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2017年5月19日 (金)

天国で一番偉い人 マタイ18:1-9 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.5.21

 マタイ181節には、「そのとき」と書いてあります。「そのとき」とはいつなのでしょうか?マタイは省略していますが、背後には二つの出来事があることがわかります。第一はマルコ9章に書いてありますが、弟子たちが、カペナウムに行くまで、道々、だれが一番偉いか論じ合っていた時です。第二はマルコ10章に書いてありますが、人々が子どもたちを連れて、イエス様のところにやって来た時です。

1.子どもから学ぶ

 弟子たちはイエス様が十字架にかかる直前まで、だれが一番偉いか論じ合っていました。彼らはイエスさまがイスラエルを建国したとき王様になると信じていました。そのときだれが、イエス様の右に座るか、だれが左に座るか論じていたのです。彼らの思いは地上にありましたが、イエス様は天の御国ではどうなのかということを教えられました。そして、小さなこどもを呼び寄せ、弟子たち真ん中に立たせてこのように言われました。マタイ183「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」これは、だれが偉いかということではありません。「どのようにならなければ天の御国に入れないのか」という救いの問題を扱っています。イエス様は小さな子どもを立たせ、「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」と言われました。「悔い改める」とは必ずしも罪を悔い改めるという意味ではありません。ギリシャ語では「変える」「向きを変える」という意味のことばです。大人である弟子たちに、「子どもの身になって考えよ」と言うことです。でも、「子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には入れない」とはどういうことでしょう?子どもは大人よりも何かがすぐれているということでしょうか?子どもの特性、子どもの状態、子どもの態度、いろいろ考えられます。子どものときは持っていて、だんだん大人になると失うものは何でしょう?まるで、なぞなぞみたいです。

 子どもは疑うことをしません。「あげるよ」と言ったら、すぐ手を出します。しかし、大人は「あげるよ」と言われても疑ったり、プライドが邪魔したりして簡単に受け取りません。もし、天国が無代価のプレゼントだとしたどうでしょう?大人は「私にも何かやらせてくれ。良い行いでも、修養でも何でもするから」と言うかもしれません。こちらも何かすれば、救われる気がするからです。救われるために、何もしないというのは、かえって怪しいと思うでしょう。その点、子どもは良い行いはできないし、修養も無理です。子どもの特性は、単純に信頼するということです。でも、その子どもが大きくなるにつれて、裏切られたり、だまされたりするのです。大人になるとすっかり疑い深くなり、「簡単にはだまされないぞ!」みたいになります。そういう意味で、大人が子どものようになるというのは大変なことです。これらのことから考えますと、天の御国に入るということは、単純に信頼するということではないでしょうか?だからイエス様は「悔い改めて子どもたちのようにならない限り」とおっしゃったのです。

キリスト教では信じて救われることを「回心」と言います。英語ではconvictionと言いますが、存在をかけるような決心であります。これまでの古い考えや疑いを捨てて、子どものようになって、信じるのですから、大変な作業だと思います。日本では「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言いますが、それに似たものがあります。だから、神さまを信じるのは大人になってからではなく、子どものときが一番良いのです。アメリカでは3歳のとき信じたという人がザラにいます。日本では中学卒業してからとか言いますが、反抗期になってチャンスを失ってしまいます。10代から30までは遊びで忙しいです。30代から50までは子育てや仕事が忙しいです。50代以降は自分の考えが固まって無理であります。80歳になって少々ぼけて子どものようになれば再びチャンスが来るでしょう。このように大人が子どものように単純に信じるというのは大変です。だから、イエス様は山上の説教で、心の貧しい者や悲しむ者が幸いだと言われたのです。人生に何か危機的なことが起らないと、神さまを求めるようにならないからです。イエス様は「悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」と言われました。アーメンです。子どものように神さまを信頼する心を持ちたいと思います。

 もう1つの子どもから学ぶべきことは謙遜さです。マタイ184-5「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」弟子たちはこの世の価値観で頭がいっぱいでした。この世では、権威や権力がものを言います。学歴や資格、職業やスティタス、財産やお金、リーダーシップやカリスマ性、こういうものがあれば偉くなれると思っていたでしょう。それに比べると、小さな子どもにはそういうものが何一つありません。小さな子どもには学歴や資格、財産やお金、何の立場も影響力もありません。でも、小さな子どもが持っているものがあります。それは謙遜さです。子どもは謙遜でありたいと別に思っていません。存在、そのものが謙遜なのです。聖書の「自分を低くする」とは、原文では「低くなる、卑しくする、へりくだる」で、英語ではhumbleであります。大人になるといろんなものを身に着けるので、高く、そして大きくなります。何もなくてもプライドだけは大きいという人もいます。この世の中では、権威や権力、学歴や資格、職業やスティタス、財産やお金、リーダーシップやカリスマ性、みなすばらしいものです。でも、それらを持っていることが天の御国で偉い人なのかというとそうではないということです。天の御国はこの世と全く逆であり、何も持っていないような子どもの方が一番偉いんだということです。

 でも、聖書は、権威や権力、学歴や資格、職業やスティタス、財産やお金、リーダーシップやカリスマ性を不要であるとは言っていません。ただ、天の御国では、邪魔になるということです。なぜなら、神さまではなく、自分を誇るからです。その人は「これらはみんな私が努力して獲得したものなんだ」と思っています。でも、イエス様は「この子どものように、自分を低くする者が天の御国で一番偉い人です」と言われました。子どもは自分の意思で自分を低くしているようには思えません。なぜなら、初めから持っていないので自分を誇ることはできません。でも、大人になって、いろんな物を持てば持つほど、自分を誇るようになります。だから、意思をもって自分を低くする必要があります。ここでも、「悔い改めて子どもたちのように」ならなければなりません。しかし、それはどういうことでしょう?どうやったら子どものように謙遜になれるのでしょうか?もし、自分が持っているすべてのものを、たとえそれが努力して勝ちえたものであっても、神さまの恵みであると考えたらどうでしょう?健康な体も、頭脳明晰も、リーダーシップや能力も、お金や財産も、地位や名誉もすべて神さまが与えてくださったのではないでしょうか?つまり、所有者は神さまで、私はそれを預かって管理しているのに過ぎないと言うことです。ルカ12章に「ある金持ち」のたとえ話が記されています。彼の畑が豊作でさらに倉を建てて、穀物や財産をみなしまっておこうと思いました。そして自分のたましいに「何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言いました。しかし、神さまは彼に言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜、お前から取り去られる。そうしたなら、お前が用意したものは一体だれのものになるのか」(ルカ1216-20)。このたとえから分かるように、私たちが持っているすべてのもの神さまから任せられたものだということです。その証拠として、神さまが取り上げられたら一瞬にして何もかもなくなります。健康な体も、頭脳明晰さも、お金や財産も、地位も名誉も一瞬にしてなくなります。

 ですから、この世でどんな大きな者であったとしても、謙遜さを忘れてはいけません。自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人なのです。イエス様はその最大の模範です。ピリピ2章にありますが、神であることを固守しないで、ご自分を無にして、人間と同じようになられました。自分を卑しくし、死にまで従い、十字架の死までも従われました。それゆえ神は、イエス様を高くあげて、すべてにまさる名をお与えになりました。天の御国はこの地上とは全く逆であります。自らを低くする者が、天では高い者とされるのです。ヤコブ46「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」と書かれています。私たちは高ぶるためには努力がいりません。肉は高ぶるものであり、自然に「これは私がやったんだ」と誇りたがります。でも、へりくだるためには努力が必要です。人に受け入れられるための、見せかけでは長続きしません。この世では謙遜さを装って生きるのが処世術になっています。しかし、神さまは私たちの心を見ておられます。まず、神さまの前に謙遜であるということです。そのためには、何がすばらしいことをしたとしても、すべての栄光を主にお返ししましょう。3日間くらい、自分がやったんだと温めておきたい気持ちはわかります。でも、高められることがあったら即座に、主に栄光をお返ししましょう。そうするならば、神さまは私たちを引き上げ、次回も私たちを用いてくださるでしょう。天の御国で高められるように、子どものように、自分を低くする者でありたいと思います。

2.つまずきを与えない

 マタイ186-7「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。」文脈から考えますと、「この小さい者」というのは、「小さい子ども」のことであります。第一のポイントでは子どもの特徴をいくつかあげました。子どもは大人と違って、何も持っていません。お金も、地位も、能力もありません。もちろん、内部には神さまの種がやどっており、いろんな可能性があります。でも、小さな子どもを見たなら、現時点では何もありません。当然、大人の目から見たらなら、無価値で何もできないと思われ、卑下されるでしょう。イエス様の時代はローマが支配していました。ローマでは子どもの存在は全く認められていませんでした。女の子は兵士になれないので、特にそうでした。一方、ヘブルの世界では、子どもは神さまからの賜物であるという考え(詩篇1273)がありましたので、ある程度の存在価値は認められていたと思います。では、なぜ小さい者たち、小さな子どもたちにつまずきを与えてはいけないのでしょうか?ここで言う「つまずかせる」は、英語の聖書ではoffendとなっています。これは、「人の感情を害する、立腹させる、傷つける、そこなう」という意味があります。第一のポンとでは子どもは単純に信頼する特性があると申し上げました。これは、子どもは神さまを信じやすいということでもあります。だから、イエス様は「子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」とおっしゃったのであります。

 でも、そういう純粋な子どもをつまずかせるというのは、どういうことなんでしょう。裏返しに言うなら、「簡単に信頼してはいけない」あるいは「人は何かを身に着けなければ価値がないんだ」とことばや行いによって教えるということです。直接的には、子どもを虐待したり、嘘をついたり、裏切って悲しい思いをさせるということです。そういう子どもが大人になったらどうなるでしょう?簡単に神さまを信じることができません。もう何べんも裏切られていますから、神さまにゆだねることは不可能です。もし、その子が無条件に愛されていなかったならどうでしょう?「良い子にならなければ」「学校の成績が良くなければ」「親の言うことを聞かなければ」そうなると、無条件の愛ということが分かりません。たとえイエス様を信じることができたとしても、パフォーマンスで生きるでしょう。神さまの愛を得るために、一生懸命がんばって奉仕する信仰生活になるでしょう。使徒パウロは子どもに「あなたの父と母を敬え」と教えています。しかし、「父たちよ。あなたがたも、子どもたちをおこらせてはいけません」とも教えています。「おこらせる」ということばは、もともと「刺激する」ということばから来ています。英語の聖書ではprovokeとなっていますが、「挑発する、誘発する」という意味もあります。動物園に行くと、子どもたちが、わざとお猿さんをおこらせたりします。お猿さんは「キー」とか言って、向かってきます。子どもも同じで、親や大人が、おこらせてしまうことがあるということです。しつけのために、叱ったり、訓戒することは確かに必要ですが、子どもの存在とか尊厳を傷つけたら致命傷になるということです。たとえば子どもが嘘をついたとします。すると親は「お前は噓つきだ、もう信用できない」と言ったらどうでしょう。嘘はだれでもつきますが、「噓つき」はその人自体の呼び名になっています。たとえば子どもに汚いと言うなら、それは服か体が汚れているのです。しかし、「お前は汚い」と言うなら、子どもは自分自身が汚いんだと誤解してしまうでしょう。

 私はスーパーによく買い物に行きます。お母さんとコミュニケーションを取りながら、仲良く買い物をしている子どもを見るとほっとします。「これ良いね、これにする」と相談しながら、買っています。やっぱり子どもなので、何か欲しい時があるでしょう。お母さんはこどもの要求を聞きながら、検討しています。時には、「自分で棚に戻しなさいね」と教えています。「はーい」とか言って、喜んで聞いています。ところが、頭ごなしに叱っている母親がいます。ときには、父親もいます。子どもは大きな声えで叫び何かを主張しています。親はさらにきつく言うか、あるいはまったく無視します。店の中だけでなく、店を出てからもやっています。そういう光景を見ると、とっても心が痛みます。なぜかと言うと、私がそうだったからです。子どもがなきじゃくっていると、「ああ、私もそうだったなー」と思い出します。おそらく、パニック障害的になり呼吸困難になるでしょう。そこまで泣いたら、けっこう傷になります。現代はいろんなパーソナリティ障害がありますが、多くの場合、親から愛されず、極度の虐待を受けたことが原因だと思います。もう、感情が一度噴き出ると、とまらなくなるのです。まるで、手足を切ったところから血が止まらないのと同じです。血には血小板があるので、空気中に触れると凝固して血が止まります。でも、怒りや悲しみの感情が噴き出て、もう止まらないのです。親は、罪や悪いことと、子ども自身を分ける必要があります。叱ったり、正すことは悪くはありませんが、あとでぎゅっと抱きしめる必要があります。「罪は別だけど、あなたのことは愛しているよ」と具体的に現して教えるべきです。日本人は思っていても、口や行動に出さないので、子どもに通じていないことがあります。それが親から子へ世代間連鎖して、子どもも親になったら同じことをするのです。私たちは自分がクリスチャンになったら、負の連鎖を断ち切る必要があります。自分の後からは、神さまの無条件の愛によって生かされる子どもや孫になるんだと信じましょう。

 最後におそろしいことばがあります。マタイ188-9「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」クリスチャンでも「地獄はないと思う」という人がたまにおられます。しかし、このところには「永遠の火」とか「燃えるゲヘナ」とはっきり書いてあります。これは黙示録20章にある「火の池」のことであり、まさしく地獄であります。永遠の滅び、地獄はあるのです。イエス様は「そこになんとか行くことのないように」と教えておられるのです。少し前は、子どもをつまずかせるなという教えでした。しかし、8節と9節は、自分自身をつまずかせるなということです。本来なら、自分の手や足、あるいは目というのは自分と一体なわけですから、「あなたをつまずかせるなら」というのは理屈に合いません。もし、私たちが霊と魂と肉体でできていると考えたならどうでしょう?イエス様は「両手両足そろって」とか「両目そろって」地獄に行くよりも、とおっしゃっています。ということは、この肉体はたとえ片手片足、あるいは片目であっても天の御国では関係ないということです。つまりは霊と魂が天の御国に入れば、あとから栄光のからだがちゃんと与えられるということです。片手片足あるいは片目を惜しんだために、永遠の御国を失ったらもったいない。片手片足あるいは片目を失っても、かけがえのない永遠の御国に入るようにという教えであります。

 この教会の創設者の役員の一人に鳥海力兄弟がおられました。5年くらい前に天に召され、土浦の神立というところに葬儀にでかけました。その時、牧師が兄弟のお話しをされました。鳥海兄は高校を卒業して亀有の日立工場に入社しました。19歳のとき機械に右腕が挟まれて、その腕を失ってしまいました。そういう中で、近くの当亀有教会を訪れたわけです。おそらく、若い時なので片腕がないというのはものすごく大きな悲しみだったでしょう。鳥海兄はイエス様を信じて救われました。そして、忠実に信仰生活を送り、なおかつ当亀有教会の創設や会堂の建設にも尊い働きをされました。葬儀で鳥海兄の証が紹介されました。「僕は19歳で右腕を失いました。聖書の『あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろって永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとって良いことです』ということばは私のためだと思いました。もしも、私に両腕があったなら、若い私は誘惑に負けて、教会に来てイエス様を信じなかったと思います。右腕を失っても、永遠のいのちを得られたことを感謝します」という強烈な証でした。私たちはイエスさまのところに来るために、ひょっとしたら何かを失ったかもしれません。自分のからだ、自分の夢、自分の結婚、自分の職業、自分の持ち物、そのときはかけがえのないもの、これを失ったら生きていけないと思ったかもしれません。しかし、あとから振り返ると、「ああ、あれで良かったんだ」と思うことが良くあります。「天の御国に入り、永遠のいのちがいただけたんだから元を取っているなー」と喜びが湧き上がってきます。でも、それだけではありません。「この地上でも、十分いただいているな、報われているなー」と思うのではないでしょうか?確かに自分の願うものではなかったけど、もっと良いものであったということはないでしょうか?詩篇1033-5「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」「あなたの若さは、鷲のように、新しくなる」はキリストによって与えられる新しいいのちであり、天の御国における永遠のいのちであると思います。

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