« まだわからないのですか マタイ16:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.19 | トップページ | 自分を捨て マタイ16:21-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.4.2 »

2017年3月24日 (金)

この岩の上に マタイ16:13-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.26

 きょうの箇所はマタイによる福音書の1つの山場です。とても有名な箇所でありますが、同時に様々な解釈がほどこされており、歴史的に話題になった箇所でもあります。これらのことばは、直接的にはペテロに言われたことばでありますが、同時に私たちにも言われたことばであると信じます。なぜなら、教会は使徒的な教えの上に立っているからです。イエス様が弟子たちに命じられたことばは、私たちにも命じられたと取るべきであります。それでないと、聖書を読んでいる意味がありません。かつては弟子たちに語られましたが、今日は聖霊よって私たちひとり一人に語られていると信じます。

1.イエスはキリスト

 イエス様は弟子たちを連れて、ピリポ・カイザリヤと言うところに来ました。地図を見ると、ヘルモン山の近くでイスラエルの北に位置しています。ヘロデ・ピリポは自分自身とローマのカイザルをたたえて、この町を築いて二人の名前を付けました。また、この地は異邦人の地であり、人々はパーンという牧畜の神さまを礼拝していました。一方は政治的な支配、他方は偶像礼拝の地で、イエス様は弟子たちに1つの質問をしました。「人々は人の子をだれだと言っていますか」と、遠くの方から質問しました。マタイ16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」当時の人たちは、イエス様を有名な預言者の再来だと思っていたのでしょう?次に、イエス様は「では、あなたがたは、私はだれと言いますか」とダイレクトに質問しました。そのとき、弟子のリーダー格であったペテロが即座に答えました。マタイ16:16「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ペテロは目立ちたがり屋で、ある時は余計なことを言いますが、今回は冴えていました。イエス様から「あなたは幸いです」と山上の説教と同じ、祝福のことばをいただきました。マルコによる福音書は「あなたはキリストです」(マルコ829の一言だけですが、マタイによる福音書の方が詳しく書かれています。

 このところで重要なのは、ペテロのイエス様に対する告白であります。一番重要なのは、「イエスがキリストである」ということです。なぜなら、原文も英語の聖書も「あなたはキリスト、生ける神の子です」という順番になっているからです。キリストといのはメシヤであり、救い主だということです。でも、この告白は単なる告白ではなく、私たちが救いを受けるための信仰告白です。ローマ109「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」それだけではなく、イエス様の御名は最も権威があると書かれています。ピリピ210-11「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」ペテロはどの程度知っていたか分かりませんが、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白しました。それに対して、イエス様はとても感激され、ペテロを賞賛しています。でも、そのことを告白させたのはだれでしょう?「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」とイエス様が言われました。「明らかに示す」ということばは、「啓示する」ということばが使われていますが、人間の知恵や考えでは及ばないということです。父なる神さまが、開示して下さったということです。私たちもあるとき決心して、イエス様が救い主、キリストであると信じて告白します。この告白なしではクリスチャンになることはできません。でも、この告白は簡単にはできません。パウロは「聖霊によるのでなければ、だれでも、『イエスは主です」と言うことはできません』(Ⅰコリント123と言いました。神の霊である聖霊がその人に臨んで、はじめて分かることだからです。

 洗礼式では、確認のために公に告白してもらいます。もちろん、神さまと一対一で十分なのですが、教会の群れに加えられるとき、答えてもらいます。そうすると兄弟姉妹は「ああ、本当にイエス様を信じたんだなー、救われて良かったですね」とお祝いします。でも、中には口先だけの人もいるかもしれません。もちろん、私は牧師として信仰告白が真実なものとして洗礼を授けます。でも、便宜上とか、仕方なくという場合もあるかもしれません。結婚するため、ミッションスクールに入るため、あるいはお世話になったので断ることができなかったとか…。外からは分かりません。しかし、私たちはどういう状況で、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白したのか知らなければなりません。最初に申しあげましたが、その場所はピリポ・カイザリヤというところで、皇帝礼拝がなされているところでした。これからますますローマ皇帝の力が強くなり起源100年頃は大迫害が起りました。その当時は、カイザルが主(キュリオス)でありました。そういう中で、イエスが主(キュリオス)と告白するなら、投獄され命が奪われました。ペテロもパウロもその告白を捨てなかったので、殉教しました。もう1つは、ピリポ・カイザリヤの人たちはギリシャとローマの偶像、パーンを拝んでいました。日本も多神教の国であります。宗教に関してはとても寛容でありますが、「キリストの神が唯一だ」というと排斥され、時には迫害されます。都会ではそうでもありませんが、地方では「村八分」のようになります。そういう中で、「イエスは主です。他に神はいません」と告白できるかということです。

 でも、イエス様を信じて、さらに聖霊に満たされると、告白せずにはおれなくなるのです。イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ1234と言われました。びくびくして、「イエスは主です」と言うのではありません。救われたのがうれしくて、喜びのゆえに、「イエスは主です。アーメン」と言いたくなるのです。神の霊が臨んで、あのエレミヤのようにしまっておくことができなくなるならば本物です(参考.エレミヤ209)。アーメン。

 

2.この岩の上に

 イエス様はペテロにこう言われました。マタイ16:18 「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」「この岩」とはだれなのか、歴史的に物議をかもしているテーマです。ローマ・カトリックは「岩とはペテロである」と主張します。なぜなら、ペテロは「岩」という意味があるからです。そのためペテロがキリストの最初の代行者であり、歴代の教皇がそれを受け継いでいるという考えです。しかし、16世紀に宗教改革が起りました。ルターは「生けるキリストご自身である」と言いました。また、カルヴァンは「『イエスは主である』というペテロの信仰告白である」と解釈しました。現在はどのように落ち着いているのでしょう。「この岩の上に」というのは「ペテロの信仰の上に」ということです。しかし、実質的には「キリスト自身である」ということです。旧約聖書には「主は岩である」という表現がたくさん出てきます。パウロは「モーセが打った岩はキリストである」(Ⅰコリント10:)と解釈しています。もしも、ペテロが告白した「イエスは主である」という信仰告白が教会の土台だとするならどうでしょう?もちろん、「イエスは主である」という信仰告白は重要です。これはプロテスタント教会が寄って立つところだからです。でも、そのように告白したペテロがその直後、どうなったでしょうか?彼は「下がれ。サタン。あなたは私の邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ1623としこたま叱られました。さっきまで、天国に上げられていたのに、よけいなことを言ったために、今度は地獄に落とされました。また、ペテロはイエス様が十字架にとらえられた時、「イエスを知らない」と三度も否定しました。ですから、人間の信仰告白だけでは、教会の土台にはなれないということです。

 でも、告白を受けられる「岩であるキリスト」ならどうでしょう?パウロは「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」(Ⅱテモテ213と言いました。つまり、私たちだけの信仰ではなくて、イエス様の真実があるから救われるのです。ときには私たちの信仰がおかしくなることもあるでしょう。ところが、信じているお方が常に真実であるなら大丈夫です。この世の宗教は私たち人間の信心が強調され、信仰の対象はどの神様でも良いみたいに思われています。そうではありません。私たちの信仰も重要ですが、信仰の対象がまことの神さまであるなら安心であります。そういう意味で、「この岩とは、生けるキリストご自身である」と言うことも可能なのです。英語の詳訳聖書には「ギリシャ語のペトラは、ジブラルタルのような巨大な岩である」と書かれていました。スペインの南部に「ジブラルタルの岩、ザ・ロック」というのがあります。ザ・ロックは岬をなす一枚岩であり、高さが426メートルあります。歴史的に、ジブラルタルの岩は堅固な要塞になっていたそうです。ペテロは「大きな岩の一部」という意味です。でも、イエス様はジブラルタルのような巨大な岩、要塞なのです。ハレルヤ!私たちは岩なるイエス様の上に、信仰を築いているのです。イエス様は「岩の上に建てられた家は、雨が降って洪水が押し寄せても倒れなかった」(マタイ725)と言いました。アーメン。あなたの信仰を自分の信念や知識に置いてはいないでしょうか?教会の伝統や信条、あるいはだれかの神学の上に置いている人もいるかもしれません。聖書に啓示されている、生ける神の子キリストに置くべきであります。そうすれば、世の終わりが来ても、年老いて自分がだれか分からなくなっても、その人の信仰は揺るがされることはありません。

 私は教会形成にとても興味があり、弟子訓練やセルチャーチに約30年間携わってきました。しかし、どれもこれもうまくいきませんでした。弟子訓練は人々をキリストの弟子に作り変えるということです。これを聞いた人々は、「え?今のままではダメなの?私を訓練するの、怖い?」というイメージを持ちます。セルチャーチはどうでしょう?これは小グループを作り、聖書のことばを分かち合って、建て上げ合います。さらに人々をグループに招き入れて救いに導き、増殖するというゴールがあります。10年前、香港からベンウォン師が来られ「教会の7つの本質」について教えてくれました。その中で最も重要なのは「関係」であると言われました。私は、以前は気づいていませんでしたが、人間関係が苦手なんだと分かりました。私だけではなく、日本人が人間関係で苦労しています。それなのに、教会で「関係が大事だ」と言われるとよけいプレッシャーを与えてしまいます。教会形成のためにいろんな勉強をし、努力を重ねてきました。しかし、最後に分かったことはこのことです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」だれが、教会を建てるのでしょうか?「キリストご自身が、キリストの教会を建てる」ということです。それなのに、人為的に手を加えて教会を形成するということ自体が無理なのです。教会がキリストのからだであるなら、かしらはキリストです。それぞれがかしらなるキリストから命令を聞けば良いのです。そして、同じ賜物、同じ使命を持つ者どうしが連携し合えば良いのです。重要なのは互いに愛し合い、コミュニケーションを持つということです。ハレルヤ!このように単純に考えるとうまくいくのではないかと確信しました。大和キリスト教会に行くと壁に私はこの岩の上に私の教会を建てよう」という横断幕が張られています。最初に書いたのは私なんです。私が座間キリスト教会にいたころ大川師の命令によって、大きな横断幕を書いたのです。それなのに、38年もたって、振出しに戻るとはどういうことでしょうか?聖書にちゃんと書いてあったんです。キリスト様がおっしゃいました。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」このお方をかしらとして仰ぎ、従っていく時、教会が建てられていくのです。アーメン。

 

3.天の御国のかぎ

 マタイ1619 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」天の御国のかぎとは何なのでしょうか?まただれにこのかぎが与えられたのでしょうか?古くから現代のようなかぎがあったと思われます。イエス様がペテロにかぎを手渡している宗教画はたくさんあります。しかし、「つなぐ」とか「解く」ということばが後にありますので、原文から調べる必要があります。「つなぐ」はギリシャ語で「デオウ」で、「縛る」とか「禁じる」という意味があります。英語の詳訳聖書には「不適当で不法であると宣言する」となっています。また、「解く」はギリシャ語で「リュオウ」ですが、「解く」とか「許す」という意味があります。英語の詳訳聖書には「合法であると宣言する」となっています。両方ともユダヤ教のラビたちがよく用いた表現のようです。簡単に言いますと、「つなぐ」は「禁じる」であり、「解く」は「許す」ということです。イエス様は「地上で禁じるなら、天においても禁じられる。地上で許すなら、天においても許される」とおっしゃったのです。ですから、「天の御国のかぎ」というのは、神さまの代わりに「禁じたり」「許す」権威なんだと捉えるべきです。でも、その権威が一体、だれに与えられたのでしょうか?この文章を見る限り、ペテロに与えられていることがわかります。なぜなら、イエス様が「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます」とペテロに言っているからです。ローマ・カトリックはこのところから、やっぱり「ペテロが最初の首長なんだ」と主張するのであります(ダシャレです)。J.Cライルという人の本を読むと、そのことが書かれていました。ペンテコステの日、だれが説教したでしょうか?ペテロがエルサレムでキリストの復活と聖霊降臨のメッセージをしました。それで、3000人の人たちが救われました。また、ユダヤ教の指導者たちから捕えられたとき、彼は「天の下でこの御名の他に、私たちが救われるべき名は与えられていません」と大胆に答えました。それから、異邦人の教会ができていたとき、ペテロがそのことを許可しています。そういう意味で、初代教会のリーダーはペテロであったということは否むことはできません。

 しかし、それで終わりではありません。イエス様は復活された後、弟子たちに現れてこのように言われました。ヨハネ2020-21「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。』」このところから、ユダを除いた11人の使徒たちに、その権威が与えられたことがわかります。イエス様は使徒たち全員に、天の御国のかぎを与えたのです。さらに、マタイ28章を見るとどうでしょう?マタイ2818-19「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け…」とあります。この命令は弟子たちばかりではなく、キリストを信じる教会に与えられていると信じます。私たちは教会で洗礼式を行います。その人の信仰告白を確認したとき、祈りをささげます。そのとき、私は「子よ。あなたの罪は赦されました」(マルコ25とイエス様のことばを宣言します。そのシーンを見ていて、「え、そんな権威があなたにあるの?あなた何様なの?偉そうに!」と反感を抱く人もいるかもしれません。だけど、それはイエス様がくださった権威を用いているのであって、牧師自身に特別な権威があるわけではありません。つまり、天の御国のかぎを用いているということです。でも、このかぎは、牧師だけのものではありません。ルターは「万人祭司説」を唱えました。今日の教会では按手礼を受けた牧師でなければ、洗礼や聖餐式をできないと決めています。もし、私がこれに異議を唱えるなら、免職になる恐れがあります。でも、「それが聖書のどこに書いてあるのですか?」と聞かれて、「ここにあります」と答えられる先生がおられるでしょうか?マタイ28章は使徒たちがキリストの弟子を作り、その弟子となった者が「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授ける」ように命じられているのです。聖書を見ると、使徒パウロが洗礼を授けたのは数名であり、弟子たちがバプテスマを授けています。そのことを考えると、もっと信徒に権威を委譲していくべきではないかと思います。でも、私はブラザレンのように牧師の権威を全くなくすというのは反対です。聖書には「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」(エペソ411と書かれています。でも、それは仕えるための権威であって、人を支配するためのものではありません。とにかく、クリスチャン一人ひとりが、天国のかぎをぶら下げて歩き、いつどんな時でも、用いることができたら幸いです。出会った人に福音を語り、信じた人には、天国に行く許可を与えたら良いと思います。日本の教会には、牧師しかそのかぎを使えないという伝統がありますが、それならば御国は広がっていきません。「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます」とイエス様はあなたに語られたのです。

 イエス様はハデスの門もそれには打ち勝てません。」と言われました。ハデスとは陰府であり、死者がいるところです。その後、イエス様は「天の御国のかぎを上げます」と言われました。ハデスと天の御国は真逆です。もし、地上の私たちが「禁じたり、許したり」する権威を持っており、それが天にもちゃんと連携していると教えられました。でも、それは天だけではなくて、ハデスにも連携していると考えたらどうでしょう。ハデスには門があります。しかし、私たちがもっている天の御国のかぎの方がもっと権威があるということです。つまり、私たちが「あなたは救われました」と言うなら、ハデスの門は決して開くことはないということです。つまり、その人は死んでも、ハデスに行くことはないということです。エターナル・ミニストリーズという出版社があり、天国に行った人々の証や地獄に行った人々の証がたくさん本になっています。ある女性がイエス様と一緒に地獄に下りました。ある女性が半分腐った体で、燃える火の中で苦しんでいました。その女性がイエス様に「どうか助けてください」とすがりつこうとしました。イエス様は悲しい顔をされ「遅すぎます」とひとこと言いました。するとその女性は般若のような顔に変わり、きたない言葉をイエス様にいっぱい浴びせました。つまり、ハデスの門は堅く閉じられており、そこではイエス様でも無理であったということです。イエス様は「光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」と言われました。現在、天国の門も陰府の門も両方とも開かれています。どうか一人でも多くの人たちが「イエスは主である」と告白して御国に入れますように。そのためにすべてのクリスチャンが「天の御国のかぎ」を用いられますように。

|

« まだわからないのですか マタイ16:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.19 | トップページ | 自分を捨て マタイ16:21-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.4.2 »