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2017年6月 2日 (金)

無限大の赦し マタイ18:21-35 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.6.4

 マタイ18章全体を貫いている考えは、小さい者を躓かせないということです。15節には「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」ということが問われていました。いきなり公にするのではなく、当人同士から始めることを学びました。そして、最終的には教会が赦したりさばいたりする権威が与えられているということでした。今日のテキストでは、「では、何度まで赦すべきか」ということが問われています。私たちは人の罪を何度まで赦せるでしょうか?赦しの問題は健全な信仰生活を送る上でとても重要なテーマです。

1.兄弟姉妹間の罪

  

 なぜ「兄弟姉妹間の罪」なのでしょう?New International Versionには、my brother or sisterと書かれています。この聖書にはペテロは「兄弟姉妹が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきか」と書かれています。当時のユダヤ教では「三度までは赦しなさい」と言われていました。ペテロは思い切って「七度まででしょうか?」と聞きました。すると、イエス様は「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまで」と言われました。7は完全数ですが、770倍は490回ではなく、無限大と言う意味です。つまり、無限大の赦しを与えなさいということです。これにはペテロも驚いたことでしょう。イエス様はその後に、1万タラントを赦されたしもべのたとえを話されました。私たちはまず、ここで言われている罪がどのようなものなのかということを考える必要があります。少し前の15節で「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」という罪は、英語の聖書ではtrespass「道を踏み外す」とか「誤りを犯す」という意味でした。そして、21節の罪は、英語の聖書ではsinです。これは犯罪というよりも、宗教上、道徳上の罪です。たとえばコリント教会において問題にされていた罪は、性的な罪、分裂・分派、高慢でした。エペソ人への手紙4章には「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり、悪意」という罪のリストがあります。ですから、この世では罪にならなくても、教会の中では罪になるものがあるということです。J.Cライルの本には、「injuryの赦しが重要である」と書かれていました。Injuryというのは危害とか傷害です。さらには、感情・評判などを傷つけること、無礼、侮辱、悪口という意味があります。まさしく、教会で問われている一番の罪は、人間関係における罪であります。つまり、異教徒や未信者の罪ではなく、兄弟姉妹間の罪が問題にされているのです。

 この世では嫌な人や、気の合わない人がいたら離れれば良いでしょう。職場では「お金のためだから」と我慢するかもしれません。処世術と申しましょうか、場所や相手に合わせて、いくつかの仮面をかぶるかもしれません。しかし、神の教会、神の家族ではそうはいきません。私たちは神さまから多大な罪を赦され、聖霊によって生まれ変わった存在です。この人たちとは死んだ後も、天において永遠の交わりが続きます。聖書では「あなたの隣人を愛しなさい」と命じられています。「主の祈り」では「私たちの罪をお赦ください。私たちが彼らの罪を赦したように」と祈ります。教会では愛と赦しがとても強調されています。教会に続けて来られている人は、本当にこのことを守っている人か、あるいは仮面をかぶってごまかしている人です。まともな人であるなら、良心が咎められて、教会に集うことは不可能です。教会に来なくなる人がいますが、「もう愛せない、もう赦せない」という人が多いのではないでしょうか。それだけ、兄弟姉妹間における罪は、無視できないテーマだということです。

 確かにこの世では罪に定められないものが教会内では罪になりえます。でも、そのことを避けていたならば、私たちの心は癒されないばかりか、栄光の姿に変えられることもありません。この世では仮面をかぶりごまかして生きてきました。しかし、教会ではありのままで生きることを求められます。最初は「ありのままで良いんだ」と素顔で兄弟姉妹と接しようとします。しかし、相手もありのままなので、どうしても衝突してしまいます。教会は神の家族と言われますが、まさしく一般の家族と変わらないところがあります。一般の家族では本音を出し合うので、良く衝突します。でも、運命共同体なので、なんとか折り合いをつけることを学びます。教会は新しい神の家族です。私たちは罪を赦され、聖霊によって新しく生まれ変わりましたが、魂が完全に変わっていません。傷ついた部分もあれば、ゆがんでいるところもあります。では、どうやってそれを発見し、癒され、聖化されていくのでしょうか?神の家族です。神の家族がそうしてくれるのです。神の家族において嫌なことや傷つくことがあるでしょう?でも、私たちがそこで矯正され、訓練され、癒されていくのです。ですから、神の家族を離れて、クリスチャンとして成長することは不可能なのです。私たちの兄弟姉妹が私たちを聖化させてくださるのです。これは結婚における夫婦の関係と同じであります。箴言2717鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。どうぞ、私を研いでくれるご親切な兄弟姉妹に、ご親切な夫や妻に感謝をしましょう。

2. 1万タラントのたとえ

   

 イエス様は無限大の赦しの必要性を教えるために1つのたとえ話をされました。クリスチャンであるなら、このたとえ話をよく知っておられると思います。問題は「1万タラントを赦されたのは自分なんだ」という自覚が足りないことであります。多くの場合「自分が100デナリで、危害を加えたあいつが1万タラントなんだ」と逆に捉えてしまいます。これこそが私たちの肉であり、生まれつきの罪です。私たちは自分を被害者、相手を加害者にしてしまう構図から抜け出すことができません。ですから、私たちはこのたとえを上の空で聞くのではなく、心の深いところに留める必要があります。まず、1万タラントがどのくらいのお金なのか調べてみたいと思います。タラントは元来、金などの重さの単位でしたが、貨幣の額になりました。1タラントは6,000デナリ、6,000日分の賃金です。現在ですと6,000万円です。1万タラントだとそれに1万をかけるのですから、60,000,000万円(6千億円)です。昔は小さな国の国家予算に匹敵すると言われていました。11デナリを稼ぐとすると、16万4384年かかります。このしもべは、「どうかご猶予ください。そうすれば全部お支払いいたします」と言いましたが、それは不可能です。ロト・セブン6億円を1000回当てなければなりません。自分も妻子も持ち物を売って返済し、一生働いたとしても全く不可能です。マタイ1827「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」これは、父なる神さまのご性質を表しています。あとで説明しますが、神さまはあわれみに富むお方です。私たちがとうてい支払うことのできない罪の負債を気前良く免除してくださるお方なのです。

 そのしもべはどうしたでしょう? 100デナリ自分から借りていたしもべを赦すことができませんでした。彼の首を絞めて「借金を返せ」と言いました。彼はひれ伏して、「もう少しまってくれ。そうしたら返すから」と懇願しました。以前、自分が主人の前に言った同じことばを、しもべ仲間が言ったのです。普通だったら、自分のケースを思い出すはずです。しかし、彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れました。100デナリというのは、100日分の賃金ですから、今で言うと100万円です。さっきの60,000,000万円(6千億円)と比べたら、微々たるものです。それを「待ってくれ」と言われて、返すまで牢に投げ入れました。それを主人が聞きました。彼に何と言ったでしょう。「『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。」この主人とは、まさしく神さまのことです。神さまが私とあなたの負債、60,000,000万円(6千億円)を赦してくれたのです。ところが、兄弟姉妹の100万円を赦せないのです。神さまはどうおっしゃっているでしょうか?「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」この命令は、異教徒や未信者に与えられているのではありません。なぜなら、彼らは神さまの多大な赦しを得ていると思っていないからです。この命令は、イエス・キリストの十字架の贖いを信じている、私たちクリスチャンに語られている命令なのです。もし、このことを軽く捉えているなら、自分がどれくらい多大な罪を赦されているのか分からない人かもしれません。

 確かにそうです。イエス様を信じたとたん、罪の赦しを同時に受け取ることができます。救われるために今まで犯した1つ1つの罪を告白する必要はありません。自分が罪人であることを自覚して、神さまに赦しと救いを求めるだけで人は救われます。なぜなら、イエス・キリストが私たちの罪の負債をすべて支払ってくださったからです。でも、私たちがどれくらい多大な罪を赦されているのか知らされる時があります。それは自分が人の罪を赦すときであります。特に、赦されざる罪をその人が自分に犯した時です。しかも、一言も謝りません。罪も告白していません。「あんなにひどいことをして、私は決して赦せない」と憤慨します。その時、自分が多大な罪を赦された者であることをすっかり忘れています。自分は被害者であり、あいつは加害者、私に危害を加えた憎むべき敵であると考えます。でも、自分が救われたとき、神さまに謝ったでしょうか?謝っていないのに、神さまは私を赦してくださいました。今度は、私があの人の罪を決して赦せないと言っています。この時、人の罪を赦すということがいかに大変なことか分かります。人の罪を赦すと言うのは、こちら側が負債を負うということです。父なる神さまがイエス・キリストにあって負債を負ったのです。だから、私たちはただで赦されたのです。今度、私たちが人と罪を赦すときは、自分がその負債を負うしかありません。それが、100デナリを赦すということなのです。確かに1万タラントと比べたら微々たるものでしょう。でも、自分にとって100デナリは大きな負担であります。人を赦すときに一番重要なことは、1万タラントを赦されたしもべとして自分を見るかどうかということです。頭では分かるかもしれません。天秤の両脇に2つの皿があります。1つは1万タラント、自分が神さまから赦された量です。もう1つは100デナリ、相手が自分に犯した罪の量です。「…分かりました。赦します。喜んで赦します」と信仰によって言うのです。そうすると鈍い感情が、あとから「赦します」と言うのです。感情が来るまで待ってはいけません。「主のご命令だから赦します」と言うとき、感情があとからついてくるのです。感情には傷があり、痛みがあり、恥があり、怒りがあり、悔しさがあるでしょう。でも、信仰によって「赦します」と言うと、それらの傷が癒されていくのです。主のご命令に従うしか、心の癒しはやってきません。この世ではたくさんのカウンセリングがあります。多くの場合、相談する人は被害者になり、相手が加害者になります。カウンセラーはあなたの味方になって、被害者的な部分を癒してくれるかもしれません。でも、あなたが加害者を赦さない限り、完全に癒されることはありません。一番の問題は、主のご命令に対して、従順になるか、不従順になるかどちらかであります。自分の意思によって、赦すことを選び取るなら、本当の癒しと解放がやってくるでしょう。コロサイ3:13「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」

3.霊的な法則 

 もし、赦さないならどのようなことになるのでしょうか?このたとえには、霊的な法則が記されています。マタイ1834「こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」獄吏ということばは、日本人はピンとこないかもしれません。ギリシャ語では、「拷問役の奴隷」です。つまり、神さまご自身が苦しみに合わせるのではなく、拷問役に引き渡すということです。それは天使かもしれないし、悪霊かもしれません。その結果、肉体的あるいは精神的な病気になるかもしれません。J.Cライルは、「霊的な暗闇が魂を支配する」と書いています。そんなことが、いつまで続くのでしょうか?「借金を全部返すまで」です。11デナリだとすると、16万4384年かかります。その人はクリスチャンですから、永遠のいのちが与えられています。いつかは新しい天と新しい地に住むことができます。でも、16万4384年後です。先日、トルコに住むイスラム教の証を聞いたことがあります。彼らは5,000万年、地獄の責め苦を受けた後、やっと天国に行けると教えられているそうです。仏教では272獄を通過し、人間界の時間で16653億年を経たないと転生できないという教えがあるそうです。聖書によると、死後のさばきには2種類あって、白い御座のさばきという永遠のさばき、そして御国において闇に捨てられ、歯ぎりするというさばきがあります。前者には終わりがなく、後者には終わりがあります。簡単に言うと、聖書のことばをなめてかかってはいけないということです。「借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡す」ということは、真実でありそのまま受け止める必要があります。

チョー・ヨンギ師が書かれた『第四次元』という本から引用致します。あるとき、学校の教師が私に面会を求めたことがあります。彼女は校長という要職にありました。この婦人は、実は関節炎をわずらっていました。彼女は、病院と名のつくところはすべて渡り歩いて治療を受けましたが、その甲斐もなく病は直りませんでした。私は彼女の上に手を置くと、祈り、命じ、叫びました。渾身の力をこめてあれこれ手を尽くしましたが、神の御手は触れられませんでした。教会には、いやされた人が大勢いると言うのに、どうしたわけか彼女は癒しの恵みにあずかることができなかったのです。とうとう私も、彼女は癒されないものと半ばあきらめてしまっていました。そんなある日、聖霊が私に示してくださいました。「叫んだり、祈ったり、命じたりしてはならない。私は彼女の中に力を現わすことはできないでいる。癒しのいのちを流れ出すことができないでいる。その理由は、彼女が前夫を憎んでいるからだ。」私は、彼女が10年ほど前に離婚しているということを知っていました。そこで私は、座って祈りを待っていた彼女に、「姉妹よ、ご主人と別れなさい。」と言いました。彼女は、びっくりしたような顔で私を見つめていましたが、それから「牧師さま、どういう意味でしょうか。主人と別れる、ですって?わたくし、主人とは10年前に離婚しております。」「いいや、しておりません。」と、私ははっきりと答えました。「そんなこと、とんでもありません。主人と正式に離婚しております。」彼女が言い張りました。「ええ、それは、離婚をするには、したでしょうね。」私は念を押しました。「確かに、離婚されました、法律的にはね。でも、精神的には、どうでしょうか?心の中では、あなたは彼と決して離婚しておられないのです。あなたは来る日も来る日も夫を呪い、夫を憎んできました。心の中で、想いの中で、あなたはご主人と別れていないのです。心の中では、あなたは今でも、ご主人と一緒に暮らしておられます。そして、あなたが抱いているご主人に対する炎のような憎しみが、あなたの体を蝕み、あなたの骨を干上がらせているのです。この憎しみが邪魔をして、関節炎を治らせないようにしています。」少し長いので割愛しますが、彼女は反発しました。「結婚したのはいいけれど、仕事は何1つしないで、お金を湯水のように使い、自分を捨てて他の女と駆け落ちした、そんな人間をどうして愛せましょう」と言いました。激しい葛藤の中で涙しながら、ご主人を赦しました。そして最後に、ご主人を祝福しました。それからおよそ3か月後、この婦人の関節炎は完全に癒されたそうです。

 父なる神さまはどのようなお方でしょうか?マタイ18:27「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」と書いてあります。主人とはまさしく、父なる神さまのことであります。父なる神さまは「かわいそうに思って、彼を赦しました」。父なる神さまは、愛と赦しと憐みに富めるお方です。もし、私たちが救われて神の子となったならば、当然、父なる神さまのご性質を受け継いでいるはずです。これは「あなたも赦してあげなさい」という命令ではありません。自分の中に父なる神さまのご性質が宿っているならば、赦さないではおれなくなります。パウロはローマ5章で「私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神との平和を持っています」と言いました。さらに続けて、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と言われました。私たちの中には傷つけられた怨念の炎が燃えているかもしれません。しかし、そこに聖霊によって、神の愛が注がれたらどうなるのでしょう?自分の中に激しい葛藤、激しい嵐が生じるでしょう?どうしたら、神の愛の方が勝利するのでしょう。それは、私たちが聖霊に明け渡したときです。聖霊様が赦しという奇跡を起こしてくださいます。

コーリテン・ブームというホロコーストの生存者がいます。ユダヤ人をかくまった罪で一家十人が逮捕され、強制収容所に入れられました。他の人はみんな亡くなって、彼女だけが奇跡的に生き残りました。終戦後、彼女はオランダに戻り、リハビリ―センターを設立しました。1947年ミューヘンの教会に招かれました。彼女は「私たちが罪を告白するとき、神が深い海にそれらの罪を永遠に投げ入れます」とメッセージしました。人々は沈黙の中で立ち上がり、静かに部屋を去りました。しかし、罪を悔い改めて、講壇の前に来る人たちもいました。すると、忘れもしない男性が目の前に立ちました。この男は姉と彼女が裸で歩くのを見ていた強制収容所の看守でした。彼は手を差し出しながら、「すばらしいメッセージでした。あなたが言うように、私たちのすべての罪は海の底にあります」と言いました。赦しを話していた彼女の手は凍りついたように動きませんでした。彼は「私を赦して下さいますか」と聞きました。イエス様の声が聞こえました。「もしあなたが人の罪を赦さないならば、あなたの父も、あなたの罪を赦さないでしょう」。彼がそこに立っていた時間は数秒でしたが、最も困難なことに取り組んでいたので、数時間のようでした。赦しは感情ではなく、意志であることを知っていました。彼女は心の中で「助けて、私は手をあげることができます。あなたに感情をささげます」と祈りました。そして、木製のような手を機械のように差し出しました。すると、信じられないことが起こりました。肩から腕、腕から手に力が流れていきました。そして、癒しの暖かさが彼女の全身に溢れました。彼女は涙を流しがら、「兄弟、あなたを赦します」と言いました。長い間、元看守と元捕虜が握手をしていました。彼女は神の愛をこれ以上に知ったことがなかったそうです。神の愛が最も現されているのは赦しです。同時に、私たちが人の罪を赦すのも、愛がなければできません。でも、その愛は私たちが神の命令に従うときに、赦しという形で流れてくるのです。

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