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2017年3月17日 (金)

まだわからないのですか マタイ16:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.19

 マタイ16章のはじめは、15章の続きだと思ってください。15章の終わりには、7つのパンで男性だけでも4000人を養った奇跡が記されていました。その後、イエス様は群衆を解散させて、ガリラヤ湖の向こう岸に行かれました。弟子たちは、最初は5000人の給食、そして4000人の給食という奇跡を体験しました。しかし、ここでは「パンがない。パンを持ってこなかった」と悩んでいます。イエス様は「まだわからないのですか?」と弟子たちにおっしゃっていますが、弟子たちは何が分からなかったのでしょうか?きょうは3つの問題について考えたいと思います。

1.しるしの問題

 マタイ161 「パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。」「しるし」とは、「あなたが本当にメシヤなのか奇跡をもって証明してください」ということです。同じことが、マタイの12章にも書かれていました。使徒パウロは「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します」(Ⅰコリント122と言いましたが、度々、イエス様にしるしを求めました。このところでは「天からのしるし」と書かれています。「天」というのは、空という意味と、神という意味があります。ですから、イエス様は最初、空の話、つまり天候の話をされました。人々は「もし夕焼けだと明日は晴れるということであり、朝焼けだとまもなく荒れ模様になる」ということを知っていました。イエス様は「そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。」と言われました。おそらく、空模様の見分け方とイエスさまによる「時のしるしの見分け方」が共通しているということでしょう。「しるしの問題」は、なかなか難しい問題です。先ほど、天には「神」という意味もあると申し上げました。イエス様がなさっておられたことは「神からのしるし」だったのです。言い換えると、自然界のしるしがあるように、神からの霊的なしるしがあるということです。 

 イエス様はあるところで「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」と言われたことがあります。マタイ12章では神の御霊によって悪霊どもが追い出された時でした。また、福音書を見ますと、「神の国を宣べ伝え、病気を直すため」とか「福音を宣べ伝え、病気を直した」という言い方がところどころに発見できます。これらの意味は、イエス様と一緒に神の国がやってきたということです。その証拠として、悪霊が追い出されたり、病が癒されたり、死人がよみがえらされたのです。それは明らかに「時のしるし」を意味しています。アダム以来、この世はサタンが支配し、人々は罪と病と死の中で苦しんでいました。しかし、神の子イエスがこの世にやってきました。手ぶらではなく、神の国を引っ下げて、やって来たのです。言い換えると、イエス様と一緒に、この世に神の国が侵入して来たのです。そのため悪霊が追い出され、病が癒され、死人がよみがえらされたのです。本来なら、それらはこの世が終わって御国に属することです。しかし、この世がまだ終わっていないのに、イエス様が神の国をもたらすためにやって来られたのです。これが「時のしるし」であり、真摯に求めようとすれば分かる真理なのです。

 ところがどうでしょう?マタイ164「『悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。』そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。」イエス様は「悪い、姦淫の時代はしるしを求める」と言われました。「時代」というギリシャ語は、ゲネアーで「子孫、血族、種族」という意味です。英語の聖書はgenerationとなっていますので、「同時代の人々、世代」とも訳すことができます。つまり、「その時代の人々」という意味です。それは、当時のユダヤ人をさしているものと思われます。なぜなら、神の子イエスご自身とイエス様がなさるみわざを直視しながら、「もっとしるしを見せて下さい」と願ったからです。これは不信仰の現れ、悪い心の現れと言えます。「ヨナのしるし」とは、イエス様が死後、三日目によみがえるというしるしです。キリスト教の最大のしるしは、イエス様が死んで三日後に復活されたという奇跡です。それ以上のしるしはありません。だから、使徒パウロは「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです」(Ⅰコリント1514と言いました。今日の時代も、キリストの復活を信じない人たちがいますが、言い換えると悪い、姦淫の子孫だということなのです。人々は自分の罪を捨てたくないので、大いなるキリストのしるしを見ても信じないのです。

 私たちはどの子孫になりたいでしょうか?たとい、悪い姦淫の時代の中にあっても、神の子イエスを信じる人々がいるのではないでしょうか?そういう人たちこそ、「神の種が宿っている人たち」(Ⅰヨハネ39なのではないでしょうか?私たちは悪い姦淫の時代の中にあっても、キリストを信じたゆえに、新しい御子の子孫(種族)に加えられていることを感謝しましょう。ジョエル・オスティーンが言いました。「あなたのgene遺伝子には宇宙を創られた最も高い神さまの遺伝子が組み込まれているのです。サラブレッドが血統で決まるように、あなたも神の血統なのです」。私たちは自分の生まれた血統しか見ていません。「自分の生まれがこうだから」「自分の育った環境がこうだから」と低いレベルを生きているかもしれません。そうではなく、クリスチャンは再び生まれた存在です。だから、宇宙を創られた最も高い神さまの遺伝子が組み込まれているのです。だから神さまを「天のお父様」と呼ぶのです。私たちは天の父の子ども、遺伝子が組み込まれています。この事実を受け止めると、この先、希望が湧いてきます。それは単なる希望ではなく、神さまの確かな約束なのですから、そのまま信じて受け止めるべきであります。

2.パン種の問題

 マタイ165-6「弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。イエスは彼らに言われた。『パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。』」そのことを言われたとき、弟子たちは食べるパンのことを考えていました。イエス様は続けておっしゃいました。マタイ1611-12「『わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。』彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。」奇跡のことは次のポイントでお話ししますが、パン種(イースト菌)のことをまずお話ししたいと思います。聖書でパン種というのは腐敗を象徴しました。なぜなら、パン種を入れると長く保存できないからです。少し前の13章で「天の御国はパン種のようなものです」というたとえがありました。しかし、それは例外で、腐敗ではなく、知らない間に膨らむというたとえです。その意味は、天の御国が地上において、知らない間に拡大していくということです。しかし、イエス様がここで言われている「パン種」は悪い意味で、偽善を表しています。膨らむことはふくらむのですが、真実ではなく、偽善だということです。イエス様は弟子たちに5つのパンで5000人を養ったこと、7つのパンで4000人を養ったことをお話しされました。それぞれ、パンが余ったのでかごに入れました。パンが余ったということは、実際にパンが増えたという証拠です。一方、偽善による膨らませ方は実質のないものであり、無益だということです。

 イエス様はパリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけるように言われました。イエス様が来られる200年前頃、ユダヤがギリシャから独立したときがありました。そのとき、パリサイ人やサドカイ人たちが生まれたようであります。パリサイ人というのは、一般の仕事についていながら、律法を厳格に守るユダヤ教徒です。パリサイの元の意味は、「分ける」とか「きよい」から来ているようであります。つまり、「自分たちは律法を守っているのできよいんだ。あなたがたとは違う」と他の人たちをさばいていたのです。しかし、律法を完全に守ることは不可能です。そのため彼らは言い逃れの律法解説書を作って、ごまかしていたのです。だから、イエス様は彼らを偽善者だと言ったのです。なぜなら外側ばかり清くして、内側は汚れと貪欲に満ちていたからです。一方、サドカイ人とはだれでしょう?彼らは祭司をしている特権階級の人たちです。彼らにはお金と権威がありました。でも、信仰は中途半端で復活とか霊的なことは信じませんでした。ヘロデ党と同じように、とても世俗的でした。彼らもイエス・キリストを否定しました。なぜなら、キリストを信じると、自分たちの教えや立場がなくなって、飯が食えなくなるからです。パリサイ人やサドカイ人たちというのは、言い換えると宗教であります。宗教にはきまりがあり、儀式があります。いろんな階級があり、一般の人たちはそれに預かることはできません。現代、私たちはローマ・カトリックやロシア正教を見ることができますが、とてもきらびやかで、宗教的な儀式がいっぱいあります。宗教改革以降、プロテスタント教会はそういう宗教的、形式的なものをできるだけ排除するように勤めてきました。

 なぜ、イエス様は「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われたのでしょうか? 12節で弟子たちは「パン種のことではなく、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであると悟った」と書いてあります。そうです。彼らの教えであります。JB.フィリップス訳には、the influence of the teaching of the Pharisees and Sadducees. 「パリサイ人やサドカイ人たちの教えの影響」と訳されています。Influenceというのは、感化とか悪影響のことであります。つまり、彼らの教えの中には、本当の信仰を腐らしてしまう悪いものがあるということです。「もし、彼らと交わるならば、何か悪いものが移ってしまうよ」ということなのです。箴言にはそういう戒めが何度も書かれています。「くちびるを開く者とは交わるな」(2019)、「おこりっぽい者と交わるな」(2224)、「そむく者たちと交わってはならない」(2421)、「放蕩者と交わる者は、その父に恥ずかしい思いをさせる」(287)、「遊女と交わる者は、財産を滅ぼす」(283)。新約聖書にもいくつかありますが、Ⅱヨハネのことばは強烈です。「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」(Ⅱヨハネ10-11)。ヨハネの場合は、キリストを否定する異端の人たちと交わるなと警告しています。私たちは伝道のために、ある程度、危険を犯してでも、近づかなければならないところがあります。でも「交わり」というのは、共有するという意味ですから、この世の人たちと接することがあったとしても、共有できない分野があるということを知るべきです。たとえば、疑い、恐れ、汚れ、不平不満、不信感は伝染します。ですから、そういう話題からはできるだけ、避けるべきであります。テレビやインターネットも鵜呑みにしてはいけません。ニュースやドラマは世の中の不条理が強調されています。ずっと見ていると、神さまの存在が薄くなり、問題や悩みが拡大していきます。

 私たちは主と交わり、正しい信仰者と交わるべきであります。第一は神さまとの交わりです。Ⅰヨハネ13「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」第二は主にある兄弟姉妹との交わりです。Ⅰヨハネ47「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」パリサイ人たちのように律法的な偽善を避けて、恵みの中を歩みましょう。サドカイ人たちのような形式的な偽善を避けて、真実な交わりを築き上げていきましょう。交わりの秘訣は何でしょう。キリストの血が互いの罪を取り除いてくださいます。そして、互いの中にあるキリストの御霊が真実な交わりを可能にしてくださるのです。

3.信仰の問題

 イエス様は「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われましたが、実はもう1つ信仰についても教えておられます。もう一度、マタイ16章のみことばを読んでいきたいと思います。マタイ16:5 「弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。」そして、マタイ167-8「すると、彼らは、『これは私たちがパンを持って来なかったからだ』と言って、議論を始めた。イエスはそれに気づいて言われた。『あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。』」パリサイ人やサドカイ人たちのパンの増え方は偽物でした。なぜなら、偽善や虚栄、形式によって膨らませていたからです。宗教はなんとなく心を満たすかもしれません。でも、それは本物ではありません。イエス様はご自身がいのちのパンとして、わずかなパンをもとにして5000人と4000人を養いました。その奇跡が本当に起こった証拠に、それぞれ12かごと7かごのパンの余りが生じました。人々は精神的に満たされたのではなく、実際に肉体的に満たされたのです。イエス様は「パリサイ人やサドカイのパン種に注意しなさい」という戒めと同時に、彼らの不信仰を嘆いています。弟子たちはあのときのパンを持ってくるのを忘れました。そしてイエス様は「私たちがパンを持ってこなかったから何かおっしゃっているんだ」と議論していました。それに対して、イエス様は「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。」と言われました。英語の詳訳聖書は「どうして私を信頼していないのか?信仰の薄い者たち」と訳しています。つまり、信仰が薄いとは、イエス様をそんなに信頼していないということであります。

彼らは「パンがない」と騒いでいました。でも、それがそんなに重要な問題なのでしょうか?彼らはもう2度もパンが奇跡的に与えられたことを体験しています。「イエス様がそばにいれば、パンのことで悩む必要はない」と心から考えるべきでした。第二回目のレッスンのときは、イエス様が「群衆が三日間も食べていないので、どうしましょうか?」と提案しました。そのときは、「こんなへんぴなところで、こんなに大勢の人にどうやって食べさせるのですか?」と答えました。彼らは第一回目の5000人の給食を忘れていました。イエス様は「やれやれ」と思ったかもしれませんが、7つのパンで4000人の人たちを奇跡的に養われました。すばらしい体験を2回もしたにもかかわらず、「パンがない」と悩んでいました。おかしな話です。パンの問題は目の前のイエス様によって解決したし、これからも解決すると考えるべきであります。だから、イエス様は「信仰の薄い人たち」と嘆いておられるのです。弟子たちの何が悪かったのでしょうか?考え方が変わっていなかったのです。ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」みことばに「心の一新によって自分を変えなさい」とありますが、日本語としては不自然な言い方です。「心の一新」で十分なはずなのに、さらに「自分を変えなさい」と書いてあるからです。これはどういう意味でしょう?多くの人たちは自分を変えるためにどのような努力をしているでしょうか?体重を減らしたりして体形を変えることによって自分を変えようとするでしょう。2か月で痩せられる「ライザップ」というのがあるようです。あるいは、服装や髪形、お化粧を変えることによって自分を変えようとするでしょう。英語の詳訳聖書は、「外側を変えたり適応させたりする表面的な習慣ではなく、変革させられなさい。新たにされたマインドによって」と訳しています。簡単に言うと、マインド、考え方を変えることによって、自分を変えるんだということです。その人のマインド、考え方を変えたら、その人が変わるということです。



 たとえば、カルト宗教はよくマインドコントロール」すると言われています。マインドコントロールされた人は全く別人になってしまいます。周りの人が何を言ってもききません。逆に言うと、マインドにはそれだけ力があるということです。クリスチャンは霊的に救われ、霊が新しく生きています。しかし、人間の生き方を司っているのは、精神でありマインドなのです。これが私たちの人生を決定していく司令官なのです。いくら内におられる御霊が「ああしろ、こうしろ」と言っても、マインドがガンとして動かない場合があります。だから、生まれつきのマインドが一度砕かれて、全く新しいものに造り変えられる、これがトランスフォーメーション「変革」なのであります。弟子たちは奇跡を何度も体験しましたけれど、マインドが相変わらず古いものだったので、「イエス様がこれからも何度もパンを与えて下さる」と信じられなかったのです。私たちは「奇跡とは滅多に起こらないものである」と考えてはいけません。確かにこの世では「奇跡とは滅多に起こらないから奇跡なんだ」と言うでしょう。なぜなら、この世の人たちは神さまが遠くの別の世界にいると考えているからです。その神さまは滅多に、この世界に介入しないんだ。この世を支配しているのは自然科学であり、人間なんだと考えているからです。そうではありません。弟子たちはイエス様と一緒にいて奇跡を何度も体験しました。そうであるなら、今日の私たちともイエス様は共におられます。しかも、私たちの内に住んでおられます。パウロは「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ127と言いました。多くのクリスチャンはイエス様を私たちのマインドの中に閉じ込めています。「現代は、奇跡がないんだ。パンの問題は私たちがやるので、霊的なことだけをお願いします」と言っているのです。マインドの殻、不信仰の殻があまりにも堅いので、イエス様が出て来られないのです。私たちは弟子たちを笑うことはできません。私たちは過去に体験した奇跡は、今後、再び起こらないと諦めています。イエスさまが2度もわずかなパンで大勢の人たちを養いました。それだったら、3度目、4度目も期待して良いはずです。どうぞ、私たちのマインド、考え方を変えましょう。

神さまは今も生きておられ、私たちが難しいと思っている問題を解決してくださいます。私たちは難しいと考えているかもしれませんが、神さまはそうでないかもしれません。イエス様は「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」(マタイ183と言われました。大人はマインドでいろいろ理屈をこねます。頭で理解できなければ受け入れません。しかし、子どもはそうではありません。「悔い改めて子どもたちのようになる」とは、「マインドを変えて子どもたちのようになる」という意味です。どうぞ、生まれつきのマインドを捨てましょう。新しいマインドを神さまからいただいて、神さまにとって奇跡は当たり前、日常茶飯事に起るんだと信じましょう。パンの問題で悩んでいる人がいるならば、イエス様はきょうも明日も与えてくださると信じましょう。

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