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2017年2月11日 (土)

嵐を静めたイエス マタイ14:22-33 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.2.12

 英語で奇跡をmiracle、あるいはsupernaturalと言ったりします。Supernaturalは超自然という意味であり、「自然を越えている」ということです。CSルイスは、「奇跡は自然法則の違反ではなく、高い法則による低い法則の一時的中断にほかならない」と言いました。イエス様は水の上を歩かれましたが、自然に反するものではなく、ご自身の法則によって、自然を越えたということです。昨年は野球で「神っている」という言葉がはやりました。きょうは、イエス様は私たちが持っている自然法則を超えた、神そのものであることを学びたいと思います。

1.権威あるイエス

 イエス様は教えに対して権威があるだけではありません。病や悪霊、そして自然界に対しても権威あるお方です。そのことは、マタイ8章、9章で既に学びました。一度、イエス様はガリラヤ湖の嵐を静めたことがありました。その時は、弟子たちは「いったいこの方はどういう方なのだろう」(マタイ827と驚きました。しかし、きょうのところでは弟子たちはイエス様を拝んで「確かにあなたは神の子です」と言いました。では、いったい前の奇蹟と今回とではどこが違うのでしょうか?まず、この奇跡の前に、何があったかと言うと、5つのパンと2匹の魚で男性だけでも5000人を養われました。人々は、「この方こそ来るべきメシヤではないか」と思いました。弟子たちも増えたパンと魚を配りながら、手が震えたと思います。この時は、まだ興奮も冷めやらぬ状態でありました。マタイ1422-23「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」イエス様は弟子たちをガリラヤ湖の向こう岸へ行かせるために舟に乗せました。そして、群衆を解散させて、ご自分は山に登られ、そこで祈っておられました。なぜなら、イエス様も弟子たちも休む間もなく働いていたからです。イエス様は、肉体をお持ちでしたので、疲れを覚えていたことでしょう。そして何よりも、父なる神さまと親しく交わる必要がありました。そうすることによって、霊的な力に満たされ、父なる神のみこころを知ることができたのだと思います。おそらく、イエス様は4時間位そういう時を持っていたことでしょう。でも、祈っているうちに、弟子たちの困難を超自然的に知ることができました。ご自身は山の上にいましたが、真っ暗な湖の真ん中で弟子たちが漕ぎ悩んでいる様子が見えました。

 マタイ1424-26「しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、『あれは幽霊だ』と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。」ガリラヤ湖は楕円形ですが、この時のコースは9キロくらいであり、おそらく弟子たちは岸から45キロ、ちょうど真ん中くらいだったと思います。出発したのが夜10時だと過程すると、今が夜中の3時ですから5時間も湖の上にいたということになります。帆船ですから強風にあおられ、もう体力的にも限界でした。そのとき、湖の上にうっすらと人影が見えました。何と、嵐の湖を人が歩いて、こちらに近づいて来るではありませんか。弟子たちは恐れ、「あれは幽霊だ」と叫び声を上げました。その当時、幽霊を見たなら、溺れ死ぬというジンクスがあったのでしょう。しかし、イエス様は彼らに「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない」と言われました。「私だ」と訳されている日本語は、ギリシャ語では「エゴゥ・エミー」となっています。これは、ご自分が神であると宣言している暗示的な表現です。この後、ペテロが水の上を何歩か歩いて、風を見ておぼれかけました。イエス様がペテロを助け上げました。イエス様とペテロが彼らの舟に乗り込むと風はやみました。マタイ1433「そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。この一連の出来事で、弟子たちのイエス様に対する見方が変わりました。イエス様は、前も嵐を静めてくださいましたが、今回は何が違うのでしょうか?何が弟子たちをして、イエス様を「あなたは神の子です」と礼拝させたのでしょうか?

 その第一は、イエス様が真っ暗な湖の上を道路でも歩くかのように、近づいて来られたということです。彼らのほとんどは漁師だったので、嵐の湖の怖さを知っていました。そして、人間は常識的に水の上を歩けないし、沈んで溺れると分かっていました。学校で理科を勉強しなくても、それくらいのことは分かっていました。ところが、このお方は液体の上を、道路の上を歩くように、湖の真ん中辺まで歩いて来られたのです。第二は、イエス様が嵐の中で難儀していた自分たちを遠くから知って、救うために来られたからです。ヨハネ621「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。」あれだけ苦労したのに、嵐が静まり、舟はほどなく目的地に着きました。この安堵はいかばかりだったでしょうか?聖歌472「人生の海の嵐にもまれきしこの身も、不思議なる神の手により、命びろいしぬ。いと静けき港に着き、我は今やすろう。救い主イエスの手にある身はいともやすし」であります。イエス様の場合は単なる奇跡ではなく、人を救うための超自然でありました。冒頭で申しあげた「超自然」であります。なぜ、イエス様は湖の上を歩き、そして嵐を静めることができたのでしょうか?それはご自分がこの世界を創造したからです。コロサイ116「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。…万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」アーメン。ご自分が造ったのですから、造られた物をいかようにもすることができるはずです。でも、神さまは秩序、つまり自然界の法則も同時に造られました。ですから、イエス様の奇蹟は、自然界の法則を壊さないで、それを越えるようなものでありました。おそらく、液体の分子をぎゅっと詰めて、固体にしたのだと思います。理性的に説明すると、かえっておかしくなります。

このところから、イエス様が自然界に対して権威がある神であることが分かります。その証拠に、弟子たちはイエス様を拝んで「確かにあなたは神の子です」と言いました。イエス様はそれを拒絶しませんでした。一連の出来事から、この奇跡はイエス様が神であることのしるし以外の何物でもないということです。もし、この聖書の記述が本当であったなら、私たちも弟子たちのように、イエス様を神として信じなければなりません。私たちの多くは、以前、イエス様を幽霊みたいな存在に思っていたのではないでしょうか?宗教とは「神がいれば良いなー」と思った人たちが勝手にこしらえたものである。イエス・キリストほど、世界の人々をだましたペテン師はいない。彼は宗教の天才であると思っていた人もいるでしょう。でも、どうやって救い主であり、神さまであるイエス・キリストを信じることができるのでしょうか?日本の場合はキリスト教の歴史も浅いし、聖書的な知識もありません。本当に無知と偏見の塊のような国民です。この日本でイエス様を信じて礼拝しているそのことが奇跡ではないでしょうか?では、イエス様はこの日本におられないのでしょうか?イエス様は全世界を作られたとき、この日本も造られ、同時に日本人も造られたと信じます。もちろん日本人は大陸やいろんな島から渡って来たと言われています。神の霊、聖霊は全世界を行き巡っておられます。日本に1億人以上住んでいますが、神さまは全部の人たちを見渡しておられます。黙示録にはいのちの書と他の書物があり、一人一人のことが記されていると書いてあります。

 2000年前、イエス様がガリラヤ湖の上を歩いて渡って、弟子たちを助けました。日本は四方海に囲まれています。しかし、復活し、キリストの御霊となられたイエス様は日本にも渡って来ておられると信じます。あなたが試しに「イエス様あなたが本当に神さまなら私を救ってください」と祈ったら分かります。そのため教会に来るのが一番ですが、教会に来なくても求めるならば近づいてこられます。幽霊ではありません。今も生きておられるイエス様があなたを救うために近づいてこられます。この間でクリスマスは終わりました。残念ながら、サンタクロースは実在していません。しかし、イエス様は今も生きておられ、最高のプレゼント、永遠のいのちを与えてくださいます。日本は偶像崇拝の国で、八百万の神がいると言われています。しかし、私は使徒ペテロのことばを信じます。使徒412「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」「天の下で」でありますから、日本もアメリカも中国も関係ありません。偉大な神さまから見たら、地球は「りんご」くらいの大きさではないかと思います。そこに日本の小さな島があるんです。「ふっ」と滅ぼすこともできれば、「ふっ」と救うこともできます。でも、神さまはキリストの十字架の贖いを信じる者だけを救おうと決意なされました。キリストの血以外に、私たちの罪を消し去ることができません。キリストの血は日本人すべての人のためにも流されました。日本人すべてが救いの候補者なのです。使徒パウロは「宣べ伝えない人がいないとどうして信じることができようか」と言いました。イエス・キリストは神であり、救い主です。このお方を信じる人が罪赦され、救われるのです。

2.権威を委譲されるイエス

 後半はペテロが湖の上を歩いたという奇跡について学びたいと思います。マタイ14 28-31「すると、ペテロが答えて言った。『主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。』イエスは『来なさい』と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください』と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』」驚くべことに、イエス様だけが水の上を歩いたのではありません。弟子のペテロも何歩かですが、水の上を歩きました。多くの人たちは、「ペテロは沈んだ、ペテロはおぼれた」と言いますが、ペテロは確かに水の上を歩いたのです。忍者は別として、ペテロの他に水の上を歩いた人はいないのではないかと思います。このところに、奇跡を与える信仰が記されています。だれもがイエス様のように水の上を歩けるわけではありません。しかし、どうしてペテロは水の上を歩くことができたのでしょうか?まず、ペテロは「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と願いました。ペテロはイエス様が「来い」と命じてくれるなら、自分はそこまで行けると信じていました。マタイ8章に百人隊長のしもべの癒しが記されています。百人隊長は「ことばの権威」ということを体験的に知っていました。だから、彼は「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります」と言ったのです。この時は、イエス様がわざわざ行かなくても、いやされました。イエス様がおことばを発したからです。この時も、イエス様はペテロに「来なさい」と言われました。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエス様の方に行ったのです。

 どうしてこのような奇跡が起こるのでしょうか?この学説に反対する人もいますが、あえて申し上げます。神のことばには、ロゴスとレーマがあります。ギリシャ語ではほとんど違いがありません。でも、イエス様はマタイ4章で「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」と言いました。この「神の口から出ることば」こそが、レーマであります。聖書のことばはロゴスです。聖書にはロゴスという神さまの一般的なみこころが記されています。しかし、私たちがこの聖書を読むとき、今の自分に神さまが語りかける時があります。それが神の口から出ることば、レーマであります。このレーマこそが、奇跡を生み出すのです。だから、私たちは神のみこころである聖書を読み、そこから生ける神のことばをいただく必要があるのです。このところでペテロはイエス様から「来い」というレーマを求めたのです。そこで、イエス様は「来なさい」というレーマをペテロに与えました。そのときペテロが水の上を歩きましたが、言い換えるとペテロはレーマの上を歩いたのです。ペテロは生ける神のことばを信じて水の上を歩きました。これが信仰です。このレーマがなければ、人は水の上を歩くことができません。韓国で実際あった話ですが、3人の少女が、氾濫した川の前まで来ました。対岸には青年大会の会場がありました。彼女らは「私たちが水の上を歩けない話ってあるかしら?だって、ペテロは水の上を歩いたし、ペテロの神さまは、私たちの神さま。ペテロのイエス様は私たちのイエス様。ペテロの信仰は私たちの信仰じゃないかしら?あのペテロだって信じたのだから、私たちも、もっと信じましょう。さあ、この川を渡りましょう!」水はあふれ、流れは激しかったのです。しかし、少女たちにひるむ様子はありません。三人は、まず共にひざまずくと、たがいの手をしっかり握りしめ、ペテロによる水上歩行の聖句を唱え始めました。そして、異口同音に、「あたしたち、信じます。ペテロのように信じます」と大声でわめき立てながら、川の中にジャブジャブ足を踏み入れたのです。ひとたまりもありません。激流の中に踏み入れるや、あっという間に足をさらわれ、三人もろとも川に飲み込まれてしまいました。翌日の新聞に、「何ゆえ神は、少女たちの信仰の祈りに答えてくれなかったのか」と書かれていたそうです。

 チョー・ヨンギ師が書かれた『第四次元』にこのように書かれています。若者たちは、事実、信じたのです。彼女らは、神のみことばに立って行動したのです。しかし、神は、彼らの信仰を擁護すべき理由を一つだに持ち合わせておられません。ペテロは、一般的神の知識を与えるロゴスのゆえに、水上を歩行したのではありません。ペテロは、特定のことばが与えられるようにと、キリストに願い求めているのです。「来なさい」と、キリストが与えたペテロに与えたことばは、ロゴスではなく、レーマでした。主は、特定のおことば「来なさい」を、特定の人「ペテロ」に、特定の状況「嵐の湖上」でお与えになられたのです。レーマは信仰を生み出します。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストのレーマによるのですペテロの水上歩行の奇跡は、神についての基本的な知識によりたのんだのではありません。ペテロはキリストのレーマを受けたのです。アーメン。ですから、私たちは神のことばである聖書を読んで、今、私に語っておられる神のことば、レーマを求めなければなりません。このレーマが与えられたら、神さまは確かに働いてくださるのです。こういうことを言うと、「チョー先生は韓国のペンテコステだから」と批判する人がいます。私は最初、日本ホーリネス教団の神学校で学びました。反カリスマで、そこは保守的な教団です。そこでは「みことば信仰」ということが盛んに言われていました。「何か重大な決断をする時はいつでも神さまからみことばをいたただかなければいけない」と教えられました。私は彼らが言う「みことば」こそが、チョー先生がおっしゃる「レーマ」なのではないかと思います。再臨が近い今の時代は、教団教派の教義の違いを言っている暇はありません。

 ペテロは水の上を数歩進みました。ところが途中で水の中に沈んでしまいました。なぜでしょう?マタイ14:30-31「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください』と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』」風は見えませんので、水しぶきを見て、イエス様から目をそらしたのかもしれません。ペテロは最初、イエス様のレーマの上を歩いていました。ところが、彼の理性が叫びだしたのです。風と波しぶきが顔に吹き付けました。そのとき、彼は「こんなことはありえない。人間が水の上を歩けるはずがない。これは何かの間違いだ」と疑いました。そのとき、ずぶずぶと体が水の中に沈みました。ペテロは「主よ。助けてください」と叫びました。イエス様はすぐに手を伸ばして、ペテロをつかみました。まるでイエス様は陸の上から、おぼれているペテロを助け上げたのです。イエス様は「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言いました。そうです。ペテロは途中、疑ったのです。日本語には「信仰の薄い」と書いてありますが、原文は「信仰が少ない」という意味です。英語の聖書では、little faithとなっています。このところから1つの法則、つまり信仰の法則を発見することができます。第一に物質の目に見える五感の世界があり、レーマという目に見えない霊の世界があります。第二は自然の法則と超自然があります。第三は理性と信仰があります。理性は神さまが私たちに与えてくれたすばらしい恩寵(恵み)です。動物と違うのは理性があるからだと学校で習いました。理性は18世紀、啓蒙主義思想とともに復活しました。この思想は、キリスト教的世界観や封建的思想を批判し、人間性の解放を目ざす思想であります。欠点は人間の理性で認められないものをすべて排除するというものです。科学的で合理的なものだけを受け入れましたが、霊的存在や神の超自然的な働きを受け入れませんでした。

私たちクリスチャンは理性も必要ですが、同時に目に見えないところで神さまが働いてくださるということを信じなければなりません。ペテロは五感と理性によって、レーマを疑いました。同時に、イエス様から目をそらし、信仰が破たんしました。それで沈んだのです。では、どうしたら湖に沈まない信仰を持つことができるのでしょうか?これは私たちの信仰というよりは、神さまからいただいた信仰であります。なぜなら、レーマは生ける神さまから今の私にかたられたことばだからです。私たちはそのみことば、レーマを握って離さないことが重要です。そして信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さないということです。五感と理性が「現実的に不可能だ」と叫んでも、耳を傾けないことです。世の人々だけではなく、クリスチャンも「現実的に不可能だ」と言うかもしれません。でも、その時は、人の声に耳を傾けてはいけません。「信じ続ける」ということは、ある時は人から笑われ、馬鹿にされることもあるからです。アブラハムが100歳でサラが90歳のとき、イサクが生まれました。人々は頭がおかしくなったと笑ったでしょう?実際、サラ自身も笑いました。でも、神さまの信仰の方が大きかったのです。イエス様が自然を支配し、水の上を歩けることは、クリスチャンであるならだれも疑わないでしょう。しかし、イエス様はペテロに水を歩けるように権威を委譲されました。委譲ということばは、empoweringで「…に権能(権限)を与える」「…に能力(資格)を与える」という意味です。つまり、イエス様は今日の私たちに、ご自分がなされたようなことをするように権威を委譲するということです。これが神からの信仰です。私たちはペテロのように大胆な信仰を持つべきです。たとえ、途中で疑って沈むような時があっても、イエス様が手を差し伸べて引き揚げて下さいます。ペテロのように大胆な信仰を持ちましょう。イエスさまにレーマ、おことばを求めましょう。

 

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