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2016年11月25日 (金)

麦と毒麦のたとえ マタイ13:24-30 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.11.27

 この世では似て非なるものがたくさんあります。魚や鳥、昆虫の中にも良く似ているものがあります。たとえばテントウムシも最初は分かりませんが、星が20もあるものは害虫とされます。本日のテキストには、麦と似ている毒麦が出てきます。毒麦というのは、その葉も茎も麦とよく似ているジザニアという毒草で、食べるとめまいが起こるそうです。最初は分かりませんが、穂が出るようになると、この毒麦も麦と区別することができるようになるということです。イエス様は「天の御国」がどのようなものか、たとえによって教えておられます。

1.教会史における毒麦

 このたとえを字義通り解釈するとどうなるでしょうか?ある人が自分の畑に良い種を蒔きました。「ある人」というのは「その家の主人」です。人々が眠っている間に、敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行きました。もし、家の主人が神さまで、畑がこの世だとするとどうなるでしょうか?神さまは眠ったりしませんので、ちょっと問題が出てきます。敵というのは悪魔であり、こっそり毒麦を蒔いて、畑を荒らすということです。しもべたちというのは預言者もしくは、教会の働き人かもしれません。収穫の時というのは、世の終わりのさばきのときでしょう。その時、毒麦が集められ火で焼かれます。一方、麦は集められて倉に納められます。このたとえのメッセージは「早まって毒麦を抜かないように。収穫の時まで待ちなさい」ということです。たとえを1つ1つ何かにあてはめていくと矛盾が出てきます。一番重要なことは、このたとえが何を教えたいのかということです。それが分かったなら、今日の日常的なことに適用していくことができます。イエス様は「天の御国はこういうものですよ」とたとえをもって教えられました。このたとえの中心的メッセージは「天国が完成するまで、毒麦のような人が現れますので、用心しなさい」ということではないかと思います。

 マタイによる福音書はユダヤ人を対象に書かれていますので、「選民イスラエル」という思想が流れています。でも、私たちは異邦人ですから、「教会の歴史」という観点から見ることも必要です。聖書の創世記をみるとわかりますが、系図がたくさん出てきます。簡単に言うと、選ばれない人たちの系図が最初に出てきて、神の民と思われる系図があとから出てきます。第一歴代誌もたくさんの系図が出てきますが、最終的にはユダ族から出たダビデの子孫になっています。まるで本流と亜流のように、神の民が流れて出ています。新約聖書を見ますとイエス様は新しいイスラエルをもくろんでいたことがわかります。イエス様が12弟子を選びましたが、そこにはイスカリオテのユダが含まれていました。なぜ、ご自分を裏切るような人をイエス様は使徒の中に加えられたのでしょう?イエス様の復活後、異邦人を中心とした教会が誕生します。ユダヤ人は国外に散らされ、終わりの時代に集められるというのが聖書からの預言です。私たちはイエス様のたとえを解釈するとき、このことを教会の時代にもあてはめるべきだと思います。イギリスのJC.ライルは注解書の中でこのように言っています。「洗礼を受けた会衆の中に、信者と不信者、回心した人と回心していない人、王国の子と邪悪な子が混ざり合っていることを発見しなければならない」。JC.ライルは英国国教会の監督だったので、当時の教会をそのように見ていたのだと思います。また、彼は「新約聖書後の教会教父の時代、宗教改革の時代、今日の宣教の時代においても毒麦と麦を見ることができる。たとえ監督派、長老派、独立派で厳しく管理しても同じことである」と言っています。ということは、どの時代にあっても、どの教派であっても毒麦の発生は防ぎようがないということでしょう。

 今日の教会では毒麦とはキリスト教会の異端であると解釈します。モルモン教、エホバの証人、統一教会などが有名です。異端とは「そこには救いがない」ということです。最近は「新天地」という異端が韓国から入ってきて、教会の乗っ取りを図っているようです。あるホームページにこのように書かれていました。「ここ数年、特に最近、日本のキリスト教会や宣教団体、大学サークル(KGKCCC)などに潜入し、求道者や教会員、リーダーたちにアプローとして引き抜こうとしたり、洗礼を受け長年かけて(少なくても3年、10年かけて)忠実な信徒、役員となり、信頼を勝ち取ったあとに教会の分裂・転覆を図るという徹底ぶりで有名になり、警戒されている。彼らの伝道対象が、未信者でなくキリスト教会の信者というのが新天地の特徴である。既存のキリスト教会は注意しなくてはならない」。イエス様がマタイ7章で警戒を呼び掛けています。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。」(マタイ715,16)。世の終わりには、偽キリスト、偽預言者がたくさん出現すると預言されています。ということは、教会は外に向かって宣教を続けながらも、入り込んで来る異端に気を付ける必要があるということです。

 ところで、イエス様がこのたとえで一番おっしゃりたいこととは何でしょうか?しもべたちが「では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。」と提案しました。すると、主人は「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。」と言われました。冒頭でも申し上げましたが、麦と毒麦は最初の頃は、よく似ているということです。見分けがつかないので、良い麦も一緒に抜く恐れがあります。使徒パウロがまだ、回心したばかりのサウロのときです。彼は熱心に「イエスは神の子である」と宣べ伝えました。すると、教会の人たちは「ここへやって来たのも、私たちを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためだろう」と疑いました。人々は「サウロは弟子ではない」恐れていましたが、バルナバが間に入って説得しました。もし、教会がサウロ、後のパウロを失っていたなら教会の大損害になっていたことでしょう。私も最初に教会に来たときは、この世のニオイをプンプンさせていました。副牧師は「ああ、女の子目当に来たんだろう」と思ったかもしれません。その当時は青年会に、そういう人たちがいっぱいいました。でも、姉妹方の信仰が強かったので、未信者の男性が信仰を持ったというケースがたくさんありました。「洗礼を受けなかったら、結婚してあげないから」という雰囲気があふれていました。こういうことから、外見で毒麦みたいに扱ってはならないということです。

 コリントの教会には、パウロは本当に使徒なのか、疑問をいだく人たちもいました。そして、ある者たちはパウロをさばいていました。それで、パウロがコリントの教会にこのように書き送っています。Ⅰコリント45「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」このことは私たちにも言えることです。つまり、神さまの座について人を裁いてはいけないということです。パウロは「私をさばく方は主です」とはっきり言っています。その時が来たら、主ご自身が「やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされる」ということです。では、教会が無法地帯のように、罪や不正が野放しにされて良いか、というとそうではありません。十戒からはっきり罪だと分かるものもありますが、グレーというか、その時は分からないものもあるのです。神さまよりも先走って、白黒付けようとするなら、良い麦まで抜いてしまうことになるでしょう。私たちはそういう意味で神さまを恐れる必要があります。出エジプト記にありますが、ミリヤムが結婚のことで弟のモーセをさばきました。すると彼女はらい病にかかったと聖書に書かれています。さばきたい気持ち分かりますが、聖霊様が教会の中におられます。私たちは聖霊様の判断を仰ぐための時間を与えなければなりません。先走った裁きにより、教会が分裂したり、人々を深く傷つけることがあることを良く知っておきたいと思います。

 私が当亀有に赴任する直前、大川牧師を訴える信徒がいました。私はこちらに来たので、その後のことはよく分かりませんが、最高裁まで行ったそうです。何と10年間、訴訟問題が続いたということです。「火のないところに煙は立たない」という諺がありますが、全国にも悪い噂が広がりました。教会のリーダー的な人もその信徒に同調したので、大川牧師は「死の陰の谷」を通らされたと思います。後から聞いたことですが、先生を訴えた人たちの中には急死したり、家族がバラバラになったり、重い病にかかったり良いことはなかったようです。現在は、大和カルバリーとして大いに祝福されています。私が一番、驚いたのは、大川牧師はほとんど言い訳をしなかったということです。まさしく、パウロが「私をさばく方は主です」と言ったとおりだと思います。「さばくとさばかれる」とマタイ7章に書いてありますが、私たちが主の代わりにさばいてはいけないということです。私たちの目で、「この人は毒麦ではないだろうか」と思うことがあるかもしれません。しかし、イエス様は「育つまで、しばらく見なさい」と言われました。サウロがパウロになる場合もあるのですから、聖霊様から深い洞察力をいただきたいと思います。Ⅰコリント45「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」

2.信仰生活における雑草

 後半はこのたとえの適用を考えました。そのために毒麦ではなく、雑草と言い換えたいと思います。教会の周りには植木(さつき)が植えられています。いつの間にか雑草が生えてきて、抜いても、抜いても、また生えてきます。雑草の場合は、種がどこからか風に乗って来るので防ぎようがありません。畑を持っている人は、雑草との戦いではないかと思います。私たちの信仰生活においても、油断していると雑草が生えてきます。なぜなら、教会はこの世の中にあるからです。私たちもこの世の中で暮らしているので、雑草の種が落ちて、それが生えてくるのではないでしょうか?このたとえには「人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った」(マタイ1325と書いてあります。ということは、私たちには敵がいるということです。しかも、眠っている間に毒麦ならぬ雑草を蒔いて行くということです。どんな雑草が自然に生えてくるのでしょうか?恐れや不安、ねたみやそねみ、怒りや憤り、不品行や情欲、むさぼりや浪費癖…あげたらきりがありません。ここで気を付けるべきことは、それらは神さまが蒔いてくれた麦、つまり聖霊の実でありません。敵である悪魔が、心の畑に蒔いてしまったものです。眠っている間とは、日常生活の中で無意識のうちにということでしょう。雑草の種がどこからか飛んでくるように、悪魔が悪の種(誘惑)をばらまいているということではないでしょうか?では、どのようにしたら悪魔が持ちこんで来る雑草を駆除しつつ、聖霊の実を豊かに結ばせることができるのでしょうか?そのため、私たちは畑である心を正しく管理する必要があります。

 第一は雑草が生えてこないように心をガードするということです。「主の祈り」の中で、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」というのがあります。この祈りは、私たちの心を守るための重要な祈りです。たとえて言うと、この祈りは種が舞い込んでこないようにバリヤーを張る行為です。私たちも故意に誘惑には近づきません。しかし、気が付いていないことがありますので、主の守りが必要です。だから、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈るのです。そうすると神さまは悪魔の誘惑から私たちを守ってくださいます。マルチン・ルターは鳥が頭の上を飛ぶことは妨げることはできない。それは鳥の権利だから。しかし、鳥が私の頭の上に止まって巣を作るならどうだろう?「やめとけ」と鳥を追い払うでしょう。この世で生きている限り、誘惑が私たちの頭の上を飛び交っています。しかし、その誘惑を心の中に入れて、培養してはいけません。すぐ取り除くのです。根が張る前に取り除くのです。そうすると、誘惑は誘惑となりません。家屋やビルなどで、セキュリーシステムを付けているところもあります。感応式ライトをつけたり、防犯カメラをつけたり、どこかの警備会社と契約を結んだりします。私たちもたえずイエス様と交わり、みことばをたくわえ、心を守る必要があります。そうすれば、主が御使いを遣わして私たちを守ってくださいます。

 第二はそれでも雑草が生えてきた場合どうするでしょうか?私たちは人間関係において傷つけられることがよくあります。そのまま放置しておきますと、苦い根となってそこから苦い実がなってきます。英語でoffendは、「感情を害する」「不快にする」「傷つける」という意味があります。つまり、人とのやり取りで悪感情を覚えるということです。こういうことは日常茶飯事に起ることではないでしょうか?刺のある言葉だったり、無礼な応答だったり、あからさまな批判というものは私たちの心を傷つけます。軽いものであるなら、ぱっと払いのけますが、心の奥底まで入り込み、それが根を張るととても危険です。さらにそのことを何度も思いだし、憤るならば、雑草に栄養を与えることになります。感情というものは自動的に起こるものであり、これは防ぎようがありません。車のメーターみたいなもので、何か原因があるので、メーターが振れているのです。私たちは一寸立ち止まって、どうしてこのような感情を覚えたのか検討する必要があります。まず、「どういう状況でなったのか」ということを客観的に見ます。その次は、その時、私は何を考えたかを捉えます。不当な扱いを受けた、プライドを傷つけられた、コントロールされているように思った…いろいろあるはずです。良く考えると、自分が傷つきやすいパターンがあるはずです。相手はこのように言ったけど、私の受け取り方が過剰だったのではないだろうか?あるいは確かに相手は私を侮辱し、汚したかもしれない。しかし、それをまともに受けるのはどうだろうか?これは軽く受け流して、「主にゆだねるべきではないだろうか?きっと主が弁護してくださるよ。」そのように考えを変えると、感情が後からついてきます。「まあ、いいか。生きているうちこういうこともあるさ」と気楽な気持ちになります。ですから、傷つけられた感情がどのような考えから来ているのかを捕まえ、その考えを変えるということです。そうすれば、雑草が根を張る前に抜かれることになります。

 第三は、雑草は根こそぎ抜くということです。第一と第二を補強したものです。私が東村山の神学校で学んでいたときのことです。校舎の真ん中に広い中庭がありました。以前は芝生が生えていたのでしょうが、その時はほとんど雑草でした。白つめ草、おおばこ、たんぽぽが主流でした。本当にうさぎでも放し飼いにした方が良いのではないかと思いました。私たち修養生は掃除当番のとき、あるグループが芝を刈ったり、雑草を抜きます。大体は、上の方しかとらないのです。そうすると1か月もたたないうちにまた生えてきます。なぜなら根っこが残っているからです。ですから、めんどうでも器具を使って、根っこごと取り去るのが一番です。2本の爪がついているものがあります。たとえ話では「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。」と書いてありました。面白いことに、雑草が小さいときはこの器具は使えません。ある程度、立派になった頃、「ぐいっ」と根こそぎ取れるんですね。気持ち良いですよ。このたとえから学ぶことは、あんまり内省的にならないで、育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら刈り取れば良いということです。クリスチャンの陥りやすい欠点は、内省的になりすぎるということです。極端に言えば、私たちの罪は十字架で全部赦されているのです。だから、神経質になることは不要だということです。重要なのはイエス様を見上げて生きるということです。そうした中で、雑草が生えて来たなら、抜けば良いということです。それよりも私たちは麦の方に目を留めなければなりません。麦とは御霊が与える実であります。神さまが結ばせてくださった愛、喜び、平安などの実を喜ぶべきであります。雑草ばかりに目をとめて、せっかくの御霊の実の存在を忘れたら、本末転倒であります。雑草ではなく、御霊の実に目をとめましょう。

3.たとえの結論

 最後に、このたとえは、「天の御国のたとえ」であるということを忘れてはいけません。もし、家の主人が神さまだとしたらどうでしょう?自分の畑とはこの世界ということになります。神さまはアダムによって失われた世界に対してもう一度チャンスを与えたことになります。父なる神さまは、キリストの福音という種を蒔いてくださいました。もし、人がこの福音を信じるなら、終わりの日に救い出されて、倉である天の御国に入れられます。ところが、神さまのご計画を妨げる敵、悪魔がいます。彼は福音とは別の種をこっそり蒔きました。ここでは毒麦と言われていますが、それを信じた人は救われないばかりか、悪魔と同じ裁きを受けることになります。たしかに世界には麦と毒麦が混在しています。福音を信じて救われた人も、そうでない人も混在しています。ある人たちは「早くさばきが来るように。白黒つけてくれ」と願うでしょう。でも、そうしたら、救われるチャンスのある人たちも滅びてしまうでしょう。だから、父なる神さまはいと長く忍耐して、一人でも多くの人が救われるように待っておられるのです(Ⅱペテロ39)。では、私たちはどうしたら良いのでしょうか?このたとえの中にはしもべたちが出てきます。しもべたちとは、使徒たちであり、また教会の働き人かもしれません。でも、マルチン・ルターは「万人祭司説」を唱えましたので、すべての人が教会の働き人です。と言うことは、私たちがみな父の心を持たなければならないということです。つまり、「自分が御国に入れたから、それで良いや」ではなく、一人でも多くの人が救われるように願うということです。さらには、できるだけ毒麦という間違った教えにやられないように、人々を導く必要があります。

 私もこのところで一丁前に話していますが、これまで何人の人にお世話になったことでしょう。個人伝道をしてくれた職場の先輩、教会の牧師、日曜学校の先生、そして、兄弟姉妹がいました。多くの方々が、教えてくれたり、励ましてくれたり、祈ってくれました。必要なものをささげてくれました。こう考えると「私はひとりで立派な麦になった」と誇ることはできません。しかし、一番お世話になったお方はだれでしょうか?それはイエス様です。イエス様が私のために命を捨てて下さったので、私は生きる者となったのです。教会では信仰によって救われると言いますが、それは私たちの信仰が立派だということではありません。イエス様はご自身をこのように言われました。ヨハネ12:24 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」イエス様が一粒の麦として死なれたので、多くの麦の実が結ばれるようになったのです。

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2016年11月18日 (金)

種まきのたとえ マタイ13:18-23 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.11.20

 イエス様は群衆にたとえによって教えられました。しかし、たとえの下に真の意味が隠されていることをどのくらいの人が理解できたでしょうか?実は弟子たちもその意味を理解できませんでした。そのため後からイエス様にこっそり尋ねました。それでも、イエス様は「あなたがたは天の御国の奥義を知ることを許されている」と言われました。つまり、そこには神さまの選びとか、求める者への恵みがあるということです。4種類の土地は、人の心の状態を指すわけですが、1つ1つ順番に学びたいと思います。

1.道ばたの人

 道ばたに種を蒔くとは、なんてドジなんだろうと思わないでください。パレスチナでは種を蒔いてから耕すようです。それに道ばたと言っても、人が踏み固めてできたあぜ道だと思ってください。たとえでは、「鳥」が道ばたに落ちた種を食べています。ところが解説では「悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます」となっています。ルカ福音書では「悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心からみことばを持ち去ってしまうのです」と書かれています。マルコ福音書には「サタンがみことばを持ち去る」と書かれています。つまり、悪魔あるいはサタンが、人がみことばを信じて救われないように妨げているということです。その人は、みことばを一応、聞くのです。しかし、みことばが心の中に入っていません。そうすると、悪魔がそのみことばを奪い取って、結果的に、その人は信じて救われないということになります。人が救われる決め手は、みことばにかかっています。みことば自体に問題はありません。その人がみことばを聞いて、心の中に入れるかどうかであります。もし、みことばが心の中に入ったなら、信じて救われる可能性があります。まるでそれは、種が畑の土の中に蒔かれるのと同じであります。後は水と温度が整えば、種は発芽するからです。

 では、道ばたとはどんな人の心をさすのでしょうか?人々が踏み固めたあぜ道に種が落ちたので、種は地面にもぐり込むことはできません。不運と言えば、不運、運命論的なものがあります。でも、そこにはみことばに対するその人の責任もあるでしょう。おそらく道ばたの人は、過去に裏切られた経験があり、「もう信じない」という頑なさがあるのかもしれません。「宗教は危ない。キリスト教は邪教だ」とか、思っているのかもしれません。中川健一牧師は「日本人は、無知と偏見で固められた道ばたの人が多い」とおっしゃっていました。私も最初、職場の先輩から福音を聞いたとき「神がいるなら見せてくれ」と反論しました。進化論を信じていましたので、「神が人を造った」と聞いたとき、「そんな馬鹿な」と笑いました。聖書と聞いたとき、「日進月歩の時代に、そんな古いものは通用しない」とまで言いました。職場の先輩は、忍耐をもって1つ1つ教えてくださり、無知と偏見を取り除いて、耕してくださったのかもしれません。もし、日本人の多くが無知と偏見で固められた道端であるならどうすべきでしょうか?これはいくら福音を伝えても無駄であります。全部、跳ね返されてしまうからです。悪魔が片っ端から、まかれたみことばの種を奪っていきます。日本の地に、どれくらい多くのプロテスタントの宣教師が来ているでしょうか?「日本は宣教師の墓場だ」と嘆いて、去って行った宣教師もたくさんいました。それに比べ中国とか韓国へ渡った宣教師は桁が違うほどの多くの人が救われるのを見ます。宣教師をサポートしているアメリカやヨーロッパの人たちは、「なんで日本の宣教師は出来高が上がらないのだろう!さぼっているのか?」と怒るでしょう。小笠原牧師は「日本はシベリアのツンドラ地帯(不毛の地)のようだ」と言いましたが、本当にそうかもしれません。

聖書を配布している「ギデオン協会」のニュース8月号にこのような証が載っていました。1869年、浦上キリシタン3,394人が捕えられ、21の藩に流刑された。そのとき、浄土真宗のメッカ、金沢の前田藩にその中の526人がお預けの身になった。監督を任された名奉行の誉れの高い長尾八之門はこのキリシタンの信仰に打たれ、聖書を読み1882年(明治15年)トーマス・ウイン宣教師より洗礼を受けた。その息子の巻も、2か月後に洗礼を受けた。巻は後に牧師となり、伝道を開始。しかし救われる者は起こされず、迫害の強かった大聖寺(たいしょうじ)では5年間1人も礼拝に来なかったという。彼が豊橋に転任した時、そこに結核を病んだ青年が転がり込んだ。時に喀血する青年をこの家族は貧しい中で家族として受け入れた。この青年は後の賀川豊彦である。…みなさんは賀川豊彦師をご存じでしょうか?ノーベル平和賞にノミネートされた伝道者です。「神の国運動」という社会運動を行い、貧民や労働者を救った人です。中国の蒋介石は「日本にドクターカガワがいる限り、私は日本を憎むことが出来ない」とまで言ったそうです。戦後、日本人が無事、中国から帰ることのできたのも、また日本が四分割に分断されなかったのも蒋介石の功績によるものです。でも、蒋介石を感動させたのは賀川豊彦師の中国に対する熱い祈りでした。しかし、もとはといえば、長尾巻牧師が不毛の地でも種を蒔き続けたからです。岩波書店のマークはミレーの「種まく人」であります。ミレーは、麦であるイエス様が自分を蒔いているのを擬人化したのだそうです。たとえ不毛の地であっても、イエス様自身を種として蒔いているのです。私たちも日本の地がどうであれ、ひたすら、種を蒔くしかありません。数は少ないかもしれませんが、私たちが救われてここに集っているということはすばらしい証であります。

2.岩地の人

 岩地は土が薄くて、温かいのでしょう。種はすぐ芽を出しますが、土が深くないので根を張ることができません。日が昇ると、根がないために焼けて枯れるということです。イエス様の解説はこうです。マタイ1320,21「また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」岩地の人は、みことばに対してオープンな人です。おそらく、「それは良い教えだ」と疑いもせず、信じる人です。でも、信仰が表面的であり、キリストご自身に根差すところまでいかないのでしょう。それで困難や迫害が起ったとき、すぐにつまずいて信仰を捨ててしまうのです。たとえば、スポーツや芸能界にはたくさんのフアンがいます。大体は活躍している選手や、ブレークしているタレントにくっつきます。もしお目当ての選手の成績が振るわなくなったり、スキャンダルが起こるとプイと離れて行きます。そして、また別の人を追っかけます。つまり、彼らはアイドル(偶像)を追いかけているのであって、深い考えからではありません。イエス様もその当時はものすごい人気がありました。しかし、十字架で捕えられたとき、ほとんどの人たちがそっぽを向きました。歴史においても、キリスト教会がもてはやされる時代というのが、どの国においてもありました。多くの人たちが、流行を追いかけるように教会に来て洗礼を受けます。しかし、まもなく困難や迫害がやってきます。それは個人的にかもしれないし、社会情勢からかもしれません。そうすると簡単に教会を離れ、信仰まで捨ててしまう人が出てきます。

 昭和のはじめ日本にもリバイバルが起り、大勢の人たちが教会に来ました。特にホーリネス系の教会が祝福され、台湾や中国にも宣教師を派遣したくらいです。しかし、太平洋戦争が始まると教会が迫害されました。これは辻宣道師の証です。父が伝道と牧会の現場から警察に連行されたのは1942年(昭和17)の初夏でした。それは拘置所、裁判所、刑務所と続き、最後は懲役2年で服役中に死にました。私が中学2年のときでした。牧師が刑務所にぶちこまれたら家族はどうなるのでしょう。一体何を食って生きていたのか、いま思いだそうにもはっきりしません。おそらく乞食すれすれの生活ではなかったでしょうか。その中で、覚えていることがいくつかあります。教会は政府の命令で解散させられていました。ある日、母に言われて元教会員だった一人のところへカボチャをわけてもらいに行きました。農家でした。確か父が牧師であったころ役員をしていた人です。おどろきました。「おたくにわけてやるカボチャはないねえ」と言うのです。手ぶらで帰る少年の気持ちはどんなだったでしょう。平穏無事なときはまっさきに証などしてはりきっている人でしたが…。そのガッシリした体格はいかにも信仰あふれる精兵のようで、みんなの尊敬を集めていました。私もなついていました。それがどうしてカボチャ一個もわけてくれぬ人になってしまったのか。「人間いざとなれば信仰もヘッタクレもなくなるんだなあ」と思いました。後で私が信仰を持つとき、かなりそれがしこりになって、なかなか素直に神も人も信じられませんでした。大きく遠回りして牧師になったとき思いました。ことが起ってガタガタになるような教会は困る。天地がひっくり返っても教会のえだであることをやめぬ教会員を作ろう。

 きょうはどういう訳か人々の伝記が多いようです。岩地の人、つまり、一度はキリストを信じても離れる人です。日本の教会は、戦後、クルセードという大衆伝道大会が数多く開かれました。昨年も武道館でそういう大会がありました。伝道者がcomeとか言って、決心した人をステージの前に招きます。結構、多くの人たちが席を立って、降りて行きます。そして、伝道者の祈りに合わせて、信仰告白をします。訓練されたカウンセラーがフォローアップします。でも、統計によると、そのとき決心しても教会につながる人は5%位だそうです。今では伝道大会はお金がかかる割には実りが少ないということであまりしません。それよりも、人間関係の伝道に切り替えています。もちろん、伝道はいろんな方法があって良いのですが、問題は、信じる人の心の状態です。ひとこと「信じる」と言っても、どの程度信じているかは外からではわかりません。イエス様は「みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」とおっしゃいました。つまり、困難や迫害が信仰の試金石だということです。その人がキリストにしっかり根を下ろしているのか分かるからです。コロサイの教会は使徒パウロが伝道した教会ではありません。エペソの人たちが福音の種を蒔いたら、そこに教会が生み出されました。パウロは喜んで、このように書き送っています。「福音は…世界中で実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです」(コロサイ16)。パウロは彼らにこのように勧めています。コロサイ26,7「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」そのところに、「キリストの中に根ざし、また建てられ」と言われています。つまり、植物や樹木が根を張るように、キリストご自身に根ざすということです。私たちはみことばを聞きます。そして心に受け入れるかもしれません。しかし、そこで終わらないでみことばが示すキリストご自身と出会い、キリストご自身に根ざす必要があります。つまり、キリストに依存し、キリストに従い、キリストと共に歩むのです。そうすれば、信仰的に成長し豊かな実を結ぶことができるのです。

3.いばらの人

 「いばらの人」というと何だか語弊があります。「いばらの地に種をまくなんてドジだなー」と思うかもしれません。しかし、畑の表面はちゃんとした土なんです。問題は地面の下にいばらが残っているということです。私が幼いころ、山の上に開墾した畑がありました。表面はきれいな土ですが、下からいばらが生えてきます。それを抜いては谷の方に捨てていました。種を蒔いたら、芽が出て育ってきました。でも、後からいばらも生えてきました。やがていばらの方が生い茂って、穀物をふさいでしまったのでしょう。そのため、光もさえぎられ、実を結ぶまでいかなかったのです。マタイ1322「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」ルカ福音書には「この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟すまでにならないのです」と書かれています。イエス様の解説から、いばらとはどんなものか分かります。それは、この世の心づかいと富の惑わし、快楽などであります。「この世の心づかい」って何でしょう?それは、「心配、気がかり、思いわずらい」です。ロトの妻は後ろを振り返ったために塩の柱にされました。おそらく、家と家財が心配だったのでしょう。この世においては、富の惑わし、快楽があります。この世が与えるものは罪ではありません。しかし、この世のものはその人を占有します。その人を捕えて、神の国から引き離す誘惑となるのです。

 あるホームページに、このように書かれていました。いばら(アカンサァ)とは、「刺のある雑草や潅木(低木)」のことを言います。パレスチナでは、アザミのように刺のある雑草がどこにいっても見られて、ヘブル語で17種類のいばらを指すことばがあるほどです。ですから、畑でも放っておくと、いばらの種はどこかからでも飛んできて、畑を覆うことになるのです。そして、作物より成長が圧倒的に速いため畑に生い茂るので、作物を圧迫するのです。当時の農作業では、いばらなどの草取りがもっとも重労働だったろうと思います。原罪に汚染された人間の心の中では、「神のことば」といばらのどちらが速く成長するかというと、残念ながらいばらなのです。ですから、いばらを引き抜く作業を絶えず行わないと、いばらに覆われることになるのです。…なんだかこんなことを言われると、希望がなくなります。私たちは天国に行くまで、戦いがあります。なぜなら、この世の心づかいと富の惑わし、快楽などのいばらが生えてくるからです。つまり、日々、いばらを発見したら11本、抜いていくしかありません。私は秋田で育ちましたので、稲がどのように育っていくか知っています。田植えが終わって、6月頃でしょうか?農家の人たちは、両脇にプロペラみたいなものがついている除草機を押します。稲は傷つけないで、両脇の雑草だけを抜き取るようになっています。さらに7月、8月くらいになると、ひえを抜きます。ひえは稲よりもピンと高く出るので分かります。でも、ある人たちは面倒なので、取りません。すると、ひえがものすごく繁茂して、ものすごく見苦しくなります。田んぼを見て「ひえー」とか言ったりします。

 はじめから良い地の人はそうはいないかもしれません。私たちはイエス様を信じたとき、罪と汚れが焼かれてきれいな畑になりました。みことばをいただき成長して、恵まれた信仰生活になりました。でも、下の方にいばらの根がありました。何と、後からいばらが生えてきました。ヘブル1215「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」。このいばらは私たち自身を汚し、まわりの人たちをも汚してしまいます。エリヤハウスでも学びましたが、内に秘めている怒りや憤りを神さまの前に差し出す必要があります。そうすれば、イエス様の血潮と聖霊の火によってきよめられます。神さまが与えてくださった種には問題がありません。神さまは私たちを豊かに成長させてくださいます。一方、私たちも心を守る必要があるということです。たえず、いばらを抜いて、良い畑にしていきたいと思います。

4.良い地の人

 マタイ1323「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」良い地とは良く耕された心です。みことばを聞いて悟るとは、良く考え、適用し、自分のものとすることでしょう。マタイは「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます」と書いています。ところが、マルコ福音書には「実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった」と書いています。どちらが正しいのでしょうか?おそらくユダヤ人の考えでは、「百倍が標準で、少なくても六十倍、最低でも三十倍の実を結びます」と言っているのではないかと思います。なぜなら、麦やお米、あるいはとうもろこしを考えたらどうでしょう?ちょっと調べてみましたら、1粒の麦から150粒の麦が採れるそうです。1粒の米だと400粒位になります。また、とうもろこしなどは1本に640粒あったと書いてありました。とうもろこしの場合は一本の茎に何本も生えるのですから、何千という数になるでしょう。おそるべき種の力ということになります。ですから、「最低でも三十倍の実を結びます」という言い方はあながち間違いではありません。

 でも、問題は良い地の確率です。イエス様が語った人たちは4種類の土地であったということです。確率的に4分の1になります。とすると、4人に1人が良い地だということになります。イエス様のたとえを見ると、はじめからそういう土地であるという運命論的なものを感じます。はじめから、道ばたの人、岩地の人、いばらの人、良い地の人がいるんだということも否めません。しかし、それと同時に「良い地になるように」というチャレンジもあるような気がします。なぜなら、「耳のある者は聞きなさい」とイエス様がチャレンジしているからです。確かにイスラエルは預言者たちの言うことをきかない心頑なな人たちでした。でも、イエス様は弟子たちにこのように言われました。マタイ1316「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」あなたは、自分をイスラエルの民と見ているか、イエス様の弟子と見ているか、どちらでしょうか?心を耕して、良い土地になり、イエス様のみことばをいただきたいと願うでしょうか?それとも、どうせ私は良くない地ですから、運命に任せますと言うでしょうか?しかし、神さまの運命divine destinyは違います。あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます」。これが、神さまの願いであり、神さまのみこころではないでしょうか?創世記を見ると、アダムが罪を犯したために、土地は呪われ、いばらとあざみが生えるようになったと書かれています。カインが弟を殺してどうなったでしょうか?「あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない」(創世記412と書かれています。つまり、アダムの子孫には良い地など与えられていないということです。でも、私たちはイエス・キリストによって贖われ、罪と呪いから解放された神の子どもたちです。もちろん、この世は罪と汚れと呪いを受けています。しかし、神の種はとても優秀です。そして、私たちはこの世でありながらも、そこに神の国が訪れています。つまり、私たちには神の国の良い畑が与えられているということです。イエス様はこのように言われました。ヨハネ158「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」主にあって多くの実を結べることを信じます。

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2016年11月11日 (金)

天国の奥義 マタイ13:10-15 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.11.13

 イエス様はたとえをふんだんに用いられた神の教師と言えます。特に天国の奥義を教えるときはたとえで話されました。なぜなら、私たちは天国に行ったことも、見たこともありません。そのためイエス様は地上のものを題材にして、「天国はこういうものです」と教えておられます。そもそも「たとえ」というギリシャ語は「パラボレー」ですが、「そばに投げる」という言葉から来ています。イエス様は天国の奥義を教えるために、身近で分かり易いもので置き換えたのです。では、イエス様は何のためにたとえで話されたのでしょうか?

1. たとえと奥義

 一般的に「たとえ」と言うと、あることを分かり易く教えるためであると言うでしょう。でも、イエス様のたとえは、確かに分かり易いのですが、そこには奥義が隠されていました。だから、イエス様は「耳のある者は聞きなさい」(マタイ139と言われたのです。もちろん、耳はだれにでも付いています。これは単に聞くというのではなく、「よく聞いて悟るように」ということです。イエス様はマタイ13章で種まきのたとえを話されました。最初の種は道端に落ちました。鳥がその種を食べてしまいました。第二の種は土の薄い岩地に落ちました。すぐ芽を出しましたが、日が照って枯れてしまいました。根が深くなかったからです。第三の種はいばらの地に落ちました。生えたのですが、いばらで塞がれて実を結ぶことができませんでした。第四の種は良い地に落ちました。あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びました。このようなたとえ話を聞いて、人々はどう思ったでしょうか?「そんなの常識だよ。それにしても、道端に種を蒔くなんてドジなやつだな!」と思ったかもしれません。おそらく、聞いている全員がこのたとえそのものは理解したと思います。しかし、たとえの真の意味が分かったのでしょうか?ルカ89「さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。」と書いてあります。残念ながら、弟子たちでもたとえの意味がわかりませんでした。マタイ1311-12イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」

 イエス様は「天の御国の奥義」と言われました。ギリシャ語ではミュステーリオンですが、「秘密の教え(奥義)」であります。神さまが特別に開いてくれなければわからない啓示であります。そのために、イエス様は「天の御国の奥義が許されている人と、許されていない人がいる」と言われたのです。差別と言えば、差別になりますが、どうしてイエス様はだれもが分かるように教えてくれなかったのでしょうか?私はこのような説教でもできるだけ分かり易く、噛み砕いて教えているつもりです。しかし、どうでしょう?人は全部教えられてしまうと、「なーんだ、そんなもんか」と粗末に扱うところがあります。人は押し付けられたものではなく、自分で探して得た真理は忘れないのではないでしょうか?イエス様は「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい」と言われました。マタイ1125「賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」とも言われました。ということは、弟子たちのように謙遜に求める姿勢が大事だということではないでしょうか?プライドが高いと「分からないので教えてください」とは言えません。奥義というものは不思議なもので、求める人には分かるけれど、求めない人には隠されてしまう性質があります。だから、イエスさまは「持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです」とおっしゃったのです。どうでしょうか?みなさんは、聖書の奥義に対して、飢え渇きをもっていらっしゃるでしょうか?あるいは「もう十分わかっているので結構です」とおっしゃるでしょうか?奥義というのは神学的な知識ではなく、上から聖霊によって示される「啓示」であります。使徒パウロは、エペソ人への手紙でこのように祈っています。エペソ117「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」アーメン。

 今から16年くらい前、2000年頃、インドネシヤに行ったことがあります。ジャカルタのアバラブ教会にエディ・レオ先生がいらっしゃいます。その当時は、サミトン牧師もいらっしゃいました。セミナーを受けておどろいたのですが、どこの注解書にも載っていないようなことを教えてくれました。また、1つ1つが日常的なものを用いて語るので、まるでイエス様のような教え方でした。そのとき、信仰とは何かということを話してくれました。「私たちは水を受け取るときコップを差し出すでしょう。お財布を受け取るときはどうでしょう。手を出してお財布を握らなければなりません。では、神さまの約束を受け取るとき何が必要でしょうか?目には見えないけれど、信仰という手をさし出す必要があります。何故、得られないのでしょうか?それは信仰という手を出して、受け取らないからです。」他にもたくさん深い神学的な真理がありますが、「どこからそういうのを仕入れたのですか?」と聞きました。するとエディ・レオ先生はサミトンとか、他の先生と小グループで聖書から分かち合うと次から次と出てくるそうです。私が受けた教育はどちらかと言うと、偉い先生から一方的に受けたものです。自分の中には何も良いものがないと思っているので、たえず勉強しています。それも必要ですが、パウロは「神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」と祈っています。端的に言うと聖霊こそが、真の教師であり、知恵と啓示を与えてくださるということです。ですから、私たちはみことばを瞑想(深く考えつつ)聖霊に聞く必要があります。そうすると、パーッと開かれるのではないでしょうか?何よりも必要なのは、弟子たちのように「その意味を教えてください」と謙遜に求める心であります。エレミヤ333「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」アーメン。まさしく、主は奥義を私たちに教えてくださるお方です。奥義は普通、誰にもわからないように隠されているものです。私たちはイエス(聖霊)様から「天国の奥義」を教えていただきたいと思います。

2. 啓示の受け取り方

 マタイ1313-15「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』イザヤが預言している相手はイスラエル人であります。イスラエルの人たちは、預言者の言うことを信じようとしませんでした。そして、そのことはイエス様が話したその時にも成就しました。まるで、これはイエス様のたとえを理解しようとしない人に対する呪いであります。私がここで注目したいのは、目、耳、心という3つの器官です。まず、物質的なものを理解するための、肉体の目、耳、心があります。しかし、イエス様がこのところで問題にしているのは、啓示を受け取るための霊的な目、耳、心であります。おそらく、イエス様のたとえを理解するためには、肉体的なものではなく、霊的な目、耳、心が必要だということでありましょう。

 このところから私たちは私たちが神からの啓示を受け取るためには、霊的な目、耳、心が必要だということが言えないでしょうか?おそらく、こういう話題になると迷路にはまって出て来れなくなる危険性があります。でも、挑戦してみたいと思います。使徒パウロもイエス様と同じことを言っています。Ⅰコリント29まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」このところにも、目、耳、心と3つ出てきます。パウロはその後、「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。…生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。」と言っています。明らかに、肉体的な器官ではなく、霊的な器官を語っています。つまり、肉眼、肉声、肉の心では、御霊のことは理解できないということです。必要なのは、霊的な目、霊的な耳、霊的な心であります。パウロは「御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえる」(Ⅰコリント215とも言っています。ということは、クリスチャンが霊的に生まれると、肉体的なそれらの3つの器官ではなく、霊的な3つの器官を開発していく必要があるということではないでしょうか?

 私は10年くらい前に、インドネシヤのエディ・レオ師から神さまの啓示(預言)を受け取る方法ということを習ったことがあります。神さまは常に語っているんですけど、私たちの方がもしかしたら鈍くてぼんやりしているということがあります。また、保守的な教会は「聖書のみことば以外に啓示はない。神さまはみことば以外のことは語らないんだ」とはじめから拒絶しています。聞こうともしないし、見ようともしない、そして心がかたくなになっています。聖書をあまりにも高く上げ過ぎて、「神さま、聖書以外のことを語っては困ります」と言っているかのようです。しかし、私は「神さまは聖書以外のことも私たちに語っておられる」と信じます。なぜなら、私たちの生活はとても複雑で、神さまからの情報や導きが必要だからです。もし、私たちが肉声で聞こえない声、肉眼で見えないもの、肉の心で理解できないことが分かったら良いではないでしょうか?エディ・レオ師は神さまから預言を受け取るとき、3つの分野で示してくださると言われました。第一は霊的な目、それは映像やビジョンであります。頭の中に絵が浮かぶというのです。私がアメリカ人の青年のために祈っていると、赤いエレキ・ギターが見えました。その方は、ミュージシャンで、昔、そういうギターを持っていたと言いました。第二は霊的な耳ですが、それは言葉であります。賜物における預言は「泡が流れ出る」という意味があります。思い浮かんだ1つのことばを口から出すと、また別のことばが出てきます。さらにまた出るときもあります。つまり、23つのことばが賜物としての預言だということです。第三は霊的な心です。これは印象impressionです。悲しみや怒り、ある時は変な違和感を感じとることができます。 

ある時、エディ・レオ師の奥さんが美容室に行って、髪の毛を整えてもらっていました。奥さんは鏡を眺めながら、自分の髪の毛を整えている女の子を見ていました。奥さんは「主よ、私はこの子のために、祝福となりたいです。主よ、私を通して彼女を祝福してください。」そうやって礼拝をし始めました。突然、神様は彼女に語られました。「拒絶」というたった1つの言葉でした。奥さんはその女の子を見て、「神様、これはどういう意味ですか?」と聞きました。しかし、彼女を見ると、ニコニコして幸せそうに見えました。しかし、肉体的な目を頼らないで、「神さまわかりました。あなたに従います」と答えました。その次に彼女にこう言いました。「すみません、ちょっと話をしても良いですか。あなたは人生においていくつかの拒絶を味わったことがありませんか」と。奥さんが「拒絶」という言った瞬間に、新たな言葉が出て来ました。「12歳」という言葉です。「あなたは12歳の時、あなたのお父さんは亡くなりました。それから、あなたは非常に孤独を感じていましたね。多くの男性たちから拒絶されました。あなたは人間関係においていろいろな失敗があります。あなたは何度も結婚したいと思いながらうまくいかなかったですね。だから、あなたは今、全く拒絶されていると思っていますね。そしてあなたは自分には価値がないと思っています。もう、人生には意味がないと思っています。男性たちと関係を持つことが失敗したと思っています。」彼女は「ああー、どうしてそんなことがわかるのですか?私はあなたに告げたことがないのに」奥さんは「だれがこのことを語ったか知りたいですか?」と言うと、彼女は「どうぞ話してください」と言いました。奥さんは「一人の方がいらっしゃいます。その方の名はイエス様です。あなたのために十字架で死にました。あなたのことを愛していらっしゃるので、あなたの人生のすべてのことをご存知です。イエス様が私に示してくださったのです。あなたはイエス様を受け入れたいですか」と聞きました。彼女は泣きながら、「はい」と言いました。このように預言の賜物を使うと人々が短時間に救われます。福音書を見ますと、イエス様はサマリヤの女性にも聖霊の賜物を用いました。「あなたには夫が五人あったが、今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではないからです」(ヨハネ418と言ったとたん、サマリヤの女性はイエス様を信じました。聖霊様は、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの」を私たちのために備えておられます。エペソ117「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」アーメン。

3. 霊的な特権

 マタイ1316-17「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」弟子たちがイエス様に「このたとえはどんな意味ですか?」と尋ねました。するとイエス様は「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されている」と告げました。そして、弟子たちに「あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです」とおっしゃったのです。しかし、それは大いなる特権であり、旧約聖書の預言者や義人が切に願ったのに、見られず、聞けなかったからです。弟子たちはイエス様という助け主がそばにおられたので、何でも聞くことができました。そして、イエス様は惜しまず、天の御国の奥義を知らせて下さいました。今日の私たちはどうでしょうか?ある人たちは、「イエス様や使徒パウロが教えた奥義がすでに新約聖書に書かれている。だから、それ以上の奥義は必要ない」と言うかもしれません。確かに私たちは完成された神の啓示、聖書を持っています。これはすばらしい特権です。でも、弟子たちの場合は、イエス様がその意味を解き明かしてくれました。今日の私たちはどうなのでしょうか?するとある人たちは、「あれから二千年の歳月をかけて、多くの人たちが聖書を研究してくれたので神学書や注解書がありますよ」と言うかもしれません。そのため牧師たちは毎週の説教を準備するとき、そのような参考書を読みます。つまり専門家の研究成果を借用した方が間違いないということなのでしょう。

 もちろん、私は過去の先生たちの神学書や注解書などから学びます。しかし、それよりも重要なことがあります。それは第二の助け主に聞くということです。イエス様はもう地上にはおられません。しかし、ここにイエス様が語られた聖書が残されています。では、これだけで十分なのでしょうか?あとは神学者たちが研究したものに頼るのでしょうか?そうではありません。ヨハネ1612-13「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」そうです。「真理の御霊」こそが、「もう一人の助け主」なのです。当時の弟子たちも真理の御霊(聖霊)が必要でした。聖霊はイエス様と人格こそ違いますが、寸分変わらないお方です。このお方がイエス様と同じように、私たちにみことばを教えてくださるのです。私たちがなぜすばらしい時代に住んでいるのか、それは聖霊が個人的に内側に住んでくださり、内側から教えてくださるからです。確かに教会に牧師や教師が必要です。でも、牧師や教師がいつもあなたの傍にいて教えてくれるわけではありません。彼らも人間なので、不完全であり、偏っているかもしれません。第一にあなたの個人的なことを詳しく分からないので、適格なアドバイスを与えることも難しいでしょう。でも、あなたと共にいる別の助け主、聖霊があなたに教えてくださるのです。私たちはだれかを探さなくても、すぐそばに聖霊なる神さまがおられるということを知らなければなりません。これは、旧約聖書の時代はもちろん、そしてイエス様と一緒にいた弟子たちよりもすばらしい特権なのです。私はこのことを理解していますので、神学書や注解書には頼りません。もちろん、基本的な知識は得ます。しかし、特にメッセージの場合は御霊に聞きます。御霊が私に随時、示してくださいますので、私はメッセージを割かし簡単に準備することができます。私は一番重要なことは聖霊の油注ぎだと思います。メッセージに油注がれているかいないかが勝敗を決めてしまうからです。別に勝ち負けではありませんが…。でも、このことを知ってからとても楽になりました。

 私たちは、旧約時代はもちろん、イエス様の弟子たちよりも、すばらしい特権を与えられているということを理解しなければなりません。あなたは「いや、直接、イエス様を見た弟子たちの方がすばらしいでしょう」と言うかもしれません。しかし、イエス様は「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません」(ヨハネ1612)と言われました。弟子たちがイエス様の語ったことを本当に理解できたのは、聖霊を受けてからであります。ペンテコステの日、使徒ペテロが大勢の前でイエス様の死と復活の意味を解き明かしました。それは真理の御霊がペテロに教えてくれたからであります。ペテロは旧約聖書を引用しながら、ナザレのイエスによってそれが成就されたことを告げ知らせました。最後に「この曲がった時代から救われなさい」と勧めると、3000人の人たちが信じてバプテスマを受けました。魂の大収穫です。これまで、そんなことはありませんでした。パウロの私たちへの最大の願いは何でしょうか?エペソ117「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」です。そうです。神を知るための知恵の啓示の御霊こそが、私たちが最も必要なものなのです。あなたはイエス様を信じた時にこの御霊をすでに受けているのです。ただし、あなたが聖霊を認めないので、聖霊を眠らせているのです。聖霊は人格を持っていらっしゃいます。弟子たちがイエス様に「このたとえがどんな意味か尋ねた(ルカ89と同じように、私たちは聖霊様に聞くべきであります。そうすると聖霊は聖書の意味を解き明かしてくださいます。また聖書にないものであるならば、あなたの霊的な耳、霊的な目、霊的な心に示してくださいます。

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2016年11月 4日 (金)

しるしを欲しがる マタイ12:38-42 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.11.6

聖書で「しるし」は奇跡と同じ意味です。ただし、「しるし」は、意味のある奇跡であり、神様が確かにおられるという証明(証拠)であります。使徒パウロは「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します」(Ⅰコリント122と言いました。ユダヤ人はどの国民よりも、多くの奇跡やしるしを受けてきましたが、不信仰な民でした。特に宗教的な指導者たちは、イエス様を受け入れませんでした。彼らは「あなたが救い主であることの『しるし』をもっと見せてくれ、そうしたら信じる」と言いました。「しるし」を求めること自体は罪ではありません。なぜなら、聖書にはたくさんのしるしや不思議が記されているからです。しかし、過度の「しるし」や奇跡を求めることは、不信仰の裏返しでもあります。 

  

1.不信仰の言い訳

宗教的指導者たちは、片手のなえた人が癒されたり、悪霊につかれた人が解放されたことを見たにもかかわらず、「もっとしるしを見せてくれ、そうしたら信じる」と言いました。マタイ1239「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」ヨナのしるしとは何でしょう?神様はヨナに「ニネベに渡って告げなさい。悪いことを悔い改めないなら、ニネベの町を滅ぼす」と命じました。ヨナは「はい」とは言ったものの、ニネベとは反対のタルシシ行きの船に乗りました。途中、船は嵐に巻き込まれ沈みそうになりました。人々は自分たちの信じている神に一生懸命祈りました。船長が船底に行くと、ひどい嵐の中でも寝ている人がいるではありませんか。船長が言いました。「この中に神様にひどい罪を犯している者がおるかもしれない。今からくじびきをする。」ヨナが引いたところ、大当たり。ヨナは「この嵐は、私が原因です。私が神様の命令に逆らったからです。どうぞ、この私を海へ投げ込んで下さい。そうしたら嵐が静まるでしょう」と、言いました。人々は「ごめんよ。恨まないでくれよ」と言いながら、ヨナを担ぎ上げて嵐の海にほうり投げました。ところが、主は大魚にヨナを飲み込ませました。ヨナは陰府の底に落ちたと思って、自分の罪を悔い改めました。三日目に、大魚はどこかの陸地に、ヨナを吐き出しました。ヨナはニネベに行って「悪い罪を悔い改めないなら、40日後に天の神はこの町を滅ぼしてしまいます」と告げました。そうしたら、王様から家畜まで断食して罪を悔い改めました。そこで神様は思い直して、ニネベの町を滅ぼさなかったのです。ニネベの町の人は何故、簡単に、悔い改めたのでしょう?それは、ヨナが大魚のお腹の中に三日間もいたからです。だから、彼らは「ヨナは神からの預言者だ」と信じて、悔い改めたのです。

それでは、イエス様がおっしゃる「ヨナのしるし」とは何でしょう? それは、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたように、イエス・キリストも地の中にいたということです。イエス様は金曜日に十字架にかけられ死んで葬られ、日曜日の朝よみがえりました。ユダヤの数え方は、足掛け三日という意味ですから、イエス様は三日の間、大魚ならぬ陰府にいたということです。三日目の復活は、イエス様ご自身が全存在をかけて、しるしとなったということです。ニネベの人たちが、大魚に三日間いたヨナの言葉で信じました。それなのに、死んで三日目によみがえったヨナよりも勝る方の言葉を信じないならどうでしょう。ニネベの人たちがその人たちを罪に定めると言うのです。復活というしるしは、イエス様ご自身が立てた証拠中の証拠であって、これ以上のものはないということです。イエス様は湖の嵐を静めたり、わずかなパンで大勢を養ったり、大漁の奇跡を行いました。また、4つの福音書の12%が肉体のいやし、悪霊の追い出し、死人のよみがえりなどに言及しています。キリスト教はこのように「しるしと奇跡」に立った宗教と言っても過言ではありません。使徒パウロは、「私の宣教は、説得力のある知恵のことばではなく、御霊の力と現われである」(Ⅰコリント24と言いました。もちろん、人が救われるのは奇跡ではなく、福音を信じて救われます。でも、「しるしと奇跡」は回心への橋渡しとなります。神様は必要とあらば、「しるしや奇跡」を起こして、私たちを励まして下さるお方であります。福音派のある教会は、「しるしや奇跡を求めるのは危険だ。しるしや奇跡は使徒の時代で終わった」と言います。私は福音派の牧師ですが、奇跡を起こせないような神さまだったら信じる必要はないと思います。ただし、イエス様が「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」と警告しました。神さまを試したり、現実離れした生き方をしてはいけません。しかし、信仰を持って生きていれば、しるしや奇跡も起こります。なぜなら、神さまにとって、自然も超自然もないからです。私たちは主の祈りで「御国が来ますように」と祈ります。それはまさしく、神さまのみわざが、この地上でも起こるようにという願いだからです。

イエス様はニネベにおけるヨナの他に、もう1つの例をあげました。42節以降に南の女王のことが記されています。彼女は旧約聖書で「シェバの女王」と呼ばれています。現在のサウジアラビアから、危険を顧みずソロモン王に会いに来ました。彼女はソロモンを試そうと様々な質問をしましたが、ソロモンがわからなくて、彼女に説き明かせなかったことは何一つありませんでした。シェバの女王は、ソロモンに出会うまでは、ソロモンの知恵の半分も知らされていなかったと驚きました。イエス様は、「見なさい。ここにソロモンよりもまさる者がいる」とおっしゃいました。イエス様の知恵はソロモン以上であります。イエス・キリストこそ、神の知恵、神の啓示そのものでありました。イエス様はこのように警告しています。マタイ1242「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。」おそらく、南の女王はこう言うでしょう。「私はソロモンの知恵で信じました。なのに、あなたがたはソロモンよりまさる神の子イエスの知恵を聞いたでしょう。そんな恵まれた状況の中にいたのに、信じないとは何事ですか?」とさばくでしょう。啓示の光は時代によって違います。旧約時代は夜明けで、まだぼんやりしている状態です。ヘブル111-2「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」このお方が直接、神のことばを語り、神さまご自身を現したわけであります。彼らはイエス様を目の前にして、様々なしるしを見ても信じなかったのです。だからもう言い逃れはできないということです。

私たちの場合はどうでしょうか?イエス様の教えとみわざを四福音書から知ることができます。使徒パウロは神から啓示を受けて、イエス様がどうして神なのか書いています。さらに、聖霊が真理の御霊として、私たちのところに来られています。私たちの時代は、考古学や科学によって、聖書の正しさが証明されています。様々な預言が成就し、啓示の光がLEDのように照っています。問題は、啓示を受け取る私たちの側にあります。まず、多くの人たちは聖書を手にとって読むことをしません。中世の頃は聖書を自由に読むことができませんでした。ところが、ルターの宗教改革時、活版印刷が発明されました。一番最初に印刷されたのが、聖書であります。聖書はもともと「本」という名前でした。ザ・ブックと言えば、聖書だったのです。しかし、人々は本屋さんで別の本を読んでいます。様々な宣教団体や教会も福音を宣べ伝えていますが、なかなか、回心まで行きません。生れつきの人間は、簡単にイエス・キリストを信じることができないのです。偏見や誤解、神を認めたくない自我があります。「洗礼を受けたら、大変なことになるのでは」という不安や恐れもあるでしょう。しかし、あるとき、パーっと開かれて、信じることができます。しかし、そのチャンスを逸してしまうと、また何年も何十年もかかります。全部を見て、知って、分かってから信じるのは信仰ではありません。それは事実であり、信仰を必要としません。信仰というのは、全部わからなくても、身を任せて飛び込む、一種の賭けであります。小さな子供は、押し入れなどの高い所から「パパー」とか言って飛びます。お父さんは必ず受け止めてくれます。飛び込んで来たのに、身をかわしたりしません。父なる神様も、イエス様も同じで、信仰をもって飛び込む人を裏切ったりしない真実なお方です。

 使徒パウロは「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します」と言いました。それに加えて、「日本人はご利益を求める」と言った人がいます。私は昔、「神さまがいるんだったら見せてほしい」と言ったことがあります。今、思うと「傲慢だったなー」と寒気がします。たとえば、「アメリカのオバマ大統領と会わせてくれたら信じてやる」と言ったらどうでしょう?大統領が私と会うためにわざわざやって来るでしょうか?しかし、イエス様は天の栄光を捨てて、人間以下の姿で降りて来られました。「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死までも従われました」(ピリピ28私たちの罪のために罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのです。このことを考えると、「神を見せてみろ」とか「もっとしるしが欲しい」と言えるでしょうか?こんな私を救うために、天から地の底まで降りて来られたのです。本来、私たちが行くべき陰府に下り、三日目によみがえられました。私たちのために死に勝利し、天国への道を作られたのです。私たちはこのことを単なる物語ではなく、事実として、受け取る必要があります。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかって死なれたのです。そして、三日目によみがえり、主の主、王の王になられました。このお方を救い主、主として信じるべきではないでしょうか?

2.不信仰の結果

 マタイ12:43-45「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」      これはまず誰に語られたかと申しますと、イエス・キリストを信じなかった当時の宗教家・律法学者やパリサイ人に対してであります。彼らは、一度はバプテスマのヨハネの話しを聞いて、罪を悔い改めました。心が一旦、きよめられたことでしょう。しかし、イエス様を救い主・メシヤとして受け入れませんでした。イエス様によって、盲人が見え、足萎えが歩き、耳の聞こえない人が聞こえ、死人が生き返ったのを見たにも関わらず、信じなかったのです。反対に、当時見下げられていた、遊女や取税人、罪人たちが真っ先に、神の国に入りました。宗教家たちはたくさんの特権にあずかりながらも、福音を信じて神の国に入ろうとしませんでした。するとどうなったでしょうか?彼らの心はかたくなになり、イエスを殺そうとまで考えるようになりました。彼らの心は憎しみと反抗心に満たされ、やがてはキリストを十字架につけてしまうのです。

 私たち日本人も、「心が洗われる」という表現を用います。そして教会に来て、聖書のことを学びますが、ある人たちは何かのことで躓くとプイと来なくなります。そればかりか、「信仰なんか必要ない」とまで言い出します。洗礼を受けたクリスチャンでも、何かの出来事で躓いて、教会から離れる人がいらっしゃいます。ある先生がおっしゃいました。「この世の中で最も麗しい人はクリスチャンである。それでは、この世で最も醜悪な人はだれか、それもクリスチャンである」というのです。神様を求める人は益々良くなるのですが、信仰を捨てた人は益々悪くなってしまうという法則があるようです。例えば、ニーチェはルター派の裕福な牧師の子供として育ちました。ニーチェが4歳のとき父が亡くなり、5歳のとき弟が亡くなりました。ニーチェは母の願いに配慮してボン大学で神学部と哲学部に籍を置きました。ところが、最初の学期を終える頃には、信仰を放棄して神学の勉強も止め、そのことで母と大喧嘩になりました。最後には無神論者になり「神は死んだ」という哲学を打ち立てました。やがて彼は発狂して55歳で死にました。また、資本論を書いたマルクスはどうでしょう?マルクス一家は、代々ユダヤ教のラビでした。マルクスが6歳のとき、マルクス家兄弟はプロテスタント教会に改宗しました。マルクスはいろんな思想にふれて無神論になり、共産主義者になりました。晩年は放浪生活をして亡くなりました。かなり前に、川上宗薫というポルノ作家がおりました。彼は牧師の子供で日曜学校にも行っていました。どこからか、道を間違えてしまったのです。信仰に躓いた人、あるいは信仰を捨てた人というのは、一般の未信者よりも悪くなるという傾向があります。その原因は何かを、この物語が説明しています。

マタイ1243節の、汚れた霊が人から出ていくというのは、おそらく、罪を悔いた人でしょう。あるいは、主イエスの御名によって、悪霊を追い出してもらった人かもしれません。その人から出て行った悪霊は、しばらくの間、別の住みかを求めて荒野を歩きまわります。結局、適当な場所が見付からないので、「もとの家(もといた人の心)に帰ろうと帰ってみると。その人の心はきれいに片付けてあり、空っぽです。「いやー、綺麗になっているなー」これはしめたとばかり、もっとたちの悪い七つの霊を連れ込んでそこに住ついてしまうのです。こうなると、その人の状態は以前よりも、もっと悲惨なものとなります。この人は、一時は良くなったのです。しかし、肝心なことを忘れていました。それは、心の中は綺麗にしたのですが、空っぽにしておいたからです。科学者であり数学者また哲学者であったクリスチャンのパスカルがこう言いました。「自然界は真空を嫌う」と。その当時の人々は、真空という状態があるということを知りませんでした。パスカルが真空を発見したと言われています。パスカルはクリスチャンになる前、心の真空を満たそうと、貴族の友人と付き合い、上流社会の様々な楽しみを求めました。しかし、彼は幻滅を感じ、人間のむなしさをいっそう確信しました。はかない楽しみも、偉大な業績の名声にも、彼の魂の真空を満たすことができませんでした。やがて、パスカルは劇的な回心をします。彼は「人間には神でしか、満たすことのできない、真空がある」と言いました。日本人も、心が洗われたという表現を用いますが、それだけでは不十分です。心の中を綺麗にしただけではダメです。そこに、救い主であり王なるお方をお迎えしなければ危険です。この世は邪悪な時代であり、悪霊が神に対して不従順な人に働く時代です。ですから、その人が罪を悔い改めても、主イエス・キリストを心の王座にお迎えしなければ、一度、関係をもった悪霊がまたやって来るのです。悪霊はヤクザや暴力団と同じで、一度、関係を持つとなかなか離れません。「私は結婚したのよ、もう二度と来ないで」と言っても、時々、電話をかけてきたりする。「近くに来てるんだけど、お茶でも飲まない」と誘います。あるときは、主人の留守をみはからって、トン、トンとドアをノックしたりします。「昔のことを、ご主人にばらしても良いか」なんて脅かします。「また、一緒に楽しもう」と誘いをかけてくるのです。その誘惑に負けてしまったら、前よりももっと悪くなってしまいます。

             

それでは、どのようにしたら良いでしょう。第一は、まことの救い主を心にお迎えすることです。黙示録3:20にありますように、イエス様は戸の外に立って、扉をノックしています。私たちが内側からドアを開けるなら、イエス様が入って下さり、食事を共にして下さいます。それは、友としての親しい交わりを象徴しています。ある人は、もっと片付いてからとか、綺麗にしてからと言いますが、ありのままで良いのです。罪があっても、暗くても、イエス様を迎え入れるなら、主が聖め、主が明るくして下さいます。第二は、イエス様を友としてだけではなく、王様、ご主人として迎えるということです。それは、私たちの心の王座をイエス様に明け渡し、自分がしもべになるということです。つまり、自分の人生の主となっていただくということです。これこそ、勝利あるクリスチャンの姿です。先ほども申しましたが、悪霊、もと関係のあった悪霊がたとえ、また尋ねてきたとしてもこう答えることができます。「私はすばらしい王様のものになった。もう、あなたとは何の関係もない、出て行け」と命じることができます。ヤツが「過去のことをばらすぞ」と脅かしても、「主は私の罪を全部赦して下さった。もう、何のとがめもない。お前は嘘つきだ。もう二度と近付いてはならない。もし、また、来るなら神様に訴えるぞ」と言えば良いのです。ヤコブ4:7 「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」悪魔に対抗するためには、まず、神様に従うことです。神に従っていない者は悪魔に何の抵抗力もありません。まず、神に対して従う。次に、サタンに対して立ち向かうのです。そこには明確な順番が存在しています。立ち向かうとは、主イエスの御名を用いるのです。Ⅱコリント10:4 「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」

 現代は、セコムとか様々な家を守るシステムがあります。家の門柱に赤いセコムという警備保障のマークがあり、「何かあったら警備会社が飛んでくるぞ」と警告しています。いろんな防御の仕方があると思いますが、悪魔との戦いに秀でている先生が本を書いています。サタンから心の家を守る防御システムの第一は「照明」だということです。私たちにとって、「照明」とは、悪魔(サタン)の存在について知識を持つということです。第二は「発見」です。サタンは変装が上手です。時には、私たち自身を真似てきます。あたかも自分の思いのように、自分の心に語りかけてきます。私たちにはみな弱さがあります。そこをサタンは攻撃してくるのです。イエス様がおっしゃいました「目を覚まして、祈っていなさい」これが発見につながります。もし、「心配だな」という声が聞こえてきたら、ピリピ46「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」第三は「警報」です。真っ暗な夜、だれかが入って来ました。しかし、名前を読んだ後、去れと命じるのです。「サタンよ、悪しき力よ、主イエスの御名によって命じる。出て行け」。イエスの御名とは、警察官の制服を着るのと同じようなものです。イエスの御名においてサタンに立ち向かうとき、私たちは征服を着ているのです。敵は私たちクリスチャンを見るのではなく、制服の背後にあるイエス・キリストを見るのです。「イエス・キリストの御名によって」とはサタンの頭上で大音量の警報を鳴らすようなものなのです。第四は「武器」です。武器とは、神の言葉です。これこそ、御霊の剣であり、攻撃用の武具です。つまり、「神はこう言われる」と聖書の言葉を出すのです。聖書の言葉は慰めや導きを得るだけのものではありません。敵に効果的な武器でもあるのです。ですから、私たちは敵に対して神の言葉である武器を取るのです。これは、いつも練習していないと、実践には役に立ちません。ですから、みことばをいつも読んで、身につけているということです。ハレルヤ!私たちには悪魔よりもはるかに強い、主イエス・キリストと父なる神さまが共におられることを感謝します。

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