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2016年11月25日 (金)

麦と毒麦のたとえ マタイ13:24-30 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.11.27

 この世では似て非なるものがたくさんあります。魚や鳥、昆虫の中にも良く似ているものがあります。たとえばテントウムシも最初は分かりませんが、星が20もあるものは害虫とされます。本日のテキストには、麦と似ている毒麦が出てきます。毒麦というのは、その葉も茎も麦とよく似ているジザニアという毒草で、食べるとめまいが起こるそうです。最初は分かりませんが、穂が出るようになると、この毒麦も麦と区別することができるようになるということです。イエス様は「天の御国」がどのようなものか、たとえによって教えておられます。

1.教会史における毒麦

 このたとえを字義通り解釈するとどうなるでしょうか?ある人が自分の畑に良い種を蒔きました。「ある人」というのは「その家の主人」です。人々が眠っている間に、敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行きました。もし、家の主人が神さまで、畑がこの世だとするとどうなるでしょうか?神さまは眠ったりしませんので、ちょっと問題が出てきます。敵というのは悪魔であり、こっそり毒麦を蒔いて、畑を荒らすということです。しもべたちというのは預言者もしくは、教会の働き人かもしれません。収穫の時というのは、世の終わりのさばきのときでしょう。その時、毒麦が集められ火で焼かれます。一方、麦は集められて倉に納められます。このたとえのメッセージは「早まって毒麦を抜かないように。収穫の時まで待ちなさい」ということです。たとえを1つ1つ何かにあてはめていくと矛盾が出てきます。一番重要なことは、このたとえが何を教えたいのかということです。それが分かったなら、今日の日常的なことに適用していくことができます。イエス様は「天の御国はこういうものですよ」とたとえをもって教えられました。このたとえの中心的メッセージは「天国が完成するまで、毒麦のような人が現れますので、用心しなさい」ということではないかと思います。

 マタイによる福音書はユダヤ人を対象に書かれていますので、「選民イスラエル」という思想が流れています。でも、私たちは異邦人ですから、「教会の歴史」という観点から見ることも必要です。聖書の創世記をみるとわかりますが、系図がたくさん出てきます。簡単に言うと、選ばれない人たちの系図が最初に出てきて、神の民と思われる系図があとから出てきます。第一歴代誌もたくさんの系図が出てきますが、最終的にはユダ族から出たダビデの子孫になっています。まるで本流と亜流のように、神の民が流れて出ています。新約聖書を見ますとイエス様は新しいイスラエルをもくろんでいたことがわかります。イエス様が12弟子を選びましたが、そこにはイスカリオテのユダが含まれていました。なぜ、ご自分を裏切るような人をイエス様は使徒の中に加えられたのでしょう?イエス様の復活後、異邦人を中心とした教会が誕生します。ユダヤ人は国外に散らされ、終わりの時代に集められるというのが聖書からの預言です。私たちはイエス様のたとえを解釈するとき、このことを教会の時代にもあてはめるべきだと思います。イギリスのJC.ライルは注解書の中でこのように言っています。「洗礼を受けた会衆の中に、信者と不信者、回心した人と回心していない人、王国の子と邪悪な子が混ざり合っていることを発見しなければならない」。JC.ライルは英国国教会の監督だったので、当時の教会をそのように見ていたのだと思います。また、彼は「新約聖書後の教会教父の時代、宗教改革の時代、今日の宣教の時代においても毒麦と麦を見ることができる。たとえ監督派、長老派、独立派で厳しく管理しても同じことである」と言っています。ということは、どの時代にあっても、どの教派であっても毒麦の発生は防ぎようがないということでしょう。

 今日の教会では毒麦とはキリスト教会の異端であると解釈します。モルモン教、エホバの証人、統一教会などが有名です。異端とは「そこには救いがない」ということです。最近は「新天地」という異端が韓国から入ってきて、教会の乗っ取りを図っているようです。あるホームページにこのように書かれていました。「ここ数年、特に最近、日本のキリスト教会や宣教団体、大学サークル(KGKCCC)などに潜入し、求道者や教会員、リーダーたちにアプローとして引き抜こうとしたり、洗礼を受け長年かけて(少なくても3年、10年かけて)忠実な信徒、役員となり、信頼を勝ち取ったあとに教会の分裂・転覆を図るという徹底ぶりで有名になり、警戒されている。彼らの伝道対象が、未信者でなくキリスト教会の信者というのが新天地の特徴である。既存のキリスト教会は注意しなくてはならない」。イエス様がマタイ7章で警戒を呼び掛けています。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。」(マタイ715,16)。世の終わりには、偽キリスト、偽預言者がたくさん出現すると預言されています。ということは、教会は外に向かって宣教を続けながらも、入り込んで来る異端に気を付ける必要があるということです。

 ところで、イエス様がこのたとえで一番おっしゃりたいこととは何でしょうか?しもべたちが「では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。」と提案しました。すると、主人は「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。」と言われました。冒頭でも申し上げましたが、麦と毒麦は最初の頃は、よく似ているということです。見分けがつかないので、良い麦も一緒に抜く恐れがあります。使徒パウロがまだ、回心したばかりのサウロのときです。彼は熱心に「イエスは神の子である」と宣べ伝えました。すると、教会の人たちは「ここへやって来たのも、私たちを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためだろう」と疑いました。人々は「サウロは弟子ではない」恐れていましたが、バルナバが間に入って説得しました。もし、教会がサウロ、後のパウロを失っていたなら教会の大損害になっていたことでしょう。私も最初に教会に来たときは、この世のニオイをプンプンさせていました。副牧師は「ああ、女の子目当に来たんだろう」と思ったかもしれません。その当時は青年会に、そういう人たちがいっぱいいました。でも、姉妹方の信仰が強かったので、未信者の男性が信仰を持ったというケースがたくさんありました。「洗礼を受けなかったら、結婚してあげないから」という雰囲気があふれていました。こういうことから、外見で毒麦みたいに扱ってはならないということです。

 コリントの教会には、パウロは本当に使徒なのか、疑問をいだく人たちもいました。そして、ある者たちはパウロをさばいていました。それで、パウロがコリントの教会にこのように書き送っています。Ⅰコリント45「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」このことは私たちにも言えることです。つまり、神さまの座について人を裁いてはいけないということです。パウロは「私をさばく方は主です」とはっきり言っています。その時が来たら、主ご自身が「やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされる」ということです。では、教会が無法地帯のように、罪や不正が野放しにされて良いか、というとそうではありません。十戒からはっきり罪だと分かるものもありますが、グレーというか、その時は分からないものもあるのです。神さまよりも先走って、白黒付けようとするなら、良い麦まで抜いてしまうことになるでしょう。私たちはそういう意味で神さまを恐れる必要があります。出エジプト記にありますが、ミリヤムが結婚のことで弟のモーセをさばきました。すると彼女はらい病にかかったと聖書に書かれています。さばきたい気持ち分かりますが、聖霊様が教会の中におられます。私たちは聖霊様の判断を仰ぐための時間を与えなければなりません。先走った裁きにより、教会が分裂したり、人々を深く傷つけることがあることを良く知っておきたいと思います。

 私が当亀有に赴任する直前、大川牧師を訴える信徒がいました。私はこちらに来たので、その後のことはよく分かりませんが、最高裁まで行ったそうです。何と10年間、訴訟問題が続いたということです。「火のないところに煙は立たない」という諺がありますが、全国にも悪い噂が広がりました。教会のリーダー的な人もその信徒に同調したので、大川牧師は「死の陰の谷」を通らされたと思います。後から聞いたことですが、先生を訴えた人たちの中には急死したり、家族がバラバラになったり、重い病にかかったり良いことはなかったようです。現在は、大和カルバリーとして大いに祝福されています。私が一番、驚いたのは、大川牧師はほとんど言い訳をしなかったということです。まさしく、パウロが「私をさばく方は主です」と言ったとおりだと思います。「さばくとさばかれる」とマタイ7章に書いてありますが、私たちが主の代わりにさばいてはいけないということです。私たちの目で、「この人は毒麦ではないだろうか」と思うことがあるかもしれません。しかし、イエス様は「育つまで、しばらく見なさい」と言われました。サウロがパウロになる場合もあるのですから、聖霊様から深い洞察力をいただきたいと思います。Ⅰコリント45「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」

2.信仰生活における雑草

 後半はこのたとえの適用を考えました。そのために毒麦ではなく、雑草と言い換えたいと思います。教会の周りには植木(さつき)が植えられています。いつの間にか雑草が生えてきて、抜いても、抜いても、また生えてきます。雑草の場合は、種がどこからか風に乗って来るので防ぎようがありません。畑を持っている人は、雑草との戦いではないかと思います。私たちの信仰生活においても、油断していると雑草が生えてきます。なぜなら、教会はこの世の中にあるからです。私たちもこの世の中で暮らしているので、雑草の種が落ちて、それが生えてくるのではないでしょうか?このたとえには「人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った」(マタイ1325と書いてあります。ということは、私たちには敵がいるということです。しかも、眠っている間に毒麦ならぬ雑草を蒔いて行くということです。どんな雑草が自然に生えてくるのでしょうか?恐れや不安、ねたみやそねみ、怒りや憤り、不品行や情欲、むさぼりや浪費癖…あげたらきりがありません。ここで気を付けるべきことは、それらは神さまが蒔いてくれた麦、つまり聖霊の実でありません。敵である悪魔が、心の畑に蒔いてしまったものです。眠っている間とは、日常生活の中で無意識のうちにということでしょう。雑草の種がどこからか飛んでくるように、悪魔が悪の種(誘惑)をばらまいているということではないでしょうか?では、どのようにしたら悪魔が持ちこんで来る雑草を駆除しつつ、聖霊の実を豊かに結ばせることができるのでしょうか?そのため、私たちは畑である心を正しく管理する必要があります。

 第一は雑草が生えてこないように心をガードするということです。「主の祈り」の中で、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」というのがあります。この祈りは、私たちの心を守るための重要な祈りです。たとえて言うと、この祈りは種が舞い込んでこないようにバリヤーを張る行為です。私たちも故意に誘惑には近づきません。しかし、気が付いていないことがありますので、主の守りが必要です。だから、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈るのです。そうすると神さまは悪魔の誘惑から私たちを守ってくださいます。マルチン・ルターは鳥が頭の上を飛ぶことは妨げることはできない。それは鳥の権利だから。しかし、鳥が私の頭の上に止まって巣を作るならどうだろう?「やめとけ」と鳥を追い払うでしょう。この世で生きている限り、誘惑が私たちの頭の上を飛び交っています。しかし、その誘惑を心の中に入れて、培養してはいけません。すぐ取り除くのです。根が張る前に取り除くのです。そうすると、誘惑は誘惑となりません。家屋やビルなどで、セキュリーシステムを付けているところもあります。感応式ライトをつけたり、防犯カメラをつけたり、どこかの警備会社と契約を結んだりします。私たちもたえずイエス様と交わり、みことばをたくわえ、心を守る必要があります。そうすれば、主が御使いを遣わして私たちを守ってくださいます。

 第二はそれでも雑草が生えてきた場合どうするでしょうか?私たちは人間関係において傷つけられることがよくあります。そのまま放置しておきますと、苦い根となってそこから苦い実がなってきます。英語でoffendは、「感情を害する」「不快にする」「傷つける」という意味があります。つまり、人とのやり取りで悪感情を覚えるということです。こういうことは日常茶飯事に起ることではないでしょうか?刺のある言葉だったり、無礼な応答だったり、あからさまな批判というものは私たちの心を傷つけます。軽いものであるなら、ぱっと払いのけますが、心の奥底まで入り込み、それが根を張るととても危険です。さらにそのことを何度も思いだし、憤るならば、雑草に栄養を与えることになります。感情というものは自動的に起こるものであり、これは防ぎようがありません。車のメーターみたいなもので、何か原因があるので、メーターが振れているのです。私たちは一寸立ち止まって、どうしてこのような感情を覚えたのか検討する必要があります。まず、「どういう状況でなったのか」ということを客観的に見ます。その次は、その時、私は何を考えたかを捉えます。不当な扱いを受けた、プライドを傷つけられた、コントロールされているように思った…いろいろあるはずです。良く考えると、自分が傷つきやすいパターンがあるはずです。相手はこのように言ったけど、私の受け取り方が過剰だったのではないだろうか?あるいは確かに相手は私を侮辱し、汚したかもしれない。しかし、それをまともに受けるのはどうだろうか?これは軽く受け流して、「主にゆだねるべきではないだろうか?きっと主が弁護してくださるよ。」そのように考えを変えると、感情が後からついてきます。「まあ、いいか。生きているうちこういうこともあるさ」と気楽な気持ちになります。ですから、傷つけられた感情がどのような考えから来ているのかを捕まえ、その考えを変えるということです。そうすれば、雑草が根を張る前に抜かれることになります。

 第三は、雑草は根こそぎ抜くということです。第一と第二を補強したものです。私が東村山の神学校で学んでいたときのことです。校舎の真ん中に広い中庭がありました。以前は芝生が生えていたのでしょうが、その時はほとんど雑草でした。白つめ草、おおばこ、たんぽぽが主流でした。本当にうさぎでも放し飼いにした方が良いのではないかと思いました。私たち修養生は掃除当番のとき、あるグループが芝を刈ったり、雑草を抜きます。大体は、上の方しかとらないのです。そうすると1か月もたたないうちにまた生えてきます。なぜなら根っこが残っているからです。ですから、めんどうでも器具を使って、根っこごと取り去るのが一番です。2本の爪がついているものがあります。たとえ話では「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。」と書いてありました。面白いことに、雑草が小さいときはこの器具は使えません。ある程度、立派になった頃、「ぐいっ」と根こそぎ取れるんですね。気持ち良いですよ。このたとえから学ぶことは、あんまり内省的にならないで、育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら刈り取れば良いということです。クリスチャンの陥りやすい欠点は、内省的になりすぎるということです。極端に言えば、私たちの罪は十字架で全部赦されているのです。だから、神経質になることは不要だということです。重要なのはイエス様を見上げて生きるということです。そうした中で、雑草が生えて来たなら、抜けば良いということです。それよりも私たちは麦の方に目を留めなければなりません。麦とは御霊が与える実であります。神さまが結ばせてくださった愛、喜び、平安などの実を喜ぶべきであります。雑草ばかりに目をとめて、せっかくの御霊の実の存在を忘れたら、本末転倒であります。雑草ではなく、御霊の実に目をとめましょう。

3.たとえの結論

 最後に、このたとえは、「天の御国のたとえ」であるということを忘れてはいけません。もし、家の主人が神さまだとしたらどうでしょう?自分の畑とはこの世界ということになります。神さまはアダムによって失われた世界に対してもう一度チャンスを与えたことになります。父なる神さまは、キリストの福音という種を蒔いてくださいました。もし、人がこの福音を信じるなら、終わりの日に救い出されて、倉である天の御国に入れられます。ところが、神さまのご計画を妨げる敵、悪魔がいます。彼は福音とは別の種をこっそり蒔きました。ここでは毒麦と言われていますが、それを信じた人は救われないばかりか、悪魔と同じ裁きを受けることになります。たしかに世界には麦と毒麦が混在しています。福音を信じて救われた人も、そうでない人も混在しています。ある人たちは「早くさばきが来るように。白黒つけてくれ」と願うでしょう。でも、そうしたら、救われるチャンスのある人たちも滅びてしまうでしょう。だから、父なる神さまはいと長く忍耐して、一人でも多くの人が救われるように待っておられるのです(Ⅱペテロ39)。では、私たちはどうしたら良いのでしょうか?このたとえの中にはしもべたちが出てきます。しもべたちとは、使徒たちであり、また教会の働き人かもしれません。でも、マルチン・ルターは「万人祭司説」を唱えましたので、すべての人が教会の働き人です。と言うことは、私たちがみな父の心を持たなければならないということです。つまり、「自分が御国に入れたから、それで良いや」ではなく、一人でも多くの人が救われるように願うということです。さらには、できるだけ毒麦という間違った教えにやられないように、人々を導く必要があります。

 私もこのところで一丁前に話していますが、これまで何人の人にお世話になったことでしょう。個人伝道をしてくれた職場の先輩、教会の牧師、日曜学校の先生、そして、兄弟姉妹がいました。多くの方々が、教えてくれたり、励ましてくれたり、祈ってくれました。必要なものをささげてくれました。こう考えると「私はひとりで立派な麦になった」と誇ることはできません。しかし、一番お世話になったお方はだれでしょうか?それはイエス様です。イエス様が私のために命を捨てて下さったので、私は生きる者となったのです。教会では信仰によって救われると言いますが、それは私たちの信仰が立派だということではありません。イエス様はご自身をこのように言われました。ヨハネ12:24 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」イエス様が一粒の麦として死なれたので、多くの麦の実が結ばれるようになったのです。

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