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2017年3月 3日 (金)

立派な信仰 マタイ15:21-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.5

 イエス様は失われたご自分の民、イスラエルのために来られました。ご自身の計画は、イスラエルの後で全世界を救うということでした。イエス様は狭いパレスチナを出たことがありません。それでも、何回か異邦人の地を訪れたことがありました。マルコ福音書には「隠れるため」と書いてありますので、退去して休むためであったと思われます。ところが、どこから嗅ぎ付けたのか、異邦人の女性がイエス様のところにやってきました。後から、この女性はイエス様から「ああ、あなたの信仰は立派です」と褒められています。それまで彼女はどのような障害を乗り越えてイエス様から恵みをいただいたのでしょうか? 

1.生まれ

 彼女は「生まれ(血統)」という障害を乗り越えました。これは、自分の運命に対する誘惑です。彼女はどのような生まれだったのでしょうか?イエス様と弟子たちが訪れたところは、「ツロとシドンの地方」でした。マルコ福音書には「ツロ・フェニキヤ」と書かれています。英語の聖書には海岸とありますので、フェニキヤの海辺だったと思います。また、「その地方のカナン人の女」と書かれています。ヨシュアがカナンに攻め上り、先住民を追い払い、占領していきました。その当時、最も強い先住民はペリシテ人でした。彼らは鉄器を持っていましたので、青銅ではかないませんでした。ペリシテはもともと海賊でしたが、ツロに定住してから、海上貿易で栄えました。しかし、イエス様の時代はイザヤ書の預言のとおり、全くすたれ漁村になっていました。ペリシテは言い換えるとフェニキヤになります。カナン人は呪われた民であり、イスラエルに制服される運命にありました。カナン人の女の娘が、「ひどく悪霊につかれている」と言うことですが、そういうことも原因しているかもしれません。たまたま、カナン人が住む場所に、イエス様と弟子たちが足を踏み入れたのです。するとどこからか、その情報を得た一人のカナン人が叫びながら、イエス様に近づいてきました。マタイ1522すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」

 この女性は異邦人でありながら、イエス様を「主よ。ダビデの子よ」と呼んでいます。だれが、彼女にイエス様がそのような方であることを教えたのでしょうか?本当に信仰があるのでしょうか?ただ、娘を助けたいがためのご利益信仰なのでしょうか?イエス様は退去するために、そこを訪れたのです。マルコ7章には「だれにも知られたくないと思われた」と書いてあります。なのに、発見されてしまいました。イエス様としては迷惑な話です。なぜなら、このところにミニストリーをするために来なかったからです。ここに来たのは、人々を避けて休むためでした。しかし、この女性はイエス様を探し出してやってきたのです。イエス様はマタイ7章で「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ77-8と教えたことがあります。この女性は「だれであれ」の中に入ります。つまり、カナン人であれ、異邦人であれ「求める者は受け、捜す者は見つけ出す」ということです。彼女は運命論的なハンディを負っていました。生まれたのがツロ・フェニキヤでした。そして、カナン人であり、イスラエルによって征服されるべき先住民です。自分だけではなく、娘も呪われており、悪霊によって苦しめられていました。悪霊は理由なくして人間には入りません。マルコ福音書には「汚れた霊」と書かれています。ですから、この親子は希望が全くない、異邦人の女性でした。

 私はこの物語を読んだとき、自分のことを考えました。私は裏日本の秋田で生まれました。家は禅宗で「死んだらあのお寺にお世話になるんだ」と思っていました。8人兄弟の7番目だったので、高校卒業後、東京に出てきました。人生のテーマは「好きなことをして生きる」でありました。「面白おかしく暮らして、死ねば、それでおしまい。」と思っていました。ところが25歳でイエス様を信じてから、永遠のいのちが与えられ、全く人生が変えられました。私はキリスト教とは全く縁のない人間であり、最も救われにくい人物であったと思います。私の過去を知っている人たち全員、そう言うでしょう。興味深いことに、ツロ・フェニキヤはイスラエルの北に位置していました。イエス様は休むために、たまたま寄ったのです。どころが、そこに一人の女性がいたのです。彼女はカナン人であり、生まれ(血統)にハンディを持っていました。でも、「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」とやって来たのです。彼女がイエス様を求めたのは、娘のためです。娘が健康で問題がなかったなら、来なかったかもしれません。でも、娘がカナン人の呪いのせいなのか、悪霊に苦しめられています。その娘を助けたい一心で、彼女はイエス様のところにやって来たのです。

 彼女は「生まれ(血統)」に問題がありました。これは、自分の運命に対する誘惑です。でも、運命を乗り越えるようなことが起こりました。イエス様が異邦人の地、ツロ・フェニキヤにやって来たからです。本来はイエス様と出会うことがありませんでしたが、娘がひどく悪霊につかれ苦しんでいました。彼女はイエス様が病を癒したり、悪霊を追い出した情報を得ていたのでしょう。もしかしたら彼がメシヤではないかという噂まで聞いていました。彼女は、一心不乱でと申しましょうか?生まれとか血統のことを脇において、イエス様に近づいてきたのです。中世ヨーロッパでは生まれや血統がすべてでした。生まれによって、その人の運命が決まったといっても過言ではありません。日本も江戸時代にそういうことがあったでしょう。今日でもそういうことがある程度あります。では、そういう人は神さまの恵みを受けるチャンスがないのでしょうか?あります。あります。ヨハネ112-13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」アーメン。「血によってではなく」とは、生まれは関係ないとうことです。イエス様は私たちの運命を変えてくださるお方です。

2.無視

 次に彼女は「無視」という障害を乗り越えました。これは自分の存在に対する誘惑です。イエス様は彼女にどのように応対されたでしょうか?全く応対していません。23節しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った」何かの間違いじゃないでしょうか?イエス様はマタイ7章で「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出す」とおっしゃったではありませんか?それでは、矛盾しているではありませんか?イエス様は差別をつけるのでしょうか?24節しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。このところに、彼女が無視された理由が記されています。イエス様が来られたのは、イスラエルの家の失われた羊のためでした。「それ以外のところには遣われていない」と言われました。彼女は諦めたでしょうか?「しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、『主よ。私をお助けください』と言った」とあります。

 無視されても引き下がらなかった彼女のことばに2つの特徴があります。第一は「私をお助けください」と願っていることです。正確には「私の娘を助けてください」と言うべきでしょう?その前にも「私をあわれんでください」と叫んでいました。どうして「娘」ではなく、「私」なのでしょうか?母親だからでしょうか?このところには母と娘の深い絆を見ることができます。第二は「イエスの前にひれ伏した」と書かれています。これはイエス様を礼拝したということです。カナン人にはありえないことです。最初は「主よ。ダビデの子よ」と呼びかけていました。今度は「主よ。私をお助け下さい」とひれ伏しています。この時、イエス様の心が動かされたのではないでしょうか?ところで、今年の箱根駅伝ですが、青山学院が3年連続優勝しました。そのためもあり、原監督がテレビにひっぱりだこです。16日のミヤネ屋という番組に出ていました。どういう選手に原監督が目をつけるかという質問がありました。「チャライ人、明るい人、おしゃべりな人が良い」と3つの特徴をあげていました。そして、「こころ根の悪い人は実力があってもダメ」と言っていました。「どうしておしゃべりな人が良いの?」とさらに聞かれたら、「しゃべることは頭の回転が良いということ。選手自身が自分で考えて決断することが大事。暗くて、心根の悪い人は私の言うこともきかないし、指導できない」と答えていました。私は結構しゃべる方なので、「良かったなー」と思いました。でも、「心根って何だろう?」と思いました。インターネットには「意地が悪い」とか「ひねくれている」という意味だと書かれていました。カナンの女性はイエス様から無視されましたけど、自分のことよりも娘を思って、イエス様の前にひれ伏しました。そういう意味では、心根の良い女性だったのかもしれません。

 福音書には選民イスラエルよりも、信仰が篤い異邦人のことが良く書かれています。たとえば、ローマの百人隊長は、「私のしもべを癒してください」とイエスに願いました。イエス様が「行って、直してあげよう」と言ったら、「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格はありません。ただ、おことばを下さい。私のしもべはなおります」と答えました。イエスさまは「イスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがない」と言われました。百人隊長は使い捨ての時代であっても、自分のしもべのためにイエス様のところに頭を下げてやって来たのです。一方、パリサイ人や律法学者たちはどうでしょうか?イエス様は彼らの心の思いを知って「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか」と言われたことが度々あります。ということは、イエス様は人の心の中がご存じだということです。私たちはいくら祈っても答えが得られない時はないでしょうか?神さまは私のことを覚えていらっしゃらない。無視しているのではないだろうか?しかし、そんなことはありません。その求めが本当に心の底から出ているのか、ご覧になっておられるのではないでしょうか?カナンの女性に対しても、しばらくイエス様は無視していましたが、そうではありません。そのことば、その態度から、彼女の心根を調べておられたに違いありません。ついに、彼女は無視という障害を乗り越えることができました。私たちも諦めずに、イエス様に迫って行くべきではないでしょうか?ダビデはこのように叫んでいます。詩篇3912「私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。」

3.犬呼ばわり

 イエス様がさらに、口を開いて答えてくださいました。マタイ1526すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。第三は「犬呼ばわり」という障害、これは自分のプライドに対する誘惑です。その当時、ユダヤ人は異邦人に対して犬と呼び、さげすんでいたそうです。その場合の犬は、野良犬のことでした。イエス様はこのところで「小犬」とおっしゃっていますが、家庭でペットとして飼われている小犬です。一方、「子どもたち」というのは、イスラエル、ユダヤ人のことであります。イエス様は子どもたちにパン(救い)を与えるために、来られたのです。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」とは至極当然です。でも、そのことばを聞いたカナンの女性はどう答えたでしょうか?犬呼ばわれされたのですから、プライドが傷つくでしょう。「馬鹿にしないでよ」と怒って、帰ることもできたでしょう。彼女にとって、ものすごい誘惑だったのではないでしょうか?しかし、何と答えたのでしょうか?マタイ15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」彼女は「そのとおりです」と自分が小犬であることを認めました。その次に「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と答えました。なんと機知に富んだ答えなのでしょう?イエス様も「小犬」と少々ひっかけましたが、彼女はすばらしい機知の持ち主でした。確かに、飼われていた小犬は食卓から落ちるパンを食べることができました。つまり、「私はおこぼれで構いません。ユダヤ人のおこぼれでも良いですから、私にください」と願ったのです。これに対してイエス様はどう答えたでしょう?マタイ15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

 明らかにイエス様は感動しておられます。いや、彼女を賞賛しているのかもしれません。なぜなら、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」と答えておられるからです。イエス様は「ツロ・フェニキヤにこのような信仰の持ち主がいたのか」と驚いたのではないでしょうか?本来なら人々を避けて休むためにこの地を訪れたのに、どういうことでしょう。もう疲れがいっぺんに吹き飛んだのではないでしょうか。機知を英語でwitとも言いますが、witにはいろんな意味があります。頓知、気転、才覚、分別という意味もあります。旧約聖書でwitに富んだ女性がおります。それはアビガイルという女性です。彼女の夫はナバルでした。Ⅰサムエル253「彼の妻の名はアビガイルといった。この女は聡明で美人であったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。」と紹介されています。ダビデはサウル王から身を隠していました。ある時、ダビデはナバルの羊たちを守ってやったことがありました。でも、そのとき食べ物が不足しており「手もとにある物を分けてください」と使いをやりました。しかし、ナバルは「ダビデとはいったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。この肉をどこから来たのかわからない者どもに、くれてやらなければならないのか」と悪口を言いました。ダビデはそれを聞いてかんかんに怒って、剣を持った四百人と一緒に下って行きました。そのとき、アビガイルがダビデの足もとにひれ伏して、「ナバルはその名のとおり愚か者です。気にかけないでください」とお願いしました。アビガイルの気転によって、ダビデは復讐しないで済みました。その後、ナバルは主に打たれて死に、アビガイルはダビデの妻になりました。他にもラハブ、ヤエル、エステルなど聖書には機知に富んだ女性が出てきます。ツロ・フェニキヤのカナンの女性もその一人であると思います。その時、この女性の娘は悪霊から解放されました。マルコ730「女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。」と書いてあります。

 カナンの女性の信仰がどうして立派だったのかまとめてみたいと思います。イエス様は一回で彼女の願いを聞いてあげませんでした。愛と恵みに満ちたお方としては意外なことのように思えます。しかし、イエス様は彼女の信仰が本物であるかどうか試す必要がありました。女性は「主よ。ダビデの子よ」と呼んで近づいて来ました。彼女はカナン人です。ただ名前を呼ぶだけのご利益信仰かもしれません。だから、イエス様はひとことも口をきかず、無視しました。彼女は自分の存在を否定されたのですから、怒って去っていくこともできました。イエス様は「イスラエルの家の失われた羊以外には遣わされていない」と断りました。するとこの女性は、「主よ。私をお助けください」とひれ伏して願いました。イエス様は「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くない」と頓智のめいたことを言われました。彼女は犬呼ばわりされたと同然です。「プライドを傷つけられた」と怒って、去っていくこともできました。ところが「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と頓智で返しました。それは「イスラエルのおこぼれでも良い」という意味です。イエス様は感動して「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」と願いをお聞きくださいました。彼女は「カナン人という生まれ」、「無視」、「犬よばわり」と3つの障害を乗り越え、その信仰が本物であると認められました。その結果、娘の救いを得たのであります。一見、イエス様が意地悪されたかのように思えるかもしれません。でも、これは私たちへの教訓ではないかと思います。彼女は何度も憤慨して、その場を去ることもできました。しかし、娘の救いのために執拗に食い下がりました。

どうでしょう?私たちはすぐ躓いて教会を去ったり、信仰を捨て去るのではないでしょうか?私はクリスチャンになって38年、牧師になって30年になりますが、多くの人たちがいとも簡単に教会から去ってしまうことを目撃しました。牧師として一番悲しいのはそのことです。「躓いた」という表現は教会で良く用いられる表現かもしれません。世の中では「自分の過失やあやまち」として捉えられていますが、教会では別の意味があるようです。信仰に躓くというのは、どこかに「自分は正しくて、他は間違っている」というニュアンスがあります。教会に来ることは仕事や学校と違います。本人の自由であり、義務ではありません。「来たくなければ来なくて良い」のです。でも、どこか甘えがあるような気がします。信仰というのはそんなに薄っぺらいのでしょうか?私たちはもっと大きなものに捕えられていることを自覚すべきだと思います。そうしたら、簡単には躓かないと思います。もっと大きなものとは私たちの救いのために、神さまがひとり子イエス様を十字架に与えたということです。私たちの救いのためにはイエス様のいのちがかかっています。このお方を救い主、人生の主として信じることは口先だけのことではありません。私たちの存在がかかっており、神さまもそのように受け止めてくださいます。

 このツロ・フェニキヤの女性はカナン人でした。異邦人であり救いから漏れていた人でした。しかし、生まれがどうであれ、無視されても、犬呼ばわりされても、イエス様に求めました。なぜなら、娘の解放を何よりも願っていたからです。その信仰がイエス様に立派だとほめられました。私たちの信仰はもしかしたら淡泊で、「ああ、それなら結構です」とセールスを断るような口調かもしれません。イエス様との関係は十字架の血潮による契約です。イエス様がご自身の血で私たちを買い取ってくださったのが教会です。一度、キリストを信じたら、死んでも離してはいけません。なぜなら、永遠がかかっているからです。もちろん、信仰は私たちの側だけではなく、イエス様の真実があって成り立つものです。でも、私たちには私たちの責任もあるはずです。神さまはイエスさまと聖霊を与えて、ご自身の責任を果たしておられます。そうであるなら、私たちも自分の信仰告白を堅く保って、やがてイエス様のもとに立つときを待ち望みたいと思います。ツロ・フェニキヤの女性のように、イエス様の前にひれ伏して礼拝しましょう。その時、主は「ああ、あなたの信仰は立派です」とおっしゃってくださると信じます。

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