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2017年6月23日 (金)

永遠の報い マタイ19:23-30 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.6.25

 一人の青年が「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょう?」とイエス様に質問しました。イエス様は、彼が行いによって救いを得ようとしたので、律法の道を提示しました。彼は「そのようなことはみな、守っております。何が欠けているのでしょうか?」と返しました。イエス様は「完全になりたかったら、財産を売って貧しい人に施しなさい」と言われました。彼はそのことばを聞くと悲しんで去って行きました。なぜなら、多くの財産を持っていたからです。きょうはその続編であります。

 

1.神にはできる

マタイ1923-25 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」当時のユダヤ人は、「神さまの祝福を受けて金持ちになったんだ。金持ちこそが天国に入ることができる」と考えていました。考えてみると、金持ちは簡単になることができません。お金を儲けるための知恵や才能、努力、そして倹約精神が必要です。浪費家は金持ちになることができません。もし、親からの遺産であるなら、それはそれで祝福であります。さらにユダヤ人は、金持ちは貧しい人たちに施しをするために神さまが祝福していると考えました。だから、施しを受ける人は、そんなに卑屈にならなかったのです。イエス様のもとを去った青年のことを考えてみましょう。彼は若くして役人であり、多くの財産を持っていました。子どものときから律法を守り、悪いことをしていません。それなのに、イエス様は「持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と言われました。マルコ福音書には「みな売り払って」、ルカ福音書には「全部」と書いてあります。なんと酷なことでしょう。彼が悲しみながら立ち去ったあと、「金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。…金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」とおっしいました。だから、弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう」と言ったのです。「たいへん驚く」はギリシャ語では「驚愕する、びっくりたまげる」という意味です。イエス様が、ユダヤ人の常識とかけはなれたことをおっしゃったからです。それほど、弟子たちの価値観はこの世的であり、神の国の真理とはかけ離れていたということです。

なぜ、金持ちが天国に入るのがそれほど難しいのでしょうか?イエス様に近づいた青年は多くの財産を持っていました。先週も説明しましたが、その財産が偶像になっていたのです。「もし、財産を失ったなら、どうやって生きていくんだ」と思ったのでしょう。その結果、永遠のいのちはどうでも良くなったのです。ルカ16章に「金持ちと貧乏人ラザロの物語」が記されています。金持ちはいつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。神さまとか永遠のいのちには全く興味がありませんでした。一方、貧乏人ラザロは神さまを礼拝していました。なぜなら、「ラザロ」という彼の名が覚えられていたからです。パウロは「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる。…金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出た」(Ⅰテモテ69-10と警告しています。では、お金は一切不要なのでしょうか?ピューリタン的な信仰を持った人たちは、清く貧しくあることを誇ります。しかし、会堂建設や宣教師を送るためにはお金が必要です。「お金は汚れている」と説教しながら、人々に献金を募るとしたら、それは矛盾していることになります。「お金は悪い主人ではあるが、良いしもべである」という格言があります。もし、あなたがお金をよく管理できればお金は、あなたに仕える小さなしもべとなります。ところが、あなたがお金に支配されるなら、お金はあなたを奴隷にするひどい主人となるでしょう。

イエス様は「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と言われました。これは不可能だということを言うときのユダヤ人の格言かもしれません。大川牧師は、ある時、これには別の意味があると教えてくださいました。当時の町は城壁に囲まれており、日没と同時に正門を閉じるそうです。しかし、旅先から後れて到着する人がいます。そのため、正門の脇に「針の門」という小さな門があるそうです。もし、商人がそこから入ろうとするなら、らくだから荷物を全部降ろします。その後、らくだが膝を曲げて、ハイハイすれば、針の門をくぐることができます。つまり、「持ち物を全部、神さまにゆだねて謙遜にならないと神の国に入れない」という解釈です。山上の説教でも、イエス様が「狭い門から入りなさい」と言われました。イエス様は、お金持ちは神の国にはいることができないとおっしゃったのではありません。「むずかしい」とおっしゃったのです。さらに続けてこう言われました。マタイ19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」これは、ヒル・ソングの歌にもなっています。All things are possible, all things are possible.つまり、金持ちも神の力によって救われる、不可能はないということです。

聖書に金持ち、つまり富める人が良い信仰者であったという例はたくさん書かれています。父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブも富んでいました。彼らは神さまから祝福されてそうなったのです。ヨブは東の人々の中で一番の富豪でした。サタンは「主が垣をめぐらしたので、そうなったのだ」と言いました。ダビデもソロモンも富んでいました。ソロモンは箴言で「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである」(箴言224と言いました。新約聖書ではどうでしょう?ルカ83「自分の財産をもって彼らに仕えているヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか大ぜいの女たちもいっしょであった。」また、マルコの母マリヤも裕福でした。イエス様と弟子たちに最後の晩餐のため席を用意しました。ニコデモとアリマタヤのヨセフが金持ちであったと書かれています。この二人はイエス様の埋葬のために多くのお金を使いました。現代ではどうでしょう?クリスチャンの実業家がたくさんいます。たとえば、ロックフェラーがいます。彼の人生の前半は守銭奴でしたが、後半は多くの慈善事業を行いました。貧しい家庭の中で平凡に生まれたロックフェラーは、信仰深い母から神にいつも感謝の心を持つようにと、幼い時から次の3つの約束を守るように教えられていました。①十分の一献金をささげること(子どもの頃から小遣いの十分の一をささげていた)。②教会に行ったら、一番前の席に座って礼拝をささげること。③教会に素直に従い、牧師を悲しませないこと。三番目がすばらしい!

ロックフェラーに次ぐ、史上2番目の富豪とされるのがアンドリュー・カーネギーです。彼は鉄鋼会社を創業し、成功を収めて「鋼鉄王」と称されました。カーネギーはまた、「富は決して自分のもの」なのではなく、自分に「預けられた」ものに過ぎない、という明確な認識に立っていました。彼にはもう一つの口癖がありました。それは、「富を持ったまま死ぬのは恥である」ということでした。カーネギーは残りの人生を慈善活動に捧げ、図書館建設、世界平和、教育、科学研究などに多額の寄付をしました。音楽を愛したカーネギーは7,000台の教会用オルガンを作らせています。1891年に建設したカーネギー・ホールは寄贈せずに所有していましたが、1925年に彼の未亡人が売却しました。現在もそのままの名前が使用されています。日本ではどうでしょう?森永製菓、ライオン油脂、山崎製パン、白洋舍、ニッカウヰスキーなど創設者はみなクリスチャンです。聖書にタラントのたとえがありますが、「預けられたもので商売してもうけた」と書いてあります。5タラントと2タラントのしもべは赤字ではなく、黒字にしてご主人に返しました。富は確かに誘惑もありますが、神を恐れて、運用するならば「よくやった、忠実なしもべ」と主から喜ばれます。イエス様は「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」と言われました。神さまは人を変えることができます。それはどんな金持ちでも例外ではありません。確かに難しいかもしれませんが、不可能ではありません。多くの金持ちの人は使い道が分かりません。だから、儲け話にひっかかったり、遺産相続で子孫を破壊するのです。正しい使い道があります。イエス様は「天に宝を積みなさい」と若者に言われました。山上の説教でも言われています。マタイ619-21「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」私たちも富を正しく用いて、自らも喜び、必要なところにささげて、天に宝を積む者となりたいと思います。天国への投資は失敗することがありません。

2.永遠の報い

 マタイ19:27-28そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」ペテロは報酬を求めました。もし、イエス様が意地悪だったらどのように返すでしょうか?「ペテロよ、お前が捨てた物とは何か?たかが、小さな舟と網じゃないか。家も妻もそのまま持っているだろう。『何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました?私たちは何がいただけるでしょうか?』なんてお前は、意地汚いんだ。無心にならなけりゃダメだ」とはおっしゃいませんでした。イエス様はちらっとそのようなことは思ったかもしれません。でも、「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」と言われました。「まことに」とは「アーメン、真実に」という意味です。「世が改まって」はギリシャ語では「再生」という意味ですが、メシヤが到来したときに霊的再生が起こるという意味です。つまり、イエス様が再臨して御国の王座についたときです。そのとき、弟子たちが、12の座について、イスラエルの12部族をさばくのです。弟子たちは最後まで、だれがイエス様の右と左に座るのか議論していました(マタイ2020-24)。イエス様は来るべき御国の王であります。やがて、イスラエルが回復され、異邦人の王たちも集まります。でも、王の王は、イエス・キリストであります。そのとき、12弟子がイスラエルの12の部族をさばくとはなんと光栄なことでしょう。

 さらに続けてイエス様がおっしゃいました。マタイ1929-30「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」これは信仰を持っているゆえに迫害に会うということです。そのとき、御名のために失うものがあります。まず家です。使徒8章には「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。…散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」と書いてあります。本来なら仕事や住む家をさがすところですが、彼らは福音を宣べ伝えることを第一にしました。彼らの労苦によって、異邦人の基地、アンテオケ教会ができました。姉妹、父、母、子というのは、家族から迫害されるということです。信仰を守るために、親しい家族を捨てなければなりません。聖書の下に注釈が書いてあります。ルカ福音書もそうですが、「妻」と書いてある聖書もあるということです。穐近祐(あきちかゆたか)牧師は戦後、アメリカから日本に渡って来た逆輸入の宣教師です。そのとき、ルカ福音書は「妻」と書いてあるので、このマタイによる福音書を引用したそうです。穐近牧師はまさしくご長男を捨てて、妻と二人で日本に渡って来ました。当時の日本は敗戦で混乱しており、食べるものもありませんでした。そういう意味でも、ご長男をアメリカに残してきたのだと思います。でも、聖書のみことばをそのまま実行して、本気モードで伝道なさった先生には敬服します。遠藤周作氏は『沈黙』の中で、家族を守るために、信仰を捨てた人の味方になっています。「自分一人の信仰を守るために、残された家族が殺されても良いのか?」と問われるならば、やっぱり厳しいと思います。でも、当時は命を捨てて、信仰を守った人たちが何十万人もいたということを忘れてはいけません。ころんだ人ではなく、命を捨てた人たちを見なくてはなりません。なぜなら、報いがあるからです。

 では、いつ報われるのでしょうか?マタイ19章には「あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」と書かれています。聖書の下に注釈が書いてありますが、100倍と書いてある異本もあるようです。いつ報われるのか分かりません。再臨後、御国においては確かなのですが、この地上ではどうなのでしょうか?しかし、マルコ福音書とルカ福音書はもっと詳しく書かれています。マルコ1030-31「…畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」マルコ福音書には、今受ける分と将来受ける分が合わさっているように思えます。合せて百倍なのかもしれません。ルカ福音書はどうでしょう?ルカ1830「この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」ルカ福音書の方が、現実味があります。たとえば、ヨブは10人の子どもたちと全財産を失いました。ところが、最後には所有物が2倍に増されました。子ども新たに10人与えられ、その子の子たちを四代目まで見ることができました。イザヤ書61章にはこのように書かれています。「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」(イザヤ617)。出エジプト記22章には「盗まれたものは2倍にして償わなければならない」と書かれています。では、なぜ「100倍」などと書いてある聖書があるのでしょうか?ヨハネ12章でイエス様がこのようなことを語られました。ヨハネ1224「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」イエス様が「まことに、まことに」と2回もおっしゃっているところはそんなにありません。一粒の麦が地に落ちて死ねば、豊かな実を結びます。おそらく100倍から200倍になるのではないでしょうか?ですから、100倍はおおげさな数ではないということになります。

 昔、座間キリスト教会で奉仕していたころ、高橋みおさんというおばあちゃんがいました。ご主人からものすごく迫害され、「教会に引っ越してきて、大川牧師の娘になりたい」言っていました。ある時、お風呂で倒れ、そのままお亡くなりになりました。教会で葬儀を行うことになり、ご遺体が運ばれてきました。そのとき、ご主人が来られこう言うのです。「聖書に、妻を自分のからだのように愛せ、と書いてあるのに、わしゃ愛さなかった」と悔い改めました。その後、ご主人が洗礼を受けました。また、その後、ご長男ご夫妻、さらにお譲さんたちが洗礼を受けました。「こういうこともあるんだなー」と驚きました。現代では信仰を持つことによる迫害は少ないかもしれません。ところが、戦時中、中国や朝鮮半島では日本兵による大迫害がありました。神社参拝をしないため、多くの教会が焼かれました。なぜ、韓国の教会がリバイバルしたのでしょうか?それは彼らが血を流して抵抗したからだと言われています。一方、戦時中の日本の教会は政府によって1つの教会にされました。教会を守るために神社参拝し、戦争の勝利と天皇のために祈ったのであります。教会は残ったかもしれませんが、信仰が骨抜きになり、リバイバルは起こりませんでした。それが今も引きずっています。「信仰は命がけ」と口では言えますが、いざ迫害が起こったなら、どうなるか分かりません。マタイ福音書には「家とか畑」と書いていますが、それはすべての財産を意味しています。家族も財産も失うということです。江戸時代もそうでしたが、人本主義(ヒューマニズム)が私たちの根底にあります。「絆が大事だ」とよく言われますが、もしこれが生まれつきの人間関係だとしたらヒューマニズムに陥ってしまいます。イエス様は「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」(ルカ1426と言われました。私はクリスチャンになるとき、父も母も亡くなっていました。直接献身しても、末っ子なので、兄弟に全く気兼ねをすることはありませんでした。しかし、今度、家庭を持って、妻、子を捨てる番になったらどうでしょう?やっぱり、信仰が必要です。自分が得たのではなく、神さまが与えてくださったことをちゃんと理解しなければなりません。ヨブのように「主は与え、主は取りたもう。主の御名はほむべきかな」と言えるでしょうか?

 私たちは永遠の報いということを考えなくてはいけません。この世だけのことを考えるなら、「損した」「全部失った」「神さまなんかいない」「神さまはひどい」とつぶやくかもしれません。しかし、信仰者はこの世だけの人生ではありません。やがてこの世は終わり、新しい時代が来るのです。御国(千年王国)ではイエス様が王であり、私たちもイエス様と一緒に治めるのです。ミナのたとえには、忠実さによって10の町、5つの町を治める(ルカ1917-19)と書いてあります。人からの報いを受けるのを期待することは間違っています。しかし、私たちは神からの報いを期待して良いのです。神からの報いは意地汚いものではありません。聖書に「報い」「贖い」「弁償」「償い」ということばがあふれているからです。本日の箇所でも、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」と約束されています。イエス様は「まことに」ということばを冒頭に添えていますので、確かであると信じます。永遠のいのちは「報い」ではありません。これは賜物です。イエス様を信じる人にはもれなく与えられるものです。しかし、御国は二段階でやってくることを理解しなければなりません。最初の御国、つまり千年王国においては報いがあります。この地上でいかに忠実に生きたかによって相続するものが違うのです。しかし、その後にやってくる新天新地においてはみな平等です。なぜなら、永遠のいのちは「報い」ではなく、信仰による賜物だからです。今、この時代が終わると、御国(千年王国)がやってきます。私たちは御国における報いを期待しながら、与えられているレースを終わりまで走る必要があります。ぜひ、いのちの冠、朽ちない冠、義の冠を得たいものです。ローマ818「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」

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