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2017年5月 5日 (金)

山を動かす信仰 マタイ17:14-21 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.5.7

3人の弟子たちは高い山で特別な経験をしました。ところが、山を降りると下では問題が起こっていました。何やら人々が集まり、苦しんでいる子どもを取り囲んでいました。その子の父親が弟子たちに癒しと解放を求めましたが、それができないでいたようです。ちょうどそこへ、3人の弟子たちとイエス様がやって来ました。ペテロは聖なる山でずっと過ごしていたいと望んでいましたが、下界では大変なことが起こっていました。こういうことは良くあることです。きょうは、2つのポイントでこの問題をどう解決していくのか学びたいと思います。

1.不信仰な曲がった今の世

 イエス様は「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ」と嘆いています。イエス様は弟子たちの不信仰を嘆いているようですが、それだけではないようです。日本語の聖書には「曲がった今の世」と訳されていますが、もっと良い訳はないのでしょうか?ギリシャ語で「世」はゲネアーであり、「世代」「時代」「子孫」という意味があります。英語の聖書ではgenerationとなっており、「同時代の人々」という意味です。つまり、「神の国が来る前の状態の人々の生活ぶり」ということです。もちろん、そこには弟子たちも含まれており、その影響や考え方を受けているということです。私たちも不信仰な曲がった時代で生まれました。彼らと違うのは、それと平行して神の国が力強く臨んでいるということです。その当時は、まだイエス様だけが神の国を代表していたので、弟子たちもその影響を受けていませんでした。このところには、イエス様のいらだちが現れています。「いつまであなたがたと一緒にいなければならないのでしょう。いつまであなたがたに我慢していなければならないのでしょう」。イエス様らしくない、不寛容さが現れています。なぜでしょうか?それは、変貌の山で、ご自分はエルサレムで遂げるべきことを確認しました。そして御顔をまっすぐエルサレムに向けて進もうとされていました。つまり、イエス様には「地上にいる時間はあまり残されていない」という緊張感があったのではないかと思います。だから、ふがいない弟子たちに、そのようなことばを発したのではないかと思います。

 では、もう少し、山の下にいた弟子たちの状況を調べたいと思います。マルコ福音書には「律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた」(マルコ914)と書いてあります。イエス様は群衆に「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか」と聞かれました。すると群衆のひとりが、「先生、口をきけなくする霊につかれた私の息子を連れて…霊を追い出すように願ったのですが、できませんでした」と答えました。おそらく、弟子たちは「なぜ、この病気が治らないのか?この病気の原因はどこから来たのか?」議論していたのではないかと思います。だから、イエス様は「ああ、不信仰な世だ」と嘆いているのです。つまり、弟子たちは悪霊を追い出すのではなく、議論を交わしてしていたのです。「中国の教会は祈る教会、台湾は賛美する教会、日本は議論する教会」と聞いたことがあります。日本の教会は議論好きであります。神学的なのは良いのですが、小さな違いを議論することが好きです。でも、力がありません。力のなさを頭脳でごまかしているところがあります。イエス様は議論を不信仰の現れみたいにおっしゃっています。議論するよりもむしろ祈る、議論するよりもむしろ賛美したほうが、神さまのみわざが現れるのではないかと思います。いくら私たちの頭が良くても、全部理解することはできません。ちなみに、この少年の病は3つの福音書で全部違います。マタイは「てんかん」と言っています。マルコは「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」と言っています。ルカは「汚れた霊」と言っています。父親の報告によると、その子は何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりするということでした。イエス様はその子の中の悪霊を追い出すことによって、病を癒してあげました。症状や病名がまちまちですが、その原因は悪霊であったということです。もし、このような子どもが現代の病院に運びこまれたら、どのように診断されるでしょうか?おそらく、まちまちな病名がつけられ、治療法も定まらないかもしれません。なぜなら、現代の医学は悪霊を認めていないからです。この子の問題は何なのか、議論している弟子たちを馬鹿にすることはできません。イエス様は同じように、「ああ、不信仰な世だ」と嘆くに違いありません。

 もう1つは父親の信仰であります。もっと詳しく書かれているマルコによる福音書を少し引用したいと思います。マルコ922-24 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」マタイによる福音書には、弟子たちの不信仰のことしか述べられていませんが、なんと父親も不信仰でありました。この父親は「もし、おできになるものなら」とイエス様に願っています。おそらく、弟子たちにできなかったのですから、イエス様も「できないのでは?」と疑いが含まれています。それに対してイエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」半分、イエス様は叱っているように思えます。これでは癒そうと思っても、なんだか力が発揮できません。イエス様でも、やる気をなくしてしまいます。するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」アーメン。父親は不信仰を悔い改めて「信じます」と言いました。でも、父親の言い方は今一歩煮え切れない感じがします。なぜなら、「信じます」と言いながらも、「不信仰な私」と自分のことを言っているからです。しかし、英語の詳訳聖書は「私の信仰の弱さを助けてください」と弱いのは私ではなく、信仰にかかっています。また、英国の聖書は「信仰が不足している私を助けてください」となっています。JB.フィリップスは「もっと信じられるように私を助けてください」と訳しています。ということはどうでしょうか?「不信仰な私」と定義すると、救いようがありません。父親にもいくらかの信仰があるんです。ただ、それが弱いか足りないかです。でも、その弱いか足りないかの信仰をイエス様がその分満たしてくれたなら、大丈夫ではないでしょうか?イエス様は父親の信仰にご自身の豊かな信仰をプラスして、その子を悪霊から解放し、癒してあげたのだと思います。

 もし、私たちが完全な信仰がなければ癒されないとしたら、ちょっと無理なような気がします。でも、いくらかあって、足りない部分をイエス様が満たしてくれたならどうでしょう?イエス様はあとでこのようにおっしゃっています。「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ1720からし種というのはユダヤでは小さいものをたとえるたとえでした。からし種はけしの種よりは大きくて、ゴマよりも小さい、吹けば飛ぶような種です。イエス様が「からし種ほどの信仰があったら」とおっしゃられたら、「それくらいは持っているよ」と言いたくなるでしょう。つまり、イエス様がおっしゃりたいのは信仰が大きいとか小さいではありません。たとい、からし種のように小さくても、生きているかどうかが問題なのです。もし、小さくても生きているなら、イエス様はご自分の信仰を足して、大きなみわざをなさってくれるのです。イエス様は「私のくびきは負いやすい」と言われましたが、ベテラン牛のイエス様が重い方をかつぎ、新米牛の私たちが軽い方を担いでいるのです。自分がやったと本人が思うかもしれませんが、イエス様がほとんどなさっておられるのです。ハレルヤ!

その当時、イエス様は「不信仰な曲がった今の世だ」と嘆きました。でも、イエス様が昇天してから、弟子たちは力を得ました。同時にそれは、神の国が力強く、この世に侵入してきたという証でもあります。イエス様は弟子たちに「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49と約束されました。そして、ペンテコステの朝、聖霊が彼らの上に降りました。それから弟子たちは一変し、福音を力強く宣べ伝え、そして癒しや奇跡を行ないました。ペテロもパウロもイエス様と同じようなことをしました。それが今の私たちに続いています。私たちクリスチャンの肉体的は「不信仰な曲がった今の世」に住んでいます。しかし、本体は「神の国に籍を置き、神の国を背負って生きているのです」。私たちは神の国の権威を背負っている、全権大使であります。私たちの身分を証したらな、悪霊どもは声を出して逃げ去るのです。なぜなら、私たちには最強のバックがついているからです。私たちは警官に喧嘩を売ったりしません。婦人警官であっても、同じです。なぜなら、彼らの背後には国家権力が付いているからです。では、私たちクリスチャンはどうなのでしょうか?イエス様はマタイ28章で「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って…」と言われました。このみことばにあるように、すべての権威が私たちに与えられているのです。この約束は当時の弟子たちだけではなく、信じるすべての人にたいする約束です。まだいただいていないような気がする人は、改めて受け取ってください。警察官はバッチと手帳を持っています。私たちには聖霊と御名の権威が与えられています。足りないと思っている人はぜひ、信仰によって聖霊の油注ぎを受けてください。そうすれば、上から権威が着せられます。

2.山を動かす信仰

マタイ1717:19-21 そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」この文脈における「山」はその子の中にいた悪霊を追い出すことでした。しかし、イエス様はそれだけにとどまらずあらゆる問題や困難という山も信仰によって解決できると言われました。信仰には大きく分けて2種類あります。第一はイエス様を救い主と信じることにより、義とされ永遠のいのちをいただくことができます。これは「救いの信仰」です。この信仰に対して、反対する教会はほとんどないと思います。しかし、イエス様はもう1つの信仰についても教えておられます。第二は信仰を用いて生きるということです。言い換えると「信仰の機能」「信仰の働き」であります。イエス様を信じるならだれでも天国に行くことができます。なぜなら、救いを得ているからです。でも、イエス様は天国に行くまで、信仰を用いて生きるように教えておられます。イエス様が「あなたがたの信仰が薄いからです」と弟子たちに言われたのは、天国に行くための救いの信仰ではなく、「信仰の機能」「信仰の働き」のことをおっしゃっているのです。この信仰は神さまがクリスチャンであるならば、もれなく与えてくださる神さまの賜物であります。しかし、パウロはひとり一人与えられている信仰の量が違うと言っています。ローマ123「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」また、パウロは人々の信仰を補いたいと言っています。Ⅰテサロニケ310「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」

 イエス様はこのところで、「もし、からし種ほどの信仰があったら」とおっしゃっています。これは、「からし種くらいの信仰しかない人がいる」という前提であります。ユダヤでは、からし種は小さいものをたとえる時のたとえであると前のポイントで申しあげました。日本人ならゴマ粒くらいの信仰と言った方が分かりやすいかもしれません。ある人はコーヒ豆くらいの信仰、またある人はリンゴくらいの信仰、またある人はドラム缶くらいの信仰と言えるかもしれません。でも、ドラム缶くらいの信仰があれば、「山よ、動け」と言えば、山を動かすことができるのでしょうか?確かに地球ができたころ、神さまの力によって山が動かされました。ヨブは「神が山々を移されるが、だれもこれに気づかない。神は怒ってこれをくつがえされる。神が地をその基から震わすと、その柱は揺れ動く。」(ヨブ95,6)詩篇には造山運動のことが記されています。「山は上がり、谷は沈みました。あなたが定めたその場所へと。」(詩篇1048まず、私たちは、神さまは山を動かすことができるということを信じなければなりません。でも、このところでは、ドラム缶くらいの信仰があれば、「山よ、動け」と言えば、山を動かすことができると言っているのではありません。一人ひとり、信仰の量は違います。でも、そこに無限大の神さまの信仰がプラスされたらどうなるでしょうか?1プラス無限大は無限大です。100プラス無限大は無限大です。1000プラス無限大も無限大です。つまり、その人がたとえからし種だろうと、ゴマ粒くらいの信仰だろうと問題はないということです。簡単にいうと山を動かす信仰は、私たちの信仰の大小にはよらないということです。その根拠になるみことばがマルコ11章にあります。マルコ11 22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。マルコ11章は、マタイ17章と同じようなことが言われています。違うのは、山がどこかに移るか、海に入るかの違いです。重要なのは、マルコ1122「神を信じなさい。」ということばです。これは原文では、「神の信仰を持ちなさい」です。ある時、ある状況において、神さまがあなたに無限大の神の信仰を下さるときがあるのです。その時のあなたの信仰の大きさの大小は問題でありません。重要なのはそれを受け取る信仰です。たとえからし種ほどの信仰でも、「私はそれをいただきます。アーメン」と願えば、それで十分なのです。でも、「私はそんなものいりません」と言えば、いくら神さまでも無限大の神の信仰を与えることができません。なぜなら、あなたが信仰の手を差し出していないからです。神さまの信仰が、するっと滑り落ちてしまいます。

 私は4人の子どもに自転車乗りを教えました。正確には記憶していませんが、おそらくお手伝いはしたと思います。お父さんは後ろから荷台をしっかり押さえます。子どもがやることはハンドルをにぎることです。べつにペダルを踏んでも、踏まなくても前に進みます。なぜなら、私がちゃんと押さえて、押しているからです。でも、子どもが「こわい!」と言って、手を放したらどうでしょう?ハンドルが「くにゃっ」と曲がり、そこで止まってしまいます。子どもがすべき一番重要ことは、ハンドルを放さないことです。あとは、こっちがなんとかやります。ハンドルを握るということは、私たちが自分に与えられた信仰を用いるということです。足りない分は神さまの力、神さまの信仰が助けます。しかし、人よりもかなり大きな信仰が与えられる人がいます。Ⅰコリント12章では「信仰の賜物」と言われています。また、Ⅰコリント13章では「山を動かす信仰」と言われています。この賜物を持っている人は、他の人よりも大きなことを信じることができます。神さまはその人の「信仰の賜物」を用いて偉大なことをなさることがよくあります。歴史的にはジョージ・ミュラーが有名です。彼は孤児院を5つ運営しましたが、生涯5万回祈りがきかれたそうです。このような逸話があります。暴雨で荒れた次の日の朝、孤児院には食べる物は何も残っていませんでした。400人の孤児たちと一緒に空の食卓に囲んですわって、ミュラーは手を取り合って食前の祈りを捧げました。彼の祈りが終わった時、一台の馬車が孤児院の門をたたきました。その馬車には、朝にちょうど焼いたパンと新鮮な牛乳が一杯ありました。近隣の工場で従業員たちのためのピクニックに使うために注文したけれど、暴雨でキャンセルされ、孤児たちに送られたのだそうです。

 韓国のチョー・ヨンギ牧師が牧会していたヨイド教会は70万人の教会員数でした。多くの牧師たちが「チョー先生のような大教会になることを信じます。1000名教会になることを信じます」と信仰をもって宣言しました。私もその一人ですが、そうなりませんでした。「チョー先生は『夢と信仰をもって宣言すればそうなる』と言っていたのに、何故なんだろう」と思いました。後で分かったのですが、チョー・ヨンギ牧師には信仰の賜物があったのですね。だから、あのような大会堂を献堂し、多くの癒しが起こり、大勢の人たちが救われたんだと思います。チョー・ヨンギ牧師はどうして何十万人の人たちを牧会できたのでしょうか?区域礼拝とか断食祈祷とかいろいろ言われています。でも、私が思うには、チョー・ヨンギ牧師はいつも信仰のメッセージをします。病の癒しや奇跡、物質的な繁栄、幸いな生活、問題解決…それを聞いた会衆が信仰の口を大きく開けて、「私のものです」と信じます。そうすると、会衆に信じたようなことが起こるのです。チョー・ヨンギ牧師は信仰の種を花坂爺さんのようにばらまくのです。それを受け取った会衆がその信仰を育てるのです。彼らが信じて祈っていくとまもなく現実のものとなるのです。私も講壇の上から信仰のことばを発しています。ある人は「それは私のものです」と信じます。すると、神さまがその人の信仰を用いて下さり、山が動くような奇跡が起こるのです。信仰は目には見えません。しかし、信仰を用いていくなら後から形が現れてきます。実際に見えるものは信仰はいりません。まだ見えていないものを得たかのように信じるのが信仰なのです。

ヘブル111はこの信仰の最も有名なことばです。日本語訳よりも、キングジェームス訳の方が的を得ています。直訳するとこうなります。ヘブル111「信仰とは望んでいる事柄のsubstance実体化であり、見ていない事柄のevidence証拠です」。あなたが望んでいることを実体化してみましょう。神さまはそれを用いて、大きなことをしてくださるのです。どんなことを望んでも罰せられたり、罰金を取られたりしません。神さまも「そんな馬鹿なことを望むな」とは簡単におっしゃらないでしょう。多少の修正や変更はあるかもしれませんが、全否定なさる神さまではありません。イエス様は「どんなことでも、あなたがたにできないことはありません」とおっしゃいました。話半分でもすごいじゃないですか?イエス様は嘘つきではありません。あなたが今かかえている問題の山に向かって、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。イエス様は「ここからあそこに移るようにしてください」と祈りなさいとはおっしゃっていません。「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです」とおっしゃったのです。「山に言え」と命じられています。ゴスペルにspeak to the mountainという賛美があります。speak to the mountain, speak with authority, and mountain must move.山に向かって言いなさい。権威をもって言いなさい。そうすれば山は動かなければならない(動くに違いない)。小さな信仰でも大丈夫です。なぜなら、神さまが大きな信仰を持っておられるからです。

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