« 宗教からの解放 マタイ15:1-9 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.2.19 | トップページ | 立派な信仰 マタイ15:21-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.5 »

2017年2月24日 (金)

口から出るもの マタイ15:10-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.2.26

 当時の宗教家たちは「弟子たちは手を洗って食べていない」とイエス様を批判しました。それはいわゆる手を洗うということではなく、儀式にのっとっていないということです。これに対してイエス様は「あなた方は言い伝えを重んじて、律法を無にしている。口から入るものが体を汚すのではなく、口から出るものが人を汚すのである」と答えました。では、どのようなものが私たちの心から出てくるのでしょうか?19節に「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしり」と合計7つあります。一番、悪いものが心です。なぜなら、心にあるものが口から出るからです。次に悪いのが口です。そこで止めておけば良いのに、ことばとして放出してしまうので問題が出てくるのです。きょうは、心と口の2つの面から考えたいと思います。

1.心から口へ

 イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ1234と言われました。私たちが悪いことばを発するのは、心が悪いからです。マルコ7章はさらに、5つを加え、13個も挙げています。マルコ7:21-23「 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」人によっては、比較的軽いというか、ひどくない人たちもいます。育った家庭環境が良くて、大事に育てられた人は、乱暴なことばを発しないでしょう。それに比べ、劣悪な家庭環境で、野良犬のように育った人はどうでしょうか?「ウゥー」とすぐ噛みつくでしょう。そして粗雑でぞんざいなボキャボラリーしかありません。私は亀有2丁目の郵便局を利用しますが、若い目のクリクリした女性がカウンターにいます。おばあちゃんが押した印鑑が違っているようでした。局の女性は「この印鑑は違いますよ。もっと小さなヤツはないでしょうか?」と言いました。そばにいた私は、吹き出してしまいました。ある時、エア・メールを出しに行って、サインをするように求められました。そのとき、スラスラと英語でサインしたら、彼女は「うぁー、英語できるんですね」と褒めてくれました。制服とことばがアンバランスなので、「さすが亀有」という感じがしました。私もいろんなセールスの電話がかかってきますが、即座に「結構です」とぶっきらぼうに答えてしまいます。「教会に対するイメージを悪くしているだろうな?」とちょっとだけ反省しています。私の場合は、育った環境は悪いし、土木現場で働いていたこともあるし、もう体に染みついています。大川牧師からも「がさつだ」と注意されましたが直らず、亀有で良かったです。

 聖書の人間観はとても悲観的です。どんなに育ちが良くうわべは上品でも、例外はありません。そういう人たちに限って、陰湿で高慢で意地悪な人が多いからです。エレミヤは生まれつきの人間を何と言っているでしょうか?エレミヤ179「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」私は口語訳の方が、インパクトがあると思います。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」「よろず」というのは、100010倍、万ですから、驚きです。もう一度繰り返します。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。」テレビ時代は顔のキレイな人がもてはやされます。テレビのCMには、そういう人たちが何本も出て荒稼ぎをしています。顔のキレイなのも神さまの一般恩寵だと思いますが、だからと言って、心がキレイなわけではありません。顔がキレイだと心もキレイなんじゃないかと錯覚します。だからエレミヤは「だれが、それを知ることができよう」と言っているんですね。でも、だれが知っているでしょうか?神さまがご存じです。神さまだけがご存じなのです。Ⅰサムエル167「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」アーメン。ですから、私たちは「人にどう接するか」、「人にどのように話すのか」学ぶ前にやるべきことがあります。それは心を変えなければならないということです。接客術やことば使いの前に、心を直さなければなりません。でも、聖書は「それは直らない、改善不可能だ」とはっきり言っています。ぼろ雑巾を洗濯して、アイロンをかけても、やっぱりぼろ雑巾です。森の石松は「馬鹿は死ななきゃ直らない」と言いましたが、まさしくその通りです。キリスト教は生まれ変わりの宗教です。改善とか修養の世界ではありません。一度、古い人に死んで、そして新しく生まれ変わるのです。

 ローマ人への手紙、ガラテヤ、エペソ、コロサイも心やことばの問題を扱っています。いわゆるそれは「倫理、実践面」のことであります。しかし、その前に必ず教理的なことが書かれています。それはイエス様が私たちのために十字架で死んで、罪の代価を払ってくれたことです。私たちがキリストを信じると、罪赦され、新しく生まれ変わります。これは霊的に新しく生まれ変わるということであり、心や体が含まれていないというのが一般的な考えです。もちろん私たちはイエス様を信じると霊が新生し、心や体に神さまのいのちと力を与えてくれます。実は、それだけではありません。ローマ6章、ガラテヤ2章に書いてありますが、私たちの古い人はイエス様と一緒に十字架につけられて死んだのです。ローマ66-7「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」パウロは「古い人」と言って、あとで「罪のからだ」と言い換えています。当然、からだの中には、心も体も全部含まれています。古いからだはキリストと一緒に十字架につけられて死んだのです。そうすると、「罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなる」ということです。ウォッチマン・ニーがこのように言っていま。「私たちがキリストを信じたとき、罪を生産する工場が破壊されたのです。それは酒を蒸留する工場が破壊されたのと同じです。でも、その前に造られた酒瓶や樽が縁の下や車のトランクに隠されています。それが肉です」と言っています。イエス様があげた罪のリスト「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしり」は、まさに肉であり、罪の残り粕です。酒瓶が心や体のどこかに隠されているのです。私たちは天国に行くまで、これらを処分しつつ、「栄光から栄光へと主と同じかたちに帰られていく」(Ⅱコリント318のです。アーメン。この世の道徳は、心を新たにすることなく、外側から「ああしろ、こうしろ」と矯正します。でも、それは肉が罪を犯すことを助長しているのに過ぎません。私たちの肉は「しろ」と命じられれば、したくなるし、「するな」と命じられれば、してしまうのです。この世の法律や宗教、あるいは道徳や倫理は人を外側から律することはできるかもしれません。しかし、それは変えているのではなく、補正し、改善し、修養しているのに過ぎません。だから酒に酔った時や、遠くに行ってだれも見てないときに罪を犯すのです。真の解決は一度、古い人に死んで、新しく生まれ変わるしかありません。そのためには、エレミヤのように一度、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と諦める必要があります。その次に、パウロが言う「キリストともに十字架につけられて、罪から解放される」という救いの道があるのです。

 当時の宗教家たちは、儀式や律法を守っていました。それは器の外側だけをきれいにするようなものでした。なぜ彼らが偽善的で力がなかったのでしょうか?それは、心を取り扱おうとせず、外側の行いやことばだけを清く見せようとしたからです。一方、イエス様と弟子たちは、堂々と生活していました。なぜなら、心の深いところで神さまと交わっていたからです。言い換えると人々の前ではなく、神さまの前にきよくあろうと生活していたからです。ある人たちは洗礼を受けてクリスチャンになるといろんなことに縛られ窮屈になると考えています。そのため、深入りしないで、周りをぐるぐる歩いています。一度取り込まれると、抜けられないと考えています。そうではありません。実は神さまの中に本当の自由があるのです。もちろん神さまは義なる方、聖なる方です。罪がお嫌いで、罪をさばくお方です。でも、イエス様を信じると罪赦されるばかりか、義とされます。私たちは神さまの目から見たら、清くて正しい存在なのです。でも、クリスチャンなって心が全くきよめられたかというとそうではありません。最初は、「あれでもクリスチャン?」と、人に躓き、自分に躓いて、教会を去りたくなるかもしれません。でも、そこが勝負の分かれ目です。どろどろした本音の部分をイエス様に打ち明け、イエス様を歓迎するのです。すると、心が本当に作り変えられます。どのようにでしょうか?イエス様はこんな醜い私を愛して、受け入れ、弁護していてくださる。そうすると、他のクリスチャンをも愛せるようになるのです。あるとき、エジプトを脱出した人たちが荒野に来て、泉の水を飲もうとしました。しかし、その水は苦くて飲むことができませんでした。モーセが主から言われて、一本の木を水に投げ入れました。すると、その水は甘くなったと書かれています(出エジプト1525)。一本の木とは何でしょう?それはイエス様の十字架です。私たちの心に十字架を投げ入れると、敵意や苦々しさ、さばきや怒りが消えるのです。そして、心は甘い泉に変えられ、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制をかもしだす心になるのです。肉は確かに存在しています。しかし、御霊がそれに打ち勝って、御霊の実が現れてくるのです。

2.口からことばへ

 今度は口の問題を取り扱いたいと思います。心臓から口までの距離や約30センチです。もちろん、心臓イコール、心ではありません。おそらく、心は別のところにあるでしょう。でも、私たちは喉のところでやめておけば良いのに、言ってはいけないことを言ってしまいます。詩篇の記者はこのように言っています。詩篇391「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。」、詩篇1413「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。」「口輪をはめる」とか「見張りを置く」と書かれていますが、それだけ口を守るのは難しいということでしょう。ヤコブは「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」(ヤコブ32)と言っています。政治家が言ってはいけないことを「ぽろっと」口に出すことがあります。そして、重要な立場を失うことがよくあります。最近はビデオにちゃんと撮られていますので、言い逃れができません。テレビ・ニュースでその場面が何ども繰り返され、大変なことになります。もちろん、失言ではあるかもしれませんが、「心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ1234)。でも、クリスチャンになって、霊的に生まれ変わり、心と体が一度、十字架につけられて、罪から解放されたはずです。苦い思いも傷も癒され、甘い水である御霊の実が現れてくるはずです。でも、ここで私たちは油断してはいけません。どうしても、私たちの中には肉の性質、酒瓶や樽がとこかに隠されています。肉と言うのは、クリスチャンになる前の記憶であり性質です。これがどこかに宿っていますので、状況が整うと、自動的に口から出てくるのであります。相手が横柄な態度を取り乱暴なことばを吐くなら、条件反射的に悪いことばが出てくるのです。

 私たちはこの地上で生活しています。地上というのはこの世の神であるサタンが支配しているところです。もちろん、私たちは神の子であり、救いを受け、霊的には神の国に生きています。しかし、心と体がこの世にあります。すると当然、この世の神であるサタンが人や物事を通して、けしかけてきます。それをキリスト教では「躓き」と言います。イエス様は「躓きが起こるのは避けられない」(ルカ171と言いました。「躓き」のギリシャ語は、「罠の餌をつける棒」という意味です。昔は鳥とか動物を捕えるときに、棒の先に餌をつけました。サタンも私たちの前に、「餌」をまいておびきよせ、餌に食らいつくように誘惑してきます。英語ではbiteであり、「餌に食らいつく」「誘いに乗る」という意味です。サタンが直接、誘惑するというよりも、背後で人や機会をあやつるのです。私たちは不当な扱いを受けたり、ひどいことを言われたりすることがあるでしょう。その時に、私たちの肉が反応し、口から悪い言葉が出ることが良くあります。昔、車(チャ)先生のメッセージを聞いたことがあります。彼女は日本をとても愛している韓国の宣教師です。彼女も人間ですから、何かのことで夫婦喧嘩になることがあります。心が、まるで火にかけたヤカンのように沸騰してきます。その時、サタンが隣で「さあ、怒りなさい。相手をぎゃふんと言わせなさい」とけしかけるそうです。その時、車(チャ)先生は、ぐっとこらえます。そして言います。「サタンよ。お前の誘惑には乗らない。退け!」そうすると、嘘のように怒りが収まり、「まぁ、いいか」という気持ちになるそうです。私は育った環境が悪いのと、土木現場で働いていたせいで、ことばが粗野です。自分としては「ワイルドだろう!」と思っているのですが、家内には通じません。だから、ことばのことでよく衝突します。しかし、家内はほとんど乗ってきません。私は説教という賜物が与えられていると信じていますが、これはもろ刃の剣であり、人を切り刻んでしまう恐れがあります。パウロはエペソ人への手紙で「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ429と言いました。アーメンです。

 神さまはことばによってこの世界を創造させました。ですから、ことばが一旦、発せられると、この世界に対して何かをもたらすということです。信仰的なことばを発すると、そこに神さまのみわざが起こるでしょう。逆に、破壊的で否定的なことばを発すると、神さまのみわざが妨げられるばかりか、そのような悪いことが起こるでしょう。ジョエル・オスティーンが「言葉の力」ということをある本で書いています。ホセ・リマは、1990年代後半にヒューストン・アストロズで数年間ピッチャーを務めた選手です。社交的で、エネルギッシュで、人好きのする彼は、ふだんは何事にも前向きな姿勢で臨んでいました。しかし、アストロズが新球場ミニッツ・メイド・パークを建築したとき、ホセは腹をたてました。レフトスタンドのフェンスが、アストロドームのそれよりずっと近かったからです。実際のところ、ミニッツ・メイド・パークのホームベースからレフトスタンドのフェンスまでの距離は、大リーグのどの球場よりも短かったのです。バッターにとっては嬉しいことでしたが、ピッチャーにとってはトンでもない事でした。特に、相手が右打ちのバッターの場合、レフトに打たれるとお手上げなのです。初めて新しいグラウンドに入ったとき、マウンドに立って外野方向を見渡したホセは、すぐにレフトスタンドが近いことに気づきました。「ここでは投げたくないな」と彼は言いました。次のシーズン、新球場での試合は盛り上がりましたが、ホセは自己最低の成績でシーズンを終えました。1シーズンで、20勝投手から、あっという間に16敗投手に落ち込んだのです。ここまで急激に成績を落とした選手は、球団始まって以来初めてでした。ホセは言葉にしたことが現実になったのです。人は、自分の言葉を「預言」に変えることができます。マイナス思考に負けて後ろ向きの言葉を口にすれば、行動もそれに追従します。だからこそ、私たちは自分の考えや言葉に細心の注意を払わなくてはいけないのです。言葉にはとてつもないパワーがあります。本人の望むと望まざるとにかかわらず、人は自分の言葉に命を吹き込むのです。悲しいことに、たくさんの人が自らの言葉のせいで鬱々とした人生を送っています。彼らはよくこんなことを言います。

―私にはいいことなんて起こるはずがない。

 ―私は絶対に成功できない。

 ―私はそんな器ではない。

 ―私は一生この泥沼から抜け出せない。

 中には自分を罵倒する人すらいます。「お前はなんて馬鹿なんだ!何一つまともにできないクズだ!」本人は気づいていませんが、彼らは自らのことばで失敗へと続く道を切り開いているのです。言葉は種のようなものです。声に出して言うことで、言葉は潜在意識にまかれ、独自に成長していきます。根を張り、果実を実らせます。前向きな言葉を発すれば、人生はその方向に向かっていきます。同様に、後ろ向きの言葉はさえない人生へとつながります。勝利をつかみたいなら、敗北を口にしてはいけません。人は自らまいた種を収穫するのです。

 さらに、ジョエル・オスティーンの本に「口にジップをしなさい」というコラムがありました。ジップというのは、「チャックする」ということです。エレミヤが神さまから召されたとき、「私はまだ若くて、どう語ったら良いか分かりません」と答えました。すると主は彼に「まだ若い、と言うな」と言われました。主はエレミヤの否定的なことばを阻止しました。なぜでしょう?もし、エレミヤが「私は若いので、そんな資格がありません」と言うなら、エレミヤが言った通りなるからです。だから、主は「まだ若いと言うな」と口をふさがせたのです。私たちも否定的なことばが心によぎる時があります。「この病気はなおらない」「この借金は返せない」「この結婚はうまくいかない」「この仕事は失敗するだろう」。この世で生きているのですから、思いがよぎることはあるでしょう。でも、口を開いてことばに出すなら、そのようになります。だから、口にジップをしてぐっと留めるのです。そうすると、悪い思いは生まれないで、死んだままです。どうぞ、否定的なことばを吐いて、悪いことを誕生させないでください。なぜなら、ことばは種だからです。むしろ私たちは神さまの約束のことば、信仰のことばを口から出しましょう。そうするなら、神さまがその通りのものを生み出してくださいます。

ヨシュアたちがヨルダン川を渡って、最初の戦いはエリコを攻めることでした。エリコの城は頑丈で難攻不落に見えました。主はヨシュアに命じました。「あなたがた戦士たちはすべて町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七日目には七度回り、角笛をならさなければならない。その時まで、口からことばを出してはいけない」と命じました。もし、戦士たちが自由に口を開くなら、「ああ、なんと高い城壁なんだろう。絶対、無理だよな!」とつぶやくでしょう。そういうことばを吐くなら、神さまのみわざは起きません。そのため主は口を閉ざしたまま、だまって町を行進するように命じられたのです。沈黙は金です。金のときもあります。7日目の7週目、祭司たちが角笛を吹きました。兵士たちがときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちました。私たちが発することばには力があります。どうぞ否定的で破壊的なことばを発しませんように。私は若い、健康だ、長生きする。病は癒される。夢は叶う。ブレイクが起こると言いましょう。ことばは種です。悪いものを蒔かないで、良いものを蒔きましょう。神さまは私たちのことばを用いて、すばらしいことを成してくださいます。

|

« 宗教からの解放 マタイ15:1-9 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.2.19 | トップページ | 立派な信仰 マタイ15:21-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.5 »