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2017年1月 6日 (金)

良い真珠のたとえ マタイ13:44-50 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.1.8

 マタイ13章には「天の御国のたとえ」が記されています。ユダヤ人のために、マタイは「神の国」と言わないで、「天の御国」と言いました。ということは、天の御国と地上の御国があるということではないでしょうか?御国はkingdom王国でありますが、当時はローマの王国が世界を支配していました。カイザルが王様であり、同時に神でした。しかし、天の御国はイエス様が王様であり、同時に神だということです。でも、地上に住む人たちは、それを認めることが難しいかもしれません。でも、天の御国に入ることがどんなものよりもすばらしいことだと分かったならどうでしょうか?きょうは天の御国に関するたとえを2つ学びたいと思います。

1.畑に隠された宝

 マタイ1344「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」まず、このたとえを観察するところから入りたいと思います。おそらくこの人は小作人かもしれません。彼はだれかの畑を耕していたのでしょう。あるとき、鍬が何かに当たったのかカチンと音がしました。少し掘ってみると、大きな瓶でした。蓋をこじ開けてみると宝物らしき物がつまっていました。ぴかっと光るので、良く見ると金製品か金貨のようです。もし、これだけ持って帰るなら、あとから問題が起ります。だから、畑ごと買うしかありません。彼はあたりを見てから、その瓶をもとの地面に埋めました。そして、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買おうとしました。所持金はいくらかありましたが、それでは足りません。金目のものを全部集めて売りました。もし、彼が結婚していたなら、奥さんの服や指輪、家財道具まで売ったかもしれません。もちろん、猛反対を押し切ってです。必死に代金を工面して、地主からその畑を購入しました。今でいうなら、土地の権利書を得て、登記を済ませました。ほとぼりが冷めたころ、彼は瓶を再び掘り起し、中の宝物を家に持ち帰りました。その宝物によって、新しい家財はもちろん、新しい服も買うことができたでしょう。一生、遊んで暮らすことができたかもしれません。これで終わると、「日本昔話」と同じになります。

 しかし、これは天の御国のたとえであります。おそらく、そういうことが現実にあったのだと思います。でも、そのことと御国が同じだということです。では、どんなことが似ているのでしょうか?まず、畑は何かということです。英語の聖書にはfieldと書かれています。Fieldは畑の他に、現場とか割り当てられている指定域という意味もあります。私たちはこの地上で生活していますが、自分の生活領域があります。学校、仕事場、家庭、趣味や社会活動があるかもしれません。では、宝物とは何でしょうか?価値あるもの、それも全財産を売っても元を取れるような貴重なものです。イエス様は「天の御国はこういうものです」とたとえていますので、天の御国そのものかもしれないし、天の御国が与える永遠のいのち、永遠の住まい、あるいは報いとか喜びかもしれません。地上の持ち物は全部預かったものですが、天の御国では全部自分のものになります。彼はどうしたでしょうか?宝を得るために畑ごと買うしかありませんでした。1枚か2枚の金貨だったら、だまってふところに入れてもバレません。でも、ものすごい量だったので、持ち帰ることが困難でした。やっぱり、瓶の中にあるもの全部欲しいのが人情です。そのため、持ち物を全部売り払ってその畑を買うしかありません。では、私たちにとって持ち物全部とはなんでしょう?実はこれと同じ表現が次の「良い真珠のたとえ」にもあります。その商人も持ち物を全部売り払って、良い真珠を手にいれました。では、持ち物全部とは何でしょうか?もちろん、私たちが持っている所持金とか家財道具一式でしょう。ブランドの洋服やかばん、靴、指輪、宝石、アクセサリー、車や家もあるでしょう。しかし、それだけではありません。JC.ライルは、古い人生、気のあった愚かしい友人たちと書いてありました。今で言うならラインをしているような親しい友人です。その友人が、私がクリスチャンになると言ったら馬鹿にしました。しかし、一番難しいのは自分の人生、あるいは自分の自我をささげることではないでしょうか?その中には結婚、出世、夢も含まれます。「そんなの聞いてないよ」と言うかもしれません。

 多くの人たちが何故、躊躇するのでしょうか?2つの理由があります。第一は今持っているものを手放したくないからです。第二は天の御国が、どれほど価値があるか疑わしいからです。はっきり天の御国がどういうものなのか見せてくれたら、決断しやすいでしょう。この世の宝物や商品の多くは目に見え、手にすることができます。しかし、天の御国は行ったことがないので、わかりません。ひょっとしたらないかもしれないし、嘘かもしれません。結局はイエス様がおっしゃっている天の御国を信じるしかありません。でも、そういうあやふやなものに全財産ばかりではなく、自分の人生、自分の存在を賭けることができるでしょうか?無理です。私には私の人生、喜び、夢があります。しかし、このような人は、天の御国に入ることもできないし、天の御国が持っているすべてのものを得ることもできません。まるで、電車が来ても、ずっとホームに立っている人のようです。信じてクリスチャンになった人は、「乗ればいいのに」と思いますが、この世界でべったり生きている人には無理であります。信仰とは見えない神の約束をまるであるかのように手に入れるものだからです。

 すべてを捨てて、天の御国に入った新約聖書から二人の人物をあげたいと思います。第一はマタイによる福音書を書いたマタイです。彼は取税人で、お金にはけっこううるさい人でした。信仰の篤い家庭で育ったと思われますが、ある時から金儲けに走りました。当時、取税人は単なるビジネスではなく、ローマの税金取立人です。同胞のユダヤ人からは「売国奴」と大変軽蔑されていました。しかし、マタイはそんなことは気にせず、人をごまかしてでもお金を儲けていました。彼にとってお金、目に見えるものがすべてでした。ところが、マタイの心の中はどうだったでしょう?お金や物でも決して満たされない空洞がありました。彼はイエス様の噂を聞いた時から「天の御国が本当にあったらそれを得たいものだ」という思いが膨らんできました。ある日、仕事をしているとき、イエス様がマタイを見て、ひとことこう言いました。「わたしについて来なさい」。マタイは立ち上がって、イエス様に従いました。ルカ5章には「何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った」と書いてあります。取税人は漁師と違って、一度やめたら同じ仕事に戻ることができません。マタイは無謀にも、イエス様のたった一言で、何もかも捨てて、イエス様に従ったのであります。なぜでしょう?イエス様のうちに、宝を発見したので、すべてを捨てても良いと思ったのです。おそらく、その時点では、マタイは天の御国の全貌は知らなかったでしょう。やがて来る天の御国の大臣になれると思ったのではないでしょうか?取税人から御国の大臣でありますから、魅力があったことでしょう。マタイだけではありません。他の弟子たちも、天の御国がどんなものかも分からず、イエス様に従って行ったのですから無謀かもしれません。私たちは神の子イエス様に出会ってみると「ああ、この方がおっしゃるのだったら間違いはない」と決断できるのではないかと思います。

 もう一人はサウロ、またの名をパウロであります。彼はマタイと違って、学問も地位もある立派な人でした。哲学で有名なタルソ出身で、ガマリエルの門下生でした。パウロは自分のことをこう言っています。ピリピ35-6「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」彼はエリート中のエリートであり、将来はニコデモのようにサンヒドリンの議員になっていたかもしれません。ところがダマスコの途上で復活のイエス様に出会って、地に倒され、三日間も目が見えなくなりました。その後どうなったでしょうか?ピリピ37-8「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」このところで、パウロは天の御国とは言ってはいませんが、その代わり、キリストによって義とされることが無常の喜びであると言っています。実は、キリストによって義とされるということが、天の御国に入る条件なのです。パウロがそれから神の国とキリストを宣べ伝えるために、小アジア、ギリシャ、ローマに渡りました。このパウロもキリストにある宝を発見した人物であります。

 私はマタイやパウロのようなかっこ良い証はありません。私にとって一番捨てづらかったのは、自我であります。洗礼を受ける前に、「俺は俺じゃないか」と抵抗しました。しかし、ルカ15章のほうとう息子の話を聞いて、「ああ、自分は神から失われていた人物だなー」と悟りました。だから、自分がだれかも分からず、ただこの世の夢を追いかけて空しく生きていました。私の場合は神さまが与える「永遠のいのち」が宝でした。死が終わりではなく、神さまの豊かな報いがあるということが一番の希望でした。どうでしょう?天の御国の宝は、いろんな側面がありますが、あなたの持ち物全部、あなたの人生をかけてもいただく価値があるのではないでしょうか?この人物のように、天の御国というかけがえのない宝を発見できますように。アーメン。

2.良い真珠のたとえ

マタイ13:45,46「 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」当時、真珠は他の宝石と違って、とても価値あるものでした。なぜなら、今のような養殖ではなく、真珠を採るために、深海に潜るので、それこそ命がけであります。貝の中から偶然に発見される本当に貴重なものでした。この商人は名のある女王に真珠を献上するために、だれかから特別に注文を受けていたのかもしれません。この商人は、良い真珠を捜し求めて、あちこち旅していたのでしょう。あるとき、あるところで、すばらしい値うちのある真珠を1つ見つけました。その1つが、色、艶、形、大きさ、すべてがワンダフルでした。ギリシャ語ではポリュティモスですが、「非常に価値のある」という意味です。しかし、「非常に崇められている」という意味もあります。ある注解書にこう書いてありました。真珠は当時ペルシャ湾やアラビア海の沿岸でとれ、最も美しいものとみなされていた。この商人は遠く旅して、「比類なく美しい真珠」を捜していたのである。前の「畑に隠された宝」の場合、偶然に発見したという印象を受けるが、今度の場合は苦労して捜し回った結果である。天の御国が発見されるのもこのように二通りある。偶然の出来事のように入信する者もいれば、長い求道の後に初めて入信する者もいる。しかしいずれの場合にも、見出したものに対する強烈な感動がある。アーメン。日本の注解書も捨てたものじゃないなーと思いました。

 偶然見つける人もいれば、一生懸命捜して見つける人もいるということです。ところで、「見つける」というギリシャ語はヘゥリスコーですが、「見出す」「出会う」という意味があります。有名なのは、アルキメデスの話です。ある王様が金細工師に金の塊を渡して冠を作らせました。やがてまばゆい黄金色の冠ができあがってきました。ところが、金細工師が銀を混ぜているという噂が立ちました。王様はアルキメデスを呼んで、この金の冠がまことの金でできているか、それとも銀の混ぜ物か調べてほしいとお願いしました。アルキメデスは「冠をつぶして調べればわかるかもしれないけど、そんなことはできないしなー」と悩みました。昼も夜も考え込んでしまって、食べ物も喉を通らないほどです。そんなある日の事、アルキメデスは気ばらしにお風呂にでも行ってみようと思いました。お風呂にざぶんと入ったその時、ぴかっとひらめいたのです。彼は裸のまま「ヘゥレーカー、ヘゥレーカー」と叫んで、町に飛び出したそうです。これがアルキメデスの原理です。水で体積を調べ、それを重さで割ると密度が分かります。ちなみに、その王冠は純金ではなかったそうです。この「ヘゥレーカー」こそが、見出した、発見したという意味です。ヨハネ1章後半には、「ヘゥリスコー」という言葉で5回出てきます、日本語では「見つけた」あるいは「出会った」というふうに訳されています。私たちはイエス様に見つけられたのでしょうか、それとも私たちがイエス様を見つけたのでしょうか?偶然に見つけたのでしょうか?それとも一生懸命捜して見つけたのでしょうか?

 私はイエス様がなぜ、天の御国を良い真珠、しかもすばらしい値うちの真珠にたとえたのか、考えてみました。真珠は他の宝石と違って、生ものであります。今は人工的に造ることができますが、昔は海の中からやっと捜して見つけ出すしかありませんでした。たとえ、それが真珠であっても、色、艶、形、大きさ、すべてが揃っていなければなりません。私はイエス様ご自身が、「すばらしい値うちの真珠を一つ」ではないかと思うのです。大体、天然の真珠というのはどのようにして作られるのかご存じでしょうか?真珠貝といえばアコヤガイが有名ですが、カキの仲間です。この貝に、海の中の虫や砂などの異物が混入し、それが貝殻と体を覆う膜の間に入り込む時があるそうです。異物が入ると貝は刺激されます。そのとき膜の表面が破れ、その膜のかけらと異物が膜の中に入り込むことがあります。すると破れた膜のかけらが広がって、異物を包む袋、「真珠袋」ができます。袋の内側では貝殻を作るものがにじみ出て、異物のまわりに貝殻と同じものを作ります。これが真珠となるのです。これはミキモト・パールのホームページに書かれていました。私はジョエル・オスティーンの奥さんの本を読んでいますが、彼女の本にも同じようなことがかかれていました。彼女のお母さんは宝石商で、彼女は結婚するまで、そのお店で働いていました。だから、彼女も真珠に関して詳しいのです。その本でこう言うのです。真珠貝のゴールは真珠を作ることではなく、不快にする刺激物を覆うことなのです。砂のような刺激物をそのままにしておくと貝自身がダメージを受けるので、分泌物を出して守るのです。何回も何回も貝と同じ分泌物が重ねられて、やがて真珠ができるということです。ですから、真珠は真珠貝の痛み、真珠貝の涙でできているのです。

 真珠貝ができる過程のたとえは、信仰生活にも適用できると思います。でも、私はあえて、イエス様を「すばらしい値うちの真珠」であると申し上げたいのです。なぜなら、私たちが御国の福音を受け入れて救われるとします。確かに、信じるだけで救われると聖書に書いてあります。でも、その背後には、イエス様の多大な犠牲があったということを忘れてはいけません。ピリピ2章には、「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」と書いてあります。イエス様は天の御座から地上に降りてきましたが、そのとき神の御姿を捨てて、卑しいお姿になられました。罪に満ちた地上に降りてきて、仕える者の姿をとり、最も醜悪な十字架にかかって死なれました。私たちの罪を負って、代わりにさばかれ、地獄に落とされました。そのことによって、父なる神さまは満足し、キリストを信じる者を義とすることにお決めになられたのです。北森嘉蔵という人が『神の痛みの神学』という本を書いています。その神学は、エレミヤ3120「それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」の箇所から来ています。あの十字架は御子イエスの痛みであり、同時に父なる神の痛みであったということでしょう。当然、罪人の私たちは神さまの痛みや苦しみを分かることはできません。ただ、私たちが信じて救われるためには、多大な犠牲があったということを知るべきであります。つまり、それは、「すばらしい値うちの真珠」というイエス様ご自身の犠牲であります。

 ある人たちは何年も信じるか信じないか、この宝を受け入れるべきか拒むべきか悩んでいるかもしれません。私も1年間求道しましたが、イエス様を心に受け入れたにも関わらず、洗礼のためにはもう一つ決断が必要でした。本能的に、これまでの自分がなくなるような気がしたからです。簡単に言うと一国一城の主が、城を明け渡すようなものです。もし、そんなことをしたなら、自分が壊れてしまう。私が私でなくなるのではないかと恐れました。でも、十字架のメッセージを聞いたとき、キリストの愛に圧倒されてしまいました。十字架で命を捨ててくださったキリストを提示されたとき、こんなちっぽけな自我なんかいらないと思ったのです。ま、神さまに降参をしたのです。マタイもパウロも神さまに降参した人たちです。でも、ある人たちはせっかく、イエス様を信じて救われたのに、離れてしまいます。「犬は自分の吐いた物に戻る」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とかいう、ことわざどおりです(Ⅱペテロ222)。使徒パウロは福音から離れてしまったガラテヤの人たちにこのように言っています。ガラテヤ31「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」ガラテヤの人たちは、パウロから目に見えるようにキリストの十字架を示されました。キリストが十字架に付けられているそのお姿を、です。でも、その福音を捨ててしまったのです。私たちが天の御国の宝を、あるいはすばらしい値打ちのある真珠を発見したとします。それらを得るために、持ち物を全部売り払って買うのです。たとえ私たちの持ち物の全部と言っても、一体、どれほどのものなのでしょうか?私にとっては大事かもしれませんが、客観的に見たらたいしたものでないのではないでしょうか?使徒パウロは、後から、ちりあくた(糞土)と思ったそうです。私たちは御国の宝のすばらしさ、あるいはすばらしい値打ちのある真珠が、いかほどであるか知るべきであります。そのためには、私たちには御霊による啓示が必要です。愚かな者の霊的な目が開かれますように、そして私たちの受け継ぐべきものがどんなにすばらしいものなのか理解できますように。

 本来なら、天の御国のたとえはもう1つあります。それは、地引網でとれた魚を、良いものと悪いものに分けるたとえです。それは、世の終わりに起るさばきであります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込むと書かれています。福音は本来「喜びの訪れ」なのでありますが、恐れを与えるようなことも含まれています。何故、救われることが喜びなのでしょうか?天の御国を受け継ぐことができるという喜びです。しかし、同時に、永遠の滅びから救われるという喜びです。つまり、天の御国に入るということは、言い換えると、永遠の滅びから救われるということです。しかし、イエス様は恐れによって人々を天の御国に入れたいとは思っていません。そうではなく、「大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」とおっしゃっています。仕方なくではなく、大喜びで、持ち物を全部売り払って、宝が埋まっている畑を買うのです。私たちにとって天の御国を得られるとは、大喜びなのです。

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