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2017年1月29日 (日)

 ~霊とまことによって喜んで礼拝する~亀有教会副牧師 毛利佐保

◆聖書箇所:ヨハネの福音書4章21-24節、Ⅱ歴代誌5章13-14節、黙示録4章8-11節

本日は、礼拝についてお話したいと思います。

みなさんは、今こうして神様を礼拝するためにここに集われています。

集われた目的が、「神様を礼拝するため」というのは当然ですが、今日ここに集うまでに、みなさんの心の中で無意識に思ってしまった本音というものはありませんでしたか?

単純に、「眠い。もっと寝ていたかったなー。あー休みたいなー。」とつい思ってしまって、「神様ごめんなさい。」と自分を叱責しながら、義務的に礼拝に来てしまった。・・・とかありませんか?

あるいは、「奉仕があるから行かなきゃならない。」と、礼拝よりも奉仕の方が優先されたり、あるいは、もっと人間的な思いで、「あの人に会いたくないから行きたくないなー。」とか、逆に、「あの人に会いたいから行く。」とか、人間関係の方に心が行ってしまうなど、ありませんか?

もちろん本当に純粋な心で神様からみことばの糧をいただくことを楽しみにして、毎週礼拝に来られる方もたくさんいらっしゃると思います。

礼拝は大事です。なぜなら私たち人間が生きる意味を心底、さらに見いだすことができるからです。「神を礼拝する」ということについては、神様がこの世界を創造された時、七日目にすべてのわざを休まれて「聖なる日」とされた時からすでに始まっています。その七日目の「聖なる日」は、のちに安息日と呼ばれ、神を礼拝する日とされました。

礼拝については、旧約聖書の創世記から新約聖書の黙示録まで聖書の中で一貫して随所に語られています。それだけに、「神を礼拝する」ということが、人間にとってどれだけ重要なことかということがわかります。

では本来、私たちはどのような心をもって、どのような礼拝を捧げれば良いのでしょうか。神様が聖書から語ってくださっている礼拝のすがたについて確認しながら考えていきたいと思います。

♪現在過去未来~あの人に逢ったなら~by 渡辺真知子という歌が70年代後半に流行りましたが、物事を考える時に、現在から、過去を振り返り、未来へ向けて考えていくと、より深く理解することができますので、本日はそうしてみたいと思います。

①現在(ヨハネの福音書に記されている礼拝を現在とします)

②過去(Ⅱ歴代誌に記されている礼拝)

③未来(黙示録に記されている礼拝)

として、聖書の記述を確認しながら、本来あるべき礼拝のすがたや、私たちの礼拝にのぞむ姿勢について考えてみましょう。

◆①現在 : 霊とまことによって礼拝するという記述

「霊とまことによって礼拝する。」という言葉は、イエス様がサマリヤの女に向かって語ったことばです。

<ヨハネの福音書4章21-24節>

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4:21  イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

4:22  救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

4:23  しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

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みなさん、サマリヤの女の話はよくご存知だと思いますが、簡単に振り返ってみます。

ヨハネの福音書4章のはじめから42節までは、心がいつも飢え渇いていて、罪を犯し続けてしまうサマリヤの女が、イエス様と出会って渇くことのない永遠のいのちへの水をいただいた話が書かれています。彼女はイエス様を救い主として信じ、彼女の周りにいたサマリヤ人たちも救いに導かれました。

先ほど読み上げた21節に書かれている「この山」とは、ゲリジム山のことです。その頃のユダヤ人たちは、異邦人との婚姻で生粋のユダヤ人ではなくなってしまったサマリヤに住むユダヤ人たちを忌み嫌っていました。そのことがあって、サマリヤ人たちは、ゲリジム山で神を礼拝し、生粋のユダヤ人たちはエルサレムで神を礼拝するという状況になっていました。

ところがイエス様はサマリヤの女に、礼拝の場所はエルサレムでもなく、ゲリジム山でもないという日が来ると言われました。ユダヤ人も異邦人も関係なく、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ること、そして、今がその時ですと言われました。天の父はこのような人々を礼拝者として求めておられるということも教えてくださいました。

「霊とまことによって父を礼拝する時」とは、現在の私たちにもイエス様が言われていることです。今現在も、「霊とまことによって父を礼拝する時」なのです。

イエス様は、霊とまことによって礼拝しなければならないという理由について、4:24で、「神は霊ですから」と言われています。

聖書には、「主の霊」「神の霊」という言葉がたくさん出てきます。

「霊」は、ギリシャ語で「プニューマ」という言葉ですが、ヨハネの福音書では、「人間の魂や霊」というよりも、「神の霊」を指す場合が圧倒的に多く見られます。

そして人間には、このような霊が与えられています。

<ヨブ記 32章8 節>には、

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しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える。

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と書かれています。

「全能者の息」とは、「神の霊」のことで、その霊によって人に悟りが与えられるというのです。

「人の中にある霊」とは、人間の魂とか霊ではなく、「人の中にある聖霊」と言う意味です。

私たちは聖霊によって、神の子として神を父と呼ぶ礼拝をさせていただけるということなのです。

ですから「霊とまことによって礼拝する」の「霊」とは「神の霊」「聖霊」なのです。

私たちは、私たちの内にある聖霊によって神の語りかけに応答し、礼拝するのです。

次に、「まこと」という言葉についてですが、「まこと」は、ギリシャ語で「アレーセイア」といいますが、「真実」と言う意味があります。これも、私たち人間の側の「真実」というよりも、「イエス様の真実」という意味です。

イエス様ご自身が「真実まことの御方」であるので、イエス様によって私たちは「まこと」とされて、礼拝するという意味なのです。つまり「霊とまことをもって礼拝する」とは、人間の霊と人間のまことによって礼拝するのではなく、「主の霊・聖霊」と、「イエス様のまこと」によって礼拝するという意味なのです。

この礼拝の中に、父・子・御霊の三位一体の神が臨在しておられるということです。

私たちは、霊と霊で神様を礼拝しているのです。

次に、聖書に書かかれている、過去の礼拝について、旧約聖書の歴代誌から見ていきましょう。

◆②過去 : 主の栄光が満ちている礼拝の記述

Ⅱ歴代誌には、ダビデ王の子、ソロモン王が神殿の工事を完成させ、契約の箱を至聖所に運び入れたときの様子が書かれています。その時祭司は礼拝を捧げ、レビ人たちは賛美をしました。

<Ⅱ歴代誌5:13-14 >

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5:13 ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、【主】を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と【主】に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち【主】の宮は雲で満ちた。

5:14  祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。【主】の栄光が神の宮に満ちたからである。

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神殿が完成し、契約の箱を至聖所に運び入れたとき、民たちは心から「喜んだ」ことでしょう。

その喜びの中で、「ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ主を賛美」しました。すると「雲が満ち、祭司たちはそこに立って仕えることができなかった。」という状態になりました。主の栄光が満ちるとこのような状態になるのです。

ここでは、ここに集った全員が同じ体験をしました。これは、「神の民の一致、神の共同体の一致」ということです。神様と人間との関係は、個人的な関係でもあり、共同体としての関係でもあります。

私はブラックゴスペルを歌っていますが、何度かその賛美のなかで全身がしびれるような神様の臨在を感じて、主の栄光に満たされた体験があります。一番印象的だったのは、アメリカのブラックチャーチの礼拝で、現地の教会の聖歌隊と一緒に賛美した時でした。まるで歴代誌に書かれている神を賛美するレビ人たちのように、みんなが喜んで主を賛美しました。

すると圧倒的な神の臨在の中で、大勢の歌声がまるでひとりででもあるかのように一致したのです。驚きなのは、その歌っているクワイヤーメンバーの中に、ノンクリスチャンのメンバーもいて、同じ体験をしたということです。そのメンバーの中で私が知っている人たちは、後に全員が洗礼を受けることになりました。

おそらく「霊である神」の圧倒的な臨在に、人間に本来備わっている霊が応答したことの結果だと思います。

そのノンクリスチャンのメンバーたちの中には、もともと神への求めがあった人もいれば、信仰とは別に、「ブラックゴスペルの本場であるアメリカに行って、ゴスペルを歌って学んで楽しみたい。」と思って参加しただけの人もいました。しかしその全員が信仰に導かれたのです。

神様の御計画は本当に計り知れないと思わされた出来事でした。みなさんにも、礼拝や賛美の中で神様の圧倒的な臨在を感じたという、同じような体験があるのではないでしょうか。

神様は旧約聖書に書かれているイスラエル民族だけではなく、異邦人も含めた「神の民、共同体」に語りかけてくださっているのです。礼拝の中で「神の霊」の語りかけが響き、人間の中にある「霊」も、それに応えて響くのです。イエス様の「まこと」が人間の「まこと」となるのです。

その礼拝に集うすべての人々が、「霊である神と響き合う」のです。

私たちが毎週捧げる礼拝が、毎回このような主の栄光に満ち溢れるものとなるならば、どんなに素晴らしいでしょうか。

それにはまず、私たちひとりひとりが、歴代誌に書かれているように、神殿の工事を完成させ、契約の箱を至聖所に運び入れたときのように、心から喜び、神を礼拝することが大切なのではないでしょうか。

次に、◆③未来 : ひれ伏して感謝を捧げる礼拝の記述

ということについて、考えてみたいと思います。

新約聖書に記されている最後の書、黙示録からは、究極の礼拝の姿を垣間見ることができます。

<黙示録4:8-11>

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4:8  この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」

4:9  また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、

4:10  二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。

4:11  「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

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4:11に書かれているように、「神のみこころのゆえに万物は存在し創造された」のです。

イギリスに、N.T.ライトという、著名な新約学者がいますが、N.T.ライトは著書の中で礼拝についてこのように語っていました。

『あなたは神のかたちに造られているゆえに、礼拝はあなたをさらに真の人間にする。そのかたちに造られたあなたが、神を愛と感謝をもって見つめるなら、あなたは確かに成長する。生きていることの意味を、心底、さらに見いだす。』

その通りだと思います。私たちは、神のかたちに似せて造られ、神のみこころのゆえに存在しています。

私たち人間が神を礼拝するのは、神と霊と霊で交わり、「私たちが、生きていることの意味を、心底、さらに見いだす」ためではないでしょうか。

私は礼拝に集う時、次のような心をもっていたいと思います。

「創造主なる神様は、私を神様のかたちに似せて造ってくださり、神様の目から見て、良いものとしてくださいました。それにもかかわらず、私の心は神様への愛と感謝を忘れ、この世のことで思い煩ってしまいます。しかし、このような私をあなたは憐れんでくださり、こうして礼拝に集わせてくださいました。今、心からあなたを愛し、感謝をもって見つめます。どうぞ私がこの地に「生きていることの意味」を心底、さらに見いだすことができますように。」

そのように祈り願いながら礼拝に集うなら、「生きていることの意味」を心底、さらに見出すことができ、その恵みに感謝し、心に喜びが溢れていくのではないでしょうか。

◆④メッセージを聞く姿勢、語る姿勢

そして忘れてはならないのは、主日礼拝は、祈りや賛美を捧げるだけではなく、その中心には、牧師や伝道者が聖書のみことばを取り次ぐメッセージがあります。

その「メッセージを聞く姿勢」というのは、とても大切だと思います。

私が以前通っていた神学校では、毎朝授業の前に礼拝がありました。

先生方や学生が20分間のメッセージを持ち回りで受け持つのですが、当然のことながら学生のメッセージは「とんちんかん」なものが多いのです。

いろんな注解書などを読んでいるうちに、自分でも訳がわからなくなってそうなるのですが、そんな時、いろんな先生方からメッセージ批評やアドバイスをしていただきたいと学生みんなが思うわけです。

ところが、ある80代の老先生は、学生たちに批評を求められるたびに、ニコニコしながらこのようにおっしゃるのです。「私は誰のメッセージを聞いても、感謝しかありません。神のみことばを取り次いでくださっているのですから。批評などはありません。」と。

その先生は、天才的な神学博士でありながらも、大変謙遜で腰の低い方で、みんなから慕われ尊敬されていました。でも、当時の私は、「批評してくださったほうが、私たちの成長のためになるのになー。」と思っていましたし、「どんなメッセージでも感謝しかない。」とおっしゃる先生の言葉の意味がよく解りませんでした。

私は勝手に、「80代ともなると、かように寛大になるものなのかなー。見倣わねば。」と感心しきりだったのですが、今になって、なぜ先生がそう言われたのかがやっと解りました。

先生はこの神学校の朝の礼拝に、「先生」という立場ではなく、また、授業の一環としてでもなく、「いち礼拝者」として、霊とまことによって喜んで礼拝されていたのでないかと思うのです。

この先生のような、「メッセージを聞く姿勢」というのは、本当に大切だと思うのです。

また、みことばを取り次ぐ者も、どんな時も、真摯にみことばに取り組み、神の霊によって語ることが大切だと自戒を込めて思います。語る者自らが喜びをもって礼拝を捧げているその姿勢が、礼拝に集ったひとりひとりを「霊とまことによって喜んで礼拝する」ことに導いていくのではないかと考えます。

「聞く者」の姿勢、「語る者」の姿勢、どちらも神に対する姿勢をあらわしています。

その両者を神は常に力強い御手で導いてくださいます。

その偉大なる神に感謝し、「霊とまことによって喜んで礼拝する」ことによって、神との関係を深め、心底、さらに、尚いっそう、生きていることの意味を見出すことができるように、日々祈り、主日礼拝に臨みましょう。

 

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2017年1月20日 (金)

良心の声 マタイ14:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.1.22

 きょうは前半が「良心の声」であり、後半が「寂しい所で」という2つのメッセージになっています。前半は良心の声を聞くことをお話したいと思います。また、後半は寂しい所で主の御声を聞くということをお話ししたいと思います。共通していることは「聞く」ということです。この世はたくさんの情報が飛び交っており、なかなか、この2つの声を聞くことができないのではないでしょうか?どうか、この世に押し流されず、主が願っている生き方をしたいものです。そのためには、この2つの声を聞くということがとても重要です。

1.良心の声

歴史において、最も残酷非道な出来事が聖書に記されています。ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンテパスはガリラヤとペレヤの地方を治める国主(領主)でありました。ローマから任命されて、その地方を治めていたのですが、王様のような暮らしをし、人々も彼を王と呼んでいました。彼は一人の妻と結婚をしていましたが、弟であるピリポの妻ヘロデヤと恋に陥り、ピリポから彼女を奪って自分の妻としたのです。バプテスマのヨハネはそのようなことは、神の律法に反していると、権力者を恐れずはっきり指摘しました。しかし、ヘロデはヨハネを沈黙させるために、投獄してしまいました。聖書には、二人の殺意が記されています。その一人がヘロデです。マタイ14:5「ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである」と書いています。マルコ6章を見ると、ヘロデヤにもそれがあったことが分かります。マルコ619「妻ヘロデヤがヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、果たせないでいた。それは、ヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。」と書いています。しかし、女の執念というのは恐ろしいものです。ヘロデヤはヘロデに対して、朝となく夜となく、「ヨハネを殺してしまいなさい」と勧めていたのでしょう。そして、その機会を狙っていました。恐ろしい事件がとうとうやってきました。ヘロデの誕生祝いのとき、ヘロデヤの娘(連れ子)がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせました。娘の名はサロメだと言われていますが、彼女の踊りはきわめて淫らなものであったと言われています。ヘロデは来客の前で気前のいい所と権力を見せびらかせようとして、王様のような約束をしました。そこで、母ヘロデヤは好機到来とばかり、娘に「ヨハネの首を盆に載せて持って来て欲しい」と言わせました。ヘロデは誓いと列席の人々の手前もあって、首を与えるように命じました。やがて、ヨハネの生首が盆に載せられて運ばれ、少女から母親へと渡されるのです。まことに残酷で胸が悪くなるような話しであります。

             

 前半のメッセージはヘロデとヘロデヤのようなコンビにならないように教訓を得るということです。それは良心の声に従えるかどうかであります。ヘロデは国主でありましたが小心者でした。バプテスマのヨハネの声は自分の良心の声でした。彼は良心の声に従わないで、民衆を恐れ、またヘロデヤの声に従ったのです。私たちは良心を牢に閉じ込めて生きるような中途半端な生き方をしてはいけません。そういう人は、やがて人々を恐れ、迷信に陥ってしまいます。マタイ14:1,2「国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、…あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」ヘロデ王は、イエス様の噂を家来から聞きました。その時、「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」と言いました。ヘロデは自分の良心に従わず、聖なるヨハネに邪悪なことをしたことを思い出しました。彼の心は「お前は神の助言を軽んじて、忌まわしい殺人を犯してしまった」と言いました。ヘロデはバプテスマのヨハネを殺しましたが、それは自分の良心を殺したのです。では、それでうまくいったかというとそうではありませんでした。イエス様の噂を聞いたとき、「ヨハネが死人の中からよみがえった」と言いました。今度、彼の心は恐れと迷信に犯されていました。ヘロデは王様でしたが、本当の王様でありません。ローマのカイザルから、「ガリラヤとペレヤの地方を治めるように」と命じられていた「領主」でありました。なぜなら、偏屈なユダヤ人を治めるのが困難だったからです。

しかし、ヘロデは王様でもないのに、王のようにふるまい虚勢をはって生きていました。それでいて内側は小心者で人々を恐れ、妻を恐れていました。一般的に男性は外側を見栄やプライドで覆って、内側の良心を牢獄に閉じ込めています。男性が贈収賄の罪に弱いのは、こういう所があるかもしれません。「よしゃ、よっしゃ」でやってしまうのです。そういう人に限って、信仰を持つのは「女々しいとか弱い」とか馬鹿にしますが、自分の本当の姿に直面していないのです。人生の半ば不幸にも、何かに躓いて、いやがおうにも「自分の人生」を見つめるようになります。ある人は病気、ある人は仕事の失敗や失業、またある人は家庭の崩壊です。テレビでも昨日までは、会長とか社長をしていた人物が、逮捕され実刑を受けたりするニュースがよく報道されています。学歴、社会的な立場、持ち物、いろんな虚勢の着物を来ていますが、中身が問題です。残念ながら、これは学校でも会社でも教えてくれません。神様が、聖書を通して、また試練を通して教えて下さいます。それは、神の良心に従えということです。人を恐れず、神のみを恐れる人には平安があります。たとえ、一切の物を失ったとしても、キリストにある信仰がその人を立ち上がらせて下さるのです。信仰を馬鹿にしないで下さい。信仰faithful と言う言葉は真実とか忠実から来ています。真実で忠実な人こそ、揺るぎない人生を送ることができるのです。アーメン。

 もう一方は、女性であります。ある人が言いました。「世界を動かすのは男であるが、その男を動かすのは女性である」と。このストリーからも、良きにつけ悪しきにつけ、夫に与える妻の影響が大きいことを覚えざるを得ません。聖書の中には夫をそそのかして悪いことをした妻の例が案外多いのです。エバも夫アダムにすすめて禁断の木の実を食べました。「事件の背後に女あり」であります。信仰の父と言われるアブラハムも妻サラの勧めを受け、はしためハガルとの間に子供をもうけるという失敗をしました。また、イスラエルの王アハブも、その妃イゼベルにそそのかされて、バアル礼拝をイスラエルに大々的に輸入しました。そして、まことの神を信じる預言者エリヤのいのちを狙いました。この旧約時代におけるイゼベルに匹敵する人物は、新約時代におけるヘロデヤです。イゼベルがエリヤの命を求めたように、ヘロデヤはエリヤの再来である預言者ヨハネの命を求めたのです。それでは、ヘロデヤの良心はどうなっていたのでしょうか?完全に麻痺していました。彼女の心は神から離れていただけではなく、自分が神になっていたのです。夫をコントロールし、また娘をコントロールしていました。大体、ヘロデ王が「願う物は何でも必ず上げる」と言った時、娘はどうしたでしょうか?マルコ624-25そこで少女は出て行って、「何を願いましょうか」とその母親に言った。すると母親は、「バプテスマのヨハネの首」と言った。そこで少女はすぐに、大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとうございます。」娘は何がほしいか自分で決めることができませんでした。そして、母親のところに行って「何を願いましょうか」と聞いたのです。それで母親が「バプテスマのヨハネの首」と言いました。普通の娘だったら、「お母さん、やめて」と断るはずです。でも、大急ぎで王様の前に行って「ヨハネの首をお盆に」と頼みました。これはありえないことです。この母親と娘の関係を「共依存関係」と言うのです。娘は良い年になっても、自分で決断できませんでした。娘の良心も母親に操られ、麻痺していました。

 私たちはヘロデ、ヘロデヤ、あるいは娘のようになってはいけません。答えは、神を恐れ、良心の声に耳を傾けるということです。しかし、罪の中で生まれた人間の良心が、正しく機能できるのでしょうか?でも、一体、良心はどこにあるのでしょうか?ウィットネス・リーが書いた『神の永遠のご計画』という本にそのことが書かれていました。魂の内側に霊があります。霊は良心、交わり、直覚の三つ部分から成っています。善悪を識別することは、良心の1つの機能です。でも、生まれつきの人は霊が死んでいるか、眠っている状態なので、正しく機能していません。では、どうしたら良いのでしょうか?私たちは、主イエス・キリストを信じると霊的に新しく生まれます。そのとき、良心も霊の中で目覚めるのです。目覚めた良心は魂の「思い」という部分に働きかけます。創世記65「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった」と書いてあります。このところから計る「思い」の中に、悪い「良心」があることがわかります。でも、この良心が目覚めるならば、私たちの思いに「善悪とは何か」について教えてくれます。聖霊に満たされれば満たされるほど、良心が私たちの思いを支配するようになります。こうやって人は、神を恐れ、正しい生活をすることができるようになるのです。使徒パウロは何度か裁判にかけられましたが、人々の前でこのように言いました。使徒23:1「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」使徒2416「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」私たちも全くきよい良心、責められることのない良心を持つことが可能なのです。この良心を持つならば、何ものも恐れずに、神と共に、正しい道を歩むことができます。あなたの魂の内側にある良心を大事にし、良心の声に耳を傾けましょう。

2.寂しい所で

 マタイ14:13「イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。」「このこと」とは何でしょうか。マルコやルカ福音を見ますと、12弟子が伝道旅行から帰ってきたことをさしています。しかし、マタイは時間的な流れを無視して、イエス様が寂しい所に行かれたのを、ヘロデのことと関連させています。ヘロデとヘロデヤによって、預言者ヨハネが無残に殺されてしまいました。そして、ヘロデがイエス様の噂を聞いたとき、「イエスには死んだヨハネのよみがえりの力が働いているんだ」と恐れました。やがて、ヘロデはパリサイ人らと組んでイエスを捕らえようとします。そういうことを知って、イエス様は自分だけで寂しい所に行かれたと取ることができます。まったくひどい政治がなされています。この世的には告訴をしたり、社会運動を展開した方が良さそうなものです。また、メシヤであるなら神の力を行使してでも正すべきだという意見もあるでしょう。しかし、イエス様はそういうことはしませんでした。その場所を去って、自分だけで寂しい所に行かれました。何のためでしょう?それは御父と祈るためであります。イエス様は悪に満ちたこの世を政治的な力で変えるようなことはなさいませんでした。そうではなく、一人で祈られたのです。おそらく、バプテスマのヨハネに対する悲しい出来事を御父の前に訴えたでしょう。これまで何人の預言者が殺されたでしょうか?ヨハネは旧約の最後の預言者でした。そして、イエス様は神の御子として、最後の切り札として来られたのです。いつまで、悪が支配して良いのでしょう。イエス様は裁きをゆだねつつ、御国が来るように祈られたことでしょう。これは、聖書には書いていませんが、まもなくヘロデは勢力争いに負け、領地が没収され、ヘロデヤと共にガリヤに流刑にされ、そこで死んだと言われています。

 

私たちにとって「寂しい所」とは、祈りの場であります。この世では悲しい知らせや、いやな出来事が満ちていますので、不安と恐れがやってきます。知らないうちに私たちの心は、やるせない思いや憎しみ、いらだちや不信仰に支配されています。そういう時こそ、人々から離れて祈るのです。10分、20分も祈ると、自分を縛っていた鎖が壊されていくのがわかります。祈らないで、肉の力や考えで行動すると、ますます問題が複雑になります。そういう時こそ、寂しい所に退くべきです。キリスト教会のある団体では、「退修会」という名の修養会があります。何日間か、山の施設で瞑想のときを持つのです。テレビも見ない、新聞も読まない。人ともしゃべらないで、ただ聖書を読み、神様と交わるのです。そうしますと、めまぐるしく動いていたとき、見えなかった重要なことが見えてくるのです。もう、年が明けてしまいました。このまま私たちは歩き始めるのでしょうか?今からでも遅くありません。静かに瞑想して、神様から新しいビジョンをいただいたら良いと思います。

また、「このこと」とは時間的に、弟子たちが伝道旅行から帰って来た直後であります。ルカ910「さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。」弟子たちは、病の癒しや、悪霊が追い出されたことなどを意気揚々と報告したことでしょう。イエス様は弟子たちに、「寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われました。弟子たちは伝道旅行の成果に有頂天になっていたのかもしれません。私たちは物事が順調に進み、成功を重ねているうちに、自分が燃え尽きてしまっていることを忘れてしまいます。私たち原子力潜水艦のようにずっと動き続けることはできません。一生懸命走った後は、休まなければなません。休むことを惜しんで働く人は、燃え尽きてしまい、後からとんでもない長さの休養を取らざるを得なくなるでしょう。旧約聖書にエリヤというものすごい力のある預言者が記されています。エリヤはカルメル山上で、バアルの預言者450 人とたった1人で戦いました。結果は、エリヤが祈ると主の火が降り、エリヤの大勝利に終わりました。また、エリヤが一生懸命、祈ると三年間降っていなかった雨が降りました。そのとき、妃のイゼベルがものすごく怒り、エリヤの命を取ると脅しました。エリヤはたった一人の女性を恐れて、立ち去りました。そして、神様に自分を殺してくださいと願いました。まさしく、エリヤは燃え尽きてしまったのです。主は彼を荒野に導き、休息の時を与えました。燃え尽きは、働き盛りの40-50 代に一番多いと言われています。1つの大きなプロジェクトを成し遂げた後、チームの中から1人や2人が必ず燃え尽きてしまう人が出て、自殺する場合もあるそうです。宣教師も日本に来ていますが、言葉、食べ物、習慣が違います。長くいると燃え尽きて、祈ることさえできなくなるそうです。そのため、宣教師は安息年をとって、母国に一度帰ります。ある宣教師は「日本の牧師も7年か10年ごとに安息年を取って、聖書の戒めに従うべきだ」と言いました。私の場合は仕事と休みの境目がありません。毎日が仕事で、毎日がお休みみたいです。そのため、まとまった休みを取るということがまずありません。2年前の正月、スキーに行くため3日間の休みを取りました。ところが、葬儀が入って、3日目の朝、戻ってきました。不思議なことに、3日間くらい教会と家を離れると、頭がクリヤーになります。同じことの繰り返して、麻痺しているのではないかと思います。ですから、みなさんもまとめて休みを取るということを計画なさったら良いと思います。

 「寂しい所」とは原文では「荒野」(エレモスdesert)という言葉が使われています。エレミヤ書31:2「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。」既に天に召されましたが、榎本保郎牧師は、「荒野で恵みを得た」という言葉が大好きだったそうです。先生の『旧約聖書一日一章』の中から引用させていただきます。「荒野という所は恵みの無い所、石がゴロゴロしていて、水も湧かず草も生えない所である。しかし、そういう所で恵みを得たというのである。イスラエルの民は、荒野で40年の生活をし、私たちの想像もできない苦しい生活であったと思われる。しかし、きょうの生活を楽しみ、あすの生活を楽しんでいたら、彼らは生ける主の手にふれることはできなかったであろう。あるいはマナを集め、岩から水をくむ荒野の経験をすることはなかったであろう。荒野とは、実に神と出会う所なのである。イスラエルの民が、神のみ言葉に従っていくとき、それはこの世の常識やしきたりをこえたものであるから、そこは荒野であった。しかし、彼らはそこで恵みを得たのである。」当教会にも「寂しい所、荒野」を通らされている兄姉がいらっしゃると思います。病気のため、不景気のために、あるいは人間関係のもつれもあるかもしれません。しかし、荒野は神と出会う所であり、荒野でしかいただけない主の恵みがあるということです。病気療養中の方は、1日1日、主によって命が与えられ、生かされていることを知るでしょう。健康な人でも、明日のことはわかりません。1日1日、無駄に使ってはいけません。また、不景気な中で大変な方々もいらっしゃると思います。こういう時こと、クリスチャンは天からマナが降り、岩が裂けて水が湧くことを期待していくべきです。

かつてのクリスチャン新聞の福音版に鐘紡専務取締役を退任した後、カネボウ薬品の会長を務めた三谷さんの証が載っていました。会社に入って10年目、クリスチャンになってから、妥協したり、上司にへつらうことをしなかったために、左遷と降格の憂き目にあいました。1965年薬品部門に移ったのですが、そこは赤字で、実質的には左遷でした。就任した4月、老化防止のための漢方薬の販売を任されました。すでにライバル会社が10社以上もひしめいています。毎月の売り上げが低迷すれば、たちまち責任を問われます。三谷さんは、目標を掲げながら毎朝祈り、賛美のテープを聴きながら出勤しました。この漢方薬は老化防止に効力を発揮し、全国の顧客から礼状が届きました。三谷さんはバブル経済絶頂期に高利金利を招く新工場建設中止を進言しました。すでに実施決定済みだったため、四面楚歌になり、それでも祈って神様から平安をいただきました。いち早くコスト削減策に着手し、バブル崩壊関係なく、業績は安定・向上していったそうです。第二の人生は妻と共に伝道したいとのことです。特に、不況下で先行き不安に陥りがちなビジネスマンに私の信仰を、体験を伝えたいというのが夢だそうです。三谷さんは左遷と降格という荒野を通りましたが、そこで、祈りました。聖書の言葉によって、自信がわいてきたそうです。三谷さんはこうもおっしゃっていました。国際化時代に入り規制緩和が進む中、日本の企業は集団追随型人間ではなく、自分の判断基準を持ち自己責任のとれる人間を必要としています。その意味からも聖書と祈りを強調されています。

このように考えると「寂しい所、荒野」もまんざら捨てたものではありません。神様と出会って、特別な恵みをいただける所であります。不幸を嘆いたり、自己憐憫に陥らず、むしろ「主よ、どんな恵みをご用意されておられるのでしょうか」と期待していくべきです。柱になる木というのは、南国の木ではなく、寒い山の頂きで少しずつ、少しずつ年輪を加えた木だそうです。その木は南国の木のようにヤワではなく、年輪が細かいので堅いのであります。クリスチャンもぬるま湯ばっかりつかっていますとダメです。少しは荒野を通過して、信仰的に鍛えられるときも必要です。荒野は人の住めない所ではありますが、主が一番近く感じるところでもあります。荒野はできれば通りたくないものですが、荒野を通過せざるを得ない時もあります。しかし、荒野、寂しい所で特別な主の恵み得る者となりたいと思います。アーメン。 

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2017年1月13日 (金)

倉の主人のたとえ マタイ13:51-58 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.1.15

 イエス様は天の御国についてのたとえを7つ語られました。その後、「あなたがたはこれらのことがみな分かりましたか?」とお聞きになられました。弟子たちは「はい」と答えました。山上の説教の終わりのとき、群衆はイエス様の教えに驚きました。なぜなら、イエス様が律法学者たちのようではなく、権威ある者のように語られたからです。ここに出てくる「学者」は律法学者と同じ名称であります。聖書を専門的に学んだ人たちのことです。イエス様の弟子たちも学者と言われていますが、当時の律法学者たちとどこが違うのでしょうか?私たちもある意味では、イエス様から学んだ弟子であり、また学者でもあります。

1.学者と倉の意味

 学者はscribeで、律法学者と同じ意味のことばです。もともとは「書き物」とか「書類」から来たもので、聖書を専門的に学んでいる人たちのことを言いました。このところで、イエス様は「天の御国の弟子となった学者は」とおっしゃっています。これは、弟子たちが「律法学者」だということです。しかし、ユダヤ教の律法学者ではありません。「天の御国の弟子となった」とありますので、彼らとはちょっと違うということです。では、どこが違うのでしょうか?「天の御国」とは「神の王国」という意味ですから、王であるイエス様に召された人であり、またイエス様に学ぶ人のことであります。つまり、イエス様から特別に天の奥義を教え込まれた人という意味があります。少し前の1311節でこのようにイエス様が言われました。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません」。また、17節では「多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったからです」とも言われました。すばらしいことに弟子たちは神からの教師、イエス様から直接、天の奥義を学ぶことができたのです。だから、当時の律法学者よりも、すぐれた学者だったということです。弟子たちは、何という特権に預かっていたことでしょう。

 ところが、ナザレの町の人たちはイエス様をどのように見ていたのでしょうか?1355節、「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちと一緒にいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」イエス様の肉の兄弟は、弟が4人、妹は複数いたことが分かります。マリヤが永遠の処女だったというローマ・カトリックの説はこのところで崩れます。ナザレの町の人たちはイエス様の知恵と不思議な力を認め、そして驚きました。ところが、「いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう」とイエス様につまずいたと書いてあります。本来なら、アーメン、ハレルヤとイエス様を信じて、神を恐れるべきであります。おかしな話であります。彼らはイエス様の兄弟と母、そして生まれや育ちを知っていたので、つまずいたのです。つまり、人間的な見方や考えで、「あのイエスが神の子であるはずがない」と馬鹿にしたのです。使徒パウロはⅡコリント5章で、口語訳ですが「かつてキリストを肉によって知っていたとしても、今はそのような知り方をすまい」(516と言っています。霊の目が開かれていないと、直接、イエス様の教えを聞き、イエス様の奇跡を見たとしても、何のことなのか分からないということです。まさしく、「天の御国の奥義を知ることが、彼らには許されていない」ということなのでしょう。これは一種の呪いであます。では、この世の学者にはそのことが分かるのでしょうか?マタイ1125「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」とも書かれています。ということは、人間の知識や知性では、イエス様の教えを悟ることができないんだということです。つまりは、イエス様が聖霊によって隠されたことを開いて、選ばれた人に教えてくださるということです。まさしく、それは啓示の世界であって、この世の知恵とは全く違います。

 その次に「倉」とは何でしょうか?倉と言ってもそれは倉庫ではありません。英語の聖書は、treasureと書かれており、「宝物倉」のことであります。私たちは財宝や宝物が貯蔵されている倉を想像すべきであります。イエス様はこのところで「自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです」と言われました。つまり、宝物倉には、新しい物と古い物と両方が納められているということです。では、「新しい物と古い物」とは何なのでしょうか?リビング・バイブルには「私の弟子である人たちは、旧約聖書の宝と新しい宝と、二つの宝を持つことになるのです」と書かれています。こんなにはっきり解釈して良いのか疑問になります。でも、JB.フリップス訳をみると、このことばの前に「律法を知り、そして天の御国の弟子になった」と書いてあります。ですから、古い宝は律法に代表される旧約聖書であり、新しい宝とはイエス様の教えに代表される新約聖書」と言っても過言ではないと思います。その当時は、まだ新約聖書が完成されていませんでしたが、今日の私たちは1冊の本として、手元に持つことができるのですから、何と幸いでしょうか?でも、申し上げておきますが、神の霊である、聖霊によって教えてもらわなければ、ただの本になり、「宝の持ち腐れ」になるということです。 

    

ギデオン聖書協会によって年間、何十万冊の聖書が学生たちに無料で配られています。彼らのほとんどが、それが宝物であると理解しているでしょうか?もし、開いて、読むならば、ぴかーっと財宝が輝くのではないでしょうか?これは、ギデオン協会のホーム・ページに載っていた証です。「高校2年生の時、ギデオンの聖書が配られました。その時は特に魅かれることもなく、教科書理解のための資料のつもりでカバンに入れましたが、それが20年後の私にとって最も大切な『なくてはならぬもの』になるとは夢にも思いませんでした。時折体調が悪く苦しい時、書棚から取り出してはパッと開いたページを、脂汗を流しながら読んだことが何度かありました。」アーメン。

 今日的に、イエス様から天の御国を学んだ者が、古い宝と新しい宝が収納された倉庫を持っていることはどのような意味なのでしょうか?それはだれでもない、クリスチャンこそが天の御国について学んだ者であり、旧約と新約の宝を持っているということです。問題は、ナザレの町の人たちのように自分の知恵や知識、また体験によってイエス様を、そして旧約と新約の宝を見ないということです。小学生はそうでありませんが、20才以上の人がクリスチャンになるというのはいろんなハードルがあります。学校では進化論を学び、人は猿から進化したと教えられます。また、歴史では十字軍のこととか、中世ヨーロッパの宗教戦争を学んで、嫌になるでしょう。また、いろんな宗教、とくにカルト宗教の噂を聞くと、「宗教は危ない」という恐れが入ります。それに日本ではクリスチャンが回りにいないので、懇切丁寧に教えを受けることもできません。教会の門も閉ざされていて、敷居が高い感じがします。クリスチャンである私たちも、「日本は難しい」という信仰を持っています。本当に日本は難しいのでしょうか?しかし、日本人はとても宗教心が篤く、科学を信じながらも、心のどこかでは神仏を求めるところがあります。クイズ番組とかスポーツの応援を見るときがありますが、手を組んで必死に祈っています。やはり、人間はいざとなったとき、超自然的な存在を求めるのではないでしょうか?第二次世界大戦中、あるアメリカ兵が「塹壕(ざんごう)の中に無神論者はいない」と言ったそうです。誰でも死と隣り合わせの激戦地の塹壕の中のような状況に置かれれば、神様を信じていない人でも、神様に向かって祈らざるを得なくなるということでしょう。いきなり教会に行くことは無理であっても、聖書がすぐそばにあるのではないでしょうか?また、インターネットでも、教会のホーム・ページからショートメッセージを見ることも、聞くこともできます。何とか、日本にこの素晴らしい神の宝である聖書が開かれ、イエス様と出会い、御国に入る人が起こされますように祈りたいと思います。

2.一家の主人の役目

 第一ポイントを要約しますと、倉とは宝物蔵であり、それは聖書ではないかということです。聖書の中には古いものもあれば、新しいものもあります。古いものとは律法を中心とする旧約聖書であり、新しいものとはイエス様の教えを中心とする新約聖書ではないだろうかというふうに解釈しました。イエス様は、「天の御国の弟子となった学者は、自分の倉から取り出す一家の主人のようなものです」と言われました。天の御国の弟子となった学者には、そのような権威と知恵が与えられているということではないでしょうか?このところでは「自分の倉」と限定されていますので、個人が自分の倉を管理しなければならないということも含まれているようです。この倉には二重の意味があります。第一は聖書という宝物蔵がそれぞれに与えられ、それをどう理解するか任せられているということです。第二は私たちは自分の中に聖書のみことばを蓄えておき、時宜になかったときに引っ張り出す責任があるということです。詩篇11911「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」と書いてあります。つまり、聖書という客観的な宝物蔵もさることながら、自分の中にある宝物蔵を管理し、たえずそれを出し入れしていくという努力も問われるということです。なぜなら、聖書は開かないままでいると、たとえそれが宝物蔵だとしても、役に立たないからです。聖書という宝物蔵と、自分の聖書に関する宝物蔵の両方が問われるということではないかと思います。そこで、私は聖書という宝物蔵を管理するためには3つのことが必要ではないかと考えました。

第一は常に聖書を学ぶ心が大切だと思います。「学者」とは、もともとは「書き物」とか「書類」から来たもので、聖書を専門的に学んでいる人たちのことです。つまり、絶えず学ぶ人、聖書の学徒でなければならないということです。私たちには、宝物蔵である聖書が神さまから与えられているのです。イギリスの大伝道者、ジョン・ウェスレーは「一書の人」と言われました。彼は極めて規則正しい生活をし、弟チャールスたちと神聖クラブを組織して、共に聖書を学びました。そして、炭鉱の町キングスウッドの子供たちの生活を指導し、刑務所改良運動に取り組んでいました。その働きが人々の目にとまりメソジスト(几他面屋、聖書の虫)と渾名されるようになりました。ジョン・ウェスレーは聖書がキリスト者の実行と信仰との唯一の力あると確信していたのです。また、ドイツでは敬虔運動が起りました。ある神学校の教授が、敬虔主義者の聖書に対する態度ということを述べており、これは現代の私たちにすばらしい指針を与えるものです。

①聖書を教理的に信じるよりも、聖書を愛する。

②注解書よりも聖書そのものを読む。

③現在の我々に対する意味を発見する。(今の私たちにどう語るかという適用)

④個人的・直感的に聖書を読む。ひらめきを得ることが多い。

⑤正統的信仰個条よりも信仰による生活を重視。

⑥機械的聖書霊感説を放棄。

⑦聖書の中心的問題と枝葉的問題を区別する。前者を重視する。

⑧聖書の各巻に価値の差をつける。

⑨教理から聖書に読み込みをつけない。信条から読み込みをしない。

⑩聖書の記述の中で、歴史、地理、系図、科学に関するものの中に、たとい誤りがあったとしてもかまわない。

 第二は学んだことを整理しておく。私たちは聖書も学びますが、信仰書や神学書からも学びます。私は説教に使えそうな、例話とか、だれかのお話し、今日の出来事も蓄えておきます。倉の管理は種類や用途別にちゃんと整理しておくということが肝心です。また、時々、「棚卸し」といって、在庫を調べ、不要なものは廃棄するということです。そうでないと、時代遅れのものがあふれてしまって、新しいものを入れられなくなるからです。学んだことを整理しておくということはとても重要です。整理しておくと、すぐ使うことができるからです。現在はパソコンが発達していますので、項目別にファイルすることができます。また、信仰に関する本や資料、テキストも備えておくべきではないでしょうか?みなさんが私のように説教する機会はないかもしれませんが、CSや小グループの分かち合いのときに役に立ちます。また、人に自分の信仰を説明するときにも役に立ちます。Ⅰペテロ315「そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」とあります。自分が失望落胆の沼に落ち込んだとき、どうしたら這い上がることができるのでしょうか?人からの慰めは励ましも必要ですが、ぱっと的確なみことばを開くことができたら何と幸いでしょうか?そのためには不断から聖書を読んでいなければなりません。みことばは「御霊の剣」と言われていますが、使っていないで錆びているなら、いざというときに抜けません。ですから、聖書を良く読み、また大切な信仰書を手元に置くことが重要です。

第三は学んだことの中から取り出す能力が必要です。ある英語の聖書ではproduceと書かれています。Produceは単なる取り出すという意味ではなく、「結実する」「制作する」「提出する」という意味があります。つまり、ただ取り出すのではなく、何か創造的な手を加えるという意味が含まれています。ある主題のために集められたたくさんのデーターを処理し、それを統合することが必要です。これは人間の能力を超えた力が必要です。私はmeditation瞑想がそのために最も重要ではないかと思います。私が説教を準備するとき、まず聖書を観察し、その意味を調べます。原語や英語の聖書もみます。どうしても意味が分からないときはだれかが書いた注解書からも調べます。その後、目をつぶって瞑想し、聖霊様に聞きます。そうするとメッセージの中核が与えられます。一番、すばらしいことは聖霊様が「これを、このように語れ」と教えてくださることです。不思議なことに聖霊様がどこの注解書にも書いていないようなことを教えてくれます。客観的にどうかではなく、自分が恵まれるということです。まさしく、聖書という宝物蔵から、produce「結実する」「制作する」「提出する」ということです。

もちろん、聖書の1つのみことばでも力があります。しかし、問題が大きくて複雑な場合は、複数のみことばと聖書的な考えが必要となります。たとえば結婚にしても、聖書にそのことを書いてある箇所が何か所もあります。結婚前、結婚してからのこと、子育てや様々なことが書かれています。世の中の考えや倫理がどうであれ、私たちは聖書から真理を抽出する必要があります。聖書から、仕事、人間関係、病のいやし、肯定的な人生、死生観…いろんな真理を抽出することができます。残念ながら、聖書は互いに矛盾しているようなことも書かれています。こっちとあっちで言っていることが違うということがあります。そういう時には本当に御霊による知恵と理解が必要になります。そして、また、自分の生活にどう適用したら良いかも問われます。そういう意味では、宝物蔵からどのように必要な真理を取り出すかということが重要になります。世の中ではアフターサービスやサポートセンターがあります。このお方が、天の御国の弟子となった学者たちへの保証です。ヨハネ1612-13「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」

ペテロは、イエス様から天の御国の弟子となった学者の一人でした。イエス様が十字架の贖いを成し遂げ、昇天した後です。五旬節の日、天から聖霊が弟子たちに降りました。一同は聖霊に満たされ、御霊が話させて下さるままに他国のことばで話し出しました。聖霊が降るとき大きな音がしたので、大勢の人々が集まりました。彼らは弟子たちが自分の国のことばで話すのを聞いて驚きました。人々は「いったいこれはどうしたことか?彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」とあざける人もいました。そのとき、ペテロが立ち上がり人々に向かってメッセージしました。その内容が使徒の働き2章に書かれています。なんとペテロは旧約聖書のヨエル書2章、詩篇16篇と110篇を引用しながら、キリストの復活と昇天、聖霊降臨について語りました。最後に、「悔い改めてイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」と招いたら、3000人の人が信じてバプテスマを受けました。さらに、美しの門で生まれつき足のなえた人が癒されました。そうすると信じた人が5000人に膨れ上がりました。エルサレム中が大騒ぎになり、祭司長や長老、学者たちが彼らを捕え尋問しました。そうするとまた、ペテロが聖霊に満たされて、キリストの十字架と復活について語りました。民の指導者たちと長老たちはどう思ったでしょうか?使徒413「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」「無学な普通の人」とは、「律法を専門的に学んだことのない素人」という意味です。それなのに、民の指導者、長老、学者たちは全く反論できませんでした。なぜでしょう?ペテロがイエス様から学んだ「天の御国の弟子となった学者」だったからです。弟子たちは旧約聖書という古い宝物とイエス様の教えという新しい宝物を聖霊の助けと導きによって引き出して語ったのです。これには律法の学者たちも全く太刀打ちできませんでした。

私たちにも弟子たちと同じ聖霊が注がれています。また、2000年前の弟子たちが手にしていなかった完成された宝物蔵なる聖書を持っています。私たちは使徒パウロの書簡、ヨハネの黙示録を加え、全66巻の聖書を持っているのです。ハレルヤ!さらには教会の歴史の中で、教会教父や宗教改革者、リバイバリスト、神学者などが研究した資料も持っています。極端しすぎて道を踏み外したこともありました。しかし、また修正して、正統的なキリスト教を築き上げてきたのです。今日の私たちは、聖書のほとんどの預言が成就されたのを見ることができます。あとは、ヨハネ黙示録の部分です。今、その宝が開かれようとしています。イエス様は、「天の御国の弟子となった学者は、自分の倉から取り出す一家の主人のようなものです」と言われました。これは弟子たちだけのことではなく、今日の私たちであることを確信します。聖書という宝物蔵から、必要な宝を取り出し、produce生産して豊かな信仰生活を送りたいと思います。この世はますます混迷して行くことでしょうが、私たちには聖書という宝物蔵があることを感謝したいと思います。

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2017年1月 6日 (金)

良い真珠のたとえ マタイ13:44-50 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.1.8

 マタイ13章には「天の御国のたとえ」が記されています。ユダヤ人のために、マタイは「神の国」と言わないで、「天の御国」と言いました。ということは、天の御国と地上の御国があるということではないでしょうか?御国はkingdom王国でありますが、当時はローマの王国が世界を支配していました。カイザルが王様であり、同時に神でした。しかし、天の御国はイエス様が王様であり、同時に神だということです。でも、地上に住む人たちは、それを認めることが難しいかもしれません。でも、天の御国に入ることがどんなものよりもすばらしいことだと分かったならどうでしょうか?きょうは天の御国に関するたとえを2つ学びたいと思います。

1.畑に隠された宝

 マタイ1344「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」まず、このたとえを観察するところから入りたいと思います。おそらくこの人は小作人かもしれません。彼はだれかの畑を耕していたのでしょう。あるとき、鍬が何かに当たったのかカチンと音がしました。少し掘ってみると、大きな瓶でした。蓋をこじ開けてみると宝物らしき物がつまっていました。ぴかっと光るので、良く見ると金製品か金貨のようです。もし、これだけ持って帰るなら、あとから問題が起ります。だから、畑ごと買うしかありません。彼はあたりを見てから、その瓶をもとの地面に埋めました。そして、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買おうとしました。所持金はいくらかありましたが、それでは足りません。金目のものを全部集めて売りました。もし、彼が結婚していたなら、奥さんの服や指輪、家財道具まで売ったかもしれません。もちろん、猛反対を押し切ってです。必死に代金を工面して、地主からその畑を購入しました。今でいうなら、土地の権利書を得て、登記を済ませました。ほとぼりが冷めたころ、彼は瓶を再び掘り起し、中の宝物を家に持ち帰りました。その宝物によって、新しい家財はもちろん、新しい服も買うことができたでしょう。一生、遊んで暮らすことができたかもしれません。これで終わると、「日本昔話」と同じになります。

 しかし、これは天の御国のたとえであります。おそらく、そういうことが現実にあったのだと思います。でも、そのことと御国が同じだということです。では、どんなことが似ているのでしょうか?まず、畑は何かということです。英語の聖書にはfieldと書かれています。Fieldは畑の他に、現場とか割り当てられている指定域という意味もあります。私たちはこの地上で生活していますが、自分の生活領域があります。学校、仕事場、家庭、趣味や社会活動があるかもしれません。では、宝物とは何でしょうか?価値あるもの、それも全財産を売っても元を取れるような貴重なものです。イエス様は「天の御国はこういうものです」とたとえていますので、天の御国そのものかもしれないし、天の御国が与える永遠のいのち、永遠の住まい、あるいは報いとか喜びかもしれません。地上の持ち物は全部預かったものですが、天の御国では全部自分のものになります。彼はどうしたでしょうか?宝を得るために畑ごと買うしかありませんでした。1枚か2枚の金貨だったら、だまってふところに入れてもバレません。でも、ものすごい量だったので、持ち帰ることが困難でした。やっぱり、瓶の中にあるもの全部欲しいのが人情です。そのため、持ち物を全部売り払ってその畑を買うしかありません。では、私たちにとって持ち物全部とはなんでしょう?実はこれと同じ表現が次の「良い真珠のたとえ」にもあります。その商人も持ち物を全部売り払って、良い真珠を手にいれました。では、持ち物全部とは何でしょうか?もちろん、私たちが持っている所持金とか家財道具一式でしょう。ブランドの洋服やかばん、靴、指輪、宝石、アクセサリー、車や家もあるでしょう。しかし、それだけではありません。JC.ライルは、古い人生、気のあった愚かしい友人たちと書いてありました。今で言うならラインをしているような親しい友人です。その友人が、私がクリスチャンになると言ったら馬鹿にしました。しかし、一番難しいのは自分の人生、あるいは自分の自我をささげることではないでしょうか?その中には結婚、出世、夢も含まれます。「そんなの聞いてないよ」と言うかもしれません。

 多くの人たちが何故、躊躇するのでしょうか?2つの理由があります。第一は今持っているものを手放したくないからです。第二は天の御国が、どれほど価値があるか疑わしいからです。はっきり天の御国がどういうものなのか見せてくれたら、決断しやすいでしょう。この世の宝物や商品の多くは目に見え、手にすることができます。しかし、天の御国は行ったことがないので、わかりません。ひょっとしたらないかもしれないし、嘘かもしれません。結局はイエス様がおっしゃっている天の御国を信じるしかありません。でも、そういうあやふやなものに全財産ばかりではなく、自分の人生、自分の存在を賭けることができるでしょうか?無理です。私には私の人生、喜び、夢があります。しかし、このような人は、天の御国に入ることもできないし、天の御国が持っているすべてのものを得ることもできません。まるで、電車が来ても、ずっとホームに立っている人のようです。信じてクリスチャンになった人は、「乗ればいいのに」と思いますが、この世界でべったり生きている人には無理であります。信仰とは見えない神の約束をまるであるかのように手に入れるものだからです。

 すべてを捨てて、天の御国に入った新約聖書から二人の人物をあげたいと思います。第一はマタイによる福音書を書いたマタイです。彼は取税人で、お金にはけっこううるさい人でした。信仰の篤い家庭で育ったと思われますが、ある時から金儲けに走りました。当時、取税人は単なるビジネスではなく、ローマの税金取立人です。同胞のユダヤ人からは「売国奴」と大変軽蔑されていました。しかし、マタイはそんなことは気にせず、人をごまかしてでもお金を儲けていました。彼にとってお金、目に見えるものがすべてでした。ところが、マタイの心の中はどうだったでしょう?お金や物でも決して満たされない空洞がありました。彼はイエス様の噂を聞いた時から「天の御国が本当にあったらそれを得たいものだ」という思いが膨らんできました。ある日、仕事をしているとき、イエス様がマタイを見て、ひとことこう言いました。「わたしについて来なさい」。マタイは立ち上がって、イエス様に従いました。ルカ5章には「何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った」と書いてあります。取税人は漁師と違って、一度やめたら同じ仕事に戻ることができません。マタイは無謀にも、イエス様のたった一言で、何もかも捨てて、イエス様に従ったのであります。なぜでしょう?イエス様のうちに、宝を発見したので、すべてを捨てても良いと思ったのです。おそらく、その時点では、マタイは天の御国の全貌は知らなかったでしょう。やがて来る天の御国の大臣になれると思ったのではないでしょうか?取税人から御国の大臣でありますから、魅力があったことでしょう。マタイだけではありません。他の弟子たちも、天の御国がどんなものかも分からず、イエス様に従って行ったのですから無謀かもしれません。私たちは神の子イエス様に出会ってみると「ああ、この方がおっしゃるのだったら間違いはない」と決断できるのではないかと思います。

 もう一人はサウロ、またの名をパウロであります。彼はマタイと違って、学問も地位もある立派な人でした。哲学で有名なタルソ出身で、ガマリエルの門下生でした。パウロは自分のことをこう言っています。ピリピ35-6「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」彼はエリート中のエリートであり、将来はニコデモのようにサンヒドリンの議員になっていたかもしれません。ところがダマスコの途上で復活のイエス様に出会って、地に倒され、三日間も目が見えなくなりました。その後どうなったでしょうか?ピリピ37-8「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」このところで、パウロは天の御国とは言ってはいませんが、その代わり、キリストによって義とされることが無常の喜びであると言っています。実は、キリストによって義とされるということが、天の御国に入る条件なのです。パウロがそれから神の国とキリストを宣べ伝えるために、小アジア、ギリシャ、ローマに渡りました。このパウロもキリストにある宝を発見した人物であります。

 私はマタイやパウロのようなかっこ良い証はありません。私にとって一番捨てづらかったのは、自我であります。洗礼を受ける前に、「俺は俺じゃないか」と抵抗しました。しかし、ルカ15章のほうとう息子の話を聞いて、「ああ、自分は神から失われていた人物だなー」と悟りました。だから、自分がだれかも分からず、ただこの世の夢を追いかけて空しく生きていました。私の場合は神さまが与える「永遠のいのち」が宝でした。死が終わりではなく、神さまの豊かな報いがあるということが一番の希望でした。どうでしょう?天の御国の宝は、いろんな側面がありますが、あなたの持ち物全部、あなたの人生をかけてもいただく価値があるのではないでしょうか?この人物のように、天の御国というかけがえのない宝を発見できますように。アーメン。

2.良い真珠のたとえ

マタイ13:45,46「 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」当時、真珠は他の宝石と違って、とても価値あるものでした。なぜなら、今のような養殖ではなく、真珠を採るために、深海に潜るので、それこそ命がけであります。貝の中から偶然に発見される本当に貴重なものでした。この商人は名のある女王に真珠を献上するために、だれかから特別に注文を受けていたのかもしれません。この商人は、良い真珠を捜し求めて、あちこち旅していたのでしょう。あるとき、あるところで、すばらしい値うちのある真珠を1つ見つけました。その1つが、色、艶、形、大きさ、すべてがワンダフルでした。ギリシャ語ではポリュティモスですが、「非常に価値のある」という意味です。しかし、「非常に崇められている」という意味もあります。ある注解書にこう書いてありました。真珠は当時ペルシャ湾やアラビア海の沿岸でとれ、最も美しいものとみなされていた。この商人は遠く旅して、「比類なく美しい真珠」を捜していたのである。前の「畑に隠された宝」の場合、偶然に発見したという印象を受けるが、今度の場合は苦労して捜し回った結果である。天の御国が発見されるのもこのように二通りある。偶然の出来事のように入信する者もいれば、長い求道の後に初めて入信する者もいる。しかしいずれの場合にも、見出したものに対する強烈な感動がある。アーメン。日本の注解書も捨てたものじゃないなーと思いました。

 偶然見つける人もいれば、一生懸命捜して見つける人もいるということです。ところで、「見つける」というギリシャ語はヘゥリスコーですが、「見出す」「出会う」という意味があります。有名なのは、アルキメデスの話です。ある王様が金細工師に金の塊を渡して冠を作らせました。やがてまばゆい黄金色の冠ができあがってきました。ところが、金細工師が銀を混ぜているという噂が立ちました。王様はアルキメデスを呼んで、この金の冠がまことの金でできているか、それとも銀の混ぜ物か調べてほしいとお願いしました。アルキメデスは「冠をつぶして調べればわかるかもしれないけど、そんなことはできないしなー」と悩みました。昼も夜も考え込んでしまって、食べ物も喉を通らないほどです。そんなある日の事、アルキメデスは気ばらしにお風呂にでも行ってみようと思いました。お風呂にざぶんと入ったその時、ぴかっとひらめいたのです。彼は裸のまま「ヘゥレーカー、ヘゥレーカー」と叫んで、町に飛び出したそうです。これがアルキメデスの原理です。水で体積を調べ、それを重さで割ると密度が分かります。ちなみに、その王冠は純金ではなかったそうです。この「ヘゥレーカー」こそが、見出した、発見したという意味です。ヨハネ1章後半には、「ヘゥリスコー」という言葉で5回出てきます、日本語では「見つけた」あるいは「出会った」というふうに訳されています。私たちはイエス様に見つけられたのでしょうか、それとも私たちがイエス様を見つけたのでしょうか?偶然に見つけたのでしょうか?それとも一生懸命捜して見つけたのでしょうか?

 私はイエス様がなぜ、天の御国を良い真珠、しかもすばらしい値うちの真珠にたとえたのか、考えてみました。真珠は他の宝石と違って、生ものであります。今は人工的に造ることができますが、昔は海の中からやっと捜して見つけ出すしかありませんでした。たとえ、それが真珠であっても、色、艶、形、大きさ、すべてが揃っていなければなりません。私はイエス様ご自身が、「すばらしい値うちの真珠を一つ」ではないかと思うのです。大体、天然の真珠というのはどのようにして作られるのかご存じでしょうか?真珠貝といえばアコヤガイが有名ですが、カキの仲間です。この貝に、海の中の虫や砂などの異物が混入し、それが貝殻と体を覆う膜の間に入り込む時があるそうです。異物が入ると貝は刺激されます。そのとき膜の表面が破れ、その膜のかけらと異物が膜の中に入り込むことがあります。すると破れた膜のかけらが広がって、異物を包む袋、「真珠袋」ができます。袋の内側では貝殻を作るものがにじみ出て、異物のまわりに貝殻と同じものを作ります。これが真珠となるのです。これはミキモト・パールのホームページに書かれていました。私はジョエル・オスティーンの奥さんの本を読んでいますが、彼女の本にも同じようなことがかかれていました。彼女のお母さんは宝石商で、彼女は結婚するまで、そのお店で働いていました。だから、彼女も真珠に関して詳しいのです。その本でこう言うのです。真珠貝のゴールは真珠を作ることではなく、不快にする刺激物を覆うことなのです。砂のような刺激物をそのままにしておくと貝自身がダメージを受けるので、分泌物を出して守るのです。何回も何回も貝と同じ分泌物が重ねられて、やがて真珠ができるということです。ですから、真珠は真珠貝の痛み、真珠貝の涙でできているのです。

 真珠貝ができる過程のたとえは、信仰生活にも適用できると思います。でも、私はあえて、イエス様を「すばらしい値うちの真珠」であると申し上げたいのです。なぜなら、私たちが御国の福音を受け入れて救われるとします。確かに、信じるだけで救われると聖書に書いてあります。でも、その背後には、イエス様の多大な犠牲があったということを忘れてはいけません。ピリピ2章には、「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」と書いてあります。イエス様は天の御座から地上に降りてきましたが、そのとき神の御姿を捨てて、卑しいお姿になられました。罪に満ちた地上に降りてきて、仕える者の姿をとり、最も醜悪な十字架にかかって死なれました。私たちの罪を負って、代わりにさばかれ、地獄に落とされました。そのことによって、父なる神さまは満足し、キリストを信じる者を義とすることにお決めになられたのです。北森嘉蔵という人が『神の痛みの神学』という本を書いています。その神学は、エレミヤ3120「それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」の箇所から来ています。あの十字架は御子イエスの痛みであり、同時に父なる神の痛みであったということでしょう。当然、罪人の私たちは神さまの痛みや苦しみを分かることはできません。ただ、私たちが信じて救われるためには、多大な犠牲があったということを知るべきであります。つまり、それは、「すばらしい値うちの真珠」というイエス様ご自身の犠牲であります。

 ある人たちは何年も信じるか信じないか、この宝を受け入れるべきか拒むべきか悩んでいるかもしれません。私も1年間求道しましたが、イエス様を心に受け入れたにも関わらず、洗礼のためにはもう一つ決断が必要でした。本能的に、これまでの自分がなくなるような気がしたからです。簡単に言うと一国一城の主が、城を明け渡すようなものです。もし、そんなことをしたなら、自分が壊れてしまう。私が私でなくなるのではないかと恐れました。でも、十字架のメッセージを聞いたとき、キリストの愛に圧倒されてしまいました。十字架で命を捨ててくださったキリストを提示されたとき、こんなちっぽけな自我なんかいらないと思ったのです。ま、神さまに降参をしたのです。マタイもパウロも神さまに降参した人たちです。でも、ある人たちはせっかく、イエス様を信じて救われたのに、離れてしまいます。「犬は自分の吐いた物に戻る」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とかいう、ことわざどおりです(Ⅱペテロ222)。使徒パウロは福音から離れてしまったガラテヤの人たちにこのように言っています。ガラテヤ31「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」ガラテヤの人たちは、パウロから目に見えるようにキリストの十字架を示されました。キリストが十字架に付けられているそのお姿を、です。でも、その福音を捨ててしまったのです。私たちが天の御国の宝を、あるいはすばらしい値打ちのある真珠を発見したとします。それらを得るために、持ち物を全部売り払って買うのです。たとえ私たちの持ち物の全部と言っても、一体、どれほどのものなのでしょうか?私にとっては大事かもしれませんが、客観的に見たらたいしたものでないのではないでしょうか?使徒パウロは、後から、ちりあくた(糞土)と思ったそうです。私たちは御国の宝のすばらしさ、あるいはすばらしい値打ちのある真珠が、いかほどであるか知るべきであります。そのためには、私たちには御霊による啓示が必要です。愚かな者の霊的な目が開かれますように、そして私たちの受け継ぐべきものがどんなにすばらしいものなのか理解できますように。

 本来なら、天の御国のたとえはもう1つあります。それは、地引網でとれた魚を、良いものと悪いものに分けるたとえです。それは、世の終わりに起るさばきであります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込むと書かれています。福音は本来「喜びの訪れ」なのでありますが、恐れを与えるようなことも含まれています。何故、救われることが喜びなのでしょうか?天の御国を受け継ぐことができるという喜びです。しかし、同時に、永遠の滅びから救われるという喜びです。つまり、天の御国に入るということは、言い換えると、永遠の滅びから救われるということです。しかし、イエス様は恐れによって人々を天の御国に入れたいとは思っていません。そうではなく、「大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」とおっしゃっています。仕方なくではなく、大喜びで、持ち物を全部売り払って、宝が埋まっている畑を買うのです。私たちにとって天の御国を得られるとは、大喜びなのです。

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