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2017年2月17日 (金)

宗教からの解放 マタイ15:1-9 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.2.19

 世の中では、私たちのことも宗教と捉えているかもしれません。本日は、「どのような意味で、私たちの信仰は宗教でないのか」ということをお話ししたいと思います。弟子たちはイエス様とご一緒しながら、とても自由でありました。しかし、律法学者やパリサイ人が断食のこととか洗いの儀式でなんくせをつけています。イエス様は当時のユダヤ教に対して、とても批判的でした。では、いわゆる「宗教」にはどのような要素があるのでしょうか?そして、私たちは宗教にならないように、どのようなことに気をつけなければならないのでしょうか?宗教には3つの特徴(特色)があります。第一は儀式、第二は階級、第三は規則(きまりごと)です。

1.儀式

 宗教には必ず儀式というものがあります。マタイ152「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」私たちは、食事の前に手を洗いますが(洗わないときもありますが)、これはそういう意味ではありません。あるホームページにこのように書かれていました。それは儀式として、宗教上のいわゆる「お浄(きよ)め」であって、ユダヤ人の習慣でした。食事前の清めの洗いと言っても、きちんと石鹸で洗う訳ではありません。水をかけるだけでした。全くの儀式でした。当時は手をどのように洗うか決められていました。両手を上むきにして、指先から水を注ぎます。それが終わると今度は手を裏返しにして、手の甲を上にして指を下にして、そこに水を注ぎます。そこから片方の手をげんこつにして反対の手の水を拭います。指を使うとけがれるので、指を折ってげんこつにしました。以上ですが、日本人には「清めの塩」というものがあります。仏教式のお葬式に行きますと、お焼香の後、小さな袋が手渡されます。よく見ると、塩です。人の死に接する葬儀に出たので、塩で清めて下さいということです。昔からの宗教的しきたりです。不運を払い去ったり、幸運を呼び込むことは塩には出来ません。ですからクリスチャンはそのような儀式はしません。ユダヤ教の「食前の清めの洗い」も信仰とは相容れないもので、人間の作った教えでした。

 これに対して、イエス様は何とおっしゃっているでしょうか?マタイ511「口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」イエス様は私たちの心から出るものが、人を汚すのだとおっしゃっています。イエス様は常に本質的なことは何かを教えておられます。人間の肉は宗教、儀式的なものを求めます。たとえば神道などでは、「神事」といって、こまかい決まり事があるようです。内容がないものに限って、かたちにこだわります。結婚式や葬儀もそういう傾向があります。私は式文をできるだけ使わないようにしています。聖霊様が導くことば、聖霊様が導く祈りになるように心がけています。なぜなら、神さまは生きておられるので、「今、何を私たちに語ろうとしておられるのか」耳を傾ける必要があるからです。いくら文章が美しくても、神さまから出たものでなければいのちがありません。ローマ・カトリック教会や聖公会にはたくさんの儀式があり、宗教ぽくなっています。「それが良いんだ」という人たちもいるのですから、むやみに批判はできないと思います。私たちプロテスタント教会は聖餐式と洗礼式があります。やはり教団教派によってやり方が多少異なります。みんながそれぞれ「これが正統なんだ」と主張するかもしれません。でも、イエス様がなぜ、「そのようなことを行いなさいとおっしゃったのか」、その主旨にいつも帰る必要があります。かたちよりも精神であります。儀式的なものをできるだけ取り除いて、精神、心を大切にしたいと思います。

 では、なぜ宗教的な儀式が生まれたのでしょうか?また、すべての儀式は不要であり、罪なのでしょうか?旧約聖書の出エジプト記25章から31章まで、幕屋に関する規定が記されています。その中にはいけにえの捧げ方、祭司の任職やきよめについても書かれています。レビ記になりますともっと詳しく書かれています。でも、それらはすべてイエス・キリストの贖いについての予型です。不思議なことに幕屋をはじめいけにえに至るまで、すべてイエス・キリストのことを指示しています。そして、イエス・キリストがそれらすべてを成就したのです。旧約聖書においては聖なる神さまに近づくためにたくさんの規定がありました。しかし、キリストが贖いを成し遂げられてからは、信仰によって大胆に恵みの御座に近づくことができるようになりました。ただし、イエス様は「霊とまことによって父を礼拝する時が来る」(ヨハネ423)と言いました。霊というのは聖霊とも言えますし、新生した私たちの霊ともとれます。まこととは、私たちのまごころでありますが、キリストの真実ともとれます。私たちはいくら自分をきよめたとしても限界があります。救われた後も思いや行いによって罪を犯します。ですから、神に近づくためにはキリストの血による贖いがすべてであります。賛美を通してではありません。キリストの血であります。賛美や感謝はそのとき、たずさえていくものです。私たちはこのことを意識していくとき、すべての宗教的な儀式から解放されます。父なる神さまはキリストを通して、私たちを見てくださいます。だから、私たちはキリストにあって義であり、聖なのです。嘘やごまかしがあるとどうしても儀式にたよる傾向があります。私たちはたえず、キリストの血を仰ぎ、「霊とまことによって」父なる神さまを礼拝するのです。

2.階級

 マタイ151-2「そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。」このところに三種類の人たちが出てきます。パリサイ人、律法学者、そして長老たちです。彼らは全部、ユダヤ教徒なのですが、中にはサンヒドリン議員のメンバーもいました。特に「長老」という呼び名は旧約聖書の時からありました。長老という呼び名は、年齢よりも身分の高い指導者に使われます。長老は民の上に権力を行使し、日常の民事上、宗教上の事件を処理していたようです。新約のキリスト教会では、監督とならび、群れを指導しました。現在は、長老を置いている教会もありますが、そうでない教会もあります。イエス様の時代の長老たちは宗教的な権威をふりかざしていました。マタイ23章には彼らの偽善ぶりがしるされています。どの世界でもそうかもしれませんが、人は一度、権威や権力が与えられると堕落する傾向があります。就任した当初は民のため、人のためと自分を無にして励みます。ところが、いろんな利権によって惑わされます。最後には自分の懐を肥やすために、職権を乱用するようになります。当時の祭司長、律法学者、長老たちはイエス様がめざわりで大嫌いでした。なぜなら、自分たちの権威や権力が侵害される恐れがあるからです。パッションという映画を見たことがありますが、頭の上から足元まで特別な装いをしていました。彼らの顔はいかつくて、イエス様を十字架に渡すときは特にそうでした。

 キリスト教会の階級は、西暦313年、キリスト教が国教になってからだと思います。それまでは職務と呼ばれ、別に上下的な意味はありませんでした。聖職者の支配構造を「ヒエラルキー」と呼んだりします。ローマ・カトリック教会では教皇が一番上で、法王とも呼ばれています。その下には、枢機卿という教皇選挙に参加できる人たちがいます。さらにその下には司教、司祭、助祭と続くようです。いわゆる神父というのは、司祭です。プロテスタント教会では「牧師」にあたると言われますが、イコールではないと思います。なぜなら、牧師は神さまと仲介する者ではなく、イエス様に結びつかせるという働きがあるからです。マルチン・ルターは「万人祭司制」を唱え、「神さまの前には信徒も聖職者もない」と言いました。ですから、私は牧師は聖職者ではなく、教職者と言うようにしています。牧師や教師は身分というよりも、働きだからです。エペソ411-12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」と書かれています。これらは五職と呼ばれていますが、「階級」ではなく、職務であります。イエス様がご自身の教会を建てるために、召した人たちです。ですから、そこには神さまからの召命と賜物があります。ペテロはご自分の手紙でこのように言っています。「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」(Ⅰペテロ52-3)。

 イエスさまのもとにいた弟子たちはだれが一番偉いか争っていました。イエス様は彼らを呼び寄せてこのように言われました。マタイ2025-27「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」イエス様は指導者になること自体を否定しませんでした。しかし、それはこの世のやり方ではなく、まったく逆のやり方でした。みなに仕える者になること、しもべになることが、その道でした。1990年頃から、「教会成長」という考えがアメリカや韓国から入ってきました。日本でも「教会成長研究所」なるものが設置され、多くの牧師たちがそこで研修をうけました。私にも2000年頃、招待状が来ていましたが、クリスマスのどさくさで分からなくなり、気づいた時は締切が過ぎていました。チャンスを逸してからは、受けるのをやめました。でも、高砂教会の手束先生をお呼びして、「教会成長」について学んだことがありました。また、サラン教会やオンヌリ教会などから弟子訓練を通しての教会成長について学びました。そのとき、「日本の牧師には権威がないので、教会は成長しないんだ」という意見がよく飛び交いました。手束先生はある本の中で、「雑用は信徒に任せて牧師は祈りとみことばに専念すべきだ」とおっしゃっていました。その頃、私は会堂掃除をしたり、車で送り迎えをしていました。旧会堂の時から、植木の刈込み、看板、ペンキ塗り、印刷、音響、なんでもやっていました。ある時、礼拝堂で一人掃除機をかけているとき、「なんで牧師がこんなことを」と思ったとき、みじめな気持になりました。いわゆる雑用をしているとき、心に平安がありませんでした。しかし、ある時、イエス様の教えはこの世と逆なんだ、むしろ「教会成長の牧師像が間違っているんだ」と思いました。ちょうどそのころ、『サーバント・リーダーシップ』という本がベストセラーみたいになりました。私の賜物は説教だけではなく、体を動かすことも含まれていると悟ってから、ぜんぜん苦にならなくなりました。そして、「奉仕には雑用などというものはないんだ。キリストのからだなる教会においてはみんな尊いんだ」と悟りました。ひとり一人、神さまから与えれた賜物と召命に生きれば良いのです。かしらはイエス・キリストです。私たち一人ひとりはキリストのからだの器官です。みんなかしらに聞いて動けば良いのです。このように、からだなる教会を理解するとき、宗教的な階級意識から解放されます。

3.規則(きまりごと)

イエス様は3節でこのように言われました。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。」(マタイ153ユダヤ人たちは、律法の他にたくさんの言い伝えを守っていました。そして、人々にもそれらを守らせました。マタイ23章でイエス様なこのように言われました。「彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとしません」と言いました。「重い荷」というのは、ユダヤ教のさまざまな「きまりごと」ではないかと思います。イエス様は神の律法(トーラー)に対してはアーメンでした。でも、彼らの言い伝えには反対しました。当時の「言い伝え」というのは、ラビたちの律法の解釈や教えでした。ゲマラとミシュナを合わせたものをタルムードと言いますが、彼らはそれを神の律法と同じくらいの権威を与えていまさした。しかし、人間の教えですから、かたちばかりで精神を欠いたものになっていたことは確かです。福音書でたくさんの論争の記事がありますが、断食とか安息日、きよめの儀式のことが良く出てきます。その時、イエス様はいつも律法の精神(本質)を説いて、弟子たちや人々を解放しています。イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われました。重荷とは、ユダヤ教のたくさんのきまりごとでもあるのです。

 この世にはたくさんのきまりごとがあります。学校に行けば「廊下を走ってはいけない」とか、この世にはないきまりがたくさんあります。学校はある意味では特殊な社会なのかもしれません。しかし、最近は警察が入り込むようになりました。なぜでしょう?きまりの背後には陰湿ないじめがあるからです。人間はきまりを多くすればするほど、きまりに逆らいたくなるのです。パウロはそれを肉の働きと言っています。キリスト教会もきまりごとが好きです。求道者の時は何も言われなかったのに、洗礼を受けてからいろんな義務やきまりが与えられます。「信じるまでは恵みで、信じた後はそうではないのでしょうか?」それだったら詐欺であります。当教会では単立になったとき「亀有教会理念」を作りました。後半に「教会細則」というきまりみたいなことが書かれています。しかし、その中心は共同体という教会を守るための最低限度のきまりです。私はあえてきまりを多くしませんでした。なぜなら、肉を刺激して罪を助長してしまうからです。理念の最後にこのような文章を載せています。「この細則は、当教会の組織が円滑に運営されるために作られました。規則に縛られるのではなく、御霊の導きを求め、互いに関係を大切にしながら、問題を解決するように努めましょう。」マタイ18章には小さい者(弱い人)が罪を犯したときどのように対処すべきか記されています。「これは律法だ、これはきまりだ」と罪をさばいてはいけません。まず、二人だけのところで話し、その次はふたりか三人で、最後に教会に告げるという順番になっています。この世はいきなり、警察とか権力者に訴えます。アメリカは本来、聖書に根差したキリスト教の国家でした。しかし、今は互いに告訴し合っています。そして、銃を所持して自分を守ろうとしています。これは「殺してはならない」という戒めに反しています。

 イエス様はいつでも人を生かそうと努めました。姦淫の場で捕えられた女性をさばきませんでした。本来なら律法で石打ちの刑であります。彼女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」(ヨハネ811と言われました。」イエス様は彼女のしたことを罪であるとはっきり認めておられます。でも、ご自分が持っている権威をあわれみによって、彼女を赦してあげました。さまざまなきまりから解放される道とは何でしょう?それは赦しです。さばこうと思ったら、どんなことでもさばくことができます。ヤコブは「あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです」(ヤコブ213と言いました。なぜでしょう?人はさばかれると心に苦味を持ちます。たとえ自分が悪いことをしたと分かっても、です。頭ごなしにさばかれてしまうと怒りと憎しみが残ります。刑務所に囚われた犯罪者は、刑期を終えた後、再び罪を犯す確率が高いそうです。なぜでしょう?刑務所では人間扱いどころか、悔しい思いをたくさんさせられるからです。アメリカのある州で、再犯がぐっと減った刑務所があったそうです。それは神さまにある自分の価値を知り、小グループで互いに愛し合い、支え合うことを学んだからです。「一寸の虫にも五分の魂」というたとえがありますが、いくら罪を犯しても、その人の尊厳を奪ってはいけません。「罪を憎んで人を憎まず」ということを言っている割には、殺風景な世の中です。教会は神の国のモデル・ルームです。教会は十字架をかかげていますが、それはどういう意味でしょうか?イエス様が私たちの罪を負って、代わりに死んでくださったということです。そこには神の愛と赦しがアピールされています。自分の多大な罪が赦されているのに、すっかり忘れて、相手の小さな罪を赦せないのです。私たちは愛の赦しのメガネをかけて生活すべきであります。私などは車の運転をしていると、そのことを忘れて、横断歩道をのろのろ歩いている歩行者をなじったりしています。頭では分かっているつもりでも、まだまだ全身に行き渡っていないんだなーと思います。使徒パウロがガラテヤ書でこのように言っています。ガラテヤ31「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」キリストの十字架は救われるためだけではなく、救われた後も必要なんだと言うことが分かります。

 昨年末、大川牧師のピンチヒッターで説教したことがあります。広尾の21世紀教会です。30分位前に行って、場所を確かめ、その後コーヒー店で待とうと思いました。教会の近くまで行くと、向こうから大川牧師と奥様と運転の方が歩いてくるではありませんか?とにかく入ろうということで、教会の個室で大川先生とスタバーのコーヒーを飲みました。そのとき、昔の座間キリスト教会の頃の話題がでました。私が洗礼を受けた頃は最初のリバイバルだったそうです。看護学校からも多くの人たちが救われました。戦後、教会から離れていたおじいちゃんやおばあちゃんも転入会しました。私が洗礼を受けた1979年は52名の受洗者がいました。大川先生は「なぜ、人が増えたんだと思うのか」私に尋ねました。私は即座に、「教会に入るとさばかれているような気がしない。受け入れられているような気がするから」と答えました。まるでペテロが「あなたこそキリストです」と告白し、おほめのことばをいただいた時のようでした。「良く言った」とは言いませんでしたが、「そうだよなー」とニコニコして答えてくれました。あの当時、大川先生は聖霊の体験をなされヨハネ2章から「聖霊はおのが好むところを吹く」ということばを説教の中でよく語っておられました。「牧師は信徒をさばかない、信徒も牧師をさばかない、信徒同士もさばかない。聖霊は人格があるので、自分の好みがあるんだ。聖霊に好まれる教会を作ったなら、おのずと教会は成長する」とおっしゃっていました。私は1987年、当亀有教会から招聘を受けて来させていただきました。その時、私をスカウトした中心的長老さんがいました。山崎長老さんですが、「最初の説教でぜひ言ってもらいたいことがある」とお願いされました。それは大川牧師の「牧師は信徒をさばかない、信徒も牧師をさばかない、信徒同士もさばかない」でした。あとから気づいたのですが、山崎長老さんはだれよりも多く教会員をさばく人でした。でも、なぜ、山崎長老さんが何故、私にそのことを言わせたのでしょう?それは、頭では分かっているつもりでも、まだまだ全身に行き渡っていないと思っていたからでしょう。アーメンです。どうぞ、儀式や階級、きまりによって宗教的にならないようにしましょう。生けるキリストと共に歩み、互いに愛し、互い赦し合いましょう。

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