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2017年6月16日 (金)

永遠のいのちを得るには マタイ19:13-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.6.18

 クリスチャンであるなら、永遠のいのちを得るには、イエス様を信じれば良いということをご存じだと思います。4月の受難週のときヨハネ316節から「信じるだけで救われる」ということをメッセージしました。しかし、今日の箇所を見ると、聖書が言う福音と異なることをイエス様がおっしゃっているような感じがします。もし、救われるために良い行いが必要だとするなら、使徒パウロが言う信仰義認と矛盾することになります。イエス様はこの青年にどうしてそのようなことを求めたのでしょうか?3つのポイントでお話しさせていただきます。

1.行いの道

 この青年は、ルカ福音書には「役人」と書かれています。彼はユダヤ教の役人であり、幼い頃から宗教的な教育を受けていました。さらに彼は多くの財産を持っていました。あとで、イエス様が「金持ちが天の御国に入るのが難しい」と言われました。すると、ペテロは驚いて「それでは、だれが救われることができるでしょう」と反論しました。当時、金持ちは神さまから特別に祝福を受けた人物であると考えられていました。彼は律法を守り、正しい行いをしていたので、だれが見ても、天の御国にふさわしい人物でした。この青年はユダヤ教徒のエリートであり、「天の御国に入る人はこういう人だ」と思われていたのでしょう。私などはこういう人を見ると、少し心が穏やかでなくなります。同じ牧師でも東大卒であったり、外国の神学校を卒業していたりするとそういうことがあります。使徒パウロはⅠコリントで「神はこの世の愚かな者を、無に等しい者を選ばれた」と言っています。でも、富も地位も良い行いも、神さまからの賜物であり、それはそれで良いのではないかと思います。私も今はそのように考えるようにしています。ですから、この記事を「ざまぁ見ろ」とひねた気持ちで読むのではなく、穏やかで純粋な心で読むべきであります。

 ボタンのかけ違いはどこから生じたのでしょうか?青年が「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」と質問したところにあります。彼はイエス様を「主」ではなく、「先生」と呼んでいます。おそらく彼はイエス様が何を言うか予想していたでしょう。彼は悩んで質問したのではなく、「あなたは永遠のいのちを得るのにふさわしい」という認証を得たかったのでしょう。イエス様は「いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」と言われました。イエス様は彼が行いによる救いの道を求めたので、その道を提示しました。青年は「どの戒めですか」と高飛車に答えました。イエス様は「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われました。それらの律法は十戒の後半の部分でした。彼は何と答えたでしょう?「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」彼は律法を突きつけられてもひるむ様子はありません。マルコ福音書には「私はそのようなことをみな、小さい時から守っております」と書いてあります。彼は律法の意味をよく分かっていませんでした。山上の説教には「人を憎んでも殺人、情欲を抱いても姦淫である」と書かれています。確かに彼は表面的には律法を守っているかもしれませんが、動機とか思いの部分はどうなんでしょうか?それでイエス様は決定的なことを言われました。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」これは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよという律法を行なえるか?」というチャレンジです。神の律法はそこまで要求するのであります。

 彼はどうしたでしょう?「ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。」イエス様に出会って、悲しんで去って行った人物はそんなにいません。イエス様は「あなたが完全になりたかったら」と青年にチャレンジしたのであります。完全とは何でしょう?それは神さまの義、100%の正しさに達するということです。パウロは「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」(ローマ320と言いました。彼は悲しんで去って行きましたが、それは「自分は完全ではない、罪がある。神の標準には達していない」と悟ったからです。でも、そこで去ってはいけなかったのです。イエス様は「そのうえで、わたしについて来なさい」と言われたからです。イエス様は彼を突き放してはいません。マルコ福音書にはJesus loved himいつくしんで言われた」と書いてあります。彼の罪が律法によって暴露されました。彼が頼りにしていたものは自分の行い、そして自分の財産であったのです。神さまよりも自分の行いや富を愛することを何と言うでしょう?偶像崇拝と言います。イエス様は最初、十戒の後半は提示しましたが、十戒の前半は提示しませんでした。「この人は多くの財産を持っていたからである」とありますが、財産という偶像を拝んでいたのです。また、イエス様に従えなかったのも、神さまを第一に愛していない証拠です。私たちはこの物語を厳粛な思いで見なければなりません。良い行いによる救いの道はとても険しく、実行不可能だということです。くれぐれも行いによる救いを選ぶことのないように。律法は守るために与えられたのではなく、「あなたには罪があり、不完全ですよ。救い主が必要ですよ」いうことを教えるためにあるからです。

2.信仰の道

 行いの道と対照的にあるのが、信仰の道です。プロテスタント教会はこれをとても強調しています。でも、頭ではわかっていても、本当に魂の底まで分かっているかということです。そのことを教えてくれるのが、13節からの内容です。マタイ1913-14「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」おそらくお母さんたちが、子どもを祝福してもらうために、イエス様のところに連れて来たのでしょう。どの時代であっても、子どもというのはうるさくて、じっとしていません。もし、イエス様が説教の最中であるなら、妨害することになります。弟子たちはイエス様のガードマンのように守っていたのかもしれません。弟子たちは子どもたちの前に立ちはだかり、親御さんたちに「めんどうをかけないでくれ」と叱りました。ところが、マルコ福音書には「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた」と書いてあります。イエス様は弟子たちの子どもたちに対する態度に怒られたのです。当時、子どもたちはそんなに大事にされていませんでした。ローマ時代は特にそうであり、半人前に扱われていました。さきほどの若者と比べれば、子どもは良い行いができません。財産もない、身分もない、知識もない、能力もない、体力もない、人格的に不安定な存在です。おそらく、日本人の私たちも子どもたちを半人前のように見るかもしれません。

 イエス様は何とおっしゃったでしょうか?「天の御国はこのような者たちの国なのです。」マルコ福音書には「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(マルコ1015と付け加えられています。イエス様は子どもを前に出して、天の御国に入る道を教えました。「子ども」はギリシャ語で、パイディアであり、「little child幼いこども」であります。おそらくハイハイするくらいの幼児から、就学前の子どもではないかと思います。何と、その子どもたちは大人たちが学ぶべきものを持っているということです。なぜなら、イエス様は「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」と言われたからです。さきほどの青年はどのようにイエス様に近づいたでしょうか?「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」と聞きました。一方、子どもはそのようにイエス様のところに近づきません。マルコ福音書には「尊い先生」という敬語を使っています。一方、子どもはおべんちゃらを言いません。青年は「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか」と言いました。一方、子どもは律法を守っているのかいないのか、欠けているのかいないのか自覚がありません。たとえ律法をつきつけられても、「ああ、そうなの?ローラ、わかんない?」と答えるでしょう。でも、子どもは大人にはないものを持っています。幼い子どもは特にそうです。それは信頼する心です。言い換えると「疑わないで神の国を受け入れる」ということです。イエス様は「天の御国はこのような者たちの国なのです。」と言われました。J.Bフィリップスは、「Heaven belongs to little children天の御国はこのような小さな子どもたちがいるべきところ(ふさわしいところです)」と訳しています。どういう意味でしょう?天の御国は小さな子どもたちのような謙遜なところだということです。

 大人は神の前に「私は何ができる」「私は何を持っている」「私は何という立場である」と自分を誇るかもしれません。しかし、幼い子どもは誇りたくても誇るものがありません。何もできなし、何も持っていないし、役職も持っていません。この青年はいつしか、幼い子どもが持っていた良いものを忘れていました。自分の良い行ない、自分の財産、自分の立場、そういうもので自分を飾っていたのです。そして、イエス様の前に「尊い先生、何をしたらよいでしょう」とやってきたのです。全く傲慢で鼻持ちなりません。イエス様は不完全さを気づかせるために、十戒を提示しましたが、全く効果がありませんでした。しかし、最後に「持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と言われたときに、崩れてしまいました。悲しい顔をして去って行きましたが、イエス様は彼を追いかけませんでした。ペテロは「金持ちが救われなかったら、だれが救われるのですか」と驚きました。私だったら彼を追いかけて、「全部でなくて、10分の1からささげたらどうでしょうか?」と提案したかもしれません。しかし、イエス様は彼を追いかけませんでした。イエス様は、この先も彼は子どものように神さまを信頼しないことを知っていたからです。私たちは子どものようになって、天の御国を求めましょう。子どものようになって父なる神さまを信頼しましょう。そうすれば、信仰が与えられ、ますます天の御国にふさわしい者になります。私たちはある部分は成熟して大人になるべきです。しかし、子どものように純粋に神さまを信頼していきたいと思います。

3.行いと信仰

 イエス様が良い行いを要求したのは、彼が行いによる救いを求めたからです。イエス様はだれにでも「持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」とは要求しません。ところが、ある人たちはこの箇所を読んだとき「天国に入るためには、全財産を捨てなければならないんだ」と考えるかもしれません。歴史的に有名なのは、聖フランチェスコでした。彼は裕福な家庭に生まれました。あるとき、彼はこの物語を読みました。そして、父からもらった財産をすべて父に返しました。着ていた衣服までも脱いで父に返したのです。そして、極度に貧しい生活をして神さまと人々に仕えました。フランチェスコは修道士になりましたが、彼の生き方に追従する人たちが次々に起りました。アッシジの貴族で大変裕福だったベルナルドは、出家の決心を固めると、自分の資産を処分してそれを貧しい人に分け与えました。その上でフランチェスコと共に生活を始めました。アッシジの貴族の娘クララは、フランチェスコの考えに共鳴して、もう一人の女性を伴って家を出ました。やがてフランシスコ会やドミニコ会などの修道会ができました。彼らは清貧の生活をしつつ神と人々に仕えました。聖フランチェスコを悪く言う人はいないでしょう。しかし、修道会は教皇下にある教会の反動として生まれたのだと思います。富は確かに誘惑にはなります。でも、富を捨てなければ神の国に入れないわけではありません。問題は富に頼るのではなく、神さまに頼るという信仰が必要なのです。

 では、良い行いは不必要なのでしょうか?また、十戒をはじめとする律法は不要なのでしょうか?私たちはここからは、成熟した大人になる必要があります。ヤコブはこのように言っています。ヤコブ224「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」ヤコブの考えはパウロの信仰義認と真向から反対するものと思われていました。宗教改革者ルターはヤコブ書を「藁の書」と卑下したくらいです。でも、ヤコブが主張する「行い」は信じた人の後のことを言っているのです。言い換えると、本当にイエス様を信じて救われた人は、行ないが現れてくるということです。もし、行ないが伴わないならば、その信仰は疑わしいものであると言っているのです。イエス様はヨハネ15章で「私はぶどうの木であなたがたは枝です。私につながっているなら、豊かな実を結ぶようになる」と言われました。良い行いは、信仰の実であります。私たちのがんばりではなく、イエス様が私たちに結ばせてくださるのです。しかし、教会はこのことを正しく捉えていません。「救いは行いではありません。信じるだけで救われます」と言います。しかし、一旦、イエス様を信じて、洗礼を受けた人にどのように指導するでしょう?「これからは聖日礼拝を守り、十分の一献金をささげ、聖書を読み、クリスチャンとして証の立つ生活をしなければなりません」と言います。ある教会では教会員になるために誓約書みたいなものを書かせられるそうです。これはどういうことを意味するのでしょうか?「救いは恵みだけけど、信仰生活は恵みだけではなく行いも必要だ」ということです。これは立派な詐欺であります。教会の指導者は「良かれ」とやっています。でも、信じたばかりの人は、それらを律法とか義務に捉えてしまい、そうできない自分に失望して教会を去って行く可能性が出てきます。真実は、信じる前も恵みですが、信仰生活も恵みだということです。

 それをささえるみことばがこれです。エペソ2:8-9「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」このみことばはアーメンであり、だれも反対する人はいないでしょう。信じた後はどうなのでしょうか?エペソ2:10 「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」「キリスト・イエスにあって造られた」という表現は、Ⅱコリント517「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」と同じ意味です。では、「キリストにあって造られる」というのはどういう意味でしょう?それは悪い行いではなく、良い行いが自然に出てくるようになるということです。なぜなら、神さまがそのような者として私たちを造られたからです。しかし、それだけではありません。神さまは「私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださった」とも書いてあります。「備えてくださった」は英語の聖書でordainであり、「運命的に定める、予定する」という意味があります。つまり、神さまが良い行いをこれから先、ところどころに用意してくださるということです。マラソンのコースに設けてある給水所とかバナナみたいなものでしょうか?いや、それ以上のものです。だから、クリスチャンは洗礼を受けた後でも、神さまの恵みによって生きるべきなのです。なぜなら、神さまが必要な恵みをところどころに備えていてくださるからです。

 一番してはいけないことは、律法主義による信仰生活です。律法は神さまからの命令であり、規定です。クリスチャンであってもこれは守らなければなりません。しかし、救われた後の律法は罰則のためではありません。道路のガードレールやセンターラインのようなものです。「あなたは主にあって自由です。でも、これを超えると事故に遭うか、大怪我をしますよ」という警告を与えてくれます。しかし、律法主義は違います。「律法を守らなければ神さまに受け入れられない。良い行いをしなければ神さまの愛をいただくことができない」と、恐れの動機で行うパフォーマンス指向であります。いわゆる教会の献身者が一番陥りやすいものが律法主義です。その人たちは、一生懸命奉仕をしていても顔に緊張感があります。そして、やっていない人たちを心の中でさばいています。「どうして私だけがこんなに頑張らなければならないの」と怒っています。ここに良い知らせがあります。ローマ88「肉にある者は神を喜ばせることができません。」言い換えると、肉によって神さまを喜ばせる必要はないということです。神さまはイエス様がなされたことによってもう満足しています。何かをしなくても私たちがイエス様を信じているので義と認めてくださっているからです。いわば私たちは1万タラント(6,000億円を)赦されたしもべです。なのに、「あなたに100万円お返ししますので、どうか喜んでください」と言っているようなものです。あなたが100万円償ったところで、6,000億円には遠く及びません。償いで救われようなんて、何という厚顔で、失礼なしもべなのでしょう。私たちは無限大に赦された者たちです。私たちが良い行いをするのはお返しとか、償いではありません。私たちが神の作品になったことと、神さまご自身が良い行いを備えてくださっているからです。あるいは、神さまが私たちの内に良い行いをproduce生産させてくださるのです。だから、私たちはどこまでも自分を誇ることはできません。たとい良いことができたとしても、誇るべきお方は主のみです。ハレルヤ!

 多くの人たちはクリスチャンになっても、神さまに対する神観がゆがんでいます。あなたの神さまは「まだ足りないぞ。何をしているんだ」と怒っている神さまでしょうか?あるいは放蕩息子のお父さんのように無条件で愛してくださる天の父でしょうか?私たちは救われるためには、幼い子どものように神さまを信頼する必要があります。しかし、救われて成長していくと、どうなるのでしょう?神さまの息子、神さまの娘になります。ギリシャ語には同じ子どもでも、フィオスということばがあります。息子、娘は、お父さんを喜ばせるために、緊張したりはしません。ときには、「これこうして」「これをくれ」とぶしつけに要求することもあります。でも、だんだん父の気持ちが分かってくると、どうなるでしょう?やがて、父の心を持つ人になります。これまでは後輩に対してライバル心丸出しで「100年早い」と言ってきたかもしれません。しかし、父の心を持っている人は自分のことのように喜びます。そして、「私を超えてあなたも立派な父になるのですよ。必要なものは何でも与えますよ」と励ますでしょう。私たちは神さまの手作りとして神の作品になりました。手作りですから、ひとり一人違います。でも、共通していることは神さまのご栄光を喜ぶために生かされているということです。

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