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2017年4月29日 (土)

変貌の山 マタイ17:1-8 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.4.30

 ペテロがピリポ・カイザリヤで「あなたは生ける神の子、キリストです」と告白しました。それから6日たって、イエス様は3人の弟子たちを連れて、高い山(おそらくヘルモン山)に登られました。イスラエルでは証人の数は2人かそれ以上と定まっていました。この3人は目撃者だったわけです。イエス様は彼らに「いま見た幻をだれにも話してはならない」と命じられましたが、どのような幻を見たのでしょうか?きょうは、彼らが見た幻について3つのポイントでお話ししたいと思います。

1.イエスの変貌

 マタイ172「そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」「御姿が変わり」の「変わり」はギリシャ語でメタモルフォーです。「変容する」「変貌する」という意味です。英語の聖書ではtransfigure で、「神々しい姿に変えられる」という意味があります。さなぎが蝶に変化することを変態と言いますが、同じことばです。つまり「全く別の姿に変わる」ということです。イエス様の顔が太陽のように輝いたとありますが、これはヨハネ黙示録1章のイエス様の栄光の姿と同じです。そればかりか、着ておられた衣も光のような白くなったと書いてあります。これはどういうことなのでしょうか?子どもの頃、豆電球に紙袋をかぶせて、スイッチを入れたことがあります。すると、ボーっと白く輝きます。ということは、イエス様は内部から光ったということです。そのため、顔も衣も照り輝いたのではないかと思います。ヨハネ114「ことばは人となって、私たちの間に住まれた」とあります。これは直訳すると「ことばは肉となって、天幕を張られた」であります。イエス様は肉体を持っておられましたが、内側の霊魂は神そのものでありました。だから、このときイエス様の霊魂が栄光の光を放ち、肉体や衣にまで現れて来たと考えるべきであります。それは、「御姿が変わり」ではなく、「本来の御姿に戻った」という方が妥当なのであります。弟子たちはイエス様の本当の姿を垣間見ることができました。それを目撃したヨハネは「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」(ヨハネ114と福音書で証言しています。

 では、何のためにそのような姿になられたのでしょうか?それは、6日前にペテロが「あなたは生ける神の子、キリストです」と告白したことに端を発しています。イエス様はそのとき、「あなたは幸いだ」とペテロをほめました。なぜなら、それが当たっていたからです。そして、この高い山に3人の弟子たちを連れて、御姿が変わったということは、ご自分がそういう者であるということを証明するためだったのです。ヤコブは殉教しましたが、ペテロとヨハネは、ご栄光の姿を後から証言しています。ペテロは「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです」(Ⅱペテロ116と言っています。ヨハネはその時だけではなく、パトモス島にいた時も見ました。これは、弟子たちだけではなく、教会の私たちに「イエス様が神の子、キリストである」ことを伝えるためだったと思います。それは聖書のことばが作り話ではなく、真実だということです。

 使徒パウロもダマスコの途上で栄光のイエス様と出会いました。その光があまりにも強かったのか、パウロは3日間も目が見えなくなりました。パウロ自身「その光の輝きのために、私の目は何も見えなかったので、一緒にいた者たちに手を引かれてダマスコに入りました」(使徒2211と証言しています。パウロはペテロやヨハネのように、具体的に栄光のイエス様を描写していません。でも、パウロは私たちも、主の栄光の姿を見ることができると言っています。Ⅱコリント318「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」アーメン。パウロは私たちが「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行く」と言っています。「姿を変えられて行く」というギリシャ語は、イエス様と同じ「メタモルフォー」です。つまりどういうことかと言うと、イエス様の栄光の姿が遠い存在ではなく、私たち自身にもその栄光が反映されていくということです。ある人たちは、「私は救いを受けていますが、罪人のかしらで、罪に汚れています」とおっしゃるかもしれません。謙遜かもしれませんが、その人に主の栄光が全く反映されていないとしたら救いを疑わなければなりません。なぜなら、聖霊によって「主と同じかたちに姿を変えられて行く」のが標準のクリスチャンだからです。これはものすごいことであります。ペテロやヨハネの証言は間違いないと思いますが、私たちも主の栄光にあずかり、キリストの証人になりえるということです。「私を見たら、キリスト様がわかります」と言えたら最高であります。

 パウロは「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ127と言いました。また、イエス様は「私は世の光です」(ヨハネ812と言われました。つまり、私たちの中に栄光のイエス様が住んでおられるなら、内から外へと栄光の輝きが現れてくるのは当然であります。去る1月、ニュージーランドからクリス・ゴアという先生が来られました。先生が子どものとき行っていた教会で、“Little my light shine”「私の中にある小さな光」という賛美を歌っていたそうです。先生はおっしゃいました。「しかし、それは間違いです。私たちは棚に隠すことのできないほどの光を持っています。私たちの中に住んでおられるお方は大きな方です。私たちは世の中を照らす大きな光です。イエス様は私たちを世の光です、とおっしゃいました。今こそ私たちの光を外に向かって照らす時です。」アーメン。私たちは聖書から主の栄光を想像するだけではなく、私たち自身もその栄光を見ることができるのです。なぜなら、私たちの中に栄光の主が住んでおられるからです。私たちを通して、主の栄光が現されることを信じます。

2.サミット会議

 マタイ173「しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。」良く見ると、イエスさまだけではありません。なんと、モーセとエリヤが現れてイエス様と話し合っているではありませんか?でも、どうしてあの人がモーセで、どうしてあの人がエリヤだと分かったのでしょう?だって、ペテロたちは見たことも会ったこともないはずです。二人とも死に方が普通ではありませんでした。モーセはピスガの頂で死にましたが、墓がどこにあるか分かりません。申命記346「主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。」とにかく、モーセの魂は陰府の上の階に行ったと思います。では、エリヤはどうでしょうか?Ⅱ列王記211「なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。」エリヤはエノクのように、死を見ないで天に引き上げられました。この二人はよっぽど神さまから愛されていた預言者ではなかったかと思います。でも、イエス様が死んだモーセとエリヤをもう一度呼び戻したのはなぜでしょう?

 ちょうどイエス様とモーセとエリヤがいるところは、ヘルモン山の上でした。まさしく、サミット、頂上会議であります。モーセは律法の代表者として呼ばれました。また、エリヤは預言者の代表として呼ばれたのではないかと思います。弟子たちでは相談相手にはならないので、この二人を呼び戻して会議を開いたのではないかと思います。では、いったい何を話し合っていたのでしょうか?マタイには書いていませんが、そのことはルカが記しています。ルカ9:31「栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」日本語の聖書では、「ご最期」つまり「死ぬとき」と訳しています。しかし、ギリシャ語聖書は「エキサダスについて話していた」と書いてあります。エキサダスというのはユダヤ人ならだれでも分かりますが、70人訳の出エジプト記の名称であります。エキサダスには、主がモーセによってイスラエルの民をエジプトから解放した出来事が記されています。つまり、ルカは「エキサダスとはキリストが悪魔から人類を解放する出来事なんだ」と解釈しているのです。そのことをイエス様がエルサレムで遂げようとしているということです。それは、モーセの律法の完成であり、エリヤに代表される預言の成就だということです。つまり、どうしてもエルサレムで十字架にかかって、贖いを成し遂げなければならないということです。それは、少し前に、イエスさまがペテロに「私は殺されて、三日目によみがえる」と告げたのと同じ内容です。

 ペテロが信仰告白した後、変貌したイエス様が、モーセとエリヤを呼んで会議しました。その場所はおそらくイスラエルの北、ヘルモン山であると言われています。イエス様はこのあとまっすぐエルサレムに向かわれます。つまり、イエス様の公生涯のターニングポイントは変貌の山だったということです。ルカ福音書にそのことが書かれています。ルカ951「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」と書いてあります。ルカ福音書のモチーフは、北のヘルモン山から、南のエルサレムに向かうように書かれています。イエス様の御顔は厳しいお顔だったのではないかと思います。つまり、エルサレムで遂げようとしておられるエキサダス(解放)のため集中しておられたのです。エルサレムに行くことを「上る」と言います。日本も東京に向かって、道路や鉄道が走っています。ですから、東京に向かうのを「上り」と言って、東京から遠ざかるのを「下り」と言います。でも、私が思うのですが、ヘルモン山で、イエス様は栄光の神の御姿になられました。そして、モーセとエリヤを呼んで頂上会議をしました。もし、イエス様がただの人間であるならば、死にたくありません。その時は一番天国に近い状態でしたので、そのまま天国に帰ることができたかもしれません。なのに、エルサレムで多くの苦しみを受けて殺されるなんてイヤなことです。ということは、ヘルモン山が栄光の頂上でしたら、エルサレムはどん底であります。つまり、イエス様のこれからの人生は、下り坂であります。栄光ということを考えたら、どんどん下って行くことになります。繰り返しになりますが、イエス様の公生涯のターニングポイントは変貌の山だったということです。

 私たちの人生のおいてもターニングポイントがあるのではないでしょうか?「あの時が人生で一番良かった、最高の時だった」ということはないでしょうか?もう年を取ったので、下り坂でしょうか?ある人が言いました。「人間、昔のことを懐かしむようになったら年なんだ」と。もし、私たちの人生のどん底が老いであり、死であるとしたらまことに残念です。しかし、良く考えるとイエス様はエルサレムで死ぬだけではありません。イエス様は何とおっしゃっているでしょうか?「多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」と言っています。死が終わりではなく、三日目によみがえりがあるということです。これは人生の大逆転です。つまり、エルサレムで成し遂げるエキサダスの向こうには、復活があるということです。復活にはいろんな意味があります。1つは死を打ち破るということです。イエス様は私たちの代表として、死んで、三日目によみがえられました。それは、死が終わりではなく復活があるという保証であります。ということは私たちイエス様を信じる者も、どん底の死で終わるのではなく、最後に復活があって完了するということです。ハレルヤ!少し前に俳優の松形弘樹さんがお亡くなりになりました。親友の梅宮辰夫さんが何と言ったでしょう。「人間、死んだらおしまい」と涙ぐんでいました。その続きがブログに載っていました。「遺品も花もない。骨だけがバラバラになって出て来たんです。悲しかった。人間ってこんな簡単なのかとつくづく思った」。これが正直な人間観だと思います。イエス様は確かに栄光の山から十字架へと下られました。本当に死んで陰府に降られました。でも、死を打ち破って三日目によみがえられました。と言うことは、私たちも死が終わりではなく、イエス様と同じ栄光の姿によみがえるということです。イエス様はエルサレムでどん底までくだられましたが、三日目によみがえり、天に昇られました。矢印で言うと、ヘルモン山からエルサレムに降りました。しかし、グーンとそこから急上昇して天にまで昇られたのです。ハレルヤ!主にあって私たちにも希望があります。人生は下降するだけではなく、やがて急上昇にあずかるのです。人間、死んだらおしまいではありません。なぜなら、栄光の復活があるからです。

3.天からの御声

 マタイ174すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ここでもペテロがしゃしゃり出ています。ペテロはずっとその山に留まりたいと願いました。だから、三つの幕屋を造りたいと申し出ました。英語の聖書ではテントとなっていますが、詳訳聖書はbooth(小室)となっていました。ペテロの間違いは何でしょうか?イエス様と他二人を同じ立場に考えていたということです。イエス様のテント、モーセのテント、エリヤのテントを三つ並べたかったのです。そして、ヘルモン山の上で聖会を開きたかったのです。私は座間キリスト教会にいた頃、よく聖会に行きました。大体、聖会というのは山の上で開かれます。箱根、修善寺、あるいは韓国の祈祷山にも行きました。聖書では山は聖なるところなので、聖会がよく開かれるわけです。外界を離れて、みことばに聞き入るすばらしいひとときです。しかし、山を下ると悪いことが待っています。サタンが恵みを奪おうと待っています。ちょうど、マタイ17章の後半は「てんかんの子ども」のことが記されています。それはともかく、ペテロはずっと変貌山にとどまっていたいと願っていたのです。

 ところがその時です。マタイ175-6彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。「雲」というのは栄光のしるしで、そこに神さまの臨在が濃厚に現れたということです。たちまちあたりがみえなくなり、雲の中から声がしました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。これは、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたときと同じことばです。あの時は、公生涯のはじまりで、メシヤの就任式のおことばでした。ところが今回は、これからエルサレムで遂げるエキサダスの頂上会議の時でした。父なる神の、そのことに対する是認であり、確認ともとれます。しかし、同時にそれはペテロの間違いを訂正するためでもありました。なぜなら、「彼の言うことを聞きなさい」とおっしゃっているからです。その証拠として、弟子たちが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであったからです。これはどういう意味でしょう?

 確かにモーセは律法の代表として呼ばれました。エリヤは預言者の代表でしょう。でも、彼らは神さまのしもべであり、人間です。でも、イエス様は違います。イエス様は神の子であり、しもべではありません。父なる神さま自らが「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言われました。つまり、イエス様は別格で、神の子であり、父なる神の代わりだということです。イエス様はヨハネ福音書で「私が父におり、父が私におられる」と言いました。ですから、代わりというよりも同格であり、一体だということです。最後の最後に、神の御子が地上に人として下られ、エルサレムで贖いのわざを成し遂げるということです。このようなことを私たちが知るならば、「キリストの十字架って大変だったんだなー。ありがたいなー」と思うのではないでしょうか?今は何でもインスタントな時代です。自動販売機で何でも買えます。アメリカに行くと車が自動販売機で買えるそうです。「救いもイエス様を信じたら、救われる。パラパラと水をかけてもらって」みたいになるなら大変なことです。信仰義認は確かにすばらしい教理です。でも、背後に神さまがどんな犠牲を払ってくださったか忘れているかもしれません。もし、そうであるならば、何か困難なことがやってくると、ポイと信仰を捨ててしまうでしょう。父なる神さまがこのところで、もう一度、お声をかけてくれました。それは、これからどんどん下って行き、エルサレムでどん底に降ることを知っておられたからです。

 弟子たちはそのとき恐れて、顔をふせました。旧約聖書では神を見るということは死だったからです。ペテロとヤコブとヨハネは、その時、打たれて死ぬと思ったかもしれません。でも、どうでしょう?マタイ177-8すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。ありがたいです。父なる神さまは恐れ多い感じがしますが、イエス様はそうではありません。確かにご威光をまとったイエスさまは近寄り難ったかもしれません。でもここでは、手を触れて起こして下さる優しいイエス様であります。イエス様の栄光は、私たちを遠ざけるのではなく、何か親しい、愛と慈しみに富んだ栄光であります。だから、そのことを目撃したヨハネは「この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ114と証言しているのです。私たちは近寄り難いイエス様ではなく、恵みとまことに満ちておられるイエス様を想像すべきであります。ペテロはイエス様が捕えられたとき、中庭でイエス様を三度も知らないと否認しました。ルカ福音書には「主が振り向いてペテロを見つめられた。…主のおことばを思い出した」(ルカ2261)と書いてあります。おそらく、イエス様の顔は怒りや蔑みの顔でなく、恵みとまことに満ちておられたのではないかと思います。私たちの信仰がおかしくなり、もしかしたらイエス様から離れる場合があるかもしれません。でも、その時、手を触れて起こして下さる、優しいイエス様を思い出すべきであります。

変貌の山はイエス様ご自身が神の子であり、最高の啓示であることを示している箇所です。その時3人の弟子たちが証人として選ばれました。私たちは現在、証人たちが書き残した聖書を持っています。私たちは聖書からただ信じるしかないのでしょうか。ところが、パウロは「御霊なる主の働きによって栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」と言っています。私たちはキリストを信じたとき霊的に生まれ変わりました。でも、神さまはもっと高みへと私たちを導いておられます。それは天国に行ってからではありません。今、この地上にあっても、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行くのです。「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント416そして、どんな状況、どんな環境の中にあっても、主の栄光が私たちの内側から外に向かって放たれていくことを信じます。

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