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2017年5月26日 (金)

兄弟が罪を犯したなら マタイ18:15-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.5.28

 マタイによる福音書には「教会」ということばが16章に1回、そして18章に2回記されています。厳密には、イエス様の頃はまだ「教会」は存在していませんでした。しかし、やがて誕生するであろう「教会」のことを見越して、こういうことを守りなさいと教えているのだと思います。きょうのテーマは「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」です。ここで言われている「罪」というのは、「道を踏み外す」とか「誤りを犯す」という意味です。教会でおもに問題にされる罪は、ゴシップ、分裂分派、性的な罪です。刑事罰を受けるような犯罪でなく、共同体を破壊する罪が問題にされています。Ⅰヨハネ3章には「神から生まれた者は罪を犯しません。…罪を犯すことができないのです」と書かれています。ここで言われているのは、この世の人たちのことではなく、霊的に新しく生まれた人たちを対象にしています。もし、誤って罪を犯した場合、教会においてどのようなことが大切なのか教えられています。でも、このマタイ18章全体には「小さい者につまずきを与えない」というテーマが一貫して流れていることを忘れてはいけません。

1.愛と尊敬

 15節から17節まで、「もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、3つのステップを踏んで対処しなさい」と教えられています。なぜなら、3つのステップの根底には「愛と尊敬」があるからです。第一のステップとは何でしょう?「行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」と書かれています。すごいですね。被害を受けた人、あるいは傷を受けた人が、加害者のところに行くのです。そして、当人同士、二人でお話しをするということです。「責める」というギリシャ語は「納得させる、説得する、誤りを認めさせる」が第一の意味になっています。英語の詳訳聖書には「もし、あなたの兄弟があなたに悪いことをしたなら、行って、彼にその誤りを示しなさい。彼とプライベートに」と書かれています。日本人はいきなり第三者か公に訴えるところがあります。そうしますと、その人をひどく傷つけることになり、関係が壊れてしまいます。もし、プライベートであるならば、相手も身構えないで、言うことを聞いてくれるだろうということです。私は土木の現場監督をしていたので、ことばでたくさんの罪を犯しました。教会の姉妹方から「あなたのことばで傷つきました」と言われたことが沢山あります。その時はショックを受けましたが、おかげさまで大分、良くなったのではないかと思います。学校に行っていた頃はよく職員室に呼ばれたので「お話しがあります」と呼ばれると怖いです。でも、ここでは「来い」ではなく「行って」と書かれています。

 第二のステップは「ひとりかふたりを連れて行く」ということです。マタイ1816「もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。」「二人の証人、三人の証人」というのは、申命記19章に記されている律法です。なぜ、さらに「ひとりかふたり」なのでしょう?それは確認されるためです。英語の詳訳聖書には「確認し、支持するため」と書かれています。つまり、本人だけではなく、「ひとりかふたり」が「やっぱりそれは良くないことですよ」と一緒に言ってあげるということです。そうすると罪を犯した人は、「客観的にそうなのか?」と考えるようになります。それでも、「ひとりかふたり」が当人を責めているというニュアンスはありません。兄弟になんとかわかって欲しいという願いがあります。日本人はだれかその人よりも偉い人を連れて行く場合があります。その人は、恩があるので頭が上がらないために仕方なく聞くかもしれません。しかし、それだと力が加わりますので、できるだけ利害関係のない人が良いと思います。少し前に、森友学園のことが報じられていましたが、こじれにこじれていました。あそこまで行くと収集がつかなくなります。私たちは問題がこじれないように、第一と第二のステップを踏む必要があります。

 そして、第三のステップは教会に告げるということです。教会のだれなのか?現代は牧師と役員会、さらには会衆全体ということになります。噂話とかゴシップにならないように、公にすることが必要になります。マタイ1817「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」最終的には「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」と書かれています。しかし、このところに罰を与えるとか、除名するというような表現はありません。「異邦人か取税人」というのは、神さまを信じていない未信者のように扱えということです。ところが、ローマ・カトリックは教会の権威をふりかざして、「破門」や「宗教裁判」を発動してきました。カルヴァンの時もそうでしたが、国家権力と結びつくと神さまの領域を犯していることになります。そうなるとこの世の人に対して、良い証になりません。J.Cライルの本に、「破門こそは、その人が犯した罪よりももっと恐ろしい罪である」と書かれていました。また、教会では「戒規」と言って、陪餐停止処分を与えるところもあります。これは、しばらくは聖餐式に加わることができないということです。これに対しても、J.Cライルは「その人が悪くても、不敬虔であっても、主の食卓に来ることを禁じるべきではない」と書いていました。

 ダニー・シルクの『尊敬の文化』という本にこのようなことが書かれていました。神学生の二人が夏休み中、関係を持って女性が妊娠してしまいました。学校で教えている牧師は「二人を退学させるべきだろう」と考えていました。ダニー・シルク牧師は「とにかく二人に会って話し合いましょう」と提案しました。二人は執務室に入ってきても、目を合わせよとせず、うつむいたままでした。自分たちが仕出かした行為を恥じていることは明らかです。二人は処罰を受ける覚悟をしていました。シルク牧師は彼らと初めて会ったので、まず男子生徒からいきさつを説明してもらいました。最後に「もし今日、問題解決に時間をかけるとしたら、その問題とは何だろう」と言いました。男子生徒は「わかりません」と言いました。シルク牧師は「悔い改めたの?」と尋ねました。彼は「ええ、もちろん悔い改めました」と即答しました。「では、何を悔い改めたのかな」。しばらく沈黙が続いた後「わかりません」と言いました。「そうだよね。問題がそこだよね。何が問題なのか分かっていなければ悔い改められないよね」。彼は「はい、おっしゃるとおりです」と答えました。シルク牧師は自分の考えを言うのではなく、何を考えるべきだとも言うつもりはありませんでした。ただ彼に尋ねることによって、この若者に栄光と知恵と能力を見出すように導いていたのです。なぜなら、自分の失敗に対する恥のせいで、彼が本来の自己像を見失っていたからです。彼は蹴飛ばされて唾をかけられて当然の人間だと思っていました。指導者は彼に規則を守らせるための存在だと思っていました。しかし質問をしたことを通して、聖霊の助けのもと、彼は自分の生涯を一変させることになる解決方法を見出しました。物語は続きますが、彼と彼女は処罰とその恐れから自由になり、正しい悔い改めをし、結実に至りました。つまり、処罰を与えないで解決する方法があるということです。愛と尊敬は、その人から自己防衛を取り除き、真の悔い改めに導くことができます。Ⅱコリント710「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

2.霊的権威

   

 マタイ1818「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」同じようなことがマタイ16章にも書かれていました。「つなぐ」というのは、「禁じる」という意味です。また、「解く」というのは、「許す」という意味です。これは、イエス様が教会に対して、神さまの名代としてそのような権利を与えたということです。この18節のことばは、「もし、兄弟が罪を犯したなら」という文脈で考えるべきです。前のポイントを振り返りますと、当人同士で「わかった、ごめんなさい」と聞き入れたならば、それでOKです。でも、もし聞き入れないならひとりか二人を一緒に連れて行きます。そのとき、「ああ、そうだったんですね。ごめんなさい」と聞き入れたならば、それでOKです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げます。そのとき、聞き入れたならば、それでOKです。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、異邦人か取税人のように扱います。第一から第三までのステップの中で、「禁じる」とか「許す」という権威が行使されているということです。このように教会にはイエス様から霊的権威が与えられているのです。教会のかしらはイエス・キリストです。この方が最終的な権威者です。でも、イエス様は問題が愛と尊敬によって解決するように、私たちに権威を委譲しておられます。私たち自身に権威があるのではなく、イエス様からいただいているということです。私たちはこの霊的権威を軽んじてはいけません。

 霊的権威を軽んじてしまった教会の見本はコリント教会です。コリント教会は、教会内の罪をこの世の裁判所に訴えました。パウロはこう述べています。Ⅰコリント61-4「あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。」さらにパウロは「教会内の罪はあなたがたが解決しなさい。そもそも、互いに訴え合うことが、すでに敗北です」と言っています。残念ながら、教会の現状はこうではありません。教会内部の問題を全国の教会にばらまいたり、裁判所に訴えるということがたまにあります。また、教会のスキャンダルを集めて、ホームページに載せている牧師もいます。教会や牧師を訴えるというのは、まさにサタンの片棒をかついでいるようなものです。もちろん、教会が罪に直面せず、なかったことのようにするのは良くありません。ある場合は、刑事裁判になることもあるでしょう。でも、イエス様が教会に対して、禁じたり、許したりする権威を与えておられることを忘れてはいけません。イエス様は「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます」(ルカ1117でおっしゃいました。どちらが正しいとか間違いだとか、分からないことがあるでしょう。そのときは、パウロが言うように「むしろ不正を甘んじて受け、むしろだまされる方が良い」(Ⅰコリント67のです。なぜなら、最終的にさばくのはイエス様だからです。

 ジャン・バルジャンは司教の好意を裏切って、銀の食器を盗みました。その後、警察に捕えられ、神父のもとに連れてこられました。警察官は「この銀の食器はあなたのものでしょう?」と袋から出して言いました。すると司教は、「これは彼に差し上げたものです。燭台もあげたのにどうして持っていかなかったのか」と強い口調で言いました。ジャン・バルジャンの人生は、そのことによって変わりました。ジャン・バルジャンの心がなぜすさんでしまったのでしょう?彼は腹をすかせた甥と姪のために、パンを盗んで逮捕され5年もの刑を宣告されました。犯した罪に比べて罰の重すぎることから、社会に疑念を抱き社会を憎むようになったのです。何度か脱獄を試みましたが、そのたびに失敗し刑期が数年ずつ伸び、その結果19年も刑務所で過ごすことになってしまいました。警察官が去った後、司教は「どうか真人間になるためにその銀の品々を使ってください」と言いました。ジャン・バルジャンは、この出来事の後、マドレーヌと名乗るようになり、市長となります。でも、この物語はさらに続きます。実はジャン・バルジャンは燭台だけは売らないで死ぬまで取っておきました。私は「レ・ミゼラブル」のような可哀そうな物語とか映画はとても苦手です。自分の過去のみじめな人生とシンクロするからです。でも、言えることは人間は変わるということです。『愛、赦し、受け入れ』という本をだれかが書きました。人の罪をあばいてさばくことは検察官がやることです。それを教会でやるなら、イエス様がどれほど悲しむでしょうか?教会は時として悪魔の片棒を担いで、兄弟を告発することがあります。教会はイエス様から与えられた権威を、人を生かすために用いるべきです。マタイ1818「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」

3.主の介入 

  

 マタイ1819-20「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」19節と20節のみことばはとても有名でよく引用される箇所でもあります。でも、私たちは文脈からこのみことばを理解しなければなりません。15節には「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」と書いてありました。そして3つのステップを踏んでその兄弟を諭すことが語られていました。18節には教会には禁じたり赦したりする霊的権威が与えられていると書いてありました。その後に、心を合わせた祈りの必要性とその効果が記されています。つまり、罪を犯してしまった兄弟のためにとりなしている祈りと考えられます。当人で行って諭したけどダメだった。他の人を連れて諭したけどダメだった。最後に教会に告げ出んだけどダメだった。彼は異邦人か取税人のように扱われてしまう。こういう一連の出来事の背後で「正しいさばきがなされるように、また聖霊によってその人が悔い改めるように」と心を合わせて祈っているのです。そこにイエス様が臨在されて、その問題を解決してくださるということです。このようなことは教会の外ではなされません。また、この世の人たちは、祈りの力ということを信じていないでしょう。でも、心を合わせた祈りは最も力あるわざなのです。説得もある場合は効果があるかもしれません。人は人を変えることはでません。やはり神の霊がその人に臨んで、変えて下さるように祈るのが一番なのです。ですから一見、力がなさそうでも、心を合わせた祈りは最も大きな効力を発するのです。

 私たちはこの箇所から心を合わせた祈りがどんなに効果があるか、もう一度知る必要があります。私たちは大勢の人たちが集まって祈れば、もっと効果が現れるだろうと思ってしまいます。しかし、このところでは、「ふたりでも三人でも良いのだ」と書かれています。イエス様は弟子たちを伝道旅行に派遣したことが何度かあります。その時、彼らを二人一組で遣わしました。二人というのはとても良いと伝道者の書に書かれています。一人が倒れたら、もう一人が助け起こすことができるからです。また、二人が良いのは共に祈ることができるからです。これは夫婦の祈りでも言えますし、兄弟姉妹の祈りでもそうです。19節には「まことに告げます。…もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」と約束されています。「どんな事でも」と言われています。ですから、どんなことでも父なる神がかなえてくださるのです。「まことに」と言われていますので、私たちは額面通り受け止めるべきです。そもそも、この二人とは一体だれなのでしょうか?私は、罪を犯した兄弟とその人のところに行った兄弟(姉妹)だと思います。ふたりだけのところで責めたわけですが、そのとき、二人が心を合わせて祈ったら、すばらしい和解が生まれるでしょう。でも、うまくいかないときがあります。それで、他にひとりかふたりをいっしょに連れて行きました。そこには、罪を犯した兄弟の他に二人か三人います。すべての事実が確認されました。そのときのことが20節ではないでしょうか?「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」なぜなら、ふたりから急に三人になっているからです。一緒に祈っているところにイエスさまが来られ、悔い改めとすばらしい和解をもたらしてくれたら何と幸いでしょう。

 教会では何かをするとき必ず祈ります。最後も祈る場合もあります。祈って初め、祈って終わる、すばらしい習慣だと思います。私の経験によると、会議など長引く場合は、途中、神さまの導きを求めてみんなで祈ったらもっと良いと思います。私は関東のセルチャーチネットワークに、15年くらい携わってきました。次の集会で何をするのか、56人集まって協議します。1時間くらいやっても、なかなか決まりません。そのとき、「では一緒に祈りましょう」と勧めます。3分くらい祈ります。すると、何かが降りてくるというのは、変な言い方ですが、パーッとテーマが浮かんできます。もう、10分もかからないですべてのプログラムが完成します。これは奇跡です。関東のセルではこのことを何度も体験しました。流山に三浦先生というとてもまじめな牧師がいらっしゃいます。彼は、平日アルバイトをしていますので、仕事を休んで打ち合わせに来ます。私は彼のことをねぎらって、「仕事を休んで打ち合わせ会に来るのは割に合わないでしょう」と言ったことがあります。そうすると三浦先生は、「いや、これが一番、勉強になります。私は先生方から色んな事を教えられてきました。とても感謝です」という言葉が返ってきました。そうなんですね。日本の教会が置かれている厳しい状態から始めますので、どうしても否定的です。あれもやったけどダメだった、これもやったけどダメだった。何をしようか?でも、目をつぶって一緒に祈ると、天が開けて何かがパーッと降りてきます。では、私たちが祈る前に天がふさがれていたのでしょうか?そうではありません。天は開いていたのですが、私たちの心が閉じていたのです。

 最後に「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」とはどういう意味でしょう?これは主がそこに臨在されるということです。神さまは霊ですから、どこにもおられます。これを偏在といいます。では偏在と臨在はどこが違うのでしょうか?臨在とは神さまがそこにおられるだけではありません。神さまが臨在されるところには、奇跡や癒し、救いのみわざが起こるということです。問題の解決、特別な啓示、聖霊の力が与えられるということです。教会は人数の多さではありません。もちろん多いことに越したことはありません。教会の真骨頂は、ふたりでも三人でも、主の名において集まり、心を合わせて祈ることです。二人でも地上で心を合わせて祈るなら、どんなことでも天の父がかなえて下さるからです。

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2017年5月19日 (金)

天国で一番偉い人 マタイ18:1-9 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.5.21

 マタイ181節には、「そのとき」と書いてあります。「そのとき」とはいつなのでしょうか?マタイは省略していますが、背後には二つの出来事があることがわかります。第一はマルコ9章に書いてありますが、弟子たちが、カペナウムに行くまで、道々、だれが一番偉いか論じ合っていた時です。第二はマルコ10章に書いてありますが、人々が子どもたちを連れて、イエス様のところにやって来た時です。

1.子どもから学ぶ

 弟子たちはイエス様が十字架にかかる直前まで、だれが一番偉いか論じ合っていました。彼らはイエスさまがイスラエルを建国したとき王様になると信じていました。そのときだれが、イエス様の右に座るか、だれが左に座るか論じていたのです。彼らの思いは地上にありましたが、イエス様は天の御国ではどうなのかということを教えられました。そして、小さなこどもを呼び寄せ、弟子たち真ん中に立たせてこのように言われました。マタイ183「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」これは、だれが偉いかということではありません。「どのようにならなければ天の御国に入れないのか」という救いの問題を扱っています。イエス様は小さな子どもを立たせ、「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」と言われました。「悔い改める」とは必ずしも罪を悔い改めるという意味ではありません。ギリシャ語では「変える」「向きを変える」という意味のことばです。大人である弟子たちに、「子どもの身になって考えよ」と言うことです。でも、「子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には入れない」とはどういうことでしょう?子どもは大人よりも何かがすぐれているということでしょうか?子どもの特性、子どもの状態、子どもの態度、いろいろ考えられます。子どものときは持っていて、だんだん大人になると失うものは何でしょう?まるで、なぞなぞみたいです。

 子どもは疑うことをしません。「あげるよ」と言ったら、すぐ手を出します。しかし、大人は「あげるよ」と言われても疑ったり、プライドが邪魔したりして簡単に受け取りません。もし、天国が無代価のプレゼントだとしたどうでしょう?大人は「私にも何かやらせてくれ。良い行いでも、修養でも何でもするから」と言うかもしれません。こちらも何かすれば、救われる気がするからです。救われるために、何もしないというのは、かえって怪しいと思うでしょう。その点、子どもは良い行いはできないし、修養も無理です。子どもの特性は、単純に信頼するということです。でも、その子どもが大きくなるにつれて、裏切られたり、だまされたりするのです。大人になるとすっかり疑い深くなり、「簡単にはだまされないぞ!」みたいになります。そういう意味で、大人が子どものようになるというのは大変なことです。これらのことから考えますと、天の御国に入るということは、単純に信頼するということではないでしょうか?だからイエス様は「悔い改めて子どもたちのようにならない限り」とおっしゃったのです。

キリスト教では信じて救われることを「回心」と言います。英語ではconvictionと言いますが、存在をかけるような決心であります。これまでの古い考えや疑いを捨てて、子どものようになって、信じるのですから、大変な作業だと思います。日本では「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言いますが、それに似たものがあります。だから、神さまを信じるのは大人になってからではなく、子どものときが一番良いのです。アメリカでは3歳のとき信じたという人がザラにいます。日本では中学卒業してからとか言いますが、反抗期になってチャンスを失ってしまいます。10代から30までは遊びで忙しいです。30代から50までは子育てや仕事が忙しいです。50代以降は自分の考えが固まって無理であります。80歳になって少々ぼけて子どものようになれば再びチャンスが来るでしょう。このように大人が子どものように単純に信じるというのは大変です。だから、イエス様は山上の説教で、心の貧しい者や悲しむ者が幸いだと言われたのです。人生に何か危機的なことが起らないと、神さまを求めるようにならないからです。イエス様は「悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」と言われました。アーメンです。子どものように神さまを信頼する心を持ちたいと思います。

 もう1つの子どもから学ぶべきことは謙遜さです。マタイ184-5「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」弟子たちはこの世の価値観で頭がいっぱいでした。この世では、権威や権力がものを言います。学歴や資格、職業やスティタス、財産やお金、リーダーシップやカリスマ性、こういうものがあれば偉くなれると思っていたでしょう。それに比べると、小さな子どもにはそういうものが何一つありません。小さな子どもには学歴や資格、財産やお金、何の立場も影響力もありません。でも、小さな子どもが持っているものがあります。それは謙遜さです。子どもは謙遜でありたいと別に思っていません。存在、そのものが謙遜なのです。聖書の「自分を低くする」とは、原文では「低くなる、卑しくする、へりくだる」で、英語ではhumbleであります。大人になるといろんなものを身に着けるので、高く、そして大きくなります。何もなくてもプライドだけは大きいという人もいます。この世の中では、権威や権力、学歴や資格、職業やスティタス、財産やお金、リーダーシップやカリスマ性、みなすばらしいものです。でも、それらを持っていることが天の御国で偉い人なのかというとそうではないということです。天の御国はこの世と全く逆であり、何も持っていないような子どもの方が一番偉いんだということです。

 でも、聖書は、権威や権力、学歴や資格、職業やスティタス、財産やお金、リーダーシップやカリスマ性を不要であるとは言っていません。ただ、天の御国では、邪魔になるということです。なぜなら、神さまではなく、自分を誇るからです。その人は「これらはみんな私が努力して獲得したものなんだ」と思っています。でも、イエス様は「この子どものように、自分を低くする者が天の御国で一番偉い人です」と言われました。子どもは自分の意思で自分を低くしているようには思えません。なぜなら、初めから持っていないので自分を誇ることはできません。でも、大人になって、いろんな物を持てば持つほど、自分を誇るようになります。だから、意思をもって自分を低くする必要があります。ここでも、「悔い改めて子どもたちのように」ならなければなりません。しかし、それはどういうことでしょう?どうやったら子どものように謙遜になれるのでしょうか?もし、自分が持っているすべてのものを、たとえそれが努力して勝ちえたものであっても、神さまの恵みであると考えたらどうでしょう?健康な体も、頭脳明晰も、リーダーシップや能力も、お金や財産も、地位や名誉もすべて神さまが与えてくださったのではないでしょうか?つまり、所有者は神さまで、私はそれを預かって管理しているのに過ぎないと言うことです。ルカ12章に「ある金持ち」のたとえ話が記されています。彼の畑が豊作でさらに倉を建てて、穀物や財産をみなしまっておこうと思いました。そして自分のたましいに「何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言いました。しかし、神さまは彼に言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜、お前から取り去られる。そうしたなら、お前が用意したものは一体だれのものになるのか」(ルカ1216-20)。このたとえから分かるように、私たちが持っているすべてのもの神さまから任せられたものだということです。その証拠として、神さまが取り上げられたら一瞬にして何もかもなくなります。健康な体も、頭脳明晰さも、お金や財産も、地位も名誉も一瞬にしてなくなります。

 ですから、この世でどんな大きな者であったとしても、謙遜さを忘れてはいけません。自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人なのです。イエス様はその最大の模範です。ピリピ2章にありますが、神であることを固守しないで、ご自分を無にして、人間と同じようになられました。自分を卑しくし、死にまで従い、十字架の死までも従われました。それゆえ神は、イエス様を高くあげて、すべてにまさる名をお与えになりました。天の御国はこの地上とは全く逆であります。自らを低くする者が、天では高い者とされるのです。ヤコブ46「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」と書かれています。私たちは高ぶるためには努力がいりません。肉は高ぶるものであり、自然に「これは私がやったんだ」と誇りたがります。でも、へりくだるためには努力が必要です。人に受け入れられるための、見せかけでは長続きしません。この世では謙遜さを装って生きるのが処世術になっています。しかし、神さまは私たちの心を見ておられます。まず、神さまの前に謙遜であるということです。そのためには、何がすばらしいことをしたとしても、すべての栄光を主にお返ししましょう。3日間くらい、自分がやったんだと温めておきたい気持ちはわかります。でも、高められることがあったら即座に、主に栄光をお返ししましょう。そうするならば、神さまは私たちを引き上げ、次回も私たちを用いてくださるでしょう。天の御国で高められるように、子どものように、自分を低くする者でありたいと思います。

2.つまずきを与えない

 マタイ186-7「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。」文脈から考えますと、「この小さい者」というのは、「小さい子ども」のことであります。第一のポイントでは子どもの特徴をいくつかあげました。子どもは大人と違って、何も持っていません。お金も、地位も、能力もありません。もちろん、内部には神さまの種がやどっており、いろんな可能性があります。でも、小さな子どもを見たなら、現時点では何もありません。当然、大人の目から見たらなら、無価値で何もできないと思われ、卑下されるでしょう。イエス様の時代はローマが支配していました。ローマでは子どもの存在は全く認められていませんでした。女の子は兵士になれないので、特にそうでした。一方、ヘブルの世界では、子どもは神さまからの賜物であるという考え(詩篇1273)がありましたので、ある程度の存在価値は認められていたと思います。では、なぜ小さい者たち、小さな子どもたちにつまずきを与えてはいけないのでしょうか?ここで言う「つまずかせる」は、英語の聖書ではoffendとなっています。これは、「人の感情を害する、立腹させる、傷つける、そこなう」という意味があります。第一のポンとでは子どもは単純に信頼する特性があると申し上げました。これは、子どもは神さまを信じやすいということでもあります。だから、イエス様は「子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」とおっしゃったのであります。

 でも、そういう純粋な子どもをつまずかせるというのは、どういうことなんでしょう。裏返しに言うなら、「簡単に信頼してはいけない」あるいは「人は何かを身に着けなければ価値がないんだ」とことばや行いによって教えるということです。直接的には、子どもを虐待したり、嘘をついたり、裏切って悲しい思いをさせるということです。そういう子どもが大人になったらどうなるでしょう?簡単に神さまを信じることができません。もう何べんも裏切られていますから、神さまにゆだねることは不可能です。もし、その子が無条件に愛されていなかったならどうでしょう?「良い子にならなければ」「学校の成績が良くなければ」「親の言うことを聞かなければ」そうなると、無条件の愛ということが分かりません。たとえイエス様を信じることができたとしても、パフォーマンスで生きるでしょう。神さまの愛を得るために、一生懸命がんばって奉仕する信仰生活になるでしょう。使徒パウロは子どもに「あなたの父と母を敬え」と教えています。しかし、「父たちよ。あなたがたも、子どもたちをおこらせてはいけません」とも教えています。「おこらせる」ということばは、もともと「刺激する」ということばから来ています。英語の聖書ではprovokeとなっていますが、「挑発する、誘発する」という意味もあります。動物園に行くと、子どもたちが、わざとお猿さんをおこらせたりします。お猿さんは「キー」とか言って、向かってきます。子どもも同じで、親や大人が、おこらせてしまうことがあるということです。しつけのために、叱ったり、訓戒することは確かに必要ですが、子どもの存在とか尊厳を傷つけたら致命傷になるということです。たとえば子どもが嘘をついたとします。すると親は「お前は噓つきだ、もう信用できない」と言ったらどうでしょう。嘘はだれでもつきますが、「噓つき」はその人自体の呼び名になっています。たとえば子どもに汚いと言うなら、それは服か体が汚れているのです。しかし、「お前は汚い」と言うなら、子どもは自分自身が汚いんだと誤解してしまうでしょう。

 私はスーパーによく買い物に行きます。お母さんとコミュニケーションを取りながら、仲良く買い物をしている子どもを見るとほっとします。「これ良いね、これにする」と相談しながら、買っています。やっぱり子どもなので、何か欲しい時があるでしょう。お母さんはこどもの要求を聞きながら、検討しています。時には、「自分で棚に戻しなさいね」と教えています。「はーい」とか言って、喜んで聞いています。ところが、頭ごなしに叱っている母親がいます。ときには、父親もいます。子どもは大きな声えで叫び何かを主張しています。親はさらにきつく言うか、あるいはまったく無視します。店の中だけでなく、店を出てからもやっています。そういう光景を見ると、とっても心が痛みます。なぜかと言うと、私がそうだったからです。子どもがなきじゃくっていると、「ああ、私もそうだったなー」と思い出します。おそらく、パニック障害的になり呼吸困難になるでしょう。そこまで泣いたら、けっこう傷になります。現代はいろんなパーソナリティ障害がありますが、多くの場合、親から愛されず、極度の虐待を受けたことが原因だと思います。もう、感情が一度噴き出ると、とまらなくなるのです。まるで、手足を切ったところから血が止まらないのと同じです。血には血小板があるので、空気中に触れると凝固して血が止まります。でも、怒りや悲しみの感情が噴き出て、もう止まらないのです。親は、罪や悪いことと、子ども自身を分ける必要があります。叱ったり、正すことは悪くはありませんが、あとでぎゅっと抱きしめる必要があります。「罪は別だけど、あなたのことは愛しているよ」と具体的に現して教えるべきです。日本人は思っていても、口や行動に出さないので、子どもに通じていないことがあります。それが親から子へ世代間連鎖して、子どもも親になったら同じことをするのです。私たちは自分がクリスチャンになったら、負の連鎖を断ち切る必要があります。自分の後からは、神さまの無条件の愛によって生かされる子どもや孫になるんだと信じましょう。

 最後におそろしいことばがあります。マタイ188-9「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」クリスチャンでも「地獄はないと思う」という人がたまにおられます。しかし、このところには「永遠の火」とか「燃えるゲヘナ」とはっきり書いてあります。これは黙示録20章にある「火の池」のことであり、まさしく地獄であります。永遠の滅び、地獄はあるのです。イエス様は「そこになんとか行くことのないように」と教えておられるのです。少し前は、子どもをつまずかせるなという教えでした。しかし、8節と9節は、自分自身をつまずかせるなということです。本来なら、自分の手や足、あるいは目というのは自分と一体なわけですから、「あなたをつまずかせるなら」というのは理屈に合いません。もし、私たちが霊と魂と肉体でできていると考えたならどうでしょう?イエス様は「両手両足そろって」とか「両目そろって」地獄に行くよりも、とおっしゃっています。ということは、この肉体はたとえ片手片足、あるいは片目であっても天の御国では関係ないということです。つまりは霊と魂が天の御国に入れば、あとから栄光のからだがちゃんと与えられるということです。片手片足あるいは片目を惜しんだために、永遠の御国を失ったらもったいない。片手片足あるいは片目を失っても、かけがえのない永遠の御国に入るようにという教えであります。

 この教会の創設者の役員の一人に鳥海力兄弟がおられました。5年くらい前に天に召され、土浦の神立というところに葬儀にでかけました。その時、牧師が兄弟のお話しをされました。鳥海兄は高校を卒業して亀有の日立工場に入社しました。19歳のとき機械に右腕が挟まれて、その腕を失ってしまいました。そういう中で、近くの当亀有教会を訪れたわけです。おそらく、若い時なので片腕がないというのはものすごく大きな悲しみだったでしょう。鳥海兄はイエス様を信じて救われました。そして、忠実に信仰生活を送り、なおかつ当亀有教会の創設や会堂の建設にも尊い働きをされました。葬儀で鳥海兄の証が紹介されました。「僕は19歳で右腕を失いました。聖書の『あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろって永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとって良いことです』ということばは私のためだと思いました。もしも、私に両腕があったなら、若い私は誘惑に負けて、教会に来てイエス様を信じなかったと思います。右腕を失っても、永遠のいのちを得られたことを感謝します」という強烈な証でした。私たちはイエスさまのところに来るために、ひょっとしたら何かを失ったかもしれません。自分のからだ、自分の夢、自分の結婚、自分の職業、自分の持ち物、そのときはかけがえのないもの、これを失ったら生きていけないと思ったかもしれません。しかし、あとから振り返ると、「ああ、あれで良かったんだ」と思うことが良くあります。「天の御国に入り、永遠のいのちがいただけたんだから元を取っているなー」と喜びが湧き上がってきます。でも、それだけではありません。「この地上でも、十分いただいているな、報われているなー」と思うのではないでしょうか?確かに自分の願うものではなかったけど、もっと良いものであったということはないでしょうか?詩篇1033-5「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」「あなたの若さは、鷲のように、新しくなる」はキリストによって与えられる新しいいのちであり、天の御国における永遠のいのちであると思います。

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2017年5月12日 (金)

イエス様のご配慮 マタイ17:22-27 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.5.14

 本日のテキストには、イエス様の二度目の十字架の死と復活の告知が記されています。イエス様はエルサレムに顔を向けて歩まれていましたので、とても緊張しておられたのではないでしょうか?そのような状況で、些細な問題が生じた場合、無視するか、「私には関係ないことだ」と一喝することもありえます。しかし、イエス様は役人たちを躓かせないため、不思議な方法で税金を納めました。きょうの箇所は飛ばしても良さそうな些細な内容かもしれませんが、「イエス様のご配慮」と題して学びたいと思います。 

1.イエス様のご配慮  

  

カペナウム、そこはペテロの家があったであろうと思います。そこに宮(神殿)の納入金を集める人たちがやってきました。出エジプト記30章には、「成人男性は、聖所のため半シェケルを奉納物として納めるように」と書かれています。当時もそのような宗教的な税金がローマの税金とは別に課せられていました。ペテロはお役人に「納めます」と即座に答えました。「あなたがたの先生は納めないのですか?」と聞かれたのに、ペテロはイエス様に相談もせずに答えてしまいました。イエス様はその会話を超自然的に聞かれ、イエス様の方からペテロにこう言い出されました。「シモン。どう思いますか?世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか。それともほかの人たちからですか」。ペテロは「ほかの人たちからです」と答えました。すると、イエス様は「では、子どもたちにはその義務がないのです」と言われました。今はそうではありませんが、昔はペルシヤやギリシャ、ローマなどの王国がありました。王様は国々を支配し、人々から税や貢を取り立てていました。また、王様にはロイヤルファミリーと言いましょうか、子どもたちがいました。イエス様はペテロに「世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか」と聞かれました。当然、子どもたちである王子や王女はその義務はありません。王様から支配されている領民が納めるべきであります。

では、イエス様がこのところでおっしゃっている意味は何なのでしょうか?イエス様は御国の王様です。でも、今のところナザレのイエスとしてこの地上に住んでいます。本来は、ご自分と父なる神は、すべての支配者であり王であります。ですから、当然、宮(神殿)の納入金を納める必要はありません。でも、このところで学ぶべきことがあります。イエス様はスタテル銀貨によって、二人分の税金を納めました。スタテルはシェケルのギリシャ語の呼び方です。ですから、1スタテルは、1シェケルです。つまり、イエス様とペテロの二人分になるわけです。イエス様はどうして、ご自分の分とペテロの分を払うように言われたのでしょうか?その前に、イエス様は「では、子どもたちはその義務はないのです」とおっしゃっていました。イエス様は神であり、王ですから、もちろんその義務はありません。では、「子どもたち」とはだれなのでしょう?ペテロがその一人であります。ペテロも王子であり、ロイヤルファミリーの一人です。だから、イエス様は彼らをつまずかせないために二人分を納めるように命じたのです。すばらしいではないでしょうか?イエス様はペテロを王様の子どもとしてお認めになっておられたということです。

 イエス様は「私は神の子であり、王であるから納める必要はない」と真正面から断ることができました。「しかし、彼らにつまずきを与えないために」と言われ、二人分の税を納めました。「つまずき」と訳されていることばは、「不快にさせる、怒らせる、傷つける」という意味であります。おそらく、宮の税金を集める役人たちは、イエス様がだれであるか分からなかったでしょう?また、イエス様がご自分の身分を証しても信じないでしょう。彼らがやっていることは善なることでした。ですから、イエス様はご自分の権利を主張せず、彼らに譲歩されたのです。使徒パウロもⅠコリント9章で「私たちには飲み食いする権利がないのでしょうか」とコリントの教会に言っています。使徒たちは福音を伝え、教会を設立しているのですから、教会が使徒たちをささえるのが当然です。しかし、コリント教会の人たちは、パウロの使徒性を認めませんでした。そのため、パウロは「自分の権利を十分に用いない」(Ⅰコリント918と決めました。パウロはさらにこのように言いました。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。」(Ⅰコリント919-20
パウロは福音につまずく人が起こらないように、自分の権利を主張しないで、そういう人々に対して配慮されたのです。私たちはイエス様やパウロからいくつか学ぶことがあります。

 私たちは霊的には神の子どもであり、王子、王女です。でも、外見はこの地上では一般人と何ら変わりありません。税金も納めるし、この世の法律にも従わなければなりません。今の教会の車がまだ買って間もない頃のことです。家内からグレープジュースを頼まれて、生協に寄ろうとしました。左側にアパートの工事車両が止まっていました。さらに、目の前を年配の婦人が歩いていました。私は右側ぎりぎりを通りながら、生協の駐車場に入るために右折しました。するとバリバリバリとものすごい音がしました。なんと、右側に駐車場の黄色い鉄柱があるのが見えなかったのです。それが車の側面全部に当たったのです。私は駐車場に頭をかかえしゃがみ込みました。まもなく、生協の店長が出てきて、私の車ではなく黄色い鉄柱を見ているんです。そして、塗料がはがれた鉄柱を弁償してくれと言いました。私は「何であんなところに鉄柱が立っているんだ。鉄柱ではなく、車をぶっつけて困っている私のことを心配すべきだろう」と憤慨しました。あとから、電話で鉄柱の塗装代3万円の請求がきました。私は店長に、「それは高すぎる。私だって自分の車の修理が何十万円もかかるんだ。私が塗装業者に外注して元通りするから」と言いました。すると、店長は生協の規約でそれはできないと言いました。かっと来た私は「生協はキリスト教の賀川豊彦師が作ったんだ。私は教会の牧師だ。私が責任を取ると言っているんだ。」と言いました。それから私は夜な夜な出かけ、鉄柱を磨いて黄色いスプレーで塗装しました。数日後、店長と業者が立ち会って、「これなら良いでしょう」と言ってくれました。後から、その鉄柱はトラックがひっかけたのか、根本からグニャっと曲がっていました。その後、生協側は鉄柱を根元取り去りました。悔しいですが、私が的はずれだったのかもしれません。創設者の賀川豊彦先生のこと、私が教会の牧師であることを言っても、全く効果がありませんでした。

 私たちクリスチャンは王子であり王女です。イエス様が王であり、私たちはロイヤルファミリーです。しかし、日常生活の中で「それが何なんなんだ」と思わされることがあります。世の人たちと同じものを食べ、同じように通勤通学し、同じように医者にかかったりします。その中で、福音につまずく人が起こらないように、自分の権利を主張しないで生きているのでしょうか?教会に色んなセールスの電話がかかっています。また、セールスマンも訪ねて来ます。昔は丁寧に相手をして、電話会社、電気、印刷機、コピー機、その度に変えました。今は、はっきり断るようにしています。「あれでも牧師か、教会か?」と、かなりの人たちをつまずかせているんじゃないかと思います。みなさんの中にも聖書を読んで祈っているときは良いけど、いざ、職場に行くと別人になっているということはないでしょうか?「なめられちゃいけない」と、強気に出ることはないでしょうか?この世では「営業スマイル」とか「営業トーク」というのがあります。私たちクリスチャンは、「信仰スマイル」とか「信仰トーク」をしてはいけません。訪問伝道している異端の人たちは、物越しが柔らかくて、何を言っても怒りません。表面を繕っているのは間違いないのですが、私たちは内側から柔和でありたいです。そして、イエス様のような配慮をもって接したらどんなにすばらしいでしょうか?パウロは「弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」(Ⅰコリント922そのようになるためには、よっぽど自分の中にしっかりとした信仰がなければならないと思います。どうしたら、信仰的なゆとりが生まれるのでしょうか?やはり王なるイエス様と一緒に生活しているという信仰が必要です。ペテロは深く考えずに「納めます」と言いました。でも、お金を出してくれたのは、イエス様でした。しかも、釣った魚にあった銀貨からでした。イエス様は何もないところから、出してくれるお方でした。イエス様は全世界の支配者であり、大きなことから小さなことまで、ちゃんと配慮してくださいます。そういうお方とどんなときも一緒なんだという意識と信仰が大事だと思います。日曜学校の賛美に「祈ってごらんよ」という歌があります。「小川のほとりでも、人ごみの中でも、広い世界のどこにいても、ほんとの神さまは、今も生きておられお祈りに答えてくださる」のです。アーメン。

2.イエス様の不思議な力

 何気ないような物語ですが、このところにイエス様の超自然的な力が2つ現されています。まず、第一にイエス様はその場にいなかったのに、ペテロと役人たちの会話を知っていました。マタイ1725家に入ると、先にイエスの方からこう言いだされた。「シモン、どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか」と書いてあります。おそらく、ペテロと役人たちは家の外にいて、イエス様は家の中にいたのでしょう?イエス様のような超自然的な能力を聖書では「知識」の賜物と呼んでいます。たとえば、ヨハネ4章にはサマリヤの女性の記事があります。イエス様は彼女から何の情報も得ていないのに、「あなたには夫が五人あったが、今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではないからです」と言いました。それで彼女は「先生。あなたは預言者だと思います」と信じました。また、マルコ2章に、一人の中風の人を四人の友人が運んできた記事あります。イエス様が「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。その場にいた律法学者たちが、心の中で「この人は神を汚している。神しか赦すことができない」と思いました。マルコ28彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか」。これも知識であります。預言者エリシャもこの賜物があったのでアラム王は彼を非常に恐れました。Ⅱ列王記612すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」そのため、アラムの王は、預言者エリシャ一人を倒すべく、馬と戦車と大軍を送りました。

 私は神学校でヨハネ4章から個人伝道について学んだことがあります。教師は「イエス様は日常的な井戸水を話題にして伝道を始められた」と教えてくれました。しかし、イエス様が知識の賜物を使って彼女の過去を言い当てたとは習いませんでした。イエス様はずるいです。超自然的な知識の賜物を用いて伝道したのですから。しかし、逆に言えば、神学校で習う個人伝道が間違っていたのかもしれません。なぜなら、御霊の賜物を使わないで伝道しているからです。もし、預言や知識、知恵、さらに他の賜物を用いたならば、効果的な伝道ができるのではないでしょうか?私たちの伝道があまりにも人間的で地上的なので結果がかんばしくありません。ヨハネ1章にありますが、ナタナエルは「ナザレから何の良い者が出るだろう」とピリポの言うことを信じませんでした。ところが、イエス様が「私は、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」と言いました。すると、ナタナエルは「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と告白しました。時間的には数分、10分かかっていないと思います。私たちが数か月かかるところをイエス様は数分でやってしまいました。何故でしょう?イエス様は知識という御霊の賜物を使ったからであります。おそらく、イエス様は超自然的に、ナタナエルが毎日、いちじくの木の下で、イスラエルのために祈っている姿を見ていたのでしょう。いちじくの木はイスラエルでは特別な木であり、その木の下で瞑想することが良くあるからです。私たちもイエス様のような御霊の賜物を使って伝道することが可能なのではないかと思います。

 第二は、イエス様の宮の納入金の納め方です。一見、ユーモアがありますが、神の超自然的な力なくしては決してできないことです。マタイ17:27 しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」イエス様が税を納入した方法は、大変ユーモアがありました。つまずきを与えないために税金を納めたのですが、そのやり方が、宮の役人への皮肉にもなっています。だいたい、魚釣りに行って、一番最初に釣った魚の中に、1スタテルの銀貨がある。それが、ちょうど2人分の納税額にあたると信じられるでしょうか。聖地旅行で、ガリラヤ湖に行きますと、Peter´s fish ペテロの魚という魚がいて、それを焼いて食べさせてくれるそうです。淡水魚で日本人だったら、お醤油を垂らすと美味しくいただけるそうです。このPeter´s fishは、雑食性で光るものならなんでも食べるそうです。実際に指輪とかコインが入っている場合があると聞いたことがあります。この物語の場合、イエス様が魚に命じてくわえさせたのか、それとも、銀貨をくわえている魚を知っていて、ペテロに釣らせさせたのか分かりません。偶然と考えたら、気が遠くなる確率です。とにかく、イエス様は自分が神の子であって、神殿の税金を納めなくてよいのですが、超自然的な力で税を納めたわけです。Ⅰコリント12章には「奇跡を行なう力」という名称で出ています。

 テレビとかインターネットを見ますと、マジックがあります。素手で水を凍らせたり、あっためたりします。また、500円玉をボトルに通過させたりできます。トランプも変幻自在に操り、前もってその人が何を選ぶか分かっています。一番驚いたのは、絵に描いてあるハンバーグから、本当のハンバーグを食べたことです。一口食べて、絵の中に戻したら、食べかけのハンバーグになっていました。もちろん中にはトリックがあるのもあるでしょう。しかし、最近はトリックではなく、本当の魔術によってなされるわざが多く出現するようになりました。人々がそのことによってあっと驚きます。しかし、それだけではありません。私は彼らがやがて人々の心を操るのではないかと恐れています。黙示録13章には「獣」が出てきます。黙示録1313-14「また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行った。また、あの獣の前で行うことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。」聖書では「しるしを行う悪霊ども」(黙示録1614と書いてありますが、反キリストである獣と、その手下が大きなしるしを行うことは確実です。それは人々を惑わせ、その獣を拝ませるためあります。私たちは力あるわざに対して、気をつけるべきです。それが、神からのものなのか、悪魔から来たものなのか見分ける必要があります。現代の人たちは科学を信じ、聖書の神さまを信じていません。その代り、不思議やしるしを見せられると、コロッとひっくり返り、偽りの神さまを信じてしまいます。

 私はリバイバルが起こると「しるしと不思議、癒しや奇跡」が起こると信じます。でも、同時に悪魔の力も働きます。それは混乱を与えるためです。モーセがエジプトに乗り込んだとき、呪法者たちも秘術を使って同じようなことをしました。もちろん高度なわざは魔術にはできませんでした。でも、彼らもある程度のことはできます。私たちは霊を見分ける力と同時に、神の霊によって「しるしと不思議、癒しや奇跡」を行うべきであります。それは私たち自身の力ではなく、全能の神さまが私たちを用いて、まことの神さまがおられることを未信者に示すためであります。その時、彼らは心を開いて、福音を聞くようになります。現在、イスラム教徒やインドのヒンズー教徒にイエス様が超自然的に現れてくださり、それによってキリスト教に回心する人たちが大勢出ています。パウロは「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」(Ⅰコリント420と言いました。また、イエス様はサドカイ人たちに「聖書も神の力も知らないからです。」(マタイ2219と言いました。現代の教会は聖書のことばばかり強調して、神の力のことを語りもしないし、行ないもしません。だから、世の人たちは不思議なことを行う魔術やオカルトの方に行ってしまうのです。ヨーロッパのスペインやポルトガル等のカトリックの国は東洋の宗教やニューエージにはまっているようです。世の終わり、神さまの力も激しく臨みますが、同時に悪魔も人々を惑わすために力強く働くのです。世の終わりの教会は、力の戦いを避けて通ることはできません。なぜなら、世の人たちは「どちらが本当の神なのか、証拠を見せてくれ」と言うからです。

エリヤの時代、ほとんどのイスラエルはバアルの神を拝んでいました。エリヤはたった一人でバアルの預言者450人、アシェラの預言者400人と戦いました。山頂で2つの祭壇が作られました。1つはバアルとアシェラたちの祭壇、もう1つはエリヤの祭壇です。エリヤは「火をもって答える神、その方がまことの神である」と言いました(Ⅰ列王記1824)。まず、バアルとアシェラたちがやりました。彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から晩までバアルの名を呼びました。それでもダメなので、踊ったり、大きな声で叫び、最後には自分の体を剣や槍で傷つけました。でも、答える者はいませんでした。エリヤはたきぎの上に裂いた一頭の雄牛を乗せました。さらに水をたきぎの上に注いで、祭壇の周りも水を満たしました。エリヤが「主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であることを知るようにさせてください」と祈りました。すると、主の火が降ってきて、全焼のいけにえと、たきぎと、石とちりと焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしました。民はこれを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言いました。終わりの時代もこのようなことが起こります。これまで100年かかってきたことが、1年で起るかもしれません。日本は世界でもまれな、伝道の難しい国でした。でも、しるしと不思議のともなう福音宣教によって日本は変えられます。はっきり言って、それしか望みがないと信じます。どうかそのとき、冷やかな者になりませんように。歴史的に、世界中のあちこちでリバイバルが起きましたが、全部の教会がその恩恵にあずかったわけではありません。となりの教会にリバイバルが起きているのに、こっちは冷たくて死んでいたという教会もあると聞いています。どうか同じ、神の火によって燃やされましょう。きょうのメッセージの前半は「イエス様のご配慮」であり、後半は「イエス様の不思議な力」でした。ですから、私たちは力あるわざを求めますが、熱狂過ぎて人をつまずかせてはいけません。心は熱く燃えていても、頭はクールであるというバランスが必要です。模範はイエス様です。イエス様は力があって、クールでした。

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2017年5月 5日 (金)

山を動かす信仰 マタイ17:14-21 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.5.7

3人の弟子たちは高い山で特別な経験をしました。ところが、山を降りると下では問題が起こっていました。何やら人々が集まり、苦しんでいる子どもを取り囲んでいました。その子の父親が弟子たちに癒しと解放を求めましたが、それができないでいたようです。ちょうどそこへ、3人の弟子たちとイエス様がやって来ました。ペテロは聖なる山でずっと過ごしていたいと望んでいましたが、下界では大変なことが起こっていました。こういうことは良くあることです。きょうは、2つのポイントでこの問題をどう解決していくのか学びたいと思います。

1.不信仰な曲がった今の世

 イエス様は「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ」と嘆いています。イエス様は弟子たちの不信仰を嘆いているようですが、それだけではないようです。日本語の聖書には「曲がった今の世」と訳されていますが、もっと良い訳はないのでしょうか?ギリシャ語で「世」はゲネアーであり、「世代」「時代」「子孫」という意味があります。英語の聖書ではgenerationとなっており、「同時代の人々」という意味です。つまり、「神の国が来る前の状態の人々の生活ぶり」ということです。もちろん、そこには弟子たちも含まれており、その影響や考え方を受けているということです。私たちも不信仰な曲がった時代で生まれました。彼らと違うのは、それと平行して神の国が力強く臨んでいるということです。その当時は、まだイエス様だけが神の国を代表していたので、弟子たちもその影響を受けていませんでした。このところには、イエス様のいらだちが現れています。「いつまであなたがたと一緒にいなければならないのでしょう。いつまであなたがたに我慢していなければならないのでしょう」。イエス様らしくない、不寛容さが現れています。なぜでしょうか?それは、変貌の山で、ご自分はエルサレムで遂げるべきことを確認しました。そして御顔をまっすぐエルサレムに向けて進もうとされていました。つまり、イエス様には「地上にいる時間はあまり残されていない」という緊張感があったのではないかと思います。だから、ふがいない弟子たちに、そのようなことばを発したのではないかと思います。

 では、もう少し、山の下にいた弟子たちの状況を調べたいと思います。マルコ福音書には「律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた」(マルコ914)と書いてあります。イエス様は群衆に「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか」と聞かれました。すると群衆のひとりが、「先生、口をきけなくする霊につかれた私の息子を連れて…霊を追い出すように願ったのですが、できませんでした」と答えました。おそらく、弟子たちは「なぜ、この病気が治らないのか?この病気の原因はどこから来たのか?」議論していたのではないかと思います。だから、イエス様は「ああ、不信仰な世だ」と嘆いているのです。つまり、弟子たちは悪霊を追い出すのではなく、議論を交わしてしていたのです。「中国の教会は祈る教会、台湾は賛美する教会、日本は議論する教会」と聞いたことがあります。日本の教会は議論好きであります。神学的なのは良いのですが、小さな違いを議論することが好きです。でも、力がありません。力のなさを頭脳でごまかしているところがあります。イエス様は議論を不信仰の現れみたいにおっしゃっています。議論するよりもむしろ祈る、議論するよりもむしろ賛美したほうが、神さまのみわざが現れるのではないかと思います。いくら私たちの頭が良くても、全部理解することはできません。ちなみに、この少年の病は3つの福音書で全部違います。マタイは「てんかん」と言っています。マルコは「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」と言っています。ルカは「汚れた霊」と言っています。父親の報告によると、その子は何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりするということでした。イエス様はその子の中の悪霊を追い出すことによって、病を癒してあげました。症状や病名がまちまちですが、その原因は悪霊であったということです。もし、このような子どもが現代の病院に運びこまれたら、どのように診断されるでしょうか?おそらく、まちまちな病名がつけられ、治療法も定まらないかもしれません。なぜなら、現代の医学は悪霊を認めていないからです。この子の問題は何なのか、議論している弟子たちを馬鹿にすることはできません。イエス様は同じように、「ああ、不信仰な世だ」と嘆くに違いありません。

 もう1つは父親の信仰であります。もっと詳しく書かれているマルコによる福音書を少し引用したいと思います。マルコ922-24 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」マタイによる福音書には、弟子たちの不信仰のことしか述べられていませんが、なんと父親も不信仰でありました。この父親は「もし、おできになるものなら」とイエス様に願っています。おそらく、弟子たちにできなかったのですから、イエス様も「できないのでは?」と疑いが含まれています。それに対してイエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」半分、イエス様は叱っているように思えます。これでは癒そうと思っても、なんだか力が発揮できません。イエス様でも、やる気をなくしてしまいます。するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」アーメン。父親は不信仰を悔い改めて「信じます」と言いました。でも、父親の言い方は今一歩煮え切れない感じがします。なぜなら、「信じます」と言いながらも、「不信仰な私」と自分のことを言っているからです。しかし、英語の詳訳聖書は「私の信仰の弱さを助けてください」と弱いのは私ではなく、信仰にかかっています。また、英国の聖書は「信仰が不足している私を助けてください」となっています。JB.フィリップスは「もっと信じられるように私を助けてください」と訳しています。ということはどうでしょうか?「不信仰な私」と定義すると、救いようがありません。父親にもいくらかの信仰があるんです。ただ、それが弱いか足りないかです。でも、その弱いか足りないかの信仰をイエス様がその分満たしてくれたなら、大丈夫ではないでしょうか?イエス様は父親の信仰にご自身の豊かな信仰をプラスして、その子を悪霊から解放し、癒してあげたのだと思います。

 もし、私たちが完全な信仰がなければ癒されないとしたら、ちょっと無理なような気がします。でも、いくらかあって、足りない部分をイエス様が満たしてくれたならどうでしょう?イエス様はあとでこのようにおっしゃっています。「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ1720からし種というのはユダヤでは小さいものをたとえるたとえでした。からし種はけしの種よりは大きくて、ゴマよりも小さい、吹けば飛ぶような種です。イエス様が「からし種ほどの信仰があったら」とおっしゃられたら、「それくらいは持っているよ」と言いたくなるでしょう。つまり、イエス様がおっしゃりたいのは信仰が大きいとか小さいではありません。たとい、からし種のように小さくても、生きているかどうかが問題なのです。もし、小さくても生きているなら、イエス様はご自分の信仰を足して、大きなみわざをなさってくれるのです。イエス様は「私のくびきは負いやすい」と言われましたが、ベテラン牛のイエス様が重い方をかつぎ、新米牛の私たちが軽い方を担いでいるのです。自分がやったと本人が思うかもしれませんが、イエス様がほとんどなさっておられるのです。ハレルヤ!

その当時、イエス様は「不信仰な曲がった今の世だ」と嘆きました。でも、イエス様が昇天してから、弟子たちは力を得ました。同時にそれは、神の国が力強く、この世に侵入してきたという証でもあります。イエス様は弟子たちに「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49と約束されました。そして、ペンテコステの朝、聖霊が彼らの上に降りました。それから弟子たちは一変し、福音を力強く宣べ伝え、そして癒しや奇跡を行ないました。ペテロもパウロもイエス様と同じようなことをしました。それが今の私たちに続いています。私たちクリスチャンの肉体的は「不信仰な曲がった今の世」に住んでいます。しかし、本体は「神の国に籍を置き、神の国を背負って生きているのです」。私たちは神の国の権威を背負っている、全権大使であります。私たちの身分を証したらな、悪霊どもは声を出して逃げ去るのです。なぜなら、私たちには最強のバックがついているからです。私たちは警官に喧嘩を売ったりしません。婦人警官であっても、同じです。なぜなら、彼らの背後には国家権力が付いているからです。では、私たちクリスチャンはどうなのでしょうか?イエス様はマタイ28章で「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って…」と言われました。このみことばにあるように、すべての権威が私たちに与えられているのです。この約束は当時の弟子たちだけではなく、信じるすべての人にたいする約束です。まだいただいていないような気がする人は、改めて受け取ってください。警察官はバッチと手帳を持っています。私たちには聖霊と御名の権威が与えられています。足りないと思っている人はぜひ、信仰によって聖霊の油注ぎを受けてください。そうすれば、上から権威が着せられます。

2.山を動かす信仰

マタイ1717:19-21 そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」この文脈における「山」はその子の中にいた悪霊を追い出すことでした。しかし、イエス様はそれだけにとどまらずあらゆる問題や困難という山も信仰によって解決できると言われました。信仰には大きく分けて2種類あります。第一はイエス様を救い主と信じることにより、義とされ永遠のいのちをいただくことができます。これは「救いの信仰」です。この信仰に対して、反対する教会はほとんどないと思います。しかし、イエス様はもう1つの信仰についても教えておられます。第二は信仰を用いて生きるということです。言い換えると「信仰の機能」「信仰の働き」であります。イエス様を信じるならだれでも天国に行くことができます。なぜなら、救いを得ているからです。でも、イエス様は天国に行くまで、信仰を用いて生きるように教えておられます。イエス様が「あなたがたの信仰が薄いからです」と弟子たちに言われたのは、天国に行くための救いの信仰ではなく、「信仰の機能」「信仰の働き」のことをおっしゃっているのです。この信仰は神さまがクリスチャンであるならば、もれなく与えてくださる神さまの賜物であります。しかし、パウロはひとり一人与えられている信仰の量が違うと言っています。ローマ123「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」また、パウロは人々の信仰を補いたいと言っています。Ⅰテサロニケ310「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」

 イエス様はこのところで、「もし、からし種ほどの信仰があったら」とおっしゃっています。これは、「からし種くらいの信仰しかない人がいる」という前提であります。ユダヤでは、からし種は小さいものをたとえる時のたとえであると前のポイントで申しあげました。日本人ならゴマ粒くらいの信仰と言った方が分かりやすいかもしれません。ある人はコーヒ豆くらいの信仰、またある人はリンゴくらいの信仰、またある人はドラム缶くらいの信仰と言えるかもしれません。でも、ドラム缶くらいの信仰があれば、「山よ、動け」と言えば、山を動かすことができるのでしょうか?確かに地球ができたころ、神さまの力によって山が動かされました。ヨブは「神が山々を移されるが、だれもこれに気づかない。神は怒ってこれをくつがえされる。神が地をその基から震わすと、その柱は揺れ動く。」(ヨブ95,6)詩篇には造山運動のことが記されています。「山は上がり、谷は沈みました。あなたが定めたその場所へと。」(詩篇1048まず、私たちは、神さまは山を動かすことができるということを信じなければなりません。でも、このところでは、ドラム缶くらいの信仰があれば、「山よ、動け」と言えば、山を動かすことができると言っているのではありません。一人ひとり、信仰の量は違います。でも、そこに無限大の神さまの信仰がプラスされたらどうなるでしょうか?1プラス無限大は無限大です。100プラス無限大は無限大です。1000プラス無限大も無限大です。つまり、その人がたとえからし種だろうと、ゴマ粒くらいの信仰だろうと問題はないということです。簡単にいうと山を動かす信仰は、私たちの信仰の大小にはよらないということです。その根拠になるみことばがマルコ11章にあります。マルコ11 22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。マルコ11章は、マタイ17章と同じようなことが言われています。違うのは、山がどこかに移るか、海に入るかの違いです。重要なのは、マルコ1122「神を信じなさい。」ということばです。これは原文では、「神の信仰を持ちなさい」です。ある時、ある状況において、神さまがあなたに無限大の神の信仰を下さるときがあるのです。その時のあなたの信仰の大きさの大小は問題でありません。重要なのはそれを受け取る信仰です。たとえからし種ほどの信仰でも、「私はそれをいただきます。アーメン」と願えば、それで十分なのです。でも、「私はそんなものいりません」と言えば、いくら神さまでも無限大の神の信仰を与えることができません。なぜなら、あなたが信仰の手を差し出していないからです。神さまの信仰が、するっと滑り落ちてしまいます。

 私は4人の子どもに自転車乗りを教えました。正確には記憶していませんが、おそらくお手伝いはしたと思います。お父さんは後ろから荷台をしっかり押さえます。子どもがやることはハンドルをにぎることです。べつにペダルを踏んでも、踏まなくても前に進みます。なぜなら、私がちゃんと押さえて、押しているからです。でも、子どもが「こわい!」と言って、手を放したらどうでしょう?ハンドルが「くにゃっ」と曲がり、そこで止まってしまいます。子どもがすべき一番重要ことは、ハンドルを放さないことです。あとは、こっちがなんとかやります。ハンドルを握るということは、私たちが自分に与えられた信仰を用いるということです。足りない分は神さまの力、神さまの信仰が助けます。しかし、人よりもかなり大きな信仰が与えられる人がいます。Ⅰコリント12章では「信仰の賜物」と言われています。また、Ⅰコリント13章では「山を動かす信仰」と言われています。この賜物を持っている人は、他の人よりも大きなことを信じることができます。神さまはその人の「信仰の賜物」を用いて偉大なことをなさることがよくあります。歴史的にはジョージ・ミュラーが有名です。彼は孤児院を5つ運営しましたが、生涯5万回祈りがきかれたそうです。このような逸話があります。暴雨で荒れた次の日の朝、孤児院には食べる物は何も残っていませんでした。400人の孤児たちと一緒に空の食卓に囲んですわって、ミュラーは手を取り合って食前の祈りを捧げました。彼の祈りが終わった時、一台の馬車が孤児院の門をたたきました。その馬車には、朝にちょうど焼いたパンと新鮮な牛乳が一杯ありました。近隣の工場で従業員たちのためのピクニックに使うために注文したけれど、暴雨でキャンセルされ、孤児たちに送られたのだそうです。

 韓国のチョー・ヨンギ牧師が牧会していたヨイド教会は70万人の教会員数でした。多くの牧師たちが「チョー先生のような大教会になることを信じます。1000名教会になることを信じます」と信仰をもって宣言しました。私もその一人ですが、そうなりませんでした。「チョー先生は『夢と信仰をもって宣言すればそうなる』と言っていたのに、何故なんだろう」と思いました。後で分かったのですが、チョー・ヨンギ牧師には信仰の賜物があったのですね。だから、あのような大会堂を献堂し、多くの癒しが起こり、大勢の人たちが救われたんだと思います。チョー・ヨンギ牧師はどうして何十万人の人たちを牧会できたのでしょうか?区域礼拝とか断食祈祷とかいろいろ言われています。でも、私が思うには、チョー・ヨンギ牧師はいつも信仰のメッセージをします。病の癒しや奇跡、物質的な繁栄、幸いな生活、問題解決…それを聞いた会衆が信仰の口を大きく開けて、「私のものです」と信じます。そうすると、会衆に信じたようなことが起こるのです。チョー・ヨンギ牧師は信仰の種を花坂爺さんのようにばらまくのです。それを受け取った会衆がその信仰を育てるのです。彼らが信じて祈っていくとまもなく現実のものとなるのです。私も講壇の上から信仰のことばを発しています。ある人は「それは私のものです」と信じます。すると、神さまがその人の信仰を用いて下さり、山が動くような奇跡が起こるのです。信仰は目には見えません。しかし、信仰を用いていくなら後から形が現れてきます。実際に見えるものは信仰はいりません。まだ見えていないものを得たかのように信じるのが信仰なのです。

ヘブル111はこの信仰の最も有名なことばです。日本語訳よりも、キングジェームス訳の方が的を得ています。直訳するとこうなります。ヘブル111「信仰とは望んでいる事柄のsubstance実体化であり、見ていない事柄のevidence証拠です」。あなたが望んでいることを実体化してみましょう。神さまはそれを用いて、大きなことをしてくださるのです。どんなことを望んでも罰せられたり、罰金を取られたりしません。神さまも「そんな馬鹿なことを望むな」とは簡単におっしゃらないでしょう。多少の修正や変更はあるかもしれませんが、全否定なさる神さまではありません。イエス様は「どんなことでも、あなたがたにできないことはありません」とおっしゃいました。話半分でもすごいじゃないですか?イエス様は嘘つきではありません。あなたが今かかえている問題の山に向かって、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。イエス様は「ここからあそこに移るようにしてください」と祈りなさいとはおっしゃっていません。「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです」とおっしゃったのです。「山に言え」と命じられています。ゴスペルにspeak to the mountainという賛美があります。speak to the mountain, speak with authority, and mountain must move.山に向かって言いなさい。権威をもって言いなさい。そうすれば山は動かなければならない(動くに違いない)。小さな信仰でも大丈夫です。なぜなら、神さまが大きな信仰を持っておられるからです。

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