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2017年1月13日 (金)

倉の主人のたとえ マタイ13:51-58 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.1.15

 イエス様は天の御国についてのたとえを7つ語られました。その後、「あなたがたはこれらのことがみな分かりましたか?」とお聞きになられました。弟子たちは「はい」と答えました。山上の説教の終わりのとき、群衆はイエス様の教えに驚きました。なぜなら、イエス様が律法学者たちのようではなく、権威ある者のように語られたからです。ここに出てくる「学者」は律法学者と同じ名称であります。聖書を専門的に学んだ人たちのことです。イエス様の弟子たちも学者と言われていますが、当時の律法学者たちとどこが違うのでしょうか?私たちもある意味では、イエス様から学んだ弟子であり、また学者でもあります。

1.学者と倉の意味

 学者はscribeで、律法学者と同じ意味のことばです。もともとは「書き物」とか「書類」から来たもので、聖書を専門的に学んでいる人たちのことを言いました。このところで、イエス様は「天の御国の弟子となった学者は」とおっしゃっています。これは、弟子たちが「律法学者」だということです。しかし、ユダヤ教の律法学者ではありません。「天の御国の弟子となった」とありますので、彼らとはちょっと違うということです。では、どこが違うのでしょうか?「天の御国」とは「神の王国」という意味ですから、王であるイエス様に召された人であり、またイエス様に学ぶ人のことであります。つまり、イエス様から特別に天の奥義を教え込まれた人という意味があります。少し前の1311節でこのようにイエス様が言われました。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません」。また、17節では「多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったからです」とも言われました。すばらしいことに弟子たちは神からの教師、イエス様から直接、天の奥義を学ぶことができたのです。だから、当時の律法学者よりも、すぐれた学者だったということです。弟子たちは、何という特権に預かっていたことでしょう。

 ところが、ナザレの町の人たちはイエス様をどのように見ていたのでしょうか?1355節、「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちと一緒にいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」イエス様の肉の兄弟は、弟が4人、妹は複数いたことが分かります。マリヤが永遠の処女だったというローマ・カトリックの説はこのところで崩れます。ナザレの町の人たちはイエス様の知恵と不思議な力を認め、そして驚きました。ところが、「いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう」とイエス様につまずいたと書いてあります。本来なら、アーメン、ハレルヤとイエス様を信じて、神を恐れるべきであります。おかしな話であります。彼らはイエス様の兄弟と母、そして生まれや育ちを知っていたので、つまずいたのです。つまり、人間的な見方や考えで、「あのイエスが神の子であるはずがない」と馬鹿にしたのです。使徒パウロはⅡコリント5章で、口語訳ですが「かつてキリストを肉によって知っていたとしても、今はそのような知り方をすまい」(516と言っています。霊の目が開かれていないと、直接、イエス様の教えを聞き、イエス様の奇跡を見たとしても、何のことなのか分からないということです。まさしく、「天の御国の奥義を知ることが、彼らには許されていない」ということなのでしょう。これは一種の呪いであます。では、この世の学者にはそのことが分かるのでしょうか?マタイ1125「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」とも書かれています。ということは、人間の知識や知性では、イエス様の教えを悟ることができないんだということです。つまりは、イエス様が聖霊によって隠されたことを開いて、選ばれた人に教えてくださるということです。まさしく、それは啓示の世界であって、この世の知恵とは全く違います。

 その次に「倉」とは何でしょうか?倉と言ってもそれは倉庫ではありません。英語の聖書は、treasureと書かれており、「宝物倉」のことであります。私たちは財宝や宝物が貯蔵されている倉を想像すべきであります。イエス様はこのところで「自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです」と言われました。つまり、宝物倉には、新しい物と古い物と両方が納められているということです。では、「新しい物と古い物」とは何なのでしょうか?リビング・バイブルには「私の弟子である人たちは、旧約聖書の宝と新しい宝と、二つの宝を持つことになるのです」と書かれています。こんなにはっきり解釈して良いのか疑問になります。でも、JB.フリップス訳をみると、このことばの前に「律法を知り、そして天の御国の弟子になった」と書いてあります。ですから、古い宝は律法に代表される旧約聖書であり、新しい宝とはイエス様の教えに代表される新約聖書」と言っても過言ではないと思います。その当時は、まだ新約聖書が完成されていませんでしたが、今日の私たちは1冊の本として、手元に持つことができるのですから、何と幸いでしょうか?でも、申し上げておきますが、神の霊である、聖霊によって教えてもらわなければ、ただの本になり、「宝の持ち腐れ」になるということです。 

    

ギデオン聖書協会によって年間、何十万冊の聖書が学生たちに無料で配られています。彼らのほとんどが、それが宝物であると理解しているでしょうか?もし、開いて、読むならば、ぴかーっと財宝が輝くのではないでしょうか?これは、ギデオン協会のホーム・ページに載っていた証です。「高校2年生の時、ギデオンの聖書が配られました。その時は特に魅かれることもなく、教科書理解のための資料のつもりでカバンに入れましたが、それが20年後の私にとって最も大切な『なくてはならぬもの』になるとは夢にも思いませんでした。時折体調が悪く苦しい時、書棚から取り出してはパッと開いたページを、脂汗を流しながら読んだことが何度かありました。」アーメン。

 今日的に、イエス様から天の御国を学んだ者が、古い宝と新しい宝が収納された倉庫を持っていることはどのような意味なのでしょうか?それはだれでもない、クリスチャンこそが天の御国について学んだ者であり、旧約と新約の宝を持っているということです。問題は、ナザレの町の人たちのように自分の知恵や知識、また体験によってイエス様を、そして旧約と新約の宝を見ないということです。小学生はそうでありませんが、20才以上の人がクリスチャンになるというのはいろんなハードルがあります。学校では進化論を学び、人は猿から進化したと教えられます。また、歴史では十字軍のこととか、中世ヨーロッパの宗教戦争を学んで、嫌になるでしょう。また、いろんな宗教、とくにカルト宗教の噂を聞くと、「宗教は危ない」という恐れが入ります。それに日本ではクリスチャンが回りにいないので、懇切丁寧に教えを受けることもできません。教会の門も閉ざされていて、敷居が高い感じがします。クリスチャンである私たちも、「日本は難しい」という信仰を持っています。本当に日本は難しいのでしょうか?しかし、日本人はとても宗教心が篤く、科学を信じながらも、心のどこかでは神仏を求めるところがあります。クイズ番組とかスポーツの応援を見るときがありますが、手を組んで必死に祈っています。やはり、人間はいざとなったとき、超自然的な存在を求めるのではないでしょうか?第二次世界大戦中、あるアメリカ兵が「塹壕(ざんごう)の中に無神論者はいない」と言ったそうです。誰でも死と隣り合わせの激戦地の塹壕の中のような状況に置かれれば、神様を信じていない人でも、神様に向かって祈らざるを得なくなるということでしょう。いきなり教会に行くことは無理であっても、聖書がすぐそばにあるのではないでしょうか?また、インターネットでも、教会のホーム・ページからショートメッセージを見ることも、聞くこともできます。何とか、日本にこの素晴らしい神の宝である聖書が開かれ、イエス様と出会い、御国に入る人が起こされますように祈りたいと思います。

2.一家の主人の役目

 第一ポイントを要約しますと、倉とは宝物蔵であり、それは聖書ではないかということです。聖書の中には古いものもあれば、新しいものもあります。古いものとは律法を中心とする旧約聖書であり、新しいものとはイエス様の教えを中心とする新約聖書ではないだろうかというふうに解釈しました。イエス様は、「天の御国の弟子となった学者は、自分の倉から取り出す一家の主人のようなものです」と言われました。天の御国の弟子となった学者には、そのような権威と知恵が与えられているということではないでしょうか?このところでは「自分の倉」と限定されていますので、個人が自分の倉を管理しなければならないということも含まれているようです。この倉には二重の意味があります。第一は聖書という宝物蔵がそれぞれに与えられ、それをどう理解するか任せられているということです。第二は私たちは自分の中に聖書のみことばを蓄えておき、時宜になかったときに引っ張り出す責任があるということです。詩篇11911「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」と書いてあります。つまり、聖書という客観的な宝物蔵もさることながら、自分の中にある宝物蔵を管理し、たえずそれを出し入れしていくという努力も問われるということです。なぜなら、聖書は開かないままでいると、たとえそれが宝物蔵だとしても、役に立たないからです。聖書という宝物蔵と、自分の聖書に関する宝物蔵の両方が問われるということではないかと思います。そこで、私は聖書という宝物蔵を管理するためには3つのことが必要ではないかと考えました。

第一は常に聖書を学ぶ心が大切だと思います。「学者」とは、もともとは「書き物」とか「書類」から来たもので、聖書を専門的に学んでいる人たちのことです。つまり、絶えず学ぶ人、聖書の学徒でなければならないということです。私たちには、宝物蔵である聖書が神さまから与えられているのです。イギリスの大伝道者、ジョン・ウェスレーは「一書の人」と言われました。彼は極めて規則正しい生活をし、弟チャールスたちと神聖クラブを組織して、共に聖書を学びました。そして、炭鉱の町キングスウッドの子供たちの生活を指導し、刑務所改良運動に取り組んでいました。その働きが人々の目にとまりメソジスト(几他面屋、聖書の虫)と渾名されるようになりました。ジョン・ウェスレーは聖書がキリスト者の実行と信仰との唯一の力あると確信していたのです。また、ドイツでは敬虔運動が起りました。ある神学校の教授が、敬虔主義者の聖書に対する態度ということを述べており、これは現代の私たちにすばらしい指針を与えるものです。

①聖書を教理的に信じるよりも、聖書を愛する。

②注解書よりも聖書そのものを読む。

③現在の我々に対する意味を発見する。(今の私たちにどう語るかという適用)

④個人的・直感的に聖書を読む。ひらめきを得ることが多い。

⑤正統的信仰個条よりも信仰による生活を重視。

⑥機械的聖書霊感説を放棄。

⑦聖書の中心的問題と枝葉的問題を区別する。前者を重視する。

⑧聖書の各巻に価値の差をつける。

⑨教理から聖書に読み込みをつけない。信条から読み込みをしない。

⑩聖書の記述の中で、歴史、地理、系図、科学に関するものの中に、たとい誤りがあったとしてもかまわない。

 第二は学んだことを整理しておく。私たちは聖書も学びますが、信仰書や神学書からも学びます。私は説教に使えそうな、例話とか、だれかのお話し、今日の出来事も蓄えておきます。倉の管理は種類や用途別にちゃんと整理しておくということが肝心です。また、時々、「棚卸し」といって、在庫を調べ、不要なものは廃棄するということです。そうでないと、時代遅れのものがあふれてしまって、新しいものを入れられなくなるからです。学んだことを整理しておくということはとても重要です。整理しておくと、すぐ使うことができるからです。現在はパソコンが発達していますので、項目別にファイルすることができます。また、信仰に関する本や資料、テキストも備えておくべきではないでしょうか?みなさんが私のように説教する機会はないかもしれませんが、CSや小グループの分かち合いのときに役に立ちます。また、人に自分の信仰を説明するときにも役に立ちます。Ⅰペテロ315「そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」とあります。自分が失望落胆の沼に落ち込んだとき、どうしたら這い上がることができるのでしょうか?人からの慰めは励ましも必要ですが、ぱっと的確なみことばを開くことができたら何と幸いでしょうか?そのためには不断から聖書を読んでいなければなりません。みことばは「御霊の剣」と言われていますが、使っていないで錆びているなら、いざというときに抜けません。ですから、聖書を良く読み、また大切な信仰書を手元に置くことが重要です。

第三は学んだことの中から取り出す能力が必要です。ある英語の聖書ではproduceと書かれています。Produceは単なる取り出すという意味ではなく、「結実する」「制作する」「提出する」という意味があります。つまり、ただ取り出すのではなく、何か創造的な手を加えるという意味が含まれています。ある主題のために集められたたくさんのデーターを処理し、それを統合することが必要です。これは人間の能力を超えた力が必要です。私はmeditation瞑想がそのために最も重要ではないかと思います。私が説教を準備するとき、まず聖書を観察し、その意味を調べます。原語や英語の聖書もみます。どうしても意味が分からないときはだれかが書いた注解書からも調べます。その後、目をつぶって瞑想し、聖霊様に聞きます。そうするとメッセージの中核が与えられます。一番、すばらしいことは聖霊様が「これを、このように語れ」と教えてくださることです。不思議なことに聖霊様がどこの注解書にも書いていないようなことを教えてくれます。客観的にどうかではなく、自分が恵まれるということです。まさしく、聖書という宝物蔵から、produce「結実する」「制作する」「提出する」ということです。

もちろん、聖書の1つのみことばでも力があります。しかし、問題が大きくて複雑な場合は、複数のみことばと聖書的な考えが必要となります。たとえば結婚にしても、聖書にそのことを書いてある箇所が何か所もあります。結婚前、結婚してからのこと、子育てや様々なことが書かれています。世の中の考えや倫理がどうであれ、私たちは聖書から真理を抽出する必要があります。聖書から、仕事、人間関係、病のいやし、肯定的な人生、死生観…いろんな真理を抽出することができます。残念ながら、聖書は互いに矛盾しているようなことも書かれています。こっちとあっちで言っていることが違うということがあります。そういう時には本当に御霊による知恵と理解が必要になります。そして、また、自分の生活にどう適用したら良いかも問われます。そういう意味では、宝物蔵からどのように必要な真理を取り出すかということが重要になります。世の中ではアフターサービスやサポートセンターがあります。このお方が、天の御国の弟子となった学者たちへの保証です。ヨハネ1612-13「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」

ペテロは、イエス様から天の御国の弟子となった学者の一人でした。イエス様が十字架の贖いを成し遂げ、昇天した後です。五旬節の日、天から聖霊が弟子たちに降りました。一同は聖霊に満たされ、御霊が話させて下さるままに他国のことばで話し出しました。聖霊が降るとき大きな音がしたので、大勢の人々が集まりました。彼らは弟子たちが自分の国のことばで話すのを聞いて驚きました。人々は「いったいこれはどうしたことか?彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」とあざける人もいました。そのとき、ペテロが立ち上がり人々に向かってメッセージしました。その内容が使徒の働き2章に書かれています。なんとペテロは旧約聖書のヨエル書2章、詩篇16篇と110篇を引用しながら、キリストの復活と昇天、聖霊降臨について語りました。最後に、「悔い改めてイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」と招いたら、3000人の人が信じてバプテスマを受けました。さらに、美しの門で生まれつき足のなえた人が癒されました。そうすると信じた人が5000人に膨れ上がりました。エルサレム中が大騒ぎになり、祭司長や長老、学者たちが彼らを捕え尋問しました。そうするとまた、ペテロが聖霊に満たされて、キリストの十字架と復活について語りました。民の指導者たちと長老たちはどう思ったでしょうか?使徒413「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」「無学な普通の人」とは、「律法を専門的に学んだことのない素人」という意味です。それなのに、民の指導者、長老、学者たちは全く反論できませんでした。なぜでしょう?ペテロがイエス様から学んだ「天の御国の弟子となった学者」だったからです。弟子たちは旧約聖書という古い宝物とイエス様の教えという新しい宝物を聖霊の助けと導きによって引き出して語ったのです。これには律法の学者たちも全く太刀打ちできませんでした。

私たちにも弟子たちと同じ聖霊が注がれています。また、2000年前の弟子たちが手にしていなかった完成された宝物蔵なる聖書を持っています。私たちは使徒パウロの書簡、ヨハネの黙示録を加え、全66巻の聖書を持っているのです。ハレルヤ!さらには教会の歴史の中で、教会教父や宗教改革者、リバイバリスト、神学者などが研究した資料も持っています。極端しすぎて道を踏み外したこともありました。しかし、また修正して、正統的なキリスト教を築き上げてきたのです。今日の私たちは、聖書のほとんどの預言が成就されたのを見ることができます。あとは、ヨハネ黙示録の部分です。今、その宝が開かれようとしています。イエス様は、「天の御国の弟子となった学者は、自分の倉から取り出す一家の主人のようなものです」と言われました。これは弟子たちだけのことではなく、今日の私たちであることを確信します。聖書という宝物蔵から、必要な宝を取り出し、produce生産して豊かな信仰生活を送りたいと思います。この世はますます混迷して行くことでしょうが、私たちには聖書という宝物蔵があることを感謝したいと思います。

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