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2017年1月29日 (日)

 ~霊とまことによって喜んで礼拝する~亀有教会副牧師 毛利佐保

◆聖書箇所:ヨハネの福音書4章21-24節、Ⅱ歴代誌5章13-14節、黙示録4章8-11節

本日は、礼拝についてお話したいと思います。

みなさんは、今こうして神様を礼拝するためにここに集われています。

集われた目的が、「神様を礼拝するため」というのは当然ですが、今日ここに集うまでに、みなさんの心の中で無意識に思ってしまった本音というものはありませんでしたか?

単純に、「眠い。もっと寝ていたかったなー。あー休みたいなー。」とつい思ってしまって、「神様ごめんなさい。」と自分を叱責しながら、義務的に礼拝に来てしまった。・・・とかありませんか?

あるいは、「奉仕があるから行かなきゃならない。」と、礼拝よりも奉仕の方が優先されたり、あるいは、もっと人間的な思いで、「あの人に会いたくないから行きたくないなー。」とか、逆に、「あの人に会いたいから行く。」とか、人間関係の方に心が行ってしまうなど、ありませんか?

もちろん本当に純粋な心で神様からみことばの糧をいただくことを楽しみにして、毎週礼拝に来られる方もたくさんいらっしゃると思います。

礼拝は大事です。なぜなら私たち人間が生きる意味を心底、さらに見いだすことができるからです。「神を礼拝する」ということについては、神様がこの世界を創造された時、七日目にすべてのわざを休まれて「聖なる日」とされた時からすでに始まっています。その七日目の「聖なる日」は、のちに安息日と呼ばれ、神を礼拝する日とされました。

礼拝については、旧約聖書の創世記から新約聖書の黙示録まで聖書の中で一貫して随所に語られています。それだけに、「神を礼拝する」ということが、人間にとってどれだけ重要なことかということがわかります。

では本来、私たちはどのような心をもって、どのような礼拝を捧げれば良いのでしょうか。神様が聖書から語ってくださっている礼拝のすがたについて確認しながら考えていきたいと思います。

♪現在過去未来~あの人に逢ったなら~by 渡辺真知子という歌が70年代後半に流行りましたが、物事を考える時に、現在から、過去を振り返り、未来へ向けて考えていくと、より深く理解することができますので、本日はそうしてみたいと思います。

①現在(ヨハネの福音書に記されている礼拝を現在とします)

②過去(Ⅱ歴代誌に記されている礼拝)

③未来(黙示録に記されている礼拝)

として、聖書の記述を確認しながら、本来あるべき礼拝のすがたや、私たちの礼拝にのぞむ姿勢について考えてみましょう。

◆①現在 : 霊とまことによって礼拝するという記述

「霊とまことによって礼拝する。」という言葉は、イエス様がサマリヤの女に向かって語ったことばです。

<ヨハネの福音書4章21-24節>

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4:21  イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

4:22  救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

4:23  しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

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みなさん、サマリヤの女の話はよくご存知だと思いますが、簡単に振り返ってみます。

ヨハネの福音書4章のはじめから42節までは、心がいつも飢え渇いていて、罪を犯し続けてしまうサマリヤの女が、イエス様と出会って渇くことのない永遠のいのちへの水をいただいた話が書かれています。彼女はイエス様を救い主として信じ、彼女の周りにいたサマリヤ人たちも救いに導かれました。

先ほど読み上げた21節に書かれている「この山」とは、ゲリジム山のことです。その頃のユダヤ人たちは、異邦人との婚姻で生粋のユダヤ人ではなくなってしまったサマリヤに住むユダヤ人たちを忌み嫌っていました。そのことがあって、サマリヤ人たちは、ゲリジム山で神を礼拝し、生粋のユダヤ人たちはエルサレムで神を礼拝するという状況になっていました。

ところがイエス様はサマリヤの女に、礼拝の場所はエルサレムでもなく、ゲリジム山でもないという日が来ると言われました。ユダヤ人も異邦人も関係なく、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ること、そして、今がその時ですと言われました。天の父はこのような人々を礼拝者として求めておられるということも教えてくださいました。

「霊とまことによって父を礼拝する時」とは、現在の私たちにもイエス様が言われていることです。今現在も、「霊とまことによって父を礼拝する時」なのです。

イエス様は、霊とまことによって礼拝しなければならないという理由について、4:24で、「神は霊ですから」と言われています。

聖書には、「主の霊」「神の霊」という言葉がたくさん出てきます。

「霊」は、ギリシャ語で「プニューマ」という言葉ですが、ヨハネの福音書では、「人間の魂や霊」というよりも、「神の霊」を指す場合が圧倒的に多く見られます。

そして人間には、このような霊が与えられています。

<ヨブ記 32章8 節>には、

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しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える。

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と書かれています。

「全能者の息」とは、「神の霊」のことで、その霊によって人に悟りが与えられるというのです。

「人の中にある霊」とは、人間の魂とか霊ではなく、「人の中にある聖霊」と言う意味です。

私たちは聖霊によって、神の子として神を父と呼ぶ礼拝をさせていただけるということなのです。

ですから「霊とまことによって礼拝する」の「霊」とは「神の霊」「聖霊」なのです。

私たちは、私たちの内にある聖霊によって神の語りかけに応答し、礼拝するのです。

次に、「まこと」という言葉についてですが、「まこと」は、ギリシャ語で「アレーセイア」といいますが、「真実」と言う意味があります。これも、私たち人間の側の「真実」というよりも、「イエス様の真実」という意味です。

イエス様ご自身が「真実まことの御方」であるので、イエス様によって私たちは「まこと」とされて、礼拝するという意味なのです。つまり「霊とまことをもって礼拝する」とは、人間の霊と人間のまことによって礼拝するのではなく、「主の霊・聖霊」と、「イエス様のまこと」によって礼拝するという意味なのです。

この礼拝の中に、父・子・御霊の三位一体の神が臨在しておられるということです。

私たちは、霊と霊で神様を礼拝しているのです。

次に、聖書に書かかれている、過去の礼拝について、旧約聖書の歴代誌から見ていきましょう。

◆②過去 : 主の栄光が満ちている礼拝の記述

Ⅱ歴代誌には、ダビデ王の子、ソロモン王が神殿の工事を完成させ、契約の箱を至聖所に運び入れたときの様子が書かれています。その時祭司は礼拝を捧げ、レビ人たちは賛美をしました。

<Ⅱ歴代誌5:13-14 >

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5:13 ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、【主】を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と【主】に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち【主】の宮は雲で満ちた。

5:14  祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。【主】の栄光が神の宮に満ちたからである。

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神殿が完成し、契約の箱を至聖所に運び入れたとき、民たちは心から「喜んだ」ことでしょう。

その喜びの中で、「ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ主を賛美」しました。すると「雲が満ち、祭司たちはそこに立って仕えることができなかった。」という状態になりました。主の栄光が満ちるとこのような状態になるのです。

ここでは、ここに集った全員が同じ体験をしました。これは、「神の民の一致、神の共同体の一致」ということです。神様と人間との関係は、個人的な関係でもあり、共同体としての関係でもあります。

私はブラックゴスペルを歌っていますが、何度かその賛美のなかで全身がしびれるような神様の臨在を感じて、主の栄光に満たされた体験があります。一番印象的だったのは、アメリカのブラックチャーチの礼拝で、現地の教会の聖歌隊と一緒に賛美した時でした。まるで歴代誌に書かれている神を賛美するレビ人たちのように、みんなが喜んで主を賛美しました。

すると圧倒的な神の臨在の中で、大勢の歌声がまるでひとりででもあるかのように一致したのです。驚きなのは、その歌っているクワイヤーメンバーの中に、ノンクリスチャンのメンバーもいて、同じ体験をしたということです。そのメンバーの中で私が知っている人たちは、後に全員が洗礼を受けることになりました。

おそらく「霊である神」の圧倒的な臨在に、人間に本来備わっている霊が応答したことの結果だと思います。

そのノンクリスチャンのメンバーたちの中には、もともと神への求めがあった人もいれば、信仰とは別に、「ブラックゴスペルの本場であるアメリカに行って、ゴスペルを歌って学んで楽しみたい。」と思って参加しただけの人もいました。しかしその全員が信仰に導かれたのです。

神様の御計画は本当に計り知れないと思わされた出来事でした。みなさんにも、礼拝や賛美の中で神様の圧倒的な臨在を感じたという、同じような体験があるのではないでしょうか。

神様は旧約聖書に書かれているイスラエル民族だけではなく、異邦人も含めた「神の民、共同体」に語りかけてくださっているのです。礼拝の中で「神の霊」の語りかけが響き、人間の中にある「霊」も、それに応えて響くのです。イエス様の「まこと」が人間の「まこと」となるのです。

その礼拝に集うすべての人々が、「霊である神と響き合う」のです。

私たちが毎週捧げる礼拝が、毎回このような主の栄光に満ち溢れるものとなるならば、どんなに素晴らしいでしょうか。

それにはまず、私たちひとりひとりが、歴代誌に書かれているように、神殿の工事を完成させ、契約の箱を至聖所に運び入れたときのように、心から喜び、神を礼拝することが大切なのではないでしょうか。

次に、◆③未来 : ひれ伏して感謝を捧げる礼拝の記述

ということについて、考えてみたいと思います。

新約聖書に記されている最後の書、黙示録からは、究極の礼拝の姿を垣間見ることができます。

<黙示録4:8-11>

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4:8  この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」

4:9  また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、

4:10  二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。

4:11  「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

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4:11に書かれているように、「神のみこころのゆえに万物は存在し創造された」のです。

イギリスに、N.T.ライトという、著名な新約学者がいますが、N.T.ライトは著書の中で礼拝についてこのように語っていました。

『あなたは神のかたちに造られているゆえに、礼拝はあなたをさらに真の人間にする。そのかたちに造られたあなたが、神を愛と感謝をもって見つめるなら、あなたは確かに成長する。生きていることの意味を、心底、さらに見いだす。』

その通りだと思います。私たちは、神のかたちに似せて造られ、神のみこころのゆえに存在しています。

私たち人間が神を礼拝するのは、神と霊と霊で交わり、「私たちが、生きていることの意味を、心底、さらに見いだす」ためではないでしょうか。

私は礼拝に集う時、次のような心をもっていたいと思います。

「創造主なる神様は、私を神様のかたちに似せて造ってくださり、神様の目から見て、良いものとしてくださいました。それにもかかわらず、私の心は神様への愛と感謝を忘れ、この世のことで思い煩ってしまいます。しかし、このような私をあなたは憐れんでくださり、こうして礼拝に集わせてくださいました。今、心からあなたを愛し、感謝をもって見つめます。どうぞ私がこの地に「生きていることの意味」を心底、さらに見いだすことができますように。」

そのように祈り願いながら礼拝に集うなら、「生きていることの意味」を心底、さらに見出すことができ、その恵みに感謝し、心に喜びが溢れていくのではないでしょうか。

◆④メッセージを聞く姿勢、語る姿勢

そして忘れてはならないのは、主日礼拝は、祈りや賛美を捧げるだけではなく、その中心には、牧師や伝道者が聖書のみことばを取り次ぐメッセージがあります。

その「メッセージを聞く姿勢」というのは、とても大切だと思います。

私が以前通っていた神学校では、毎朝授業の前に礼拝がありました。

先生方や学生が20分間のメッセージを持ち回りで受け持つのですが、当然のことながら学生のメッセージは「とんちんかん」なものが多いのです。

いろんな注解書などを読んでいるうちに、自分でも訳がわからなくなってそうなるのですが、そんな時、いろんな先生方からメッセージ批評やアドバイスをしていただきたいと学生みんなが思うわけです。

ところが、ある80代の老先生は、学生たちに批評を求められるたびに、ニコニコしながらこのようにおっしゃるのです。「私は誰のメッセージを聞いても、感謝しかありません。神のみことばを取り次いでくださっているのですから。批評などはありません。」と。

その先生は、天才的な神学博士でありながらも、大変謙遜で腰の低い方で、みんなから慕われ尊敬されていました。でも、当時の私は、「批評してくださったほうが、私たちの成長のためになるのになー。」と思っていましたし、「どんなメッセージでも感謝しかない。」とおっしゃる先生の言葉の意味がよく解りませんでした。

私は勝手に、「80代ともなると、かように寛大になるものなのかなー。見倣わねば。」と感心しきりだったのですが、今になって、なぜ先生がそう言われたのかがやっと解りました。

先生はこの神学校の朝の礼拝に、「先生」という立場ではなく、また、授業の一環としてでもなく、「いち礼拝者」として、霊とまことによって喜んで礼拝されていたのでないかと思うのです。

この先生のような、「メッセージを聞く姿勢」というのは、本当に大切だと思うのです。

また、みことばを取り次ぐ者も、どんな時も、真摯にみことばに取り組み、神の霊によって語ることが大切だと自戒を込めて思います。語る者自らが喜びをもって礼拝を捧げているその姿勢が、礼拝に集ったひとりひとりを「霊とまことによって喜んで礼拝する」ことに導いていくのではないかと考えます。

「聞く者」の姿勢、「語る者」の姿勢、どちらも神に対する姿勢をあらわしています。

その両者を神は常に力強い御手で導いてくださいます。

その偉大なる神に感謝し、「霊とまことによって喜んで礼拝する」ことによって、神との関係を深め、心底、さらに、尚いっそう、生きていることの意味を見出すことができるように、日々祈り、主日礼拝に臨みましょう。

 

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