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2016年11月18日 (金)

種まきのたとえ マタイ13:18-23 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.11.20

 イエス様は群衆にたとえによって教えられました。しかし、たとえの下に真の意味が隠されていることをどのくらいの人が理解できたでしょうか?実は弟子たちもその意味を理解できませんでした。そのため後からイエス様にこっそり尋ねました。それでも、イエス様は「あなたがたは天の御国の奥義を知ることを許されている」と言われました。つまり、そこには神さまの選びとか、求める者への恵みがあるということです。4種類の土地は、人の心の状態を指すわけですが、1つ1つ順番に学びたいと思います。

1.道ばたの人

 道ばたに種を蒔くとは、なんてドジなんだろうと思わないでください。パレスチナでは種を蒔いてから耕すようです。それに道ばたと言っても、人が踏み固めてできたあぜ道だと思ってください。たとえでは、「鳥」が道ばたに落ちた種を食べています。ところが解説では「悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます」となっています。ルカ福音書では「悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心からみことばを持ち去ってしまうのです」と書かれています。マルコ福音書には「サタンがみことばを持ち去る」と書かれています。つまり、悪魔あるいはサタンが、人がみことばを信じて救われないように妨げているということです。その人は、みことばを一応、聞くのです。しかし、みことばが心の中に入っていません。そうすると、悪魔がそのみことばを奪い取って、結果的に、その人は信じて救われないということになります。人が救われる決め手は、みことばにかかっています。みことば自体に問題はありません。その人がみことばを聞いて、心の中に入れるかどうかであります。もし、みことばが心の中に入ったなら、信じて救われる可能性があります。まるでそれは、種が畑の土の中に蒔かれるのと同じであります。後は水と温度が整えば、種は発芽するからです。

 では、道ばたとはどんな人の心をさすのでしょうか?人々が踏み固めたあぜ道に種が落ちたので、種は地面にもぐり込むことはできません。不運と言えば、不運、運命論的なものがあります。でも、そこにはみことばに対するその人の責任もあるでしょう。おそらく道ばたの人は、過去に裏切られた経験があり、「もう信じない」という頑なさがあるのかもしれません。「宗教は危ない。キリスト教は邪教だ」とか、思っているのかもしれません。中川健一牧師は「日本人は、無知と偏見で固められた道ばたの人が多い」とおっしゃっていました。私も最初、職場の先輩から福音を聞いたとき「神がいるなら見せてくれ」と反論しました。進化論を信じていましたので、「神が人を造った」と聞いたとき、「そんな馬鹿な」と笑いました。聖書と聞いたとき、「日進月歩の時代に、そんな古いものは通用しない」とまで言いました。職場の先輩は、忍耐をもって1つ1つ教えてくださり、無知と偏見を取り除いて、耕してくださったのかもしれません。もし、日本人の多くが無知と偏見で固められた道端であるならどうすべきでしょうか?これはいくら福音を伝えても無駄であります。全部、跳ね返されてしまうからです。悪魔が片っ端から、まかれたみことばの種を奪っていきます。日本の地に、どれくらい多くのプロテスタントの宣教師が来ているでしょうか?「日本は宣教師の墓場だ」と嘆いて、去って行った宣教師もたくさんいました。それに比べ中国とか韓国へ渡った宣教師は桁が違うほどの多くの人が救われるのを見ます。宣教師をサポートしているアメリカやヨーロッパの人たちは、「なんで日本の宣教師は出来高が上がらないのだろう!さぼっているのか?」と怒るでしょう。小笠原牧師は「日本はシベリアのツンドラ地帯(不毛の地)のようだ」と言いましたが、本当にそうかもしれません。

聖書を配布している「ギデオン協会」のニュース8月号にこのような証が載っていました。1869年、浦上キリシタン3,394人が捕えられ、21の藩に流刑された。そのとき、浄土真宗のメッカ、金沢の前田藩にその中の526人がお預けの身になった。監督を任された名奉行の誉れの高い長尾八之門はこのキリシタンの信仰に打たれ、聖書を読み1882年(明治15年)トーマス・ウイン宣教師より洗礼を受けた。その息子の巻も、2か月後に洗礼を受けた。巻は後に牧師となり、伝道を開始。しかし救われる者は起こされず、迫害の強かった大聖寺(たいしょうじ)では5年間1人も礼拝に来なかったという。彼が豊橋に転任した時、そこに結核を病んだ青年が転がり込んだ。時に喀血する青年をこの家族は貧しい中で家族として受け入れた。この青年は後の賀川豊彦である。…みなさんは賀川豊彦師をご存じでしょうか?ノーベル平和賞にノミネートされた伝道者です。「神の国運動」という社会運動を行い、貧民や労働者を救った人です。中国の蒋介石は「日本にドクターカガワがいる限り、私は日本を憎むことが出来ない」とまで言ったそうです。戦後、日本人が無事、中国から帰ることのできたのも、また日本が四分割に分断されなかったのも蒋介石の功績によるものです。でも、蒋介石を感動させたのは賀川豊彦師の中国に対する熱い祈りでした。しかし、もとはといえば、長尾巻牧師が不毛の地でも種を蒔き続けたからです。岩波書店のマークはミレーの「種まく人」であります。ミレーは、麦であるイエス様が自分を蒔いているのを擬人化したのだそうです。たとえ不毛の地であっても、イエス様自身を種として蒔いているのです。私たちも日本の地がどうであれ、ひたすら、種を蒔くしかありません。数は少ないかもしれませんが、私たちが救われてここに集っているということはすばらしい証であります。

2.岩地の人

 岩地は土が薄くて、温かいのでしょう。種はすぐ芽を出しますが、土が深くないので根を張ることができません。日が昇ると、根がないために焼けて枯れるということです。イエス様の解説はこうです。マタイ1320,21「また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」岩地の人は、みことばに対してオープンな人です。おそらく、「それは良い教えだ」と疑いもせず、信じる人です。でも、信仰が表面的であり、キリストご自身に根差すところまでいかないのでしょう。それで困難や迫害が起ったとき、すぐにつまずいて信仰を捨ててしまうのです。たとえば、スポーツや芸能界にはたくさんのフアンがいます。大体は活躍している選手や、ブレークしているタレントにくっつきます。もしお目当ての選手の成績が振るわなくなったり、スキャンダルが起こるとプイと離れて行きます。そして、また別の人を追っかけます。つまり、彼らはアイドル(偶像)を追いかけているのであって、深い考えからではありません。イエス様もその当時はものすごい人気がありました。しかし、十字架で捕えられたとき、ほとんどの人たちがそっぽを向きました。歴史においても、キリスト教会がもてはやされる時代というのが、どの国においてもありました。多くの人たちが、流行を追いかけるように教会に来て洗礼を受けます。しかし、まもなく困難や迫害がやってきます。それは個人的にかもしれないし、社会情勢からかもしれません。そうすると簡単に教会を離れ、信仰まで捨ててしまう人が出てきます。

 昭和のはじめ日本にもリバイバルが起り、大勢の人たちが教会に来ました。特にホーリネス系の教会が祝福され、台湾や中国にも宣教師を派遣したくらいです。しかし、太平洋戦争が始まると教会が迫害されました。これは辻宣道師の証です。父が伝道と牧会の現場から警察に連行されたのは1942年(昭和17)の初夏でした。それは拘置所、裁判所、刑務所と続き、最後は懲役2年で服役中に死にました。私が中学2年のときでした。牧師が刑務所にぶちこまれたら家族はどうなるのでしょう。一体何を食って生きていたのか、いま思いだそうにもはっきりしません。おそらく乞食すれすれの生活ではなかったでしょうか。その中で、覚えていることがいくつかあります。教会は政府の命令で解散させられていました。ある日、母に言われて元教会員だった一人のところへカボチャをわけてもらいに行きました。農家でした。確か父が牧師であったころ役員をしていた人です。おどろきました。「おたくにわけてやるカボチャはないねえ」と言うのです。手ぶらで帰る少年の気持ちはどんなだったでしょう。平穏無事なときはまっさきに証などしてはりきっている人でしたが…。そのガッシリした体格はいかにも信仰あふれる精兵のようで、みんなの尊敬を集めていました。私もなついていました。それがどうしてカボチャ一個もわけてくれぬ人になってしまったのか。「人間いざとなれば信仰もヘッタクレもなくなるんだなあ」と思いました。後で私が信仰を持つとき、かなりそれがしこりになって、なかなか素直に神も人も信じられませんでした。大きく遠回りして牧師になったとき思いました。ことが起ってガタガタになるような教会は困る。天地がひっくり返っても教会のえだであることをやめぬ教会員を作ろう。

 きょうはどういう訳か人々の伝記が多いようです。岩地の人、つまり、一度はキリストを信じても離れる人です。日本の教会は、戦後、クルセードという大衆伝道大会が数多く開かれました。昨年も武道館でそういう大会がありました。伝道者がcomeとか言って、決心した人をステージの前に招きます。結構、多くの人たちが席を立って、降りて行きます。そして、伝道者の祈りに合わせて、信仰告白をします。訓練されたカウンセラーがフォローアップします。でも、統計によると、そのとき決心しても教会につながる人は5%位だそうです。今では伝道大会はお金がかかる割には実りが少ないということであまりしません。それよりも、人間関係の伝道に切り替えています。もちろん、伝道はいろんな方法があって良いのですが、問題は、信じる人の心の状態です。ひとこと「信じる」と言っても、どの程度信じているかは外からではわかりません。イエス様は「みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」とおっしゃいました。つまり、困難や迫害が信仰の試金石だということです。その人がキリストにしっかり根を下ろしているのか分かるからです。コロサイの教会は使徒パウロが伝道した教会ではありません。エペソの人たちが福音の種を蒔いたら、そこに教会が生み出されました。パウロは喜んで、このように書き送っています。「福音は…世界中で実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです」(コロサイ16)。パウロは彼らにこのように勧めています。コロサイ26,7「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」そのところに、「キリストの中に根ざし、また建てられ」と言われています。つまり、植物や樹木が根を張るように、キリストご自身に根ざすということです。私たちはみことばを聞きます。そして心に受け入れるかもしれません。しかし、そこで終わらないでみことばが示すキリストご自身と出会い、キリストご自身に根ざす必要があります。つまり、キリストに依存し、キリストに従い、キリストと共に歩むのです。そうすれば、信仰的に成長し豊かな実を結ぶことができるのです。

3.いばらの人

 「いばらの人」というと何だか語弊があります。「いばらの地に種をまくなんてドジだなー」と思うかもしれません。しかし、畑の表面はちゃんとした土なんです。問題は地面の下にいばらが残っているということです。私が幼いころ、山の上に開墾した畑がありました。表面はきれいな土ですが、下からいばらが生えてきます。それを抜いては谷の方に捨てていました。種を蒔いたら、芽が出て育ってきました。でも、後からいばらも生えてきました。やがていばらの方が生い茂って、穀物をふさいでしまったのでしょう。そのため、光もさえぎられ、実を結ぶまでいかなかったのです。マタイ1322「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」ルカ福音書には「この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟すまでにならないのです」と書かれています。イエス様の解説から、いばらとはどんなものか分かります。それは、この世の心づかいと富の惑わし、快楽などであります。「この世の心づかい」って何でしょう?それは、「心配、気がかり、思いわずらい」です。ロトの妻は後ろを振り返ったために塩の柱にされました。おそらく、家と家財が心配だったのでしょう。この世においては、富の惑わし、快楽があります。この世が与えるものは罪ではありません。しかし、この世のものはその人を占有します。その人を捕えて、神の国から引き離す誘惑となるのです。

 あるホームページに、このように書かれていました。いばら(アカンサァ)とは、「刺のある雑草や潅木(低木)」のことを言います。パレスチナでは、アザミのように刺のある雑草がどこにいっても見られて、ヘブル語で17種類のいばらを指すことばがあるほどです。ですから、畑でも放っておくと、いばらの種はどこかからでも飛んできて、畑を覆うことになるのです。そして、作物より成長が圧倒的に速いため畑に生い茂るので、作物を圧迫するのです。当時の農作業では、いばらなどの草取りがもっとも重労働だったろうと思います。原罪に汚染された人間の心の中では、「神のことば」といばらのどちらが速く成長するかというと、残念ながらいばらなのです。ですから、いばらを引き抜く作業を絶えず行わないと、いばらに覆われることになるのです。…なんだかこんなことを言われると、希望がなくなります。私たちは天国に行くまで、戦いがあります。なぜなら、この世の心づかいと富の惑わし、快楽などのいばらが生えてくるからです。つまり、日々、いばらを発見したら11本、抜いていくしかありません。私は秋田で育ちましたので、稲がどのように育っていくか知っています。田植えが終わって、6月頃でしょうか?農家の人たちは、両脇にプロペラみたいなものがついている除草機を押します。稲は傷つけないで、両脇の雑草だけを抜き取るようになっています。さらに7月、8月くらいになると、ひえを抜きます。ひえは稲よりもピンと高く出るので分かります。でも、ある人たちは面倒なので、取りません。すると、ひえがものすごく繁茂して、ものすごく見苦しくなります。田んぼを見て「ひえー」とか言ったりします。

 はじめから良い地の人はそうはいないかもしれません。私たちはイエス様を信じたとき、罪と汚れが焼かれてきれいな畑になりました。みことばをいただき成長して、恵まれた信仰生活になりました。でも、下の方にいばらの根がありました。何と、後からいばらが生えてきました。ヘブル1215「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」。このいばらは私たち自身を汚し、まわりの人たちをも汚してしまいます。エリヤハウスでも学びましたが、内に秘めている怒りや憤りを神さまの前に差し出す必要があります。そうすれば、イエス様の血潮と聖霊の火によってきよめられます。神さまが与えてくださった種には問題がありません。神さまは私たちを豊かに成長させてくださいます。一方、私たちも心を守る必要があるということです。たえず、いばらを抜いて、良い畑にしていきたいと思います。

4.良い地の人

 マタイ1323「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」良い地とは良く耕された心です。みことばを聞いて悟るとは、良く考え、適用し、自分のものとすることでしょう。マタイは「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます」と書いています。ところが、マルコ福音書には「実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった」と書いています。どちらが正しいのでしょうか?おそらくユダヤ人の考えでは、「百倍が標準で、少なくても六十倍、最低でも三十倍の実を結びます」と言っているのではないかと思います。なぜなら、麦やお米、あるいはとうもろこしを考えたらどうでしょう?ちょっと調べてみましたら、1粒の麦から150粒の麦が採れるそうです。1粒の米だと400粒位になります。また、とうもろこしなどは1本に640粒あったと書いてありました。とうもろこしの場合は一本の茎に何本も生えるのですから、何千という数になるでしょう。おそるべき種の力ということになります。ですから、「最低でも三十倍の実を結びます」という言い方はあながち間違いではありません。

 でも、問題は良い地の確率です。イエス様が語った人たちは4種類の土地であったということです。確率的に4分の1になります。とすると、4人に1人が良い地だということになります。イエス様のたとえを見ると、はじめからそういう土地であるという運命論的なものを感じます。はじめから、道ばたの人、岩地の人、いばらの人、良い地の人がいるんだということも否めません。しかし、それと同時に「良い地になるように」というチャレンジもあるような気がします。なぜなら、「耳のある者は聞きなさい」とイエス様がチャレンジしているからです。確かにイスラエルは預言者たちの言うことをきかない心頑なな人たちでした。でも、イエス様は弟子たちにこのように言われました。マタイ1316「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」あなたは、自分をイスラエルの民と見ているか、イエス様の弟子と見ているか、どちらでしょうか?心を耕して、良い土地になり、イエス様のみことばをいただきたいと願うでしょうか?それとも、どうせ私は良くない地ですから、運命に任せますと言うでしょうか?しかし、神さまの運命divine destinyは違います。あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます」。これが、神さまの願いであり、神さまのみこころではないでしょうか?創世記を見ると、アダムが罪を犯したために、土地は呪われ、いばらとあざみが生えるようになったと書かれています。カインが弟を殺してどうなったでしょうか?「あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない」(創世記412と書かれています。つまり、アダムの子孫には良い地など与えられていないということです。でも、私たちはイエス・キリストによって贖われ、罪と呪いから解放された神の子どもたちです。もちろん、この世は罪と汚れと呪いを受けています。しかし、神の種はとても優秀です。そして、私たちはこの世でありながらも、そこに神の国が訪れています。つまり、私たちには神の国の良い畑が与えられているということです。イエス様はこのように言われました。ヨハネ158「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」主にあって多くの実を結べることを信じます。

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