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2017年3月10日 (金)

四千人の給食 マタイ15:29-39 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.12

 マタイ14章には、イエス様が5つのパンと2匹の魚で5000人を養われた奇跡が記されていました。しかし、このマタイ15章にも似たような奇跡が記されています。今度の場合は、7つのパンと小さい魚で4000人であります。どちらも、女性と子どもたちを除いた数でありますから、実際は倍の数になっていたことでしょう。これは差別ではなく、戦争に参加できる成人の男性を数とした当時の風習から来ています。きょうは、5000人の時と、4000人の時との違いを調べたいと思います。また、なぜ2回も同じような奇蹟を行ったのかということも考えたいと思います。

1.異なる点 

 最初は前回の5000人の給食と異なる点を調べて行きたいと思います。第一は「三日間も食べていなかった」ということです。イエス様は「この群衆はもう三日間も私と一緒にいて、食べる物を持っていないのです…空腹のため途中で動けなくなる」と言われました。三日間も何をしていたのでしょうか?もちろん、イエス様から福音や聖書の教えを聞いていたのでしょう。でも、そればかりではありません。彼らの多くはイエス様がおられるところを探し当て、病人や障害のある人たちを連れて来ました。マタイ1529-31「それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。すると大ぜいの人の群れが、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、口のきけない者、そのほか多くの人をみもとに連れて来た。そして彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをいやされた。」おそらく、イエス様は半分以上の時間とエネルギーをミニストリーに費やされたのではないかと思います。当時は車や電車がありません。馬やロバを持っている人たちは裕福な人たちです。彼らの多くは徒歩で、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、他に障害のある人や病気の人たちを連れてきたのではないかと思います。家族や友人、隣近所が誘い合って、助け合って来ていたのではないでしょうか?その数があまりにも多かったので、三日も過ぎてしまったのではないかと思います。他の箇所ですが、「大勢の人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった」(マルコ320と書かれています。決して大げさではなく、求めて来る人があまりにも多かったので、三日間ろくに食事をすることができなかったということでしょう。ある人が「リバイバルが来ると忙しくなる」と言いました。大勢の人たちが「どうしたら救われるんですか?」と詰めかけて来たらどうしますか?あなたは手短に福音を語って、救いに導けるでしょうか?また、「病院じゃ治らないと言われたのですが、どうか祈ってください」と来たらどうしますか?他の人に頼まないで、自分で祈れるでしょうか?どうぞ、リバイバルに備えてください。

 第二は4000人の給食の場合はイエス様が先に言い出したということです。前回の5000人の給食のときは、弟子たちの方から「ここは寂しいところですし、群衆を解散させて、めいめいで食事を買うようにさせてください」(マタイ1415とイエス様に提案しました。しかし、今回はどうでしょう?マタイ1532イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」あきらかに違います。イエス様の方から弟子たちに「彼らを空腹のままで帰らせたくありません」と提案しています。弟子たちはどう答えたでしょうか?マタイ1533そこで弟子たちは言った。「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手に入るでしょう。」このような答え方は、全回の時と全く同じです。前も、「ここは寂しい所ですし」言っています。おかしいと思わないでしょうか?弟子たちは、少し前に5000人の給食の奇蹟をまのあたりに見たはずです。それなのにコロっと忘れています。マタイ1534すると、イエスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」このあと、イエス様は七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられました。奇跡的にパンと魚が増えて、男性だけでも4000人の人たちが食べて満腹しました。違うのはパン切れの余りが今回は7つのかごいっぱいであったということです。前回は12のかごいっぱいでしたが、かご自体の大きさが違いますので、正確な量は分かりません。パン切れの余りがあったということは、実際にパンが増えていたという証拠です。これは奇跡であり、精神論や合理主義で解釈できないということの証拠であります。とにかく、今回の奇跡はイエス様の方から提案したということです。しかしながら、弟子たちは前回のことを忘れ、奇跡が再び起こるということを全く期待していなかったようです。

 第三は増えたパンがどのように群衆に配られたか明確に記されていることです。5000人の時はどうだったでしょうか?マタイ1419-20抜粋「五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。」とあります。なんとなく、「増えたパンを弟子たちが群衆に配ったんだろうなー」ということが推測できます。では、今回の場合はどうでしょうか?マタイ1536-37抜粋「それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。」このところには、順番がはっきり記されています。パンを増やしたのはイエス様ご自身です。そして、弟子たちはそのパンをイエス様から受け取り、そして弟子たちが群衆に配ったということです。パンの供給者はだれでしょう?イエス様です。そして、イエス様から受け取って、人々に配る人は弟子たちです。弟子たちに「パンを増やしなさい」と言われても、無理なことです。でも、イエス様にパンを増やしていただいて、それを人々に配ることは可能です。これは癒しや奇跡のわざも同じことです。人を癒したり直したりするのは、イエス様です。私たちがイエスの御名によって祈ったり、命じたりするとき、キリストの御霊である聖霊様が働いてくださるのです。祈るのは私たちで、癒すのは神さまです。もう1つ加えますと、福音を語るのは私たちです。そして、救ってくださるのは神さまです。私たちは人を救うことはできません。つまり、神さまと自分の責任を分担するということです。どうして、私たちはいらいらしたり、思いわずらったりするのでしょう?それは、神さまの分までやろうとしているからです。人を変えるのは私たちではなく、神さまです。私たちがやろうとするので、関係が壊れたり、共依存的になるのです。神さまがなさる分を尊重し、できないことはゆだねましょう。そうすれば、神さまが豊かに働いて、みわざを行ってくださいます。私たちは神さまの管です。管という英語は、channelです。海峡という意味もありますが、水管とか導管という意味もあります。液体が流れる管状のものをチャンネルというわけです。神さまが供給者で私たちが管です。どのような管が一番良く流れるでしょうか?太くてスムーズな管です。それは神さまに対する信仰と言い換えることができます。私たち「神さま私をあなたの恵みを運ぶ器にしてください」と祈るべきであります。

2.二回繰り返された理由

 ある学者たちは「1つの出来事を2つに分けたんだ」と言います。しかし、そんなことはありません。なぜなら、次のマタイ16章でイエス様が二つの記事として取り上げているからです。マタイ169-10「まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。」このことは次週詳しく学びますが、イエス様は2つの奇跡から弟子たちに何かを悟ってもらいたかったのです。しかし、彼らがあまりにも鈍かったので、イエス様がイライラしているようにも思えます。では、なぜ、同じような奇跡が繰り返されたのでしょうか?一般に「同じことを繰り返す」ということは、大事なことを教えるためです。一回で分からなかったので、もう一回、言ったりやらせたりします。その理由は、その人の固定観念や行動を変えるためです。イエス様が16章で「まだわからないのですか、覚えていないのですか」とおっしゃっていますので、この時点では弟子たちは分かっていません。

同じ奇跡が繰り返された第一の理由は、イエス様自身のご人格を示すためでした。私たちは、二つの奇跡からイエス様がどういうお方であるかということを見ることができます。前の14章でははっきり書かれていません。ただし、直前に「彼らを深くあわれんで、彼らの病気を癒された」(マタイ1414ということばは書いてあります。弟子たちは「解散させて、めいめいで食事を買うようにさせてください」とイエス様に提案しています。「私たちは食事までめんどうできないよ。めいめいで食事を買うようにしたら良い」というのはとても合理的で事務的です。それに場所がへんぴだし、大勢の人たちだという理由も分かります。でも、そこで、イエス様はたった5つのパンの2匹の魚で大勢の人たちを食べさせました。今回はどうでしょう?マタイ1532「かわいそうに、…彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから」とはっきりおっしゃっています。「かわいそうに」は、「あわれむ」と同じことばです。もともとは、「生贄の内臓を食べる」ということばから来ています。これは単なる同情ではありません。ある英語の聖書にはcompassion「共に苦しむ」がイコール「あわれみ」となっています。イエス様が奇跡を起こされるどの動機はいつもあわれみであり、愛であったということです。イエス様は決して、自分がメシヤであるということを誇示するために奇跡を行なったのではありません。結果的には人々が「イスラエルの神をあがめた」(マタイ1531かもしれませんが、それ自体が目的ではありませんでした。イエス様は前のポイントでも申し上げましたが、供給者です。ゴスペルではproviderと賛美します。まさしく、divine providerです。

私たちは生まれた時から、神さまから独立して生きています。アダムの子孫ですから、神さまの存在も認めないし、頼ろうともしません。しかし、その人がある時に、イエス様を信じて救われました。では、考え方が全く変わったでしょうか?クリスチャンでも、「霊的なものは神さまに頼り、物質的なものは自分の力でやるしかない」と思っている人たちがたくさんいます。イエス様はみことばという霊的な糧を人々に与えました。でも、人々は三日間もろくに食べていませんでした。そのため、イエス様は肉の糧も与えたいと願ったのです。この記事を読むとまるで、詩篇23篇「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」を連想させます。なぜなら、35節に「すると、イエスは群衆に、地面にすわるように命じられた。」とあるからです。「すわる」はギリシャ語で「食事の席に横になる、席に着く」という意味があります。また、英語の聖書にはrecline「横になる、もたれる」という単語が使われています。実際、ユダヤでは食事をするとき、左半身を横たえて、右手で食べたのです。多くの群衆はイエス様に言われる前から、野原に座っていたことでしょう。でも、ここで食事をするために、横になったと考えるべきです。一見、粗末で、たいしたことのない食事のように思えます。でも、イエス様は「横になって食事の席に着くように」と言われたのです。「人々はみな、食べて満腹した」と書かれていますので、本当に満足したのではないかと思います。まさしく、詩篇23篇の「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」であります。ある男性が、この記事を読んで、「イエス様の許にいれば、食いっぱぐれがないんだな一」と心引かれ、信仰を持ったそうです。アーメンです。

 同じ奇跡が繰り返された第二の理由は弟子たちの固定観念を変えるためです。少し前に、イエス様は5つのパンと2匹の魚で男性だけでも5000人を養われました。弟子たちは奇跡を目の当たりに見たのに、すっかり忘れています。忘れているというよりも、「奇跡はめったに起こらないものなんだ」という固定観念がありました。今回はイエス様の方から「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」と提案しています。この時、弟子たちはどうすれば良いか気づくべきでした。ところが、前回と同じように「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手に入るでしょう。」と答えました。ちっとも学んでいません。仕方なく、イエス様は「どれくらいパンがありますか」と弟子たちに聞かれたのです。弟子たちは「七つです。それに、小さい魚が少しあります」と答えています。その後、イエス様はパンと魚を奇跡的に増やして、男性だけでも4000人を養われました。果たして、弟子たちの考え方は変わったのでしょうか?全く、変わっていません。その証拠に、次のマタイ16章に何と書いてあるでしょうか?マタイ16:8-10イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。」詳しくは来週学びますが、明らかに何かを悟っていません。それは、イエス様が奇跡を行なわれるお方だということです。言い換えると、以前一度奇跡を行なったら、二度目も奇跡を行なわれるということです。弟子たちの頭には、「奇跡というのはめったに起こらないもの、今回はたまたま、だったけど、次回はないのだ」という考えがあったのです。だから、今回、「こんなへんぴな所で、こんなに大勢の人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手に入るでしょう」と言ったのです。目の前に、パンの供給者である「いのちのパン」なるお方がいたのです。つい、ちょっと前、男性だけでも5000人もの人たちが奇跡的に食べたのです。パン切れの余りを12のかごにいっぱい集めたことがあったのに、です。これが人間です。

 では、現代の教会が、クリスチャンが、このような奇跡がまた起こると信じているでしょうか?聖書を文字通り信じていると自負している、福音派の教会はあまり信じていません。「聖書が完成したので、そのような目を見張る奇跡は不要になった」という理由からです。冒頭で、イエス様によって「口のきけない者がものを言い、手足の不自由な者が直り、足のなえた者が歩き、盲人たちが見えるようになった」と学びました。しかし、彼らは「奇跡はイエス様ご自身のメシヤとしての証明だったので、私たちがそれを行うということではない」と言います。人間は「奇跡は起こらないし、起る必要もない」という神学を打ち出しました。本当は、人間が考えだした神学によって、信仰がないのを正当化したのです。「聖書が完成したので、奇跡は必要ない。病の癒しも終わった」と言ったら、本当に楽です。「そういうことは専門家であるお医者さんと科学者にゆだねれば良い。素人が精神や心の癒しに関わるのは危険だ」と言うでしょう。でも、専門家が本当に病気を治すことができるのでしょうか?もちろん、私たちは医療や科学も神さまの一般恩寵として捉えるべきであり、祈って用いるべきです。でも、神さまは今日も食物を奇跡的に与え、障害や病も治してくださいます。へブル138「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」と書かれています。まり、イエス・キリストが2000年前、食物を奇跡的に与え、病をいやし、足萎えを歩かせ、盲人の目を開きました。今も同じことをなさるということです。イエス様は弟子たちにあなたがた、信仰の薄い人たち。…まだわからないのですか、覚えていないのですか。」と言われました。その答えは、奇跡は一度あったら二度目もあるということです。二度目があったら、三度目もあるということです。問題は私たちの頭の中です。私たちはめったに起こらないのが奇跡だと考えています。しかし、全能の神さまにはsupernatural natural「超自然と自然」の区別がないのです。ある人が「神さまにとっては癌も風邪と変わりない」と言いました。私たちは「癌」と聞くと、一生懸命、力をこめて何度も祈らなければならないと深刻に考えます。でも、「神さまにとって癌も風邪と変わりない」と考えるなら、そんなに力まなくても良いです。静かに、しかし権威をこめて「癌よ、消え去れ!」と命じれば良いのです。昔、癒しをなさるハンターご夫妻が日本に何度か来られたことがあります。何度がセミナーに行ったことがありますが、最初にこう言いなさいと教えられました。お祈りをする前に、「それは簡単です」と言いなさいと教えられました。いやー、勇気がいりますね。ほら吹きだと言われたくないですからね。でも、「それは簡単です。イエス様にとっては」であるなら、本当です。その宣言によって信仰が与えられます。

 先日、テレビで昔の学校給食という番組がありました。昭和30年代の頃、コッペパンがごちそうで、ある子どもたちはそれを紙にくるんで家に持って帰りました。家族のだれかに食べさせてあげたいと思ったのかもしれません。私も田植えをしたとき、お昼はジャムパンを食べました。その時は、「世の中にこんなおいしいものがあるのか?」と思いました。今はジャムパンを買うこともありません。なぜなら、口が肥えてしまったからです。きょうの4000人の給食の奇跡は飽食の時代には色あせて見えるのでしょうか?しかし、世界の多くの人たちは飢えていて、きょう食べるパンもないと言うことです。でも、日本でもかなり貧しい人がいることは確かです。「食べていけるか」というのはどの人にでも最低限の課題です。もし、「イエス様がすべての供給者で、わずかな物でも増やしてくださる」と知るなら何と幸いでしょう。父なる神さまは私たちが貧しくて病気がちで、なんとか生き延びるという人生を望んではいません。イエス様は私たちをあわれんでくださる救い主です。詩篇23篇「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」と書いてあります。イエス様の恵みはどんな物でも、身を横たえて食べられるということです。そこには高価なもの、安価なものの区別はありません。たとえ、お金をかけていなくても、豊かだからです。私たちはすべての供給者であられるイエス様が共にいるので、安らかに暮らすことができるのです。私たちの頭の中から、「奇跡はめったに起こらないものだ」という考えと取り除きましょう。そうではなく「奇跡は神さまにとって日常的なこと。私は奇跡の中で暮らしている」と考えましょう。どんな病や障害でも、イエス様にとっては簡単なことであると考えましょう。たとえ、大きな病気になったとしても、あまり深刻にならないようにしましょう。クリスチャンは死んだら天国です。でも、神さまは私に癒しと回復を豊かに与えてくださる神さまです。小さなことから、大きなことまで、神さまのみわざを信じましょう。もう一度みことばをお読みします。へブル138「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」イエス・キリストは今も生きておられ、奇跡を当たり前のように行うお方です。奇跡は神さまにとって日常的なことです。アーメン。

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