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2017年5月12日 (金)

イエス様のご配慮 マタイ17:22-27 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.5.14

 本日のテキストには、イエス様の二度目の十字架の死と復活の告知が記されています。イエス様はエルサレムに顔を向けて歩まれていましたので、とても緊張しておられたのではないでしょうか?そのような状況で、些細な問題が生じた場合、無視するか、「私には関係ないことだ」と一喝することもありえます。しかし、イエス様は役人たちを躓かせないため、不思議な方法で税金を納めました。きょうの箇所は飛ばしても良さそうな些細な内容かもしれませんが、「イエス様のご配慮」と題して学びたいと思います。 

1.イエス様のご配慮  

  

カペナウム、そこはペテロの家があったであろうと思います。そこに宮(神殿)の納入金を集める人たちがやってきました。出エジプト記30章には、「成人男性は、聖所のため半シェケルを奉納物として納めるように」と書かれています。当時もそのような宗教的な税金がローマの税金とは別に課せられていました。ペテロはお役人に「納めます」と即座に答えました。「あなたがたの先生は納めないのですか?」と聞かれたのに、ペテロはイエス様に相談もせずに答えてしまいました。イエス様はその会話を超自然的に聞かれ、イエス様の方からペテロにこう言い出されました。「シモン。どう思いますか?世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか。それともほかの人たちからですか」。ペテロは「ほかの人たちからです」と答えました。すると、イエス様は「では、子どもたちにはその義務がないのです」と言われました。今はそうではありませんが、昔はペルシヤやギリシャ、ローマなどの王国がありました。王様は国々を支配し、人々から税や貢を取り立てていました。また、王様にはロイヤルファミリーと言いましょうか、子どもたちがいました。イエス様はペテロに「世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか」と聞かれました。当然、子どもたちである王子や王女はその義務はありません。王様から支配されている領民が納めるべきであります。

では、イエス様がこのところでおっしゃっている意味は何なのでしょうか?イエス様は御国の王様です。でも、今のところナザレのイエスとしてこの地上に住んでいます。本来は、ご自分と父なる神は、すべての支配者であり王であります。ですから、当然、宮(神殿)の納入金を納める必要はありません。でも、このところで学ぶべきことがあります。イエス様はスタテル銀貨によって、二人分の税金を納めました。スタテルはシェケルのギリシャ語の呼び方です。ですから、1スタテルは、1シェケルです。つまり、イエス様とペテロの二人分になるわけです。イエス様はどうして、ご自分の分とペテロの分を払うように言われたのでしょうか?その前に、イエス様は「では、子どもたちはその義務はないのです」とおっしゃっていました。イエス様は神であり、王ですから、もちろんその義務はありません。では、「子どもたち」とはだれなのでしょう?ペテロがその一人であります。ペテロも王子であり、ロイヤルファミリーの一人です。だから、イエス様は彼らをつまずかせないために二人分を納めるように命じたのです。すばらしいではないでしょうか?イエス様はペテロを王様の子どもとしてお認めになっておられたということです。

 イエス様は「私は神の子であり、王であるから納める必要はない」と真正面から断ることができました。「しかし、彼らにつまずきを与えないために」と言われ、二人分の税を納めました。「つまずき」と訳されていることばは、「不快にさせる、怒らせる、傷つける」という意味であります。おそらく、宮の税金を集める役人たちは、イエス様がだれであるか分からなかったでしょう?また、イエス様がご自分の身分を証しても信じないでしょう。彼らがやっていることは善なることでした。ですから、イエス様はご自分の権利を主張せず、彼らに譲歩されたのです。使徒パウロもⅠコリント9章で「私たちには飲み食いする権利がないのでしょうか」とコリントの教会に言っています。使徒たちは福音を伝え、教会を設立しているのですから、教会が使徒たちをささえるのが当然です。しかし、コリント教会の人たちは、パウロの使徒性を認めませんでした。そのため、パウロは「自分の権利を十分に用いない」(Ⅰコリント918と決めました。パウロはさらにこのように言いました。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。」(Ⅰコリント919-20
パウロは福音につまずく人が起こらないように、自分の権利を主張しないで、そういう人々に対して配慮されたのです。私たちはイエス様やパウロからいくつか学ぶことがあります。

 私たちは霊的には神の子どもであり、王子、王女です。でも、外見はこの地上では一般人と何ら変わりありません。税金も納めるし、この世の法律にも従わなければなりません。今の教会の車がまだ買って間もない頃のことです。家内からグレープジュースを頼まれて、生協に寄ろうとしました。左側にアパートの工事車両が止まっていました。さらに、目の前を年配の婦人が歩いていました。私は右側ぎりぎりを通りながら、生協の駐車場に入るために右折しました。するとバリバリバリとものすごい音がしました。なんと、右側に駐車場の黄色い鉄柱があるのが見えなかったのです。それが車の側面全部に当たったのです。私は駐車場に頭をかかえしゃがみ込みました。まもなく、生協の店長が出てきて、私の車ではなく黄色い鉄柱を見ているんです。そして、塗料がはがれた鉄柱を弁償してくれと言いました。私は「何であんなところに鉄柱が立っているんだ。鉄柱ではなく、車をぶっつけて困っている私のことを心配すべきだろう」と憤慨しました。あとから、電話で鉄柱の塗装代3万円の請求がきました。私は店長に、「それは高すぎる。私だって自分の車の修理が何十万円もかかるんだ。私が塗装業者に外注して元通りするから」と言いました。すると、店長は生協の規約でそれはできないと言いました。かっと来た私は「生協はキリスト教の賀川豊彦師が作ったんだ。私は教会の牧師だ。私が責任を取ると言っているんだ。」と言いました。それから私は夜な夜な出かけ、鉄柱を磨いて黄色いスプレーで塗装しました。数日後、店長と業者が立ち会って、「これなら良いでしょう」と言ってくれました。後から、その鉄柱はトラックがひっかけたのか、根本からグニャっと曲がっていました。その後、生協側は鉄柱を根元取り去りました。悔しいですが、私が的はずれだったのかもしれません。創設者の賀川豊彦先生のこと、私が教会の牧師であることを言っても、全く効果がありませんでした。

 私たちクリスチャンは王子であり王女です。イエス様が王であり、私たちはロイヤルファミリーです。しかし、日常生活の中で「それが何なんなんだ」と思わされることがあります。世の人たちと同じものを食べ、同じように通勤通学し、同じように医者にかかったりします。その中で、福音につまずく人が起こらないように、自分の権利を主張しないで生きているのでしょうか?教会に色んなセールスの電話がかかっています。また、セールスマンも訪ねて来ます。昔は丁寧に相手をして、電話会社、電気、印刷機、コピー機、その度に変えました。今は、はっきり断るようにしています。「あれでも牧師か、教会か?」と、かなりの人たちをつまずかせているんじゃないかと思います。みなさんの中にも聖書を読んで祈っているときは良いけど、いざ、職場に行くと別人になっているということはないでしょうか?「なめられちゃいけない」と、強気に出ることはないでしょうか?この世では「営業スマイル」とか「営業トーク」というのがあります。私たちクリスチャンは、「信仰スマイル」とか「信仰トーク」をしてはいけません。訪問伝道している異端の人たちは、物越しが柔らかくて、何を言っても怒りません。表面を繕っているのは間違いないのですが、私たちは内側から柔和でありたいです。そして、イエス様のような配慮をもって接したらどんなにすばらしいでしょうか?パウロは「弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」(Ⅰコリント922そのようになるためには、よっぽど自分の中にしっかりとした信仰がなければならないと思います。どうしたら、信仰的なゆとりが生まれるのでしょうか?やはり王なるイエス様と一緒に生活しているという信仰が必要です。ペテロは深く考えずに「納めます」と言いました。でも、お金を出してくれたのは、イエス様でした。しかも、釣った魚にあった銀貨からでした。イエス様は何もないところから、出してくれるお方でした。イエス様は全世界の支配者であり、大きなことから小さなことまで、ちゃんと配慮してくださいます。そういうお方とどんなときも一緒なんだという意識と信仰が大事だと思います。日曜学校の賛美に「祈ってごらんよ」という歌があります。「小川のほとりでも、人ごみの中でも、広い世界のどこにいても、ほんとの神さまは、今も生きておられお祈りに答えてくださる」のです。アーメン。

2.イエス様の不思議な力

 何気ないような物語ですが、このところにイエス様の超自然的な力が2つ現されています。まず、第一にイエス様はその場にいなかったのに、ペテロと役人たちの会話を知っていました。マタイ1725家に入ると、先にイエスの方からこう言いだされた。「シモン、どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか」と書いてあります。おそらく、ペテロと役人たちは家の外にいて、イエス様は家の中にいたのでしょう?イエス様のような超自然的な能力を聖書では「知識」の賜物と呼んでいます。たとえば、ヨハネ4章にはサマリヤの女性の記事があります。イエス様は彼女から何の情報も得ていないのに、「あなたには夫が五人あったが、今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではないからです」と言いました。それで彼女は「先生。あなたは預言者だと思います」と信じました。また、マルコ2章に、一人の中風の人を四人の友人が運んできた記事あります。イエス様が「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。その場にいた律法学者たちが、心の中で「この人は神を汚している。神しか赦すことができない」と思いました。マルコ28彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか」。これも知識であります。預言者エリシャもこの賜物があったのでアラム王は彼を非常に恐れました。Ⅱ列王記612すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」そのため、アラムの王は、預言者エリシャ一人を倒すべく、馬と戦車と大軍を送りました。

 私は神学校でヨハネ4章から個人伝道について学んだことがあります。教師は「イエス様は日常的な井戸水を話題にして伝道を始められた」と教えてくれました。しかし、イエス様が知識の賜物を使って彼女の過去を言い当てたとは習いませんでした。イエス様はずるいです。超自然的な知識の賜物を用いて伝道したのですから。しかし、逆に言えば、神学校で習う個人伝道が間違っていたのかもしれません。なぜなら、御霊の賜物を使わないで伝道しているからです。もし、預言や知識、知恵、さらに他の賜物を用いたならば、効果的な伝道ができるのではないでしょうか?私たちの伝道があまりにも人間的で地上的なので結果がかんばしくありません。ヨハネ1章にありますが、ナタナエルは「ナザレから何の良い者が出るだろう」とピリポの言うことを信じませんでした。ところが、イエス様が「私は、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」と言いました。すると、ナタナエルは「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と告白しました。時間的には数分、10分かかっていないと思います。私たちが数か月かかるところをイエス様は数分でやってしまいました。何故でしょう?イエス様は知識という御霊の賜物を使ったからであります。おそらく、イエス様は超自然的に、ナタナエルが毎日、いちじくの木の下で、イスラエルのために祈っている姿を見ていたのでしょう。いちじくの木はイスラエルでは特別な木であり、その木の下で瞑想することが良くあるからです。私たちもイエス様のような御霊の賜物を使って伝道することが可能なのではないかと思います。

 第二は、イエス様の宮の納入金の納め方です。一見、ユーモアがありますが、神の超自然的な力なくしては決してできないことです。マタイ17:27 しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」イエス様が税を納入した方法は、大変ユーモアがありました。つまずきを与えないために税金を納めたのですが、そのやり方が、宮の役人への皮肉にもなっています。だいたい、魚釣りに行って、一番最初に釣った魚の中に、1スタテルの銀貨がある。それが、ちょうど2人分の納税額にあたると信じられるでしょうか。聖地旅行で、ガリラヤ湖に行きますと、Peter´s fish ペテロの魚という魚がいて、それを焼いて食べさせてくれるそうです。淡水魚で日本人だったら、お醤油を垂らすと美味しくいただけるそうです。このPeter´s fishは、雑食性で光るものならなんでも食べるそうです。実際に指輪とかコインが入っている場合があると聞いたことがあります。この物語の場合、イエス様が魚に命じてくわえさせたのか、それとも、銀貨をくわえている魚を知っていて、ペテロに釣らせさせたのか分かりません。偶然と考えたら、気が遠くなる確率です。とにかく、イエス様は自分が神の子であって、神殿の税金を納めなくてよいのですが、超自然的な力で税を納めたわけです。Ⅰコリント12章には「奇跡を行なう力」という名称で出ています。

 テレビとかインターネットを見ますと、マジックがあります。素手で水を凍らせたり、あっためたりします。また、500円玉をボトルに通過させたりできます。トランプも変幻自在に操り、前もってその人が何を選ぶか分かっています。一番驚いたのは、絵に描いてあるハンバーグから、本当のハンバーグを食べたことです。一口食べて、絵の中に戻したら、食べかけのハンバーグになっていました。もちろん中にはトリックがあるのもあるでしょう。しかし、最近はトリックではなく、本当の魔術によってなされるわざが多く出現するようになりました。人々がそのことによってあっと驚きます。しかし、それだけではありません。私は彼らがやがて人々の心を操るのではないかと恐れています。黙示録13章には「獣」が出てきます。黙示録1313-14「また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行った。また、あの獣の前で行うことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。」聖書では「しるしを行う悪霊ども」(黙示録1614と書いてありますが、反キリストである獣と、その手下が大きなしるしを行うことは確実です。それは人々を惑わせ、その獣を拝ませるためあります。私たちは力あるわざに対して、気をつけるべきです。それが、神からのものなのか、悪魔から来たものなのか見分ける必要があります。現代の人たちは科学を信じ、聖書の神さまを信じていません。その代り、不思議やしるしを見せられると、コロッとひっくり返り、偽りの神さまを信じてしまいます。

 私はリバイバルが起こると「しるしと不思議、癒しや奇跡」が起こると信じます。でも、同時に悪魔の力も働きます。それは混乱を与えるためです。モーセがエジプトに乗り込んだとき、呪法者たちも秘術を使って同じようなことをしました。もちろん高度なわざは魔術にはできませんでした。でも、彼らもある程度のことはできます。私たちは霊を見分ける力と同時に、神の霊によって「しるしと不思議、癒しや奇跡」を行うべきであります。それは私たち自身の力ではなく、全能の神さまが私たちを用いて、まことの神さまがおられることを未信者に示すためであります。その時、彼らは心を開いて、福音を聞くようになります。現在、イスラム教徒やインドのヒンズー教徒にイエス様が超自然的に現れてくださり、それによってキリスト教に回心する人たちが大勢出ています。パウロは「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」(Ⅰコリント420と言いました。また、イエス様はサドカイ人たちに「聖書も神の力も知らないからです。」(マタイ2219と言いました。現代の教会は聖書のことばばかり強調して、神の力のことを語りもしないし、行ないもしません。だから、世の人たちは不思議なことを行う魔術やオカルトの方に行ってしまうのです。ヨーロッパのスペインやポルトガル等のカトリックの国は東洋の宗教やニューエージにはまっているようです。世の終わり、神さまの力も激しく臨みますが、同時に悪魔も人々を惑わすために力強く働くのです。世の終わりの教会は、力の戦いを避けて通ることはできません。なぜなら、世の人たちは「どちらが本当の神なのか、証拠を見せてくれ」と言うからです。

エリヤの時代、ほとんどのイスラエルはバアルの神を拝んでいました。エリヤはたった一人でバアルの預言者450人、アシェラの預言者400人と戦いました。山頂で2つの祭壇が作られました。1つはバアルとアシェラたちの祭壇、もう1つはエリヤの祭壇です。エリヤは「火をもって答える神、その方がまことの神である」と言いました(Ⅰ列王記1824)。まず、バアルとアシェラたちがやりました。彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から晩までバアルの名を呼びました。それでもダメなので、踊ったり、大きな声で叫び、最後には自分の体を剣や槍で傷つけました。でも、答える者はいませんでした。エリヤはたきぎの上に裂いた一頭の雄牛を乗せました。さらに水をたきぎの上に注いで、祭壇の周りも水を満たしました。エリヤが「主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であることを知るようにさせてください」と祈りました。すると、主の火が降ってきて、全焼のいけにえと、たきぎと、石とちりと焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしました。民はこれを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言いました。終わりの時代もこのようなことが起こります。これまで100年かかってきたことが、1年で起るかもしれません。日本は世界でもまれな、伝道の難しい国でした。でも、しるしと不思議のともなう福音宣教によって日本は変えられます。はっきり言って、それしか望みがないと信じます。どうかそのとき、冷やかな者になりませんように。歴史的に、世界中のあちこちでリバイバルが起きましたが、全部の教会がその恩恵にあずかったわけではありません。となりの教会にリバイバルが起きているのに、こっちは冷たくて死んでいたという教会もあると聞いています。どうか同じ、神の火によって燃やされましょう。きょうのメッセージの前半は「イエス様のご配慮」であり、後半は「イエス様の不思議な力」でした。ですから、私たちは力あるわざを求めますが、熱狂過ぎて人をつまずかせてはいけません。心は熱く燃えていても、頭はクールであるというバランスが必要です。模範はイエス様です。イエス様は力があって、クールでした。

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