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2016年12月30日 (金)

自分の道を走る 箴言22:6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.1.1

 新年あけましておめでとうございます。きょうは、「自分の道を走る」と題して、箴言226からメッセージをお届けします。新改訳は「若者」となっていますが、口語訳を引用したいと思います。箴言226「子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることはない。」きょうは、もう1つAmplified Bible英語の詳訳聖書からも引用したいと思います。Train up a child in the way he should go and in keeping with his individual gift or bent.箴言226の前半のみことばを3つに分解してお話しさせていただきます。

1.自分の価値を知る

英語の詳訳聖書はヘブル語の聖書を重んじんて「with his individual gift or bent」とあり、個人的なgift or bentをキープしながら指導しなさいと書かれています。これは個人的なgift or bentが生まれる前から備えられているというニュアンスがあります。では、giftとは何でしょうか?辞書には「贈り物、天賦の才能、適正、タレント」とあります。私はgiftを「賜物」と訳したいと思います。また、bentとは何でしょうか?本来bentは、「曲り」という意味です。しかし、「好み、性癖、適正」という意味もあります。私はbentをあえてスタイルと訳したいと思います。スタイルは日本語にもなっていますが、「やり方、流儀、格好、たち」という意味です。では、個人的な賜物とスタイルは一体だれが与えたのでしょうか?もちろん、祖父母や両親からの遺伝もあるでしょう?でも、創造主なる神さまがその子に与えたということが真実ではないでしょうか?詩篇13913「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」と書いてあります。「組み立てた」は英語の聖書ではknit「編む」と書いてあります。神さまは母の胎内で、私たちの神経や細胞組織を編んでくれたのであります。そして、そこに賜物とスタイルをしこんでくれたと考えるべきではないでしょうか?この世の教育者は「子どもは白紙の状態で、親や教師が教えなければならない」と考えています。確かに知的にはそうかもしれませんが、その子に賜物とスタイルがはじめから備わっているのであります。

 私たちは神の作品です。エペソ210「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」と書かれています。この作品という本当の意味は「製品ではなく、手作りである」ということです。手作りですから、ひとり一人違うように創られていることは当然です。私たちの指紋も、声門も、そして目の虹彩も同じ人はいません、唯一無二(ただ一つだけあって二つとない)のであります。それなのにこの世の教育はどうでしょうか?特に日本の場合は「横並びと言われ、個性と潰す」と言われます。人と違うことをしたり、言ったりすると「和を乱すな」と注意されます。発明王のエジソンが小学校に入学したときのことです。先生が生徒に「I have a粘土、I have a粘土、足すといくつになりますか?」と聞きました。エジソンは「ウン、1だ」と答えました。「なぜ?」と先生が聞くと、エジソンは「1つの粘土と1つの粘土を合わせると1つの粘土になるでしょう」と言い張りました。先生は「腐れ脳ミソ」と彼を罵倒したそうです。エジソンは入学からわずか3か月で学校を追い出され、お母さんが個人教授したそうです。入学試験では5教科が重要視されますが、それはなぜでしょうか?ケン・ロビンソンという人がある放送番組で語りました。「今の教育制度は19世紀、産業主義社会のニーズから生まれた。すぐ工場で働けるような人を育てたのだ。砂遊びでは会社で雇ってもらえない。音楽なんてダメだ!音楽家になるわけじゃないんだから。アートなんてするな。アーティストになんてならないんだから。心優しいアドバイス。でもまったくもって間違っている。学校教育は創造性を殺してしまっている」と言いました。

 神さまが生まれた時から賜物とスタイルを備えて下さっていると知ったらどうでしょう。人と比べて生きる必要はありません。私はテレビの『何でも鑑定団』が大好きで、毎回、録画をしています。あるとき、ご婦人が茶碗を持って来ました。おばあちゃんのもので、屋根裏から出したときは新聞紙にくるんであったそうです。真っ黒で1か月間、煮込んでは汚れを落としたそうです。その茶碗の鑑定はいくらだったでしょうか?なんと1千万円でした。秀吉の頃のものだったそうです。イザヤ書に「主は陶器師である」と書かれています。私たちは粘土です。主が私たちを御手でこしらえてくださったのです。ゆがんでいるかもしれません。少し黒ずんでいるかもしれません。でも、そこには手作りの不思議な趣があり、価値があるのではないでしょうか?私は子どものころ、色が黒くてよく「ベトコン」と言われました。当時ベトナム戦争がありました。また、とっても落ち着きがなくて、学校で一番、叱られました。今でも学校の時の夢を見ます。上履きの片方ないとか、体育着を忘れたとか。かばんを開けて、「きょう何曜日だろう。時間割がないなー。もう、8時半だ、遅刻しちゃう」と目がさめるときがあります。「ああ、良かった。もう学校へ行かなくて良いんだ」とホッとします。先月、大和カルバリーで「リーダーズ・サミット」が開催されました。講師の一人「べてるの家」の向谷地生良(むかいやちいくよし)さんがこのように話していました。私は中学の時、とにかく先生から殴られている生徒でした。私の人生のキーワードはひとことで言うと「殴られる」なんです。うちの長男が、小学校3年くらいのとき朝、担任の先生から電話が来ました。「息子さん、忘れ物多いですね。お父さん、ちゃんと指導してください。前の日に、ちゃんと見てください。お願いしますよ」。よっぽどだったじゃないですか、先生から電話がかかってくるというのは。みなさんだったら、そういう子どもさんに何と声をかけますか?私は息子に、「もう、あきらめろ」と言いました。先生の言ったことを真に受けて、忘れないように努力するなんて、そんな無駄な人生をずっと送っていてはダメです。それを聞いて、私は腹の底から笑いました。神さまがあなたに固有な賜物とスタイルを与えて下さったのです。そこには欠点や性格も含まれています。あなたは神さまの手作り、傑作品です。なぜなら、イザヤ434「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とおっしゃっているからです。神さまがあなたをそのように鑑定しておられるのですから、額面通り受け止めましょう。

2.自分を育てる

 口語訳は「子をその行くべき道に従って教えよ」となっていますが、英語の詳訳聖書はTrain up「訓練せよ」となっています。ヘブル語はもともと「ささげる、聖別する」ですが、「教える、伝授する」という意味もあります。ですから、親の意のままではなく、神さまから預かった子どもとして、教えるというニュアンスがあります。前のポイントで述べましたが、生まれた子どもの中には、個人的な賜物とスタイルが備わっています。ですから、親はそれらがうまく開花するように育てる必要があるということでしょう。「教育education」は、外側から何か知識を与えて、子どもを何かのかたちにするという意味ではありません。ラテン語では、「連れ出す、導き出す」という意味があるそうです。神さまは子どもに賜物とスタイルの種を与えておられます。子育ては、種から芽が出て、幹が伸び、花が咲いて実がなるのと似ています。パウロがコリント3章でこのように言っています。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」親は、「成長させて下さるのは神なんだ」というへりくだった態度が必要です。

永遠のロゴスなる方がおとめマリヤから聖霊によってお生まれになられました。赤ん坊から人生をスタートし、イエスという名前をつけられました。お医者さんであったルカは「イエス様は全き人として成長した」と福音書に書いています。ルカ252「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」日本語の聖書ではよく分かりませんが、イエス様は3つの分野で成長したことがわかります。第一は知恵、メンタルな成長です。第二は身体的な成長です。第三は神と人から愛される霊的で社会的な成長です。第三番目において興味深いのは、愛がfavorとなっていることです。Favorは「好意、愛顧、ひいき、偏愛」という意味があります。聖書にはfavorが数多く出てきますが、ほとんど愛に訳されているのは残念です。ダビデなども、神さまからたくさんのfavorを受けた人です。イエス様も成長の過程で、「好意や愛顧」を受けなければならなかったというのは驚きではないでしょうか?おそらくイエス様も小さいときから律法を学び、みことばを暗証したと思います。なぜなら、申命記6章には「子どもたちによく教え込みなさい。」と命じられているからです。両親の子どもの養育に対する責任は少々違っていると思います。母親は受け入れ、養育するという面が強いと思います。一方、父親は子どもを励ましたり認めてあげる、つまり是認してあげる責任があると思います。そうすれば、子どもは自信をもって世の中に出て行けるからです。そして、ユダヤではある程度の年齢になるとラビに教育を任せました。ラビは父親の代わりに、聖書だけではなく人生全般に関することを教えました。ですから、親はわが子をどのラビに付かせるか、慎重に考えたと思います。

 現代は子どもをすぐ学校に行かせて、教育も人生全般も任せてしまっているのではないでしょうか?学校の先生は知的なことは教えることはできるかもしれません。でも、何のために勉強するのか、何のために仕事をするのか、何のために結婚するのか、人生の意味や目的を教えることはできません。ユダヤ人がなぜ優秀なのか?それは小さい時からみことばに親しみ、人生の良き指導者ラビから学ぶからではないでしょうか?現在、教会付属の学校があり、大和カルバリーもなさっておられるのですばらしいと思います。進化論ではなく、神さまが私たちを創られたということを知ったなら、人生のスタートが全く違ってくると思います。箴言には「主を恐れることは、知識の初めである」と書かれています。残念ながら、私をはじめこの世の学校教育から、無神論から、クリスチャンになった方々が大勢いるのではないでしょうか?そして、ちゃんと親からFavor(好意、愛顧)を受け、母からの養育、父からの是認を受けて育てられた人がどれくらいいるでしょうか?私はエリヤハウスというところで数年学びましたが、「多くの人が本当の父親をさがしている」と教えられました。エリヤハウス・ミニストリーの中心的なみことばは、マラキ4章「父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」です。本当の父がいなかったために、不安や恐れ、怒りに満ちているということです。でも、クリスチャンになってから、霊的な父を持つことができます。

 私は8人兄弟の7番目で生まれ、Favor(好意、愛顧)を受けないで育ちました。通信簿で52つとっても、長男や長女に比べられ、決してほめてもらったことがありません。だから、学校では何とか認めて欲しいと目立つようなことをしていたのだと思います。でも、それは全く受け入れられず、うるさくて授業を妨害するやっかい者として叱られました。どういう訳か、私が一番、叱られました。小、中、高と続きました。ある時、エリヤハウスの宣教師が私の説明が長いと注意しました。他の人は7,8分も話しているのに、私はまだ3分しか話していませんでした。後から「どうして私だけを注意するのですか?」と聞きました。女性の宣教師は「あなたには私を叱ってほしいという苦い期待がある」と言っていました。その時は「俺のせいか?」とムカッときましたが、「確かにそうだなー」と思いました。私は19792月、25歳のとき座間キリスト教会の礼拝に出席しました。その時、大川牧師は30代でしたが、そのお話しに捕えられ、4か月後洗礼を受けました。その年の12月「イエスさまの弟子になりたい」と献身を表明しました。大川先生は私を志願兵として受け入れてくださり、翌年3月から神学校の基礎科に入学しました。送り出して下さった時、ヤコブ3章から「温順」というみことばをいただきました。「温順にはteachable parsonという意味があり、だれからも教えられる心を持つように」と言われました。それ以来、私はずっと学んできました。最初は大川先生の毎週の説教をテープから書き起こしました。分厚い2冊のファイルになりました。その次はチョーヨンギ師のテープから学びました。亀有に赴任してからも、弟子訓練や教会形成、心の癒しについても学びました。でも、家内と私は大川先生が霊的な父であることを感謝しております。私は携帯を持っていますが、めったに携帯に電話がかかってきません。ところが、大川先生からたまにかかってきます。昨年12月、広尾の21世紀教会で説教のピンチヒッターを頼まれました。その時は直立不動になり、自分が何を言っているのはわからなくなります。その時のご奉仕も、直立不動でお受け致しました。

私たちはこの世に生まれた以上、養いを受けて、神さまから与えられた賜物とスタイルを開花させていただく必要があります。もし、自分の両親や学校の教師がそうでなかったなら、霊的な父、ラビをさがしましょう。それでもダメだったら、いろんなところへ出かけて自らを養いましょう。現代は本もCDもあります。インターネットでメッセージも聞けます。みことばや信仰書から自分を励ましましょう。信仰的な友人や指導者とコンタクトを取りましょう。あなたの賜物とスタイルに賛同し、協力してくれる人を神さまが必ず与えてくださいます。

3.自分の道を走る

箴言226「子をその行くべき道に従って教えよ」と書かれています。行くべき道とは何でしょうか?文脈から考えると、神が定めた律法のうちを歩むということかもしれません。なぜなら、後半に「そうすれば年老いても、それを離れることはない。」と言われているからです。イスラエルにおいては、十戒を守ること、心を尽くして主を愛することはとても重要なことでした。私は「律法は道路で言うなら、ガードレールあるいはセンターラインではないか」と思います。「それを飛び越えたり、はみだしたりすると危険ですよ」いうことを示しています。子どものうちから、飛び越えてはいけない限界を知らされるということはとても良いことです。昨今、とても多くの殺人事件や自殺が起きています。もし、小さい時から「殺してはならない」と教えられていたなら、ずいぶんと件数が減るのではないかとおもいます。しかし、「子をその行くべき道」とはもっと積極的な意味もあるのではないかと思います。なぜなら、神さまがそこ子に、個人的な賜物とスタイルを与えているとしたらどうでしょう?それらを開花させて、神さまのご栄光のために用いることを願っておられるのではないでしょうか?私は神さまがその人に達成してもらいたい使命や目的をdivine destinyと呼ぶべきだと思います。Destinyは日本語で運命とか定めですから、あまり良いイメージはありません。しかし、divine、神の運命というものが一人一人に与えられていると信じます。辞書をみたら、神意(神の意志)ということばがありました。つまり、The way he should go「行くべき道」とは、神意ではないかと思います。もし、その人が自分のdivine destiny神意を発見し、それが達成できるように生きるならなんと幸いでしょう。その人は、暇をもてあそぶとか、時間をつぶすとか、ぶらぶらするということがなくなります。

 ルカ福音書1章には、御使いガブリエルが二人の人物に出会って、神意を告げています。最初はザカリヤです。御使いは「不妊の女エリザベツが子どもを生む、その名をヨハネと名付けなさい」と命じました。そればかりか、その子はイスラエルの多くの子らを神に立ち帰らせるであろうと言いました。名前ばかりか、果たすべき神意まで告げています。次に御使いはマリヤに現れました。「あなたはみごもって男の子生むでしょう。その子をイエスと名付けなさい」と命じました。そればかりか、その子は大いなる者となり、ヤコブの家を支配し、その支配(その国)は限りなく続くでしょう」と言いました。名前ばかりか、果たすべき神意まで告げています。もし、このようなことが私たちにもあてはまると考えるならどうでしょう?名前は両親が付けるかもしれません。でも、神さまは「その子をその行くべき道」をちゃんと計画しておられるのではないでしょうか?つまりそれが、divine destiny神意であります。使徒パウロはダマスコの途上で、復活の主と出会いました。とのとき彼は、地に打倒され主の声を聞きました。パウロはアナニヤを通してdivine destiny神意を示されました。異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らに主の名を伝える器として選んだこと、また主の名のために苦しむことでした。一言でいうと異邦人伝道が彼の使命でした。パウロはいつも自分のゴールを見定め走っていました。ピリピ313-14「後ろのものを忘れ、前に向かって…目標を目指して、一心に走る」と言っています。

私たちも自分の与えられた道、レースを走るべきではないでしょうか?ある人は親のレースを走っているかもしれません。また、ある人は他の人たちが良いと勧めるレースを走っているかもしれません。その人たちは決して悪い人たちでないかもしれません。かえって、親切におっしゃっているのかもしれません。でも、あなたにはあなたの走るべきレースがあるはずです。それは、人ではなく、神さまが定めたdivine destiny神意であります。ローマ122「あなたがたはこの世と妥協してはならない」と書かれています。JB.フィリップスは「この世の鋳型に押し込められるな」と訳しています。あなたのdivine destiny神意は何でしょうか?ピリピ213「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神である」と書かれています。「願い」は英語の聖書ではdesireです。ビル・ジョンソンがdeは「上から下る」、sireは「父の」という意味があると言っていました。つまり自分の願望だけではなく、父なる神さまから来る願いもあるんだということです。クリスチャンになると霊的に目覚め、パウロがそうであったように「私はこのために生きるんだ」という願いが起こると信じます。あなたはそれを「無理だ。できない」と、とっくの昔に土に埋めたのではないでしょうか?この際、掘り起こしたらどうでしょうか? 神さまはあなたに願いを与えて、divine destiny神意を完成させたいと願っておられるのではないでしょうか?あなたにはあなたの走るべきレースがあるはずです。

 車にはナビゲーターがついています。行く先を設定すると、ナビが導いてくれます。うっかり曲がるべきところを曲がらないときがあります。するとナビガールは新しい道を示してくれます。何度間違えても、彼女に逆らっても、「いい加減にしろ。もうお前の運転にはあきあきした」などとは言いません。父なる神さまも同じです。あなたに成し遂げてもらいたいdivine destiny神意を与えておられます。そのために一切の必要を与えようとしておられます。でも、私たちは時々、道を踏みはずしたり、間違えたり、迷うことがあるでしょう。でも大丈夫です。コースAがだめだったら、コースBを示してくれます。コースBがだめだったら、コースCを示してくれます。父なる神さまは「お前には失望した」とは決しておっしゃいません。世の終わりまであなたと共にいて聖霊を内側に与えて励まして助けてくださいます。自分の価値を知り、自分を育て、自分の道を走りましょう。信仰の創始者であり、完成者であるイエス様の祝福がありますように。

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2016年12月23日 (金)

ヘブルのクリスマス ヘブル4:14-16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.12.25

 世界には、有名な宗教の開祖がいます。孔子、釈迦、マホメットが良く知られています。では、イエス・キリストは宗教の開祖なのでしょうか?ヘブル人への手紙の中心的なテーマは、イエス・キリストが唯一無二の大祭司であるということです。大祭司というのは、神さまと人間との間をとりなす仲介者です。旧約の時代は事あるごとに、きよい動物をいけにえとしてささげました。しかし、世の終わりにはイエス・キリストご自身がいけにえとなって、贖いを全うしてくださいました。ですから、私たちはこのイエス・キリストを通して、神さまのところに行けるのです。イエス・キリストはどんな大祭司なのか、3つのポイントで学びたいと思います。

1.もろもろの天を通られた大祭司

 ヘブル414「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」ヘブルの人たちは、天は3つあると考えられていました。第三の天は神さまがおられる天上であります。「天の御座」とも呼ばれています。16節には「恵みの御座」と書かれています。第二の天は私たちが住んでいる地上です。物質でできており、自然科学で証明できる世界です。第一の天は地下とか陰府と呼ばれています。死者の霊たちがいるところです。サタンは悪霊がどこにいるのかというと、第三の天と第二の天の間です。エペソ2章には「空中」と書かれています。神に対して不従順な人たちは、「空中の権威を持つ支配者」から圧迫を受けていると言う構図になります。さて、聖書には「もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエス」と書かれています。これはイエス様が3つの天をすべて通られたという意味であります。冒頭で、孔子、釈迦、マホメットの名前をあげました。イエス様だけが、3つの天を通られた大祭司であります。歴史上、イエス様の他にこのような人物は見当たりません。では、イエス様がどのようにしてもろもろの天を通られたのか順を追って学びたいと思います。

 まず、イエス様はロゴスという存在で、神と共におられました。ロゴスなるイエス様は神と共に第三の天におられたのです。しかも、天の御座に父なる神さまとおられました。ヘブル1章にはどう書いてあるでしょうか?ヘブル12-3「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」御子イエスを通して、この世界が造られました。そして、御子イエスが「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」ということは、神さまと全く同じ、あるいは同等であるということです。クリスマスは地上に来られたイエス様のことを御祝する日であります。私たちは「貧しい姿で馬小屋に生まれた」と賛美するでしょう。しかし、その前は第三の天で父なる神と同等の神であったことを忘れてはいけません。使徒パウロはⅡコリント12章で「第三の天にまで引き上げられ、すばらしい啓示を受けた」と書いています。ですから、私たちは神さまがおられる第三の天、神の御座の存在をはっきりと認めるべきです。

 次に第二の天、地上のことを申し上げたいと思います。私たちは地上、つまり物質の世界に住んでいます。西洋の教育を受けた人たちは、天国も陰府も認めません。そして、地上に偶然に生まれて、何十年か生きて、死んだらなくなると考えています。しかし、「多くの人たちは、人生それで終わったら空しいではないか、死後の世界はあるのでは?」と考えています。世界のあらゆる宗教は、死後の世界を認めています。でも、西洋の教育を受けた人たちは、「そんなのありえない」と否定します。日本人は頭では西洋の教育を受けていますが、心は東洋のアニミズムの世界観を持っています。どこかに霊の存在を信じているので、お盆のときに死者を迎えたり、送ったりしているのではないでしょうか?さて、イエス様はロゴスなるお方でありましたが、2000前、肉体を取ってこの地上にお生まれになられました。このことは先週学びました。神の御子が人間となられたのは何故か?それは第二のポイントで学びます。簡単に言うと、父なる神さまのことを直接、知らせるためです。私たちはイエス様を見ると、神さまがどんなお方か知ることができます。もう1つは、私たちのために身代わりに死んで、救いの道を設けるためです。イエス様は天からロープを垂らして「これに掴まれ」とおっしゃったのではありません。私たちの住むところに下ってこられ、自ら犠牲となり神さまのところに行く「道」を作られたのです。

 最後に第一の天です。これは陰府と言われているところです。旧約聖書には死んだ人が「陰府に行った」と書かれています。イエス様も十字架に死んだのち、陰府にくだられました。エペソ49「彼がまず地の低い所にくだられた」とあります。また、Ⅰペテロ319「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」イエス様が何のために陰府にくだられたのかいろんな説があります。でも、決定的なことは義人たちが住んでいた、陰府の一部をひきあげるためです。その場所が復活したときに、パラダイス(天国)になったのです。ですから、クリスチャンは死んだら陰府にいくのではなく、パラダイスに行くのです。「もろもろの天を通られた」というのは、天から地上、陰府に下ったと言う意味でありません。イエス・キリストは復活しました。陰府から引き揚げられました。その先があります。Ⅰペテロ322「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」アーメン。イエス様はもとおられた天の御座に戻られましたが、それだけだったのでしょうか?イエス様には御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えるだけの権威が与えられました。そして、名前まで変わったのです。ピリピ29-11「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」旧い契約でイスラエルの人たちは神さまのことを「主」と呼びました。しかし、新しい契約では、イエス・キリストが「主」と呼ばれるようになったのです。「イエス・キリストは主である」とは信仰の告白です。だから、ヘブル書は「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」と勧めているのです。

2.私たちの大祭司

 ヘブル415「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」私たちの大祭司というととても身近な感じがします。でも、それはヘブルの手紙の受取人だけではなく、「私たちすべての」という意味でもあります。なぜ、そのように言えるのでしょうか?このところに、「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」と書かれています。もし、大祭司なるイエス様が罪を犯したなら、私たちの身代わりになることはできません。そのためイエス様は、おとめマリヤから聖霊によってお生まれになられました。イエス様はアダムの罪を受け継いでいません。また、生きている間も、父なる神さまと共に歩み、罪を犯しませんでした。でも、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われました。私たちが生まれてからどのような試みに会うでしょうか?イエス様は赤ん坊から生まれたので、嬰児、幼児、少年、青年、成人の気持ちが分かります。両親に育てられ、30歳まで大工の仕事をしました。小さい時から律法を学び、宮もうでをし、宗教的な義務も果たしていたことでしょう。残念ながら、30歳までの記録がほとんどありません。福音書をみますと、肉体を持ったイエス様は時には飢えを、時には渇きと、ときには疲れを覚えられました。男性にとって女性が誘惑ですが、イエス様を慕っていた女性たちは何人かいました。マグダラのマリヤ、マルタとマリヤ、他にもいたかもしれません。でも、イエス様は結婚をして家庭を持つということはありませんでした。おそらく、イエス様が花婿であり、教会が花嫁という考えからかもしれません。

 福音書を読む限り、第一の誘惑は荒野で悪魔から誘惑を受けたことでしょう。肉欲、目の欲、持ち物の欲に打ち勝たれました。第二はゲツセマネの園において、十字架を意味する苦い杯を飲めるかという誘惑でした。自分は何も悪いことをしていないのに、人の罪をかぶって死ぬということは困難なことでした。人々から捨てられ、弟子たちからも裏切られました。十字架刑で捕えられ、嘲笑され、殴られ、あざけられ、数えきれないほどのローマの鞭を体中に受けました。イエス様にとって最も大きな試みは、罪を負ったために、神から捨てられることでした。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか?」この叫びは、私たちが体験できない、神から拒絶された叫びです。イエス様は「できれば、この杯を通り過ぎさせてください」と願いましたが、十字架で罪を負い、その杯を飲み干してくださいました。私たちは家庭や仕事、果たすべき使命というものがあります。誘惑は「それらから逃げたい」ということではないでしょうか?昔は「蒸発」ということばが流行りましたが、今は何でしょう?自殺者の数は減っていません。生きること自体が辛いと考えている人がいっぱいいます。現代はうつ病をはじめとする、さまざまな精神疾患をわずらっています。10人に一人はそういう問題と戦っていると聞いたことがあります。ですから、心療内科や精神科、カウンセリングのニーズが高まっています。

 このところで、イエス様は「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません」と書かれています。さきほど申し上げましたが、大祭司というのは神さまと人間の間に立ちとりなす働きをする人です。でも、祭司と大祭司の違いは何でしょう?大祭司の場合は、一般の祭司が行けない、至聖所まで行くことができます。それも年にたった1度だけであります。何か落ち度があると、打たれて死ぬことがあります。大祭司は個人の罪というよりは、もっと大きな罪、民全体の罪を取り扱っていたのだと思います。イエス様は小さいものから大きなものまでをとりなしてくださる「私たちの大祭司」です。一度、人間になってさまざまな苦しみを体験されたので、私たちの弱さに同情することができます。私たちもある程度の苦しみにあいました。もし人のことを思いやることができる分野があるとすれば、自分が経験したことです。ある部分の弱さは専門家かもしれません。しかし、イエス様は神の子が人となられたので、あらゆる問題の解決が可能です。でも、私たちが最も大変な問題は死ということではないでしょうか?死に対しては誰一人、勝利したことがありません。みんな、この死に対しては敗北してしまいます。でも、イエス様が死んで復活してからは、死の意味が変わりました。乗り越えられない問題でなくなりました。

 ヘブル214-15「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」アーメン。「子たち」というのは、私たちのことです。血と肉というのは、人間のことであり、弱さや病を象徴しています。また、敵である悪魔は私たちを誘惑し、死の力を持っている最大の敵です。私たちは、死の恐怖につながれている存在ではないでしょうか?なぜ、死が怖いのでしょうか?そこには肉体の死だけではなく、霊的な死、永遠の死という暗黒が隠されているからではないでしょうか?あるいは肉体の死ぐらいだったら、恐れなくて良いかもしれません。しかし、火炎で焼かれる永遠の死は無理であります。そこで、イエス様は血と肉を備え、一度死んで下さいました。そして、陰府にくだり、三日目によみがえられました。ヘブル書は、「イエス様の死と復活が、死の力を持つ悪魔を滅ぼしたんだ」と解釈しています。このところには書かれていませんが、悪魔は神さまのところに行って人の罪を訴え、「この人には永遠の死が妥当だろう」と言うのではないかと思います。義なる神さまは1片の罪をもそのままにしておくことはできず、必ずさばかなければなりません。「罪の支払う報酬は死である」と聖書に書かれています。でも、イエス様が私たちのすべての罪を負い、変わりに裁かれました。そのとき、神さまの義が満たされ、罪ある人間を裁かないことにお決めになられました。大祭司なるイエス様が「私に免じてこの人を赦してやってください」と願うなら、父なる神さまは聞いて下さいます。その結果、その人はたとえ死でも死の中に留まることはありません。イエス様のようによみがえさせられます。そのため、私たちにとって死は恐ろしい死ではなく、天の御国に入る時となりました。そして、終わりの日に滅びた肉体が栄光のからだに復活するのです。だから、主にあって死は終わりでなくなりました。

3.罪を取り除く大祭司

 ヘブル416「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」「恵みの御座」というのは、まさしく神さまがおられるところ、神の御座であります。罪ある私たちがどうして、神さまのところに行けるのでしょうか?同時に私たちの中には罪責感もあり、向こうが良いと言っても、私はその価値がないと辞退してしまうでしょう。私たちは二重の問題があって、神さまのところには行けないと思うのであります。ところがここに、「私たちはあわれみを受け、また恵みをいただいて」と書いてあります。文章を読むと、あわれみと恵みは同等のもので、意味も似ています。罪と過ちによって、受ける価値のないものが、神さまの一方的なご厚意を受けるということです。問題は「いただく」という意味です。ギリシャ語の意味は「くじで得る」というのが第一の意味です。イスラエルは「くじ」は神性なもので、そこに神さまの導きがあると考えられていました。そこで「くじで得る」とは、「運命や神意によって得る、手に入れる、受ける」という意味になります。簡単に言うと選ばれた人が、得られる特別なものだということです。ですから、あわれみと恵みは、だれでもないキリストを通して与えられるものだということです。

 では、ヘブル人への手紙が言う、あわれみと恵みとは何なのでしょうか?私たちにそれらが与えられる根拠となるものは何なのでしょうか?冒頭で、「ヘブル人への手紙の中心的なテーマは、イエス・キリストが唯一無二の大祭司であるということです」と述べました。それを証明する決定的な事柄がこのことです。ヘブル911-12「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」イエス様は神が人となられた大祭司です。このお方が、「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです」。このことは十字架の贖い死のことですが、ヘブルの記者は、まことの聖所でなされたことなんだと解釈しています。つまり、大祭司であるイエス様が、ご自身の血をささげることにより、永遠の贖いを成し遂げたということです。そのことにより、もう動物のいけにえは不要であるということです。これまで、毎年、民の罪を赦すために大祭司が年に一度、至聖所に入りました。ところが、ヘブルの記者は「ただ一度で、永遠の贖いを成し遂げた」と繰り返し述べています。そのことにより、私たちはどうなったでしょう?イエス・キリストの贖いによって罪赦され、あわれみと恵みを得ることができるということです。旧約聖書では「私の罪を赦し、私をあわれんでください」と動物のいけにえをささげました。でも、私たちは「私をあわれんでください」と祈る必要はありません。父なる神さまは「あわれみは十字架上で、すでに成し遂げられた。乞い願わなくても、あなたにあげる。あわれみと恵みはあなたのものだ」とおっしゃるのです。

 もう1つは、神さまが「あなたを赦すよ」とおっしゃっても、私たち自身が自分を赦さないということがあります。いわゆる罪責感であります。ある人たちは、「私が犯した罪は簡単には赦されない、一生かけて償わなければならない」と思っています。ローマ・カトリック教会には、「懺悔」とか「償い」という言葉があるようです。自分が犠牲を払うことによって、何か赦された気持ちになるのかもしれません。しかし、それは聖書が言う真理と反しています。さきほどの続きになります。ヘブル1113-14「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」このところに、動物の血ではなく、キリストの血について記されています。キリストの血こそが、「私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とする」ということです。私たちの良心は完全ではありません。育った環境や親の教えによってゆがめられています。特に、罪に関しては「ただでは赦されない」と教えられています。このところに、「死んだ行いから離れさせ」とありますが、これは良心から罪責感を取り除く、懺悔や償いの行為です。これは死んだ行いであって、神さまのところには届かない、宗教的な行為です。人間の肉はこのような宗教的行為を好むのです。そうではありません。私たちはキリストの血を良心に受けるべきであります。そうすると良心から罪責感が取り除かれ、そして新生した霊と一緒に活動するようになります。私たちは礼拝するとき、神さまの前に出るとき、キリストの血を意識すべきであります。そうすれば、罪責感が取り除かれ、いつでも神さまの御座に近づくことができるのです。

 結論です。ヘブル416後半「おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」とあります。私たちは霊的には神さまの御座のとなりにいます。しかし、肉体はこの地上にあります。簡単に言うと、霊的には第三の天にいますが、肉体的には第二の天にいます。問題は、第三の天と第二の天の間、空中に悪しき者たちがいるということです。悪しき者たちとは、サタンとその手下である悪霊どもです。彼らが私たちを攻撃し、あるときは圧迫してきます。キリストを信じていない人たちは、既に彼らのものですから、適当に彼らをあしらっています。ところが、キリストを信じている私たちは、彼らの敵であります。彼らは神さまを攻撃できませんが、神の子どもである私たちを攻撃してくるのです。いろんな悩みや困難、病気やわずらい、トラブルを与えようとするでしょう。だから私たちは、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づく必要があるのです。「おりにかなった助け」とはちょうど良いタイミングで主が助けてくださるということです。神さまは第三の天から御使いを遣わし、さらには聖霊によって私たちを助けてくださるのです。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

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2016年12月16日 (金)

いのちの光 ヨハネ1:1-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.12.18

 初めは、このタイトルを「やみvs.光」としましたが、ゲームみたいな感じがしてやめました。なぜなら、やみと光が対等なイメージがあるからです。聖書は「やみはこれに打ち方なかった」とはっきり言っています。これはゲームとか空想でなく、現実であるということです。ところで、クリスマスは、イエス様がこの地上で誕生したことをお祝する日であります。ところが、ヨハネ1章では、イエス様がこの地上に来られる前は、どんなお方で、何をされていたかを記しています。「降誕」は、「降りて誕生する」と書きますが、イエス様はその前にどこにおられたのでしょうか?

1.いのちの光

 ヨハネの書き出しにはイエス・キリストがこの地上に来られる以前のことが記されています。11-3「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」この地上に来られる前、イエス様は何と呼ばれていたのでしょうか?「ことば」と呼ばれました。新約聖書はギリシャ語で書かれていますので、「ロゴス」と呼ばれています。直接的には、「初めにロゴスは神とともにあり、ロゴスは神であった」となります。さらに、この方、ロゴスによってすべてのものが造られたと書いてあります。このところには神さましか持つことのできない特性が2つ記されています。第一は初めからおられた方、永遠性あるいは先在性です。第二はすべてのものを造られた創造主であるということです。はっきりヨハネは「ことばは神であった」と書いています。14節に何と書いてあるでしょうか?「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」アーメン。ことばが人になったお方は、神のひとり子であり、イエス・キリストであります。聖書をそのまま読むならば、イエス・キリストは永遠から神と共におられて、すべてのものを造られた神さまであると言うことが分かります。キリスト教の異端の人たちが、何と言おうと、「ことばは神であった」と書かれています。ただし、この神は、人となられた神の子イエス・キリストだということです。

 さらにヨハネはロゴスなるイエス・キリストがどのようなことをされたのか明記しています。ヨハネ14「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」このところに、「いのち」ということばが2回出てきます。いったいどのようないのちなのでしょうか?英国のイングリッシュ・バイブルというのがあります。All that came to be was alive with his life, and that life was the light of men.直訳しますと、「すべてのものが彼のいのちによって生かされた。そして、そのいのちは人間の光であった」ということです。このところに「世」ということばが何度も出てきます。ヨハネ3章に「神さまは世を愛された」と書かれています。私たちは勘違いしていますが、この世に生きているのは人間だけではありません。創世記9章には、洪水の後、神さまとノアが契約を結んだことが記されています。「わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出す」(創世記915とありますように、神さまは人間とだけではなく、すべて肉なる生き物と契約を結ばれました。つまり、聖書で「世」と言ったとき、人間だけではなく、海や空、陸の動物も含まれているということです。創世記1を見て分かりますが、動植物はことばによって造られ、いのちが与えられました。そして、人間は神さまの手で造られ、そして鼻から息を入れられました。人間には動物と違って、肉体的な命だけではなく、霊的な命が与えられています。

 さらに9-10節を見てみましょう。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」英国のイングリッシュ・バイブルをもう一度、引用させていただきます。He was in the world; but the world, though it owed its being to him, did not recognize him.直訳すると「世は彼に存在を負っているのに、彼を知らなかった」と書いています。さきほど、すべての生き物にいのちを与ええたのはいのちであるロゴスであると申し上げました。言い換えるといのちであられるキリストが人間に命を与えたのです。そういう意味では、人間の命はキリストに負っているということです。言い換えると、世話になっている、恩恵を被っているということです。ところがこの世の人たちの多くは進化論を信じています。彼らは生物は自然に発生したんだと言います。何十億年も前に原始のスープからアミノ酸が偶然に絡まって、生物が誕生したと言います。それがだんだん進化して動物が誕生し、さらに人間になったと言うのです。彼らは神さまの創造ではなく、偶然に生物が誕生し、偶然にそれが人間に進化したのだと言います。でも、ヨハネは、イエス・キリストはすべての生物にいのちを与える、いのちそのものだと言っています。そして、「そのいのちは人間の光であった」と述べています。どうでしょう?あなたは、神がいなくて、偶然に自然にできた人間として信じているでしょうか?それとも神さまが手造りし、キリストを通して命を与えた人間として信じているでしょうか?人間はいくらがんばっても生命を作り出すことはできません。生命を作られたのは創造主なる神さまです。さらに、神の被造物の冠である人間には霊が与えられ、その人間を照らすまことの光はイエス・キリストであります。私たちはまことの光であるキリストによって照らされてはじめて、自分がだれであるのか本当の自分が分かるのです。

イエス・キリストは「すべての人を照らすまことの光、いのちの光です」。讃美歌にありますが、「低きも高きも」です。上流の人も下流の人もです。生まれつき不遇な人も、生まれつき恵まれた人もです。確かにこの世は平等ではありません。しかし、神さまはどんな人にも救いを与える、まことの光、いのちの光です。不遇でどん底のような人生の人こそ、高く引き上げられ、豊かな恵みを受けられるのです。そういう意味で神さまは平等です。この世で報われない人には、御国の報いをもって飽かせて下さるお方です。



2.
やみの支配

 ヨハネ15「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」光はロゴスですが、「やみ」とはだれのことなのでしょうか?また、5節の出来事はいつのことなのでしょうか?このところは「ことばが人となる」前のことです。おそらく、このことは私たち人間が造られる前のことではないかと思います。ところで、ヨハネ11節の書き出しは「初めに、ことばがあった」でした。「初めに」In the beginningどこかと似ていないでしょうか?創世記11節「初めに、神が天と地を創造した。」同じ書き出しです。しかし、その後の創世記12節が問題です。少し前の訳ですが、「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」と書いてあります。地というのは地球のことであります。神さまが1節で、天と地を創造したのに、2節では「やみが大いなる水の上にあり」と書いてあります。1節と2節の間に何かあったのではないでしょうか?これは1つの説であり、決定的ではありません。ある人たちは、1節と2節の間に膨大な時間があり、この間にサタンが堕落したのではないかと言います。『失楽園』を書いたジョン・ミルトンは、アダムとエバが造られる前に、サタンがどのように堕落したのか書いています。聖書にはそのことを示唆する文章が少なくとも2箇所あります。イザヤ書14章とエゼキエル書28章です。サタンは天使長の一人で美の極みであったと記されています。彼は高ぶって神のようになりたいと思いました。そのとき天使の3分の一を味方にして、神と戦いました。ところが神に敗れて、天から突き落とされました。その出来事が、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」ということではないかと思うのです。敗れたサタンはどこへ行ったのかというと、この地上にやってきました。その証拠に、サタンは蛇に化けて、エバを誘惑しました。つまり、人間の創造以前に、サタンは地上にいたということです。

 アダムとエバはヘビの誘惑に負けて、食べてはいけない木から食べてしまいました。そして、エデンの園から追い出され、やがては死ぬようになりました。聖書で、「この世」あるいは「世」というのは神から離れた人たちのことを指しています。しかし、それだけではありません。「この世の君」、「この世の神」という存在がいます。どういうことかと言うと、本来、神さまが人間にこの世のすべてを管理するように、人間にその支配権を与えました。ところが人間が堕落したために、その支配権はどうなったのでしょう?サタンが横取りして、この世と人間までも支配するようになったのです。その証拠に、サタンはルカ46「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」と言っています。私たち人間は「神もサタンも認めない。私は自由だ、自由だ」と言っているかもしれません。しかし、私たちは罪と死とサタンに支配され、やがては永遠の滅びに行く存在であります。このところで言う「やみ」とは、サタンのことです。この世の人たちはサタンに支配されやみの世界を歩いているのです。ヨハネが第一の手紙でこのように言っています。Ⅰヨハネ519「私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」私たちは好むと好まざるにかかわらず、この霊的事実を知らなければなりません。そうしないと、救いという概念が狭くなるからです。救いというのは単に罪赦され、永遠の命が与えられるだけではありません。何から救われるか、どこから救われ、どこに行くのかということがということを知らなければなりません。

 そのことを使徒パウロが使徒26章とコロサイ1章で明確に語っています。使徒26:17-18「 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」パウロは「救い出す」ということを18節で説明しています。このところにはいくつかの段階があります。第一は彼らの目を開くということです。パウロが福音を語ると、そこに聖霊が働いて、霊的に目が開かれると言うことです。第二は「暗やみから光に」とあります。これはまさしく、ヨハネ1章が言っている事柄です。でも、暗やみとは何で光とは何なのでしょうか?続いて、「サタンの支配から神に立ち返らせ」とあります。暗やみとはサタンの支配であり、光とは神の支配という意味であります。「支配」ということばが嫌いでしょうか?支配とはギリシャ語でバシレイアであり、王国という意味です。言い換えるとサタンの王国から神の王国へと移されるということです。同じことがコロサイ1章でも言われています。コロサイ113「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」アーメン。」原文のギリシャ語を直訳すると、「神は暗やみの権威から解放し(delivered)、御子の王国に移してくれた(transferred)」ということです。まとめて言うと、「救われる以前は、私たちは暗やみであるサタンの支配の中にありました。ところが、神さまは私たちを解放し、キリストの王国に移してくださった」ということです。つまり、クリスチャンは住んでいる世界が違うということです。この世ではなく、キリストの王国の中に住んでいるということです。

 でも、解放されキリストの王国に移されるためには、私たちがなすべき事があります。第三は「わたし(キリスト)を信じる信仰よって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされ、御国を受け継がせる」ということです。キリストを信じることが必要だということです。キリストを信じることにより、罪赦され、聖なるものとされ(義とされ)、御国を受け継ぐことができるんだということです。アダムとエバが堕落したのは自由意思でした。神である主が「食べてはならない」と言ったのに、二人は食べたのです。神さまは人間に最高のものを与えました。それは自ら決断して選ぶという自由意思です。二人は神に従うべきだという自由意思を間違って使用しました。だから、堕落しました。でも、神さまはもう一度、チャンスを与えました。キリストを信じる者を救われると約束しておられます。救われるというのは罪赦され、聖なるものとなるということです。でも、そればかりではありません。暗やみであるサタンの支配から解放され、キリストの王国に移されるということなのです。やみから光に移されることが救いなのです。

3.やみから光へ


 前のポイントで、やみから光に移されることが救いだと申し上げました。私たちはキリストを信じるだけで救われるのでありますが、今度は神さまの方から救いのことを考えたいと思います。言い換えるなら、「神さまはどのように私たち人間を救おうとされたのか?」ということです。神さまはアダムとエバが罪を犯してしまったとき、「ああ、もうだめだ」と困って頭を抱えたでしょうか?そうではありません。三位一体の神は永遠の昔から人間を救う計画を持っておられました。旧約聖書でアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルによって全世界を救おうとされました。ところがそれが失敗に終わりました。最後にどうしたでしょうか?神の御子をこの世に遣わしたのであります。これがクリスマスです。クリスマスとは神の御子が馬小屋に生まれるだけではありません。私たちは、もっと全体な視野でそのことを考えてみたいと思います。ヨハネ19「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」とあります。でも、その前後に、光についてあかしする人が神から遣わされると書いてあります。そればバプテスマのヨハネのことであり、光についてあかしをするために生まれました。彼はイエス様より先だって活動し、メシヤの到来に備えるように荒野で叫びました。その後、ごロスなる方はご自分の国であるユダヤ(イスラエル)に生まれました。ところが、どうでしょう?ヨハネ111「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」と書かれています。王様はもちろん、宗教家たちも、一般の民衆もイエス様を受け入れなかったのであります。最初、人々から「この人がメシヤだと」思われたこともありましたが、十字架に捕えられたとき、みんな躓いてしまいました。それどころか、「十字架につけろ」とまで叫んだのであります。ヨハネ112「しかし、この方を受け入れた人々」とありますが、ここには明らかにユダヤ人以外の人にも救いがあることを暗示しています。言い換えると、「しかし、だれであっても、この方を受け入れた人々は」となります。

 では、ヨハネが言うクリスマスとは何でしょう?ヨハネ114「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」これがヨハネのクリスマスです。ちなみに、来週は「ヘブルのクリスマス」という題になっています。今年はクリスマス礼拝を18日にしたら良いのか、25日にしたら良いのか世界中の教会が迷っているのではないでしょうか?「ことばが人になって、私たちの間に住まわれた」これがクリスマスです。ことばとは、ロゴスであり世が造られる永遠の昔から、父なる神さまと共におられた方です。しかも、ロゴスによってすべてのものが造られ、すべて肉なるものにいのちの光が与えられたということです。人間をはじめ、息をするすべての肉なるものがロゴスなる方にいのちを負っているということです。なんと、そのロゴスなる方が、人となり、私たちの間に住まわれたということです。「人となる」はギリシャ語で、「天幕を張る」「天幕に住む」という意味のことばになっています。パウロはこの肉体を天幕にたとえています(Ⅱコリント51)。そして、神学的には神が人となることを「受肉」incarnationと言います。英語でcarnalは「肉体の」「肉欲の」という意味があります。ギリシャ人は肉体は悪と考えていましたので、「神が肉体を取るなんてありえない」と躓いたのであります。しかし、あえてロゴスなる神は、私たちと同じような朽ち果てる肉体を取って生まれたのであります。なぜでしょう?簡単に言うと、ロゴスなる神は「人間を救うために人間になってこの地上にやって来られた」ということです。本来なら、天から長いロープを垂らして、「これにつかまったら救ってやるぞ」と言ってもよさそうなものです。そうすれば、犠牲を払うこともないし、痛みもありません。でも、ロゴスなる神が肉体を取り、人間になるというのは大変なことであります。ある人は「それは人間がうじ虫になるようなものだ」と言いました。私はうじ虫にはなりたくありません。ロゴスなるイエス様もそう思っていたに違いありません。

 さらに続いて、ヨハネがこう述べています。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」「私たち」というのは、ヨハネをはじめイエス様を実際に見た人たちであります。もっと言うとイエス様の十字架と復活を見た人たち、目撃者であります。ヨハネは「この方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」と言っています。ヨハネはイエス様と3年半地上で一緒に過ごしました。だから、Ⅰヨハネ11「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」と書いています。おそらく、父なる神とそっくりだけれど、ひとり子としての神の栄光も備えておられたのでしょう。そして、その特徴は何なのでしょうか?「この方は恵みとまことに満ちておられた」とあります。この短いことばの中に、イエス様の人格とイエス様がなされたことが凝縮されています。パウロは使徒26章で「キリストを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ」と言っています。私たちはキリストの何を信じて救われるのでしょうか?私たちはキリストの人格となされたみわざを信じるということです。二つをまとめるとキリストの御名を信じるということです。ヨハネが言う「恵みとまこと」とは何なのでしょうか?これは、どの教会であっても一致しています。恵みとはイエス・キリストの生涯、特に死と復活を通して示された神の愛を言い表す言葉です。恵みとはキリストの死と復活を通して示された神の愛であります。私たちは神の愛である恵みがキリストによって目の前に提示されているのです。それでは「まこと」とは何でしょうか?ある人たちは「まこととは律法であって、とても厳しく、峻厳なものである」と言います。そうではありません。恵みとまことは、双子の兄弟であります。まことはギリシャ語でアレーセイヤですが、「真理」という意味です。辞書には「義、聖など、神の御旨の実行となって現されるその実践的側面」となっていました。つまり、見せかけではなく、真実にということです。私たちは不真実であり、信仰も曖昧です。でも、私たちの信仰の対象であられるお方が、真実なお方なら大丈夫なのではないでしょうか?私たちがこの救いを得られるのは、キリストの恵みでありまことであるということです。やみの中にいた私たちを救うために、光なるキリストが人になって来られたのです。

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2016年12月 9日 (金)

ありえないこと ルカ1:5-13 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.12.11

 きょうは二人の人物が登場します。最初はザカリヤです。彼はバプテスマのヨハネの父です。バプテスマのヨハネは奇蹟的に誕生しました。なぜなら、ザカリヤの妻は不妊の女性であり、しかも高齢だったからです。もう一人はマリヤです。彼女はイエス様の母です。イエス様も奇蹟的に誕生しました。なぜなら、マリヤは処女であり結婚したことがなかったからです。両者ともクリスマスに関係がある人物ですが、一人は信仰がなくて、もう一人は信仰がありました。神さまは私たちにありえないこと、つまり奇跡を起こそうとしておられます。

1.ザカリヤの不信仰

 バプテスマのヨハネの誕生は奇跡的でありました。ルカ1:5-7「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」このところに、「ザカリヤの妻エリザベツは不妊の女だった」と書かれています。しかも、二人ともかなり年をとっていたようであります。イスラエルでは「不妊の女性は神さまの祝福がないからだ」と考えられていました。ところが、聖書では不妊の女性からすばらしい人物が誕生したという記述はたくさんあります。たとえば、イサクを生んだサラもそうでした。ヨセフを生んだリベカもそうでした。サムソンを生んだハンナもそうでした。どれもこれも、神さまが奇跡を起こしてくださった結果であります。エリザベツは不妊であり、さらに高齢でありました。ある時、ザカリヤは一人で神殿の中に入り奉仕をしていました。真っ暗な神殿であかりを灯し、香をたいていました。その時です。主の使い、天使が彼の前に突然現れました。

 ルカ113-17「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」驚くべきことに、天使は不妊の妻エリサベツが男の子を産むと告げました。そればかりではありません。名前がヨハネと決まっており、どういう一生を過ごすか、どのような神さまの計画があるかまで告げました。神さまの計画を一番良く言い表すことばはdivine destinyです。神さまの運命、神意であります。きょう来られている方々ひとり一人にも、divine destiny神意があることを覚えていただきたいと思います。バプテスマのヨハネのdivine destinyはイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせること。また、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するということでした。

 そのようなすばらしい預言をザカリヤは天使から聞きました。彼はどうしたでしょう?ルカ1:18 「そこで、ザカリヤは御使いに言った。『私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。』」ザカリヤは簡単に言うと「そんなのありえない」と疑ったのです。そのため、神さまのさばきが下りました。ルカ119-20「御使いは答えて言った。『私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」』ザカリヤはバプテスマのヨハネが生まれるまで、差別用語で申し訳ありませんが、おし(唖)になりました。ザカリヤは疑いましたが、それでもバプテスマのヨハネが二人を通して生まれるという約束は変わりませんでした。残念ながら、ザカリヤは10か月ものが言えず、話せなくなりました。もし彼が、口がきけたなら、天使から言われたことを吹聴して、それこそバプテスマのヨハネが誕生しなくなる恐れも出てきます。不信仰に対するさばきではありましたが、一定の期間だったということです。

 私たちはこのところから何を学ぶべきでしょうか?ありえないことが起こるようなとき、私たちもザカリヤのように疑うのではないでしょうか?ザカリヤは2つの理由で、天使の預言を否定しました。第一は妻エリザベツが不妊の女だったということです。彼女も「私は不妊だ」と言うし、お医者さんも不妊だと言うし、周りの人々もそうだと言ったのかもしれません。彼女は「私は不妊で一生過ごすのです」というレッテルを貼っていました。それも1つの信仰であります。第二は両者とも高齢であったということです。ザカリヤは「私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」と断言しています。アブラハムとサラのことを忘れたのでしょうか?それよりも、知識と経験から「年なので子どもは無理」という考えが固まっていたのでしょう。それも1つの信仰であります。ここで注目すべきことは、天使のことばです。天使は「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます」と言いました。このところから分かることは、ザカリヤは子どもが生まれるように祈っていたということです。何年か何十年間か分かりませんが、「主よ、どうか子どもが与えられますように」と祈っていたのです。ですから、ザカリヤは全く不信仰だったという訳ではありません。ある時まで、信じていたのですが、「妻は不妊であり、自分たちももう年だ」と分かった時から、祈りをずっとやめていたということです。神さまはザカリヤの祈りをちゃんと受け止めていました。神さまは「今がそのときだ」と天使を遣わしたのに、肝心のザカリヤはその願いを捨てていたのです。

 このところから私たちは2つのことを理解しなければなりません。第一は、私たちの祈りはどんな祈りであっても神さまのところに届いているということです。第二は、神さまの時があり、そのときも信じて祈っているかということです。たとえて言うと、品物をくださいと注文しました。ところが長い間、待っていても来ません。ある時、宅配人が品物を届けにきました。でも、不在だったので、持って帰って行きました。ザカリヤもそういう状態でした。神さまは真実なお方なのですが、私たちの方が不真実だということです。そこにはいろんな理由があるかもしれません。でも、せっかく祈っていたのに、途中でやめていたという事実がそこにはあります。ありえないことが起こるかもしれません。しかし、それはかなり前ではありますが、自分が祈っていたことなのです。私たちの方はとっくに諦めて祈りをやめていました。でも、神さまの方は覚えておられ、時が満ちた時、叶えてあげようとされます。イエス様はルカ18章で、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」と言われました。

2.マリヤの信仰

 ザカリヤへの告知の6か月後、御使いガブリエルは処女マリヤに現れました。ルカ128-33御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」天使はザカリヤと同じようなことをマリヤに告げています。まず、生まれる子どもの名前がイエスと決まっていました。では、その子どものdivine destiny神意は何でしょう?その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」バプテスマのヨハネの神意は、イスラエルの子らを主に立ち返らせることでした。そして、イエス様の神意は、彼が王となり、その国を永遠に治めるということでした。いと高き子と呼ばれるという意味は、「神の子」でありメシヤであるということです。天使の告知から、イエス様は人間として生まれるけれども、本当はいと高き神の子であり、やがて永遠の御国を治める王になることが分かります。

 この天使のことばに対してマリヤはどう答えたでしょうか?ルカ1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」一見、ザカリヤと似ていますが、マリヤは違います。ザカリヤは「エリザベツが不妊の女で、自分たちも年なので不可能です」と疑いました。しかし、マリヤはその理由が知りたくて、単純に天使からさらなる情報を求めているのです。マリヤは「自分はまだ結婚していないのに、どうしてそのようなことになりえましょう」と聞いています。マリヤの質問に対して、天使がこのように答えました。ルカ135-37「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」天使は聖霊によってその子は生まれるのであり、それは神の超自然的な力であると言いました。さらに、不妊の女と言われていたエリザベツも「あの年になって男の子を宿しています」と告げました。天使はマリヤに信仰を持たせるために、エリザベツの奇蹟的な懐妊を知らせました。そして天使はザカリヤの時のように、怒ってさばいていません。ただ、理由を補足しただけです。それに対して、マリヤはどのように応答したのでしょうか?

 ルカ138マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」すごい、もう十分ですとばかり、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と自分を明け渡しました。ザカリヤは「そんなことありえないでしょう」と疑いました。しかし、マリヤは「たとえありえないことでも、この身になりますように」と信じました。私たちは一言で「信じる」と言いますが、その背後にはもっと深い要素が含まれています。まず、マリヤはザカリヤのように前から「メシヤを生むことのできる母にしてください」とは祈っていませんでした。それよりも、「婚約中のヨセフと早く結ばれたい」と願っていたことでしょう。ところが、婚約中に妊娠したならどうなるでしょう?ヨセフが「ああ、聖霊によって身ごもったのですね」と言うでしょうか?また、ユダヤでは婚約中に他の男性の子どもを産むということは姦淫であり、石打ちの刑で殺されました。現代では、そういうことがあるかもしれませんが、当時は十戒を破った罪で処罰されました。マリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と願いました。しかし、頭の中ではいろんなことがよぎったのではないかと思います。でも、そのようなものを全部、捨てて、自分を主のためにささげたのです。つまり、信仰はことばだけではなく、全生活、全人生がかかっているということです。そして、ある時は多大な犠牲、支払うべき代価も伴うんだとういことです。でも、マリヤはそのようなマイナス要素を全部蹴飛ばして、メシヤの母になることを選びました。

 マリヤは、メシヤの母になることがどんなにすばらしいことか自ら歌っています。ルカ146-48「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」マリヤは自分をどのように見ていたのでしょうか?自らを「卑しいはしため」と呼んでいます。また、御使いガブリエルに対しても「私は主のはしためです」と言いました。「はしため」とは何でしょう?ある辞書には「召使いの女、はした者、下女」とありました。しかし、当時は、女性が自分をへりくだって言う時に使っていたようです。はしための男性版は、「しもべ」です。モーセやパウロも自らを主のしもべと言いました。ですから、これを差別用語と片付けるのではなく、神さまの前に自分を差し出す時の心の態度だということでしょう。もちろん、私たちは神の友であり、王子であり、王女です。でも、神さまから何か使命を賜ったとき、「私は主のしもべです」「私は主のはしためです」という態度が重要なのではないかと思います。そこに主である神さまへの全幅の信頼と、献身と、信仰があるからです。現代は、献身ということばも死語になりつつあります。献身的などというと、とっても暗いイメージがあります。でも、神さまへの献身は、特権であり、報いがあり、とても喜ばしいことです。だから、マリヤは「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」と歌ったのです。ローマ・カトリックはマリヤを礼拝の対象にまで高め過ぎました。そういう極端は間違っていますが、私たちはマリヤの献身と信仰を学ぶべきではないかと思います。

3.ありえないこと

 ありえないこととは、私たちの常識や経験、科学や神学を越えることがらであります。聖書にはこのようにたくさんのありえないこと、奇跡が記されています。ところが、現代の教会やクリスチャンがそれらの奇跡を信じているかというとそうではないということを気づかなければなりません。まず、第一に現代の教会やクリスチャンは天使の存在を信じてはいますが、当時のように活躍はしていないと思っています。キューピトのように可愛らしくて、おとぎ話に出てくるような存在だと思っている人もいます。しかし、このテキストに出てくる御使いガブリエルは天使長の一人で、聖書では大事な知らせを伝えるときに出てきます。天使のギリシャ語はアンゲロスですが、「知らせを持っている」「知らせる」という言葉から来ています。現代においても、天使が私たちに何かを知らせて導いてくれる時があるかもしれません。第二は、両者とも奇跡的な誕生です。バプテスマのヨハネは、不妊の女性と高齢の男性から生まれました。イエス様は処女マリヤから生まれました。ザカリヤは「ありえないこと」と疑いました。一方、マリヤは説明を求めた後、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と願いました。マリヤの態度ことが、ありえない奇跡を受け止める姿であり、信仰です。神さまは私たちに理性とか常識を与えて、これを用いるように願っています。しかし、自然を越える超自然的な出来事に対しても心を開くように求めておられるのではないでしょうか?第三は、divine destiny、神意です。神さまは両者が生まれる前から、名前を決めており、さらにどのように一生を過ごすべきか、何をやり遂げるべきかまで計画しておられます。計画というよりは神さまが定めたdivine destiny神意であります。私たちの場合は、名前は両親が決めますが、その生き方はどうでしょう?両親の願いや本人の願いもあるでしょう。でも、その根底に神さまが定めたdivine destiny神意があるとしたらどうでしょう?やはり、私たちは心を開いて、神さまに求めるべきではないでしょうか?

 最後に私たちはマリヤのようなありえないことに対する心の態度が必要です。ルカ129「しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」さらに、ルカ219「しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」さらに、ルカ251「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」これらに共通することばは、「じっくり考える」「よく考える」ということです。マリヤはありえないことに対して、何も考えないで飛び込んだわけではありません。それは本当なのか、信じるに値するものなのか、じっくり考えた結果だったということです。「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出す。スペイン人は走ってしまった後で考える。」という格言があるようです。人によって慎重な人と、とにかくやってみる人がいるかもしれません。でも、神さまの奇蹟、ありえないことを期待することも必要です。ザカリヤのように私たちの祈った祈りは、神さまの前に届いているのです。ところが、現実の様々な問題や障害によって、「無理だな」と取り下げてしまっているかもしれません。神さまはありえないことを起こしてくださる力ある神さまではないでしょうか?結果は、願っていたものとは違うものであるかもしれません。でも、父なる神さまは、最善なものを子どもである私たちに与えたいと願っているのではないでしょうか?イザヤ559-11「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」アーメン。

 ジョエル・オスティーンの妹のリサさんは、何年間も辛い不妊治療を受けました。結婚前、教会の事務所で働いていたとき、牧師である父宛ての小包が届きました。開けた瞬間、爆発し大きな怪我を負いました。その事件はテキサスのヒューストン中に知れ渡りました。その時、腹部を痛めたことがありました。お医者さんは、その時の怪我が原因ではないかと言いました。もう、子どもを授かるのを諦めていたとき、見本のベビー・オムツが送られてきました。ご主人が開けると可愛いオムツが2つ入っているではありませんか。ご主人はパッケージに「私たちの双子のために1217日」と書きました。それまで、二人は養子についても祈っていました。数か月後、リサさんの友人から突然、電話がありました。その人はある講演で一緒に話したことのある姉妹で、マーシー(あわれみ)のミニストリーをしていました。彼女は「普通はこういうことはしないけど、ぜひあなたに知らせなくては」と思って電話したそうです。17歳の女性が双子の赤ちゃんを宿しているけど、自分では育てられないということでした。養子先を願っているけれど、1つだけ条件があり、身内に双子がいるこことでした。なんとリサさんのご主人は双子だったそうです。二人は、この間の2つのオムツと言い、身内に双子という条件と言い、これは神さまからの贈り物に違いないと思ったそうです。早速、かわいい女の子の双子が与えられました。自分たちの祈りとは違ったけれど、祈りが答えられました。私たちは祈りをやめるべきではありません。神さまが聞いていて下さるからです。神さまからのありえないことを受け取りましょう。

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2016年12月 2日 (金)

天国のふくらみ マタイ13:31-35 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.12.4

 マタイ13章には天国のたとえが記されています。今日は、その中の2つを学びたいと思います。天国はユダヤ人が用いた名称ですが、日本人は死んだ人が行くところだと誤解しています。私はあえて天国ではなく、神の国に置き換えて語らせていただきます。神の国は目に見えませんし、行ったこともありません。イエス様だけが神の国のことを良くご存じであります。なぜなら、向こうからやって来られた方だからです。重要なことは神の国はイエス様が来られた時から始まったということです。イエス様が地上に来られた頃は、神の国の領土もなく、国民もいませんでした。イエス様は地上に神の国がどのように来たのかたとえを持って語られました。

1.からし種のたとえ

 マタイ1331-32イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」最初はからし種のたとえからです。ケシなどのように、からし種よりも小さい種は存在します。しかし、ユダヤでは、最も小さいものを形容するのに「からし種1粒のように小さい」という表現がありました。この、からし種を畑にまくと、高さが3メートルほどにもなり、まさしく鳥が宿るのです。その種は小さいのですが、見る見るうちに大きくなって、他の木を追い越してしまいます。つまり、種粒の小さい割には、成長発達の度合いが大きいのです。イエス様は神の国をからし種の成長にたとえました。最初はイエス様とその弟子たちだけで、吹けば飛ぶような小集団でした。イエス様は弟子たちにこのようにおっしゃいました。ルカ1232「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」神の国はイエス様がお集めになった12人からスタートしました。その後、70人になりました。さらに、使徒の働き1章を見るとわかりますが、二階座敷で120人の弟子たちが祈っていました。さらに、Ⅰコリント15章から、イエス様の復活を見た弟子たちは500人以上いたことがわかります。ペンテコステの日はペテロの説教によって3000人ほどが弟子に加えられました。その後、足のなえの人が歩く奇跡によって5000人なりました。ステパノのことで大迫害が起り、異邦人の教会がサマリヤ、アンテオケ、小アジア、ヨーロッパと広がっていきました。起源後313年にはキリスト教会はローマ国教となりました。現在、世界中にキリスト教会があり、総人口の33%がクリスチャンです。なんという広がりでしょう?世界人口が現在73億人だとすると、23億人になります。でも、2000年間、すでに天に召された人たちをも合わせると数千億に達しているのではないでしょうか?

 私たちはここで「めでたしめでたし」と言いたいところであります。しかし、「空の鳥」は複数形で書かれています。古くから聖書解釈者たちは「そこには悪い者も含まれている」と言います。彼らは「悪い者とはサタンの教えを報じている者たちである」と解釈しました。確かに起源313年にキリスト教はローマ国教となりましたが、その後の歴史は異端との戦いでした。中世の時代は聖書が封印されていたために、教会内に迷信がはびこっていました。1517年にルターによる宗教改革がなされ、教会は聖書に立ち返りました。しかしそれでも、教会が健康に成長していったかというとそうではありません。この世と妥協したり、聖書に反した神学が起りました。あながち、聖書解釈者たちが誤っているとは思えません。そうなると、さきほどの23億人とか数千億というのは、水増しした数字になってしまいます。しかし、たとえの解釈の原則は、中心的な教えは1つだということです。このところで「からし種」が何だとか、「鳥」が何だとか解釈してはいけません。イエス様が教えたかったことは、神の国が外的発展を遂げるということです。JB.フリップスはこのたとえをThe kingdoms power of growth、王国の成長の力と題しています。そして、パン種のたとえはwidespread influence、王国の影響力の拡大と題しています。からし種は、1ミリで重さが1ミリグラムです。イスラエルのガリラヤ湖畔の種は成長すると3メートルに達するということです。これほど大きく成長すると野菜というよりは、木のように見えるでしょう。空の鳥が宿ると言ってもオーバーでありません。イエス様がおひとりで、この地上に来られました。神の国を作るために、まず12人を集めました。その頃はローマが世界を支配していました。彼らのほとんどはガリラヤの漁師たちです。教育も権力もありませんでした。そんなからし種のような群れが、やがてはヨーロッパ世界を支配するのです。パウロがギリシャで捕えられたとき敵たちはこう言いました。「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも入り込んでいます」(使徒176)。口語訳は「天下をかき回してきたこの人たち」と訳しています。この世の人たちからみたら、キリストの弟子たちは厄介者だったということです。極端に言いますと、神の国は、イエス様以前はなかったのです。なぜなら、アダムが罪を犯したために、失楽園、エデンから追い出されました。そして、この世は悪魔の支配下になりました(Ⅰヨハネ519)。ところが、イエス様が神の国を引っ下げて、この世に来られたのです。そして、本来、神の救いから漏れている異邦人である、私たちのところに招待状が来たのです。何とありがたいことでしょう。

 私は199710月にこの箇所から説教しています。今から約20年前です。その原稿を少し引用させていただきます。神の国の枝は日本にまで届き、その枝の中に宿ったのが私たちクリスチャンです。日本のクリスチャンは人数こそ少ないですが、日本にも救いが及んでいることを感謝したいと思います。教会の事務室や牧師室は道路に面していますので、窓が開いている時は、道を通る人々の話し声が聞こえてきます。今年の4月頃、入学したばかりの高校生が「あれ、どうしてこんな所に教会があるんだ!」と言っていました。あっちゃいけないというニュアンスでした。また、数日前、2人の女の子が自転車で教会の前を通りました。「ね、ね、教会に行ったことある?」「だって、お母さんが行っちゃいけないと言うから」。お母さんは何か他の宗教をやっているのだろうか?それともキリスト教に対して偏見をもっておられるのか?このように、日本という国では、キリスト教はよそ者、異質なように見えているのかもしれません。からし種のようにクリスチャン人口も微々たるものです。亀有駅前の公共の地図には神社やお寺がちゃんと表示されているのに教会の表示はありません。日本ではキリスト教が異質なものでもあっても、救われている人がいます。数は少ないけど神の国に属している人々がいるということに感謝すべきだと思います。やがて、日本も福音の種が爆発的に成長し、多くの人々を宿す日が来ます。今は数が少ないですが、希望を捨ててはいけません。あっと驚くべき成長発展が来ることを信じましょう。アーメン。20年も前から、同じようなことを言っています。私は今もなお、圧倒的に成長するとき、つまりリバイバルの時が来ると信じています。

 先日、『神が日本に残した指紋』というDVDを見ました。そのDVDによると、日本は古くから創造主を礼拝していたということです。青森県に三枚丸山遺跡がありますが、縄文時代中期に造られた丸太の塔です。塔の建造はだんだん南下して行き、弥生時代には九州の吉野ケ里にも塔が作られました。その塔は明らかに礼拝するものでありました。また、日本で一番古い神社は出雲にあります。中央に「天之御中主神」(アメノミナカヌシノカミ)と両脇の霊なる神、三神が祭られています。この三神による創造物語は古事記に書かれています。平田篤胤(あつたね)は、禁書であったキリスト教関係の書籍を読み、万物の創造神という観念を持ったそうです。創世記1章に「はじめに神(エロヒム)は天と地を創造した」とありますが、聖書の神は複数形になっています。また、京都の神社仏閣から、たくさんの聖書的なものが発見できます。これは朝鮮から渡って来た秦氏の指導であったと考えられます。さらに1549年、フランシスコ・ザビエルが日本に来て宣教を開始しました。その時、ザビエルは伝道師に「茶道によって伝道するように」と言いました。千利休が茶道をきわめ、彼の5人の弟子はキリシタンになりました。迫害が増してくると、茶室で聖餐式をしたそうです。そして、多くのお寺がキリシタンをかくまってくれたそうです。キリシタンは灯篭や仏像の下に十字架のキリストを隠しながら礼拝をしました。このビデオの結論は、神さまが日本人と日本人の文化を愛していることでした。外国から来た宣教師が、自分たちの文化が優れているかのように、日本人の文化を軽んじたことをお詫びしていました。 

 私は現在、救われているクリスチャンの数しか見てきませんでした。でも、極東の日本にも創造主なる神への信仰心があったということは確かです。旧約聖書のキリスト教は、仏教や神社のお祭りにも入っています。だからと言って、日本人が救われているかというとそうではありません。いくらイスラエルの散らされた部族が入っていると言っても、イエス様を救い主をして信じなければなりません。なぜなら、イエス様が神の国を持ってきたのであり、イエス様を信じなければ神の国に入ることはできないからです。でも、日本人も神さまが創造した人種です。そして、縄文時代、弥生時代、大和、江戸時代、小さかったかもしれませんが福音の種はまかれていたということです。日本は確かに福音が育たない、砂漠のような不毛の国かもしれません。科学者は、もし砂漠に灌漑をとおして水を引くなら、草木が繁茂すると言っています。たまに砂漠に雨が降る時がありますが、そのときは、一斉に芽がでるそうです。日本にもからし種がまかれ、地中に埋もれています。やがて大雨が降るなら、日本からも大勢救われる人が起こると信じます。

2.パン種のたとえ

もう一つのたとえは、パン種のたとえです。からし種が外的進展を教えているなら、パン種は内的進展を教えています。聖書でパン種すなわちイースト菌は、ものを腐敗させる偽善性をあらわすのが普通です。しかし、たとえの原則は、1つのものを表わすのに1つの比喩を用います。このたとえは、パン種の持つ発酵力、影響力をたとえていますので、悪い意味にとってはいけません。もう一度お読み致します。マタイ1333イエスは別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」「天国のふくらみ」という題だけ聞いても何か夢があるように思えませんか?イエス様が天国、神の国の最初のパン種でした。預言者イザヤは「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもしない」と言いました。そして主の弟子たちも、貧しく卑しく、無学のただ人でした。しかし、キリストが復活し、聖霊が降ってから弟子たちが世界中に出て行きました。権勢や能力によらず、聖霊によって、世の光、地の塩となって世の中に浸透していったのです。神の国のパン種はあまり目立ちませんでしたが、ひとりひとりの心の中に働き、ひとりひとりを変えていき、神の国の住人にしていったのです。神の国は目には見えません。見えないからと言ってもないわけではありません。密かに静かに、何世紀もかかって救われる人を集めているのです。最初にヨーロッパとロシアが福音化されました。16世紀、ウィリアム・ケアリーが「インドに宣教に行く」と言い出しました。英国教会の人たちは「もう世界中の人たちは救われている」と言いました。彼らは「インド人は人間じゃない」と思っていたのです。スペインやポルトガルが南米に渡りました。しかし、奴隷売買と植民地支配が主な目的でした。多くの犠牲を経て、北米と南米の人たちもクリスチャンになりました。アジアそしてアフリカにも福音が宣べ伝えられました。キリスト教会は「ハム族である黒人は奴隷になるのが当然なんだ」と考えていました。しかし、神さまの計画はそうではありませんでした。色で分けるのは失礼ですが、白、黄色、茶色、黒人も救いたいと願っておられるということです。

からし種のたとえは外的な発展性をたとえています。これに比べ、パン種のたとえは内的な影響力をたとえています。JB.フリップスはwidespread influence「影響力の拡大」言っていました。Influenceは日本語のインフルエンザにもなっています。風邪のウィルスによって、何万人もの人たちが感染して、命を落とす人たちもいます。冬が近づくたびに、「〇〇型インフルエンザのワクチン」が必要だと騒がれます。神の国の福音も同じで、伝染性があるということです。これにかかったなら、一ころにクリスチャンになるということです。アメリカのビルハイベルスは『感染力の強いクリスチャンになる』という本を書いています。先生が、ある講演で語られたひとことです。「伝道というと、義務とか教会を大きくするためというイメージがあるようだけど、それは間違いだよ。それに、構える必要なんてない。だって、人がクリスチャンになるのは、聖霊の働きだからね。イエスが人々を愛されたように僕たちも人々を愛し、聖霊が語れと言えば語り、静まれと言われれば静まり、相手の話を聞けと言えば聞く。そして、次のステップは何かを聖霊に聞きながら歩んでいけば、いつの間にか伝道になっているんじゃないかな。」彼が言うには、聖霊に導かれれば可能だということです。使徒18「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」まさしく、聖霊によって感化された人たちが、世界を内側から変えていったのです。ですから、あまり頭で考え過ぎると、恐れがやってきて感化力が落ちてしまうということでしょう。香港のベン・ウォン師は救われた当初は一生懸命伝道し、多くの人たちが信仰へと導かれたそうです。すると教会は、「牧師になるなら神学校に行かなければならない」と言ったそうです。奥さんも後から神学校に行ったそうです。何が変わったのでしょう?知識が増えたと同時に、恐れもやってきました。ベン・ウォン師も奥さんも全く伝道ができなくなったそうです。言い換えると、感染力が全くなくなったということです。数年後、やっと福音を伝えることができるようになったそうです。そのため、ベン・ウォン師は神学校を痛烈に批判していました。神学校は悪いわけではありませんが、伝道力と神学は比例しないということです。聖霊による熱心さというのは、別もんだということでしょう。ある人は「伝道は頭ではなく、心だ」と言いました。また、奥山実師は「伝道は足だ」と言いました。なぜなら、ローマ1015「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう」と書いてあるだそうです。つまり、伝道は足しげく通うことなんだということです。

私は、パン作りはあまり経験がありません。かなり前に、パン焼き器を買ったことがあります。その時、1回だけ作りました。娘が何度かパンを作ってくれました。しかし、今、そのパン焼き器がどこにあるのかも分かりません。イエス様がおっしゃりたいことは、パン種の力です。ただイースト菌を入れて、こねて放っておくと自然にふくらむということです。同じように、伝道はあきらめてはいけません。あせらず、急がず、たゆまず行なうものだと思います。生活の中でジワ、ジワすべきであります。最後に、既に天に召された五藤ご夫妻について話させていただきます。五藤千代姉妹は60歳のときイエス様を信じてクリスチャンになりました。なんと、私が赴任した年のクリスマス・イブ礼拝に初めて来られた姉妹です。姉妹は英会話が好きで、英会話同好会もやりました。やがて、彼女の家で家庭集会も持たれ、近所の人やご主人が参加されました。ご主人は宗教について良くしっており「天国と極楽は二階でつながっている」と言っていました。ある日、突然、姉妹から電話があり亀有病院に駆けつけました。ご主人が温泉で湯あたりして倒れて、意識も食欲もなく、病院から「もうすぐ亡くなるかもしれません」と言われたそうです。数日後、「今、少し、意識が戻りました。先生、伝道してください」と電話がありました。駆けつけた私は「五藤さん、天国に行きたいですか?行きたかったら、イエス様を信じましょう」と言いました。すると「うん」と答えました。隣にいた五藤姉妹は「行きがけに答えたのよ、もう一度、聞いて」と言うので、もう一度伝えると、「うん」と答えました。その日の次、アメリカからクリスチャンのお嬢さんが帰って、五藤姉妹ともう一度、確認したそうです。病床の父、五藤さんに二人が福音をはじめからおさらいし、「信じる?」と聞いたそうです。すると、ウウウと首を横に振ったというのです。お嬢さんは、そのあとアメリカに戻られたのですが、私はそのニュースを聞いてガックリしました。「私がせっかく導いたのに、どうして蒸し返すようなことをするんだ。そんなことをするなら最後まで責任を取って、それからアメリカに帰るべきじゃないか」と憤慨しました。もう、私の心の中に恐れがやって来て、お見舞いに行くのも気が重くなりました。「はっきりと拒否されたらどうしよう、イヤダなー」と思いました。それでも、何回か病院を訪れ、お祈りして帰ってきました。だんだん意識もはっきりしてゴハンも食べられるようになり、私は「元気になりましたね」と声をかけるだけで、信仰のことにはひとことも触れませんでした。そして、「ただ、主よ、あなたが、どうぞ、夢でも見させて下さい」とお祈りしていました。

 ところが次の日の午後、五藤姉からお電話があって、私のお話しをもう一度聞きたいと言っているというのです。行ってみると、私のことを覚えておられ、「お元気になって良かったですね」言いました。すると、「元気になったとは何ですか?天国に行くと言ったじゃないか?」と半分笑いながらおっしゃいました。「いや、いや、天国とは死んでから行くもんじゃなくて、生きているうちに入るもんですよ」と色々話して、もう一度、信じますかとお聞きしますと、信じますとニコニコしながらうなずかれました。私もこの時とばかり洗礼も受けましょうと言うと承諾してくれました。山崎長老と同行し、亀有病院の病室で洗礼を授けました。話を聞くと、夢の中に私が出たり、イエス様が出たりしたそうです。五藤さんが半分意識のないとき、ウンウンとうなずいたのは、頭ではなく、もっと深い霊の世界で理解されたのではないかと思います。五藤姉妹からご主人は「宗教のことはよく知っていて、大変理屈っぽい」と聞いていました。もし、五藤さんが元気で何も問題がなければ、福音を跳ね返したかもしれません。しかし、私がまるで引導を渡すように、イエス様を信じなければ天国に行けないよと言ったことに、幼子のように単純になって信じたのだと思います。五藤兄弟はそれから元気になり退院しました。2年後に本当に天に召されました。福音は浸透します。祈りも浸透します。あきらめないで、いきましょう。

 きょうはからし種のたとえと、パン種のたとえから学びました。どちらもこの世的には力もないし、迫力もありません。しかし、からし種の成長力はどうでしょう?また、パン種の影響力はどうでしょうか?決して馬鹿にはできません。イエス様がこの地上に神の国を持ってこられました。最初は12弟子ではじまりましたが、今では世界中に広がっています。極東の日本に住む、私たちも福音に感化され、神の国に入ることができました。確かに日本人クリスチャンは少ないかもしれません。でも、極東の、しかも伝道が一番難しいと言われている日本にもクリスチャンがおり、教会があるのです。鉄や銅や結構採れます。ダイヤモンドはなかなか採れないので希少価値があるのです。文化国でクリスチャン人口が1%も満たないという稀な日本です。私たち日本人クリスチャンは神の目から見たら、ダイヤモンドのように価値があるのではないでしょうか?

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