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2017年4月 1日 (土)

自分を捨て マタイ16:21-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.4.2

 イエス様は「いのちを失う者はいのちを得る」とおっしゃいました。私たちはこの地上でこのいのちで、ずっと生きたいと願っています。でも、この地上のいのちはやがて終わりが来ます。その前に、私たちはこのいのちではなく、神さまがくださるまことのいのちをいただくべきではないでしょうか?弟子たちはイエス様と一緒にイスラエル王国を治めたいと願っていました。このお方に従っていけば豊かな報いがあると信じて、何もかも捨てて従って生きていたのです。でも、イエス様はそういう地上のことではなく、もっと大切なものがあると教えてくださいました。

1.人のことを思う

 弟子のペテロは「あなたは、生ける神の御子、キリストです」と告白し、イエス様から「良く言った!」と褒められました。ところが、このところでは「下がれ、サタン」と叱られ、天から地獄に落とされた思いでした。なぜ、ペテロはあんな立派な答えをしたのに、こんどはこてんぱんに叱られたのでしょうか?ペテロの信仰告白が間違っていたのでしょうか?それとも、何かこの世の不純物が混じっていたのでしょうか?ヒントは本日の聖書箇所の少し前にあります。マタイ1620「そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。」もし、イエスがキリスト(メシヤ)であったなら、そのことをみんなに知らせるべきであります。しかし、イエス様はペテロが告白したようなことをだれにも言ってはならないと禁じました。なぜでしょう?当時のメシヤ観は聖書が言うメシヤとちょっと違っていました。ペテロもそうでありましたが、「メシヤはイスラエル王国を復興させてくださる私たちの王様だ」と考えていました。つまり、メシヤがローマを倒して、この地上にイスラエル王国を建てて下さることを望んでいました。その暁には、ペテロをはじめ弟子たちは、「御国の大臣になってキリストと一緒に治めるんだ。だから自分たちは何もかも捨ててしたがって来たのだ」と思っていたのです。この思いはずっと消えることなく、キリストの復活後まで続きます(参考.使徒16)。その当時、イスラエルを政治的に支配していたのはローマです。しかし、彼らには宗教的な自由が与えられていました。その指導者たちというのが、エルサレムにいる長老、祭司長、律法学者たちだったのです。イエス様は、21節からご自分がエルサレムに行って、彼らから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始めました。

 ところがまだイエス様が全部話し終えていないのに、ペテロが邪魔をしました。マタイ1622するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」なんと、弟子のペテロがイエス様に「ちょっとこっちに来て」と脇に呼んで、個人的に叱責したのです。何と言ったかというと原文を直訳すると「神が慈悲をもって、そんなことを起こらしめ給わないように」ということです。慇懃無礼とはこのことであります。今で言うと、上から目線で「とんでもない」と叱責したのです。おそらく、さきほど「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです」と褒められたので、調子に乗っていたのかもしれません。その直後、イエス様から、逆に恐ろしいことばが返ってきました。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」これはとても難解な箇所です。イエス様がペテロに「サタン」と言ったのか、それともペテロにくっついているサタンに言ったのか、ということです。「下がれ」は英語では、get behind me 「私の後ろに下がれ」という意味になっています。「あなたはわたしの邪魔をするものだ」はサタンに言っているのであり、後半の「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」は、ペテロに言っているのではないかと思います。つまり、ペテロが間違った思いを抱いていたので、そこにサタンが乗じて、イエス様を誘惑したのではないかと思います。どんな誘惑かというと十字架を通らないで、近道を提案したということです。簡単に言うと、サタンがペテロに乗り移って、十字架の贖いを邪魔しようとしたということです。「えー、本当?」と疑う人もいるかもしれません。ルカ413「誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。」これは、悪魔のイエス様に対する試みの後のことです。悪魔はしばらくの間イエスから離れていましたが、次の機会を狙っていたというのが正しい理解です。ですから、悪魔は間違った思いを持っていたペテロを用いて、イエス様の十字架の贖いを邪魔させたのです。イエス様はサタンに「あなたは、わたしの邪魔をするものだ」と言っていますが、「邪魔」は最も、相応しい日本語訳です。邪という意味は「正しくないこと、道に外れている」と言う意味です。また、「魔」は、悪魔の魔です。ですから、JB.フィリップ訳はOut of my way, Satan! You stand right my pathと書いています。簡単に訳すと、「私の道からどけ、サタン。お前はまさしく、私の道に立っている」という風になります。つまり、イエス様はご自分の死によって、人類を贖うという道を進んでいました。ところが、サタンはペテロを用いて、脇道へ逸らそうと誘惑したのです。イエス様がサタンに命じたので、その瞬間、サタンはペテロから離れました。

 その後、イエス様はペテロに言いました。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」これはどういう意味でしょう?さきほども申しましたように、ペテロや他の弟子たちは、「メシヤはイスラエル王国を復興させてくださる私たちの王様だ」と考えていました。つまり、イエス様が死んだら、元も子もないということです。なぜなら自分たちはやがて来るイスラエル王国の大臣になるんだと考えていたからです。イエス様がこれから先、2回もご自分が死んで、三日目によみがえることを予告されますが、ぜんぜん聞く耳をもっていませんでした。「イエス様が死ぬなんてことはあってはならない」とハナから否定していたのです。この思いは最後の晩餐まで続きました。イエス様が捕えられたとき、ペテロは怖くなり、イエス様を三度も知らないと言いました。それは、地上にイスラエル王国がもたらされる希望がなくなったからです。ですから、さきほど、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白した内容は、半分合っていて、半分は的外れだったのです。それでも、イエス様はその告白を父なる神からのもとであると喜ばれました。つまり、ペテロのキリスト観は十字架と復活を通過していないキリストだったのです。本来は、十字架と復活を通過したキリストを主であると告白するなら救われるのです。その当時は、まだそれがなされていなかったので、イエス様はそれでも受け入れて下さったのです。私たちの場合は、もう完成されていますから、「あなたは神の子、キリストです」と告白して救われます。

 でも、ここで問題にされていることは、イエス様がペテロにおっしゃったことばです。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」このことばは、現代の私たちにも語られていることばです。「人のことを思っている」とはどういう意味でしょうか?そして、「神のことを思う」とはどういう意味でしょうか?まず、「人のことを思う」とはペテロや他の弟子たちが思っていた内容です。彼らはこの地上で長生きして、地上でイスラエル王国を支配しようと思いました。そして、「イエス様がイスラエルの王様になり、いつまでも生きながらえて、あのダビデのようになってください」と願っていました。「人のこと」というのは、言い換えると「この世的、人間的」という意味です。この地上の生活、この地上の生き方という意味です。つまり、人生のスパン(長さ)が今から死ぬまでの間ということです。生きているうちに自分の夢が叶えられ、幸福を手にいれたいということです。そのためには、神さまをも利用するということになります。神中心ではなくて、人間中心の信仰です。ヒューマニズム(人本主義)と言いますが、イエス様を信じていても、ヒューマニズム(人本主義)のクリスチャンがいるのです。しかし、それは生焼けのパン菓子であり、神中心の信仰でなければなりません。どうすれば、神中心の信仰になるのか、それは後半の24節以降記されています。でも、前半のポイントでは、「神のことを思う」ということをしっかりゲットしたいと思います。「神のこと」とは地上のことではなく、天上のことです。言い換えると、地上のイスラエル王国ではなく、神が下さる新しいイスラエル、天の御国であります。イエス様はこの世の王ではなく、天の御国の王だったのです。そして、イエス様を信じる者は、この地上ではなく、天の御国でイエス様と一緒に治めるのです。ハレルヤ!

 使徒パウロはコロサイ3章でこのように命じています。コロサイ31-2「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」アーメン。地上のものは消えてなくなります。しかし、天にあるものは永遠に続きます。私たちが所持している地上の家、土地、車、お金、肉体、地位、すべての持ち物、みんな一時的で、みんな借り物です。しかし、やがて与えられる天上の家、土地、栄光の体、地位、持ち物はすべて永遠でありいつまでも自分のものなのです。もちろん地上の生活を粗末にしてはいけません。でも、天上の生活が私たちのゴールであり、そこを目指すべきなのです。

2.自分を捨て

 イエス様はご自分の受難と死とよみがえりを弟子たちに予告しました。その直後、このようなことを弟子たちに告げました。マタイ1624-26 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」同じようなことが、マタイ10章でも語られました。その時は、伝道旅行に遣わされる直前でした。今回は、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白した後であります。つまり、イエス様はご自分をだれか明らかにした直後です。でも、自分たちが信じていたキリスト、メシヤとは少し違っていました。なぜならエルサレムに行って、苦しみを受け、殺され、三日目によみがえると言ったからです。弟子たちは「そんなことは聞きたくない、ありえないことだ」と耳をふさいで理解しようとしなかったのです。なぜなら、イエス様が死んだら、イスラエル王国の復興もなりたたないからです。もし、そんなことになったら、自分たちが職業も家も捨てて従ってきた意味がありません。故郷に帰ったら、きっと馬鹿にされるでしょう。イエス様は彼らの思いを知っていました。彼らはこの世のこと、地上のイスラエル王国にしか興味がありませんでした。この地上で、王であるイエス様の右か左に座って、豊かな報いを受けたかったのです。まさしく、その思いは人間的であり、この世的でありました。だから、イエス様はこのようなことをおっしゃったのです。

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」一番注目すべきことは、「自分の十字架を負う」ということです。多くの人たちは十字架を負うとは、「身内や親しい人の不幸な運命を背負う」みたいに捉えていますが、そうではありません。また、クリスチャンでなくても、十字架のネックレスを首にかけてお守りみたいにしていますが、それも間違っています。ローマの時代、十字架というのは極刑の道具でした。ローマの哲学者キケロは「最も残酷で嫌悪感を起こさせる処刑である。ローマ市民には十字架を触れさせてはならない」と言ったそうです。イエス様もそうでしたが、犯罪人は刑場まで自分の十字架を背負って行かされました。当然、周囲の人たちから馬鹿にされたり、石を投げたられたりしたでしょう。そのように人々から辱めを受けた後、十字架かけられるのです。このところで、イエス様が「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われました。と言うことは、自分が死ぬための十字架を負って、イエス様について行く、これがキリストの弟子だということです。十字架はだれか人のためではなく、自分が死ぬためのものだということを忘れてはいけません。当然、イエス様に従っていくものは、イエス様が受けた辱めや迫害も受けることがありえるということです。でも、最後は死ぬのです。このようなメッセージを教会では近年語らなくなったかもしれません。なぜなら、次の週から人が来なくなるからです。人々は慰めや励ましや希望をいただいて教会に来ます。なのに、牧師が講壇から「十字架を負って、最後に死ね」と言われたら、「お前こそ死ね!」と怒って帰ってしまうでしょう。十字架のメッセージは不人気です。でも、パウロはこう言いました。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(Ⅰコリント118)。もちろん、この十字架はイエス様の贖いの十字架です。贖いの十字架はイエス様だけで、十分であり、私たちが参与する部分は全くありません。でも、キリストに従う者として、自分の十字架を負って従うということは、天国に行くまでずっと続く命令なのです。なぜ、十字架を負うことがそんなに重要なのでしょうか?クリスチャンは解放されて、自由な生き方ができるのではないでしょうか?多くの人は、イエス様がおっしゃる逆説の意味を理解しようとしません。

 マタイ1625-26「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」このところに二種類のいのちがあるとイエス様はおっしゃっています。それは、いのちとまことのいのちです。いのちはギリシャ語でプシュケーであり、「生命の息」という意味があります。人間や動物にはそのようないのちがあります。プシュケーは魂とも言われ、知性、感情、意志の面があります。プシュケーは「地上のいのち」という意味合いが強く、その代り、聖書にはゾーエーという「永遠のいのち」のことも言われています。イエス様はご自分のことを「いのちだ」と言われましたが、そのときにはすべてゾーエー「永遠のいのち」ということばを使っています。でも、マタイによる福音書はどちらもプシュケーであり、しいて言えば、いのちとまことのいのちです。では、前者のいのちとは何なのでしょうか?それは地上のいのちであり、自分だけが生きたいという本能です。私たちは死にたくないのです。だれよりも自分が生きたいのです。これがプシュケーの特徴です。この世の中には「人のために生きたい」「人のために役に立ちたい」という立派な人がいます。目的は立派かもしれませんが、根底にはプシュケーがあり、自我や欲望と戦っています。ペテロや弟子たちはこの世の王様を求めました。地上で幸せにいつまでも暮らしたかったのです。でも、それはプシュケーであり、この世のいのちから来るものでした。でも、残念ながら、プシュケーでは神の国を受け継ぐことはできません。イエス様は地上のイスラエル王国ではなく、神の王国、永遠の御国を与えようとされました。ですから、このいのちに死んで、まことのいのちをいただかなければなりません。私たちは自分で死ぬことはできません。なぜなら、プシュケーは自己保存、自己絶対、自分がだれよりもかわいいからです。そのために十字架を負うのです。十字架はあなたのいのちを殺し、まことのいのちを与える道具だからです。

 そのことはイエス様が証明し、イエス様が保障してくださいました。イエス様は「エルサレムで多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえなければならない」とおっしゃいました。つまり、十字架の死で終わるのではなく、その後に復活があると告げられました。そうです。私たちが自分の生まれつきのいのちを十字架に渡すと、今度は、復活のいのちをいただくことができるのです。復活のいのちが、まことのいのちであり、永遠のいのちなのです。このいのちこそが、神の王国、永遠の御国で生きることのできるいのちなのです。だから、イエス様は「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」と言われました。言い換えると、「全世界を手に入れても、永遠のいのちを損じたら、何の得がありましょう。永遠のいのちを買い戻すには、人はいったい何を差し出せばよいのでしょう?」となります。私たち人間には、永遠のいのちを買い戻すための何物も持っていません。永遠のいのちを買い戻してくださるお方は私たちのために十字架について三日目によみがえられたイエス・キリストだけです。このお方が代価を払ってくださったので、私たちは死んでも生きるのです。パウロは「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」(Ⅱコリント411と言いました。これこそ、聖書が言う逆転勝利であります。この世のいのちは「自分は生きたい、自分は出世したい、自分は偉くなりたい」と望むのです。ペテロや他の弟子たちもそう思っていました。でも、私たちは自分の十字架を負って、イエス様に従うのです。するとそういう自分が死んで、イエス様中心の新しい自分が与えられます。生まれつきの自分こそ曲者はいません。その自分を十字架の死に渡すと、本当の自分が生まれるのです。だから、「まことのいのち」を英国の聖書は、his true self、「本当の自分」と訳しています。

 私が言いたい事はこのことです。生まれつきのいのちと神さまがくださる永遠のいのちをそのまま継ぎ足すことは無理です。言い換えると生まれつきの自分と神さまがくださる本当の自分をそのまま継ぎ足すことは不可能です。十字架はそれらの二つを一回、断ち切って下さる神の道具です。かつてはローマの死刑の道具でしたが、キリストにあってあなたに死とよみがえりを与える神の道具になったのです。十字架なくして復活はありません。あなたはこの世のいのちに死んで、神からの新しいいのちをいただく必要があります。Ⅱコリント517「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」「キリストにあるなら」とは原文は、engraft「接ぎ木されるなら」であります。つまり、生まれつきのいのち、生まれつきの自分が一度断ち切られ、こんどはキリストという木に接ぎ木されるということです。それまではアダムから来た古いいのちでこの世のものを求めて生きていました。いや、生き延びてきました。でも、十字架で切られて死んで、こんどは生まれ変わり、キリストに接ぎ木されました。こんどはキリスト様からいのちと力をいただくのです。あなたはこの世でありながらも、神の国のいのちで生かされて歩むのです。16章の最後に「報い」ということばはありますが、すべてを失ってもイエス・キリストが報いてくださるのです。

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