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2017年6月 9日 (金)

結婚の奥義 マタイ19:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.6.11

 世界で一番離婚率の高い国はロシアです。「100組のカップルのうち、80組が離婚に至る」という衝撃的な数値を記録しているとウェブに載っていました。アメリカや韓国も非常に高くて、クリスチャンであるかどうかは全く関係ないようです。日本も3組に1組くらい離婚していると言われています。きょうは、結婚の本来の意味を聖書から学び、信仰と希望と愛をいただきたいと思います。

1.結婚を重んじる

発端は「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか?」というパリサイ人たちからの質問でした。これはまじめな質問ではなく、イエス様を試すための質問でした。もし、「律法にかなっている」と言ったら女性の権利を踏みにじることになります。群集の半分が女性ですから、怒って帰ってしまうでしょう。イエス様が結婚の奥義について話しましたが、彼らはこう反論しました。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」これに対して、イエス様は「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。」(マタイ197-8と答えました。イエス様は申命記の24章から引用しましたが、これは仕方なく与えた律法であったということです。なぜなら、男性が些細なことで一方的に妻を離別させていたからです。モーセは女性の立場を守るために、「正式な理由を書いた離婚状」を渡すように定めたのです。でも、イエス様は「あなたがたの心がかたくななので」便宜上そうしたのだとおっしゃいました。イエス様はさらに「だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです」と言われました。1つだけ例外があるとすれば、妻が不貞をはたらいた時であるとしました。これは十戒の「姦淫してはならない」という律法と合致しています。聖書の中には「そして離縁された女を妻とする者は姦淫を犯すのです」と書いてあるものもあります。また、結婚に関する律法は、イスラエルが血統を重んじること関係しています。

これに対して弟子たちはどう答えたでしょうか?10節「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」弟子たちの頭も、その当時の考えや風潮に犯されていました。彼らも「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっている」と考えていたのです。気に入らないとか、些細な理由でも妻を離別することができるという男性優位の立場を取っていました。日本でも歴史的に考えますと、政略結婚とか家と家との結婚が一般的でした。ある政治家が「女は子どもを産む機械」という問題発言をしました。しかし、明治時代まで女性の立場はものすごく低かったことは確かです。当時のユダヤ人のように些細な理由で離縁されていました。こういう話を聞くと、女性たちは憤慨するのではないかと思います。今は逆で、女性の方から「離縁状」を出すケースもあるようです。流行の先端を行っていた明治の女流作家、与謝野晶子が離婚について書いています。「離婚という事を一概に罪悪のように考える人のあるのはどうでしょうか。離婚をして双方幸福の生涯に入った人も少なくないと存じます。そういう場合には社会はその人たちの離婚を賀しても宜しいでしょう。また夫婦という者はあながち幸福ばかりを打算して一緒になっておられるものでなく、そういう打算や道徳や義理や、聖人の教えや、ないし神様のことばなどを十分知り抜いて、しかもそれを超越した処に、どうしても双方の気分が食い違って面白くないという場合もあるのですから、そのところに至っては合議の上で離婚するのが正当の処置であろうと存じます。」しかし、与謝野夫婦は聖書の教えから越脱していることは確かです。

聖書は男性からの一方的な離婚についてどのように教えているのでしょうか?マラキ216「わたしは、離婚を憎む」とイスラエルの神、主は仰せられる。「わたしは、暴力でその着物をおおう」と万軍の主は仰せられる。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない。」とあります。祭司たちまでも、若い女性を好んで、年老いた妻を離縁しようとしていたのです。それは妻に対する裏切りだけではなく、神さまに対する裏切りでした。イスラエルの民はどうしてそのようになってしまったのでしょうか?それは、ヤーウェ(主)なる神を捨てて、カナンの神々を拝むようになったからです。エゼキエル書には神殿内の幻がしるされています。なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていました。(エゼキエル810)。彼らの霊的姦淫が、結婚生活にまで害を及ぼすようになったのです。まず、私たちは結婚が人と人との契約ではなく、神さまと人との契約であることを覚えなければなりません。人のとの契約contractは取り消すことが可能かもしれません。しかし、神との契約covenantは、取り消すことはできません。まさしく、「死が二人を分かつまで」であります。二人が、一度結ばれてしまったなら、霊においても1つになり、引き離すことは困難です。無理やり引き離すならば、双方の霊に害を及ぼすことになるでしょう。芸能人たちは離婚して再婚していますが、彼らの霊はぼろぼろになっています。私たちは、結婚が神聖であることを知って、これを重んじるべきであります。

2.結婚の召命

弟子たちは「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです」と言いました。イエス様は彼らに、別の方向から答えられました。マタイ1911-12「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」結婚はだれでもできるものではなく、神からの召命です。また、独身者となる者がいますが、そこには3種類のケースがあることがわかります。しかし、これは男性の立場から言われていることであり、女性はその適用として捉えるべきです。なぜなら、「独身者」というのは宦官eunuchとなっているからです。宦官は去勢された男性であり、宮廷や貴族に仕えた男性を指しました。しかし、私たちはもっと広い意味で、男性と女性の「独身者」として捉えたいと思います。その前にひとこと申し上げますが、この世では独身者は半人前だと思われています。会社でも独身者だと、高い地位につけないということを聞いたことがあります。では、独身者が半人前なのでしょうか?イエス様は創世記1章を引用しながら「創造者は、初めから人を男と女に造られた」と言われました。これはどういう意味でしょう?男は結婚していなくても、男として完成しているということです。また、女は結婚していなくても、女として完成しているということです。そして、男も男として成熟し、女も女として成熟したものとなるということです。では、結婚とは何でしょう?成熟した一人の男性と成熟した一人の女性がするものなのです。よく「私が50%で彼女が50%で、合わせて100%になるんだ」と言いますが、それは嘘です。100%の男性と100%の女性が結婚して、200%になるのが結婚なのです。ハレルヤ!寂しい人と寂しい人が結婚したなら、二人の寂しい人たちが生まれるだけなのです。極端なことを言うと、相手がいなくても生きて行けるのが結婚の標準なのです。私もここで立派なことを言っていますが、家内がお義母さんの世話のため実家に帰るときがあります。2,3日はとても寂しいです。でも、4日もすると慣れてきます。なんとかなっていくんですね。でも、帰ってくると嬉しいです。機能不全の家庭で育った私が、結婚という召命に答えることができたのは、主のあわれみです。

ところで、独身者には3種類あることがわかります。第一は、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。聖書では預言者のエレミヤがその人です。バビロン捕囚前の彼の人生は波乱に満ちていました。同胞の民から苦しめられ、最後はエジプトで行方知れずになりました。だから、1人で良かったのです。第二は、また、人から独身者にさせられた者もいます。これは家族の問題や、戦争など外的な問題です。日本では第二次世界大戦中、そのような不幸な人たちがたくさんいました。兵士もそうですが、戦争未亡人の人たちもたくさんいました。聖書ではダニエルです。ダニエルと3人の若者はバビロンに連れていかれました。そして王様に仕える高官に抜擢されました。おそらく彼らは宦官として仕えたのではないでしょうか。だから、自由に結婚することは許されなかったと思います。でも、そういう制限された生活の中で主が共におられ、主の栄光を現すことができました。現代は身分が保証されていますので、「人から独身者にさせられた者」はそんなにいないかもしれません。しかし、子どもの時の虐待やいじめによって、結婚観がゆがめられてしまって結婚できない人もいるでしょう。育った環境や受けた心の傷によって、そうならざるを得ないケースもあると思います。

第三は天の御国のために、自分から独身者になった者もいます。しいていうならば、ナイチンゲール、エリザベス一世、マザーテレサかもしれません。おそらく、使徒パウロは天の御国のために、自分から独身者になったのではないかと思います。パウロはこう述べています。Ⅰコリント732-34「あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。独身の女や処女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。」独身は神からの召命であり、賜物です。ローマ・カトリックのように強制されてなるものではありません。使徒パウロは独身として主に仕え、主のご栄光を現すことができました。しかし、すべての人がパウロのように独身者になれるわけではありません。現代では、イギリスから来られた宣教師、マーガレット・バーネット師がおられます。彼女は羽鳥明師を導いた人として有名です。彼女は独身者として神さまの栄光を現した立派な人だと思います。

 弟子たちが「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです」と言ったのは、ゆがんだ考えからでした。彼らは男性優位の社会に影響されていたのだと思います。イエス様は結婚は神からの召命であると教え、その中に独身者もいるのだと教えました。世間体を保つために結婚して、不幸になるくらいなら独身で通す方が良いかもしれません。結論としてパウロのことばを引用したいと思います。Ⅰコリント7:8 -9「次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。」神さまは私たちに自由意思を与えておられます。私たちをコントロールしようとは思っておられません。でも、大事なことは、結婚は神からの召命であり、それに答えることです。それに答えたならば責任を果たす必要があります。尚、結婚は幸せになるためにするのではなく、神からの召命に答えていくとき幸せがついてくるのではないかと思います。

3.結婚の奥義

 最後に聖書が言う結婚とはどういうものなのか共に学びたいと思います。マタイ19:4-6 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」この世の中では、結婚のための教育ということはほとんどないと思います。「みんな結婚するから私も結婚する。」「好きになったので結婚する。」「愛のゴールが結婚だから」…ほとんどのカップルは結婚式の準備はするかもしれませんが、結婚生活についてはぶっつけ本番ではないでしょうか?結婚式はたったの1日ですが、結婚生活はそれからずっと長く続く、山あり谷ありの生活です。「え?こんなはずではなかった」というカップルが多いのは結婚の本当の意味が分かっていないからだと思います。私は人に立派なことを言えませんが、On the Job Trainingであります。結婚しながら学んだと言うタイプです。なぜなら両親から正しい結婚生活を見習ったこともないばかりか、結婚カウンセリングも受けたことがなかったからです。結婚後、1か月で「ああ、男と女がこんなに違うものなのか」とびっくり驚きました。「性格の不一致」が離婚の第一な理由なようですが、当たり前すぎて、理由にならないと思います。これからの人も、その渦中にいる人も、昔の出来事の人も、あまり関心のない人も、一応は聖書から学ぶべきだと思います。

 第一は、結婚は神が創造し、神が定めたものです。人が便利だから作った社会的な制度ではありません。「創造者は、初めから人を男と女に造って」とありますが、もともとは創世記1章からのことばです。創世記127「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」「かたち」とは何か神学者たちによって議論されてきました。カール・バルトという神学者は「男と女の関係、つまり愛の関係こそが神のかたちである」と言いました。神さまは父、子、聖霊なる神が1つになっている愛の共同体です。その愛の共同体にならって、人を男と女とに創造されたというのはすばらしい考えです。言い換えると、家庭の核は夫と妻であり、それが社会の基盤となるのです。その後に「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(創世記128という命令が続きます。そのような神のかたちを増殖することを示唆しています。

第二は、「人は父と母を離れ、その妻と結ばれ」とあります。これは結婚する前に、男と女が両親から独立するということです。言い換えると、経済的にも精神的にも、一人前になっているということです。残念ながら、日本では結婚してからも、両親とくっついている場合があります。何か問題が起こると伴侶に相談するのではなく、実家に行くというのは問題です。親子の絆が強すぎて、独立した家庭を築く妨げになっています。残酷かもしれませんが、結婚するためには、親子の縁を一度断ち切る必要があるのです。「渡る世間に鬼ばかり」というテレビ番組があります。世間と言っても岡倉家と小島家です。後から田島家と田口家が加わる小さな世間です。まさしく、共依存の物語であり、きわめて日本人的です。余計なことに口出しして、混乱することを楽しんでいる人たちです。人は父と母を離れ、その妻と結ばれることが重要なのです。私たちは互いに境界線を引くことを勉強すべきであります。

第三は「ふたりは一体となる」です。一体になるは、原語では「1つの肉」になるです。つまり、一度、結ばれてしまったなら引き離せない。「無理に引き離したら、肉は引き裂かれ、血が流れ、命をなくしてしまう」というニュアンスがあります。マラキ書2章には、「あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない」と二度も書いてあります。結婚とは肉体だけではなく、霊がやり取りされるところまで一体になるということです。エリヤハウスでは、まさしくそのことを言っています。ある人と肉体的な関係を持つと、相手の一部の霊がこっちにくっつき、自分の霊の一部が相手にくっつく。そういう人と別れた場合は、相手の霊の一部をこっちにもらい、自分の霊の一部を相手に返すような作業が必要だということです。一度くっついたら、御霊のつるぎでないと切れないということです。ある大学生が複数の女性と関係を持ったために、自分の中に混乱が起きたそうです。彼が正常になるために、御霊のつるぎでそぎ落とし、さらには行ってしまった自分の霊を取り戻すという大変な作業があったようです。現代は男女間の関係が非常に乱れています。イエス様は「姦淫の時代」と言いました。だから、霊的に混乱をきたしている人がたくさんいるということです。エディ・レオ師が「結婚とは一体化を味わすことです。その夫婦が一体化するために3つのことが必要です」と言われました。第一は1つの霊となる。互いに祈り合うことです。家族の祭壇とも言えます。旧約聖書ではアブラハム、イサク、ヤコブが祭壇を築いています。互いに祈り合うとき、お互いの霊が行き来して深い所で一致することができます。第二は1つの心となる。正直で何でも話し合える会話が必要です。男性は結婚する前はとてもよくしゃべります。しかし、結婚したとたんしゃべらなくなります。あるデーターによると、女性は男性の5倍の言語を発しないとフラストレーションがたまるそうです。第三は1つの体となる。肉体の交わり、セックスです。これはだれからも教えられる必要はないでしょうか?しかし、日本人の中年の多くはセックス・レスだそうです。基本的にはこの3つですが、あと2つオプション的にあります。1つのビジョンを持つ。たとえ召命や賜物が違っても、同じビジョンを持つということです。1つの会計にする。お金を夫婦で別々にしないということです。イエス様は「宝のあるところに心がある」と言われました。もし、宝が別々のところにあれば、そこから分裂が始まる可能性が出てきます。

 生まれも育ちも、性格も考え方も違う二人が、一体になるというのは現実的にはありえません。婚約中は「私たちみんな同じね」と言っていますが、それは互いに遠慮しているからです。しかし、1つ屋根の下で暮らすと、だんだん本音が出てきます。二人がクリスチャンであってもそうです。「なぜ、こんなに違うのか?」と驚くばかりです。しかし、それは神さまが与えた「驚くばかりの恵み」なのです。あとで「違うから良いんだ!」「違うから補い合うことができるんだ!」と感謝するようになるでしょう。でも、最初は角を突き合わせ、相手を変えようと頑張ります。そうするとだんだん二人の関係は悪化します。結婚したら、ぜひ諦めてください。相手を変えようとせず、相手を理解することにエネルギーを使いましょう。大川牧師が結婚式でよくおっしゃっています。「愛は寛容です」というⅠコリント13章のみことばがあります。しかし、ある英語の聖書にはLove is understandと書いてあるそうです。Understandは相手の下に立つという意味にもなります。ちょっと相手の下に立って考えてみると、「なるほどこういう家庭で育ったから、こういうふうに考えるんだろうな」と思いやりがうまれます。クリスチャンは新しく生まれた存在ですが、古い過去を背負っている場合があります。だから、understand理解が必要なのです。イエス様が最初になさった奇跡は何でしょう。結婚式で最も重要なぶどう酒が尽きてしまいました。そのときイエス様は何の変哲もない水をぶどう酒に変えました。料理頭は「あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」と言いました。イエス様は良いぶどう酒を取っておかれています。

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