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2017年2月24日 (金)

口から出るもの マタイ15:10-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.2.26

 当時の宗教家たちは「弟子たちは手を洗って食べていない」とイエス様を批判しました。それはいわゆる手を洗うということではなく、儀式にのっとっていないということです。これに対してイエス様は「あなた方は言い伝えを重んじて、律法を無にしている。口から入るものが体を汚すのではなく、口から出るものが人を汚すのである」と答えました。では、どのようなものが私たちの心から出てくるのでしょうか?19節に「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしり」と合計7つあります。一番、悪いものが心です。なぜなら、心にあるものが口から出るからです。次に悪いのが口です。そこで止めておけば良いのに、ことばとして放出してしまうので問題が出てくるのです。きょうは、心と口の2つの面から考えたいと思います。

1.心から口へ

 イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ1234と言われました。私たちが悪いことばを発するのは、心が悪いからです。マルコ7章はさらに、5つを加え、13個も挙げています。マルコ7:21-23「 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」人によっては、比較的軽いというか、ひどくない人たちもいます。育った家庭環境が良くて、大事に育てられた人は、乱暴なことばを発しないでしょう。それに比べ、劣悪な家庭環境で、野良犬のように育った人はどうでしょうか?「ウゥー」とすぐ噛みつくでしょう。そして粗雑でぞんざいなボキャボラリーしかありません。私は亀有2丁目の郵便局を利用しますが、若い目のクリクリした女性がカウンターにいます。おばあちゃんが押した印鑑が違っているようでした。局の女性は「この印鑑は違いますよ。もっと小さなヤツはないでしょうか?」と言いました。そばにいた私は、吹き出してしまいました。ある時、エア・メールを出しに行って、サインをするように求められました。そのとき、スラスラと英語でサインしたら、彼女は「うぁー、英語できるんですね」と褒めてくれました。制服とことばがアンバランスなので、「さすが亀有」という感じがしました。私もいろんなセールスの電話がかかってきますが、即座に「結構です」とぶっきらぼうに答えてしまいます。「教会に対するイメージを悪くしているだろうな?」とちょっとだけ反省しています。私の場合は、育った環境は悪いし、土木現場で働いていたこともあるし、もう体に染みついています。大川牧師からも「がさつだ」と注意されましたが直らず、亀有で良かったです。

 聖書の人間観はとても悲観的です。どんなに育ちが良くうわべは上品でも、例外はありません。そういう人たちに限って、陰湿で高慢で意地悪な人が多いからです。エレミヤは生まれつきの人間を何と言っているでしょうか?エレミヤ179「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」私は口語訳の方が、インパクトがあると思います。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」「よろず」というのは、100010倍、万ですから、驚きです。もう一度繰り返します。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。」テレビ時代は顔のキレイな人がもてはやされます。テレビのCMには、そういう人たちが何本も出て荒稼ぎをしています。顔のキレイなのも神さまの一般恩寵だと思いますが、だからと言って、心がキレイなわけではありません。顔がキレイだと心もキレイなんじゃないかと錯覚します。だからエレミヤは「だれが、それを知ることができよう」と言っているんですね。でも、だれが知っているでしょうか?神さまがご存じです。神さまだけがご存じなのです。Ⅰサムエル167「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」アーメン。ですから、私たちは「人にどう接するか」、「人にどのように話すのか」学ぶ前にやるべきことがあります。それは心を変えなければならないということです。接客術やことば使いの前に、心を直さなければなりません。でも、聖書は「それは直らない、改善不可能だ」とはっきり言っています。ぼろ雑巾を洗濯して、アイロンをかけても、やっぱりぼろ雑巾です。森の石松は「馬鹿は死ななきゃ直らない」と言いましたが、まさしくその通りです。キリスト教は生まれ変わりの宗教です。改善とか修養の世界ではありません。一度、古い人に死んで、そして新しく生まれ変わるのです。

 ローマ人への手紙、ガラテヤ、エペソ、コロサイも心やことばの問題を扱っています。いわゆるそれは「倫理、実践面」のことであります。しかし、その前に必ず教理的なことが書かれています。それはイエス様が私たちのために十字架で死んで、罪の代価を払ってくれたことです。私たちがキリストを信じると、罪赦され、新しく生まれ変わります。これは霊的に新しく生まれ変わるということであり、心や体が含まれていないというのが一般的な考えです。もちろん私たちはイエス様を信じると霊が新生し、心や体に神さまのいのちと力を与えてくれます。実は、それだけではありません。ローマ6章、ガラテヤ2章に書いてありますが、私たちの古い人はイエス様と一緒に十字架につけられて死んだのです。ローマ66-7「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」パウロは「古い人」と言って、あとで「罪のからだ」と言い換えています。当然、からだの中には、心も体も全部含まれています。古いからだはキリストと一緒に十字架につけられて死んだのです。そうすると、「罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなる」ということです。ウォッチマン・ニーがこのように言っていま。「私たちがキリストを信じたとき、罪を生産する工場が破壊されたのです。それは酒を蒸留する工場が破壊されたのと同じです。でも、その前に造られた酒瓶や樽が縁の下や車のトランクに隠されています。それが肉です」と言っています。イエス様があげた罪のリスト「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしり」は、まさに肉であり、罪の残り粕です。酒瓶が心や体のどこかに隠されているのです。私たちは天国に行くまで、これらを処分しつつ、「栄光から栄光へと主と同じかたちに帰られていく」(Ⅱコリント318のです。アーメン。この世の道徳は、心を新たにすることなく、外側から「ああしろ、こうしろ」と矯正します。でも、それは肉が罪を犯すことを助長しているのに過ぎません。私たちの肉は「しろ」と命じられれば、したくなるし、「するな」と命じられれば、してしまうのです。この世の法律や宗教、あるいは道徳や倫理は人を外側から律することはできるかもしれません。しかし、それは変えているのではなく、補正し、改善し、修養しているのに過ぎません。だから酒に酔った時や、遠くに行ってだれも見てないときに罪を犯すのです。真の解決は一度、古い人に死んで、新しく生まれ変わるしかありません。そのためには、エレミヤのように一度、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と諦める必要があります。その次に、パウロが言う「キリストともに十字架につけられて、罪から解放される」という救いの道があるのです。

 当時の宗教家たちは、儀式や律法を守っていました。それは器の外側だけをきれいにするようなものでした。なぜ彼らが偽善的で力がなかったのでしょうか?それは、心を取り扱おうとせず、外側の行いやことばだけを清く見せようとしたからです。一方、イエス様と弟子たちは、堂々と生活していました。なぜなら、心の深いところで神さまと交わっていたからです。言い換えると人々の前ではなく、神さまの前にきよくあろうと生活していたからです。ある人たちは洗礼を受けてクリスチャンになるといろんなことに縛られ窮屈になると考えています。そのため、深入りしないで、周りをぐるぐる歩いています。一度取り込まれると、抜けられないと考えています。そうではありません。実は神さまの中に本当の自由があるのです。もちろん神さまは義なる方、聖なる方です。罪がお嫌いで、罪をさばくお方です。でも、イエス様を信じると罪赦されるばかりか、義とされます。私たちは神さまの目から見たら、清くて正しい存在なのです。でも、クリスチャンなって心が全くきよめられたかというとそうではありません。最初は、「あれでもクリスチャン?」と、人に躓き、自分に躓いて、教会を去りたくなるかもしれません。でも、そこが勝負の分かれ目です。どろどろした本音の部分をイエス様に打ち明け、イエス様を歓迎するのです。すると、心が本当に作り変えられます。どのようにでしょうか?イエス様はこんな醜い私を愛して、受け入れ、弁護していてくださる。そうすると、他のクリスチャンをも愛せるようになるのです。あるとき、エジプトを脱出した人たちが荒野に来て、泉の水を飲もうとしました。しかし、その水は苦くて飲むことができませんでした。モーセが主から言われて、一本の木を水に投げ入れました。すると、その水は甘くなったと書かれています(出エジプト1525)。一本の木とは何でしょう?それはイエス様の十字架です。私たちの心に十字架を投げ入れると、敵意や苦々しさ、さばきや怒りが消えるのです。そして、心は甘い泉に変えられ、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制をかもしだす心になるのです。肉は確かに存在しています。しかし、御霊がそれに打ち勝って、御霊の実が現れてくるのです。

2.口からことばへ

 今度は口の問題を取り扱いたいと思います。心臓から口までの距離や約30センチです。もちろん、心臓イコール、心ではありません。おそらく、心は別のところにあるでしょう。でも、私たちは喉のところでやめておけば良いのに、言ってはいけないことを言ってしまいます。詩篇の記者はこのように言っています。詩篇391「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。」、詩篇1413「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。」「口輪をはめる」とか「見張りを置く」と書かれていますが、それだけ口を守るのは難しいということでしょう。ヤコブは「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」(ヤコブ32)と言っています。政治家が言ってはいけないことを「ぽろっと」口に出すことがあります。そして、重要な立場を失うことがよくあります。最近はビデオにちゃんと撮られていますので、言い逃れができません。テレビ・ニュースでその場面が何ども繰り返され、大変なことになります。もちろん、失言ではあるかもしれませんが、「心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ1234)。でも、クリスチャンになって、霊的に生まれ変わり、心と体が一度、十字架につけられて、罪から解放されたはずです。苦い思いも傷も癒され、甘い水である御霊の実が現れてくるはずです。でも、ここで私たちは油断してはいけません。どうしても、私たちの中には肉の性質、酒瓶や樽がとこかに隠されています。肉と言うのは、クリスチャンになる前の記憶であり性質です。これがどこかに宿っていますので、状況が整うと、自動的に口から出てくるのであります。相手が横柄な態度を取り乱暴なことばを吐くなら、条件反射的に悪いことばが出てくるのです。

 私たちはこの地上で生活しています。地上というのはこの世の神であるサタンが支配しているところです。もちろん、私たちは神の子であり、救いを受け、霊的には神の国に生きています。しかし、心と体がこの世にあります。すると当然、この世の神であるサタンが人や物事を通して、けしかけてきます。それをキリスト教では「躓き」と言います。イエス様は「躓きが起こるのは避けられない」(ルカ171と言いました。「躓き」のギリシャ語は、「罠の餌をつける棒」という意味です。昔は鳥とか動物を捕えるときに、棒の先に餌をつけました。サタンも私たちの前に、「餌」をまいておびきよせ、餌に食らいつくように誘惑してきます。英語ではbiteであり、「餌に食らいつく」「誘いに乗る」という意味です。サタンが直接、誘惑するというよりも、背後で人や機会をあやつるのです。私たちは不当な扱いを受けたり、ひどいことを言われたりすることがあるでしょう。その時に、私たちの肉が反応し、口から悪い言葉が出ることが良くあります。昔、車(チャ)先生のメッセージを聞いたことがあります。彼女は日本をとても愛している韓国の宣教師です。彼女も人間ですから、何かのことで夫婦喧嘩になることがあります。心が、まるで火にかけたヤカンのように沸騰してきます。その時、サタンが隣で「さあ、怒りなさい。相手をぎゃふんと言わせなさい」とけしかけるそうです。その時、車(チャ)先生は、ぐっとこらえます。そして言います。「サタンよ。お前の誘惑には乗らない。退け!」そうすると、嘘のように怒りが収まり、「まぁ、いいか」という気持ちになるそうです。私は育った環境が悪いのと、土木現場で働いていたせいで、ことばが粗野です。自分としては「ワイルドだろう!」と思っているのですが、家内には通じません。だから、ことばのことでよく衝突します。しかし、家内はほとんど乗ってきません。私は説教という賜物が与えられていると信じていますが、これはもろ刃の剣であり、人を切り刻んでしまう恐れがあります。パウロはエペソ人への手紙で「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ429と言いました。アーメンです。

 神さまはことばによってこの世界を創造させました。ですから、ことばが一旦、発せられると、この世界に対して何かをもたらすということです。信仰的なことばを発すると、そこに神さまのみわざが起こるでしょう。逆に、破壊的で否定的なことばを発すると、神さまのみわざが妨げられるばかりか、そのような悪いことが起こるでしょう。ジョエル・オスティーンが「言葉の力」ということをある本で書いています。ホセ・リマは、1990年代後半にヒューストン・アストロズで数年間ピッチャーを務めた選手です。社交的で、エネルギッシュで、人好きのする彼は、ふだんは何事にも前向きな姿勢で臨んでいました。しかし、アストロズが新球場ミニッツ・メイド・パークを建築したとき、ホセは腹をたてました。レフトスタンドのフェンスが、アストロドームのそれよりずっと近かったからです。実際のところ、ミニッツ・メイド・パークのホームベースからレフトスタンドのフェンスまでの距離は、大リーグのどの球場よりも短かったのです。バッターにとっては嬉しいことでしたが、ピッチャーにとってはトンでもない事でした。特に、相手が右打ちのバッターの場合、レフトに打たれるとお手上げなのです。初めて新しいグラウンドに入ったとき、マウンドに立って外野方向を見渡したホセは、すぐにレフトスタンドが近いことに気づきました。「ここでは投げたくないな」と彼は言いました。次のシーズン、新球場での試合は盛り上がりましたが、ホセは自己最低の成績でシーズンを終えました。1シーズンで、20勝投手から、あっという間に16敗投手に落ち込んだのです。ここまで急激に成績を落とした選手は、球団始まって以来初めてでした。ホセは言葉にしたことが現実になったのです。人は、自分の言葉を「預言」に変えることができます。マイナス思考に負けて後ろ向きの言葉を口にすれば、行動もそれに追従します。だからこそ、私たちは自分の考えや言葉に細心の注意を払わなくてはいけないのです。言葉にはとてつもないパワーがあります。本人の望むと望まざるとにかかわらず、人は自分の言葉に命を吹き込むのです。悲しいことに、たくさんの人が自らの言葉のせいで鬱々とした人生を送っています。彼らはよくこんなことを言います。

―私にはいいことなんて起こるはずがない。

 ―私は絶対に成功できない。

 ―私はそんな器ではない。

 ―私は一生この泥沼から抜け出せない。

 中には自分を罵倒する人すらいます。「お前はなんて馬鹿なんだ!何一つまともにできないクズだ!」本人は気づいていませんが、彼らは自らのことばで失敗へと続く道を切り開いているのです。言葉は種のようなものです。声に出して言うことで、言葉は潜在意識にまかれ、独自に成長していきます。根を張り、果実を実らせます。前向きな言葉を発すれば、人生はその方向に向かっていきます。同様に、後ろ向きの言葉はさえない人生へとつながります。勝利をつかみたいなら、敗北を口にしてはいけません。人は自らまいた種を収穫するのです。

 さらに、ジョエル・オスティーンの本に「口にジップをしなさい」というコラムがありました。ジップというのは、「チャックする」ということです。エレミヤが神さまから召されたとき、「私はまだ若くて、どう語ったら良いか分かりません」と答えました。すると主は彼に「まだ若い、と言うな」と言われました。主はエレミヤの否定的なことばを阻止しました。なぜでしょう?もし、エレミヤが「私は若いので、そんな資格がありません」と言うなら、エレミヤが言った通りなるからです。だから、主は「まだ若いと言うな」と口をふさがせたのです。私たちも否定的なことばが心によぎる時があります。「この病気はなおらない」「この借金は返せない」「この結婚はうまくいかない」「この仕事は失敗するだろう」。この世で生きているのですから、思いがよぎることはあるでしょう。でも、口を開いてことばに出すなら、そのようになります。だから、口にジップをしてぐっと留めるのです。そうすると、悪い思いは生まれないで、死んだままです。どうぞ、否定的なことばを吐いて、悪いことを誕生させないでください。なぜなら、ことばは種だからです。むしろ私たちは神さまの約束のことば、信仰のことばを口から出しましょう。そうするなら、神さまがその通りのものを生み出してくださいます。

ヨシュアたちがヨルダン川を渡って、最初の戦いはエリコを攻めることでした。エリコの城は頑丈で難攻不落に見えました。主はヨシュアに命じました。「あなたがた戦士たちはすべて町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七日目には七度回り、角笛をならさなければならない。その時まで、口からことばを出してはいけない」と命じました。もし、戦士たちが自由に口を開くなら、「ああ、なんと高い城壁なんだろう。絶対、無理だよな!」とつぶやくでしょう。そういうことばを吐くなら、神さまのみわざは起きません。そのため主は口を閉ざしたまま、だまって町を行進するように命じられたのです。沈黙は金です。金のときもあります。7日目の7週目、祭司たちが角笛を吹きました。兵士たちがときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちました。私たちが発することばには力があります。どうぞ否定的で破壊的なことばを発しませんように。私は若い、健康だ、長生きする。病は癒される。夢は叶う。ブレイクが起こると言いましょう。ことばは種です。悪いものを蒔かないで、良いものを蒔きましょう。神さまは私たちのことばを用いて、すばらしいことを成してくださいます。

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2017年2月17日 (金)

宗教からの解放 マタイ15:1-9 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.2.19

 世の中では、私たちのことも宗教と捉えているかもしれません。本日は、「どのような意味で、私たちの信仰は宗教でないのか」ということをお話ししたいと思います。弟子たちはイエス様とご一緒しながら、とても自由でありました。しかし、律法学者やパリサイ人が断食のこととか洗いの儀式でなんくせをつけています。イエス様は当時のユダヤ教に対して、とても批判的でした。では、いわゆる「宗教」にはどのような要素があるのでしょうか?そして、私たちは宗教にならないように、どのようなことに気をつけなければならないのでしょうか?宗教には3つの特徴(特色)があります。第一は儀式、第二は階級、第三は規則(きまりごと)です。

1.儀式

 宗教には必ず儀式というものがあります。マタイ152「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」私たちは、食事の前に手を洗いますが(洗わないときもありますが)、これはそういう意味ではありません。あるホームページにこのように書かれていました。それは儀式として、宗教上のいわゆる「お浄(きよ)め」であって、ユダヤ人の習慣でした。食事前の清めの洗いと言っても、きちんと石鹸で洗う訳ではありません。水をかけるだけでした。全くの儀式でした。当時は手をどのように洗うか決められていました。両手を上むきにして、指先から水を注ぎます。それが終わると今度は手を裏返しにして、手の甲を上にして指を下にして、そこに水を注ぎます。そこから片方の手をげんこつにして反対の手の水を拭います。指を使うとけがれるので、指を折ってげんこつにしました。以上ですが、日本人には「清めの塩」というものがあります。仏教式のお葬式に行きますと、お焼香の後、小さな袋が手渡されます。よく見ると、塩です。人の死に接する葬儀に出たので、塩で清めて下さいということです。昔からの宗教的しきたりです。不運を払い去ったり、幸運を呼び込むことは塩には出来ません。ですからクリスチャンはそのような儀式はしません。ユダヤ教の「食前の清めの洗い」も信仰とは相容れないもので、人間の作った教えでした。

 これに対して、イエス様は何とおっしゃっているでしょうか?マタイ511「口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」イエス様は私たちの心から出るものが、人を汚すのだとおっしゃっています。イエス様は常に本質的なことは何かを教えておられます。人間の肉は宗教、儀式的なものを求めます。たとえば神道などでは、「神事」といって、こまかい決まり事があるようです。内容がないものに限って、かたちにこだわります。結婚式や葬儀もそういう傾向があります。私は式文をできるだけ使わないようにしています。聖霊様が導くことば、聖霊様が導く祈りになるように心がけています。なぜなら、神さまは生きておられるので、「今、何を私たちに語ろうとしておられるのか」耳を傾ける必要があるからです。いくら文章が美しくても、神さまから出たものでなければいのちがありません。ローマ・カトリック教会や聖公会にはたくさんの儀式があり、宗教ぽくなっています。「それが良いんだ」という人たちもいるのですから、むやみに批判はできないと思います。私たちプロテスタント教会は聖餐式と洗礼式があります。やはり教団教派によってやり方が多少異なります。みんながそれぞれ「これが正統なんだ」と主張するかもしれません。でも、イエス様がなぜ、「そのようなことを行いなさいとおっしゃったのか」、その主旨にいつも帰る必要があります。かたちよりも精神であります。儀式的なものをできるだけ取り除いて、精神、心を大切にしたいと思います。

 では、なぜ宗教的な儀式が生まれたのでしょうか?また、すべての儀式は不要であり、罪なのでしょうか?旧約聖書の出エジプト記25章から31章まで、幕屋に関する規定が記されています。その中にはいけにえの捧げ方、祭司の任職やきよめについても書かれています。レビ記になりますともっと詳しく書かれています。でも、それらはすべてイエス・キリストの贖いについての予型です。不思議なことに幕屋をはじめいけにえに至るまで、すべてイエス・キリストのことを指示しています。そして、イエス・キリストがそれらすべてを成就したのです。旧約聖書においては聖なる神さまに近づくためにたくさんの規定がありました。しかし、キリストが贖いを成し遂げられてからは、信仰によって大胆に恵みの御座に近づくことができるようになりました。ただし、イエス様は「霊とまことによって父を礼拝する時が来る」(ヨハネ423)と言いました。霊というのは聖霊とも言えますし、新生した私たちの霊ともとれます。まこととは、私たちのまごころでありますが、キリストの真実ともとれます。私たちはいくら自分をきよめたとしても限界があります。救われた後も思いや行いによって罪を犯します。ですから、神に近づくためにはキリストの血による贖いがすべてであります。賛美を通してではありません。キリストの血であります。賛美や感謝はそのとき、たずさえていくものです。私たちはこのことを意識していくとき、すべての宗教的な儀式から解放されます。父なる神さまはキリストを通して、私たちを見てくださいます。だから、私たちはキリストにあって義であり、聖なのです。嘘やごまかしがあるとどうしても儀式にたよる傾向があります。私たちはたえず、キリストの血を仰ぎ、「霊とまことによって」父なる神さまを礼拝するのです。

2.階級

 マタイ151-2「そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。」このところに三種類の人たちが出てきます。パリサイ人、律法学者、そして長老たちです。彼らは全部、ユダヤ教徒なのですが、中にはサンヒドリン議員のメンバーもいました。特に「長老」という呼び名は旧約聖書の時からありました。長老という呼び名は、年齢よりも身分の高い指導者に使われます。長老は民の上に権力を行使し、日常の民事上、宗教上の事件を処理していたようです。新約のキリスト教会では、監督とならび、群れを指導しました。現在は、長老を置いている教会もありますが、そうでない教会もあります。イエス様の時代の長老たちは宗教的な権威をふりかざしていました。マタイ23章には彼らの偽善ぶりがしるされています。どの世界でもそうかもしれませんが、人は一度、権威や権力が与えられると堕落する傾向があります。就任した当初は民のため、人のためと自分を無にして励みます。ところが、いろんな利権によって惑わされます。最後には自分の懐を肥やすために、職権を乱用するようになります。当時の祭司長、律法学者、長老たちはイエス様がめざわりで大嫌いでした。なぜなら、自分たちの権威や権力が侵害される恐れがあるからです。パッションという映画を見たことがありますが、頭の上から足元まで特別な装いをしていました。彼らの顔はいかつくて、イエス様を十字架に渡すときは特にそうでした。

 キリスト教会の階級は、西暦313年、キリスト教が国教になってからだと思います。それまでは職務と呼ばれ、別に上下的な意味はありませんでした。聖職者の支配構造を「ヒエラルキー」と呼んだりします。ローマ・カトリック教会では教皇が一番上で、法王とも呼ばれています。その下には、枢機卿という教皇選挙に参加できる人たちがいます。さらにその下には司教、司祭、助祭と続くようです。いわゆる神父というのは、司祭です。プロテスタント教会では「牧師」にあたると言われますが、イコールではないと思います。なぜなら、牧師は神さまと仲介する者ではなく、イエス様に結びつかせるという働きがあるからです。マルチン・ルターは「万人祭司制」を唱え、「神さまの前には信徒も聖職者もない」と言いました。ですから、私は牧師は聖職者ではなく、教職者と言うようにしています。牧師や教師は身分というよりも、働きだからです。エペソ411-12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」と書かれています。これらは五職と呼ばれていますが、「階級」ではなく、職務であります。イエス様がご自身の教会を建てるために、召した人たちです。ですから、そこには神さまからの召命と賜物があります。ペテロはご自分の手紙でこのように言っています。「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」(Ⅰペテロ52-3)。

 イエスさまのもとにいた弟子たちはだれが一番偉いか争っていました。イエス様は彼らを呼び寄せてこのように言われました。マタイ2025-27「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」イエス様は指導者になること自体を否定しませんでした。しかし、それはこの世のやり方ではなく、まったく逆のやり方でした。みなに仕える者になること、しもべになることが、その道でした。1990年頃から、「教会成長」という考えがアメリカや韓国から入ってきました。日本でも「教会成長研究所」なるものが設置され、多くの牧師たちがそこで研修をうけました。私にも2000年頃、招待状が来ていましたが、クリスマスのどさくさで分からなくなり、気づいた時は締切が過ぎていました。チャンスを逸してからは、受けるのをやめました。でも、高砂教会の手束先生をお呼びして、「教会成長」について学んだことがありました。また、サラン教会やオンヌリ教会などから弟子訓練を通しての教会成長について学びました。そのとき、「日本の牧師には権威がないので、教会は成長しないんだ」という意見がよく飛び交いました。手束先生はある本の中で、「雑用は信徒に任せて牧師は祈りとみことばに専念すべきだ」とおっしゃっていました。その頃、私は会堂掃除をしたり、車で送り迎えをしていました。旧会堂の時から、植木の刈込み、看板、ペンキ塗り、印刷、音響、なんでもやっていました。ある時、礼拝堂で一人掃除機をかけているとき、「なんで牧師がこんなことを」と思ったとき、みじめな気持になりました。いわゆる雑用をしているとき、心に平安がありませんでした。しかし、ある時、イエス様の教えはこの世と逆なんだ、むしろ「教会成長の牧師像が間違っているんだ」と思いました。ちょうどそのころ、『サーバント・リーダーシップ』という本がベストセラーみたいになりました。私の賜物は説教だけではなく、体を動かすことも含まれていると悟ってから、ぜんぜん苦にならなくなりました。そして、「奉仕には雑用などというものはないんだ。キリストのからだなる教会においてはみんな尊いんだ」と悟りました。ひとり一人、神さまから与えれた賜物と召命に生きれば良いのです。かしらはイエス・キリストです。私たち一人ひとりはキリストのからだの器官です。みんなかしらに聞いて動けば良いのです。このように、からだなる教会を理解するとき、宗教的な階級意識から解放されます。

3.規則(きまりごと)

イエス様は3節でこのように言われました。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。」(マタイ153ユダヤ人たちは、律法の他にたくさんの言い伝えを守っていました。そして、人々にもそれらを守らせました。マタイ23章でイエス様なこのように言われました。「彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとしません」と言いました。「重い荷」というのは、ユダヤ教のさまざまな「きまりごと」ではないかと思います。イエス様は神の律法(トーラー)に対してはアーメンでした。でも、彼らの言い伝えには反対しました。当時の「言い伝え」というのは、ラビたちの律法の解釈や教えでした。ゲマラとミシュナを合わせたものをタルムードと言いますが、彼らはそれを神の律法と同じくらいの権威を与えていまさした。しかし、人間の教えですから、かたちばかりで精神を欠いたものになっていたことは確かです。福音書でたくさんの論争の記事がありますが、断食とか安息日、きよめの儀式のことが良く出てきます。その時、イエス様はいつも律法の精神(本質)を説いて、弟子たちや人々を解放しています。イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われました。重荷とは、ユダヤ教のたくさんのきまりごとでもあるのです。

 この世にはたくさんのきまりごとがあります。学校に行けば「廊下を走ってはいけない」とか、この世にはないきまりがたくさんあります。学校はある意味では特殊な社会なのかもしれません。しかし、最近は警察が入り込むようになりました。なぜでしょう?きまりの背後には陰湿ないじめがあるからです。人間はきまりを多くすればするほど、きまりに逆らいたくなるのです。パウロはそれを肉の働きと言っています。キリスト教会もきまりごとが好きです。求道者の時は何も言われなかったのに、洗礼を受けてからいろんな義務やきまりが与えられます。「信じるまでは恵みで、信じた後はそうではないのでしょうか?」それだったら詐欺であります。当教会では単立になったとき「亀有教会理念」を作りました。後半に「教会細則」というきまりみたいなことが書かれています。しかし、その中心は共同体という教会を守るための最低限度のきまりです。私はあえてきまりを多くしませんでした。なぜなら、肉を刺激して罪を助長してしまうからです。理念の最後にこのような文章を載せています。「この細則は、当教会の組織が円滑に運営されるために作られました。規則に縛られるのではなく、御霊の導きを求め、互いに関係を大切にしながら、問題を解決するように努めましょう。」マタイ18章には小さい者(弱い人)が罪を犯したときどのように対処すべきか記されています。「これは律法だ、これはきまりだ」と罪をさばいてはいけません。まず、二人だけのところで話し、その次はふたりか三人で、最後に教会に告げるという順番になっています。この世はいきなり、警察とか権力者に訴えます。アメリカは本来、聖書に根差したキリスト教の国家でした。しかし、今は互いに告訴し合っています。そして、銃を所持して自分を守ろうとしています。これは「殺してはならない」という戒めに反しています。

 イエス様はいつでも人を生かそうと努めました。姦淫の場で捕えられた女性をさばきませんでした。本来なら律法で石打ちの刑であります。彼女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」(ヨハネ811と言われました。」イエス様は彼女のしたことを罪であるとはっきり認めておられます。でも、ご自分が持っている権威をあわれみによって、彼女を赦してあげました。さまざまなきまりから解放される道とは何でしょう?それは赦しです。さばこうと思ったら、どんなことでもさばくことができます。ヤコブは「あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです」(ヤコブ213と言いました。なぜでしょう?人はさばかれると心に苦味を持ちます。たとえ自分が悪いことをしたと分かっても、です。頭ごなしにさばかれてしまうと怒りと憎しみが残ります。刑務所に囚われた犯罪者は、刑期を終えた後、再び罪を犯す確率が高いそうです。なぜでしょう?刑務所では人間扱いどころか、悔しい思いをたくさんさせられるからです。アメリカのある州で、再犯がぐっと減った刑務所があったそうです。それは神さまにある自分の価値を知り、小グループで互いに愛し合い、支え合うことを学んだからです。「一寸の虫にも五分の魂」というたとえがありますが、いくら罪を犯しても、その人の尊厳を奪ってはいけません。「罪を憎んで人を憎まず」ということを言っている割には、殺風景な世の中です。教会は神の国のモデル・ルームです。教会は十字架をかかげていますが、それはどういう意味でしょうか?イエス様が私たちの罪を負って、代わりに死んでくださったということです。そこには神の愛と赦しがアピールされています。自分の多大な罪が赦されているのに、すっかり忘れて、相手の小さな罪を赦せないのです。私たちは愛の赦しのメガネをかけて生活すべきであります。私などは車の運転をしていると、そのことを忘れて、横断歩道をのろのろ歩いている歩行者をなじったりしています。頭では分かっているつもりでも、まだまだ全身に行き渡っていないんだなーと思います。使徒パウロがガラテヤ書でこのように言っています。ガラテヤ31「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」キリストの十字架は救われるためだけではなく、救われた後も必要なんだと言うことが分かります。

 昨年末、大川牧師のピンチヒッターで説教したことがあります。広尾の21世紀教会です。30分位前に行って、場所を確かめ、その後コーヒー店で待とうと思いました。教会の近くまで行くと、向こうから大川牧師と奥様と運転の方が歩いてくるではありませんか?とにかく入ろうということで、教会の個室で大川先生とスタバーのコーヒーを飲みました。そのとき、昔の座間キリスト教会の頃の話題がでました。私が洗礼を受けた頃は最初のリバイバルだったそうです。看護学校からも多くの人たちが救われました。戦後、教会から離れていたおじいちゃんやおばあちゃんも転入会しました。私が洗礼を受けた1979年は52名の受洗者がいました。大川先生は「なぜ、人が増えたんだと思うのか」私に尋ねました。私は即座に、「教会に入るとさばかれているような気がしない。受け入れられているような気がするから」と答えました。まるでペテロが「あなたこそキリストです」と告白し、おほめのことばをいただいた時のようでした。「良く言った」とは言いませんでしたが、「そうだよなー」とニコニコして答えてくれました。あの当時、大川先生は聖霊の体験をなされヨハネ2章から「聖霊はおのが好むところを吹く」ということばを説教の中でよく語っておられました。「牧師は信徒をさばかない、信徒も牧師をさばかない、信徒同士もさばかない。聖霊は人格があるので、自分の好みがあるんだ。聖霊に好まれる教会を作ったなら、おのずと教会は成長する」とおっしゃっていました。私は1987年、当亀有教会から招聘を受けて来させていただきました。その時、私をスカウトした中心的長老さんがいました。山崎長老さんですが、「最初の説教でぜひ言ってもらいたいことがある」とお願いされました。それは大川牧師の「牧師は信徒をさばかない、信徒も牧師をさばかない、信徒同士もさばかない」でした。あとから気づいたのですが、山崎長老さんはだれよりも多く教会員をさばく人でした。でも、なぜ、山崎長老さんが何故、私にそのことを言わせたのでしょう?それは、頭では分かっているつもりでも、まだまだ全身に行き渡っていないと思っていたからでしょう。アーメンです。どうぞ、儀式や階級、きまりによって宗教的にならないようにしましょう。生けるキリストと共に歩み、互いに愛し、互い赦し合いましょう。

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2017年2月11日 (土)

嵐を静めたイエス マタイ14:22-33 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.2.12

 英語で奇跡をmiracle、あるいはsupernaturalと言ったりします。Supernaturalは超自然という意味であり、「自然を越えている」ということです。CSルイスは、「奇跡は自然法則の違反ではなく、高い法則による低い法則の一時的中断にほかならない」と言いました。イエス様は水の上を歩かれましたが、自然に反するものではなく、ご自身の法則によって、自然を越えたということです。昨年は野球で「神っている」という言葉がはやりました。きょうは、イエス様は私たちが持っている自然法則を超えた、神そのものであることを学びたいと思います。

1.権威あるイエス

 イエス様は教えに対して権威があるだけではありません。病や悪霊、そして自然界に対しても権威あるお方です。そのことは、マタイ8章、9章で既に学びました。一度、イエス様はガリラヤ湖の嵐を静めたことがありました。その時は、弟子たちは「いったいこの方はどういう方なのだろう」(マタイ827と驚きました。しかし、きょうのところでは弟子たちはイエス様を拝んで「確かにあなたは神の子です」と言いました。では、いったい前の奇蹟と今回とではどこが違うのでしょうか?まず、この奇跡の前に、何があったかと言うと、5つのパンと2匹の魚で男性だけでも5000人を養われました。人々は、「この方こそ来るべきメシヤではないか」と思いました。弟子たちも増えたパンと魚を配りながら、手が震えたと思います。この時は、まだ興奮も冷めやらぬ状態でありました。マタイ1422-23「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」イエス様は弟子たちをガリラヤ湖の向こう岸へ行かせるために舟に乗せました。そして、群衆を解散させて、ご自分は山に登られ、そこで祈っておられました。なぜなら、イエス様も弟子たちも休む間もなく働いていたからです。イエス様は、肉体をお持ちでしたので、疲れを覚えていたことでしょう。そして何よりも、父なる神さまと親しく交わる必要がありました。そうすることによって、霊的な力に満たされ、父なる神のみこころを知ることができたのだと思います。おそらく、イエス様は4時間位そういう時を持っていたことでしょう。でも、祈っているうちに、弟子たちの困難を超自然的に知ることができました。ご自身は山の上にいましたが、真っ暗な湖の真ん中で弟子たちが漕ぎ悩んでいる様子が見えました。

 マタイ1424-26「しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、『あれは幽霊だ』と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。」ガリラヤ湖は楕円形ですが、この時のコースは9キロくらいであり、おそらく弟子たちは岸から45キロ、ちょうど真ん中くらいだったと思います。出発したのが夜10時だと過程すると、今が夜中の3時ですから5時間も湖の上にいたということになります。帆船ですから強風にあおられ、もう体力的にも限界でした。そのとき、湖の上にうっすらと人影が見えました。何と、嵐の湖を人が歩いて、こちらに近づいて来るではありませんか。弟子たちは恐れ、「あれは幽霊だ」と叫び声を上げました。その当時、幽霊を見たなら、溺れ死ぬというジンクスがあったのでしょう。しかし、イエス様は彼らに「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない」と言われました。「私だ」と訳されている日本語は、ギリシャ語では「エゴゥ・エミー」となっています。これは、ご自分が神であると宣言している暗示的な表現です。この後、ペテロが水の上を何歩か歩いて、風を見ておぼれかけました。イエス様がペテロを助け上げました。イエス様とペテロが彼らの舟に乗り込むと風はやみました。マタイ1433「そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。この一連の出来事で、弟子たちのイエス様に対する見方が変わりました。イエス様は、前も嵐を静めてくださいましたが、今回は何が違うのでしょうか?何が弟子たちをして、イエス様を「あなたは神の子です」と礼拝させたのでしょうか?

 その第一は、イエス様が真っ暗な湖の上を道路でも歩くかのように、近づいて来られたということです。彼らのほとんどは漁師だったので、嵐の湖の怖さを知っていました。そして、人間は常識的に水の上を歩けないし、沈んで溺れると分かっていました。学校で理科を勉強しなくても、それくらいのことは分かっていました。ところが、このお方は液体の上を、道路の上を歩くように、湖の真ん中辺まで歩いて来られたのです。第二は、イエス様が嵐の中で難儀していた自分たちを遠くから知って、救うために来られたからです。ヨハネ621「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。」あれだけ苦労したのに、嵐が静まり、舟はほどなく目的地に着きました。この安堵はいかばかりだったでしょうか?聖歌472「人生の海の嵐にもまれきしこの身も、不思議なる神の手により、命びろいしぬ。いと静けき港に着き、我は今やすろう。救い主イエスの手にある身はいともやすし」であります。イエス様の場合は単なる奇跡ではなく、人を救うための超自然でありました。冒頭で申しあげた「超自然」であります。なぜ、イエス様は湖の上を歩き、そして嵐を静めることができたのでしょうか?それはご自分がこの世界を創造したからです。コロサイ116「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。…万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」アーメン。ご自分が造ったのですから、造られた物をいかようにもすることができるはずです。でも、神さまは秩序、つまり自然界の法則も同時に造られました。ですから、イエス様の奇蹟は、自然界の法則を壊さないで、それを越えるようなものでありました。おそらく、液体の分子をぎゅっと詰めて、固体にしたのだと思います。理性的に説明すると、かえっておかしくなります。

このところから、イエス様が自然界に対して権威がある神であることが分かります。その証拠に、弟子たちはイエス様を拝んで「確かにあなたは神の子です」と言いました。イエス様はそれを拒絶しませんでした。一連の出来事から、この奇跡はイエス様が神であることのしるし以外の何物でもないということです。もし、この聖書の記述が本当であったなら、私たちも弟子たちのように、イエス様を神として信じなければなりません。私たちの多くは、以前、イエス様を幽霊みたいな存在に思っていたのではないでしょうか?宗教とは「神がいれば良いなー」と思った人たちが勝手にこしらえたものである。イエス・キリストほど、世界の人々をだましたペテン師はいない。彼は宗教の天才であると思っていた人もいるでしょう。でも、どうやって救い主であり、神さまであるイエス・キリストを信じることができるのでしょうか?日本の場合はキリスト教の歴史も浅いし、聖書的な知識もありません。本当に無知と偏見の塊のような国民です。この日本でイエス様を信じて礼拝しているそのことが奇跡ではないでしょうか?では、イエス様はこの日本におられないのでしょうか?イエス様は全世界を作られたとき、この日本も造られ、同時に日本人も造られたと信じます。もちろん日本人は大陸やいろんな島から渡って来たと言われています。神の霊、聖霊は全世界を行き巡っておられます。日本に1億人以上住んでいますが、神さまは全部の人たちを見渡しておられます。黙示録にはいのちの書と他の書物があり、一人一人のことが記されていると書いてあります。

 2000年前、イエス様がガリラヤ湖の上を歩いて渡って、弟子たちを助けました。日本は四方海に囲まれています。しかし、復活し、キリストの御霊となられたイエス様は日本にも渡って来ておられると信じます。あなたが試しに「イエス様あなたが本当に神さまなら私を救ってください」と祈ったら分かります。そのため教会に来るのが一番ですが、教会に来なくても求めるならば近づいてこられます。幽霊ではありません。今も生きておられるイエス様があなたを救うために近づいてこられます。この間でクリスマスは終わりました。残念ながら、サンタクロースは実在していません。しかし、イエス様は今も生きておられ、最高のプレゼント、永遠のいのちを与えてくださいます。日本は偶像崇拝の国で、八百万の神がいると言われています。しかし、私は使徒ペテロのことばを信じます。使徒412「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」「天の下で」でありますから、日本もアメリカも中国も関係ありません。偉大な神さまから見たら、地球は「りんご」くらいの大きさではないかと思います。そこに日本の小さな島があるんです。「ふっ」と滅ぼすこともできれば、「ふっ」と救うこともできます。でも、神さまはキリストの十字架の贖いを信じる者だけを救おうと決意なされました。キリストの血以外に、私たちの罪を消し去ることができません。キリストの血は日本人すべての人のためにも流されました。日本人すべてが救いの候補者なのです。使徒パウロは「宣べ伝えない人がいないとどうして信じることができようか」と言いました。イエス・キリストは神であり、救い主です。このお方を信じる人が罪赦され、救われるのです。

2.権威を委譲されるイエス

 後半はペテロが湖の上を歩いたという奇跡について学びたいと思います。マタイ14 28-31「すると、ペテロが答えて言った。『主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。』イエスは『来なさい』と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください』と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』」驚くべことに、イエス様だけが水の上を歩いたのではありません。弟子のペテロも何歩かですが、水の上を歩きました。多くの人たちは、「ペテロは沈んだ、ペテロはおぼれた」と言いますが、ペテロは確かに水の上を歩いたのです。忍者は別として、ペテロの他に水の上を歩いた人はいないのではないかと思います。このところに、奇跡を与える信仰が記されています。だれもがイエス様のように水の上を歩けるわけではありません。しかし、どうしてペテロは水の上を歩くことができたのでしょうか?まず、ペテロは「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と願いました。ペテロはイエス様が「来い」と命じてくれるなら、自分はそこまで行けると信じていました。マタイ8章に百人隊長のしもべの癒しが記されています。百人隊長は「ことばの権威」ということを体験的に知っていました。だから、彼は「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります」と言ったのです。この時は、イエス様がわざわざ行かなくても、いやされました。イエス様がおことばを発したからです。この時も、イエス様はペテロに「来なさい」と言われました。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエス様の方に行ったのです。

 どうしてこのような奇跡が起こるのでしょうか?この学説に反対する人もいますが、あえて申し上げます。神のことばには、ロゴスとレーマがあります。ギリシャ語ではほとんど違いがありません。でも、イエス様はマタイ4章で「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」と言いました。この「神の口から出ることば」こそが、レーマであります。聖書のことばはロゴスです。聖書にはロゴスという神さまの一般的なみこころが記されています。しかし、私たちがこの聖書を読むとき、今の自分に神さまが語りかける時があります。それが神の口から出ることば、レーマであります。このレーマこそが、奇跡を生み出すのです。だから、私たちは神のみこころである聖書を読み、そこから生ける神のことばをいただく必要があるのです。このところでペテロはイエス様から「来い」というレーマを求めたのです。そこで、イエス様は「来なさい」というレーマをペテロに与えました。そのときペテロが水の上を歩きましたが、言い換えるとペテロはレーマの上を歩いたのです。ペテロは生ける神のことばを信じて水の上を歩きました。これが信仰です。このレーマがなければ、人は水の上を歩くことができません。韓国で実際あった話ですが、3人の少女が、氾濫した川の前まで来ました。対岸には青年大会の会場がありました。彼女らは「私たちが水の上を歩けない話ってあるかしら?だって、ペテロは水の上を歩いたし、ペテロの神さまは、私たちの神さま。ペテロのイエス様は私たちのイエス様。ペテロの信仰は私たちの信仰じゃないかしら?あのペテロだって信じたのだから、私たちも、もっと信じましょう。さあ、この川を渡りましょう!」水はあふれ、流れは激しかったのです。しかし、少女たちにひるむ様子はありません。三人は、まず共にひざまずくと、たがいの手をしっかり握りしめ、ペテロによる水上歩行の聖句を唱え始めました。そして、異口同音に、「あたしたち、信じます。ペテロのように信じます」と大声でわめき立てながら、川の中にジャブジャブ足を踏み入れたのです。ひとたまりもありません。激流の中に踏み入れるや、あっという間に足をさらわれ、三人もろとも川に飲み込まれてしまいました。翌日の新聞に、「何ゆえ神は、少女たちの信仰の祈りに答えてくれなかったのか」と書かれていたそうです。

 チョー・ヨンギ師が書かれた『第四次元』にこのように書かれています。若者たちは、事実、信じたのです。彼女らは、神のみことばに立って行動したのです。しかし、神は、彼らの信仰を擁護すべき理由を一つだに持ち合わせておられません。ペテロは、一般的神の知識を与えるロゴスのゆえに、水上を歩行したのではありません。ペテロは、特定のことばが与えられるようにと、キリストに願い求めているのです。「来なさい」と、キリストが与えたペテロに与えたことばは、ロゴスではなく、レーマでした。主は、特定のおことば「来なさい」を、特定の人「ペテロ」に、特定の状況「嵐の湖上」でお与えになられたのです。レーマは信仰を生み出します。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストのレーマによるのですペテロの水上歩行の奇跡は、神についての基本的な知識によりたのんだのではありません。ペテロはキリストのレーマを受けたのです。アーメン。ですから、私たちは神のことばである聖書を読んで、今、私に語っておられる神のことば、レーマを求めなければなりません。このレーマが与えられたら、神さまは確かに働いてくださるのです。こういうことを言うと、「チョー先生は韓国のペンテコステだから」と批判する人がいます。私は最初、日本ホーリネス教団の神学校で学びました。反カリスマで、そこは保守的な教団です。そこでは「みことば信仰」ということが盛んに言われていました。「何か重大な決断をする時はいつでも神さまからみことばをいたただかなければいけない」と教えられました。私は彼らが言う「みことば」こそが、チョー先生がおっしゃる「レーマ」なのではないかと思います。再臨が近い今の時代は、教団教派の教義の違いを言っている暇はありません。

 ペテロは水の上を数歩進みました。ところが途中で水の中に沈んでしまいました。なぜでしょう?マタイ14:30-31「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください』と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』」風は見えませんので、水しぶきを見て、イエス様から目をそらしたのかもしれません。ペテロは最初、イエス様のレーマの上を歩いていました。ところが、彼の理性が叫びだしたのです。風と波しぶきが顔に吹き付けました。そのとき、彼は「こんなことはありえない。人間が水の上を歩けるはずがない。これは何かの間違いだ」と疑いました。そのとき、ずぶずぶと体が水の中に沈みました。ペテロは「主よ。助けてください」と叫びました。イエス様はすぐに手を伸ばして、ペテロをつかみました。まるでイエス様は陸の上から、おぼれているペテロを助け上げたのです。イエス様は「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言いました。そうです。ペテロは途中、疑ったのです。日本語には「信仰の薄い」と書いてありますが、原文は「信仰が少ない」という意味です。英語の聖書では、little faithとなっています。このところから1つの法則、つまり信仰の法則を発見することができます。第一に物質の目に見える五感の世界があり、レーマという目に見えない霊の世界があります。第二は自然の法則と超自然があります。第三は理性と信仰があります。理性は神さまが私たちに与えてくれたすばらしい恩寵(恵み)です。動物と違うのは理性があるからだと学校で習いました。理性は18世紀、啓蒙主義思想とともに復活しました。この思想は、キリスト教的世界観や封建的思想を批判し、人間性の解放を目ざす思想であります。欠点は人間の理性で認められないものをすべて排除するというものです。科学的で合理的なものだけを受け入れましたが、霊的存在や神の超自然的な働きを受け入れませんでした。

私たちクリスチャンは理性も必要ですが、同時に目に見えないところで神さまが働いてくださるということを信じなければなりません。ペテロは五感と理性によって、レーマを疑いました。同時に、イエス様から目をそらし、信仰が破たんしました。それで沈んだのです。では、どうしたら湖に沈まない信仰を持つことができるのでしょうか?これは私たちの信仰というよりは、神さまからいただいた信仰であります。なぜなら、レーマは生ける神さまから今の私にかたられたことばだからです。私たちはそのみことば、レーマを握って離さないことが重要です。そして信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さないということです。五感と理性が「現実的に不可能だ」と叫んでも、耳を傾けないことです。世の人々だけではなく、クリスチャンも「現実的に不可能だ」と言うかもしれません。でも、その時は、人の声に耳を傾けてはいけません。「信じ続ける」ということは、ある時は人から笑われ、馬鹿にされることもあるからです。アブラハムが100歳でサラが90歳のとき、イサクが生まれました。人々は頭がおかしくなったと笑ったでしょう?実際、サラ自身も笑いました。でも、神さまの信仰の方が大きかったのです。イエス様が自然を支配し、水の上を歩けることは、クリスチャンであるならだれも疑わないでしょう。しかし、イエス様はペテロに水を歩けるように権威を委譲されました。委譲ということばは、empoweringで「…に権能(権限)を与える」「…に能力(資格)を与える」という意味です。つまり、イエス様は今日の私たちに、ご自分がなされたようなことをするように権威を委譲するということです。これが神からの信仰です。私たちはペテロのように大胆な信仰を持つべきです。たとえ、途中で疑って沈むような時があっても、イエス様が手を差し伸べて引き揚げて下さいます。ペテロのように大胆な信仰を持ちましょう。イエスさまにレーマ、おことばを求めましょう。

 

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2017年2月 4日 (土)

5つのパンと2匹の魚 マタイ14:13-21 亀有教会牧師鈴木靖尋

 5000人の給食の奇跡は4つの福音書全部に載っています。ということは、これこそが、人々が最も驚いた奇蹟だということです。なぜなら、今日の私たちと同じように、当時の人たちも経済的な問題をかかえていたからです。人々は経済の問題を解決してくれるメシヤを待っていたので、よっぽど感激したのでしょう。しかし、この奇跡の中にはいくつかの大切なメッセージが込められていることを忘れてはいけません。

1.奇跡の動機

 イエス様は公生涯の直前、悪魔から3つの試みを受けました。その筆頭が「もし、あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」でした。イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる、と書いてある」と答えて誘惑を退けました。つまり、人は肉体的なパンも必要だけど、その前に神のことば、霊的食物が必要だということです。悪魔は経済的な救いを与えるメシヤを提示しました。なぜなら、当時のイスラエルはローマとの戦争に敗れ、税金を負わされていたからです。では、なぜ、ここでイエス様はわずかなパンで多くの人たちを奇跡的に養われたのでしょう?きょうの箇所に、イエス様の奇跡の動機が記されています。マタイ1414「イエスは舟から上がると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。」「深くあわれむ」は、もともと、いけにえの内臓を食べるということばから来ています。それが、「可哀そうに思う」「あわれむ」という意味に変化しました。マタイ15章には4000人の給食が記されていますが、その時、イエス様は弟子たちにこのように言われました。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」(マタイ1532)。おそらく、このときも、人々は食べることを忘れるくらいイエス様のお話しに聞き入っていたのでしょう?「かわいそうに」という思いでパンを増やしました。もし、私の説教が、お昼の12時過ぎるならどうなるでしょう?親切な人たちが「もう時間ですよ」と腕時計を指さすのではないでしょうか?もし、リバイバルが来るなら、礼拝中に、病の癒しも続々起こり、定時を過ぎるかもしれません。その時は、聖霊様のご指示に従ってください。

 イエス様の心はあわれみに満ちていましたが、弟子たちはどうだったでしょうか?「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」(マタイ1415「寂しい所」は、砂漠ということばで、人々が全く住んでいない荒野であります。イエス様と反対に弟子たちはとても事務的です。「もう時間なので集会は終わりにします。どうぞお帰りになって、食事をご自分で済ませて下さい。では、さようなら」。つまり、「霊的な食物は与えるけれど、肉体の食物までは面倒みられません。自分のことは自分で」ということです。もっともな理由です。これに対して、イエス様は「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と言われました。他の福音書では、弟子たちが「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」(マルコ637と答えています。男性だけで5,000人、女性や子どもを入れたら、おそらく10,000人はいたのではないかと思います。1デナリが現在で1万円だとすると、200デナリは200万円です。人数で割ると、一人当たり200円分のパンになります。アンパン2つしか買えないので、満腹にはなりません。弟子たちはとても理性的であり、正確に計算しました。しかし、イエス様はそういうことを弟子たちに願われたのではありません。「あなたがたの手によって、人々に食べ物を与えなさい」ということなのです。おそらく、弟子たちはイエス様のおっしゃることが分からなかったと思います。弟子たちは人々に呼びかけた後、「ここにはパンが5つと魚が2匹より他はありません」と答えました。ヨハネ6章には「しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」と書いてあります。私たちは弟子たちのことをとやかく言える立場ではありません。月末の給料日前、同じようなことをつぶやいているかもしれません。家族4人、1,000円で何が買えるのでしょう?私はそう思いたくないので、クレジットで買い物をしています。でも、1か月先にドカンとまとめて支払が来ます。

 弟子たちの考えはとても現実的で理性的です。10,000人以上の人たちにどうして、食事を与えなければならないのだろう?自分たちのことは自分たちでやれば良いのではないだろうか?そのように考えるのは当然かもしれません。もし、今日の教会で同じことを言われた場合はどうするでしょうか?ある教会では「炊き出し」と言って、ホームレスの人たちに食事を差し上げています。それも尊い奉仕だと思いますが、どの教会も同じ重荷があるわけではありません。もしこれを、必要を覚えている人たちの生活の面倒を見るということになるともっと適用可能になるかもしれません。イエス様がおっしゃっていることはどういう意味なのでしょうか?困っている人たちを助けることは良いことだと思います。でも、「やってあげている」とか「恵んでやっている」みたいな姿勢だとどうなるでしょうか?外側から見れば、尊い奉仕かもしれませんが、上から目線で、受ける人たちは卑屈になるかもしれせん。病の癒しや必要を覚えている人たちへの施しに最も重要な動機とは何でしょうか?それは、イエス様が持っておられた「深いあわれみ、同情心」ではないでしょうか?同情心は英語でcompassion 「共に苦しむ」という意味があります。もちろん、私たちは現実的で理性的な面も必要です。お金、人数、自分ができることとできないこと、その人がやるべき責任などをないがしろにはできません。でも、奉仕や施しをしている人の精神が問題であります。頭はクールであっても、心はホットでなければなりません。パウロはローマ12章でこのように言いました。「慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。愛には偽りがあってはなりません。喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」まず、私たちはイエス様からはじめにあわれみをいただいた存在であることを忘れてはならないと思います。

2.奇跡の順番

 弟子たちはどのようにして10,000人の人たちを養ったのでしょうか?確かに、イエス様が「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」と言われたことが実行できました。このところに、私たちが人々に仕え、また与えるための正しい順番が記されています。マタイ14:18-19 「すると、イエスは言われた。『それを、ここに持って来なさい。』そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。」だれが、最初に奇跡を行ったのでしょうか?イエス様です。イエス様は5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福しました。そして、そのパンを裂きました。イエス様は5つのパンをまとめて、裂いたのでしょうか?同時に5つは不可能ですから、1個ずつかもしれません。どのように増えたのかその状況をビデオがあったら、ぜひ、見たいものであります。あれよ、あれよという間に50,000万個くらいになったのではないでしょうか?なぜなら、5つのパンは少年一人分の弁当だったからです。2匹の魚はおそらく干物であり、これも1万人が食べられるくらいに増えたので、20,000匹位でしょうか?でも、どのように増えたのかが分かりません。私が映画で見たそのときのシーンは、イエス様がお祈りしたときにいくつかに増えました。弟子たちがイエス様からそれを受け取り、人々に渡す時も増えたという記憶があります。つまり、祈って増えたパンを12弟子それぞれに渡しました。それを持った弟子たちが人々に渡す時、また増えたということです。簡単に言うと2段階で増えたということです。イエス様が増やし、さらに弟子たちがそれを増やしたということです。そうでないと、50,000個のパンにはなりません。

 マルコ福音書には、イエス様が弟子たちに命じたので、「百人、五十人と固まって席に着いた」と書いてあります。ですから、混乱なく、群衆に配ることができたのではないかと思います。私は百人、五十人が1教会の会衆の数のように思えてなりません。聖書にコリント教会が出てきますが、それはコリント1教会のことではなく、コリントという町にあるいくつかの教会をさしています。エペソ教会といっても、エペソの町にそれくらいのサイズの教会が、たくさんあったと思います。もちろん、アメリカにあるような1万人教会でも構いませんが、百人とか五十人の、会衆の塊は必要ではないかと思います。そうでないと、牧会が行き届きません。それはともかく、ここで言わんとしていることは、イエス様が奇跡の最初であります。イエス様が奇跡を起こしてくださる神さまだということです。では、弟子たちの役目とは何なのでしょうか?イエス様から受けた奇蹟を人々に届ける役目があります。いわば、奇蹟の管、チャンネルであります。聖歌に「私を通り良き管として用いてください」という賛美があります。でも、それだけではありません。弟子たちもイエス様と同じ奇跡を行なったということです。そうでないと、この奇跡の意味がありません。なぜなら、イエス様は最初に「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」と言われたからです。イエス様はヨハネ14章で「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」と言われました。私たちはこのことばを額面通りとるべきであります。つまり、イエス様のような奇跡を行なうことができるということです。でも、どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?イエス様が父のもとに行ったから可能になったのです。イエス様が父のみもとから、聖霊をお与えになりました。ペンテコステの日、そのことが実現し、それ以来、イエス様を信じるすべての人の内側に聖霊がお住みになっておられます。この聖霊は以前、イエス様の中におられた、同じ聖霊です。だから、聖霊をキリストの御霊とも呼んでいます。結論的に言うと、私たちの中におられる聖霊がイエス様と同じことをなさるということです。アーメン、ハレルヤ!パウロは「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ127と言いました。

 奇跡だけではなく、これは私たちが行う奉仕すべてのことに共通していることです。私の中にいらっしゃる聖霊が現れてくださるように期待するということです。言い換えると、私たちが聖霊の器として、神さまに差し出すことが重要だということです。そのとき、私たちが何もしないで、良いということではありません。私たちの賛美、私たちのことば、私たちの手のわざ、私たちの知性…それらを通して、聖霊が働いてくださるということです。そこに聖霊が参与され、神さまにしかできないわざをしてくださるということです。その結果、人々が感動したり、喜んだり、神さまをあがめたりするということです。たとえば、私は子どもの時から、落ち着きがなくて学校の先生からよく叱られました。先生の話をじっとして聞くことができず、私語というかおしゃべりをするからです。今、名前を付けると、「多動多言多感症候群」であります。多動多言は分かるにしても、多感とは泣いたり怒ったり感情的になるということです。でも、神さまは私を牧師に召し、説教者にしてくださいました。説教者ですから、しゃべることが商売です。賛美をする人はぜひ、「私の歌を通してキリストが現れるように」と聖霊に期待してください。保育園の先生も「私を通して神の愛が現れるように」と聖霊に願ってください。ビジネスをしている人は「私を通してキリストの知恵と豊かさが現れるように」と聖霊に願ってください。神さまも聖霊様も霊です。霊は肉体がありませんので、私たちの声、私たちの手足が必要なのです。聖霊様は私たちの中に住んでおられ、神さまの力と愛と恵みを現してくださいます。

 私たちはこのところから奇跡の順番を覚えなければなりません。まずパンを奇跡的に増やすお方はイエス様です。イエス様はご自分を「いのちのパンです」とヨハネ6章でおっしゃいました。では、そのいのちのパンを配るのはだれでしょうか?それは弟子である私たちです。でも、パンを配る時にも奇跡的に増えるということを信じる必要があります。それは、今もイエス様が私たちを通して奇跡を起こしうるお方だということです。なぜなら、イエス様が聖霊として私たちの中に住んでおられるからです。私たちは人を生かすことのできる、いのちのパンが宿っているのです。いのちのパンは私たちを通して、増えていくのです。

3.奇跡の種

 イエス様は神さまですから無から有を生み出すこともできました。ところがイエス様はあえて、5つのパンと2匹の魚を増やして、10,000人の人たちを奇跡的に養いました。イエス様の奇蹟は単なる奇跡ではなく、そこにはメッセージが隠されています。どんなメッセージでしょうか?ヨハネ6章を少し引用したいと思います。ヨハネ69「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」これはアンデレが言ったことばです。おそらくアンデレが群衆の中から、少年が持っているお弁当を見つけたのでしょう。イエス様はどう答えたでしょうか?「最もだなー、こんな少量じゃどうにもならないよなー」と同情したでしょうか?確かに、目の前には10,000人の群衆がいます。イエス様は現実を否定しませんでしたが、現実を超える信仰を持っていました。マタイ1418-19「すると、イエスは言われた。『それを、ここに持って来なさい。』そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。」なんと、イエス様はパンが増える前に、混乱が起きないように百人、五十人と固まって座らせました」(マルコ640)。「そこで座って待っているように」ということです。その後、イエス様は5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福しました。天を見上げるとは、父なる神さまを見上げるということです。それらを祝福したら、パンと魚が奇跡的に増えたのです。でも、イエス様は子どもが持っていた、5つのパンと2匹の魚を元手にしたのです。子どもが「いやだよ。僕のものだよ」と断ったら、この奇跡は起こらなかったかもしれせん。奇跡の種とは何でしょうか?それは子どもがささげた5つのパンと2匹の魚です。本当にわずかなものです。

 私たちは、目の前の物を見て、弟子たちのように「こんなものが果たして何になるでしょう」と言いがちではないでしょうか。そして、「5つのパンと2匹の魚しかない」と否定的になってしまうのです。悪いところだけ、足りない所だけが良く見えるのです。しかし、「5つのパンと2匹の魚がある」いや、「パンが5つ、魚が2もある」と肯定的に考えることができたならなんと幸いでしょうか。もう天に召されましたが田原米子さんは、高校生とき、生きることの意味がわからなくなりました。五体満足でも生きる気がしなかったのに、自殺後に残ったのは、右手に3本しか指が残っていませんでした。両足も左腕もありません。彼女は、今度こそ、死のうと睡眠薬をためました。そのとき、宣教師が尋ねて来られ、福音を聞いて、だまされたつもりで「神様信じます」と言ったのです。そして次の朝、目がさめて、聖書を自分で開いてみました。何げなくめくって、一番先に目に飛び込んできた箇所が、Ⅱコリント5:17です。「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」そして、いままで見るのもイヤだった右手の包帯をとりました。そのとき、思ったそうです。「私には指が3本もある。まだ、3本も残っている」と。それまでは、失った物ばかり数えて「あれがない」「…しかない」の人生でしたが、キリストに出会ってから「…がある、…もある」という肯定的人生に変えられたのです。

第三のポイントは、「主がわずかなものを、とるに足りないものを用いられる」ということです。さきほども申しあげましたが、神様は無から有を生じさせることもできるのですが、あえて「5つのパンと2匹の魚」を用いられました。それは、私たちが神様に差し出すものが、たとえ、わずかであっても、主はそれを幾倍にも祝福して用いるということです。私たちが差し出す献げもの、奉仕、あるいは証しこれが主の手に握り締められるなら、大きなわざを成すことができます。問題は、主の手に握りしめられること、そして、パンが裂かれたように、主のなすままになるということです。持っているものを差し出すのも信仰がいります。しかし、捧げたにも関わらず、自分のやり方でなければイヤだと注文つける人がいます。これだと、ささげた量のわりには、実が残りません。イザヤ書では主は陶器師で、私たちは粘土にたとえられています。粘土は練られて、形を整えられます。あるものは聖いものに、またある物は俗的なことに用いられます。同じ粘土でも片や何十万円もするような茶器に、しかし、一方は啖壺とか便器になったりするかもしれません。「主よ、そういうのはイヤです。せっかく捧げたのに、それでは、私のプライドが許しません」。主は「ああそうですか、それでは仕方がありませんね」とそれを砕いて壊してしまいます。私たちは文句は言えません。ただ願うことは主の栄光が現われることです。そのような神様の主権を認めて、一生懸命ささげたものであるならば、たとえわずかなものであっても、豊かな祝福の基となるのです。5つのパンと2匹の魚は、少年が差し出した弁当でした。パンと言っても大麦のパン、魚と言ってもホッケの紐のだったかもしれません。たいしたことないものです。そのような粗末なものも主は握りしめて用いて下さるのです。その少年がこれは私のものだとしまっておいたら、自分一人分だけの弁当になります。それは少年の権利ですから、だれからも文句は言われないでしょう。でも、この少年は大切な5つのパンと2匹の魚をイエス様のためにささげました。弟子たちは「こんなものが果たして何になるでしょう」と思ったかもしれません。しかし、イエス様はそうではありません。5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられました。なんと、5つのパンと2匹の魚が10,000人もの人たちを養えるくらい増えたのであります。おそらく、この少年は自分が差し出した以上のパンと魚を食べられたことでしょう。自分も満腹し、他の人たちからも喜ばれました。少年は家に帰ってお母さんに自慢して、この奇跡を報告したのではないでしょうか。お母さんは「私があげた5つのパンと2匹の魚がそんなふうに用いられるなんて」とまた感激したのではないでしょうか。普通、捧げたり与えると無くなるものですが、イエス様の場合はそうでありません。イエス様が手をとって祝福すると、自分も満足し、身近な人も満足し、また多くの人たちも満足させることができる奇跡となるのです。どうぞ、イエス様の奇跡を何度も何度も体験する信仰生活を送りたいと思います。  

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