« しるしを欲しがる マタイ12:38-42 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.11.6 | トップページ | 種まきのたとえ マタイ13:18-23 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.11.20 »

2016年11月11日 (金)

天国の奥義 マタイ13:10-15 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.11.13

 イエス様はたとえをふんだんに用いられた神の教師と言えます。特に天国の奥義を教えるときはたとえで話されました。なぜなら、私たちは天国に行ったことも、見たこともありません。そのためイエス様は地上のものを題材にして、「天国はこういうものです」と教えておられます。そもそも「たとえ」というギリシャ語は「パラボレー」ですが、「そばに投げる」という言葉から来ています。イエス様は天国の奥義を教えるために、身近で分かり易いもので置き換えたのです。では、イエス様は何のためにたとえで話されたのでしょうか?

1. たとえと奥義

 一般的に「たとえ」と言うと、あることを分かり易く教えるためであると言うでしょう。でも、イエス様のたとえは、確かに分かり易いのですが、そこには奥義が隠されていました。だから、イエス様は「耳のある者は聞きなさい」(マタイ139と言われたのです。もちろん、耳はだれにでも付いています。これは単に聞くというのではなく、「よく聞いて悟るように」ということです。イエス様はマタイ13章で種まきのたとえを話されました。最初の種は道端に落ちました。鳥がその種を食べてしまいました。第二の種は土の薄い岩地に落ちました。すぐ芽を出しましたが、日が照って枯れてしまいました。根が深くなかったからです。第三の種はいばらの地に落ちました。生えたのですが、いばらで塞がれて実を結ぶことができませんでした。第四の種は良い地に落ちました。あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びました。このようなたとえ話を聞いて、人々はどう思ったでしょうか?「そんなの常識だよ。それにしても、道端に種を蒔くなんてドジなやつだな!」と思ったかもしれません。おそらく、聞いている全員がこのたとえそのものは理解したと思います。しかし、たとえの真の意味が分かったのでしょうか?ルカ89「さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。」と書いてあります。残念ながら、弟子たちでもたとえの意味がわかりませんでした。マタイ1311-12イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」

 イエス様は「天の御国の奥義」と言われました。ギリシャ語ではミュステーリオンですが、「秘密の教え(奥義)」であります。神さまが特別に開いてくれなければわからない啓示であります。そのために、イエス様は「天の御国の奥義が許されている人と、許されていない人がいる」と言われたのです。差別と言えば、差別になりますが、どうしてイエス様はだれもが分かるように教えてくれなかったのでしょうか?私はこのような説教でもできるだけ分かり易く、噛み砕いて教えているつもりです。しかし、どうでしょう?人は全部教えられてしまうと、「なーんだ、そんなもんか」と粗末に扱うところがあります。人は押し付けられたものではなく、自分で探して得た真理は忘れないのではないでしょうか?イエス様は「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい」と言われました。マタイ1125「賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」とも言われました。ということは、弟子たちのように謙遜に求める姿勢が大事だということではないでしょうか?プライドが高いと「分からないので教えてください」とは言えません。奥義というものは不思議なもので、求める人には分かるけれど、求めない人には隠されてしまう性質があります。だから、イエスさまは「持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです」とおっしゃったのです。どうでしょうか?みなさんは、聖書の奥義に対して、飢え渇きをもっていらっしゃるでしょうか?あるいは「もう十分わかっているので結構です」とおっしゃるでしょうか?奥義というのは神学的な知識ではなく、上から聖霊によって示される「啓示」であります。使徒パウロは、エペソ人への手紙でこのように祈っています。エペソ117「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」アーメン。

 今から16年くらい前、2000年頃、インドネシヤに行ったことがあります。ジャカルタのアバラブ教会にエディ・レオ先生がいらっしゃいます。その当時は、サミトン牧師もいらっしゃいました。セミナーを受けておどろいたのですが、どこの注解書にも載っていないようなことを教えてくれました。また、1つ1つが日常的なものを用いて語るので、まるでイエス様のような教え方でした。そのとき、信仰とは何かということを話してくれました。「私たちは水を受け取るときコップを差し出すでしょう。お財布を受け取るときはどうでしょう。手を出してお財布を握らなければなりません。では、神さまの約束を受け取るとき何が必要でしょうか?目には見えないけれど、信仰という手をさし出す必要があります。何故、得られないのでしょうか?それは信仰という手を出して、受け取らないからです。」他にもたくさん深い神学的な真理がありますが、「どこからそういうのを仕入れたのですか?」と聞きました。するとエディ・レオ先生はサミトンとか、他の先生と小グループで聖書から分かち合うと次から次と出てくるそうです。私が受けた教育はどちらかと言うと、偉い先生から一方的に受けたものです。自分の中には何も良いものがないと思っているので、たえず勉強しています。それも必要ですが、パウロは「神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」と祈っています。端的に言うと聖霊こそが、真の教師であり、知恵と啓示を与えてくださるということです。ですから、私たちはみことばを瞑想(深く考えつつ)聖霊に聞く必要があります。そうすると、パーッと開かれるのではないでしょうか?何よりも必要なのは、弟子たちのように「その意味を教えてください」と謙遜に求める心であります。エレミヤ333「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」アーメン。まさしく、主は奥義を私たちに教えてくださるお方です。奥義は普通、誰にもわからないように隠されているものです。私たちはイエス(聖霊)様から「天国の奥義」を教えていただきたいと思います。

2. 啓示の受け取り方

 マタイ1313-15「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』イザヤが預言している相手はイスラエル人であります。イスラエルの人たちは、預言者の言うことを信じようとしませんでした。そして、そのことはイエス様が話したその時にも成就しました。まるで、これはイエス様のたとえを理解しようとしない人に対する呪いであります。私がここで注目したいのは、目、耳、心という3つの器官です。まず、物質的なものを理解するための、肉体の目、耳、心があります。しかし、イエス様がこのところで問題にしているのは、啓示を受け取るための霊的な目、耳、心であります。おそらく、イエス様のたとえを理解するためには、肉体的なものではなく、霊的な目、耳、心が必要だということでありましょう。

 このところから私たちは私たちが神からの啓示を受け取るためには、霊的な目、耳、心が必要だということが言えないでしょうか?おそらく、こういう話題になると迷路にはまって出て来れなくなる危険性があります。でも、挑戦してみたいと思います。使徒パウロもイエス様と同じことを言っています。Ⅰコリント29まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」このところにも、目、耳、心と3つ出てきます。パウロはその後、「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。…生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。」と言っています。明らかに、肉体的な器官ではなく、霊的な器官を語っています。つまり、肉眼、肉声、肉の心では、御霊のことは理解できないということです。必要なのは、霊的な目、霊的な耳、霊的な心であります。パウロは「御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえる」(Ⅰコリント215とも言っています。ということは、クリスチャンが霊的に生まれると、肉体的なそれらの3つの器官ではなく、霊的な3つの器官を開発していく必要があるということではないでしょうか?

 私は10年くらい前に、インドネシヤのエディ・レオ師から神さまの啓示(預言)を受け取る方法ということを習ったことがあります。神さまは常に語っているんですけど、私たちの方がもしかしたら鈍くてぼんやりしているということがあります。また、保守的な教会は「聖書のみことば以外に啓示はない。神さまはみことば以外のことは語らないんだ」とはじめから拒絶しています。聞こうともしないし、見ようともしない、そして心がかたくなになっています。聖書をあまりにも高く上げ過ぎて、「神さま、聖書以外のことを語っては困ります」と言っているかのようです。しかし、私は「神さまは聖書以外のことも私たちに語っておられる」と信じます。なぜなら、私たちの生活はとても複雑で、神さまからの情報や導きが必要だからです。もし、私たちが肉声で聞こえない声、肉眼で見えないもの、肉の心で理解できないことが分かったら良いではないでしょうか?エディ・レオ師は神さまから預言を受け取るとき、3つの分野で示してくださると言われました。第一は霊的な目、それは映像やビジョンであります。頭の中に絵が浮かぶというのです。私がアメリカ人の青年のために祈っていると、赤いエレキ・ギターが見えました。その方は、ミュージシャンで、昔、そういうギターを持っていたと言いました。第二は霊的な耳ですが、それは言葉であります。賜物における預言は「泡が流れ出る」という意味があります。思い浮かんだ1つのことばを口から出すと、また別のことばが出てきます。さらにまた出るときもあります。つまり、23つのことばが賜物としての預言だということです。第三は霊的な心です。これは印象impressionです。悲しみや怒り、ある時は変な違和感を感じとることができます。 

ある時、エディ・レオ師の奥さんが美容室に行って、髪の毛を整えてもらっていました。奥さんは鏡を眺めながら、自分の髪の毛を整えている女の子を見ていました。奥さんは「主よ、私はこの子のために、祝福となりたいです。主よ、私を通して彼女を祝福してください。」そうやって礼拝をし始めました。突然、神様は彼女に語られました。「拒絶」というたった1つの言葉でした。奥さんはその女の子を見て、「神様、これはどういう意味ですか?」と聞きました。しかし、彼女を見ると、ニコニコして幸せそうに見えました。しかし、肉体的な目を頼らないで、「神さまわかりました。あなたに従います」と答えました。その次に彼女にこう言いました。「すみません、ちょっと話をしても良いですか。あなたは人生においていくつかの拒絶を味わったことがありませんか」と。奥さんが「拒絶」という言った瞬間に、新たな言葉が出て来ました。「12歳」という言葉です。「あなたは12歳の時、あなたのお父さんは亡くなりました。それから、あなたは非常に孤独を感じていましたね。多くの男性たちから拒絶されました。あなたは人間関係においていろいろな失敗があります。あなたは何度も結婚したいと思いながらうまくいかなかったですね。だから、あなたは今、全く拒絶されていると思っていますね。そしてあなたは自分には価値がないと思っています。もう、人生には意味がないと思っています。男性たちと関係を持つことが失敗したと思っています。」彼女は「ああー、どうしてそんなことがわかるのですか?私はあなたに告げたことがないのに」奥さんは「だれがこのことを語ったか知りたいですか?」と言うと、彼女は「どうぞ話してください」と言いました。奥さんは「一人の方がいらっしゃいます。その方の名はイエス様です。あなたのために十字架で死にました。あなたのことを愛していらっしゃるので、あなたの人生のすべてのことをご存知です。イエス様が私に示してくださったのです。あなたはイエス様を受け入れたいですか」と聞きました。彼女は泣きながら、「はい」と言いました。このように預言の賜物を使うと人々が短時間に救われます。福音書を見ますと、イエス様はサマリヤの女性にも聖霊の賜物を用いました。「あなたには夫が五人あったが、今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではないからです」(ヨハネ418と言ったとたん、サマリヤの女性はイエス様を信じました。聖霊様は、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの」を私たちのために備えておられます。エペソ117「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」アーメン。

3. 霊的な特権

 マタイ1316-17「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」弟子たちがイエス様に「このたとえはどんな意味ですか?」と尋ねました。するとイエス様は「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されている」と告げました。そして、弟子たちに「あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです」とおっしゃったのです。しかし、それは大いなる特権であり、旧約聖書の預言者や義人が切に願ったのに、見られず、聞けなかったからです。弟子たちはイエス様という助け主がそばにおられたので、何でも聞くことができました。そして、イエス様は惜しまず、天の御国の奥義を知らせて下さいました。今日の私たちはどうでしょうか?ある人たちは、「イエス様や使徒パウロが教えた奥義がすでに新約聖書に書かれている。だから、それ以上の奥義は必要ない」と言うかもしれません。確かに私たちは完成された神の啓示、聖書を持っています。これはすばらしい特権です。でも、弟子たちの場合は、イエス様がその意味を解き明かしてくれました。今日の私たちはどうなのでしょうか?するとある人たちは、「あれから二千年の歳月をかけて、多くの人たちが聖書を研究してくれたので神学書や注解書がありますよ」と言うかもしれません。そのため牧師たちは毎週の説教を準備するとき、そのような参考書を読みます。つまり専門家の研究成果を借用した方が間違いないということなのでしょう。

 もちろん、私は過去の先生たちの神学書や注解書などから学びます。しかし、それよりも重要なことがあります。それは第二の助け主に聞くということです。イエス様はもう地上にはおられません。しかし、ここにイエス様が語られた聖書が残されています。では、これだけで十分なのでしょうか?あとは神学者たちが研究したものに頼るのでしょうか?そうではありません。ヨハネ1612-13「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」そうです。「真理の御霊」こそが、「もう一人の助け主」なのです。当時の弟子たちも真理の御霊(聖霊)が必要でした。聖霊はイエス様と人格こそ違いますが、寸分変わらないお方です。このお方がイエス様と同じように、私たちにみことばを教えてくださるのです。私たちがなぜすばらしい時代に住んでいるのか、それは聖霊が個人的に内側に住んでくださり、内側から教えてくださるからです。確かに教会に牧師や教師が必要です。でも、牧師や教師がいつもあなたの傍にいて教えてくれるわけではありません。彼らも人間なので、不完全であり、偏っているかもしれません。第一にあなたの個人的なことを詳しく分からないので、適格なアドバイスを与えることも難しいでしょう。でも、あなたと共にいる別の助け主、聖霊があなたに教えてくださるのです。私たちはだれかを探さなくても、すぐそばに聖霊なる神さまがおられるということを知らなければなりません。これは、旧約聖書の時代はもちろん、そしてイエス様と一緒にいた弟子たちよりもすばらしい特権なのです。私はこのことを理解していますので、神学書や注解書には頼りません。もちろん、基本的な知識は得ます。しかし、特にメッセージの場合は御霊に聞きます。御霊が私に随時、示してくださいますので、私はメッセージを割かし簡単に準備することができます。私は一番重要なことは聖霊の油注ぎだと思います。メッセージに油注がれているかいないかが勝敗を決めてしまうからです。別に勝ち負けではありませんが…。でも、このことを知ってからとても楽になりました。

 私たちは、旧約時代はもちろん、イエス様の弟子たちよりも、すばらしい特権を与えられているということを理解しなければなりません。あなたは「いや、直接、イエス様を見た弟子たちの方がすばらしいでしょう」と言うかもしれません。しかし、イエス様は「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません」(ヨハネ1612)と言われました。弟子たちがイエス様の語ったことを本当に理解できたのは、聖霊を受けてからであります。ペンテコステの日、使徒ペテロが大勢の前でイエス様の死と復活の意味を解き明かしました。それは真理の御霊がペテロに教えてくれたからであります。ペテロは旧約聖書を引用しながら、ナザレのイエスによってそれが成就されたことを告げ知らせました。最後に「この曲がった時代から救われなさい」と勧めると、3000人の人たちが信じてバプテスマを受けました。魂の大収穫です。これまで、そんなことはありませんでした。パウロの私たちへの最大の願いは何でしょうか?エペソ117「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」です。そうです。神を知るための知恵の啓示の御霊こそが、私たちが最も必要なものなのです。あなたはイエス様を信じた時にこの御霊をすでに受けているのです。ただし、あなたが聖霊を認めないので、聖霊を眠らせているのです。聖霊は人格を持っていらっしゃいます。弟子たちがイエス様に「このたとえがどんな意味か尋ねた(ルカ89と同じように、私たちは聖霊様に聞くべきであります。そうすると聖霊は聖書の意味を解き明かしてくださいます。また聖書にないものであるならば、あなたの霊的な耳、霊的な目、霊的な心に示してくださいます。

|

« しるしを欲しがる マタイ12:38-42 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.11.6 | トップページ | 種まきのたとえ マタイ13:18-23 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.11.20 »