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2017年2月 4日 (土)

5つのパンと2匹の魚 マタイ14:13-21 亀有教会牧師鈴木靖尋

 5000人の給食の奇跡は4つの福音書全部に載っています。ということは、これこそが、人々が最も驚いた奇蹟だということです。なぜなら、今日の私たちと同じように、当時の人たちも経済的な問題をかかえていたからです。人々は経済の問題を解決してくれるメシヤを待っていたので、よっぽど感激したのでしょう。しかし、この奇跡の中にはいくつかの大切なメッセージが込められていることを忘れてはいけません。

1.奇跡の動機

 イエス様は公生涯の直前、悪魔から3つの試みを受けました。その筆頭が「もし、あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」でした。イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる、と書いてある」と答えて誘惑を退けました。つまり、人は肉体的なパンも必要だけど、その前に神のことば、霊的食物が必要だということです。悪魔は経済的な救いを与えるメシヤを提示しました。なぜなら、当時のイスラエルはローマとの戦争に敗れ、税金を負わされていたからです。では、なぜ、ここでイエス様はわずかなパンで多くの人たちを奇跡的に養われたのでしょう?きょうの箇所に、イエス様の奇跡の動機が記されています。マタイ1414「イエスは舟から上がると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。」「深くあわれむ」は、もともと、いけにえの内臓を食べるということばから来ています。それが、「可哀そうに思う」「あわれむ」という意味に変化しました。マタイ15章には4000人の給食が記されていますが、その時、イエス様は弟子たちにこのように言われました。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」(マタイ1532)。おそらく、このときも、人々は食べることを忘れるくらいイエス様のお話しに聞き入っていたのでしょう?「かわいそうに」という思いでパンを増やしました。もし、私の説教が、お昼の12時過ぎるならどうなるでしょう?親切な人たちが「もう時間ですよ」と腕時計を指さすのではないでしょうか?もし、リバイバルが来るなら、礼拝中に、病の癒しも続々起こり、定時を過ぎるかもしれません。その時は、聖霊様のご指示に従ってください。

 イエス様の心はあわれみに満ちていましたが、弟子たちはどうだったでしょうか?「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」(マタイ1415「寂しい所」は、砂漠ということばで、人々が全く住んでいない荒野であります。イエス様と反対に弟子たちはとても事務的です。「もう時間なので集会は終わりにします。どうぞお帰りになって、食事をご自分で済ませて下さい。では、さようなら」。つまり、「霊的な食物は与えるけれど、肉体の食物までは面倒みられません。自分のことは自分で」ということです。もっともな理由です。これに対して、イエス様は「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と言われました。他の福音書では、弟子たちが「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」(マルコ637と答えています。男性だけで5,000人、女性や子どもを入れたら、おそらく10,000人はいたのではないかと思います。1デナリが現在で1万円だとすると、200デナリは200万円です。人数で割ると、一人当たり200円分のパンになります。アンパン2つしか買えないので、満腹にはなりません。弟子たちはとても理性的であり、正確に計算しました。しかし、イエス様はそういうことを弟子たちに願われたのではありません。「あなたがたの手によって、人々に食べ物を与えなさい」ということなのです。おそらく、弟子たちはイエス様のおっしゃることが分からなかったと思います。弟子たちは人々に呼びかけた後、「ここにはパンが5つと魚が2匹より他はありません」と答えました。ヨハネ6章には「しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」と書いてあります。私たちは弟子たちのことをとやかく言える立場ではありません。月末の給料日前、同じようなことをつぶやいているかもしれません。家族4人、1,000円で何が買えるのでしょう?私はそう思いたくないので、クレジットで買い物をしています。でも、1か月先にドカンとまとめて支払が来ます。

 弟子たちの考えはとても現実的で理性的です。10,000人以上の人たちにどうして、食事を与えなければならないのだろう?自分たちのことは自分たちでやれば良いのではないだろうか?そのように考えるのは当然かもしれません。もし、今日の教会で同じことを言われた場合はどうするでしょうか?ある教会では「炊き出し」と言って、ホームレスの人たちに食事を差し上げています。それも尊い奉仕だと思いますが、どの教会も同じ重荷があるわけではありません。もしこれを、必要を覚えている人たちの生活の面倒を見るということになるともっと適用可能になるかもしれません。イエス様がおっしゃっていることはどういう意味なのでしょうか?困っている人たちを助けることは良いことだと思います。でも、「やってあげている」とか「恵んでやっている」みたいな姿勢だとどうなるでしょうか?外側から見れば、尊い奉仕かもしれませんが、上から目線で、受ける人たちは卑屈になるかもしれせん。病の癒しや必要を覚えている人たちへの施しに最も重要な動機とは何でしょうか?それは、イエス様が持っておられた「深いあわれみ、同情心」ではないでしょうか?同情心は英語でcompassion 「共に苦しむ」という意味があります。もちろん、私たちは現実的で理性的な面も必要です。お金、人数、自分ができることとできないこと、その人がやるべき責任などをないがしろにはできません。でも、奉仕や施しをしている人の精神が問題であります。頭はクールであっても、心はホットでなければなりません。パウロはローマ12章でこのように言いました。「慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。愛には偽りがあってはなりません。喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」まず、私たちはイエス様からはじめにあわれみをいただいた存在であることを忘れてはならないと思います。

2.奇跡の順番

 弟子たちはどのようにして10,000人の人たちを養ったのでしょうか?確かに、イエス様が「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」と言われたことが実行できました。このところに、私たちが人々に仕え、また与えるための正しい順番が記されています。マタイ14:18-19 「すると、イエスは言われた。『それを、ここに持って来なさい。』そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。」だれが、最初に奇跡を行ったのでしょうか?イエス様です。イエス様は5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福しました。そして、そのパンを裂きました。イエス様は5つのパンをまとめて、裂いたのでしょうか?同時に5つは不可能ですから、1個ずつかもしれません。どのように増えたのかその状況をビデオがあったら、ぜひ、見たいものであります。あれよ、あれよという間に50,000万個くらいになったのではないでしょうか?なぜなら、5つのパンは少年一人分の弁当だったからです。2匹の魚はおそらく干物であり、これも1万人が食べられるくらいに増えたので、20,000匹位でしょうか?でも、どのように増えたのかが分かりません。私が映画で見たそのときのシーンは、イエス様がお祈りしたときにいくつかに増えました。弟子たちがイエス様からそれを受け取り、人々に渡す時も増えたという記憶があります。つまり、祈って増えたパンを12弟子それぞれに渡しました。それを持った弟子たちが人々に渡す時、また増えたということです。簡単に言うと2段階で増えたということです。イエス様が増やし、さらに弟子たちがそれを増やしたということです。そうでないと、50,000個のパンにはなりません。

 マルコ福音書には、イエス様が弟子たちに命じたので、「百人、五十人と固まって席に着いた」と書いてあります。ですから、混乱なく、群衆に配ることができたのではないかと思います。私は百人、五十人が1教会の会衆の数のように思えてなりません。聖書にコリント教会が出てきますが、それはコリント1教会のことではなく、コリントという町にあるいくつかの教会をさしています。エペソ教会といっても、エペソの町にそれくらいのサイズの教会が、たくさんあったと思います。もちろん、アメリカにあるような1万人教会でも構いませんが、百人とか五十人の、会衆の塊は必要ではないかと思います。そうでないと、牧会が行き届きません。それはともかく、ここで言わんとしていることは、イエス様が奇跡の最初であります。イエス様が奇跡を起こしてくださる神さまだということです。では、弟子たちの役目とは何なのでしょうか?イエス様から受けた奇蹟を人々に届ける役目があります。いわば、奇蹟の管、チャンネルであります。聖歌に「私を通り良き管として用いてください」という賛美があります。でも、それだけではありません。弟子たちもイエス様と同じ奇跡を行なったということです。そうでないと、この奇跡の意味がありません。なぜなら、イエス様は最初に「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」と言われたからです。イエス様はヨハネ14章で「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」と言われました。私たちはこのことばを額面通りとるべきであります。つまり、イエス様のような奇跡を行なうことができるということです。でも、どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?イエス様が父のもとに行ったから可能になったのです。イエス様が父のみもとから、聖霊をお与えになりました。ペンテコステの日、そのことが実現し、それ以来、イエス様を信じるすべての人の内側に聖霊がお住みになっておられます。この聖霊は以前、イエス様の中におられた、同じ聖霊です。だから、聖霊をキリストの御霊とも呼んでいます。結論的に言うと、私たちの中におられる聖霊がイエス様と同じことをなさるということです。アーメン、ハレルヤ!パウロは「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ127と言いました。

 奇跡だけではなく、これは私たちが行う奉仕すべてのことに共通していることです。私の中にいらっしゃる聖霊が現れてくださるように期待するということです。言い換えると、私たちが聖霊の器として、神さまに差し出すことが重要だということです。そのとき、私たちが何もしないで、良いということではありません。私たちの賛美、私たちのことば、私たちの手のわざ、私たちの知性…それらを通して、聖霊が働いてくださるということです。そこに聖霊が参与され、神さまにしかできないわざをしてくださるということです。その結果、人々が感動したり、喜んだり、神さまをあがめたりするということです。たとえば、私は子どもの時から、落ち着きがなくて学校の先生からよく叱られました。先生の話をじっとして聞くことができず、私語というかおしゃべりをするからです。今、名前を付けると、「多動多言多感症候群」であります。多動多言は分かるにしても、多感とは泣いたり怒ったり感情的になるということです。でも、神さまは私を牧師に召し、説教者にしてくださいました。説教者ですから、しゃべることが商売です。賛美をする人はぜひ、「私の歌を通してキリストが現れるように」と聖霊に期待してください。保育園の先生も「私を通して神の愛が現れるように」と聖霊に願ってください。ビジネスをしている人は「私を通してキリストの知恵と豊かさが現れるように」と聖霊に願ってください。神さまも聖霊様も霊です。霊は肉体がありませんので、私たちの声、私たちの手足が必要なのです。聖霊様は私たちの中に住んでおられ、神さまの力と愛と恵みを現してくださいます。

 私たちはこのところから奇跡の順番を覚えなければなりません。まずパンを奇跡的に増やすお方はイエス様です。イエス様はご自分を「いのちのパンです」とヨハネ6章でおっしゃいました。では、そのいのちのパンを配るのはだれでしょうか?それは弟子である私たちです。でも、パンを配る時にも奇跡的に増えるということを信じる必要があります。それは、今もイエス様が私たちを通して奇跡を起こしうるお方だということです。なぜなら、イエス様が聖霊として私たちの中に住んでおられるからです。私たちは人を生かすことのできる、いのちのパンが宿っているのです。いのちのパンは私たちを通して、増えていくのです。

3.奇跡の種

 イエス様は神さまですから無から有を生み出すこともできました。ところがイエス様はあえて、5つのパンと2匹の魚を増やして、10,000人の人たちを奇跡的に養いました。イエス様の奇蹟は単なる奇跡ではなく、そこにはメッセージが隠されています。どんなメッセージでしょうか?ヨハネ6章を少し引用したいと思います。ヨハネ69「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」これはアンデレが言ったことばです。おそらくアンデレが群衆の中から、少年が持っているお弁当を見つけたのでしょう。イエス様はどう答えたでしょうか?「最もだなー、こんな少量じゃどうにもならないよなー」と同情したでしょうか?確かに、目の前には10,000人の群衆がいます。イエス様は現実を否定しませんでしたが、現実を超える信仰を持っていました。マタイ1418-19「すると、イエスは言われた。『それを、ここに持って来なさい。』そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。」なんと、イエス様はパンが増える前に、混乱が起きないように百人、五十人と固まって座らせました」(マルコ640)。「そこで座って待っているように」ということです。その後、イエス様は5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福しました。天を見上げるとは、父なる神さまを見上げるということです。それらを祝福したら、パンと魚が奇跡的に増えたのです。でも、イエス様は子どもが持っていた、5つのパンと2匹の魚を元手にしたのです。子どもが「いやだよ。僕のものだよ」と断ったら、この奇跡は起こらなかったかもしれせん。奇跡の種とは何でしょうか?それは子どもがささげた5つのパンと2匹の魚です。本当にわずかなものです。

 私たちは、目の前の物を見て、弟子たちのように「こんなものが果たして何になるでしょう」と言いがちではないでしょうか。そして、「5つのパンと2匹の魚しかない」と否定的になってしまうのです。悪いところだけ、足りない所だけが良く見えるのです。しかし、「5つのパンと2匹の魚がある」いや、「パンが5つ、魚が2もある」と肯定的に考えることができたならなんと幸いでしょうか。もう天に召されましたが田原米子さんは、高校生とき、生きることの意味がわからなくなりました。五体満足でも生きる気がしなかったのに、自殺後に残ったのは、右手に3本しか指が残っていませんでした。両足も左腕もありません。彼女は、今度こそ、死のうと睡眠薬をためました。そのとき、宣教師が尋ねて来られ、福音を聞いて、だまされたつもりで「神様信じます」と言ったのです。そして次の朝、目がさめて、聖書を自分で開いてみました。何げなくめくって、一番先に目に飛び込んできた箇所が、Ⅱコリント5:17です。「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」そして、いままで見るのもイヤだった右手の包帯をとりました。そのとき、思ったそうです。「私には指が3本もある。まだ、3本も残っている」と。それまでは、失った物ばかり数えて「あれがない」「…しかない」の人生でしたが、キリストに出会ってから「…がある、…もある」という肯定的人生に変えられたのです。

第三のポイントは、「主がわずかなものを、とるに足りないものを用いられる」ということです。さきほども申しあげましたが、神様は無から有を生じさせることもできるのですが、あえて「5つのパンと2匹の魚」を用いられました。それは、私たちが神様に差し出すものが、たとえ、わずかであっても、主はそれを幾倍にも祝福して用いるということです。私たちが差し出す献げもの、奉仕、あるいは証しこれが主の手に握り締められるなら、大きなわざを成すことができます。問題は、主の手に握りしめられること、そして、パンが裂かれたように、主のなすままになるということです。持っているものを差し出すのも信仰がいります。しかし、捧げたにも関わらず、自分のやり方でなければイヤだと注文つける人がいます。これだと、ささげた量のわりには、実が残りません。イザヤ書では主は陶器師で、私たちは粘土にたとえられています。粘土は練られて、形を整えられます。あるものは聖いものに、またある物は俗的なことに用いられます。同じ粘土でも片や何十万円もするような茶器に、しかし、一方は啖壺とか便器になったりするかもしれません。「主よ、そういうのはイヤです。せっかく捧げたのに、それでは、私のプライドが許しません」。主は「ああそうですか、それでは仕方がありませんね」とそれを砕いて壊してしまいます。私たちは文句は言えません。ただ願うことは主の栄光が現われることです。そのような神様の主権を認めて、一生懸命ささげたものであるならば、たとえわずかなものであっても、豊かな祝福の基となるのです。5つのパンと2匹の魚は、少年が差し出した弁当でした。パンと言っても大麦のパン、魚と言ってもホッケの紐のだったかもしれません。たいしたことないものです。そのような粗末なものも主は握りしめて用いて下さるのです。その少年がこれは私のものだとしまっておいたら、自分一人分だけの弁当になります。それは少年の権利ですから、だれからも文句は言われないでしょう。でも、この少年は大切な5つのパンと2匹の魚をイエス様のためにささげました。弟子たちは「こんなものが果たして何になるでしょう」と思ったかもしれません。しかし、イエス様はそうではありません。5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられました。なんと、5つのパンと2匹の魚が10,000人もの人たちを養えるくらい増えたのであります。おそらく、この少年は自分が差し出した以上のパンと魚を食べられたことでしょう。自分も満腹し、他の人たちからも喜ばれました。少年は家に帰ってお母さんに自慢して、この奇跡を報告したのではないでしょうか。お母さんは「私があげた5つのパンと2匹の魚がそんなふうに用いられるなんて」とまた感激したのではないでしょうか。普通、捧げたり与えると無くなるものですが、イエス様の場合はそうでありません。イエス様が手をとって祝福すると、自分も満足し、身近な人も満足し、また多くの人たちも満足させることができる奇跡となるのです。どうぞ、イエス様の奇跡を何度も何度も体験する信仰生活を送りたいと思います。  

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