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2017年3月24日 (金)

この岩の上に マタイ16:13-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.26

 きょうの箇所はマタイによる福音書の1つの山場です。とても有名な箇所でありますが、同時に様々な解釈がほどこされており、歴史的に話題になった箇所でもあります。これらのことばは、直接的にはペテロに言われたことばでありますが、同時に私たちにも言われたことばであると信じます。なぜなら、教会は使徒的な教えの上に立っているからです。イエス様が弟子たちに命じられたことばは、私たちにも命じられたと取るべきであります。それでないと、聖書を読んでいる意味がありません。かつては弟子たちに語られましたが、今日は聖霊よって私たちひとり一人に語られていると信じます。

1.イエスはキリスト

 イエス様は弟子たちを連れて、ピリポ・カイザリヤと言うところに来ました。地図を見ると、ヘルモン山の近くでイスラエルの北に位置しています。ヘロデ・ピリポは自分自身とローマのカイザルをたたえて、この町を築いて二人の名前を付けました。また、この地は異邦人の地であり、人々はパーンという牧畜の神さまを礼拝していました。一方は政治的な支配、他方は偶像礼拝の地で、イエス様は弟子たちに1つの質問をしました。「人々は人の子をだれだと言っていますか」と、遠くの方から質問しました。マタイ16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」当時の人たちは、イエス様を有名な預言者の再来だと思っていたのでしょう?次に、イエス様は「では、あなたがたは、私はだれと言いますか」とダイレクトに質問しました。そのとき、弟子のリーダー格であったペテロが即座に答えました。マタイ16:16「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ペテロは目立ちたがり屋で、ある時は余計なことを言いますが、今回は冴えていました。イエス様から「あなたは幸いです」と山上の説教と同じ、祝福のことばをいただきました。マルコによる福音書は「あなたはキリストです」(マルコ829の一言だけですが、マタイによる福音書の方が詳しく書かれています。

 このところで重要なのは、ペテロのイエス様に対する告白であります。一番重要なのは、「イエスがキリストである」ということです。なぜなら、原文も英語の聖書も「あなたはキリスト、生ける神の子です」という順番になっているからです。キリストといのはメシヤであり、救い主だということです。でも、この告白は単なる告白ではなく、私たちが救いを受けるための信仰告白です。ローマ109「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」それだけではなく、イエス様の御名は最も権威があると書かれています。ピリピ210-11「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」ペテロはどの程度知っていたか分かりませんが、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白しました。それに対して、イエス様はとても感激され、ペテロを賞賛しています。でも、そのことを告白させたのはだれでしょう?「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」とイエス様が言われました。「明らかに示す」ということばは、「啓示する」ということばが使われていますが、人間の知恵や考えでは及ばないということです。父なる神さまが、開示して下さったということです。私たちもあるとき決心して、イエス様が救い主、キリストであると信じて告白します。この告白なしではクリスチャンになることはできません。でも、この告白は簡単にはできません。パウロは「聖霊によるのでなければ、だれでも、『イエスは主です」と言うことはできません』(Ⅰコリント123と言いました。神の霊である聖霊がその人に臨んで、はじめて分かることだからです。

 洗礼式では、確認のために公に告白してもらいます。もちろん、神さまと一対一で十分なのですが、教会の群れに加えられるとき、答えてもらいます。そうすると兄弟姉妹は「ああ、本当にイエス様を信じたんだなー、救われて良かったですね」とお祝いします。でも、中には口先だけの人もいるかもしれません。もちろん、私は牧師として信仰告白が真実なものとして洗礼を授けます。でも、便宜上とか、仕方なくという場合もあるかもしれません。結婚するため、ミッションスクールに入るため、あるいはお世話になったので断ることができなかったとか…。外からは分かりません。しかし、私たちはどういう状況で、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白したのか知らなければなりません。最初に申しあげましたが、その場所はピリポ・カイザリヤというところで、皇帝礼拝がなされているところでした。これからますますローマ皇帝の力が強くなり起源100年頃は大迫害が起りました。その当時は、カイザルが主(キュリオス)でありました。そういう中で、イエスが主(キュリオス)と告白するなら、投獄され命が奪われました。ペテロもパウロもその告白を捨てなかったので、殉教しました。もう1つは、ピリポ・カイザリヤの人たちはギリシャとローマの偶像、パーンを拝んでいました。日本も多神教の国であります。宗教に関してはとても寛容でありますが、「キリストの神が唯一だ」というと排斥され、時には迫害されます。都会ではそうでもありませんが、地方では「村八分」のようになります。そういう中で、「イエスは主です。他に神はいません」と告白できるかということです。

 でも、イエス様を信じて、さらに聖霊に満たされると、告白せずにはおれなくなるのです。イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ1234と言われました。びくびくして、「イエスは主です」と言うのではありません。救われたのがうれしくて、喜びのゆえに、「イエスは主です。アーメン」と言いたくなるのです。神の霊が臨んで、あのエレミヤのようにしまっておくことができなくなるならば本物です(参考.エレミヤ209)。アーメン。

 

2.この岩の上に

 イエス様はペテロにこう言われました。マタイ16:18 「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」「この岩」とはだれなのか、歴史的に物議をかもしているテーマです。ローマ・カトリックは「岩とはペテロである」と主張します。なぜなら、ペテロは「岩」という意味があるからです。そのためペテロがキリストの最初の代行者であり、歴代の教皇がそれを受け継いでいるという考えです。しかし、16世紀に宗教改革が起りました。ルターは「生けるキリストご自身である」と言いました。また、カルヴァンは「『イエスは主である』というペテロの信仰告白である」と解釈しました。現在はどのように落ち着いているのでしょう。「この岩の上に」というのは「ペテロの信仰の上に」ということです。しかし、実質的には「キリスト自身である」ということです。旧約聖書には「主は岩である」という表現がたくさん出てきます。パウロは「モーセが打った岩はキリストである」(Ⅰコリント10:)と解釈しています。もしも、ペテロが告白した「イエスは主である」という信仰告白が教会の土台だとするならどうでしょう?もちろん、「イエスは主である」という信仰告白は重要です。これはプロテスタント教会が寄って立つところだからです。でも、そのように告白したペテロがその直後、どうなったでしょうか?彼は「下がれ。サタン。あなたは私の邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ1623としこたま叱られました。さっきまで、天国に上げられていたのに、よけいなことを言ったために、今度は地獄に落とされました。また、ペテロはイエス様が十字架にとらえられた時、「イエスを知らない」と三度も否定しました。ですから、人間の信仰告白だけでは、教会の土台にはなれないということです。

 でも、告白を受けられる「岩であるキリスト」ならどうでしょう?パウロは「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」(Ⅱテモテ213と言いました。つまり、私たちだけの信仰ではなくて、イエス様の真実があるから救われるのです。ときには私たちの信仰がおかしくなることもあるでしょう。ところが、信じているお方が常に真実であるなら大丈夫です。この世の宗教は私たち人間の信心が強調され、信仰の対象はどの神様でも良いみたいに思われています。そうではありません。私たちの信仰も重要ですが、信仰の対象がまことの神さまであるなら安心であります。そういう意味で、「この岩とは、生けるキリストご自身である」と言うことも可能なのです。英語の詳訳聖書には「ギリシャ語のペトラは、ジブラルタルのような巨大な岩である」と書かれていました。スペインの南部に「ジブラルタルの岩、ザ・ロック」というのがあります。ザ・ロックは岬をなす一枚岩であり、高さが426メートルあります。歴史的に、ジブラルタルの岩は堅固な要塞になっていたそうです。ペテロは「大きな岩の一部」という意味です。でも、イエス様はジブラルタルのような巨大な岩、要塞なのです。ハレルヤ!私たちは岩なるイエス様の上に、信仰を築いているのです。イエス様は「岩の上に建てられた家は、雨が降って洪水が押し寄せても倒れなかった」(マタイ725)と言いました。アーメン。あなたの信仰を自分の信念や知識に置いてはいないでしょうか?教会の伝統や信条、あるいはだれかの神学の上に置いている人もいるかもしれません。聖書に啓示されている、生ける神の子キリストに置くべきであります。そうすれば、世の終わりが来ても、年老いて自分がだれか分からなくなっても、その人の信仰は揺るがされることはありません。

 私は教会形成にとても興味があり、弟子訓練やセルチャーチに約30年間携わってきました。しかし、どれもこれもうまくいきませんでした。弟子訓練は人々をキリストの弟子に作り変えるということです。これを聞いた人々は、「え?今のままではダメなの?私を訓練するの、怖い?」というイメージを持ちます。セルチャーチはどうでしょう?これは小グループを作り、聖書のことばを分かち合って、建て上げ合います。さらに人々をグループに招き入れて救いに導き、増殖するというゴールがあります。10年前、香港からベンウォン師が来られ「教会の7つの本質」について教えてくれました。その中で最も重要なのは「関係」であると言われました。私は、以前は気づいていませんでしたが、人間関係が苦手なんだと分かりました。私だけではなく、日本人が人間関係で苦労しています。それなのに、教会で「関係が大事だ」と言われるとよけいプレッシャーを与えてしまいます。教会形成のためにいろんな勉強をし、努力を重ねてきました。しかし、最後に分かったことはこのことです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」だれが、教会を建てるのでしょうか?「キリストご自身が、キリストの教会を建てる」ということです。それなのに、人為的に手を加えて教会を形成するということ自体が無理なのです。教会がキリストのからだであるなら、かしらはキリストです。それぞれがかしらなるキリストから命令を聞けば良いのです。そして、同じ賜物、同じ使命を持つ者どうしが連携し合えば良いのです。重要なのは互いに愛し合い、コミュニケーションを持つということです。ハレルヤ!このように単純に考えるとうまくいくのではないかと確信しました。大和キリスト教会に行くと壁に私はこの岩の上に私の教会を建てよう」という横断幕が張られています。最初に書いたのは私なんです。私が座間キリスト教会にいたころ大川師の命令によって、大きな横断幕を書いたのです。それなのに、38年もたって、振出しに戻るとはどういうことでしょうか?聖書にちゃんと書いてあったんです。キリスト様がおっしゃいました。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」このお方をかしらとして仰ぎ、従っていく時、教会が建てられていくのです。アーメン。

 

3.天の御国のかぎ

 マタイ1619 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」天の御国のかぎとは何なのでしょうか?まただれにこのかぎが与えられたのでしょうか?古くから現代のようなかぎがあったと思われます。イエス様がペテロにかぎを手渡している宗教画はたくさんあります。しかし、「つなぐ」とか「解く」ということばが後にありますので、原文から調べる必要があります。「つなぐ」はギリシャ語で「デオウ」で、「縛る」とか「禁じる」という意味があります。英語の詳訳聖書には「不適当で不法であると宣言する」となっています。また、「解く」はギリシャ語で「リュオウ」ですが、「解く」とか「許す」という意味があります。英語の詳訳聖書には「合法であると宣言する」となっています。両方ともユダヤ教のラビたちがよく用いた表現のようです。簡単に言いますと、「つなぐ」は「禁じる」であり、「解く」は「許す」ということです。イエス様は「地上で禁じるなら、天においても禁じられる。地上で許すなら、天においても許される」とおっしゃったのです。ですから、「天の御国のかぎ」というのは、神さまの代わりに「禁じたり」「許す」権威なんだと捉えるべきです。でも、その権威が一体、だれに与えられたのでしょうか?この文章を見る限り、ペテロに与えられていることがわかります。なぜなら、イエス様が「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます」とペテロに言っているからです。ローマ・カトリックはこのところから、やっぱり「ペテロが最初の首長なんだ」と主張するのであります(ダシャレです)。J.Cライルという人の本を読むと、そのことが書かれていました。ペンテコステの日、だれが説教したでしょうか?ペテロがエルサレムでキリストの復活と聖霊降臨のメッセージをしました。それで、3000人の人たちが救われました。また、ユダヤ教の指導者たちから捕えられたとき、彼は「天の下でこの御名の他に、私たちが救われるべき名は与えられていません」と大胆に答えました。それから、異邦人の教会ができていたとき、ペテロがそのことを許可しています。そういう意味で、初代教会のリーダーはペテロであったということは否むことはできません。

 しかし、それで終わりではありません。イエス様は復活された後、弟子たちに現れてこのように言われました。ヨハネ2020-21「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。』」このところから、ユダを除いた11人の使徒たちに、その権威が与えられたことがわかります。イエス様は使徒たち全員に、天の御国のかぎを与えたのです。さらに、マタイ28章を見るとどうでしょう?マタイ2818-19「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け…」とあります。この命令は弟子たちばかりではなく、キリストを信じる教会に与えられていると信じます。私たちは教会で洗礼式を行います。その人の信仰告白を確認したとき、祈りをささげます。そのとき、私は「子よ。あなたの罪は赦されました」(マルコ25とイエス様のことばを宣言します。そのシーンを見ていて、「え、そんな権威があなたにあるの?あなた何様なの?偉そうに!」と反感を抱く人もいるかもしれません。だけど、それはイエス様がくださった権威を用いているのであって、牧師自身に特別な権威があるわけではありません。つまり、天の御国のかぎを用いているということです。でも、このかぎは、牧師だけのものではありません。ルターは「万人祭司説」を唱えました。今日の教会では按手礼を受けた牧師でなければ、洗礼や聖餐式をできないと決めています。もし、私がこれに異議を唱えるなら、免職になる恐れがあります。でも、「それが聖書のどこに書いてあるのですか?」と聞かれて、「ここにあります」と答えられる先生がおられるでしょうか?マタイ28章は使徒たちがキリストの弟子を作り、その弟子となった者が「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授ける」ように命じられているのです。聖書を見ると、使徒パウロが洗礼を授けたのは数名であり、弟子たちがバプテスマを授けています。そのことを考えると、もっと信徒に権威を委譲していくべきではないかと思います。でも、私はブラザレンのように牧師の権威を全くなくすというのは反対です。聖書には「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」(エペソ411と書かれています。でも、それは仕えるための権威であって、人を支配するためのものではありません。とにかく、クリスチャン一人ひとりが、天国のかぎをぶら下げて歩き、いつどんな時でも、用いることができたら幸いです。出会った人に福音を語り、信じた人には、天国に行く許可を与えたら良いと思います。日本の教会には、牧師しかそのかぎを使えないという伝統がありますが、それならば御国は広がっていきません。「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます」とイエス様はあなたに語られたのです。

 イエス様はハデスの門もそれには打ち勝てません。」と言われました。ハデスとは陰府であり、死者がいるところです。その後、イエス様は「天の御国のかぎを上げます」と言われました。ハデスと天の御国は真逆です。もし、地上の私たちが「禁じたり、許したり」する権威を持っており、それが天にもちゃんと連携していると教えられました。でも、それは天だけではなくて、ハデスにも連携していると考えたらどうでしょう。ハデスには門があります。しかし、私たちがもっている天の御国のかぎの方がもっと権威があるということです。つまり、私たちが「あなたは救われました」と言うなら、ハデスの門は決して開くことはないということです。つまり、その人は死んでも、ハデスに行くことはないということです。エターナル・ミニストリーズという出版社があり、天国に行った人々の証や地獄に行った人々の証がたくさん本になっています。ある女性がイエス様と一緒に地獄に下りました。ある女性が半分腐った体で、燃える火の中で苦しんでいました。その女性がイエス様に「どうか助けてください」とすがりつこうとしました。イエス様は悲しい顔をされ「遅すぎます」とひとこと言いました。するとその女性は般若のような顔に変わり、きたない言葉をイエス様にいっぱい浴びせました。つまり、ハデスの門は堅く閉じられており、そこではイエス様でも無理であったということです。イエス様は「光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」と言われました。現在、天国の門も陰府の門も両方とも開かれています。どうか一人でも多くの人たちが「イエスは主である」と告白して御国に入れますように。そのためにすべてのクリスチャンが「天の御国のかぎ」を用いられますように。

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2017年3月17日 (金)

まだわからないのですか マタイ16:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.19

 マタイ16章のはじめは、15章の続きだと思ってください。15章の終わりには、7つのパンで男性だけでも4000人を養った奇跡が記されていました。その後、イエス様は群衆を解散させて、ガリラヤ湖の向こう岸に行かれました。弟子たちは、最初は5000人の給食、そして4000人の給食という奇跡を体験しました。しかし、ここでは「パンがない。パンを持ってこなかった」と悩んでいます。イエス様は「まだわからないのですか?」と弟子たちにおっしゃっていますが、弟子たちは何が分からなかったのでしょうか?きょうは3つの問題について考えたいと思います。

1.しるしの問題

 マタイ161 「パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。」「しるし」とは、「あなたが本当にメシヤなのか奇跡をもって証明してください」ということです。同じことが、マタイの12章にも書かれていました。使徒パウロは「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します」(Ⅰコリント122と言いましたが、度々、イエス様にしるしを求めました。このところでは「天からのしるし」と書かれています。「天」というのは、空という意味と、神という意味があります。ですから、イエス様は最初、空の話、つまり天候の話をされました。人々は「もし夕焼けだと明日は晴れるということであり、朝焼けだとまもなく荒れ模様になる」ということを知っていました。イエス様は「そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。」と言われました。おそらく、空模様の見分け方とイエスさまによる「時のしるしの見分け方」が共通しているということでしょう。「しるしの問題」は、なかなか難しい問題です。先ほど、天には「神」という意味もあると申し上げました。イエス様がなさっておられたことは「神からのしるし」だったのです。言い換えると、自然界のしるしがあるように、神からの霊的なしるしがあるということです。 

 イエス様はあるところで「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」と言われたことがあります。マタイ12章では神の御霊によって悪霊どもが追い出された時でした。また、福音書を見ますと、「神の国を宣べ伝え、病気を直すため」とか「福音を宣べ伝え、病気を直した」という言い方がところどころに発見できます。これらの意味は、イエス様と一緒に神の国がやってきたということです。その証拠として、悪霊が追い出されたり、病が癒されたり、死人がよみがえらされたのです。それは明らかに「時のしるし」を意味しています。アダム以来、この世はサタンが支配し、人々は罪と病と死の中で苦しんでいました。しかし、神の子イエスがこの世にやってきました。手ぶらではなく、神の国を引っ下げて、やって来たのです。言い換えると、イエス様と一緒に、この世に神の国が侵入して来たのです。そのため悪霊が追い出され、病が癒され、死人がよみがえらされたのです。本来なら、それらはこの世が終わって御国に属することです。しかし、この世がまだ終わっていないのに、イエス様が神の国をもたらすためにやって来られたのです。これが「時のしるし」であり、真摯に求めようとすれば分かる真理なのです。

 ところがどうでしょう?マタイ164「『悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。』そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。」イエス様は「悪い、姦淫の時代はしるしを求める」と言われました。「時代」というギリシャ語は、ゲネアーで「子孫、血族、種族」という意味です。英語の聖書はgenerationとなっていますので、「同時代の人々、世代」とも訳すことができます。つまり、「その時代の人々」という意味です。それは、当時のユダヤ人をさしているものと思われます。なぜなら、神の子イエスご自身とイエス様がなさるみわざを直視しながら、「もっとしるしを見せて下さい」と願ったからです。これは不信仰の現れ、悪い心の現れと言えます。「ヨナのしるし」とは、イエス様が死後、三日目によみがえるというしるしです。キリスト教の最大のしるしは、イエス様が死んで三日後に復活されたという奇跡です。それ以上のしるしはありません。だから、使徒パウロは「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです」(Ⅰコリント1514と言いました。今日の時代も、キリストの復活を信じない人たちがいますが、言い換えると悪い、姦淫の子孫だということなのです。人々は自分の罪を捨てたくないので、大いなるキリストのしるしを見ても信じないのです。

 私たちはどの子孫になりたいでしょうか?たとい、悪い姦淫の時代の中にあっても、神の子イエスを信じる人々がいるのではないでしょうか?そういう人たちこそ、「神の種が宿っている人たち」(Ⅰヨハネ39なのではないでしょうか?私たちは悪い姦淫の時代の中にあっても、キリストを信じたゆえに、新しい御子の子孫(種族)に加えられていることを感謝しましょう。ジョエル・オスティーンが言いました。「あなたのgene遺伝子には宇宙を創られた最も高い神さまの遺伝子が組み込まれているのです。サラブレッドが血統で決まるように、あなたも神の血統なのです」。私たちは自分の生まれた血統しか見ていません。「自分の生まれがこうだから」「自分の育った環境がこうだから」と低いレベルを生きているかもしれません。そうではなく、クリスチャンは再び生まれた存在です。だから、宇宙を創られた最も高い神さまの遺伝子が組み込まれているのです。だから神さまを「天のお父様」と呼ぶのです。私たちは天の父の子ども、遺伝子が組み込まれています。この事実を受け止めると、この先、希望が湧いてきます。それは単なる希望ではなく、神さまの確かな約束なのですから、そのまま信じて受け止めるべきであります。

2.パン種の問題

 マタイ165-6「弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。イエスは彼らに言われた。『パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。』」そのことを言われたとき、弟子たちは食べるパンのことを考えていました。イエス様は続けておっしゃいました。マタイ1611-12「『わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。』彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。」奇跡のことは次のポイントでお話ししますが、パン種(イースト菌)のことをまずお話ししたいと思います。聖書でパン種というのは腐敗を象徴しました。なぜなら、パン種を入れると長く保存できないからです。少し前の13章で「天の御国はパン種のようなものです」というたとえがありました。しかし、それは例外で、腐敗ではなく、知らない間に膨らむというたとえです。その意味は、天の御国が地上において、知らない間に拡大していくということです。しかし、イエス様がここで言われている「パン種」は悪い意味で、偽善を表しています。膨らむことはふくらむのですが、真実ではなく、偽善だということです。イエス様は弟子たちに5つのパンで5000人を養ったこと、7つのパンで4000人を養ったことをお話しされました。それぞれ、パンが余ったのでかごに入れました。パンが余ったということは、実際にパンが増えたという証拠です。一方、偽善による膨らませ方は実質のないものであり、無益だということです。

 イエス様はパリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけるように言われました。イエス様が来られる200年前頃、ユダヤがギリシャから独立したときがありました。そのとき、パリサイ人やサドカイ人たちが生まれたようであります。パリサイ人というのは、一般の仕事についていながら、律法を厳格に守るユダヤ教徒です。パリサイの元の意味は、「分ける」とか「きよい」から来ているようであります。つまり、「自分たちは律法を守っているのできよいんだ。あなたがたとは違う」と他の人たちをさばいていたのです。しかし、律法を完全に守ることは不可能です。そのため彼らは言い逃れの律法解説書を作って、ごまかしていたのです。だから、イエス様は彼らを偽善者だと言ったのです。なぜなら外側ばかり清くして、内側は汚れと貪欲に満ちていたからです。一方、サドカイ人とはだれでしょう?彼らは祭司をしている特権階級の人たちです。彼らにはお金と権威がありました。でも、信仰は中途半端で復活とか霊的なことは信じませんでした。ヘロデ党と同じように、とても世俗的でした。彼らもイエス・キリストを否定しました。なぜなら、キリストを信じると、自分たちの教えや立場がなくなって、飯が食えなくなるからです。パリサイ人やサドカイ人たちというのは、言い換えると宗教であります。宗教にはきまりがあり、儀式があります。いろんな階級があり、一般の人たちはそれに預かることはできません。現代、私たちはローマ・カトリックやロシア正教を見ることができますが、とてもきらびやかで、宗教的な儀式がいっぱいあります。宗教改革以降、プロテスタント教会はそういう宗教的、形式的なものをできるだけ排除するように勤めてきました。

 なぜ、イエス様は「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われたのでしょうか? 12節で弟子たちは「パン種のことではなく、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであると悟った」と書いてあります。そうです。彼らの教えであります。JB.フィリップス訳には、the influence of the teaching of the Pharisees and Sadducees. 「パリサイ人やサドカイ人たちの教えの影響」と訳されています。Influenceというのは、感化とか悪影響のことであります。つまり、彼らの教えの中には、本当の信仰を腐らしてしまう悪いものがあるということです。「もし、彼らと交わるならば、何か悪いものが移ってしまうよ」ということなのです。箴言にはそういう戒めが何度も書かれています。「くちびるを開く者とは交わるな」(2019)、「おこりっぽい者と交わるな」(2224)、「そむく者たちと交わってはならない」(2421)、「放蕩者と交わる者は、その父に恥ずかしい思いをさせる」(287)、「遊女と交わる者は、財産を滅ぼす」(283)。新約聖書にもいくつかありますが、Ⅱヨハネのことばは強烈です。「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」(Ⅱヨハネ10-11)。ヨハネの場合は、キリストを否定する異端の人たちと交わるなと警告しています。私たちは伝道のために、ある程度、危険を犯してでも、近づかなければならないところがあります。でも「交わり」というのは、共有するという意味ですから、この世の人たちと接することがあったとしても、共有できない分野があるということを知るべきです。たとえば、疑い、恐れ、汚れ、不平不満、不信感は伝染します。ですから、そういう話題からはできるだけ、避けるべきであります。テレビやインターネットも鵜呑みにしてはいけません。ニュースやドラマは世の中の不条理が強調されています。ずっと見ていると、神さまの存在が薄くなり、問題や悩みが拡大していきます。

 私たちは主と交わり、正しい信仰者と交わるべきであります。第一は神さまとの交わりです。Ⅰヨハネ13「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」第二は主にある兄弟姉妹との交わりです。Ⅰヨハネ47「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」パリサイ人たちのように律法的な偽善を避けて、恵みの中を歩みましょう。サドカイ人たちのような形式的な偽善を避けて、真実な交わりを築き上げていきましょう。交わりの秘訣は何でしょう。キリストの血が互いの罪を取り除いてくださいます。そして、互いの中にあるキリストの御霊が真実な交わりを可能にしてくださるのです。

3.信仰の問題

 イエス様は「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われましたが、実はもう1つ信仰についても教えておられます。もう一度、マタイ16章のみことばを読んでいきたいと思います。マタイ16:5 「弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。」そして、マタイ167-8「すると、彼らは、『これは私たちがパンを持って来なかったからだ』と言って、議論を始めた。イエスはそれに気づいて言われた。『あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。』」パリサイ人やサドカイ人たちのパンの増え方は偽物でした。なぜなら、偽善や虚栄、形式によって膨らませていたからです。宗教はなんとなく心を満たすかもしれません。でも、それは本物ではありません。イエス様はご自身がいのちのパンとして、わずかなパンをもとにして5000人と4000人を養いました。その奇跡が本当に起こった証拠に、それぞれ12かごと7かごのパンの余りが生じました。人々は精神的に満たされたのではなく、実際に肉体的に満たされたのです。イエス様は「パリサイ人やサドカイのパン種に注意しなさい」という戒めと同時に、彼らの不信仰を嘆いています。弟子たちはあのときのパンを持ってくるのを忘れました。そしてイエス様は「私たちがパンを持ってこなかったから何かおっしゃっているんだ」と議論していました。それに対して、イエス様は「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。」と言われました。英語の詳訳聖書は「どうして私を信頼していないのか?信仰の薄い者たち」と訳しています。つまり、信仰が薄いとは、イエス様をそんなに信頼していないということであります。

彼らは「パンがない」と騒いでいました。でも、それがそんなに重要な問題なのでしょうか?彼らはもう2度もパンが奇跡的に与えられたことを体験しています。「イエス様がそばにいれば、パンのことで悩む必要はない」と心から考えるべきでした。第二回目のレッスンのときは、イエス様が「群衆が三日間も食べていないので、どうしましょうか?」と提案しました。そのときは、「こんなへんぴなところで、こんなに大勢の人にどうやって食べさせるのですか?」と答えました。彼らは第一回目の5000人の給食を忘れていました。イエス様は「やれやれ」と思ったかもしれませんが、7つのパンで4000人の人たちを奇跡的に養われました。すばらしい体験を2回もしたにもかかわらず、「パンがない」と悩んでいました。おかしな話です。パンの問題は目の前のイエス様によって解決したし、これからも解決すると考えるべきであります。だから、イエス様は「信仰の薄い人たち」と嘆いておられるのです。弟子たちの何が悪かったのでしょうか?考え方が変わっていなかったのです。ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」みことばに「心の一新によって自分を変えなさい」とありますが、日本語としては不自然な言い方です。「心の一新」で十分なはずなのに、さらに「自分を変えなさい」と書いてあるからです。これはどういう意味でしょう?多くの人たちは自分を変えるためにどのような努力をしているでしょうか?体重を減らしたりして体形を変えることによって自分を変えようとするでしょう。2か月で痩せられる「ライザップ」というのがあるようです。あるいは、服装や髪形、お化粧を変えることによって自分を変えようとするでしょう。英語の詳訳聖書は、「外側を変えたり適応させたりする表面的な習慣ではなく、変革させられなさい。新たにされたマインドによって」と訳しています。簡単に言うと、マインド、考え方を変えることによって、自分を変えるんだということです。その人のマインド、考え方を変えたら、その人が変わるということです。



 たとえば、カルト宗教はよくマインドコントロール」すると言われています。マインドコントロールされた人は全く別人になってしまいます。周りの人が何を言ってもききません。逆に言うと、マインドにはそれだけ力があるということです。クリスチャンは霊的に救われ、霊が新しく生きています。しかし、人間の生き方を司っているのは、精神でありマインドなのです。これが私たちの人生を決定していく司令官なのです。いくら内におられる御霊が「ああしろ、こうしろ」と言っても、マインドがガンとして動かない場合があります。だから、生まれつきのマインドが一度砕かれて、全く新しいものに造り変えられる、これがトランスフォーメーション「変革」なのであります。弟子たちは奇跡を何度も体験しましたけれど、マインドが相変わらず古いものだったので、「イエス様がこれからも何度もパンを与えて下さる」と信じられなかったのです。私たちは「奇跡とは滅多に起こらないものである」と考えてはいけません。確かにこの世では「奇跡とは滅多に起こらないから奇跡なんだ」と言うでしょう。なぜなら、この世の人たちは神さまが遠くの別の世界にいると考えているからです。その神さまは滅多に、この世界に介入しないんだ。この世を支配しているのは自然科学であり、人間なんだと考えているからです。そうではありません。弟子たちはイエス様と一緒にいて奇跡を何度も体験しました。そうであるなら、今日の私たちともイエス様は共におられます。しかも、私たちの内に住んでおられます。パウロは「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ127と言いました。多くのクリスチャンはイエス様を私たちのマインドの中に閉じ込めています。「現代は、奇跡がないんだ。パンの問題は私たちがやるので、霊的なことだけをお願いします」と言っているのです。マインドの殻、不信仰の殻があまりにも堅いので、イエス様が出て来られないのです。私たちは弟子たちを笑うことはできません。私たちは過去に体験した奇跡は、今後、再び起こらないと諦めています。イエスさまが2度もわずかなパンで大勢の人たちを養いました。それだったら、3度目、4度目も期待して良いはずです。どうぞ、私たちのマインド、考え方を変えましょう。

神さまは今も生きておられ、私たちが難しいと思っている問題を解決してくださいます。私たちは難しいと考えているかもしれませんが、神さまはそうでないかもしれません。イエス様は「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」(マタイ183と言われました。大人はマインドでいろいろ理屈をこねます。頭で理解できなければ受け入れません。しかし、子どもはそうではありません。「悔い改めて子どもたちのようになる」とは、「マインドを変えて子どもたちのようになる」という意味です。どうぞ、生まれつきのマインドを捨てましょう。新しいマインドを神さまからいただいて、神さまにとって奇跡は当たり前、日常茶飯事に起るんだと信じましょう。パンの問題で悩んでいる人がいるならば、イエス様はきょうも明日も与えてくださると信じましょう。

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2017年3月10日 (金)

四千人の給食 マタイ15:29-39 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.12

 マタイ14章には、イエス様が5つのパンと2匹の魚で5000人を養われた奇跡が記されていました。しかし、このマタイ15章にも似たような奇跡が記されています。今度の場合は、7つのパンと小さい魚で4000人であります。どちらも、女性と子どもたちを除いた数でありますから、実際は倍の数になっていたことでしょう。これは差別ではなく、戦争に参加できる成人の男性を数とした当時の風習から来ています。きょうは、5000人の時と、4000人の時との違いを調べたいと思います。また、なぜ2回も同じような奇蹟を行ったのかということも考えたいと思います。

1.異なる点 

 最初は前回の5000人の給食と異なる点を調べて行きたいと思います。第一は「三日間も食べていなかった」ということです。イエス様は「この群衆はもう三日間も私と一緒にいて、食べる物を持っていないのです…空腹のため途中で動けなくなる」と言われました。三日間も何をしていたのでしょうか?もちろん、イエス様から福音や聖書の教えを聞いていたのでしょう。でも、そればかりではありません。彼らの多くはイエス様がおられるところを探し当て、病人や障害のある人たちを連れて来ました。マタイ1529-31「それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。すると大ぜいの人の群れが、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、口のきけない者、そのほか多くの人をみもとに連れて来た。そして彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをいやされた。」おそらく、イエス様は半分以上の時間とエネルギーをミニストリーに費やされたのではないかと思います。当時は車や電車がありません。馬やロバを持っている人たちは裕福な人たちです。彼らの多くは徒歩で、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、他に障害のある人や病気の人たちを連れてきたのではないかと思います。家族や友人、隣近所が誘い合って、助け合って来ていたのではないでしょうか?その数があまりにも多かったので、三日も過ぎてしまったのではないかと思います。他の箇所ですが、「大勢の人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった」(マルコ320と書かれています。決して大げさではなく、求めて来る人があまりにも多かったので、三日間ろくに食事をすることができなかったということでしょう。ある人が「リバイバルが来ると忙しくなる」と言いました。大勢の人たちが「どうしたら救われるんですか?」と詰めかけて来たらどうしますか?あなたは手短に福音を語って、救いに導けるでしょうか?また、「病院じゃ治らないと言われたのですが、どうか祈ってください」と来たらどうしますか?他の人に頼まないで、自分で祈れるでしょうか?どうぞ、リバイバルに備えてください。

 第二は4000人の給食の場合はイエス様が先に言い出したということです。前回の5000人の給食のときは、弟子たちの方から「ここは寂しいところですし、群衆を解散させて、めいめいで食事を買うようにさせてください」(マタイ1415とイエス様に提案しました。しかし、今回はどうでしょう?マタイ1532イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」あきらかに違います。イエス様の方から弟子たちに「彼らを空腹のままで帰らせたくありません」と提案しています。弟子たちはどう答えたでしょうか?マタイ1533そこで弟子たちは言った。「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手に入るでしょう。」このような答え方は、全回の時と全く同じです。前も、「ここは寂しい所ですし」言っています。おかしいと思わないでしょうか?弟子たちは、少し前に5000人の給食の奇蹟をまのあたりに見たはずです。それなのにコロっと忘れています。マタイ1534すると、イエスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」このあと、イエス様は七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられました。奇跡的にパンと魚が増えて、男性だけでも4000人の人たちが食べて満腹しました。違うのはパン切れの余りが今回は7つのかごいっぱいであったということです。前回は12のかごいっぱいでしたが、かご自体の大きさが違いますので、正確な量は分かりません。パン切れの余りがあったということは、実際にパンが増えていたという証拠です。これは奇跡であり、精神論や合理主義で解釈できないということの証拠であります。とにかく、今回の奇跡はイエス様の方から提案したということです。しかしながら、弟子たちは前回のことを忘れ、奇跡が再び起こるということを全く期待していなかったようです。

 第三は増えたパンがどのように群衆に配られたか明確に記されていることです。5000人の時はどうだったでしょうか?マタイ1419-20抜粋「五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。」とあります。なんとなく、「増えたパンを弟子たちが群衆に配ったんだろうなー」ということが推測できます。では、今回の場合はどうでしょうか?マタイ1536-37抜粋「それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。」このところには、順番がはっきり記されています。パンを増やしたのはイエス様ご自身です。そして、弟子たちはそのパンをイエス様から受け取り、そして弟子たちが群衆に配ったということです。パンの供給者はだれでしょう?イエス様です。そして、イエス様から受け取って、人々に配る人は弟子たちです。弟子たちに「パンを増やしなさい」と言われても、無理なことです。でも、イエス様にパンを増やしていただいて、それを人々に配ることは可能です。これは癒しや奇跡のわざも同じことです。人を癒したり直したりするのは、イエス様です。私たちがイエスの御名によって祈ったり、命じたりするとき、キリストの御霊である聖霊様が働いてくださるのです。祈るのは私たちで、癒すのは神さまです。もう1つ加えますと、福音を語るのは私たちです。そして、救ってくださるのは神さまです。私たちは人を救うことはできません。つまり、神さまと自分の責任を分担するということです。どうして、私たちはいらいらしたり、思いわずらったりするのでしょう?それは、神さまの分までやろうとしているからです。人を変えるのは私たちではなく、神さまです。私たちがやろうとするので、関係が壊れたり、共依存的になるのです。神さまがなさる分を尊重し、できないことはゆだねましょう。そうすれば、神さまが豊かに働いて、みわざを行ってくださいます。私たちは神さまの管です。管という英語は、channelです。海峡という意味もありますが、水管とか導管という意味もあります。液体が流れる管状のものをチャンネルというわけです。神さまが供給者で私たちが管です。どのような管が一番良く流れるでしょうか?太くてスムーズな管です。それは神さまに対する信仰と言い換えることができます。私たち「神さま私をあなたの恵みを運ぶ器にしてください」と祈るべきであります。

2.二回繰り返された理由

 ある学者たちは「1つの出来事を2つに分けたんだ」と言います。しかし、そんなことはありません。なぜなら、次のマタイ16章でイエス様が二つの記事として取り上げているからです。マタイ169-10「まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。」このことは次週詳しく学びますが、イエス様は2つの奇跡から弟子たちに何かを悟ってもらいたかったのです。しかし、彼らがあまりにも鈍かったので、イエス様がイライラしているようにも思えます。では、なぜ、同じような奇跡が繰り返されたのでしょうか?一般に「同じことを繰り返す」ということは、大事なことを教えるためです。一回で分からなかったので、もう一回、言ったりやらせたりします。その理由は、その人の固定観念や行動を変えるためです。イエス様が16章で「まだわからないのですか、覚えていないのですか」とおっしゃっていますので、この時点では弟子たちは分かっていません。

同じ奇跡が繰り返された第一の理由は、イエス様自身のご人格を示すためでした。私たちは、二つの奇跡からイエス様がどういうお方であるかということを見ることができます。前の14章でははっきり書かれていません。ただし、直前に「彼らを深くあわれんで、彼らの病気を癒された」(マタイ1414ということばは書いてあります。弟子たちは「解散させて、めいめいで食事を買うようにさせてください」とイエス様に提案しています。「私たちは食事までめんどうできないよ。めいめいで食事を買うようにしたら良い」というのはとても合理的で事務的です。それに場所がへんぴだし、大勢の人たちだという理由も分かります。でも、そこで、イエス様はたった5つのパンの2匹の魚で大勢の人たちを食べさせました。今回はどうでしょう?マタイ1532「かわいそうに、…彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから」とはっきりおっしゃっています。「かわいそうに」は、「あわれむ」と同じことばです。もともとは、「生贄の内臓を食べる」ということばから来ています。これは単なる同情ではありません。ある英語の聖書にはcompassion「共に苦しむ」がイコール「あわれみ」となっています。イエス様が奇跡を起こされるどの動機はいつもあわれみであり、愛であったということです。イエス様は決して、自分がメシヤであるということを誇示するために奇跡を行なったのではありません。結果的には人々が「イスラエルの神をあがめた」(マタイ1531かもしれませんが、それ自体が目的ではありませんでした。イエス様は前のポイントでも申し上げましたが、供給者です。ゴスペルではproviderと賛美します。まさしく、divine providerです。

私たちは生まれた時から、神さまから独立して生きています。アダムの子孫ですから、神さまの存在も認めないし、頼ろうともしません。しかし、その人がある時に、イエス様を信じて救われました。では、考え方が全く変わったでしょうか?クリスチャンでも、「霊的なものは神さまに頼り、物質的なものは自分の力でやるしかない」と思っている人たちがたくさんいます。イエス様はみことばという霊的な糧を人々に与えました。でも、人々は三日間もろくに食べていませんでした。そのため、イエス様は肉の糧も与えたいと願ったのです。この記事を読むとまるで、詩篇23篇「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」を連想させます。なぜなら、35節に「すると、イエスは群衆に、地面にすわるように命じられた。」とあるからです。「すわる」はギリシャ語で「食事の席に横になる、席に着く」という意味があります。また、英語の聖書にはrecline「横になる、もたれる」という単語が使われています。実際、ユダヤでは食事をするとき、左半身を横たえて、右手で食べたのです。多くの群衆はイエス様に言われる前から、野原に座っていたことでしょう。でも、ここで食事をするために、横になったと考えるべきです。一見、粗末で、たいしたことのない食事のように思えます。でも、イエス様は「横になって食事の席に着くように」と言われたのです。「人々はみな、食べて満腹した」と書かれていますので、本当に満足したのではないかと思います。まさしく、詩篇23篇の「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」であります。ある男性が、この記事を読んで、「イエス様の許にいれば、食いっぱぐれがないんだな一」と心引かれ、信仰を持ったそうです。アーメンです。

 同じ奇跡が繰り返された第二の理由は弟子たちの固定観念を変えるためです。少し前に、イエス様は5つのパンと2匹の魚で男性だけでも5000人を養われました。弟子たちは奇跡を目の当たりに見たのに、すっかり忘れています。忘れているというよりも、「奇跡はめったに起こらないものなんだ」という固定観念がありました。今回はイエス様の方から「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」と提案しています。この時、弟子たちはどうすれば良いか気づくべきでした。ところが、前回と同じように「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手に入るでしょう。」と答えました。ちっとも学んでいません。仕方なく、イエス様は「どれくらいパンがありますか」と弟子たちに聞かれたのです。弟子たちは「七つです。それに、小さい魚が少しあります」と答えています。その後、イエス様はパンと魚を奇跡的に増やして、男性だけでも4000人を養われました。果たして、弟子たちの考え方は変わったのでしょうか?全く、変わっていません。その証拠に、次のマタイ16章に何と書いてあるでしょうか?マタイ16:8-10イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。」詳しくは来週学びますが、明らかに何かを悟っていません。それは、イエス様が奇跡を行なわれるお方だということです。言い換えると、以前一度奇跡を行なったら、二度目も奇跡を行なわれるということです。弟子たちの頭には、「奇跡というのはめったに起こらないもの、今回はたまたま、だったけど、次回はないのだ」という考えがあったのです。だから、今回、「こんなへんぴな所で、こんなに大勢の人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手に入るでしょう」と言ったのです。目の前に、パンの供給者である「いのちのパン」なるお方がいたのです。つい、ちょっと前、男性だけでも5000人もの人たちが奇跡的に食べたのです。パン切れの余りを12のかごにいっぱい集めたことがあったのに、です。これが人間です。

 では、現代の教会が、クリスチャンが、このような奇跡がまた起こると信じているでしょうか?聖書を文字通り信じていると自負している、福音派の教会はあまり信じていません。「聖書が完成したので、そのような目を見張る奇跡は不要になった」という理由からです。冒頭で、イエス様によって「口のきけない者がものを言い、手足の不自由な者が直り、足のなえた者が歩き、盲人たちが見えるようになった」と学びました。しかし、彼らは「奇跡はイエス様ご自身のメシヤとしての証明だったので、私たちがそれを行うということではない」と言います。人間は「奇跡は起こらないし、起る必要もない」という神学を打ち出しました。本当は、人間が考えだした神学によって、信仰がないのを正当化したのです。「聖書が完成したので、奇跡は必要ない。病の癒しも終わった」と言ったら、本当に楽です。「そういうことは専門家であるお医者さんと科学者にゆだねれば良い。素人が精神や心の癒しに関わるのは危険だ」と言うでしょう。でも、専門家が本当に病気を治すことができるのでしょうか?もちろん、私たちは医療や科学も神さまの一般恩寵として捉えるべきであり、祈って用いるべきです。でも、神さまは今日も食物を奇跡的に与え、障害や病も治してくださいます。へブル138「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」と書かれています。まり、イエス・キリストが2000年前、食物を奇跡的に与え、病をいやし、足萎えを歩かせ、盲人の目を開きました。今も同じことをなさるということです。イエス様は弟子たちにあなたがた、信仰の薄い人たち。…まだわからないのですか、覚えていないのですか。」と言われました。その答えは、奇跡は一度あったら二度目もあるということです。二度目があったら、三度目もあるということです。問題は私たちの頭の中です。私たちはめったに起こらないのが奇跡だと考えています。しかし、全能の神さまにはsupernatural natural「超自然と自然」の区別がないのです。ある人が「神さまにとっては癌も風邪と変わりない」と言いました。私たちは「癌」と聞くと、一生懸命、力をこめて何度も祈らなければならないと深刻に考えます。でも、「神さまにとって癌も風邪と変わりない」と考えるなら、そんなに力まなくても良いです。静かに、しかし権威をこめて「癌よ、消え去れ!」と命じれば良いのです。昔、癒しをなさるハンターご夫妻が日本に何度か来られたことがあります。何度がセミナーに行ったことがありますが、最初にこう言いなさいと教えられました。お祈りをする前に、「それは簡単です」と言いなさいと教えられました。いやー、勇気がいりますね。ほら吹きだと言われたくないですからね。でも、「それは簡単です。イエス様にとっては」であるなら、本当です。その宣言によって信仰が与えられます。

 先日、テレビで昔の学校給食という番組がありました。昭和30年代の頃、コッペパンがごちそうで、ある子どもたちはそれを紙にくるんで家に持って帰りました。家族のだれかに食べさせてあげたいと思ったのかもしれません。私も田植えをしたとき、お昼はジャムパンを食べました。その時は、「世の中にこんなおいしいものがあるのか?」と思いました。今はジャムパンを買うこともありません。なぜなら、口が肥えてしまったからです。きょうの4000人の給食の奇跡は飽食の時代には色あせて見えるのでしょうか?しかし、世界の多くの人たちは飢えていて、きょう食べるパンもないと言うことです。でも、日本でもかなり貧しい人がいることは確かです。「食べていけるか」というのはどの人にでも最低限の課題です。もし、「イエス様がすべての供給者で、わずかな物でも増やしてくださる」と知るなら何と幸いでしょう。父なる神さまは私たちが貧しくて病気がちで、なんとか生き延びるという人生を望んではいません。イエス様は私たちをあわれんでくださる救い主です。詩篇23篇「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」と書いてあります。イエス様の恵みはどんな物でも、身を横たえて食べられるということです。そこには高価なもの、安価なものの区別はありません。たとえ、お金をかけていなくても、豊かだからです。私たちはすべての供給者であられるイエス様が共にいるので、安らかに暮らすことができるのです。私たちの頭の中から、「奇跡はめったに起こらないものだ」という考えと取り除きましょう。そうではなく「奇跡は神さまにとって日常的なこと。私は奇跡の中で暮らしている」と考えましょう。どんな病や障害でも、イエス様にとっては簡単なことであると考えましょう。たとえ、大きな病気になったとしても、あまり深刻にならないようにしましょう。クリスチャンは死んだら天国です。でも、神さまは私に癒しと回復を豊かに与えてくださる神さまです。小さなことから、大きなことまで、神さまのみわざを信じましょう。もう一度みことばをお読みします。へブル138「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」イエス・キリストは今も生きておられ、奇跡を当たり前のように行うお方です。奇跡は神さまにとって日常的なことです。アーメン。

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2017年3月 3日 (金)

立派な信仰 マタイ15:21-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.5

 イエス様は失われたご自分の民、イスラエルのために来られました。ご自身の計画は、イスラエルの後で全世界を救うということでした。イエス様は狭いパレスチナを出たことがありません。それでも、何回か異邦人の地を訪れたことがありました。マルコ福音書には「隠れるため」と書いてありますので、退去して休むためであったと思われます。ところが、どこから嗅ぎ付けたのか、異邦人の女性がイエス様のところにやってきました。後から、この女性はイエス様から「ああ、あなたの信仰は立派です」と褒められています。それまで彼女はどのような障害を乗り越えてイエス様から恵みをいただいたのでしょうか? 

1.生まれ

 彼女は「生まれ(血統)」という障害を乗り越えました。これは、自分の運命に対する誘惑です。彼女はどのような生まれだったのでしょうか?イエス様と弟子たちが訪れたところは、「ツロとシドンの地方」でした。マルコ福音書には「ツロ・フェニキヤ」と書かれています。英語の聖書には海岸とありますので、フェニキヤの海辺だったと思います。また、「その地方のカナン人の女」と書かれています。ヨシュアがカナンに攻め上り、先住民を追い払い、占領していきました。その当時、最も強い先住民はペリシテ人でした。彼らは鉄器を持っていましたので、青銅ではかないませんでした。ペリシテはもともと海賊でしたが、ツロに定住してから、海上貿易で栄えました。しかし、イエス様の時代はイザヤ書の預言のとおり、全くすたれ漁村になっていました。ペリシテは言い換えるとフェニキヤになります。カナン人は呪われた民であり、イスラエルに制服される運命にありました。カナン人の女の娘が、「ひどく悪霊につかれている」と言うことですが、そういうことも原因しているかもしれません。たまたま、カナン人が住む場所に、イエス様と弟子たちが足を踏み入れたのです。するとどこからか、その情報を得た一人のカナン人が叫びながら、イエス様に近づいてきました。マタイ1522すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」

 この女性は異邦人でありながら、イエス様を「主よ。ダビデの子よ」と呼んでいます。だれが、彼女にイエス様がそのような方であることを教えたのでしょうか?本当に信仰があるのでしょうか?ただ、娘を助けたいがためのご利益信仰なのでしょうか?イエス様は退去するために、そこを訪れたのです。マルコ7章には「だれにも知られたくないと思われた」と書いてあります。なのに、発見されてしまいました。イエス様としては迷惑な話です。なぜなら、このところにミニストリーをするために来なかったからです。ここに来たのは、人々を避けて休むためでした。しかし、この女性はイエス様を探し出してやってきたのです。イエス様はマタイ7章で「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ77-8と教えたことがあります。この女性は「だれであれ」の中に入ります。つまり、カナン人であれ、異邦人であれ「求める者は受け、捜す者は見つけ出す」ということです。彼女は運命論的なハンディを負っていました。生まれたのがツロ・フェニキヤでした。そして、カナン人であり、イスラエルによって征服されるべき先住民です。自分だけではなく、娘も呪われており、悪霊によって苦しめられていました。悪霊は理由なくして人間には入りません。マルコ福音書には「汚れた霊」と書かれています。ですから、この親子は希望が全くない、異邦人の女性でした。

 私はこの物語を読んだとき、自分のことを考えました。私は裏日本の秋田で生まれました。家は禅宗で「死んだらあのお寺にお世話になるんだ」と思っていました。8人兄弟の7番目だったので、高校卒業後、東京に出てきました。人生のテーマは「好きなことをして生きる」でありました。「面白おかしく暮らして、死ねば、それでおしまい。」と思っていました。ところが25歳でイエス様を信じてから、永遠のいのちが与えられ、全く人生が変えられました。私はキリスト教とは全く縁のない人間であり、最も救われにくい人物であったと思います。私の過去を知っている人たち全員、そう言うでしょう。興味深いことに、ツロ・フェニキヤはイスラエルの北に位置していました。イエス様は休むために、たまたま寄ったのです。どころが、そこに一人の女性がいたのです。彼女はカナン人であり、生まれ(血統)にハンディを持っていました。でも、「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」とやって来たのです。彼女がイエス様を求めたのは、娘のためです。娘が健康で問題がなかったなら、来なかったかもしれません。でも、娘がカナン人の呪いのせいなのか、悪霊に苦しめられています。その娘を助けたい一心で、彼女はイエス様のところにやって来たのです。

 彼女は「生まれ(血統)」に問題がありました。これは、自分の運命に対する誘惑です。でも、運命を乗り越えるようなことが起こりました。イエス様が異邦人の地、ツロ・フェニキヤにやって来たからです。本来はイエス様と出会うことがありませんでしたが、娘がひどく悪霊につかれ苦しんでいました。彼女はイエス様が病を癒したり、悪霊を追い出した情報を得ていたのでしょう。もしかしたら彼がメシヤではないかという噂まで聞いていました。彼女は、一心不乱でと申しましょうか?生まれとか血統のことを脇において、イエス様に近づいてきたのです。中世ヨーロッパでは生まれや血統がすべてでした。生まれによって、その人の運命が決まったといっても過言ではありません。日本も江戸時代にそういうことがあったでしょう。今日でもそういうことがある程度あります。では、そういう人は神さまの恵みを受けるチャンスがないのでしょうか?あります。あります。ヨハネ112-13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」アーメン。「血によってではなく」とは、生まれは関係ないとうことです。イエス様は私たちの運命を変えてくださるお方です。

2.無視

 次に彼女は「無視」という障害を乗り越えました。これは自分の存在に対する誘惑です。イエス様は彼女にどのように応対されたでしょうか?全く応対していません。23節しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った」何かの間違いじゃないでしょうか?イエス様はマタイ7章で「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出す」とおっしゃったではありませんか?それでは、矛盾しているではありませんか?イエス様は差別をつけるのでしょうか?24節しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。このところに、彼女が無視された理由が記されています。イエス様が来られたのは、イスラエルの家の失われた羊のためでした。「それ以外のところには遣われていない」と言われました。彼女は諦めたでしょうか?「しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、『主よ。私をお助けください』と言った」とあります。

 無視されても引き下がらなかった彼女のことばに2つの特徴があります。第一は「私をお助けください」と願っていることです。正確には「私の娘を助けてください」と言うべきでしょう?その前にも「私をあわれんでください」と叫んでいました。どうして「娘」ではなく、「私」なのでしょうか?母親だからでしょうか?このところには母と娘の深い絆を見ることができます。第二は「イエスの前にひれ伏した」と書かれています。これはイエス様を礼拝したということです。カナン人にはありえないことです。最初は「主よ。ダビデの子よ」と呼びかけていました。今度は「主よ。私をお助け下さい」とひれ伏しています。この時、イエス様の心が動かされたのではないでしょうか?ところで、今年の箱根駅伝ですが、青山学院が3年連続優勝しました。そのためもあり、原監督がテレビにひっぱりだこです。16日のミヤネ屋という番組に出ていました。どういう選手に原監督が目をつけるかという質問がありました。「チャライ人、明るい人、おしゃべりな人が良い」と3つの特徴をあげていました。そして、「こころ根の悪い人は実力があってもダメ」と言っていました。「どうしておしゃべりな人が良いの?」とさらに聞かれたら、「しゃべることは頭の回転が良いということ。選手自身が自分で考えて決断することが大事。暗くて、心根の悪い人は私の言うこともきかないし、指導できない」と答えていました。私は結構しゃべる方なので、「良かったなー」と思いました。でも、「心根って何だろう?」と思いました。インターネットには「意地が悪い」とか「ひねくれている」という意味だと書かれていました。カナンの女性はイエス様から無視されましたけど、自分のことよりも娘を思って、イエス様の前にひれ伏しました。そういう意味では、心根の良い女性だったのかもしれません。

 福音書には選民イスラエルよりも、信仰が篤い異邦人のことが良く書かれています。たとえば、ローマの百人隊長は、「私のしもべを癒してください」とイエスに願いました。イエス様が「行って、直してあげよう」と言ったら、「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格はありません。ただ、おことばを下さい。私のしもべはなおります」と答えました。イエスさまは「イスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがない」と言われました。百人隊長は使い捨ての時代であっても、自分のしもべのためにイエス様のところに頭を下げてやって来たのです。一方、パリサイ人や律法学者たちはどうでしょうか?イエス様は彼らの心の思いを知って「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか」と言われたことが度々あります。ということは、イエス様は人の心の中がご存じだということです。私たちはいくら祈っても答えが得られない時はないでしょうか?神さまは私のことを覚えていらっしゃらない。無視しているのではないだろうか?しかし、そんなことはありません。その求めが本当に心の底から出ているのか、ご覧になっておられるのではないでしょうか?カナンの女性に対しても、しばらくイエス様は無視していましたが、そうではありません。そのことば、その態度から、彼女の心根を調べておられたに違いありません。ついに、彼女は無視という障害を乗り越えることができました。私たちも諦めずに、イエス様に迫って行くべきではないでしょうか?ダビデはこのように叫んでいます。詩篇3912「私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。」

3.犬呼ばわり

 イエス様がさらに、口を開いて答えてくださいました。マタイ1526すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。第三は「犬呼ばわり」という障害、これは自分のプライドに対する誘惑です。その当時、ユダヤ人は異邦人に対して犬と呼び、さげすんでいたそうです。その場合の犬は、野良犬のことでした。イエス様はこのところで「小犬」とおっしゃっていますが、家庭でペットとして飼われている小犬です。一方、「子どもたち」というのは、イスラエル、ユダヤ人のことであります。イエス様は子どもたちにパン(救い)を与えるために、来られたのです。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」とは至極当然です。でも、そのことばを聞いたカナンの女性はどう答えたでしょうか?犬呼ばわれされたのですから、プライドが傷つくでしょう。「馬鹿にしないでよ」と怒って、帰ることもできたでしょう。彼女にとって、ものすごい誘惑だったのではないでしょうか?しかし、何と答えたのでしょうか?マタイ15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」彼女は「そのとおりです」と自分が小犬であることを認めました。その次に「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と答えました。なんと機知に富んだ答えなのでしょう?イエス様も「小犬」と少々ひっかけましたが、彼女はすばらしい機知の持ち主でした。確かに、飼われていた小犬は食卓から落ちるパンを食べることができました。つまり、「私はおこぼれで構いません。ユダヤ人のおこぼれでも良いですから、私にください」と願ったのです。これに対してイエス様はどう答えたでしょう?マタイ15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

 明らかにイエス様は感動しておられます。いや、彼女を賞賛しているのかもしれません。なぜなら、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」と答えておられるからです。イエス様は「ツロ・フェニキヤにこのような信仰の持ち主がいたのか」と驚いたのではないでしょうか?本来なら人々を避けて休むためにこの地を訪れたのに、どういうことでしょう。もう疲れがいっぺんに吹き飛んだのではないでしょうか。機知を英語でwitとも言いますが、witにはいろんな意味があります。頓知、気転、才覚、分別という意味もあります。旧約聖書でwitに富んだ女性がおります。それはアビガイルという女性です。彼女の夫はナバルでした。Ⅰサムエル253「彼の妻の名はアビガイルといった。この女は聡明で美人であったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。」と紹介されています。ダビデはサウル王から身を隠していました。ある時、ダビデはナバルの羊たちを守ってやったことがありました。でも、そのとき食べ物が不足しており「手もとにある物を分けてください」と使いをやりました。しかし、ナバルは「ダビデとはいったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。この肉をどこから来たのかわからない者どもに、くれてやらなければならないのか」と悪口を言いました。ダビデはそれを聞いてかんかんに怒って、剣を持った四百人と一緒に下って行きました。そのとき、アビガイルがダビデの足もとにひれ伏して、「ナバルはその名のとおり愚か者です。気にかけないでください」とお願いしました。アビガイルの気転によって、ダビデは復讐しないで済みました。その後、ナバルは主に打たれて死に、アビガイルはダビデの妻になりました。他にもラハブ、ヤエル、エステルなど聖書には機知に富んだ女性が出てきます。ツロ・フェニキヤのカナンの女性もその一人であると思います。その時、この女性の娘は悪霊から解放されました。マルコ730「女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。」と書いてあります。

 カナンの女性の信仰がどうして立派だったのかまとめてみたいと思います。イエス様は一回で彼女の願いを聞いてあげませんでした。愛と恵みに満ちたお方としては意外なことのように思えます。しかし、イエス様は彼女の信仰が本物であるかどうか試す必要がありました。女性は「主よ。ダビデの子よ」と呼んで近づいて来ました。彼女はカナン人です。ただ名前を呼ぶだけのご利益信仰かもしれません。だから、イエス様はひとことも口をきかず、無視しました。彼女は自分の存在を否定されたのですから、怒って去っていくこともできました。イエス様は「イスラエルの家の失われた羊以外には遣わされていない」と断りました。するとこの女性は、「主よ。私をお助けください」とひれ伏して願いました。イエス様は「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くない」と頓智のめいたことを言われました。彼女は犬呼ばわりされたと同然です。「プライドを傷つけられた」と怒って、去っていくこともできました。ところが「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と頓智で返しました。それは「イスラエルのおこぼれでも良い」という意味です。イエス様は感動して「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」と願いをお聞きくださいました。彼女は「カナン人という生まれ」、「無視」、「犬よばわり」と3つの障害を乗り越え、その信仰が本物であると認められました。その結果、娘の救いを得たのであります。一見、イエス様が意地悪されたかのように思えるかもしれません。でも、これは私たちへの教訓ではないかと思います。彼女は何度も憤慨して、その場を去ることもできました。しかし、娘の救いのために執拗に食い下がりました。

どうでしょう?私たちはすぐ躓いて教会を去ったり、信仰を捨て去るのではないでしょうか?私はクリスチャンになって38年、牧師になって30年になりますが、多くの人たちがいとも簡単に教会から去ってしまうことを目撃しました。牧師として一番悲しいのはそのことです。「躓いた」という表現は教会で良く用いられる表現かもしれません。世の中では「自分の過失やあやまち」として捉えられていますが、教会では別の意味があるようです。信仰に躓くというのは、どこかに「自分は正しくて、他は間違っている」というニュアンスがあります。教会に来ることは仕事や学校と違います。本人の自由であり、義務ではありません。「来たくなければ来なくて良い」のです。でも、どこか甘えがあるような気がします。信仰というのはそんなに薄っぺらいのでしょうか?私たちはもっと大きなものに捕えられていることを自覚すべきだと思います。そうしたら、簡単には躓かないと思います。もっと大きなものとは私たちの救いのために、神さまがひとり子イエス様を十字架に与えたということです。私たちの救いのためにはイエス様のいのちがかかっています。このお方を救い主、人生の主として信じることは口先だけのことではありません。私たちの存在がかかっており、神さまもそのように受け止めてくださいます。

 このツロ・フェニキヤの女性はカナン人でした。異邦人であり救いから漏れていた人でした。しかし、生まれがどうであれ、無視されても、犬呼ばわりされても、イエス様に求めました。なぜなら、娘の解放を何よりも願っていたからです。その信仰がイエス様に立派だとほめられました。私たちの信仰はもしかしたら淡泊で、「ああ、それなら結構です」とセールスを断るような口調かもしれません。イエス様との関係は十字架の血潮による契約です。イエス様がご自身の血で私たちを買い取ってくださったのが教会です。一度、キリストを信じたら、死んでも離してはいけません。なぜなら、永遠がかかっているからです。もちろん、信仰は私たちの側だけではなく、イエス様の真実があって成り立つものです。でも、私たちには私たちの責任もあるはずです。神さまはイエスさまと聖霊を与えて、ご自身の責任を果たしておられます。そうであるなら、私たちも自分の信仰告白を堅く保って、やがてイエス様のもとに立つときを待ち望みたいと思います。ツロ・フェニキヤの女性のように、イエス様の前にひれ伏して礼拝しましょう。その時、主は「ああ、あなたの信仰は立派です」とおっしゃってくださると信じます。

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