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2017年1月20日 (金)

良心の声 マタイ14:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.1.22

 きょうは前半が「良心の声」であり、後半が「寂しい所で」という2つのメッセージになっています。前半は良心の声を聞くことをお話したいと思います。また、後半は寂しい所で主の御声を聞くということをお話ししたいと思います。共通していることは「聞く」ということです。この世はたくさんの情報が飛び交っており、なかなか、この2つの声を聞くことができないのではないでしょうか?どうか、この世に押し流されず、主が願っている生き方をしたいものです。そのためには、この2つの声を聞くということがとても重要です。

1.良心の声

歴史において、最も残酷非道な出来事が聖書に記されています。ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンテパスはガリラヤとペレヤの地方を治める国主(領主)でありました。ローマから任命されて、その地方を治めていたのですが、王様のような暮らしをし、人々も彼を王と呼んでいました。彼は一人の妻と結婚をしていましたが、弟であるピリポの妻ヘロデヤと恋に陥り、ピリポから彼女を奪って自分の妻としたのです。バプテスマのヨハネはそのようなことは、神の律法に反していると、権力者を恐れずはっきり指摘しました。しかし、ヘロデはヨハネを沈黙させるために、投獄してしまいました。聖書には、二人の殺意が記されています。その一人がヘロデです。マタイ14:5「ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである」と書いています。マルコ6章を見ると、ヘロデヤにもそれがあったことが分かります。マルコ619「妻ヘロデヤがヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、果たせないでいた。それは、ヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。」と書いています。しかし、女の執念というのは恐ろしいものです。ヘロデヤはヘロデに対して、朝となく夜となく、「ヨハネを殺してしまいなさい」と勧めていたのでしょう。そして、その機会を狙っていました。恐ろしい事件がとうとうやってきました。ヘロデの誕生祝いのとき、ヘロデヤの娘(連れ子)がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせました。娘の名はサロメだと言われていますが、彼女の踊りはきわめて淫らなものであったと言われています。ヘロデは来客の前で気前のいい所と権力を見せびらかせようとして、王様のような約束をしました。そこで、母ヘロデヤは好機到来とばかり、娘に「ヨハネの首を盆に載せて持って来て欲しい」と言わせました。ヘロデは誓いと列席の人々の手前もあって、首を与えるように命じました。やがて、ヨハネの生首が盆に載せられて運ばれ、少女から母親へと渡されるのです。まことに残酷で胸が悪くなるような話しであります。

             

 前半のメッセージはヘロデとヘロデヤのようなコンビにならないように教訓を得るということです。それは良心の声に従えるかどうかであります。ヘロデは国主でありましたが小心者でした。バプテスマのヨハネの声は自分の良心の声でした。彼は良心の声に従わないで、民衆を恐れ、またヘロデヤの声に従ったのです。私たちは良心を牢に閉じ込めて生きるような中途半端な生き方をしてはいけません。そういう人は、やがて人々を恐れ、迷信に陥ってしまいます。マタイ14:1,2「国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、…あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」ヘロデ王は、イエス様の噂を家来から聞きました。その時、「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」と言いました。ヘロデは自分の良心に従わず、聖なるヨハネに邪悪なことをしたことを思い出しました。彼の心は「お前は神の助言を軽んじて、忌まわしい殺人を犯してしまった」と言いました。ヘロデはバプテスマのヨハネを殺しましたが、それは自分の良心を殺したのです。では、それでうまくいったかというとそうではありませんでした。イエス様の噂を聞いたとき、「ヨハネが死人の中からよみがえった」と言いました。今度、彼の心は恐れと迷信に犯されていました。ヘロデは王様でしたが、本当の王様でありません。ローマのカイザルから、「ガリラヤとペレヤの地方を治めるように」と命じられていた「領主」でありました。なぜなら、偏屈なユダヤ人を治めるのが困難だったからです。

しかし、ヘロデは王様でもないのに、王のようにふるまい虚勢をはって生きていました。それでいて内側は小心者で人々を恐れ、妻を恐れていました。一般的に男性は外側を見栄やプライドで覆って、内側の良心を牢獄に閉じ込めています。男性が贈収賄の罪に弱いのは、こういう所があるかもしれません。「よしゃ、よっしゃ」でやってしまうのです。そういう人に限って、信仰を持つのは「女々しいとか弱い」とか馬鹿にしますが、自分の本当の姿に直面していないのです。人生の半ば不幸にも、何かに躓いて、いやがおうにも「自分の人生」を見つめるようになります。ある人は病気、ある人は仕事の失敗や失業、またある人は家庭の崩壊です。テレビでも昨日までは、会長とか社長をしていた人物が、逮捕され実刑を受けたりするニュースがよく報道されています。学歴、社会的な立場、持ち物、いろんな虚勢の着物を来ていますが、中身が問題です。残念ながら、これは学校でも会社でも教えてくれません。神様が、聖書を通して、また試練を通して教えて下さいます。それは、神の良心に従えということです。人を恐れず、神のみを恐れる人には平安があります。たとえ、一切の物を失ったとしても、キリストにある信仰がその人を立ち上がらせて下さるのです。信仰を馬鹿にしないで下さい。信仰faithful と言う言葉は真実とか忠実から来ています。真実で忠実な人こそ、揺るぎない人生を送ることができるのです。アーメン。

 もう一方は、女性であります。ある人が言いました。「世界を動かすのは男であるが、その男を動かすのは女性である」と。このストリーからも、良きにつけ悪しきにつけ、夫に与える妻の影響が大きいことを覚えざるを得ません。聖書の中には夫をそそのかして悪いことをした妻の例が案外多いのです。エバも夫アダムにすすめて禁断の木の実を食べました。「事件の背後に女あり」であります。信仰の父と言われるアブラハムも妻サラの勧めを受け、はしためハガルとの間に子供をもうけるという失敗をしました。また、イスラエルの王アハブも、その妃イゼベルにそそのかされて、バアル礼拝をイスラエルに大々的に輸入しました。そして、まことの神を信じる預言者エリヤのいのちを狙いました。この旧約時代におけるイゼベルに匹敵する人物は、新約時代におけるヘロデヤです。イゼベルがエリヤの命を求めたように、ヘロデヤはエリヤの再来である預言者ヨハネの命を求めたのです。それでは、ヘロデヤの良心はどうなっていたのでしょうか?完全に麻痺していました。彼女の心は神から離れていただけではなく、自分が神になっていたのです。夫をコントロールし、また娘をコントロールしていました。大体、ヘロデ王が「願う物は何でも必ず上げる」と言った時、娘はどうしたでしょうか?マルコ624-25そこで少女は出て行って、「何を願いましょうか」とその母親に言った。すると母親は、「バプテスマのヨハネの首」と言った。そこで少女はすぐに、大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとうございます。」娘は何がほしいか自分で決めることができませんでした。そして、母親のところに行って「何を願いましょうか」と聞いたのです。それで母親が「バプテスマのヨハネの首」と言いました。普通の娘だったら、「お母さん、やめて」と断るはずです。でも、大急ぎで王様の前に行って「ヨハネの首をお盆に」と頼みました。これはありえないことです。この母親と娘の関係を「共依存関係」と言うのです。娘は良い年になっても、自分で決断できませんでした。娘の良心も母親に操られ、麻痺していました。

 私たちはヘロデ、ヘロデヤ、あるいは娘のようになってはいけません。答えは、神を恐れ、良心の声に耳を傾けるということです。しかし、罪の中で生まれた人間の良心が、正しく機能できるのでしょうか?でも、一体、良心はどこにあるのでしょうか?ウィットネス・リーが書いた『神の永遠のご計画』という本にそのことが書かれていました。魂の内側に霊があります。霊は良心、交わり、直覚の三つ部分から成っています。善悪を識別することは、良心の1つの機能です。でも、生まれつきの人は霊が死んでいるか、眠っている状態なので、正しく機能していません。では、どうしたら良いのでしょうか?私たちは、主イエス・キリストを信じると霊的に新しく生まれます。そのとき、良心も霊の中で目覚めるのです。目覚めた良心は魂の「思い」という部分に働きかけます。創世記65「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった」と書いてあります。このところから計る「思い」の中に、悪い「良心」があることがわかります。でも、この良心が目覚めるならば、私たちの思いに「善悪とは何か」について教えてくれます。聖霊に満たされれば満たされるほど、良心が私たちの思いを支配するようになります。こうやって人は、神を恐れ、正しい生活をすることができるようになるのです。使徒パウロは何度か裁判にかけられましたが、人々の前でこのように言いました。使徒23:1「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」使徒2416「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」私たちも全くきよい良心、責められることのない良心を持つことが可能なのです。この良心を持つならば、何ものも恐れずに、神と共に、正しい道を歩むことができます。あなたの魂の内側にある良心を大事にし、良心の声に耳を傾けましょう。

2.寂しい所で

 マタイ14:13「イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。」「このこと」とは何でしょうか。マルコやルカ福音を見ますと、12弟子が伝道旅行から帰ってきたことをさしています。しかし、マタイは時間的な流れを無視して、イエス様が寂しい所に行かれたのを、ヘロデのことと関連させています。ヘロデとヘロデヤによって、預言者ヨハネが無残に殺されてしまいました。そして、ヘロデがイエス様の噂を聞いたとき、「イエスには死んだヨハネのよみがえりの力が働いているんだ」と恐れました。やがて、ヘロデはパリサイ人らと組んでイエスを捕らえようとします。そういうことを知って、イエス様は自分だけで寂しい所に行かれたと取ることができます。まったくひどい政治がなされています。この世的には告訴をしたり、社会運動を展開した方が良さそうなものです。また、メシヤであるなら神の力を行使してでも正すべきだという意見もあるでしょう。しかし、イエス様はそういうことはしませんでした。その場所を去って、自分だけで寂しい所に行かれました。何のためでしょう?それは御父と祈るためであります。イエス様は悪に満ちたこの世を政治的な力で変えるようなことはなさいませんでした。そうではなく、一人で祈られたのです。おそらく、バプテスマのヨハネに対する悲しい出来事を御父の前に訴えたでしょう。これまで何人の預言者が殺されたでしょうか?ヨハネは旧約の最後の預言者でした。そして、イエス様は神の御子として、最後の切り札として来られたのです。いつまで、悪が支配して良いのでしょう。イエス様は裁きをゆだねつつ、御国が来るように祈られたことでしょう。これは、聖書には書いていませんが、まもなくヘロデは勢力争いに負け、領地が没収され、ヘロデヤと共にガリヤに流刑にされ、そこで死んだと言われています。

 

私たちにとって「寂しい所」とは、祈りの場であります。この世では悲しい知らせや、いやな出来事が満ちていますので、不安と恐れがやってきます。知らないうちに私たちの心は、やるせない思いや憎しみ、いらだちや不信仰に支配されています。そういう時こそ、人々から離れて祈るのです。10分、20分も祈ると、自分を縛っていた鎖が壊されていくのがわかります。祈らないで、肉の力や考えで行動すると、ますます問題が複雑になります。そういう時こそ、寂しい所に退くべきです。キリスト教会のある団体では、「退修会」という名の修養会があります。何日間か、山の施設で瞑想のときを持つのです。テレビも見ない、新聞も読まない。人ともしゃべらないで、ただ聖書を読み、神様と交わるのです。そうしますと、めまぐるしく動いていたとき、見えなかった重要なことが見えてくるのです。もう、年が明けてしまいました。このまま私たちは歩き始めるのでしょうか?今からでも遅くありません。静かに瞑想して、神様から新しいビジョンをいただいたら良いと思います。

また、「このこと」とは時間的に、弟子たちが伝道旅行から帰って来た直後であります。ルカ910「さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。」弟子たちは、病の癒しや、悪霊が追い出されたことなどを意気揚々と報告したことでしょう。イエス様は弟子たちに、「寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われました。弟子たちは伝道旅行の成果に有頂天になっていたのかもしれません。私たちは物事が順調に進み、成功を重ねているうちに、自分が燃え尽きてしまっていることを忘れてしまいます。私たち原子力潜水艦のようにずっと動き続けることはできません。一生懸命走った後は、休まなければなません。休むことを惜しんで働く人は、燃え尽きてしまい、後からとんでもない長さの休養を取らざるを得なくなるでしょう。旧約聖書にエリヤというものすごい力のある預言者が記されています。エリヤはカルメル山上で、バアルの預言者450 人とたった1人で戦いました。結果は、エリヤが祈ると主の火が降り、エリヤの大勝利に終わりました。また、エリヤが一生懸命、祈ると三年間降っていなかった雨が降りました。そのとき、妃のイゼベルがものすごく怒り、エリヤの命を取ると脅しました。エリヤはたった一人の女性を恐れて、立ち去りました。そして、神様に自分を殺してくださいと願いました。まさしく、エリヤは燃え尽きてしまったのです。主は彼を荒野に導き、休息の時を与えました。燃え尽きは、働き盛りの40-50 代に一番多いと言われています。1つの大きなプロジェクトを成し遂げた後、チームの中から1人や2人が必ず燃え尽きてしまう人が出て、自殺する場合もあるそうです。宣教師も日本に来ていますが、言葉、食べ物、習慣が違います。長くいると燃え尽きて、祈ることさえできなくなるそうです。そのため、宣教師は安息年をとって、母国に一度帰ります。ある宣教師は「日本の牧師も7年か10年ごとに安息年を取って、聖書の戒めに従うべきだ」と言いました。私の場合は仕事と休みの境目がありません。毎日が仕事で、毎日がお休みみたいです。そのため、まとまった休みを取るということがまずありません。2年前の正月、スキーに行くため3日間の休みを取りました。ところが、葬儀が入って、3日目の朝、戻ってきました。不思議なことに、3日間くらい教会と家を離れると、頭がクリヤーになります。同じことの繰り返して、麻痺しているのではないかと思います。ですから、みなさんもまとめて休みを取るということを計画なさったら良いと思います。

 「寂しい所」とは原文では「荒野」(エレモスdesert)という言葉が使われています。エレミヤ書31:2「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。」既に天に召されましたが、榎本保郎牧師は、「荒野で恵みを得た」という言葉が大好きだったそうです。先生の『旧約聖書一日一章』の中から引用させていただきます。「荒野という所は恵みの無い所、石がゴロゴロしていて、水も湧かず草も生えない所である。しかし、そういう所で恵みを得たというのである。イスラエルの民は、荒野で40年の生活をし、私たちの想像もできない苦しい生活であったと思われる。しかし、きょうの生活を楽しみ、あすの生活を楽しんでいたら、彼らは生ける主の手にふれることはできなかったであろう。あるいはマナを集め、岩から水をくむ荒野の経験をすることはなかったであろう。荒野とは、実に神と出会う所なのである。イスラエルの民が、神のみ言葉に従っていくとき、それはこの世の常識やしきたりをこえたものであるから、そこは荒野であった。しかし、彼らはそこで恵みを得たのである。」当教会にも「寂しい所、荒野」を通らされている兄姉がいらっしゃると思います。病気のため、不景気のために、あるいは人間関係のもつれもあるかもしれません。しかし、荒野は神と出会う所であり、荒野でしかいただけない主の恵みがあるということです。病気療養中の方は、1日1日、主によって命が与えられ、生かされていることを知るでしょう。健康な人でも、明日のことはわかりません。1日1日、無駄に使ってはいけません。また、不景気な中で大変な方々もいらっしゃると思います。こういう時こと、クリスチャンは天からマナが降り、岩が裂けて水が湧くことを期待していくべきです。

かつてのクリスチャン新聞の福音版に鐘紡専務取締役を退任した後、カネボウ薬品の会長を務めた三谷さんの証が載っていました。会社に入って10年目、クリスチャンになってから、妥協したり、上司にへつらうことをしなかったために、左遷と降格の憂き目にあいました。1965年薬品部門に移ったのですが、そこは赤字で、実質的には左遷でした。就任した4月、老化防止のための漢方薬の販売を任されました。すでにライバル会社が10社以上もひしめいています。毎月の売り上げが低迷すれば、たちまち責任を問われます。三谷さんは、目標を掲げながら毎朝祈り、賛美のテープを聴きながら出勤しました。この漢方薬は老化防止に効力を発揮し、全国の顧客から礼状が届きました。三谷さんはバブル経済絶頂期に高利金利を招く新工場建設中止を進言しました。すでに実施決定済みだったため、四面楚歌になり、それでも祈って神様から平安をいただきました。いち早くコスト削減策に着手し、バブル崩壊関係なく、業績は安定・向上していったそうです。第二の人生は妻と共に伝道したいとのことです。特に、不況下で先行き不安に陥りがちなビジネスマンに私の信仰を、体験を伝えたいというのが夢だそうです。三谷さんは左遷と降格という荒野を通りましたが、そこで、祈りました。聖書の言葉によって、自信がわいてきたそうです。三谷さんはこうもおっしゃっていました。国際化時代に入り規制緩和が進む中、日本の企業は集団追随型人間ではなく、自分の判断基準を持ち自己責任のとれる人間を必要としています。その意味からも聖書と祈りを強調されています。

このように考えると「寂しい所、荒野」もまんざら捨てたものではありません。神様と出会って、特別な恵みをいただける所であります。不幸を嘆いたり、自己憐憫に陥らず、むしろ「主よ、どんな恵みをご用意されておられるのでしょうか」と期待していくべきです。柱になる木というのは、南国の木ではなく、寒い山の頂きで少しずつ、少しずつ年輪を加えた木だそうです。その木は南国の木のようにヤワではなく、年輪が細かいので堅いのであります。クリスチャンもぬるま湯ばっかりつかっていますとダメです。少しは荒野を通過して、信仰的に鍛えられるときも必要です。荒野は人の住めない所ではありますが、主が一番近く感じるところでもあります。荒野はできれば通りたくないものですが、荒野を通過せざるを得ない時もあります。しかし、荒野、寂しい所で特別な主の恵み得る者となりたいと思います。アーメン。 

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