自分の財産、自分の立場、そういうもので自分を飾っていたのです。そして、イエス様の前に「尊い先生、何をしたらよいでしょう」とやってきたのです。全く傲慢で鼻持ちなりません。イエス様は不完全さを気づかせるために、十戒を提示しましたが、全く効果がありませんでした。しかし、最後に「持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と言われたときに、崩れてしまいました。悲しい顔をして去って行きましたが、イエス様は彼を追いかけませんでした。ペテロは「金持ちが救われなかったら、だれが救われるのですか」と驚きました。私だったら彼を追いかけて、「全部でなくて、10分の1からささげたらどうでしょうか?」と提案したかもしれません。しかし、イエス様は彼を追いかけませんでした。イエス様は、この先も彼は子どものように神さまを信頼しないことを知っていたからです。私たちは子どものようになって、天の御国を求めましょう。子どものようになって父なる神さまを信頼しましょう。そうすれば、信仰が与えられ、ますます天の御国にふさわしい者になります。私たちはある部分は成熟して大人になるべきです。しかし、子どものように純粋に神さまを信頼していきたいと思います。

3.行いと信仰

 イエス様が良い行いを要求したのは、彼が行いによる救いを求めたからです。イエス様はだれにでも「持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」とは要求しません。ところが、ある人たちはこの箇所を読んだとき「天国に入るためには、全財産を捨てなければならないんだ」と考えるかもしれません。歴史的に有名なのは、聖フランチェスコでした。彼は裕福な家庭に生まれました。あるとき、彼はこの物語を読みました。そして、父からもらった財産をすべて父に返しました。着ていた衣服までも脱いで父に返したのです。そして、極度に貧しい生活をして神さまと人々に仕えました。フランチェスコは修道士になりましたが、彼の生き方に追従する人たちが次々に起りました。アッシジの貴族で大変裕福だったベルナルドは、出家の決心を固めると、自分の資産を処分してそれを貧しい人に分け与えました。その上でフランチェスコと共に生活を始めました。アッシジの貴族の娘クララは、フランチェスコの考えに共鳴して、もう一人の女性を伴って家を出ました。やがてフランシスコ会やドミニコ会などの修道会ができました。彼らは清貧の生活をしつつ神と人々に仕えました。聖フランチェスコを悪く言う人はいないでしょう。しかし、修道会は教皇下にある教会の反動として生まれたのだと思います。富は確かに誘惑にはなります。でも、富を捨てなければ神の国に入れないわけではありません。問題は富に頼るのではなく、神さまに頼るという信仰が必要なのです。

 では、良い行いは不必要なのでしょうか?また、十戒をはじめとする律法は不要なのでしょうか?私たちはここからは、成熟した大人になる必要があります。ヤコブはこのように言っています。ヤコブ224「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」ヤコブの考えはパウロの信仰義認と真向から反対するものと思われていました。宗教改革者ルターはヤコブ書を「藁の書」と卑下したくらいです。でも、ヤコブが主張する「行い」は信じた人の後のことを言っているのです。言い換えると、本当にイエス様を信じて救われた人は、行ないが現れてくるということです。もし、行ないが伴わないならば、その信仰は疑わしいものであると言っているのです。イエス様はヨハネ15章で「私はぶどうの木であなたがたは枝です。私につながっているなら、豊かな実を結ぶようになる」と言われました。良い行いは、信仰の実であります。私たちのがんばりではなく、イエス様が私たちに結ばせてくださるのです。しかし、教会はこのことを正しく捉えていません。「救いは行いではありません。信じるだけで救われます」と言います。しかし、一旦、イエス様を信じて、洗礼を受けた人にどのように指導するでしょう?「これからは聖日礼拝を守り、十分の一献金をささげ、聖書を読み、クリスチャンとして証の立つ生活をしなければなりません」と言います。ある教会では教会員になるために誓約書みたいなものを書かせられるそうです。これはどういうことを意味するのでしょうか?「救いは恵みだけけど、信仰生活は恵みだけではなく行いも必要だ」ということです。これは立派な詐欺であります。教会の指導者は「良かれ」とやっています。でも、信じたばかりの人は、それらを律法とか義務に捉えてしまい、そうできない自分に失望して教会を去って行く可能性が出てきます。真実は、信じる前も恵みですが、信仰生活も恵みだということです。

 それをささえるみことばがこれです。エペソ2:8-9「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」このみことばはアーメンであり、だれも反対する人はいないでしょう。信じた後はどうなのでしょうか?エペソ2:10 「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」「キリスト・イエスにあって造られた」という表現は、Ⅱコリント517「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」と同じ意味です。では、「キリストにあって造られる」というのはどういう意味でしょう?それは悪い行いではなく、良い行いが自然に出てくるようになるということです。なぜなら、神さまがそのような者として私たちを造られたからです。しかし、それだけではありません。神さまは「私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださった」とも書いてあります。「備えてくださった」は英語の聖書でordainであり、「運命的に定める、予定する」という意味があります。つまり、神さまが良い行いをこれから先、ところどころに用意してくださるということです。マラソンのコースに設けてある給水所とかバナナみたいなものでしょうか?いや、それ以上のものです。だから、クリスチャンは洗礼を受けた後でも、神さまの恵みによって生きるべきなのです。なぜなら、神さまが必要な恵みをところどころに備えていてくださるからです。

 一番してはいけないことは、律法主義による信仰生活です。律法は神さまからの命令であり、規定です。クリスチャンであってもこれは守らなければなりません。しかし、救われた後の律法は罰則のためではありません。道路のガードレールやセンターラインのようなものです。「あなたは主にあって自由です。でも、これを超えると事故に遭うか、大怪我をしますよ」という警告を与えてくれます。しかし、律法主義は違います。「律法を守らなければ神さまに受け入れられない。良い行いをしなければ神さまの愛をいただくことができない」と、恐れの動機で行うパフォーマンス指向であります。いわゆる教会の献身者が一番陥りやすいものが律法主義です。その人たちは、一生懸命奉仕をしていても顔に緊張感があります。そして、やっていない人たちを心の中でさばいています。「どうして私だけがこんなに頑張らなければならないの」と怒っています。ここに良い知らせがあります。ローマ88「肉にある者は神を喜ばせることができません。」言い換えると、肉によって神さまを喜ばせる必要はないということです。神さまはイエス様がなされたことによってもう満足しています。何かをしなくても私たちがイエス様を信じているので義と認めてくださっているからです。いわば私たちは1万タラント(6,000億円を)赦されたしもべです。なのに、「あなたに100万円お返ししますので、どうか喜んでください」と言っているようなものです。あなたが100万円償ったところで、6,000億円には遠く及びません。償いで救われようなんて、何という厚顔で、失礼なしもべなのでしょう。私たちは無限大に赦された者たちです。私たちが良い行いをするのはお返しとか、償いではありません。私たちが神の作品になったことと、神さまご自身が良い行いを備えてくださっているからです。あるいは、神さまが私たちの内に良い行いをproduce生産させてくださるのです。だから、私たちはどこまでも自分を誇ることはできません。たとい良いことができたとしても、誇るべきお方は主のみです。ハレルヤ!

 多くの人たちはクリスチャンになっても、神さまに対する神観がゆがんでいます。あなたの神さまは「まだ足りないぞ。何をしているんだ」と怒っている神さまでしょうか?あるいは放蕩息子のお父さんのように無条件で愛してくださる天の父でしょうか?私たちは救われるためには、幼い子どものように神さまを信頼する必要があります。しかし、救われて成長していくと、どうなるのでしょう?神さまの息子、神さまの娘になります。ギリシャ語には同じ子どもでも、フィオスということばがあります。息子、娘は、お父さんを喜ばせるために、緊張したりはしません。ときには、「これこうして」「これをくれ」とぶしつけに要求することもあります。でも、だんだん父の気持ちが分かってくると、どうなるでしょう?やがて、父の心を持つ人になります。これまでは後輩に対してライバル心丸出しで「100年早い」と言ってきたかもしれません。しかし、父の心を持っている人は自分のことのように喜びます。そして、「私を超えてあなたも立派な父になるのですよ。必要なものは何でも与えますよ」と励ますでしょう。私たちは神さまの手作りとして神の作品になりました。手作りですから、ひとり一人違います。でも、共通していることは神さまのご栄光を喜ぶために生かされているということです。

|

2017年6月 9日 (金)

結婚の奥義 マタイ19:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.6.11

 世界で一番離婚率の高い国はロシアです。「100組のカップルのうち、80組が離婚に至る」という衝撃的な数値を記録しているとウェブに載っていました。アメリカや韓国も非常に高くて、クリスチャンであるかどうかは全く関係ないようです。日本も3組に1組くらい離婚していると言われています。きょうは、結婚の本来の意味を聖書から学び、信仰と希望と愛をいただきたいと思います。

1.結婚を重んじる

発端は「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか?」というパリサイ人たちからの質問でした。これはまじめな質問ではなく、イエス様を試すための質問でした。もし、「律法にかなっている」と言ったら女性の権利を踏みにじることになります。群集の半分が女性ですから、怒って帰ってしまうでしょう。イエス様が結婚の奥義について話しましたが、彼らはこう反論しました。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」これに対して、イエス様は「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。」(マタイ197-8と答えました。イエス様は申命記の24章から引用しましたが、これは仕方なく与えた律法であったということです。なぜなら、男性が些細なことで一方的に妻を離別させていたからです。モーセは女性の立場を守るために、「正式な理由を書いた離婚状」を渡すように定めたのです。でも、イエス様は「あなたがたの心がかたくななので」便宜上そうしたのだとおっしゃいました。イエス様はさらに「だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです」と言われました。1つだけ例外があるとすれば、妻が不貞をはたらいた時であるとしました。これは十戒の「姦淫してはならない」という律法と合致しています。聖書の中には「そして離縁された女を妻とする者は姦淫を犯すのです」と書いてあるものもあります。また、結婚に関する律法は、イスラエルが血統を重んじること関係しています。

これに対して弟子たちはどう答えたでしょうか?10節「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」弟子たちの頭も、その当時の考えや風潮に犯されていました。彼らも「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっている」と考えていたのです。気に入らないとか、些細な理由でも妻を離別することができるという男性優位の立場を取っていました。日本でも歴史的に考えますと、政略結婚とか家と家との結婚が一般的でした。ある政治家が「女は子どもを産む機械」という問題発言をしました。しかし、明治時代まで女性の立場はものすごく低かったことは確かです。当時のユダヤ人のように些細な理由で離縁されていました。こういう話を聞くと、女性たちは憤慨するのではないかと思います。今は逆で、女性の方から「離縁状」を出すケースもあるようです。流行の先端を行っていた明治の女流作家、与謝野晶子が離婚について書いています。「離婚という事を一概に罪悪のように考える人のあるのはどうでしょうか。離婚をして双方幸福の生涯に入った人も少なくないと存じます。そういう場合には社会はその人たちの離婚を賀しても宜しいでしょう。また夫婦という者はあながち幸福ばかりを打算して一緒になっておられるものでなく、そういう打算や道徳や義理や、聖人の教えや、ないし神様のことばなどを十分知り抜いて、しかもそれを超越した処に、どうしても双方の気分が食い違って面白くないという場合もあるのですから、そのところに至っては合議の上で離婚するのが正当の処置であろうと存じます。」しかし、与謝野夫婦は聖書の教えから越脱していることは確かです。

聖書は男性からの一方的な離婚についてどのように教えているのでしょうか?マラキ216「わたしは、離婚を憎む」とイスラエルの神、主は仰せられる。「わたしは、暴力でその着物をおおう」と万軍の主は仰せられる。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない。」とあります。祭司たちまでも、若い女性を好んで、年老いた妻を離縁しようとしていたのです。それは妻に対する裏切りだけではなく、神さまに対する裏切りでした。イスラエルの民はどうしてそのようになってしまったのでしょうか?それは、ヤーウェ(主)なる神を捨てて、カナンの神々を拝むようになったからです。エゼキエル書には神殿内の幻がしるされています。なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていました。(エゼキエル810)。彼らの霊的姦淫が、結婚生活にまで害を及ぼすようになったのです。まず、私たちは結婚が人と人との契約ではなく、神さまと人との契約であることを覚えなければなりません。人のとの契約contractは取り消すことが可能かもしれません。しかし、神との契約covenantは、取り消すことはできません。まさしく、「死が二人を分かつまで」であります。二人が、一度結ばれてしまったなら、霊においても1つになり、引き離すことは困難です。無理やり引き離すならば、双方の霊に害を及ぼすことになるでしょう。芸能人たちは離婚して再婚していますが、彼らの霊はぼろぼろになっています。私たちは、結婚が神聖であることを知って、これを重んじるべきであります。

2.結婚の召命

弟子たちは「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです」と言いました。イエス様は彼らに、別の方向から答えられました。マタイ1911-12「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」結婚はだれでもできるものではなく、神からの召命です。また、独身者となる者がいますが、そこには3種類のケースがあることがわかります。しかし、これは男性の立場から言われていることであり、女性はその適用として捉えるべきです。なぜなら、「独身者」というのは宦官eunuchとなっているからです。宦官は去勢された男性であり、宮廷や貴族に仕えた男性を指しました。しかし、私たちはもっと広い意味で、男性と女性の「独身者」として捉えたいと思います。その前にひとこと申し上げますが、この世では独身者は半人前だと思われています。会社でも独身者だと、高い地位につけないということを聞いたことがあります。では、独身者が半人前なのでしょうか?イエス様は創世記1章を引用しながら「創造者は、初めから人を男と女に造られた」と言われました。これはどういう意味でしょう?男は結婚していなくても、男として完成しているということです。また、女は結婚していなくても、女として完成しているということです。そして、男も男として成熟し、女も女として成熟したものとなるということです。では、結婚とは何でしょう?成熟した一人の男性と成熟した一人の女性がするものなのです。よく「私が50%で彼女が50%で、合わせて100%になるんだ」と言いますが、それは嘘です。100%の男性と100%の女性が結婚して、200%になるのが結婚なのです。ハレルヤ!寂しい人と寂しい人が結婚したなら、二人の寂しい人たちが生まれるだけなのです。極端なことを言うと、相手がいなくても生きて行けるのが結婚の標準なのです。私もここで立派なことを言っていますが、家内がお義母さんの世話のため実家に帰るときがあります。2,3日はとても寂しいです。でも、4日もすると慣れてきます。なんとかなっていくんですね。でも、帰ってくると嬉しいです。機能不全の家庭で育った私が、結婚という召命に答えることができたのは、主のあわれみです。

ところで、独身者には3種類あることがわかります。第一は、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。聖書では預言者のエレミヤがその人です。バビロン捕囚前の彼の人生は波乱に満ちていました。同胞の民から苦しめられ、最後はエジプトで行方知れずになりました。だから、1人で良かったのです。第二は、また、人から独身者にさせられた者もいます。これは家族の問題や、戦争など外的な問題です。日本では第二次世界大戦中、そのような不幸な人たちがたくさんいました。兵士もそうですが、戦争未亡人の人たちもたくさんいました。聖書ではダニエルです。ダニエルと3人の若者はバビロンに連れていかれました。そして王様に仕える高官に抜擢されました。おそらく彼らは宦官として仕えたのではないでしょうか。だから、自由に結婚することは許されなかったと思います。でも、そういう制限された生活の中で主が共におられ、主の栄光を現すことができました。現代は身分が保証されていますので、「人から独身者にさせられた者」はそんなにいないかもしれません。しかし、子どもの時の虐待やいじめによって、結婚観がゆがめられてしまって結婚できない人もいるでしょう。育った環境や受けた心の傷によって、そうならざるを得ないケースもあると思います。

第三は天の御国のために、自分から独身者になった者もいます。しいていうならば、ナイチンゲール、エリザベス一世、マザーテレサかもしれません。おそらく、使徒パウロは天の御国のために、自分から独身者になったのではないかと思います。パウロはこう述べています。Ⅰコリント732-34「あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。独身の女や処女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。」独身は神からの召命であり、賜物です。ローマ・カトリックのように強制されてなるものではありません。使徒パウロは独身として主に仕え、主のご栄光を現すことができました。しかし、すべての人がパウロのように独身者になれるわけではありません。現代では、イギリスから来られた宣教師、マーガレット・バーネット師がおられます。彼女は羽鳥明師を導いた人として有名です。彼女は独身者として神さまの栄光を現した立派な人だと思います。

 弟子たちが「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです」と言ったのは、ゆがんだ考えからでした。彼らは男性優位の社会に影響されていたのだと思います。イエス様は結婚は神からの召命であると教え、その中に独身者もいるのだと教えました。世間体を保つために結婚して、不幸になるくらいなら独身で通す方が良いかもしれません。結論としてパウロのことばを引用したいと思います。Ⅰコリント7:8 -9「次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。」神さまは私たちに自由意思を与えておられます。私たちをコントロールしようとは思っておられません。でも、大事なことは、結婚は神からの召命であり、それに答えることです。それに答えたならば責任を果たす必要があります。尚、結婚は幸せになるためにするのではなく、神からの召命に答えていくとき幸せがついてくるのではないかと思います。

3.結婚の奥義

 最後に聖書が言う結婚とはどういうものなのか共に学びたいと思います。マタイ19:4-6 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」この世の中では、結婚のための教育ということはほとんどないと思います。「みんな結婚するから私も結婚する。」「好きになったので結婚する。」「愛のゴールが結婚だから」…ほとんどのカップルは結婚式の準備はするかもしれませんが、結婚生活についてはぶっつけ本番ではないでしょうか?結婚式はたったの1日ですが、結婚生活はそれからずっと長く続く、山あり谷ありの生活です。「え?こんなはずではなかった」というカップルが多いのは結婚の本当の意味が分かっていないからだと思います。私は人に立派なことを言えませんが、On the Job Trainingであります。結婚しながら学んだと言うタイプです。なぜなら両親から正しい結婚生活を見習ったこともないばかりか、結婚カウンセリングも受けたことがなかったからです。結婚後、1か月で「ああ、男と女がこんなに違うものなのか」とびっくり驚きました。「性格の不一致」が離婚の第一な理由なようですが、当たり前すぎて、理由にならないと思います。これからの人も、その渦中にいる人も、昔の出来事の人も、あまり関心のない人も、一応は聖書から学ぶべきだと思います。

 第一は、結婚は神が創造し、神が定めたものです。人が便利だから作った社会的な制度ではありません。「創造者は、初めから人を男と女に造って」とありますが、もともとは創世記1章からのことばです。創世記127「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」「かたち」とは何か神学者たちによって議論されてきました。カール・バルトという神学者は「男と女の関係、つまり愛の関係こそが神のかたちである」と言いました。神さまは父、子、聖霊なる神が1つになっている愛の共同体です。その愛の共同体にならって、人を男と女とに創造されたというのはすばらしい考えです。言い換えると、家庭の核は夫と妻であり、それが社会の基盤となるのです。その後に「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(創世記128という命令が続きます。そのような神のかたちを増殖することを示唆しています。

第二は、「人は父と母を離れ、その妻と結ばれ」とあります。これは結婚する前に、男と女が両親から独立するということです。言い換えると、経済的にも精神的にも、一人前になっているということです。残念ながら、日本では結婚してからも、両親とくっついている場合があります。何か問題が起こると伴侶に相談するのではなく、実家に行くというのは問題です。親子の絆が強すぎて、独立した家庭を築く妨げになっています。残酷かもしれませんが、結婚するためには、親子の縁を一度断ち切る必要があるのです。「渡る世間に鬼ばかり」というテレビ番組があります。世間と言っても岡倉家と小島家です。後から田島家と田口家が加わる小さな世間です。まさしく、共依存の物語であり、きわめて日本人的です。余計なことに口出しして、混乱することを楽しんでいる人たちです。人は父と母を離れ、その妻と結ばれることが重要なのです。私たちは互いに境界線を引くことを勉強すべきであります。

第三は「ふたりは一体となる」です。一体になるは、原語では「1つの肉」になるです。つまり、一度、結ばれてしまったなら引き離せない。「無理に引き離したら、肉は引き裂かれ、血が流れ、命をなくしてしまう」というニュアンスがあります。マラキ書2章には、「あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない」と二度も書いてあります。結婚とは肉体だけではなく、霊がやり取りされるところまで一体になるということです。エリヤハウスでは、まさしくそのことを言っています。ある人と肉体的な関係を持つと、相手の一部の霊がこっちにくっつき、自分の霊の一部が相手にくっつく。そういう人と別れた場合は、相手の霊の一部をこっちにもらい、自分の霊の一部を相手に返すような作業が必要だということです。一度くっついたら、御霊のつるぎでないと切れないということです。ある大学生が複数の女性と関係を持ったために、自分の中に混乱が起きたそうです。彼が正常になるために、御霊のつるぎでそぎ落とし、さらには行ってしまった自分の霊を取り戻すという大変な作業があったようです。現代は男女間の関係が非常に乱れています。イエス様は「姦淫の時代」と言いました。だから、霊的に混乱をきたしている人がたくさんいるということです。エディ・レオ師が「結婚とは一体化を味わすことです。その夫婦が一体化するために3つのことが必要です」と言われました。第一は1つの霊となる。互いに祈り合うことです。家族の祭壇とも言えます。旧約聖書ではアブラハム、イサク、ヤコブが祭壇を築いています。互いに祈り合うとき、お互いの霊が行き来して深い所で一致することができます。第二は1つの心となる。正直で何でも話し合える会話が必要です。男性は結婚する前はとてもよくしゃべります。しかし、結婚したとたんしゃべらなくなります。あるデーターによると、女性は男性の5倍の言語を発しないとフラストレーションがたまるそうです。第三は1つの体となる。肉体の交わり、セックスです。これはだれからも教えられる必要はないでしょうか?しかし、日本人の中年の多くはセックス・レスだそうです。基本的にはこの3つですが、あと2つオプション的にあります。1つのビジョンを持つ。たとえ召命や賜物が違っても、同じビジョンを持つということです。1つの会計にする。お金を夫婦で別々にしないということです。イエス様は「宝のあるところに心がある」と言われました。もし、宝が別々のところにあれば、そこから分裂が始まる可能性が出てきます。

 生まれも育ちも、性格も考え方も違う二人が、一体になるというのは現実的にはありえません。婚約中は「私たちみんな同じね」と言っていますが、それは互いに遠慮しているからです。しかし、1つ屋根の下で暮らすと、だんだん本音が出てきます。二人がクリスチャンであってもそうです。「なぜ、こんなに違うのか?」と驚くばかりです。しかし、それは神さまが与えた「驚くばかりの恵み」なのです。あとで「違うから良いんだ!」「違うから補い合うことができるんだ!」と感謝するようになるでしょう。でも、最初は角を突き合わせ、相手を変えようと頑張ります。そうするとだんだん二人の関係は悪化します。結婚したら、ぜひ諦めてください。相手を変えようとせず、相手を理解することにエネルギーを使いましょう。大川牧師が結婚式でよくおっしゃっています。「愛は寛容です」というⅠコリント13章のみことばがあります。しかし、ある英語の聖書にはLove is understandと書いてあるそうです。Understandは相手の下に立つという意味にもなります。ちょっと相手の下に立って考えてみると、「なるほどこういう家庭で育ったから、こういうふうに考えるんだろうな」と思いやりがうまれます。クリスチャンは新しく生まれた存在ですが、古い過去を背負っている場合があります。だから、understand理解が必要なのです。イエス様が最初になさった奇跡は何でしょう。結婚式で最も重要なぶどう酒が尽きてしまいました。そのときイエス様は何の変哲もない水をぶどう酒に変えました。料理頭は「あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」と言いました。イエス様は良いぶどう酒を取っておかれています。

|

2017年6月 2日 (金)

無限大の赦し マタイ18:21-35 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.6.4

 マタイ18章全体を貫いている考えは、小さい者を躓かせないということです。15節には「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」ということが問われていました。いきなり公にするのではなく、当人同士から始めることを学びました。そして、最終的には教会が赦したりさばいたりする権威が与えられているということでした。今日のテキストでは、「では、何度まで赦すべきか」ということが問われています。私たちは人の罪を何度まで赦せるでしょうか?赦しの問題は健全な信仰生活を送る上でとても重要なテーマです。

1.兄弟姉妹間の罪

  

 なぜ「兄弟姉妹間の罪」なのでしょう?New International Versionには、my brother or sisterと書かれています。この聖書にはペテロは「兄弟姉妹が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきか」と書かれています。当時のユダヤ教では「三度までは赦しなさい」と言われていました。ペテロは思い切って「七度まででしょうか?」と聞きました。すると、イエス様は「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまで」と言われました。7は完全数ですが、770倍は490回ではなく、無限大と言う意味です。つまり、無限大の赦しを与えなさいということです。これにはペテロも驚いたことでしょう。イエス様はその後に、1万タラントを赦されたしもべのたとえを話されました。私たちはまず、ここで言われている罪がどのようなものなのかということを考える必要があります。少し前の15節で「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」という罪は、英語の聖書ではtrespass「道を踏み外す」とか「誤りを犯す」という意味でした。そして、21節の罪は、英語の聖書ではsinです。これは犯罪というよりも、宗教上、道徳上の罪です。たとえばコリント教会において問題にされていた罪は、性的な罪、分裂・分派、高慢でした。エペソ人への手紙4章には「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり、悪意」という罪のリストがあります。ですから、この世では罪にならなくても、教会の中では罪になるものがあるということです。J.Cライルの本には、「injuryの赦しが重要である」と書かれていました。Injuryというのは危害とか傷害です。さらには、感情・評判などを傷つけること、無礼、侮辱、悪口という意味があります。まさしく、教会で問われている一番の罪は、人間関係における罪であります。つまり、異教徒や未信者の罪ではなく、兄弟姉妹間の罪が問題にされているのです。

 この世では嫌な人や、気の合わない人がいたら離れれば良いでしょう。職場では「お金のためだから」と我慢するかもしれません。処世術と申しましょうか、場所や相手に合わせて、いくつかの仮面をかぶるかもしれません。しかし、神の教会、神の家族ではそうはいきません。私たちは神さまから多大な罪を赦され、聖霊によって生まれ変わった存在です。この人たちとは死んだ後も、天において永遠の交わりが続きます。聖書では「あなたの隣人を愛しなさい」と命じられています。「主の祈り」では「私たちの罪をお赦ください。私たちが彼らの罪を赦したように」と祈ります。教会では愛と赦しがとても強調されています。教会に続けて来られている人は、本当にこのことを守っている人か、あるいは仮面をかぶってごまかしている人です。まともな人であるなら、良心が咎められて、教会に集うことは不可能です。教会に来なくなる人がいますが、「もう愛せない、もう赦せない」という人が多いのではないでしょうか。それだけ、兄弟姉妹間における罪は、無視できないテーマだということです。

 確かにこの世では罪に定められないものが教会内では罪になりえます。でも、そのことを避けていたならば、私たちの心は癒されないばかりか、栄光の姿に変えられることもありません。この世では仮面をかぶりごまかして生きてきました。しかし、教会ではありのままで生きることを求められます。最初は「ありのままで良いんだ」と素顔で兄弟姉妹と接しようとします。しかし、相手もありのままなので、どうしても衝突してしまいます。教会は神の家族と言われますが、まさしく一般の家族と変わらないところがあります。一般の家族では本音を出し合うので、良く衝突します。でも、運命共同体なので、なんとか折り合いをつけることを学びます。教会は新しい神の家族です。私たちは罪を赦され、聖霊によって新しく生まれ変わりましたが、魂が完全に変わっていません。傷ついた部分もあれば、ゆがんでいるところもあります。では、どうやってそれを発見し、癒され、聖化されていくのでしょうか?神の家族です。神の家族がそうしてくれるのです。神の家族において嫌なことや傷つくことがあるでしょう?でも、私たちがそこで矯正され、訓練され、癒されていくのです。ですから、神の家族を離れて、クリスチャンとして成長することは不可能なのです。私たちの兄弟姉妹が私たちを聖化させてくださるのです。これは結婚における夫婦の関係と同じであります。箴言2717鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。どうぞ、私を研いでくれるご親切な兄弟姉妹に、ご親切な夫や妻に感謝をしましょう。

2. 1万タラントのたとえ

   

 イエス様は無限大の赦しの必要性を教えるために1つのたとえ話をされました。クリスチャンであるなら、このたとえ話をよく知っておられると思います。問題は「1万タラントを赦されたのは自分なんだ」という自覚が足りないことであります。多くの場合「自分が100デナリで、危害を加えたあいつが1万タラントなんだ」と逆に捉えてしまいます。これこそが私たちの肉であり、生まれつきの罪です。私たちは自分を被害者、相手を加害者にしてしまう構図から抜け出すことができません。ですから、私たちはこのたとえを上の空で聞くのではなく、心の深いところに留める必要があります。まず、1万タラントがどのくらいのお金なのか調べてみたいと思います。タラントは元来、金などの重さの単位でしたが、貨幣の額になりました。1タラントは6,000デナリ、6,000日分の賃金です。現在ですと6,000万円です。1万タラントだとそれに1万をかけるのですから、60,000,000万円(6千億円)です。昔は小さな国の国家予算に匹敵すると言われていました。11デナリを稼ぐとすると、16万4384年かかります。このしもべは、「どうかご猶予ください。そうすれば全部お支払いいたします」と言いましたが、それは不可能です。ロト・セブン6億円を1000回当てなければなりません。自分も妻子も持ち物を売って返済し、一生働いたとしても全く不可能です。マタイ1827「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」これは、父なる神さまのご性質を表しています。あとで説明しますが、神さまはあわれみに富むお方です。私たちがとうてい支払うことのできない罪の負債を気前良く免除してくださるお方なのです。

 そのしもべはどうしたでしょう? 100デナリ自分から借りていたしもべを赦すことができませんでした。彼の首を絞めて「借金を返せ」と言いました。彼はひれ伏して、「もう少しまってくれ。そうしたら返すから」と懇願しました。以前、自分が主人の前に言った同じことばを、しもべ仲間が言ったのです。普通だったら、自分のケースを思い出すはずです。しかし、彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れました。100デナリというのは、100日分の賃金ですから、今で言うと100万円です。さっきの60,000,000万円(6千億円)と比べたら、微々たるものです。それを「待ってくれ」と言われて、返すまで牢に投げ入れました。それを主人が聞きました。彼に何と言ったでしょう。「『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。」この主人とは、まさしく神さまのことです。神さまが私とあなたの負債、60,000,000万円(6千億円)を赦してくれたのです。ところが、兄弟姉妹の100万円を赦せないのです。神さまはどうおっしゃっているでしょうか?「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」この命令は、異教徒や未信者に与えられているのではありません。なぜなら、彼らは神さまの多大な赦しを得ていると思っていないからです。この命令は、イエス・キリストの十字架の贖いを信じている、私たちクリスチャンに語られている命令なのです。もし、このことを軽く捉えているなら、自分がどれくらい多大な罪を赦されているのか分からない人かもしれません。

 確かにそうです。イエス様を信じたとたん、罪の赦しを同時に受け取ることができます。救われるために今まで犯した1つ1つの罪を告白する必要はありません。自分が罪人であることを自覚して、神さまに赦しと救いを求めるだけで人は救われます。なぜなら、イエス・キリストが私たちの罪の負債をすべて支払ってくださったからです。でも、私たちがどれくらい多大な罪を赦されているのか知らされる時があります。それは自分が人の罪を赦すときであります。特に、赦されざる罪をその人が自分に犯した時です。しかも、一言も謝りません。罪も告白していません。「あんなにひどいことをして、私は決して赦せない」と憤慨します。その時、自分が多大な罪を赦された者であることをすっかり忘れています。自分は被害者であり、あいつは加害者、私に危害を加えた憎むべき敵であると考えます。でも、自分が救われたとき、神さまに謝ったでしょうか?謝っていないのに、神さまは私を赦してくださいました。今度は、私があの人の罪を決して赦せないと言っています。この時、人の罪を赦すということがいかに大変なことか分かります。人の罪を赦すと言うのは、こちら側が負債を負うということです。父なる神さまがイエス・キリストにあって負債を負ったのです。だから、私たちはただで赦されたのです。今度、私たちが人と罪を赦すときは、自分がその負債を負うしかありません。それが、100デナリを赦すということなのです。確かに1万タラントと比べたら微々たるものでしょう。でも、自分にとって100デナリは大きな負担であります。人を赦すときに一番重要なことは、1万タラントを赦されたしもべとして自分を見るかどうかということです。頭では分かるかもしれません。天秤の両脇に2つの皿があります。1つは1万タラント、自分が神さまから赦された量です。もう1つは100デナリ、相手が自分に犯した罪の量です。「…分かりました。赦します。喜んで赦します」と信仰によって言うのです。そうすると鈍い感情が、あとから「赦します」と言うのです。感情が来るまで待ってはいけません。「主のご命令だから赦します」と言うとき、感情があとからついてくるのです。感情には傷があり、痛みがあり、恥があり、怒りがあり、悔しさがあるでしょう。でも、信仰によって「赦します」と言うと、それらの傷が癒されていくのです。主のご命令に従うしか、心の癒しはやってきません。この世ではたくさんのカウンセリングがあります。多くの場合、相談する人は被害者になり、相手が加害者になります。カウンセラーはあなたの味方になって、被害者的な部分を癒してくれるかもしれません。でも、あなたが加害者を赦さない限り、完全に癒されることはありません。一番の問題は、主のご命令に対して、従順になるか、不従順になるかどちらかであります。自分の意思によって、赦すことを選び取るなら、本当の癒しと解放がやってくるでしょう。コロサイ3:13「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」

3.霊的な法則 

 もし、赦さないならどのようなことになるのでしょうか?このたとえには、霊的な法則が記されています。マタイ1834「こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」獄吏ということばは、日本人はピンとこないかもしれません。ギリシャ語では、「拷問役の奴隷」です。つまり、神さまご自身が苦しみに合わせるのではなく、拷問役に引き渡すということです。それは天使かもしれないし、悪霊かもしれません。その結果、肉体的あるいは精神的な病気になるかもしれません。J.Cライルは、「霊的な暗闇が魂を支配する」と書いています。そんなことが、いつまで続くのでしょうか?「借金を全部返すまで」です。11デナリだとすると、16万4384年かかります。その人はクリスチャンですから、永遠のいのちが与えられています。いつかは新しい天と新しい地に住むことができます。でも、16万4384年後です。先日、トルコに住むイスラム教の証を聞いたことがあります。彼らは5,000万年、地獄の責め苦を受けた後、やっと天国に行けると教えられているそうです。仏教では272獄を通過し、人間界の時間で16653億年を経たないと転生できないという教えがあるそうです。聖書によると、死後のさばきには2種類あって、白い御座のさばきという永遠のさばき、そして御国において闇に捨てられ、歯ぎりするというさばきがあります。前者には終わりがなく、後者には終わりがあります。簡単に言うと、聖書のことばをなめてかかってはいけないということです。「借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡す」ということは、真実でありそのまま受け止める必要があります。

チョー・ヨンギ師が書かれた『第四次元』という本から引用致します。あるとき、学校の教師が私に面会を求めたことがあります。彼女は校長という要職にありました。この婦人は、実は関節炎をわずらっていました。彼女は、病院と名のつくところはすべて渡り歩いて治療を受けましたが、その甲斐もなく病は直りませんでした。私は彼女の上に手を置くと、祈り、命じ、叫びました。渾身の力をこめてあれこれ手を尽くしましたが、神の御手は触れられませんでした。教会には、いやされた人が大勢いると言うのに、どうしたわけか彼女は癒しの恵みにあずかることができなかったのです。とうとう私も、彼女は癒されないものと半ばあきらめてしまっていました。そんなある日、聖霊が私に示してくださいました。「叫んだり、祈ったり、命じたりしてはならない。私は彼女の中に力を現わすことはできないでいる。癒しのいのちを流れ出すことができないでいる。その理由は、彼女が前夫を憎んでいるからだ。」私は、彼女が10年ほど前に離婚しているということを知っていました。そこで私は、座って祈りを待っていた彼女に、「姉妹よ、ご主人と別れなさい。」と言いました。彼女は、びっくりしたような顔で私を見つめていましたが、それから「牧師さま、どういう意味でしょうか。主人と別れる、ですって?わたくし、主人とは10年前に離婚しております。」「いいや、しておりません。」と、私ははっきりと答えました。「そんなこと、とんでもありません。主人と正式に離婚しております。」彼女が言い張りました。「ええ、それは、離婚をするには、したでしょうね。」私は念を押しました。「確かに、離婚されました、法律的にはね。でも、精神的には、どうでしょうか?心の中では、あなたは彼と決して離婚しておられないのです。あなたは来る日も来る日も夫を呪い、夫を憎んできました。心の中で、想いの中で、あなたはご主人と別れていないのです。心の中では、あなたは今でも、ご主人と一緒に暮らしておられます。そして、あなたが抱いているご主人に対する炎のような憎しみが、あなたの体を蝕み、あなたの骨を干上がらせているのです。この憎しみが邪魔をして、関節炎を治らせないようにしています。」少し長いので割愛しますが、彼女は反発しました。「結婚したのはいいけれど、仕事は何1つしないで、お金を湯水のように使い、自分を捨てて他の女と駆け落ちした、そんな人間をどうして愛せましょう」と言いました。激しい葛藤の中で涙しながら、ご主人を赦しました。そして最後に、ご主人を祝福しました。それからおよそ3か月後、この婦人の関節炎は完全に癒されたそうです。

 父なる神さまはどのようなお方でしょうか?マタイ18:27「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」と書いてあります。主人とはまさしく、父なる神さまのことであります。父なる神さまは「かわいそうに思って、彼を赦しました」。父なる神さまは、愛と赦しと憐みに富めるお方です。もし、私たちが救われて神の子となったならば、当然、父なる神さまのご性質を受け継いでいるはずです。これは「あなたも赦してあげなさい」という命令ではありません。自分の中に父なる神さまのご性質が宿っているならば、赦さないではおれなくなります。パウロはローマ5章で「私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神との平和を持っています」と言いました。さらに続けて、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と言われました。私たちの中には傷つけられた怨念の炎が燃えているかもしれません。しかし、そこに聖霊によって、神の愛が注がれたらどうなるのでしょう?自分の中に激しい葛藤、激しい嵐が生じるでしょう?どうしたら、神の愛の方が勝利するのでしょう。それは、私たちが聖霊に明け渡したときです。聖霊様が赦しという奇跡を起こしてくださいます。

コーリテン・ブームというホロコーストの生存者がいます。ユダヤ人をかくまった罪で一家十人が逮捕され、強制収容所に入れられました。他の人はみんな亡くなって、彼女だけが奇跡的に生き残りました。終戦後、彼女はオランダに戻り、リハビリ―センターを設立しました。1947年ミューヘンの教会に招かれました。彼女は「私たちが罪を告白するとき、神が深い海にそれらの罪を永遠に投げ入れます」とメッセージしました。人々は沈黙の中で立ち上がり、静かに部屋を去りました。しかし、罪を悔い改めて、講壇の前に来る人たちもいました。すると、忘れもしない男性が目の前に立ちました。この男は姉と彼女が裸で歩くのを見ていた強制収容所の看守でした。彼は手を差し出しながら、「すばらしいメッセージでした。あなたが言うように、私たちのすべての罪は海の底にあります」と言いました。赦しを話していた彼女の手は凍りついたように動きませんでした。彼は「私を赦して下さいますか」と聞きました。イエス様の声が聞こえました。「もしあなたが人の罪を赦さないならば、あなたの父も、あなたの罪を赦さないでしょう」。彼がそこに立っていた時間は数秒でしたが、最も困難なことに取り組んでいたので、数時間のようでした。赦しは感情ではなく、意志であることを知っていました。彼女は心の中で「助けて、私は手をあげることができます。あなたに感情をささげます」と祈りました。そして、木製のような手を機械のように差し出しました。すると、信じられないことが起こりました。肩から腕、腕から手に力が流れていきました。そして、癒しの暖かさが彼女の全身に溢れました。彼女は涙を流しがら、「兄弟、あなたを赦します」と言いました。長い間、元看守と元捕虜が握手をしていました。彼女は神の愛をこれ以上に知ったことがなかったそうです。神の愛が最も現されているのは赦しです。同時に、私たちが人の罪を赦すのも、愛がなければできません。でも、その愛は私たちが神の命令に従うときに、赦しという形で流れてくるのです。

|

« 2017年5月 | トップページ