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2017年5月26日 (金)

兄弟が罪を犯したなら マタイ18:15-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.5.28

 マタイによる福音書には「教会」ということばが16章に1回、そして18章に2回記されています。厳密には、イエス様の頃はまだ「教会」は存在していませんでした。しかし、やがて誕生するであろう「教会」のことを見越して、こういうことを守りなさいと教えているのだと思います。きょうのテーマは「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」です。ここで言われている「罪」というのは、「道を踏み外す」とか「誤りを犯す」という意味です。教会でおもに問題にされる罪は、ゴシップ、分裂分派、性的な罪です。刑事罰を受けるような犯罪でなく、共同体を破壊する罪が問題にされています。Ⅰヨハネ3章には「神から生まれた者は罪を犯しません。…罪を犯すことができないのです」と書かれています。ここで言われているのは、この世の人たちのことではなく、霊的に新しく生まれた人たちを対象にしています。もし、誤って罪を犯した場合、教会においてどのようなことが大切なのか教えられています。でも、このマタイ18章全体には「小さい者につまずきを与えない」というテーマが一貫して流れていることを忘れてはいけません。

1.愛と尊敬

 15節から17節まで、「もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、3つのステップを踏んで対処しなさい」と教えられています。なぜなら、3つのステップの根底には「愛と尊敬」があるからです。第一のステップとは何でしょう?「行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」と書かれています。すごいですね。被害を受けた人、あるいは傷を受けた人が、加害者のところに行くのです。そして、当人同士、二人でお話しをするということです。「責める」というギリシャ語は「納得させる、説得する、誤りを認めさせる」が第一の意味になっています。英語の詳訳聖書には「もし、あなたの兄弟があなたに悪いことをしたなら、行って、彼にその誤りを示しなさい。彼とプライベートに」と書かれています。日本人はいきなり第三者か公に訴えるところがあります。そうしますと、その人をひどく傷つけることになり、関係が壊れてしまいます。もし、プライベートであるならば、相手も身構えないで、言うことを聞いてくれるだろうということです。私は土木の現場監督をしていたので、ことばでたくさんの罪を犯しました。教会の姉妹方から「あなたのことばで傷つきました」と言われたことが沢山あります。その時はショックを受けましたが、おかげさまで大分、良くなったのではないかと思います。学校に行っていた頃はよく職員室に呼ばれたので「お話しがあります」と呼ばれると怖いです。でも、ここでは「来い」ではなく「行って」と書かれています。

 第二のステップは「ひとりかふたりを連れて行く」ということです。マタイ1816「もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。」「二人の証人、三人の証人」というのは、申命記19章に記されている律法です。なぜ、さらに「ひとりかふたり」なのでしょう?それは確認されるためです。英語の詳訳聖書には「確認し、支持するため」と書かれています。つまり、本人だけではなく、「ひとりかふたり」が「やっぱりそれは良くないことですよ」と一緒に言ってあげるということです。そうすると罪を犯した人は、「客観的にそうなのか?」と考えるようになります。それでも、「ひとりかふたり」が当人を責めているというニュアンスはありません。兄弟になんとかわかって欲しいという願いがあります。日本人はだれかその人よりも偉い人を連れて行く場合があります。その人は、恩があるので頭が上がらないために仕方なく聞くかもしれません。しかし、それだと力が加わりますので、できるだけ利害関係のない人が良いと思います。少し前に、森友学園のことが報じられていましたが、こじれにこじれていました。あそこまで行くと収集がつかなくなります。私たちは問題がこじれないように、第一と第二のステップを踏む必要があります。

 そして、第三のステップは教会に告げるということです。教会のだれなのか?現代は牧師と役員会、さらには会衆全体ということになります。噂話とかゴシップにならないように、公にすることが必要になります。マタイ1817「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」最終的には「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」と書かれています。しかし、このところに罰を与えるとか、除名するというような表現はありません。「異邦人か取税人」というのは、神さまを信じていない未信者のように扱えということです。ところが、ローマ・カトリックは教会の権威をふりかざして、「破門」や「宗教裁判」を発動してきました。カルヴァンの時もそうでしたが、国家権力と結びつくと神さまの領域を犯していることになります。そうなるとこの世の人に対して、良い証になりません。J.Cライルの本に、「破門こそは、その人が犯した罪よりももっと恐ろしい罪である」と書かれていました。また、教会では「戒規」と言って、陪餐停止処分を与えるところもあります。これは、しばらくは聖餐式に加わることができないということです。これに対しても、J.Cライルは「その人が悪くても、不敬虔であっても、主の食卓に来ることを禁じるべきではない」と書いていました。

 ダニー・シルクの『尊敬の文化』という本にこのようなことが書かれていました。神学生の二人が夏休み中、関係を持って女性が妊娠してしまいました。学校で教えている牧師は「二人を退学させるべきだろう」と考えていました。ダニー・シルク牧師は「とにかく二人に会って話し合いましょう」と提案しました。二人は執務室に入ってきても、目を合わせよとせず、うつむいたままでした。自分たちが仕出かした行為を恥じていることは明らかです。二人は処罰を受ける覚悟をしていました。シルク牧師は彼らと初めて会ったので、まず男子生徒からいきさつを説明してもらいました。最後に「もし今日、問題解決に時間をかけるとしたら、その問題とは何だろう」と言いました。男子生徒は「わかりません」と言いました。シルク牧師は「悔い改めたの?」と尋ねました。彼は「ええ、もちろん悔い改めました」と即答しました。「では、何を悔い改めたのかな」。しばらく沈黙が続いた後「わかりません」と言いました。「そうだよね。問題がそこだよね。何が問題なのか分かっていなければ悔い改められないよね」。彼は「はい、おっしゃるとおりです」と答えました。シルク牧師は自分の考えを言うのではなく、何を考えるべきだとも言うつもりはありませんでした。ただ彼に尋ねることによって、この若者に栄光と知恵と能力を見出すように導いていたのです。なぜなら、自分の失敗に対する恥のせいで、彼が本来の自己像を見失っていたからです。彼は蹴飛ばされて唾をかけられて当然の人間だと思っていました。指導者は彼に規則を守らせるための存在だと思っていました。しかし質問をしたことを通して、聖霊の助けのもと、彼は自分の生涯を一変させることになる解決方法を見出しました。物語は続きますが、彼と彼女は処罰とその恐れから自由になり、正しい悔い改めをし、結実に至りました。つまり、処罰を与えないで解決する方法があるということです。愛と尊敬は、その人から自己防衛を取り除き、真の悔い改めに導くことができます。Ⅱコリント710「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

2.霊的権威

   

 マタイ1818「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」同じようなことがマタイ16章にも書かれていました。「つなぐ」というのは、「禁じる」という意味です。また、「解く」というのは、「許す」という意味です。これは、イエス様が教会に対して、神さまの名代としてそのような権利を与えたということです。この18節のことばは、「もし、兄弟が罪を犯したなら」という文脈で考えるべきです。前のポイントを振り返りますと、当人同士で「わかった、ごめんなさい」と聞き入れたならば、それでOKです。でも、もし聞き入れないならひとりか二人を一緒に連れて行きます。そのとき、「ああ、そうだったんですね。ごめんなさい」と聞き入れたならば、それでOKです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げます。そのとき、聞き入れたならば、それでOKです。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、異邦人か取税人のように扱います。第一から第三までのステップの中で、「禁じる」とか「許す」という権威が行使されているということです。このように教会にはイエス様から霊的権威が与えられているのです。教会のかしらはイエス・キリストです。この方が最終的な権威者です。でも、イエス様は問題が愛と尊敬によって解決するように、私たちに権威を委譲しておられます。私たち自身に権威があるのではなく、イエス様からいただいているということです。私たちはこの霊的権威を軽んじてはいけません。

 霊的権威を軽んじてしまった教会の見本はコリント教会です。コリント教会は、教会内の罪をこの世の裁判所に訴えました。パウロはこう述べています。Ⅰコリント61-4「あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。」さらにパウロは「教会内の罪はあなたがたが解決しなさい。そもそも、互いに訴え合うことが、すでに敗北です」と言っています。残念ながら、教会の現状はこうではありません。教会内部の問題を全国の教会にばらまいたり、裁判所に訴えるということがたまにあります。また、教会のスキャンダルを集めて、ホームページに載せている牧師もいます。教会や牧師を訴えるというのは、まさにサタンの片棒をかついでいるようなものです。もちろん、教会が罪に直面せず、なかったことのようにするのは良くありません。ある場合は、刑事裁判になることもあるでしょう。でも、イエス様が教会に対して、禁じたり、許したりする権威を与えておられることを忘れてはいけません。イエス様は「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます」(ルカ1117でおっしゃいました。どちらが正しいとか間違いだとか、分からないことがあるでしょう。そのときは、パウロが言うように「むしろ不正を甘んじて受け、むしろだまされる方が良い」(Ⅰコリント67のです。なぜなら、最終的にさばくのはイエス様だからです。

 ジャン・バルジャンは司教の好意を裏切って、銀の食器を盗みました。その後、警察に捕えられ、神父のもとに連れてこられました。警察官は「この銀の食器はあなたのものでしょう?」と袋から出して言いました。すると司教は、「これは彼に差し上げたものです。燭台もあげたのにどうして持っていかなかったのか」と強い口調で言いました。ジャン・バルジャンの人生は、そのことによって変わりました。ジャン・バルジャンの心がなぜすさんでしまったのでしょう?彼は腹をすかせた甥と姪のために、パンを盗んで逮捕され5年もの刑を宣告されました。犯した罪に比べて罰の重すぎることから、社会に疑念を抱き社会を憎むようになったのです。何度か脱獄を試みましたが、そのたびに失敗し刑期が数年ずつ伸び、その結果19年も刑務所で過ごすことになってしまいました。警察官が去った後、司教は「どうか真人間になるためにその銀の品々を使ってください」と言いました。ジャン・バルジャンは、この出来事の後、マドレーヌと名乗るようになり、市長となります。でも、この物語はさらに続きます。実はジャン・バルジャンは燭台だけは売らないで死ぬまで取っておきました。私は「レ・ミゼラブル」のような可哀そうな物語とか映画はとても苦手です。自分の過去のみじめな人生とシンクロするからです。でも、言えることは人間は変わるということです。『愛、赦し、受け入れ』という本をだれかが書きました。人の罪をあばいてさばくことは検察官がやることです。それを教会でやるなら、イエス様がどれほど悲しむでしょうか?教会は時として悪魔の片棒を担いで、兄弟を告発することがあります。教会はイエス様から与えられた権威を、人を生かすために用いるべきです。マタイ1818「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」

3.主の介入 

  

 マタイ1819-20「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」19節と20節のみことばはとても有名でよく引用される箇所でもあります。でも、私たちは文脈からこのみことばを理解しなければなりません。15節には「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」と書いてありました。そして3つのステップを踏んでその兄弟を諭すことが語られていました。18節には教会には禁じたり赦したりする霊的権威が与えられていると書いてありました。その後に、心を合わせた祈りの必要性とその効果が記されています。つまり、罪を犯してしまった兄弟のためにとりなしている祈りと考えられます。当人で行って諭したけどダメだった。他の人を連れて諭したけどダメだった。最後に教会に告げ出んだけどダメだった。彼は異邦人か取税人のように扱われてしまう。こういう一連の出来事の背後で「正しいさばきがなされるように、また聖霊によってその人が悔い改めるように」と心を合わせて祈っているのです。そこにイエス様が臨在されて、その問題を解決してくださるということです。このようなことは教会の外ではなされません。また、この世の人たちは、祈りの力ということを信じていないでしょう。でも、心を合わせた祈りは最も力あるわざなのです。説得もある場合は効果があるかもしれません。人は人を変えることはでません。やはり神の霊がその人に臨んで、変えて下さるように祈るのが一番なのです。ですから一見、力がなさそうでも、心を合わせた祈りは最も大きな効力を発するのです。

 私たちはこの箇所から心を合わせた祈りがどんなに効果があるか、もう一度知る必要があります。私たちは大勢の人たちが集まって祈れば、もっと効果が現れるだろうと思ってしまいます。しかし、このところでは、「ふたりでも三人でも良いのだ」と書かれています。イエス様は弟子たちを伝道旅行に派遣したことが何度かあります。その時、彼らを二人一組で遣わしました。二人というのはとても良いと伝道者の書に書かれています。一人が倒れたら、もう一人が助け起こすことができるからです。また、二人が良いのは共に祈ることができるからです。これは夫婦の祈りでも言えますし、兄弟姉妹の祈りでもそうです。19節には「まことに告げます。…もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」と約束されています。「どんな事でも」と言われています。ですから、どんなことでも父なる神がかなえてくださるのです。「まことに」と言われていますので、私たちは額面通り受け止めるべきです。そもそも、この二人とは一体だれなのでしょうか?私は、罪を犯した兄弟とその人のところに行った兄弟(姉妹)だと思います。ふたりだけのところで責めたわけですが、そのとき、二人が心を合わせて祈ったら、すばらしい和解が生まれるでしょう。でも、うまくいかないときがあります。それで、他にひとりかふたりをいっしょに連れて行きました。そこには、罪を犯した兄弟の他に二人か三人います。すべての事実が確認されました。そのときのことが20節ではないでしょうか?「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」なぜなら、ふたりから急に三人になっているからです。一緒に祈っているところにイエスさまが来られ、悔い改めとすばらしい和解をもたらしてくれたら何と幸いでしょう。

 教会では何かをするとき必ず祈ります。最後も祈る場合もあります。祈って初め、祈って終わる、すばらしい習慣だと思います。私の経験によると、会議など長引く場合は、途中、神さまの導きを求めてみんなで祈ったらもっと良いと思います。私は関東のセルチャーチネットワークに、15年くらい携わってきました。次の集会で何をするのか、56人集まって協議します。1時間くらいやっても、なかなか決まりません。そのとき、「では一緒に祈りましょう」と勧めます。3分くらい祈ります。すると、何かが降りてくるというのは、変な言い方ですが、パーッとテーマが浮かんできます。もう、10分もかからないですべてのプログラムが完成します。これは奇跡です。関東のセルではこのことを何度も体験しました。流山に三浦先生というとてもまじめな牧師がいらっしゃいます。彼は、平日アルバイトをしていますので、仕事を休んで打ち合わせに来ます。私は彼のことをねぎらって、「仕事を休んで打ち合わせ会に来るのは割に合わないでしょう」と言ったことがあります。そうすると三浦先生は、「いや、これが一番、勉強になります。私は先生方から色んな事を教えられてきました。とても感謝です」という言葉が返ってきました。そうなんですね。日本の教会が置かれている厳しい状態から始めますので、どうしても否定的です。あれもやったけどダメだった、これもやったけどダメだった。何をしようか?でも、目をつぶって一緒に祈ると、天が開けて何かがパーッと降りてきます。では、私たちが祈る前に天がふさがれていたのでしょうか?そうではありません。天は開いていたのですが、私たちの心が閉じていたのです。

 最後に「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」とはどういう意味でしょう?これは主がそこに臨在されるということです。神さまは霊ですから、どこにもおられます。これを偏在といいます。では偏在と臨在はどこが違うのでしょうか?臨在とは神さまがそこにおられるだけではありません。神さまが臨在されるところには、奇跡や癒し、救いのみわざが起こるということです。問題の解決、特別な啓示、聖霊の力が与えられるということです。教会は人数の多さではありません。もちろん多いことに越したことはありません。教会の真骨頂は、ふたりでも三人でも、主の名において集まり、心を合わせて祈ることです。二人でも地上で心を合わせて祈るなら、どんなことでも天の父がかなえて下さるからです。

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