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2017年4月29日 (土)

変貌の山 マタイ17:1-8 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.4.30

 ペテロがピリポ・カイザリヤで「あなたは生ける神の子、キリストです」と告白しました。それから6日たって、イエス様は3人の弟子たちを連れて、高い山(おそらくヘルモン山)に登られました。イスラエルでは証人の数は2人かそれ以上と定まっていました。この3人は目撃者だったわけです。イエス様は彼らに「いま見た幻をだれにも話してはならない」と命じられましたが、どのような幻を見たのでしょうか?きょうは、彼らが見た幻について3つのポイントでお話ししたいと思います。

1.イエスの変貌

 マタイ172「そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」「御姿が変わり」の「変わり」はギリシャ語でメタモルフォーです。「変容する」「変貌する」という意味です。英語の聖書ではtransfigure で、「神々しい姿に変えられる」という意味があります。さなぎが蝶に変化することを変態と言いますが、同じことばです。つまり「全く別の姿に変わる」ということです。イエス様の顔が太陽のように輝いたとありますが、これはヨハネ黙示録1章のイエス様の栄光の姿と同じです。そればかりか、着ておられた衣も光のような白くなったと書いてあります。これはどういうことなのでしょうか?子どもの頃、豆電球に紙袋をかぶせて、スイッチを入れたことがあります。すると、ボーっと白く輝きます。ということは、イエス様は内部から光ったということです。そのため、顔も衣も照り輝いたのではないかと思います。ヨハネ114「ことばは人となって、私たちの間に住まれた」とあります。これは直訳すると「ことばは肉となって、天幕を張られた」であります。イエス様は肉体を持っておられましたが、内側の霊魂は神そのものでありました。だから、このときイエス様の霊魂が栄光の光を放ち、肉体や衣にまで現れて来たと考えるべきであります。それは、「御姿が変わり」ではなく、「本来の御姿に戻った」という方が妥当なのであります。弟子たちはイエス様の本当の姿を垣間見ることができました。それを目撃したヨハネは「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」(ヨハネ114と福音書で証言しています。

 では、何のためにそのような姿になられたのでしょうか?それは、6日前にペテロが「あなたは生ける神の子、キリストです」と告白したことに端を発しています。イエス様はそのとき、「あなたは幸いだ」とペテロをほめました。なぜなら、それが当たっていたからです。そして、この高い山に3人の弟子たちを連れて、御姿が変わったということは、ご自分がそういう者であるということを証明するためだったのです。ヤコブは殉教しましたが、ペテロとヨハネは、ご栄光の姿を後から証言しています。ペテロは「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです」(Ⅱペテロ116と言っています。ヨハネはその時だけではなく、パトモス島にいた時も見ました。これは、弟子たちだけではなく、教会の私たちに「イエス様が神の子、キリストである」ことを伝えるためだったと思います。それは聖書のことばが作り話ではなく、真実だということです。

 使徒パウロもダマスコの途上で栄光のイエス様と出会いました。その光があまりにも強かったのか、パウロは3日間も目が見えなくなりました。パウロ自身「その光の輝きのために、私の目は何も見えなかったので、一緒にいた者たちに手を引かれてダマスコに入りました」(使徒2211と証言しています。パウロはペテロやヨハネのように、具体的に栄光のイエス様を描写していません。でも、パウロは私たちも、主の栄光の姿を見ることができると言っています。Ⅱコリント318「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」アーメン。パウロは私たちが「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行く」と言っています。「姿を変えられて行く」というギリシャ語は、イエス様と同じ「メタモルフォー」です。つまりどういうことかと言うと、イエス様の栄光の姿が遠い存在ではなく、私たち自身にもその栄光が反映されていくということです。ある人たちは、「私は救いを受けていますが、罪人のかしらで、罪に汚れています」とおっしゃるかもしれません。謙遜かもしれませんが、その人に主の栄光が全く反映されていないとしたら救いを疑わなければなりません。なぜなら、聖霊によって「主と同じかたちに姿を変えられて行く」のが標準のクリスチャンだからです。これはものすごいことであります。ペテロやヨハネの証言は間違いないと思いますが、私たちも主の栄光にあずかり、キリストの証人になりえるということです。「私を見たら、キリスト様がわかります」と言えたら最高であります。

 パウロは「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ127と言いました。また、イエス様は「私は世の光です」(ヨハネ812と言われました。つまり、私たちの中に栄光のイエス様が住んでおられるなら、内から外へと栄光の輝きが現れてくるのは当然であります。去る1月、ニュージーランドからクリス・ゴアという先生が来られました。先生が子どものとき行っていた教会で、“Little my light shine”「私の中にある小さな光」という賛美を歌っていたそうです。先生はおっしゃいました。「しかし、それは間違いです。私たちは棚に隠すことのできないほどの光を持っています。私たちの中に住んでおられるお方は大きな方です。私たちは世の中を照らす大きな光です。イエス様は私たちを世の光です、とおっしゃいました。今こそ私たちの光を外に向かって照らす時です。」アーメン。私たちは聖書から主の栄光を想像するだけではなく、私たち自身もその栄光を見ることができるのです。なぜなら、私たちの中に栄光の主が住んでおられるからです。私たちを通して、主の栄光が現されることを信じます。

2.サミット会議

 マタイ173「しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。」良く見ると、イエスさまだけではありません。なんと、モーセとエリヤが現れてイエス様と話し合っているではありませんか?でも、どうしてあの人がモーセで、どうしてあの人がエリヤだと分かったのでしょう?だって、ペテロたちは見たことも会ったこともないはずです。二人とも死に方が普通ではありませんでした。モーセはピスガの頂で死にましたが、墓がどこにあるか分かりません。申命記346「主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。」とにかく、モーセの魂は陰府の上の階に行ったと思います。では、エリヤはどうでしょうか?Ⅱ列王記211「なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。」エリヤはエノクのように、死を見ないで天に引き上げられました。この二人はよっぽど神さまから愛されていた預言者ではなかったかと思います。でも、イエス様が死んだモーセとエリヤをもう一度呼び戻したのはなぜでしょう?

 ちょうどイエス様とモーセとエリヤがいるところは、ヘルモン山の上でした。まさしく、サミット、頂上会議であります。モーセは律法の代表者として呼ばれました。また、エリヤは預言者の代表として呼ばれたのではないかと思います。弟子たちでは相談相手にはならないので、この二人を呼び戻して会議を開いたのではないかと思います。では、いったい何を話し合っていたのでしょうか?マタイには書いていませんが、そのことはルカが記しています。ルカ9:31「栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」日本語の聖書では、「ご最期」つまり「死ぬとき」と訳しています。しかし、ギリシャ語聖書は「エキサダスについて話していた」と書いてあります。エキサダスというのはユダヤ人ならだれでも分かりますが、70人訳の出エジプト記の名称であります。エキサダスには、主がモーセによってイスラエルの民をエジプトから解放した出来事が記されています。つまり、ルカは「エキサダスとはキリストが悪魔から人類を解放する出来事なんだ」と解釈しているのです。そのことをイエス様がエルサレムで遂げようとしているということです。それは、モーセの律法の完成であり、エリヤに代表される預言の成就だということです。つまり、どうしてもエルサレムで十字架にかかって、贖いを成し遂げなければならないということです。それは、少し前に、イエスさまがペテロに「私は殺されて、三日目によみがえる」と告げたのと同じ内容です。

 ペテロが信仰告白した後、変貌したイエス様が、モーセとエリヤを呼んで会議しました。その場所はおそらくイスラエルの北、ヘルモン山であると言われています。イエス様はこのあとまっすぐエルサレムに向かわれます。つまり、イエス様の公生涯のターニングポイントは変貌の山だったということです。ルカ福音書にそのことが書かれています。ルカ951「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」と書いてあります。ルカ福音書のモチーフは、北のヘルモン山から、南のエルサレムに向かうように書かれています。イエス様の御顔は厳しいお顔だったのではないかと思います。つまり、エルサレムで遂げようとしておられるエキサダス(解放)のため集中しておられたのです。エルサレムに行くことを「上る」と言います。日本も東京に向かって、道路や鉄道が走っています。ですから、東京に向かうのを「上り」と言って、東京から遠ざかるのを「下り」と言います。でも、私が思うのですが、ヘルモン山で、イエス様は栄光の神の御姿になられました。そして、モーセとエリヤを呼んで頂上会議をしました。もし、イエス様がただの人間であるならば、死にたくありません。その時は一番天国に近い状態でしたので、そのまま天国に帰ることができたかもしれません。なのに、エルサレムで多くの苦しみを受けて殺されるなんてイヤなことです。ということは、ヘルモン山が栄光の頂上でしたら、エルサレムはどん底であります。つまり、イエス様のこれからの人生は、下り坂であります。栄光ということを考えたら、どんどん下って行くことになります。繰り返しになりますが、イエス様の公生涯のターニングポイントは変貌の山だったということです。

 私たちの人生のおいてもターニングポイントがあるのではないでしょうか?「あの時が人生で一番良かった、最高の時だった」ということはないでしょうか?もう年を取ったので、下り坂でしょうか?ある人が言いました。「人間、昔のことを懐かしむようになったら年なんだ」と。もし、私たちの人生のどん底が老いであり、死であるとしたらまことに残念です。しかし、良く考えるとイエス様はエルサレムで死ぬだけではありません。イエス様は何とおっしゃっているでしょうか?「多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」と言っています。死が終わりではなく、三日目によみがえりがあるということです。これは人生の大逆転です。つまり、エルサレムで成し遂げるエキサダスの向こうには、復活があるということです。復活にはいろんな意味があります。1つは死を打ち破るということです。イエス様は私たちの代表として、死んで、三日目によみがえられました。それは、死が終わりではなく復活があるという保証であります。ということは私たちイエス様を信じる者も、どん底の死で終わるのではなく、最後に復活があって完了するということです。ハレルヤ!少し前に俳優の松形弘樹さんがお亡くなりになりました。親友の梅宮辰夫さんが何と言ったでしょう。「人間、死んだらおしまい」と涙ぐんでいました。その続きがブログに載っていました。「遺品も花もない。骨だけがバラバラになって出て来たんです。悲しかった。人間ってこんな簡単なのかとつくづく思った」。これが正直な人間観だと思います。イエス様は確かに栄光の山から十字架へと下られました。本当に死んで陰府に降られました。でも、死を打ち破って三日目によみがえられました。と言うことは、私たちも死が終わりではなく、イエス様と同じ栄光の姿によみがえるということです。イエス様はエルサレムでどん底までくだられましたが、三日目によみがえり、天に昇られました。矢印で言うと、ヘルモン山からエルサレムに降りました。しかし、グーンとそこから急上昇して天にまで昇られたのです。ハレルヤ!主にあって私たちにも希望があります。人生は下降するだけではなく、やがて急上昇にあずかるのです。人間、死んだらおしまいではありません。なぜなら、栄光の復活があるからです。

3.天からの御声

 マタイ174すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ここでもペテロがしゃしゃり出ています。ペテロはずっとその山に留まりたいと願いました。だから、三つの幕屋を造りたいと申し出ました。英語の聖書ではテントとなっていますが、詳訳聖書はbooth(小室)となっていました。ペテロの間違いは何でしょうか?イエス様と他二人を同じ立場に考えていたということです。イエス様のテント、モーセのテント、エリヤのテントを三つ並べたかったのです。そして、ヘルモン山の上で聖会を開きたかったのです。私は座間キリスト教会にいた頃、よく聖会に行きました。大体、聖会というのは山の上で開かれます。箱根、修善寺、あるいは韓国の祈祷山にも行きました。聖書では山は聖なるところなので、聖会がよく開かれるわけです。外界を離れて、みことばに聞き入るすばらしいひとときです。しかし、山を下ると悪いことが待っています。サタンが恵みを奪おうと待っています。ちょうど、マタイ17章の後半は「てんかんの子ども」のことが記されています。それはともかく、ペテロはずっと変貌山にとどまっていたいと願っていたのです。

 ところがその時です。マタイ175-6彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。「雲」というのは栄光のしるしで、そこに神さまの臨在が濃厚に現れたということです。たちまちあたりがみえなくなり、雲の中から声がしました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。これは、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたときと同じことばです。あの時は、公生涯のはじまりで、メシヤの就任式のおことばでした。ところが今回は、これからエルサレムで遂げるエキサダスの頂上会議の時でした。父なる神の、そのことに対する是認であり、確認ともとれます。しかし、同時にそれはペテロの間違いを訂正するためでもありました。なぜなら、「彼の言うことを聞きなさい」とおっしゃっているからです。その証拠として、弟子たちが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであったからです。これはどういう意味でしょう?

 確かにモーセは律法の代表として呼ばれました。エリヤは預言者の代表でしょう。でも、彼らは神さまのしもべであり、人間です。でも、イエス様は違います。イエス様は神の子であり、しもべではありません。父なる神さま自らが「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言われました。つまり、イエス様は別格で、神の子であり、父なる神の代わりだということです。イエス様はヨハネ福音書で「私が父におり、父が私におられる」と言いました。ですから、代わりというよりも同格であり、一体だということです。最後の最後に、神の御子が地上に人として下られ、エルサレムで贖いのわざを成し遂げるということです。このようなことを私たちが知るならば、「キリストの十字架って大変だったんだなー。ありがたいなー」と思うのではないでしょうか?今は何でもインスタントな時代です。自動販売機で何でも買えます。アメリカに行くと車が自動販売機で買えるそうです。「救いもイエス様を信じたら、救われる。パラパラと水をかけてもらって」みたいになるなら大変なことです。信仰義認は確かにすばらしい教理です。でも、背後に神さまがどんな犠牲を払ってくださったか忘れているかもしれません。もし、そうであるならば、何か困難なことがやってくると、ポイと信仰を捨ててしまうでしょう。父なる神さまがこのところで、もう一度、お声をかけてくれました。それは、これからどんどん下って行き、エルサレムでどん底に降ることを知っておられたからです。

 弟子たちはそのとき恐れて、顔をふせました。旧約聖書では神を見るということは死だったからです。ペテロとヤコブとヨハネは、その時、打たれて死ぬと思ったかもしれません。でも、どうでしょう?マタイ177-8すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。ありがたいです。父なる神さまは恐れ多い感じがしますが、イエス様はそうではありません。確かにご威光をまとったイエスさまは近寄り難ったかもしれません。でもここでは、手を触れて起こして下さる優しいイエス様であります。イエス様の栄光は、私たちを遠ざけるのではなく、何か親しい、愛と慈しみに富んだ栄光であります。だから、そのことを目撃したヨハネは「この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ114と証言しているのです。私たちは近寄り難いイエス様ではなく、恵みとまことに満ちておられるイエス様を想像すべきであります。ペテロはイエス様が捕えられたとき、中庭でイエス様を三度も知らないと否認しました。ルカ福音書には「主が振り向いてペテロを見つめられた。…主のおことばを思い出した」(ルカ2261)と書いてあります。おそらく、イエス様の顔は怒りや蔑みの顔でなく、恵みとまことに満ちておられたのではないかと思います。私たちの信仰がおかしくなり、もしかしたらイエス様から離れる場合があるかもしれません。でも、その時、手を触れて起こして下さる、優しいイエス様を思い出すべきであります。

変貌の山はイエス様ご自身が神の子であり、最高の啓示であることを示している箇所です。その時3人の弟子たちが証人として選ばれました。私たちは現在、証人たちが書き残した聖書を持っています。私たちは聖書からただ信じるしかないのでしょうか。ところが、パウロは「御霊なる主の働きによって栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」と言っています。私たちはキリストを信じたとき霊的に生まれ変わりました。でも、神さまはもっと高みへと私たちを導いておられます。それは天国に行ってからではありません。今、この地上にあっても、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行くのです。「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント416そして、どんな状況、どんな環境の中にあっても、主の栄光が私たちの内側から外に向かって放たれていくことを信じます。

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2017年4月23日 (日)

~異邦人ルツへの神の憐れみ~亀有教会副牧師 毛利佐保

◆聖書箇所: ルツ記1章1-6、15-17節

1:1

さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。

1:2

その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、

1:3

ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。

1:4

ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。

1:5

しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。

1:6

そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、【主】がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。

 

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1:15

ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」

1:16

ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。

1:17

あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、【主】が幾重にも私を罰してくださるように。」

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ルツ記と言えば、先ほど読んでいただいた箇所、

ルツ記1:16あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」ということばがよく知られています。ルツが姑のナオミに言ったこの言葉は、ルツがナオミに仕える姿や神への信仰をうまく表しています。

 

ルツ記のあらすじは、みなさんご存知だと思いますが、今日はルツ記を読んで神様からのメッセージをいただくとともに、少し視点を変えて旧約聖書全体からイスラエル民族と異邦人との関係についても見ていきたいと思います。

 

まずルツが描かれている時代背景は、1:1で 「さばきつかさが治めていたころ」と書かれていますので、旧約聖書の士師記の時代の出来事だと思われます。士師の時代というのは、モーセからリーダーを引き継いだヨシュアが死んだあとの時代です。

士師記にはギデオンやサムソンなど、12人の士師(さばきつかさ)たちが出てきますが、士師記21:25に 「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」と書かれているほど、混乱した時代でした。政治的にも道徳的にも腐敗していて、神様への背教や偶像崇拝などが行われていました。

 

そのような暗黒の時代に、野に咲く一輪の花のようなエピソードとして記されているのがルツ記です。ルツ記のあらすじを簡単に申し上げますと、

 

①ベツレヘムに住むユダ族のエリメレクと妻ナオミ、ふたりの息子マフロンとキルヨンは、ききんのためにモアブの野に逃れ、そこに滞在した。

②エリメレクが死ぬ。息子ふたりはモアブ人の妻(ルツとオルパ)をめとるが、10年後に死ぬ。

③ナオミはベツレヘムに戻ることにした。モアブ人の嫁、ルツとオルパには、実家に戻るように勧めた。

④弟嫁のオルパは実家に戻り、兄嫁ルツはナオミとともにベツレヘムへ。

⑤ルツはナオミとの生活のためにボアズの畑で落ち穂を拾う。

⑥ボアズはエリメレクの畑の買い戻しの権利のある親類だった。(ただし二番目の権利者)

⑦ナオミの勧めで、ルツは打ち場でボアズに求婚する。

⑧ボアズは町の門で一番目の買い戻しの権利のある親類と取引をする。

⑨ルツとボアズは結婚し、オベデという息子が生まれた。オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデ。

 

というストーリーになります。この、

 

◆ルツ記から私たちが知り得ることは、

 

①神は律法を通して信仰者たちを守られた。

 

・・・・・ということです。

この律法というのは、買い戻しの権利についての掟で、「レビラート婚」といわれているものです。

 

「レビラート婚」とは、子どものないまま死んだ男子の兄弟は、その寡婦を妻として迎え、生まれた子に、家名、身分、財産を継がせなければならないという慣習です。この慣習は創世記38章のユダと嫁のタマルの記述や、ルツ記に見られます。また、これと同じ慣習は、ヒッタイト法やアッスリヤ法にも見られます。

 

日本でもかつては、「逆縁婚」とか「もらい婚」と呼ばれる、レビラート婚のような制度があったようです。

今大河ドラマで「おんな城主直虎」をやっていますが、戦国時代の婚姻などは本当に訳がわからないですね。

政略結婚もあって、みんなが親戚、みんなが兄弟みたいな感じです。

明治時代には「逆縁婚」が禁止された時もあったようですが、戦時中など、夫が戦死、あるいは行方不明になってしまった未亡人が生活に困窮することが無いための措置として行われていたこともあったようです。

 

では、聖書に規定されているレビラート婚を見てみましょう。

 

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<申命記24:5-6

25:5

兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、入り、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。

25:6

そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。

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と書かれています。

この結婚が、どうしても嫌なら断ることはできましたが、断るとこのような仕打ちが待っていました。

 

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25:7

しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」

25:8

町の長老たちは彼を呼び寄せ、彼に告げなさい。もし、彼が、「私は彼女をめとりたくない」と言い張るなら、

25:9

その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」

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レビラート婚を断ったなら、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」と言わなければならない・・・とは、大変不名誉な仕打ちですね。

このことは、旧約聖書では結婚が単なる個人同士の愛情の問題ではなく、むしろ、次の世代も含む、共同体全体の問題であることを物語っています。

 

ルツ記のナオミの場合を考えると、先ほどお話した戦時中の未亡人のように、夫エリメレクに先立たれ、息子をふたりとも失ってしまったナオミの生計を確保する「保護措置」としてのレビラート婚の意味合いが強いです。

 

ナオミは夫も息子も失った自分の境遇を嘆き、それが全能者である神のさばきであると受け取っていました。

 

「ナオミ」という名前の本来の意味は、「わたしの喜び、快い」というものでしたが、ベツレヘムに戻ってきた時には、ルツ記1:20に書かれているように、「ナオミと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください」と言っています。

 

ナオミは、「神からいただいた故郷ベツレヘムの地を捨てて、モアブの野で暮らしたことで神を怒らせてしまい、夫が死んだのではないだろうか。」と思っていたのでしょう。

そして、「それでも私はすぐに故郷に戻らずに、息子たちにモアブ人の妻を娶らせた。そのことで、息子たちも神の怒りに触れて死んでしまったのではないだろうか。」と考えていたのではないでしょうか。

 

しかし、神様はナオミとルツをお見捨てにはなりませんでした。ルツは買い戻しの権利を持つボアズと出会ったのです。レビラート婚の掟によると、ルツの場合は夫のマフロンの兄弟キルヨンも死んでしまっていたので、買い戻しの権利のある親類の人が代わってこれを成すことになります。

 

ナオミは言いました。

 

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<ルツ記2:20>

ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない【主】が、その方を祝福されますように。」それから、ナオミは彼女に言った。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」

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この「買い戻しの権利」という言葉は、旧約聖書の原語ヘブル語では、「ゴエール」という言葉を使っています。「ゴエール」のもともとの言葉は、「ガアール」という言葉で、その意味は、「価をもって、以前自分の所有であったものを買い戻す。」あるいは、「復讐をもって取り戻す。」という意味があります。「ゴエール」は「ガアール」の分詞形で、「贖う者」という意味になります。

 

「贖う者」というと、イエス様の「十字架の贖い」を想い起しますが、ボアズが「異邦人を救うイエス・キリストの型である」と、よく言われる所以は、このゴエールという言葉からきています。

 

それにしてもボアズは、親切で誠実な良い人です。土地を買い戻すのにはそれなりの大金が必要です。

しかも、ボアズは、その土地を買い戻しても自分のものにはならないのです。

その土地は将来ルツとの間に生まれた子どものものとなるのです。

 

そういった損得勘定から、エリメレクの土地の第一の買い戻しの権利を持っていた親類は、権利を放棄してしまいました。ボアズは二番目に買い戻しの権利を持つ者だったので、エリメレクの家系を絶やさないために、また、ナオミとルツの生活を守るために、ルツと結婚しました。

もちろん、ボアズはルツが一生懸命姑のために働いている姿を見て、好意を持っていたこともあったと思います。

 

そして神様は、ナオミ、ルツ、ボアズのそれぞれの信仰に目を留めてくださり、律法を通して信仰者たちを守られました。神様は、ナオミの嘆き、ルツの姑に仕える姿、ボアズの誠実さに、レビラート婚を守ることを通して応えてくださったのです。神様の祝福は、神への恐れと愛と信仰が根底にあることが、このルツ記のレビラート婚から見出すことができます。

 

◆ルツ記から私たちが知り得ることは、

 

②神は異邦人をも愛し祝福してくださる。

 

・・・・・ということです。

聖書では、アブラハムの直系の子孫のイスラエル人以外は、みんな異邦人です。私たちも異邦人です。

 

ルツはモアブ人でした。モアブ人の祖先はアブラハムの甥であるロトとその娘たちとの間に生まれた子です。姉の子がモアブ人、妹の子がアモン人です。このことからモアブ人もアモン人もイスラエル人とは血縁関係があることがわかります。しかし彼らが信仰していた神は人身犠牲、特に幼児犠牲を求めるような神でした。

 

神様はアモン人とモアブ人を忌み嫌っておられました。

それは、イスラエルの民たちがエジプトから戻ってきた時に、モアブ人の王バラクはイスラエル人を恐れて受け入れずに、バラムを雇ってのろいをかけて追い出そうとしたからです。このことは民数記の22章に書かれています。

 

そして申命記23:3-4にはモアブ人についてこのように書かれています。

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<申命記23:3-4

23:3

アモン人とモアブ人は【主】の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、【主】の集会に、入ることはできない。

23:4

これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。

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これほどまでにモーセの時代に忌み嫌われていたモアブ人ですが、時が経ち、ルツが生きた士師の時代の頃には、比較的イスラエル人とモアブ人は友好関係を結んでいたようです。町の門でボアズが買い戻しの権利の取引をしたときも、ルツがモアブ人であるということを問題にした人はいませんでした。

 

それどころか、神は、モアブ人ルツの信仰を見て大いに祝福されました。

もともと神様は在留異国人にも憐みをかけておられました。

 

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<出エジプト22:21>

在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。

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このことからも、神は外国人であっても、イスラエルの神への全き信仰を表した者には、憐みをかけてくださり、祝福してくださる御方であることが解ります。マタイの福音書のダビデの系図には、他にも異邦人の遊女ラハブが、ボアズの母として入れられています。遊女ラハブは、ヨシュアのエリコ陥落のために手助けをした女性です。

 

神様はイエス様をこの地に遣わしてくださるずっと前から、私たち異邦人を排除することなく、目を留めてくださっています。ルツのように、「私の民」として隣人を愛し、「私の神」として、主を愛す者となりたいものです。

 

◆ルツ記から私たちが知り得ることは、

 

③神の律法をはき違えるのは人間の側。

 

・・・ということです。

新約聖書の福音書には、パリサイ人、律法学者たちがモーセの律法をはき違えてイエス様を敵対視していた様子が記されています。例えば彼らは、安息日に病人の癒しを行なったイエス様を訴えようとしました。

 

安息日は、神がこの世界を創造されたことを喜ばれて設けられた聖なる日、主の喜びの日です。

何が何でも働いてはならない、休まなくてはならない日ではありません。イエス様は主が喜ばれることをなさいました。癒しを必要としている人を治すことは主が喜ばれることなので、良いことなのです。

 

エズラ・ネヘミヤの時代にも同じような律法のはき違えと思えるようなことが起こっています。

エズラ・ネヘミヤ記は旧約聖書の歴代誌の後に記されている書物です。
♪歴代、エズ、ネヘ、エステル書♪

サウル、ダビデ、ソロモン王の統一王国時代、そして分裂王国時代、バビロン捕囚が終わって、イスラエルの民が故郷エルサレムに70年ぶりに戻って来た時の記録です。

 

エズラはアロンの子孫でモーセの律法に通じている学者でした。

エズラがペルシャからエルサレムに着いた時、「イスラエルの民や、祭司や、レビ人たちが忌み嫌うべき国々の民(外国人)と雑婚している。」と聞き、律法の書に従って、すべての異邦人を追放しました。

 

夫婦は引き裂かれ、外国人の血が混ざっている子どもも、すべて追放されました。

このエズラ記、ネヘミヤ記に記されている雑婚に関する政策は大変無情なものでした。

 

中には偶像崇拝を行なわず、ルツのようにイスラエルの神に仕えた異邦人の妻もいたはずでしょう。家族ごと、イスラエルの神に仕えていた者もいたはずでしょう。そのような者たちを無情にも引き離した政策は、当時雑婚をしていたイスラエル人たちにとっては、神の憐みや祝福とはかけ離れたものだったことでしょう。

 

実はルツ記に関してこのような説があります。

ルツ記が書かれたのは、エズラ・ネヘミヤの無情な政策に対する「抗議」だったのではないかという説です。

「モアブ人のルツが、自分の故郷と宗教を捨てて、彼女の夫の家に忠誠をつくし、ダビデの系図に入れられた。」という事実を想い起こさせることで、無情なエズラ・ネヘミヤの政策に対して抗議をしたのではないかと考える人がいます。

 

これには賛否両論ありますが、「ルツ記は何のために、誰に向けて書かれたのか」ということを考えた場合、注目したいのは、このルツ記が聖書66巻の「正典」に入れられているという事実です。

旧約聖書39巻、新約聖書27巻がまとめられた時には、その都度、神様が介入なさったはずです。

ルツ記が聖書の正典に入れられた意味を考えてみると、神様の御心が解ってくるのではないでしょうか。

 

エズラ、ネヘミヤ記には、モーセの律法を遵守しようとする姿は描かれていますが、神様のことばが直接下ったというような記述は見当たりません。そのことから、当時の雑婚に対する政策は、エズラ、ネヘミヤや指導者たちの、人間的な考えによる粛清といった要素が強かったのではないかとも考えられます。

 

そんな中で、ルツ記はとても素朴で平和的な内容で、読む者の心を和ませ、豊かにし、励ましや希望を与えてくれる書物です。ルツ記の持つ世界観は、神への信頼、互いを受け入れ思いやる愛の心で満ち満ちています。

ルツ記を読むと、神様の御心とは何であるかということを改めて考えさせられます。

 

神様の律法をはき違えるのは、いつも人間の側です。十字軍、度重なる宗教戦争、ホロコースト、世界大戦など、聖書のみことばをはき違えた結果、憎しみ合い、多くの犠牲を生みました。

私たちは、神のことばである聖書を読む時に、神様の御心をはき違えることがないように気をつけたいと思います。私たちの思い込みで、せっかく神様が私たちにくださろうとしている、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の御霊の実を結べなくなったとしたら、何のためのみことばでしょうか。

 

今、日本は北朝鮮の問題でざわついています。私たちクリスチャンは、いつの時でも、このルツ記の世界観をもって、平和的な解決がなされるように、祈り求め、働きかけていきたいと思います。

 

◆ルツ記から私たちが知り得ることは、

①神は律法を通して信仰者たちを守られた。

②神は異邦人をも愛し祝福してくださる。

③神の律法をはき違えるのは人間の側。

 

神様の御心を知ることができますように!!

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2017年4月14日 (金)

復活の意義 Ⅰコリント15:12-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.4.16

 コリントの教会はキリストの十字架の贖いを受けて救われていました。しかし、キリストの復活は信じていませんでした。コリントはギリシャ哲学の影響を受けていたので、魂は肉体の牢獄の中に閉じ込められていると考えていたのでしょう。「死んだら魂が自由になるのに、なぜ、再び肉体に閉じ込められるのか、そんなのはナンセンスだ」と復活を否定していました。今日の私たちはキリストによる十字架の贖いと復活の両方を信じていると思います。でも、人はキリストの十字架の贖いを受けて救われるのに、なぜ、さらに復活が必要なのかということをお考えになったことがあるでしょうか?きょうは「復活の意義」と題して恵みを分かち合いたいと思います。

1.証拠としての復活

 私は数年前まで、キリストの十字架と復活を信じることが、救いのワンセットだと考えていました。つまり、キリストの死だけでは罪の赦ししか与えられず、プラスマイナス・ゼロの地点だと思っていました。そして、キリストの復活は私たちを義としてくださるためにあり、プラス地点に引き上げてくださるみわざだと考えていました。その根拠となるみことばは、ローマ425「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」このまま読むと、「主イエス様は私たちの罪のために死に渡された」、つまり罪の赦しであるように思えます。また、「私たちが義と認められるために、よみがえらされた」と考えてしまいます。それでは、罪の赦しと義とされることが、レベル的に違うことになります。でも、そうではありません。罪の赦しと義とされることは、同じことであって、表現が違うだけなのです。でも、なぜそのように間違った解釈をしてしまうのでしょうか?それは、復活が、人が義とされる目的のためであると考えるからです。つまり、主が復活されたことによって、私たちが義とされるという考えです。しかし、それは全く違っています。本当は私たちが義とされたので、主が復活されたのです。つまり、主イエスの復活が、私たちの義認の証拠であるということです。主イエスが神の義の要求を満たされたので、神さまが彼を復活させられたのです。さきほどのローマ425英語の詳訳聖書聖書をみますとこうなります。He was raised to secure our justificationとなっています。直訳すると、「彼は私たちの義認の保証になるためによみがえらされた」となります。つまり、私たちがキリストの復活を知るとき、「神さまはキリストの十字架で満足された。私たちはこれで義とされ、救われている」と安心することができるのです。

 それではⅠコリント15章からもう一度、そのことを考えてみたいと思います。Ⅰコリント154「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」とあります。キリストは私たちの罪のために死なれたのです。アーメンです。でも、同じ章の14節と17節を見てみましょう1514「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」1517「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」14節には「復活がなければ信仰も実質のないものになる」と書かれています。17節には「信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」と書かれています。「実質のないもの」と「むなしく」は英語の聖書では両方ともemptyです。Emptyは「空虚な、無意味な、むなしい」という意味です。使徒パウロは、「キリストが復活しなかったなら、キリスト教信仰は無意味だ」と言っているのです。でも、今日の教会が、クリスチャンが、そこまで復活を重要視しているでしょうか?おそらく、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」で救いを得られると考えていると思います。伝道のときも、「キリストが私の罪のために死なれたことを信じます。アーメン」と告白してもらうでしょう。そのとき、「あなたはキリストの復活も信じなければダメですよ」とは言わないでしょう。なぜ、使徒パウロはキリストの復活にこだわったのでしょうか?テモテにも「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい」(Ⅱテモテ28と勧めています。「十字架で死なれたイエス・キリストをいつも思っていなさい」とは勧めていません。なぜでしょう?なぜ、キリストの復活がそれほど重要なのでしょうか?

 昨年のイースターでも引用させていただきましたが、ウォッチマンニー著の『神の福音』という本があります。その第一巻に「十字架と復活」について書かれていました。一般的に、教会は「あなたがキリストを十字架につけたのです」と言います。それを聞いた人は「ああ、そうだったんだ。私の罪のためにキリストが十字架で死なれたのですね」と信じるでしょう。しかし、それは全く違っていて、私たちがキリストの十字架の贖いには全く参与していないということです。キリストが十字架で罪を負って裁かれたので、神さまの義に対する要求が満たされました。次に、神さまはキリストを信じる者を義とすることをお決めになられました。ですから、私たちはこのキリストを信じるとき義とされるのです。信じた人は「キリストは、私の罪のために死なれました」と言うでしょう。でも、「本当にキリストを信じて義とされるのか?神さまは私をそのようにご覧になっておられるか」という不安は残らないでしょうか?もしかしたら、死んだ後、神さまの前に立ったとき「実は、イエスを信じるだけでは十分ではなく、良いことをしなければならなかったのです。この罪の償いはまだ残っています」と言われたらどうするでしょう?もしかしたら、天国の入口までは行けたけど、地獄に突き落とされるかもしれません。ジョン・バニヤンの本に天国の入口のすぐ脇に、地獄の入口があった」と書かれています。もし、そういう心配をして暮らしているなら、コリントの教会のように「あなたがたの信仰はむなしく、今もなお自分の罪の中にいる」ことになります。でも、そうじゃありません。復活は神さまがあなたを義と認めたことの証拠であります。何かの負債のために、お金を支払った場合、受領書をいただきます。キリストは私たちの罪の代価を全部支払って下さいました。キリストを信じるあなたは義とされるのです。だから、神さまはキリストをよみがえらせて、受領書を発行したのです。復活は、私たちへの神の受領書です。それは、その支払が十分であると認めるものです。あなたは今、ポケットに受領書を持っています。これから先、あなたが罪を犯したとしても、受領書を持っていれば安心です。キリストの贖いは十分であったので、裁かれる必要はないのです。だから、パウロはテモテに「死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい」と言ったのです。イースターの日は、特別にそのことを覚える日であります。あなたはキリストを信じたことにより罪赦され義と認められているのです。そのために、神さまはキリストを復活させられたのです。アーメン。

2.初穂としての復活

Ⅰコリント1519-20「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」世の中の人たちは、私たちは単なる希望を置いているだけと思っているかもしれません。しかし、キリスト教会の中にも、そういう人たちがいない訳でもありません。なぜなら、「キリスト教信仰とは精神的なものであり、心の支えだ」と思っているからです。つまり、その人にとっては救いかもしれないけど、他の人にとってはそうではないということです。そうなるとキリスト教信仰はきわめて個人的なものであり、主観的なものになります。確かに信仰というのは、そういう面があるかもしれません。でも、私たちが信じていることが虚構であり、事実とはかけはなれたものであるならどうでしょう?そうなると「私たちは、すべての人の中で一番哀れな者」と言われても仕方がないでしょう。新改訳聖書では「今や」となっていますが、口語訳とリビングバイブル、英語の詳訳聖書は「しかし、事実、キリストは」となっています。どうして「事実」と書いているのでしょう?英国の聖書は「真実は」と訳しています。J.B.フィリップスはBut the glorious fact「しかし、栄光ある事実は」と訳しています。おそらく「事実」と言いたいのは、証言者があまりにも多かったからだと思います。155節に以降には、キリストの復活を見た人の名前や数が上げられています。普通、証言は2人もしくは3人で十分でした。ところが、ケパ、12弟子、500人、ヤコブ、使徒たち全部、最後にこの書物を書いたパウロであります。ということは復活は紛れもない事実であって、否定しようがないからです。つまり、私たちキリスト教信仰は、作り話や虚構ではなく、キリストが復活したという事実の上に立っているということなのです。

しかも、パウロはこのところで「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」と言っています。聖書では肉体が死ぬことを「眠る」と言います。私たちの魂は死んでも眠りません。ルカ16章にありますが、金持ちと貧乏人ラザロには死んでからも記憶があったことが分かります。死ぬ、つまり「肉体が眠る」ということは、いつかは目覚めるという前提があるからではないでしょうか?パウロはこのところで、「死者の復活はある」と主張しています。おそらく、パウロは旧約聖書から「死者の復活はある」ということを知っており、それが信仰の標準であると確信していたのでしょう。ところが、コリント教会の人たちは、ギリシャ哲学の影響を受けており、「死者は復活しない、肉体は一度死んだら生き返ることはない」と信じていたのです。つまり、死者の復活はキリストとは関係なく、昔から議論されていたということです。日本人は西洋の教育を受けているため、人間は死んだら消えてなくなると考えています。それは人間を生物的な物質として捉えているからです。しかし、日本人はアニミズムの国、神道の国なので、死んだ魂はどこかに行くんだと本能的に信じています。だから、人が死んだら「他界した」と言って、どこかで生きていると信じています。聖書は死んだ人の魂と死んだ人の肉体の両方を語っています。イエス様はヨハネ5章でこのように教えられました。ヨハネ528-29「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」イエス様は善人も悪人もみんなよみがえると言われました。問題は、よみがえった後にいのちを得るか、さばきを受けるかの違いだということです。つまり、肉体的には一度よみがえるけれど、魂がいのちを得るか、さばきを受けるかどちらかだということです。できれば、私たちはさばきではなく、永遠のいのちを受ける方のよみがえりを得たいものです。

 「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」とありますが、これは正確に言うなら、クリスチャンとかクリスチャンでないとか関係ありません。キリストは眠った者、つまり肉体的に死んだ人の初穂として、死者の中からよみがえられたのです。つまり、死んだあと復活があるということが証明されたということです。コリント教会の人たちは「これはえらいことになった」と驚いたのではないでしょうか?なぜなら、ギリシャ哲学では、「肉体は悪なので、悪いことをしても魂には何の影響もない」と考えていたからです。そうではなく、肉体のことも責任があるからです。パウロは1521節からこの章の終わりまで、復活のからだがどのようなものなのか克明に記しています。これを1つ1つ解説したなら午後3時くらいまでかかるでしょう。あと10分で終わるためには、短くまとめる必要があります。パウロは「キリストにあって眠った者たち」(18節)と言っているので、キリストによって義とされ、救われている人たちの将来を言っています。簡単に言うと、この肉体では永遠の世界では生きられないということです。なぜなら、この肉体は地上のためであり、朽ちて死んでしまうからです。しかし、神さまは永遠の御国で暮らせるように、栄光の体を用意しておられます。栄光の体というのは、すなわち復活したキリストのからだです。キリストは朽ちない栄光のからだに復活したのです。そのキリストが初穂として死者の中からよみがえられました。ということは、キリストにある私たちも、キリストのようによみがえらされるということです。初穂というのは、一番、最初に熟した麦のことです。広い畑から初穂が熟したということは、その後、どんどん熟していくという保証になります。つまり、キリストの復活は私たちもいずれ復活するということの、保証なのです。キリストが復活したので、私たちも同じように復活するということです。だから、私たちが抱いている希望は単なる希望ではなく、事実に基づいた希望なのです。世の人たちには、このような希望がありません。だから、死を恐れ、死のことは隠しておきたいのです。その証拠に病院に行くと4のつく部屋はありません。昔、ある病院に行ったら、4階がありませんでした。3階のあと、5階になっていました。「そこまでやる必要はないのになー」と思いました。なぜなら、病院は必ずしも治るために入ることころではないからです。半数以上の人は病院で死ぬからです。だから、私たちは生きているうちにキリストを信じて、死の問題を解決しておく必要があります。イエス様はヨハネ11章でこのように言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ1125-26

3.勝利としての復活

 なぜ、復活が必要なのでしょう?キリスト教は魂の救いだけを言っていません。肉体の救いのことも言っています。言い換えると私たちの肉体が贖われることによって救いが完成するからです。私たちクリスチャンは「私は救われた、救われている」と言います。でも、それは「罪赦され、義とされている」「永遠のいのちが与えられている」という意味の救いです。しかし、私たちは、この肉体を幕屋にして暮らしているので、いろいろ問題が起こります。私たちの内なる人は日々新しいのですが、外なる人は衰えていきます(Ⅱコリント416)。だけど皆さん、私たちの本体は内なる人、魂です。外なる人である肉体は入れ物です。残念ながら、この世の人たちは、肉体のことしか考えていません。いろんな運動、サプリメント、化粧品、アンチ・エージング、いろいろ頑張っています。もちろん私たちも肉体をちゃんと管理し、健康に保つ必要があります。でも、この肉体は衰え、やがては死んでしまうのです。なぜなら、この肉体は地上のものであるからです。でも、神さまは私たちが天の御国で住める栄光のからだを用意しておられます。完全な救いとは何でしょう?それはこの肉体が贖われるとき、つまり栄光のからだに復活して、新しい天と新しい地において暮らす時であります。そこが私たちのゴールなのです。ハレルヤ!途中いろんなことがあるかもしれませんが、私たちのゴールはハッピー・エンドなのです。

 パウロがとても感動して述べています。Ⅰコリント1554-57「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」パウロはまるで死に人格があるように呼びかけています。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」このところから分かることは、死は仲間ではなく、死は敵であるということです。おそらく仏教では死をそのように捉えていないでしょう。死はだれにでも来るものであり、避けがたいもの、諦めるべきものとして捉えているのではないでしょうか?でも、死が初めからあったわけではありません。人類に死が入ったのは、アダムが罪を犯してしまったからです。本来、人間は神のかたちに造られ、永遠に生きるべき存在でした。ところが、食べてはならない木から取って食べたために、人は死ぬようになりました。アダムがすぐ死んだかというとそうではありません。霊的に死んだあと、肉体が900年も生きました。930歳まで生きました。でも、死にました。私たちは長いと思うかもしれませんけど、永遠に比べたら短い年数です。Ⅰコリント1521-22「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」アーメン。私たちキリストにある者です。私たちが復活するとき、このみことばが成就するのです。そして、そのとき死が完全に滅ぼされるのです。ですから、本当の勝利というのは、復活が起こり、死が滅ぼされる時なのです。その時、私たちの肉体は贖われ、完全に救われるのです。聖書はその実現を待っているのです。ハレルヤ!

私たちはどのような死生観を持っているでしょうか?「人間は死だらおしまいだ」という死生観でしょうか?それとも、「死は終わりではない、復活があり、勝利がある」という死生観でしょうか?実はそういう死生観を持っている人は、地上の生き方が世の人とは違ってきます。「希望はある」「報いはある」という人生で生きています。パウロは私たちをこのように励ましています。Ⅰコリント1558「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」アーメン。私たちの信仰は死んで天国に行くだけの信仰ではありません。私たちの信仰はまだ完成はされていませんが、地上に住んでいる時から効力を発しています。簡単に言うと、この地上の生活が、永遠の生活につながっているということを実体験するということです。そのために「しかし、事実、キリストは死人の中からよみがえった」となるのです。つまり、その人は死ぬべき肉体のまとっていながらも、復活を生きているということです。復活は死後にいただくものではありますが、同時に、今、復活の命をいただいているということも本当です。だから、イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」とおっしゃったのです。キリストを信じる者には、聖霊によって復活のいのちが与えられていると信じます。だから、私たちは死にそうで死なない、倒れそうで倒れないのです。たとえ、病にかかるときがあっても、復活のいのちが内側から現れてくるのです。パウロは「この宝を土の器の中に入れている」と言いました。この測り知れない力というのは、私たちたちから出たものではなく、イエス様のいのちなのです。イエス様のいのちは、私たちが死に近くなればなるほど、内側から現れてくるのです。あなたも、私にも、キリストの復活のいのちが与えられています。

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2017年4月 7日 (金)

神はそのひとり子を ヨハネ3:16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.4.9

 ヨハネ316節はキリストの福音を凝縮している箇所として有名です。D.L.ムーディは「聖書のすべての書物が失われても、ヨハネ316の御言葉さえあれば、人は救われる」と言いました。きょうは受難週にあたり、この箇所からキリストの十字架による救いについてメッセージさせていただきます。すでにクリスチャンになられている方は、福音を再確認するとともに、福音伝道の助けにしてくだされば幸いです。また、まだイエス様を受け入れていない方は、ぜひ、キリストにある神さまの愛と恵みをいただいてください。

1.神の義と神の愛

 『輝く日を仰ぐとき』という聖歌があります。1節と2節は「太陽と月を眺めるとき、雷が鳴り渡るとき、森で鳥のさえずりを聞くときまことの神を思う」と歌っています。これは神さまの偉大さ、一般恩寵を賛美しています。しかし、3節は「御神は世人を愛し、ひとりの御子を下し、世人の救いのために十字架にかからせたり」と歌っています。自然界を見ただけでは神さまが愛であることは分かりません。しかし、「父なる神がひとりの御子を十字架にかからせた、そこに神の愛がある」と賛美しています。なぜ、父なる神がひとりの御子を十字架にかからせる必要があったのでしょう?私たちは神さまが愛である前に、神さまが義であることを知ならければなりません。義のない愛は、本当の愛ではありません。神さまが「どんな罪でも赦すよ」と言った時から、神さまは神さまでなくなります。神さまは義なるお方ですから、1つの罪をも見過ごすことはできません。罪に対しては刑罰が伴います。刑罰を受け、罪を償ってはじめて、神さまは赦すことができるのです。たとえば、子どもが野球をやって、ボールが飛び込んで家の窓ガラスを割ったとします。持ち主は、その子に弁償させるでしょう。その子が無理であれば、親に弁償させるでしょう。でも、持ち主は「子どもがやったことだからと許す」とします。子どもを許しました、でも窓ガラスは割れたままです。持ち主はガラス屋さんを呼んで、直してもらいます。修理代が1万円かかりました。これが罪の赦しなのです。つまり、罪に対しては代償が伴うということです。この世では、損害賠償をしたり、何年間か刑に服する必要があります。神さまは私たちの創造者であり、主です。私たちが犯すすべての罪は、対・人という面だけではなく、対・神さまという面もあるということを忘れてはいけません。たとえば、ある人が不道徳なことをしたとします。日本人は「人に迷惑をかけていなければ良い」と言ったりしますが、神さまに対してそれは罪を犯していることになるのです。

 ところで、ヨハネ316節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」と書いてあります。神がひとり子を与えたというところに、2つのポイントがあります。第一は、ひとり子を人間として誕生させたということです。第二はひとり子を十字架に渡したということです。神さまには永遠の昔からひとり子がおられました。ひとり子は父と一体であり、分身にみたいな存在です。アダムが罪を犯した時に、ひとり子を遣わすという計画が既にありました。創世記3章にありますが、アダムとエバに「皮の衣を作って着せた」と書かれています。エデンの園ではじめて動物が殺され血を流しました。その皮を二人に着せたと言うのは、十字架の贖いを象徴しています。また、「女の子孫が、サタンの頭を踏み砕く」というのはイエス・キリストに対する預言です。神さまはアブラハムの子孫であるイスラエルから世界を救おうと計画しました。たくさんの預言者を遣わして、その使命を遂げるように勧めましたが失敗しました。最後に、ご自分のひとり子を世に遣わしました。しかし、イスラエルの民は彼を十字架に渡しました。でも、それは神さまの偉大な計画であり、単なる死ではありませんでした。イザヤ書53章に「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。…しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」とあります。イザヤは、神の御子が死ぬのは、「私たちの罪のためであった。私たちのすべての咎を負ったゆえである」と預言しました。そのことが650年後に成就したのです。なぜ、イエス・キリストが十字架にかかる必要があったのでしょう?それは神さまが罪ある人類を赦すためです。言い換えると、御子イエスが十字架で人類の罪を負って死ぬことにより、罪に対するご自身の義が満たされたということです。このことによって、罪ある人類を赦して、愛することができるということです。ある人が「十字架の縦棒は罪をさばく神のまっすぐな義を象徴している。そして十字架の横棒はすべての人を受け入れる神の愛を象徴している」と言いました。まさしく、十字架は神の義と神の愛が交差するところであります。

 聖書には、イエス様が十字架で発した7つのことばが記されています。一番最初は「父よ。彼らを赦してください。彼らは、何をしているのか分からないのです」(ルカ2334という祈りでした。イエス様はご自分を殺そうとしているローマ兵と十字架に渡したユダヤ人のために祈られました。しかし、それだけではありません。イエス様は大祭司としてあらゆる時代の人たちのために、「父よ。彼らを赦してください」ととりなしてくださったのです。ヘブル人への手紙にありますが、「キリストは、大祭司として、罪のために1つの永遠のいけにえをささげたのです」。「私が血を流して命を捨てますから、父よ。全人類を赦してください」という祈りです。イエス様は十字架で罪の代価を払ったのであります。そのあと、12時から、全地が暗くなり、3時まで続きました。午後3時ころ、イエス様は大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。それは、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」という意味です(マタイ2746)。イエス様はこの地上に来られた目的をよく御存じでした。なのに、この期に及んで、と申しましょうか?神さまに対する疑いとも取れる不可解な叫びをなされました。不思議なのは、イエス様はこれまで一回も「神さま」と呼んだことはなく、いつも「父」でした。ある人は「これは罪人としての呼びかけである。しかも、地獄でその人が発することばである」と言いました。では、イエス様はなぜ、このように叫ばれたのでしょうか?Ⅱコリント521「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」パウロのことばから分かるように、そのときイエス様は罪人として神さまからさばかれたのです。罪を負ったがゆえに、もう、父と呼べなくなったのです。そのとき、父なる神から引き離され、罪の恐ろしさを体験したのです。まさしく、そのときイエス様は地獄に突き落とされたのです。私たちはアダムの子孫として生まれたので、神から引き離される罪の恐ろしさを知りません。しかし、イエス様は永遠の昔から御父と一体であり、離れたことがありません。それが、罪が入ったために、御父から引き離されてしまったのです。パウロは「それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」と言いました。そうです。私たちが神の義となるために、イエス様は私たちから罪を取り除いてくださったのです。昨年も受難週のときに申しあげましたが、これは私たちがお願いしたのではなく、神さまと御子イエス様がなさられたことです。罪の贖いに対しては、私たちは全く参与することではなく、神さまがご自身の義を満たすために、御子を遣わしたということです。このところに、神の義と神の愛があるのです。

2.信じる者

 ヨハネ316後半「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」前半は、神さまの贖いが一方的になされたことをお話ししました。贖いは私たちがお願いしたのではなく、神さまが人類を愛されたからです。しかし、このままでは私たち人類は救われません。神から私たちへの和解は成し遂げられました。次は、私たちがその贖いを受け入れ、神からの和解を受け取るかどうかであります。ヨハネはそのことを「信じる」というひとことで述べています。ヨハネによる福音書には「罪を悔い改める」という表現はどこにもありません。ある教会は「これまで犯した罪を11つ告白して、それからキリストを救い主として信じるのですよ」と教えています。しかし、それは不可能です。なぜなら、自分で忘れた罪もたくさんあるからです。また、自分では正しかったと思っていても、罪であったかもしれません。もし、罪を全部告白しなければ救われないとしたなら、どれだけ罪を告白しなければならないのでしょうか?使徒パウロは「恵みのゆえに、信仰によって救われたからです」(エペソ28と言っています。もし、犯した罪を悔い改めるとか、何かの償いをするとか、悪習慣をやめるという条件をつけるならば、それは恵みではありません。行いによる救いを説いていることになります。残念ながら、罪の悔い改めと信仰を2つにしている教会がいまだに多く存在しています。使徒2章でペテロが「悔い改めなさい。そして、それぞれの罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」ということばはどうなるのか?と言われるかもしれません。しかし、ペテロはイエス様を十字架につけた張本人・ユダヤ人に語ったのであります。私たち異邦人の場合は、「悔い改めなさい」というのは、自分が罪人であることを認めて、神さまに立ち返りなさい、方向転換しなさいという意味になります。元来、「悔い改める」のギリシャ語「メタノイヤー」は罪とは関係のないことばで、「方向を変える」「考えを変える」という意味でした。ですから、ヨハネがいう「信じる」の中には、「悔い改め」が含まれているということです。しかし、それは個々の罪を告白するという意味ではなく、「自分は罪人であり、神さまが必要である」と考え方を変えるという意味になります。

 使徒パウロはローマ3章で、そのことをもっと詳しく述べています。ローマ32224「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。…ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」パウロは「永遠のいのち」と言わないで、神の義と言っています。第一のポイントで申しあげましたが、神さまは義であります。神の義は御子イエス様が罪を負って十字架で死なれたことによってあらわされました。しかし、その神さまが、キリストを信じる者に神の義を与えるというのです。これはどういう意味でしょう?「神の義」というのは日本人にはピンとこないことばであります。これは法律用語で、「罪がない、全く赦された」という意味です。しかし、同時にその人に神の義が転化されることにより、神さまの基準に達するということです。つまり、神からの栄誉を受けることができ、神さまが持っているすべてのものをいただくことができるということです。簡単に言うと、信仰によって神の義をいただくと、永遠のいのち、神の御国の世継ぎ、神の子どもとしての特権、すべてのものを受けられるということです。ですから、私たちが「救い」と言う場合、キリストを信じることによって、神さまから義と認められるということが一番重要なことなのです。

でも、ヨハネによる福音書にはどのように書かれているでしょうか?「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」となっています。このところには、「滅び」と「永遠のいのち」の2つが書かれています。実はヨハネ3章には、2つのことが多く対比されています。17節「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」「世をさばく」というのは、「滅びる」と同じ意味です。また、「救われる」は「永遠のいのちを持つ」ということです。18節「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」このところでは、「信じない者はすでにさばかれている」とまで言っています。「滅び」、あるいは「さばき」とは何でしょうか?ヨハネは人が死んだら、やがて復活して神さまの前に立つと書いています。ヨハネ529「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」「さばき」というのは、ヨハネ黙示録20章にありますが、白い御座におけるさばきです。「死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いによってさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である」(黙示録2012,14)。イエス様は福音書で「ゲヘナ(焼却炉)」(マタイ529と言っています。これは地獄であります。地獄はあるのです。でも、さばかれず地獄にもいかない方法が1つだけあります。「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることない。御子を信じる者はさばかれない。」のです。ハレルヤ!私たちは死後、白い御座のさばきを受ける必要はありません。なぜなら、御子イエス様が私たちの代わりにさばかれたからです。キリストの贖いを信じている人は、義とされているので神のさばきを受ける必要はありません。パスされているのです。しかし、キリストを信じていない人は、神の義がないので、自分の義で神さまの前に立つしかありません。果たして、自分の義によって、義なる神さまにさばかれない人がひとりでもいるでしょうか?聖書は「信じる者はひとりとしてさばかれないで永遠のいのちを持つ」とはっきり言っています。「ひとりとして」ですから、「もれるひとはいない」「例外はない」「全部」ということです。ハレルヤ!

神さまは嘘をつきません。「信じるなら」と聖書ではっきり約束していますので、額面通り受け止めるしかありません。でも「信じる」とはどういう意味なのでしょうか?単純な言い方は、「もらう」あるいは「受け入れる」ということです。神さまは救いに関することはキリストにあって全部、完成してくださいました。神さまがおっしゃっていることは「このキリストをどうしますか」ということなのです。「キリストにある贖いをいただきます。」「あるいはキリストさまを受け入れます。」と求めることです。その瞬間、その人は救われて永遠のいのちを持つことができるのです。こういうことは、子どもが良くできます。大人になればなるほど、「ただより怖いものはない」と疑いが出てきて、信じようとしません。ある人は「信じた後、教会員になり、献金とかいろんな義務を負わせられる。好きなことや悪いこともできなくなり、不自由な生活を負わせられるのでは」と心配します。そして、「信じるのは死ぬ前にしよう」と言う人さえおるかもしれません。それは「永遠のいのち」の意味を知らないからです。永遠のいのちというのは、死んでからいただく「いのち」ではありません。ヨハネが言う「いのち」はギリシャ語で「ゾーエー」と言って、「復活のいのち」「神のいのち」という意味があります。これに比べ、私たちが持っているいのちは、「肉のいのち」あるいは、「魂のいのち」です。永遠のいのちは、神のいのちであり、信じた瞬間に与えられるものです。つまり、イエス様を信じた瞬間から与えられ、肉体の死がやってきても全く影響されません。死と関係なく、ずっと生きられるいのちです。でもこの「いのち」は、この地上にいるときから味わうことができます。ヨハネ1010「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」そうです。イエス様がくださるいのちは、単なるいのちではなく、豊かないのちです。英語の聖書ではabundant lifeとなっています。Abundantというのは、「豊富な、あり余るほどの、恵まれた、満ち溢れた」という意味です。つまり、永遠のいのちは、この地上であっても効力を発するということです。つまり、天国に行ってからではなく、この地上でも天国の前味を味わいながら、生活できるということです。先ほど、献金、義務、悪いことができず、不自由な生活を負わせられるという心配がありました。しかし、永遠のいのちという神のいのちによって、そんなことは全く問題にならなくなるということです。生活も仕事も祝福され、きよめられて悪いことができなくなります。なぜなら、聖霊による自由と喜びと力が与えられるからです。

3.決断の時

 私たちはどこかで信じるという決断をしなければなりません。しかし、キリストを信じる信じ方は千差万別です。ヨハネ3章に出てくる人物はニコデモです。彼はパリサイ人でとてもまじめな宗教家でした。彼はイスラエルの教師と呼ばれていますが、サンヒドリンの議員でした。お金もあり、地位もありました。しかし、彼は飢え渇いていました。そして昼間ではなく、夜、人目をさけてイエス様のところを訪れました。イエス様から直球で、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」と言われました。しかし、聖書で真理を求めてイエス様のところに来た人というのはあまりいません。ある人は病を癒していただきたくて、またある人は親しい人から誘われて、またある人は悩み事をかかえてやってきました。きょうここに来られている方も、自分で来たという人もおれば、義理で来たという人もいるでしょう。しかし、問題は救いを得たいという飢え渇きがあるかどうかです。15年くらい前になりますが、9時からジュニア礼拝を持っていました。私がギターを弾いて、メッセージをしていました。ある朝の礼拝で、中学の息子の友達が何人か来ていました。そのとき「永遠のいのち」についてメッセージをしました。最後に「君は永遠のいのちが欲しくないかい」と一人ひとり聞いてまわりました。一人の男の子は、首を横にふって「欲しくない」と言いました。私はとてもショックでした。「永遠のいのちがいらない人がいるのか?」とがっかりしました。そのとき、「きっと、その子は永遠のいのちという意味が分からないんだ」と思いました。

伝道者の書に「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」(伝道311口語訳)と書いてあります。都会は明るくて見えませんが、数えきれない星が夜空に輝いています。その星を見ると、「ああ、永遠ってあるのかな?」と思いをはせることがあるでしょう。創造主なる神さまは、宇宙や自然界を通して、何かを私たちに語っておられます。しかし、きょうは聖書からはっきりと神さまが私たちに語っておられることばを紹介いたしました。これは神さまからの愛の招待状であります。神さまは、漠然とした何かではなく、キリストにある永遠のいのちを与えたいと願っておられます。この福音を信じる者は救われて、永遠のいのちを持つことができます。問題は飢え渇きをもって、「私にもください」と求めることです。そして、子どのものように神さまを信頼して受け取ることです。キリストを信じ、受け入れるなら、神の命、永遠のいのちが与えられます。最後に、まだ、信じていない人に語りたいと思います。ぜひ、このみことばの約束を信じて、自分のものにしてください。もう一度、ヨハネ316をお読みします。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ひとり子イエスは神さまからの最大のプレゼントです。そして、永遠のいのちはキリストを信じる人に対する最大のプレゼントです。どうかキリストの十字架の死を無駄にしないで下さい。今は恵みのとき、今は救いの日です。きょう信じて、永遠のいのちをいただいてください。愛なる神さまはあなたを招いておられます。

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2017年4月 1日 (土)

自分を捨て マタイ16:21-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.4.2

 イエス様は「いのちを失う者はいのちを得る」とおっしゃいました。私たちはこの地上でこのいのちで、ずっと生きたいと願っています。でも、この地上のいのちはやがて終わりが来ます。その前に、私たちはこのいのちではなく、神さまがくださるまことのいのちをいただくべきではないでしょうか?弟子たちはイエス様と一緒にイスラエル王国を治めたいと願っていました。このお方に従っていけば豊かな報いがあると信じて、何もかも捨てて従って生きていたのです。でも、イエス様はそういう地上のことではなく、もっと大切なものがあると教えてくださいました。

1.人のことを思う

 弟子のペテロは「あなたは、生ける神の御子、キリストです」と告白し、イエス様から「良く言った!」と褒められました。ところが、このところでは「下がれ、サタン」と叱られ、天から地獄に落とされた思いでした。なぜ、ペテロはあんな立派な答えをしたのに、こんどはこてんぱんに叱られたのでしょうか?ペテロの信仰告白が間違っていたのでしょうか?それとも、何かこの世の不純物が混じっていたのでしょうか?ヒントは本日の聖書箇所の少し前にあります。マタイ1620「そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。」もし、イエスがキリスト(メシヤ)であったなら、そのことをみんなに知らせるべきであります。しかし、イエス様はペテロが告白したようなことをだれにも言ってはならないと禁じました。なぜでしょう?当時のメシヤ観は聖書が言うメシヤとちょっと違っていました。ペテロもそうでありましたが、「メシヤはイスラエル王国を復興させてくださる私たちの王様だ」と考えていました。つまり、メシヤがローマを倒して、この地上にイスラエル王国を建てて下さることを望んでいました。その暁には、ペテロをはじめ弟子たちは、「御国の大臣になってキリストと一緒に治めるんだ。だから自分たちは何もかも捨ててしたがって来たのだ」と思っていたのです。この思いはずっと消えることなく、キリストの復活後まで続きます(参考.使徒16)。その当時、イスラエルを政治的に支配していたのはローマです。しかし、彼らには宗教的な自由が与えられていました。その指導者たちというのが、エルサレムにいる長老、祭司長、律法学者たちだったのです。イエス様は、21節からご自分がエルサレムに行って、彼らから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始めました。

 ところがまだイエス様が全部話し終えていないのに、ペテロが邪魔をしました。マタイ1622するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」なんと、弟子のペテロがイエス様に「ちょっとこっちに来て」と脇に呼んで、個人的に叱責したのです。何と言ったかというと原文を直訳すると「神が慈悲をもって、そんなことを起こらしめ給わないように」ということです。慇懃無礼とはこのことであります。今で言うと、上から目線で「とんでもない」と叱責したのです。おそらく、さきほど「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです」と褒められたので、調子に乗っていたのかもしれません。その直後、イエス様から、逆に恐ろしいことばが返ってきました。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」これはとても難解な箇所です。イエス様がペテロに「サタン」と言ったのか、それともペテロにくっついているサタンに言ったのか、ということです。「下がれ」は英語では、get behind me 「私の後ろに下がれ」という意味になっています。「あなたはわたしの邪魔をするものだ」はサタンに言っているのであり、後半の「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」は、ペテロに言っているのではないかと思います。つまり、ペテロが間違った思いを抱いていたので、そこにサタンが乗じて、イエス様を誘惑したのではないかと思います。どんな誘惑かというと十字架を通らないで、近道を提案したということです。簡単に言うと、サタンがペテロに乗り移って、十字架の贖いを邪魔しようとしたということです。「えー、本当?」と疑う人もいるかもしれません。ルカ413「誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。」これは、悪魔のイエス様に対する試みの後のことです。悪魔はしばらくの間イエスから離れていましたが、次の機会を狙っていたというのが正しい理解です。ですから、悪魔は間違った思いを持っていたペテロを用いて、イエス様の十字架の贖いを邪魔させたのです。イエス様はサタンに「あなたは、わたしの邪魔をするものだ」と言っていますが、「邪魔」は最も、相応しい日本語訳です。邪という意味は「正しくないこと、道に外れている」と言う意味です。また、「魔」は、悪魔の魔です。ですから、JB.フィリップ訳はOut of my way, Satan! You stand right my pathと書いています。簡単に訳すと、「私の道からどけ、サタン。お前はまさしく、私の道に立っている」という風になります。つまり、イエス様はご自分の死によって、人類を贖うという道を進んでいました。ところが、サタンはペテロを用いて、脇道へ逸らそうと誘惑したのです。イエス様がサタンに命じたので、その瞬間、サタンはペテロから離れました。

 その後、イエス様はペテロに言いました。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」これはどういう意味でしょう?さきほども申しましたように、ペテロや他の弟子たちは、「メシヤはイスラエル王国を復興させてくださる私たちの王様だ」と考えていました。つまり、イエス様が死んだら、元も子もないということです。なぜなら自分たちはやがて来るイスラエル王国の大臣になるんだと考えていたからです。イエス様がこれから先、2回もご自分が死んで、三日目によみがえることを予告されますが、ぜんぜん聞く耳をもっていませんでした。「イエス様が死ぬなんてことはあってはならない」とハナから否定していたのです。この思いは最後の晩餐まで続きました。イエス様が捕えられたとき、ペテロは怖くなり、イエス様を三度も知らないと言いました。それは、地上にイスラエル王国がもたらされる希望がなくなったからです。ですから、さきほど、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白した内容は、半分合っていて、半分は的外れだったのです。それでも、イエス様はその告白を父なる神からのもとであると喜ばれました。つまり、ペテロのキリスト観は十字架と復活を通過していないキリストだったのです。本来は、十字架と復活を通過したキリストを主であると告白するなら救われるのです。その当時は、まだそれがなされていなかったので、イエス様はそれでも受け入れて下さったのです。私たちの場合は、もう完成されていますから、「あなたは神の子、キリストです」と告白して救われます。

 でも、ここで問題にされていることは、イエス様がペテロにおっしゃったことばです。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」このことばは、現代の私たちにも語られていることばです。「人のことを思っている」とはどういう意味でしょうか?そして、「神のことを思う」とはどういう意味でしょうか?まず、「人のことを思う」とはペテロや他の弟子たちが思っていた内容です。彼らはこの地上で長生きして、地上でイスラエル王国を支配しようと思いました。そして、「イエス様がイスラエルの王様になり、いつまでも生きながらえて、あのダビデのようになってください」と願っていました。「人のこと」というのは、言い換えると「この世的、人間的」という意味です。この地上の生活、この地上の生き方という意味です。つまり、人生のスパン(長さ)が今から死ぬまでの間ということです。生きているうちに自分の夢が叶えられ、幸福を手にいれたいということです。そのためには、神さまをも利用するということになります。神中心ではなくて、人間中心の信仰です。ヒューマニズム(人本主義)と言いますが、イエス様を信じていても、ヒューマニズム(人本主義)のクリスチャンがいるのです。しかし、それは生焼けのパン菓子であり、神中心の信仰でなければなりません。どうすれば、神中心の信仰になるのか、それは後半の24節以降記されています。でも、前半のポイントでは、「神のことを思う」ということをしっかりゲットしたいと思います。「神のこと」とは地上のことではなく、天上のことです。言い換えると、地上のイスラエル王国ではなく、神が下さる新しいイスラエル、天の御国であります。イエス様はこの世の王ではなく、天の御国の王だったのです。そして、イエス様を信じる者は、この地上ではなく、天の御国でイエス様と一緒に治めるのです。ハレルヤ!

 使徒パウロはコロサイ3章でこのように命じています。コロサイ31-2「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」アーメン。地上のものは消えてなくなります。しかし、天にあるものは永遠に続きます。私たちが所持している地上の家、土地、車、お金、肉体、地位、すべての持ち物、みんな一時的で、みんな借り物です。しかし、やがて与えられる天上の家、土地、栄光の体、地位、持ち物はすべて永遠でありいつまでも自分のものなのです。もちろん地上の生活を粗末にしてはいけません。でも、天上の生活が私たちのゴールであり、そこを目指すべきなのです。

2.自分を捨て

 イエス様はご自分の受難と死とよみがえりを弟子たちに予告しました。その直後、このようなことを弟子たちに告げました。マタイ1624-26 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」同じようなことが、マタイ10章でも語られました。その時は、伝道旅行に遣わされる直前でした。今回は、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白した後であります。つまり、イエス様はご自分をだれか明らかにした直後です。でも、自分たちが信じていたキリスト、メシヤとは少し違っていました。なぜならエルサレムに行って、苦しみを受け、殺され、三日目によみがえると言ったからです。弟子たちは「そんなことは聞きたくない、ありえないことだ」と耳をふさいで理解しようとしなかったのです。なぜなら、イエス様が死んだら、イスラエル王国の復興もなりたたないからです。もし、そんなことになったら、自分たちが職業も家も捨てて従ってきた意味がありません。故郷に帰ったら、きっと馬鹿にされるでしょう。イエス様は彼らの思いを知っていました。彼らはこの世のこと、地上のイスラエル王国にしか興味がありませんでした。この地上で、王であるイエス様の右か左に座って、豊かな報いを受けたかったのです。まさしく、その思いは人間的であり、この世的でありました。だから、イエス様はこのようなことをおっしゃったのです。

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」一番注目すべきことは、「自分の十字架を負う」ということです。多くの人たちは十字架を負うとは、「身内や親しい人の不幸な運命を背負う」みたいに捉えていますが、そうではありません。また、クリスチャンでなくても、十字架のネックレスを首にかけてお守りみたいにしていますが、それも間違っています。ローマの時代、十字架というのは極刑の道具でした。ローマの哲学者キケロは「最も残酷で嫌悪感を起こさせる処刑である。ローマ市民には十字架を触れさせてはならない」と言ったそうです。イエス様もそうでしたが、犯罪人は刑場まで自分の十字架を背負って行かされました。当然、周囲の人たちから馬鹿にされたり、石を投げたられたりしたでしょう。そのように人々から辱めを受けた後、十字架かけられるのです。このところで、イエス様が「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われました。と言うことは、自分が死ぬための十字架を負って、イエス様について行く、これがキリストの弟子だということです。十字架はだれか人のためではなく、自分が死ぬためのものだということを忘れてはいけません。当然、イエス様に従っていくものは、イエス様が受けた辱めや迫害も受けることがありえるということです。でも、最後は死ぬのです。このようなメッセージを教会では近年語らなくなったかもしれません。なぜなら、次の週から人が来なくなるからです。人々は慰めや励ましや希望をいただいて教会に来ます。なのに、牧師が講壇から「十字架を負って、最後に死ね」と言われたら、「お前こそ死ね!」と怒って帰ってしまうでしょう。十字架のメッセージは不人気です。でも、パウロはこう言いました。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(Ⅰコリント118)。もちろん、この十字架はイエス様の贖いの十字架です。贖いの十字架はイエス様だけで、十分であり、私たちが参与する部分は全くありません。でも、キリストに従う者として、自分の十字架を負って従うということは、天国に行くまでずっと続く命令なのです。なぜ、十字架を負うことがそんなに重要なのでしょうか?クリスチャンは解放されて、自由な生き方ができるのではないでしょうか?多くの人は、イエス様がおっしゃる逆説の意味を理解しようとしません。

 マタイ1625-26「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」このところに二種類のいのちがあるとイエス様はおっしゃっています。それは、いのちとまことのいのちです。いのちはギリシャ語でプシュケーであり、「生命の息」という意味があります。人間や動物にはそのようないのちがあります。プシュケーは魂とも言われ、知性、感情、意志の面があります。プシュケーは「地上のいのち」という意味合いが強く、その代り、聖書にはゾーエーという「永遠のいのち」のことも言われています。イエス様はご自分のことを「いのちだ」と言われましたが、そのときにはすべてゾーエー「永遠のいのち」ということばを使っています。でも、マタイによる福音書はどちらもプシュケーであり、しいて言えば、いのちとまことのいのちです。では、前者のいのちとは何なのでしょうか?それは地上のいのちであり、自分だけが生きたいという本能です。私たちは死にたくないのです。だれよりも自分が生きたいのです。これがプシュケーの特徴です。この世の中には「人のために生きたい」「人のために役に立ちたい」という立派な人がいます。目的は立派かもしれませんが、根底にはプシュケーがあり、自我や欲望と戦っています。ペテロや弟子たちはこの世の王様を求めました。地上で幸せにいつまでも暮らしたかったのです。でも、それはプシュケーであり、この世のいのちから来るものでした。でも、残念ながら、プシュケーでは神の国を受け継ぐことはできません。イエス様は地上のイスラエル王国ではなく、神の王国、永遠の御国を与えようとされました。ですから、このいのちに死んで、まことのいのちをいただかなければなりません。私たちは自分で死ぬことはできません。なぜなら、プシュケーは自己保存、自己絶対、自分がだれよりもかわいいからです。そのために十字架を負うのです。十字架はあなたのいのちを殺し、まことのいのちを与える道具だからです。

 そのことはイエス様が証明し、イエス様が保障してくださいました。イエス様は「エルサレムで多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえなければならない」とおっしゃいました。つまり、十字架の死で終わるのではなく、その後に復活があると告げられました。そうです。私たちが自分の生まれつきのいのちを十字架に渡すと、今度は、復活のいのちをいただくことができるのです。復活のいのちが、まことのいのちであり、永遠のいのちなのです。このいのちこそが、神の王国、永遠の御国で生きることのできるいのちなのです。だから、イエス様は「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」と言われました。言い換えると、「全世界を手に入れても、永遠のいのちを損じたら、何の得がありましょう。永遠のいのちを買い戻すには、人はいったい何を差し出せばよいのでしょう?」となります。私たち人間には、永遠のいのちを買い戻すための何物も持っていません。永遠のいのちを買い戻してくださるお方は私たちのために十字架について三日目によみがえられたイエス・キリストだけです。このお方が代価を払ってくださったので、私たちは死んでも生きるのです。パウロは「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」(Ⅱコリント411と言いました。これこそ、聖書が言う逆転勝利であります。この世のいのちは「自分は生きたい、自分は出世したい、自分は偉くなりたい」と望むのです。ペテロや他の弟子たちもそう思っていました。でも、私たちは自分の十字架を負って、イエス様に従うのです。するとそういう自分が死んで、イエス様中心の新しい自分が与えられます。生まれつきの自分こそ曲者はいません。その自分を十字架の死に渡すと、本当の自分が生まれるのです。だから、「まことのいのち」を英国の聖書は、his true self、「本当の自分」と訳しています。

 私が言いたい事はこのことです。生まれつきのいのちと神さまがくださる永遠のいのちをそのまま継ぎ足すことは無理です。言い換えると生まれつきの自分と神さまがくださる本当の自分をそのまま継ぎ足すことは不可能です。十字架はそれらの二つを一回、断ち切って下さる神の道具です。かつてはローマの死刑の道具でしたが、キリストにあってあなたに死とよみがえりを与える神の道具になったのです。十字架なくして復活はありません。あなたはこの世のいのちに死んで、神からの新しいいのちをいただく必要があります。Ⅱコリント517「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」「キリストにあるなら」とは原文は、engraft「接ぎ木されるなら」であります。つまり、生まれつきのいのち、生まれつきの自分が一度断ち切られ、こんどはキリストという木に接ぎ木されるということです。それまではアダムから来た古いいのちでこの世のものを求めて生きていました。いや、生き延びてきました。でも、十字架で切られて死んで、こんどは生まれ変わり、キリストに接ぎ木されました。こんどはキリスト様からいのちと力をいただくのです。あなたはこの世でありながらも、神の国のいのちで生かされて歩むのです。16章の最後に「報い」ということばはありますが、すべてを失ってもイエス・キリストが報いてくださるのです。

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