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2016年11月 4日 (金)

しるしを欲しがる マタイ12:38-42 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.11.6

聖書で「しるし」は奇跡と同じ意味です。ただし、「しるし」は、意味のある奇跡であり、神様が確かにおられるという証明(証拠)であります。使徒パウロは「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します」(Ⅰコリント122と言いました。ユダヤ人はどの国民よりも、多くの奇跡やしるしを受けてきましたが、不信仰な民でした。特に宗教的な指導者たちは、イエス様を受け入れませんでした。彼らは「あなたが救い主であることの『しるし』をもっと見せてくれ、そうしたら信じる」と言いました。「しるし」を求めること自体は罪ではありません。なぜなら、聖書にはたくさんのしるしや不思議が記されているからです。しかし、過度の「しるし」や奇跡を求めることは、不信仰の裏返しでもあります。 

  

1.不信仰の言い訳

宗教的指導者たちは、片手のなえた人が癒されたり、悪霊につかれた人が解放されたことを見たにもかかわらず、「もっとしるしを見せてくれ、そうしたら信じる」と言いました。マタイ1239「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」ヨナのしるしとは何でしょう?神様はヨナに「ニネベに渡って告げなさい。悪いことを悔い改めないなら、ニネベの町を滅ぼす」と命じました。ヨナは「はい」とは言ったものの、ニネベとは反対のタルシシ行きの船に乗りました。途中、船は嵐に巻き込まれ沈みそうになりました。人々は自分たちの信じている神に一生懸命祈りました。船長が船底に行くと、ひどい嵐の中でも寝ている人がいるではありませんか。船長が言いました。「この中に神様にひどい罪を犯している者がおるかもしれない。今からくじびきをする。」ヨナが引いたところ、大当たり。ヨナは「この嵐は、私が原因です。私が神様の命令に逆らったからです。どうぞ、この私を海へ投げ込んで下さい。そうしたら嵐が静まるでしょう」と、言いました。人々は「ごめんよ。恨まないでくれよ」と言いながら、ヨナを担ぎ上げて嵐の海にほうり投げました。ところが、主は大魚にヨナを飲み込ませました。ヨナは陰府の底に落ちたと思って、自分の罪を悔い改めました。三日目に、大魚はどこかの陸地に、ヨナを吐き出しました。ヨナはニネベに行って「悪い罪を悔い改めないなら、40日後に天の神はこの町を滅ぼしてしまいます」と告げました。そうしたら、王様から家畜まで断食して罪を悔い改めました。そこで神様は思い直して、ニネベの町を滅ぼさなかったのです。ニネベの町の人は何故、簡単に、悔い改めたのでしょう?それは、ヨナが大魚のお腹の中に三日間もいたからです。だから、彼らは「ヨナは神からの預言者だ」と信じて、悔い改めたのです。

それでは、イエス様がおっしゃる「ヨナのしるし」とは何でしょう? それは、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたように、イエス・キリストも地の中にいたということです。イエス様は金曜日に十字架にかけられ死んで葬られ、日曜日の朝よみがえりました。ユダヤの数え方は、足掛け三日という意味ですから、イエス様は三日の間、大魚ならぬ陰府にいたということです。三日目の復活は、イエス様ご自身が全存在をかけて、しるしとなったということです。ニネベの人たちが、大魚に三日間いたヨナの言葉で信じました。それなのに、死んで三日目によみがえったヨナよりも勝る方の言葉を信じないならどうでしょう。ニネベの人たちがその人たちを罪に定めると言うのです。復活というしるしは、イエス様ご自身が立てた証拠中の証拠であって、これ以上のものはないということです。イエス様は湖の嵐を静めたり、わずかなパンで大勢を養ったり、大漁の奇跡を行いました。また、4つの福音書の12%が肉体のいやし、悪霊の追い出し、死人のよみがえりなどに言及しています。キリスト教はこのように「しるしと奇跡」に立った宗教と言っても過言ではありません。使徒パウロは、「私の宣教は、説得力のある知恵のことばではなく、御霊の力と現われである」(Ⅰコリント24と言いました。もちろん、人が救われるのは奇跡ではなく、福音を信じて救われます。でも、「しるしと奇跡」は回心への橋渡しとなります。神様は必要とあらば、「しるしや奇跡」を起こして、私たちを励まして下さるお方であります。福音派のある教会は、「しるしや奇跡を求めるのは危険だ。しるしや奇跡は使徒の時代で終わった」と言います。私は福音派の牧師ですが、奇跡を起こせないような神さまだったら信じる必要はないと思います。ただし、イエス様が「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」と警告しました。神さまを試したり、現実離れした生き方をしてはいけません。しかし、信仰を持って生きていれば、しるしや奇跡も起こります。なぜなら、神さまにとって、自然も超自然もないからです。私たちは主の祈りで「御国が来ますように」と祈ります。それはまさしく、神さまのみわざが、この地上でも起こるようにという願いだからです。

イエス様はニネベにおけるヨナの他に、もう1つの例をあげました。42節以降に南の女王のことが記されています。彼女は旧約聖書で「シェバの女王」と呼ばれています。現在のサウジアラビアから、危険を顧みずソロモン王に会いに来ました。彼女はソロモンを試そうと様々な質問をしましたが、ソロモンがわからなくて、彼女に説き明かせなかったことは何一つありませんでした。シェバの女王は、ソロモンに出会うまでは、ソロモンの知恵の半分も知らされていなかったと驚きました。イエス様は、「見なさい。ここにソロモンよりもまさる者がいる」とおっしゃいました。イエス様の知恵はソロモン以上であります。イエス・キリストこそ、神の知恵、神の啓示そのものでありました。イエス様はこのように警告しています。マタイ1242「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。」おそらく、南の女王はこう言うでしょう。「私はソロモンの知恵で信じました。なのに、あなたがたはソロモンよりまさる神の子イエスの知恵を聞いたでしょう。そんな恵まれた状況の中にいたのに、信じないとは何事ですか?」とさばくでしょう。啓示の光は時代によって違います。旧約時代は夜明けで、まだぼんやりしている状態です。ヘブル111-2「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」このお方が直接、神のことばを語り、神さまご自身を現したわけであります。彼らはイエス様を目の前にして、様々なしるしを見ても信じなかったのです。だからもう言い逃れはできないということです。

私たちの場合はどうでしょうか?イエス様の教えとみわざを四福音書から知ることができます。使徒パウロは神から啓示を受けて、イエス様がどうして神なのか書いています。さらに、聖霊が真理の御霊として、私たちのところに来られています。私たちの時代は、考古学や科学によって、聖書の正しさが証明されています。様々な預言が成就し、啓示の光がLEDのように照っています。問題は、啓示を受け取る私たちの側にあります。まず、多くの人たちは聖書を手にとって読むことをしません。中世の頃は聖書を自由に読むことができませんでした。ところが、ルターの宗教改革時、活版印刷が発明されました。一番最初に印刷されたのが、聖書であります。聖書はもともと「本」という名前でした。ザ・ブックと言えば、聖書だったのです。しかし、人々は本屋さんで別の本を読んでいます。様々な宣教団体や教会も福音を宣べ伝えていますが、なかなか、回心まで行きません。生れつきの人間は、簡単にイエス・キリストを信じることができないのです。偏見や誤解、神を認めたくない自我があります。「洗礼を受けたら、大変なことになるのでは」という不安や恐れもあるでしょう。しかし、あるとき、パーっと開かれて、信じることができます。しかし、そのチャンスを逸してしまうと、また何年も何十年もかかります。全部を見て、知って、分かってから信じるのは信仰ではありません。それは事実であり、信仰を必要としません。信仰というのは、全部わからなくても、身を任せて飛び込む、一種の賭けであります。小さな子供は、押し入れなどの高い所から「パパー」とか言って飛びます。お父さんは必ず受け止めてくれます。飛び込んで来たのに、身をかわしたりしません。父なる神様も、イエス様も同じで、信仰をもって飛び込む人を裏切ったりしない真実なお方です。

 使徒パウロは「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します」と言いました。それに加えて、「日本人はご利益を求める」と言った人がいます。私は昔、「神さまがいるんだったら見せてほしい」と言ったことがあります。今、思うと「傲慢だったなー」と寒気がします。たとえば、「アメリカのオバマ大統領と会わせてくれたら信じてやる」と言ったらどうでしょう?大統領が私と会うためにわざわざやって来るでしょうか?しかし、イエス様は天の栄光を捨てて、人間以下の姿で降りて来られました。「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死までも従われました」(ピリピ28私たちの罪のために罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのです。このことを考えると、「神を見せてみろ」とか「もっとしるしが欲しい」と言えるでしょうか?こんな私を救うために、天から地の底まで降りて来られたのです。本来、私たちが行くべき陰府に下り、三日目によみがえられました。私たちのために死に勝利し、天国への道を作られたのです。私たちはこのことを単なる物語ではなく、事実として、受け取る必要があります。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかって死なれたのです。そして、三日目によみがえり、主の主、王の王になられました。このお方を救い主、主として信じるべきではないでしょうか?

2.不信仰の結果

 マタイ12:43-45「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」      これはまず誰に語られたかと申しますと、イエス・キリストを信じなかった当時の宗教家・律法学者やパリサイ人に対してであります。彼らは、一度はバプテスマのヨハネの話しを聞いて、罪を悔い改めました。心が一旦、きよめられたことでしょう。しかし、イエス様を救い主・メシヤとして受け入れませんでした。イエス様によって、盲人が見え、足萎えが歩き、耳の聞こえない人が聞こえ、死人が生き返ったのを見たにも関わらず、信じなかったのです。反対に、当時見下げられていた、遊女や取税人、罪人たちが真っ先に、神の国に入りました。宗教家たちはたくさんの特権にあずかりながらも、福音を信じて神の国に入ろうとしませんでした。するとどうなったでしょうか?彼らの心はかたくなになり、イエスを殺そうとまで考えるようになりました。彼らの心は憎しみと反抗心に満たされ、やがてはキリストを十字架につけてしまうのです。

 私たち日本人も、「心が洗われる」という表現を用います。そして教会に来て、聖書のことを学びますが、ある人たちは何かのことで躓くとプイと来なくなります。そればかりか、「信仰なんか必要ない」とまで言い出します。洗礼を受けたクリスチャンでも、何かの出来事で躓いて、教会から離れる人がいらっしゃいます。ある先生がおっしゃいました。「この世の中で最も麗しい人はクリスチャンである。それでは、この世で最も醜悪な人はだれか、それもクリスチャンである」というのです。神様を求める人は益々良くなるのですが、信仰を捨てた人は益々悪くなってしまうという法則があるようです。例えば、ニーチェはルター派の裕福な牧師の子供として育ちました。ニーチェが4歳のとき父が亡くなり、5歳のとき弟が亡くなりました。ニーチェは母の願いに配慮してボン大学で神学部と哲学部に籍を置きました。ところが、最初の学期を終える頃には、信仰を放棄して神学の勉強も止め、そのことで母と大喧嘩になりました。最後には無神論者になり「神は死んだ」という哲学を打ち立てました。やがて彼は発狂して55歳で死にました。また、資本論を書いたマルクスはどうでしょう?マルクス一家は、代々ユダヤ教のラビでした。マルクスが6歳のとき、マルクス家兄弟はプロテスタント教会に改宗しました。マルクスはいろんな思想にふれて無神論になり、共産主義者になりました。晩年は放浪生活をして亡くなりました。かなり前に、川上宗薫というポルノ作家がおりました。彼は牧師の子供で日曜学校にも行っていました。どこからか、道を間違えてしまったのです。信仰に躓いた人、あるいは信仰を捨てた人というのは、一般の未信者よりも悪くなるという傾向があります。その原因は何かを、この物語が説明しています。

マタイ1243節の、汚れた霊が人から出ていくというのは、おそらく、罪を悔いた人でしょう。あるいは、主イエスの御名によって、悪霊を追い出してもらった人かもしれません。その人から出て行った悪霊は、しばらくの間、別の住みかを求めて荒野を歩きまわります。結局、適当な場所が見付からないので、「もとの家(もといた人の心)に帰ろうと帰ってみると。その人の心はきれいに片付けてあり、空っぽです。「いやー、綺麗になっているなー」これはしめたとばかり、もっとたちの悪い七つの霊を連れ込んでそこに住ついてしまうのです。こうなると、その人の状態は以前よりも、もっと悲惨なものとなります。この人は、一時は良くなったのです。しかし、肝心なことを忘れていました。それは、心の中は綺麗にしたのですが、空っぽにしておいたからです。科学者であり数学者また哲学者であったクリスチャンのパスカルがこう言いました。「自然界は真空を嫌う」と。その当時の人々は、真空という状態があるということを知りませんでした。パスカルが真空を発見したと言われています。パスカルはクリスチャンになる前、心の真空を満たそうと、貴族の友人と付き合い、上流社会の様々な楽しみを求めました。しかし、彼は幻滅を感じ、人間のむなしさをいっそう確信しました。はかない楽しみも、偉大な業績の名声にも、彼の魂の真空を満たすことができませんでした。やがて、パスカルは劇的な回心をします。彼は「人間には神でしか、満たすことのできない、真空がある」と言いました。日本人も、心が洗われたという表現を用いますが、それだけでは不十分です。心の中を綺麗にしただけではダメです。そこに、救い主であり王なるお方をお迎えしなければ危険です。この世は邪悪な時代であり、悪霊が神に対して不従順な人に働く時代です。ですから、その人が罪を悔い改めても、主イエス・キリストを心の王座にお迎えしなければ、一度、関係をもった悪霊がまたやって来るのです。悪霊はヤクザや暴力団と同じで、一度、関係を持つとなかなか離れません。「私は結婚したのよ、もう二度と来ないで」と言っても、時々、電話をかけてきたりする。「近くに来てるんだけど、お茶でも飲まない」と誘います。あるときは、主人の留守をみはからって、トン、トンとドアをノックしたりします。「昔のことを、ご主人にばらしても良いか」なんて脅かします。「また、一緒に楽しもう」と誘いをかけてくるのです。その誘惑に負けてしまったら、前よりももっと悪くなってしまいます。

             

それでは、どのようにしたら良いでしょう。第一は、まことの救い主を心にお迎えすることです。黙示録3:20にありますように、イエス様は戸の外に立って、扉をノックしています。私たちが内側からドアを開けるなら、イエス様が入って下さり、食事を共にして下さいます。それは、友としての親しい交わりを象徴しています。ある人は、もっと片付いてからとか、綺麗にしてからと言いますが、ありのままで良いのです。罪があっても、暗くても、イエス様を迎え入れるなら、主が聖め、主が明るくして下さいます。第二は、イエス様を友としてだけではなく、王様、ご主人として迎えるということです。それは、私たちの心の王座をイエス様に明け渡し、自分がしもべになるということです。つまり、自分の人生の主となっていただくということです。これこそ、勝利あるクリスチャンの姿です。先ほども申しましたが、悪霊、もと関係のあった悪霊がたとえ、また尋ねてきたとしてもこう答えることができます。「私はすばらしい王様のものになった。もう、あなたとは何の関係もない、出て行け」と命じることができます。ヤツが「過去のことをばらすぞ」と脅かしても、「主は私の罪を全部赦して下さった。もう、何のとがめもない。お前は嘘つきだ。もう二度と近付いてはならない。もし、また、来るなら神様に訴えるぞ」と言えば良いのです。ヤコブ4:7 「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」悪魔に対抗するためには、まず、神様に従うことです。神に従っていない者は悪魔に何の抵抗力もありません。まず、神に対して従う。次に、サタンに対して立ち向かうのです。そこには明確な順番が存在しています。立ち向かうとは、主イエスの御名を用いるのです。Ⅱコリント10:4 「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」

 現代は、セコムとか様々な家を守るシステムがあります。家の門柱に赤いセコムという警備保障のマークがあり、「何かあったら警備会社が飛んでくるぞ」と警告しています。いろんな防御の仕方があると思いますが、悪魔との戦いに秀でている先生が本を書いています。サタンから心の家を守る防御システムの第一は「照明」だということです。私たちにとって、「照明」とは、悪魔(サタン)の存在について知識を持つということです。第二は「発見」です。サタンは変装が上手です。時には、私たち自身を真似てきます。あたかも自分の思いのように、自分の心に語りかけてきます。私たちにはみな弱さがあります。そこをサタンは攻撃してくるのです。イエス様がおっしゃいました「目を覚まして、祈っていなさい」これが発見につながります。もし、「心配だな」という声が聞こえてきたら、ピリピ46「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」第三は「警報」です。真っ暗な夜、だれかが入って来ました。しかし、名前を読んだ後、去れと命じるのです。「サタンよ、悪しき力よ、主イエスの御名によって命じる。出て行け」。イエスの御名とは、警察官の制服を着るのと同じようなものです。イエスの御名においてサタンに立ち向かうとき、私たちは征服を着ているのです。敵は私たちクリスチャンを見るのではなく、制服の背後にあるイエス・キリストを見るのです。「イエス・キリストの御名によって」とはサタンの頭上で大音量の警報を鳴らすようなものなのです。第四は「武器」です。武器とは、神の言葉です。これこそ、御霊の剣であり、攻撃用の武具です。つまり、「神はこう言われる」と聖書の言葉を出すのです。聖書の言葉は慰めや導きを得るだけのものではありません。敵に効果的な武器でもあるのです。ですから、私たちは敵に対して神の言葉である武器を取るのです。これは、いつも練習していないと、実践には役に立ちません。ですから、みことばをいつも読んで、身につけているということです。ハレルヤ!私たちには悪魔よりもはるかに強い、主イエス・キリストと父なる神さまが共におられることを感謝します。

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